2017年02月13日

今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年

 多数出回っているグレイトフル・デッドの高音質ライヴ音源のうち、1977年5月8日、ニューヨーク州イサカ、コーネル大学バートン・ホール公演は、テープに関心のあるデッドヘッズの間で人気投票をすると、必ず1位かそれに準ずる上位に入るショウです。本当にベストなコンサートなのかどうかについては、いろんなショウのテープを聞けば聞くほど疑問が生じて来るのですが、超基本的必聴レコーディングだという点ではほぼ全員の意見が一致していると思います。1980年代後半に、デッドの人気がオーバーグラウンド化するとテープを集める人も増え、それと同時期に出回り始めたのが、数奇な運命をたどった「ベッティーボード」なのですが、コーネル大公演はその中に含まれていた代表音源です(拙ブログ『長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命』を参照されたし)。
 コーネル大学出版局からは、グレイトフル・デッドの伝説的コンサートの40周年にあたる2017年に、このショウを取り上げた本が出版されます。このプレリュード的な記事がコーネル大のサイトEzra Updateに昨年3月に掲載されました。


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大学構内に音楽を戻してくれたグレイトフル・デッド
文:メラニー・レフコヴィッツ


 音楽のないコーネル大を想像してみよう。

 「1977年だったから可能だったのです。必然だったと言えます。1973年の夏に行なわれたディープ・パープル公演の後に起こった暴動のせいで、キャンパス内でのコンサート開催は厳しく制限されるようになっていました。コーネル大コンサート委員会は、長年に渡るコンサートの赤字が積もって、ざっと10万ドルの負債を抱えていたのです」と委員会メンバーは言う。

 しかし、コンサート委員会のメンバーは一計を案じた。彼らは赤字を引き受け、利益を分配してくれるプロの音楽プロモーターと手を組んで、5月に開催されるスプリングフェストの一環として、共同でグレイトフル・デッドを呼んだのだ。結果、1977年5月8日に行われたこのショウは、デッド史上、最高のパフォーマンスとしてデッド伝説の1つになっただけでなく、キャンパス内でロック・コンサートを開催する実行可能性を維持する一助にもなった。

 「これは、大学構内でロック・コンサートが開催されることを熱望する多数の学生が、それを実現する方法を見出した物語です」と語るのは、デッドの歴史的名パフォーマンスに関する本『Cornell '77』を現在執筆中のピーター・コナーズだ。この本は来年(2017年)、コーネル大学出版局(CUP)から出版予定である。「グレイトフル・デッドは学生たちが窮地から脱するのを手助けしたのです」

 コーネル大学コンサート委員会は最近、デッドのショウに関する記録を同大学図書館に譲渡した。コナーズは書庫を調査したが、今のところは、ショウの写真3枚しか発見出来てない。グレイトフル・デッドが30年の歴史において行なった3,000回近いコンサートの中で、最高のショウの1つと評価されているのにだ。

 「比較的最近のものなので、メモラビリアの一部は大学の資料室というよりはむしろ、卒業生宅の地下室や押入れの中にあるのではないかと思っています」と大学記録保管員イヴァン・アールは言う(’02, M.S. '14)。

 グレイトフル・デッドのコンサートの記録は、コーネル大コンサート委員会とコーネル大での主なコンサートの歴史を集めた、新しいアーカイヴ・コレクションの最初の部分を成している。

 「保存作業をすることになって私たちはワクワクしています。コーネル大で行なわれたいろんなコンサートの資料をお持ちの方からは是非とも話をうかがいたいです」とアールは言う。



 デッドヘッズの間では「コーネル'77」として広く知られているデッドのショウは、コネチカット州ニューヘイヴン公演、ニューヨーク州バッファロー公演に挟まれて行われている。ジェリー・ガルシアがフロントマンを務めるこのバンドは、第1部と第2部において計19曲を演奏した後、〈One More Saturday Night〉で締めた。

 このコンサートを見に来た人々がバートン・ホールから出てくる頃には、5月上旬なのに天気が猛吹雪になっていたというのも、ショウの伝説的要素を増やしている。

 「些細なことかもしれませんが、コンサートに行った人に話を聞くと、ほぼ全員が天気のことを話します」とコナーズは語る。「会場に入る時には雪なんか全く降ってなかったのに、出て来た時には雪が降ってたんです。素晴らしいコンサートだったので、全体験のマジックは雪のせいで増量されました」

 バンドを追いかけているデッドヘッズと学生、地元のファンからなる観客の多くは、素晴らしいショウだったと言っているが、時とともに大きな伝説化したのは、バンドの承知のもとで高音質なカセットテープがファンの間で出回ったおかげだ。2012年には、このコンサートの音の記録は、国会図書館のNational Recording Registryに入った。

 コーネル大学出版局は、同大の歴史だけでなくアメリカの歴史においても重要なこのコンサートに関する本を、その40周年に合わせて2017年に出版する予定だ。

 「部長(当時)のディーン・スミスとの会話の中にもバートン・ホール公演のことが出てきたので、我々はコーネル大に関する興味深い話と、アメリカ史に関する重要な物語を抱えていると思いました」とコーネル大学出版局の編集部長マイケル・マクグランディーは語る。「ディーンはデッドヘッドなので、ピーターの本の企画を進めるのに大助かりでした。事実なのかデッド伝説なのかという疑問が生じると、ディーンはすぐに答えてくれました」

 コナーズは、グレイトフル・デッドのファンとして過ごした日々の思い出をまとめた本『Growing Up Dead』を2009年に出版している。このバンドがアメリカ文化において果たした役割が、デッドとこのショウを重要なものにしていると、コナーズは述べる。

 「単なるコンサートではありません」とコナーズは語る。「グレイトフル・デッドはひとつのバンド以上の存在でした。彼らはコミュニティーを作り上げました。1960年代の価値観を体現したのがグレイトフル・デッドだと、多くの人が考えています。1960年代のコミュニティーはまさにこうだったのだとも考えています。コーネル大がそれを引き出したのだと、私は思います」

The original article "How the Dead brought music on campus back to life" by Melanie Lefkowitz
http://ezramagazine.cornell.edu/Update/Feb16/EU.Grateful.Dead.77.html

   

 記事は以上なのですが、私が楽しみなのは、この本にはデッドヘッズ・コミュニティーの形成についても書いてありそうな点です。ハワード・ウィーナーは『Grateful Dead 1977: The Rise of Terrapin Nation』の中で、それが出来上がるのが1977年くらいだと述べていますが、4月に出るコーネル大学本にも、音源を聞いているだけではわからないことが、きっといろいろ書いてあるはずです。
 ちなみに、世界大学ランキングではコーネル大って東大よりはるかに上です。


2/17追記
 Cornell 5/8/77が今年5月に発売決定。


  
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2017年01月24日

ジョーン・バエズ、ボブ・ディランのノーベル賞受賞と自らの引退時期について語る

 高校生の時に中野サンプラザでジョーン・バエズのコンサートを見ました。7月の学園祭をサボって表参道のキョードー東京までチケットを買いに行き(席は最前列ど真ん中)、高校にはお昼頃到着しましたが、左翼系の社会科教師(元自衛官タモちゃんのAPA論文に書かれてる程度のことは、35年くらい前にだいたい教えてもらいました----自虐史観だけの教師とは出会ったことありません)からは、そういう理由ならばということで、ちょっと叱られただけで済みました(アリバイを作ったので、とっとと早退w)。
 今回紹介する昨年10月のインタビューでは、2017年のコンサート・スケジュールはなしと言ってますが、ドナルド・トランプの大統領就任式の日に全米各地で行なわれたWomen’s Marchのサンフランシスコ会場に姿を見せました。何かあったら人々の前に出てきて歌うという姿勢が崩れる気配は全くありません。





インタビュー:ジョーン・バエズ、ボブ・ディランのノーベル賞受賞と自らの引退時期について語る

聞き手:ランディー・コルドヴァ



お元気ですか?

 ええ。ジムから戻ってきたばかりで、たくさんの殿方がウェイトを持ち上げるのを見てたわ。

健康維持に関する話なのですが、どのようにしてこんなにステキな声を保ってるんですか?

 簡単じゃないのよ。30代半ばくらいから人は重力と戦い始めるでしょ。すっかり変わってしまったわ。最近では「どうしたら出来るだけスピーディーに欲しい音を出せるかしら?」って感じ。そうするのがあまりに大変になったら、引退の時ね。

そういう計画なのですか?

 ええ。辞めるわよ。



でも、今では80代になっても活動してるミュージシャンがたくさんいますよ。

 いるわね。でも、そういう人たちの中で、声で有名な人はひとりもいないわ。私にとっては声が天からの恵みでした。私はロックンローラーじゃありません。ヒットメイカーでもありません。私の場合、声帯から出てくる声への依存度が非常に高いんです。(ミック・)ジャガーは高くありません。(ボブ・)ディランもそう。ピート・シーガーもそう。それに、慢心しちゃうのよね。誰も(私の声が劣化していることを)教えてくれないから。「バエズ、あなた酷い声ですね!」なんて言ってくれる人、いないでしょ。

でも、そう言われたい人なんていないでしょう。それとも、あなたは「私をステージに立たせて!」なんてガツガツしないタイプの人なのですか?

 来年は私はツアーはやりません。アルバムを作って、それから様子を見ます。辞める時には、きっと、それに伴って心理的な負担があるでしょうね。

自分はロックンローラーではないとおっしゃってましたが、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムにノミネートされて驚きましたか?

 「皆さん、ちょっと遅いんじゃないの」もしくは「私、ここで何やってんのかしら?」のどちらかでしょう。でも、1960年代に始まったあの音楽のスイッチには私も関与してたので、ロックンロールの一部ではあるわね。

名声や賞についてはどういう考えをお持ちですか?

 あまり考えません。ステキなものだとは思うけど。

ディランがノーベル文学賞を受賞した件について、あなたのご意見は?

 とても素晴らしいと思います。細かい決まりや意味的な問題は理解出来ませんが…。ボブのマナーはダメだけど、言葉のほうはノーベル賞に値すると思うわ。

マナーがダメとはどういうことですか?

 だって、ノーベル賞を取ったら、普通は折り返し電話をかけて「メッセージ承りました。ありがとうございます」って言わない?

あなたはずっとディランの歌に引きつけられていますが、どのようにしてマテリアルを選んでるのですか?

 うぶな言い方に聞こえるかもしれないけど、曲の方が私を選ぶの。本当にそうなのよ。ある種の歌詞を探したりはしません。(現在、レコーディング中のアルバムに関しては)徐々に弧が大きく膨らんでいく様子を見ているうちに、トム・ウェイツの曲が見つかったり、リチャード・トンプソンの曲が見つかったり、ジョシュ・リッターの曲が見つかったりするの。

キャッチーなコーラスのある心地よいポップ・ソングに魅力は感じないんですか?

 もちろん、感じるわ。どんぴしゃりでそのカテゴリーじゃないんだけど、ドノヴァンの…超名曲ってわけじゃないんだけど、〈Catch the Wind〉みたいな曲は聞いてて楽しいわ。今時の音楽には、あまり結びつきを感じないんだけど、スタージル・シンプソンのような人はとても気に入ってるわ。でも、10歳前後の子の聞く音楽の多くは耐えられない。私には13歳の孫娘がいるんだけど(ため息)。

あなたがその年齢の頃のポップ・ミュージックは今より優れていたでしょう。少なくとも、メロディーはもっと良かったですよね。

 白人音楽はメロディーが美しくてステキでした。ゴギー・グラントやアンドリュー・シスターズとか、美しい女性ヴォーカルがありました。その後、私が夢中になったのはリズム&ブルースなんだけど、こっちにも美しい声がたくさんありました。メロディーはそれほどでもなかったけどね。コードのパターンも似たり寄ったりで。でも、大好きだったわ。ハマっちゃった。そして、ちょうどその真っ只中でフォーク・ミュージックが出てきて、道が敷かれちゃったわけね。フォークは、楽しいんだけど何も語ってないバブルガム・ミュージックに対する反逆でした。

あなたの年齢がそのまま最新アルバムのタイトルになっていますが、人目にさらされてる人間でそういうことをする人はあまりいませんね。不安は感じなかったですか?

 選んでやったことなのよ。既にプログラムは決定していて、マネージャーから言われたの。「今度は誕生日を祝いたくないかい?」って。0.6秒くらい考えてから、イエスって答えたわ。この社会では、未来や死んでいくプロセスに、人は直面したくはないの。殆どの人は考えたくもないことなんだろうけど、毎日、鏡を見るとそれを思い知らされるのよ。

ペトゥラ・クラークのインタビューを読んだのですが、彼女はマスコミの人間が80代になってどういう気分ですかって質問するのにうんざりしていたのだとか。あなたもそれに共感しますか?

 いいえ。みんな、そんなこと訊かないもの。若く見えるから(クスクス笑)。今はまだ「80」って言い始めたばかりなので身の毛がよだつけど、「80」って日頃から言ってれば、そのうち恐ろしい要素が消えちゃうんじゃないかしら。

話題を変えましょうか。あなたのスペイン語アルバム(1974年リリースの《Gracias a la Vida》)は古典的名盤で、今や多くの家庭にあります。再びスペイン語のレコードを作る予定はありますか?

 わかりません。私がこの世で作るアルバムは、1枚よりそんなに多くは残ってないでしょう。真面目な話、そういうアルバムは作らない可能性の方が高いと思うわ。でも、未来のことなんてわかりません。あのアルバムを出した時は、私は政治問題にどっぷり浸かっていたの。行方不明になっちゃったチリ人や独裁政権とか。それでああいうアルバムを作ったの。あれが、何かしたい、どうにかしたいって時の私のやり方なのよ。

それがあなたにとっての音楽なんですか?

 難しい質問だわ。たぶん、そうなんでしょうね。少女の時は確かにそうだったわ。私は学校では人気者じゃなくて、メキシコ系で、あらゆる点で不適切な存在でした。でも、ウクレレを弾き始めて、それを学校に持ってったら、みんなが喜んで聞いてくれることに気づいたの。家では趣味で弾いてたのよ。4コードのリズム&ブルースを。それが始まりね。


The original article "Interview: Joan Baez on Bob Dylan's Nobel Prize and when she'll give up performing" by Randy Cordova
http://www.azcentral.com/story/entertainment/music/2016/10/26/joan-baez-interview-bob-dylan-aging/92732656/


   
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2017年01月14日

放送大学公開講演会『ボブ・ディラン〜音楽に文学を重ねた男』

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 2017年のセンター試験第1日目の1月14日に、茗荷谷にある放送大学の東京文京学習センターで行われた公開講演会『ボブ・ディラン〜音楽に文学を重ねた男』が行なわれたので、タイトルに誘われて行きました。旧年中に行なわれたボブ関係のイベントというと、みんなでビールで乾杯したり、日本酒が振る舞われたりと、ノーベル文学賞が酔っぱらいによって酒の肴に矮小化されちゃった感がパないものばかりでしたが、『文学を重ねた』講演会はアルコール度数ゼロで、飲めない奴にも敷居の低いイベントでした。主催の放送大学としては、新年度の生徒募集のプロモーションの一環であって、講演後には大学スタッフによる進学相談も行なわれていたようです。
 講演の内容はというと、まずはパティー・スミスがノーベル賞授賞式で〈A Hard Rain's A-Gonna Fall〉を歌うビデオを流して、「この場に一番ふさわしくない人です。これに違和感を抱かない人はいないでしょう。でも、違和感なんか感じてる暇なんてないほど世界は早く動いてるんだぞ」というツカミで佐藤良明先生が始めたのは「いつも」のロック史概観・ボブ度ちょっと高めバージョン。開始早々、佐藤先生からは、中身はタイトルと違います宣言が出て、結局、お話全体を100とすると文学の話は2くらいの量でした。
 予定時間90分のうち、「ビートルズは(世界史で習うイギリス、アメリカ、アフリカの)三角貿易の逆回し」等の面白い話が進み、1965年のニューポート・フォークフェスティヴァルに到達したのは開始80分後。その後、最後の5分くらいで見せられたのがこのグラフです。

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 ピケティーの『21世紀の資本』が話に出てくるとは完全に予想外でした。私のような頭の悪いロック・ファンはこんな本、読みませんから(正確に言うと、読んでも理解出来ない)。「アメリカの上位1割による資産の占有率」をロック史と重ね合わせると、資産占有率が低かかった時代とロックの黄金期は重なるというのです。しかも、ボブの30周年記念コンサート頃から、占有率は急上昇しています。ボブやビートルズ、ローリング・ストーンズといったロック・レジェンドたちが、レジェンドであることから逃れられなくなった時期とも一致しています。
 普段、だらだらレコードを聞いているだけの不勉強な私にとっては、これは久しぶりの「あっ!」でした(決して「ヘウレーカ」でないところが、私の脳味噌の限界です)。今までのはイントロダクション、ここからが本題って雰囲気になってきたものの、残念ながらここで時間切れ。続きは今後の著書や講義でってことで講演会はお開きになりました。
 ということで、帰りの電車の中ではこんなことを考えました:

・そういえば、1970〜80年代にビートルズ、ボブ、ストーンズは学校で全く人気がなかった。ファンは私ひとりだけ。郊外のレベルの低い公立校だったので、そうだったのかもしれないが…。

・こういう状況では人間不信にならないほうが不思議。現在、手のひらを返したように彼らをレジェント扱いするファンがウジャウジャいるのも(しかも同年代)人間不信の原因。

・ボブ30周年記念コンサートはチケット代が初めて100ドルを超えたロック・コンサートのひとつだった。

・ストーンズ初来日10,000円も衝撃だった。

・今やチケット代は100ドルでも安いほう。2015年にはグレイトフル・デッドでさえ100ドルを超えたので、個人的に超ビックリ。

・現在、資産を独占している人は、1960〜70年代に少年時代〜青春時代を送ったロック世代に属している。

・資産を独占するレベルではないものの、ロックファンはいつの間に高いチケット代を喜んで払い、高いボックスセット(箱物行政という)をハァハァしながら買えるほど金持ちになったのだろう?

・ノーベル財団の人が受賞者発表時に言ってた「アメリカの民衆音楽の伝統に新しい詩的表現を…」という言葉からすると、一昨年にNHKが放送したラジオ番組『カルチャーラジオ 文学の世界 ボブ・ディランの世界を読む』がまさにこれに沿ったもの。NHK、先見の明があったなあ。


   

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2016年11月20日

階下で練習するボブ・ディラン

 今回紹介する記事は下の地図の界隈で起こった出来事に関するものです。ボブはマクドゥーガル・ストリート94番地のタウンハウス(6番街の1本東がマクドゥーガル。94番地はマーメイド・オイスター・バーの向かい側あたり。AJ・ウェバマンはここのゴミ箱を漁った)を持っていた他、ヒューストン・ストリート124番地を借りて練習スタジオにしていました。2014年に149枚ものアセテート盤が見つかったのは後者からです。

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 1975年6〜7月のボブの動向は以下の通りですが、特に6月末から7月上旬にかけて撮影された写真で、ボブの着ている服が同じなのが気になります。真夏のニューヨークでシャツを何日も替えないのは良いアイデアではありません。同じものをいくつも持ってたのかもしれませんが…。

1975年6月26日 ジ・アザー・エンドでパティー・スミスのライブを見る

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6月27日 ホテルでサンタナと会った後に一緒にローリング・ストーンズのMSG公演に行き、楽屋でミック・ジャガーと会談

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6月30日 路上で見かけたスカーレット・リヴェラをナンパ。夜はボトムラインでマディー・ウォーターズのライヴに飛び入り

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7月2日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴを見る

7月3日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴに飛び入り



7月4日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

7月5日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

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7月中〜下旬 イースト・ハンプトンでジャック・レヴィーと曲作り
http://heartofmine.seesaa.net/article/367640792.html

7月28日 《Desire》レコーディング開始


  







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2016年11月05日

カール・パーマー、キース・エマーソンの思い出と近況を語る

 キース・エマーソン死去後(9月)に行なわれたカール・パーマーのまとまったインタビューがこれ。早口でたくさん喋る人のようです。

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カール・パーマー・インタビュー
聞き手:マイク・ラゴーニャ


ニュー・アルバム《Live In The USA》をEL&Pのバンドメイト、キース・エマーソンに捧げてますね。ここ数年間は、キースとはどのような関係だったんですか?

 知っての通り、EL&Pはメンバーが仲良しで、一緒にディナーに出かけ、家も隣同士で、祝日を一緒に楽しむようなバンドではなかった。演奏する時だけに限って手を組んでいたバンドだった。音楽に関しても、いろんなことで意見が合わなかった。オレたち全員が、それについて文句を言ってた。オレも「もう一緒にやってられないよ」って言ったひとりさ。これはロンドンで《High Voltage》コンサートをやった直後の話だ。プログ・ロック・フェスティヴァルだった。もうEL&Pは終わりにして、それぞれがやりたいことをやったほうがいいだろうと思ったんだ。このコンサートはうまくいったけど、ノスタルジアだった。バンドは昔ほどいい演奏をしてなかった。演奏するのが徐々に辛くなってたキースは、EL&Pを終了して少しホッとしてた。オレとキースの関係は、昔と殆ど同じだった。あいつは何が重要なのかをしっかり見ている男だった。それは正しいことだった。もし、多くの「A級」のバンドがしてるように、助っ人プレイヤーを加えて続けてたら、オレはあまり満足しなかっただろうなあ。キースはEL&Pを終わりにして幸せだった。オレもそうだった。オレとしてはもう少し続けてもよかったんだけど、現実はそうはならなかったね。キースは今年、オレと一緒にプレイする予定で、(昨年の)12月にそのことについて話し合ったんだ。キースは自分のグループで日本に行く予定があったんで、6月、7月、8月の予定を確かめて、そこから話を具体化していこうとしていたんだよ。生きてたら、1、2回くらいならプレイしてたかもなあ。

  

 オレとキースとの関係は、昔からそんな感じだった。一緒に演奏するのは楽しかったけど、大親友ってわけじゃなかったんだ。とはいえ、オレのアート作品を展示したアート・ギャラリー・イベントに、キースは何度も足を運んでくれたんだ。キースは喜んでやって来て、いつも一緒に楽しくやったよ。好きな音楽も同じだった。EL&P以外でも、自宅にはレコード、CD、カセット等、似たような音楽コレクションがあった。たまに一緒に演奏するのなら何の問題もなかった。キースもわかってたんだよ----オレがそう言わなきゃいけない役目だったんだけどさ----EL&Pはバンドとして、もうこれ以上は仲睦まじく活動を続けてはいられないって。キースはオレとはOKだった。おそらく、グレッグともOKだったんだろう。でも、オレはバンドは続けられないって判断した日以来、グレッグとは話をしてないんだ。グレッグとキースの関係がどんなだったかは知らない。ふたりが一緒にツアーをやってた時にも、人間関係が多少アップ&ダウンしてたことは知っている。でも、オレはどっちの時もふたりを励まそうとした。ふたりがコージー・パウェルとツアーに出たいって言い出した時には、オレは喜んで送り出したさ。12年も一緒に活動してきたのに、あいつらはオレがエイジアのアルバムを完成させるまで、6週間も待てないなんて言うんで、「自分の仕事をやり遂げるまではエイジアを離れるわけにはいかないんだ」って答えて、コージー・パウェルとツアーに出るのに賛成したんだ。ロゴの使用やその他のことにもね。コージーとも個人的に話をしたよ。オレはこれがバック・カタログを大宣伝するビジネス・チャンスだと考えた。オレには金が入ってくるし、人々はエマーソン・レイク&パーマーの名曲を聞くことが出来るしね。

 

 オレが今回のアルバムを作り、キースのためにショウを行なった理由は、一緒にたくさんの音楽を作ったからってだけじゃない。オレがEL&Pの音楽を今でも宣伝し、演奏しているのは、それを誇りに思っているからさ。オレの全キャリアの中で一緒にプレイしたミュージシャンの中で、キースは最も優秀な奴だったっていうのは、本心からの発言だ。だから、キースが絶好調の時は、オレも実力を十分に発揮することが出来た。オレたちをまとめていたのは音楽の力だ。音楽は永遠になくならない。だから、キースのために出来る限りたくさんの時間を捧げたことを、自慢に思ってるし、それでただただ幸せだった。キースの音楽を生かし続けるのに、オレたちの音楽を生かし続けるのに、キースの名声を生かし続けるのに、オレが自分に出来る限りのことをやるのに、それが功を奏したんだ。今回のアルバムをリリースしたのは、音楽と、ミュージシャンとしてのキースへのリスペクトの気持ちからだよ。

今回のアルバムに収録されたライヴ・トラックはEL&Pの曲のバリエーションですね。ツアーに出てアレンジを考えるんですか? それとも、ツアー・ミュージシャンのポール・ビーラコヴィッツ、サイモン・フィッツパトリックと一緒にあらかじめ練っておいたんですか?

 キーボード・パートに関する限り、それをギターでどの程度までプレイ出来るのか、オレにはよくわからなかった。オレにはEL&Pの音楽をコピーする必要なんてない。それはそれでもうやっちゃったものだからさ。EL&Pの音楽はオーケストラやジャズ・バンド、いろんなジャンル、いろんなやり方で演奏されてきたんで、オレは別のやり方で披露したかったんだよ。すぐに思いついたのが、ギターを使おうってことだった。8弦ベースもいい。ハイテク・ギター・プレイヤーと、チャップマン・スティックも演奏出来るベース・プレイヤーが欲しい。チャップマン・スティックはシンセサイザーの音も出せるから、新しい世代に新しいやり方でEL&Pの音楽を届けようと思ったんだ。EL&Pがやったことをもう1度やる必要なんてない。それはもうやっちゃったんだから。この音楽を違うやり方で表現するのが、進むべき新たな道だった。ギターで弾けること、弾けないことを理解するのが、オレにとっての課題で、ロンドンに住んでて、キーボードのパートをギターにトランスポートする専門家のところに行ったんだ。その作業をしてもらって、出来ること、出来ないことを理解するやいなや、進むべき道が明らかになった。クラシック音楽とEL&Pのカタログを原動力とするプログレ・ヘヴィー・メタル・トリオを作ることだ。これがごまかしのない、ベストなアプローチのようだった。起用することの出来たギタリスト、ベーシストは、この音楽をキーボードからフレットボードに見事に変換してくれた。もちろん、ある種のハーモニー等は失われてしまったけど、一方、シンセサイザーからは得られないがギターからなら得られる荒削りの興奮があった。つまり、EL&Pの音楽を演奏したけど、違うやり方でってことさ。違うキャンヴァスの上の違う場所に違う絵の具を使って絵を描いたんだ。

〈21st Century Schizoid Man〉をカバーしてますが、キング・クリムゾンの代表曲を入れることで、EL&Pトリビュートというコンセプトを延長したのですか? EL&Pの歴史の中にもこの曲は登場しますよね?


 今回のアルバムに〈Schizoid〉と〈America〉を入れたのは、EL&Pがグループとして演奏したまさに最初の曲だからだ。理由は聞かないでくれ。ステージでよく話すことだから。今年、キース・トリビュートとしてリリースする予定のビデオにも入ってるよ。「これはグレッグ・レイクがやろうって提案した曲なんだ。理由は言うまでもない。キースはこの曲用の新しいパートを考えたって言ってた。そしてオレは、バンドがやりたい曲ならば、喜んで練習しようって言ったんだ」なんて話してる。イギリスのミュージシャンは、コードを2、3決めただけのジャムのためのジャムみたいなことはしない。オレたちはまず曲を覚え、覚えて構成を作り上げた曲をもとにしてジャムるほうが好きなんだ。オレたちがやったのもそれだった。極めて荒削りだったけど、グループとして練習して演奏したのが、この曲だった。だから、EL&Pの歴史の一部ではあるね。EL&Pでもこの曲をレコーディングしてるんだけど、今回は違うふうにやったんだ。EL&Pのレコーディングではユニゾンのセクションを削除しちゃったんだけど、今回はあれやこれやに敬意を表して、そこをキング・クリムゾン風に演奏したんだ。なかなかだろ。



 〈America〉はレナード・バーンスタインが書いた曲だ。クラシック音楽を改造した曲の第1号で、キース・エマーソンがザ・ナイス時代に弾いてるのを聞いたことがあった。オレがキースに会ったのは17歳の時だ。キースはザ・ナイスでプレイしていて、オレはフリートウッド・マックにいた。今、皆が知ってるのと同じバンドなんだけど、あの頃はまだ女性メンバーはいなかった。ジェレミー・スペンサー、ピーター・グリーン、ジョン・マクヴィーっていうラインナップで、ミック・フリートウッドの体調がすぐれなかったんで、オレは1晩だけ演奏するように頼まれたんだ。で、その晩にキース・エマーソンに会ったんだよ。ザ・ナイスはトリのバンドで、フリートウッド・マックは2番手だった。オレは「ハイ」って声をかけたんだけど、次に会うのは3、4年後、EL&Pで演奏するようになった時だ。〈America〉は現代のグループがクラシック音楽をロックにアレンジした曲の第1号で、あの時、キースがそれをプレイするのを聞いたのは、今でも覚えている。そういうわけで、オレはこの曲をアルバムに入れることに決めたのさ。これもまた、キースの業績へのトリビュートだね。
 クラシック音楽の家系で育ったオレにとって、基本的に、EL&Pはパーフェクトなグループだった。お爺ちゃんはロイヤル・アカデミーの音楽の教授で、ひいひいお婆ちゃんはクラシック・ギターの演奏家だった。オレの親父は少しクラシック・ピアノを弾いていた。オレはクラシックの打楽器奏者になりたいと思ったことはなくて、100%ロックンロールのドラマーだけど、そういう音楽を現代的なやり方で、技術の恩恵を活用して----昔はシンセサイザー、今はMIDIを使って----演奏したいとは思っていた。 EL&Pでそういうムーヴメント初期の一翼を担っていたことを、オレは誇りに思っている。もちろん、今でも前進を続けてるよ。後退なんてしたことない。今はテクノロジーを取り除いて、ギターを使うことで技巧的演奏を復活させた。ギター・ペダルやチャップマン・スティックはたくさん使うけど、シンセサイザーは使わない。シンセサイザーのような音はギターから出てるんだ。

クラシック音楽の背景があったのに、どうしてEL&Pはロックを追求したのですか?

 事実、オレたちはアメリカ人じゃない。オレたちはヨーロッパ人で、毎日ラジオでたくさんのクラシック音楽を聞いているから、それがオレたちの血や魂の中を流れてるんだ。〈Third World Symphony〉か何かを聞けば、ロックのフォーマットでも演奏出来るかもって思うだろう。それが正しいことだって思う。そうする必要がある。そうしたい。イギリスには常にこういう衝動がある。キースとオレは音楽的にこの点で一致し、どっちもこの種の音楽を演奏することに熱心だった。オレのバンド、カール・パーマーズ・ELPレガシーは、〈Pictures At An Exhibition〉をギターと、キーボードではないシンセサイザーでカバーしてるんだ。キーボードではない オレはこの曲を7歳の時から聞き続けている。EL&Pでこの曲をレコーディングしたのは、キースのお気に入りの曲で、グレッグも知ってる曲だったからだ。グレッグはこの中にステキな歌を挿入した。グレッグはとても頑張った。この曲をバンドでレコーディングした時には、オレは月に昇った気持ちだった。オレは最高のグループにいるんだって確信した。ラガーディア空港で飛行機を降りて、車の後部座席に乗り込んだら、誰かがWWWRの生放送で、エマーソン・レイク&パーマー・バージョンの《Pictures At An Exhibition》を23分間フルで流してくれってリクエストをしてるんだぜ。最高だよ。やった!って思ったよ。ブルースとソウルの国に、イギリスのプログレッシヴ・ロックの形でクラシック音楽を届けてるんだよ。オレたちは違うんだぜってことで鼻高々だったよ。もちろん、それは生まれつきだ。でも、アメリカでこんなに人気が出て、大好評を得るとは全く思ってなかったよ。

ムーディー・ブルースは例外かもしれませんが、クラシック音楽を派手なロック・バージョンにしてアメリカで人気を博したロック・グループは、EL&Pの前にはいないと思います。

 他のヨーロッパ人がいたはずだよ。キースとオレが楽しんで聞いてたのが、ジャック・リューシェってフランス人ピアニストだ。アコースティック・ベースとスタインウェイとレギュラー仕様のドラムセットってバンドでバッハをプレイしてた。ジャズのフォーマットでだ。ビックリしたね。信じられないかもしれないけど、涙を流すくらい驚いた。こういうのはヨーロッパ限定だったのかなあ。EL&Pがそれをやった時が一番衝撃的だっただろ。EL&Pはギターなしで、ヴォーカルとキーボードをメインのメロディー楽器に使ってそれをやって、しかも、アメリカに持ってきたんだ。あの頃はそれが肝だったんだけど、今はギターを使ってそれをやり遂げることが出来て、オレは大満足さ。さっきも言った通り、現代の基準でテクニックのあるプレイヤーだから、ギターのフィンガーボードの上で指を走らせて、キーボードのパートを弾くことが出来るんだ。オレは今、人生の円を殆ど一巡したところさ。まだやってないのは、ジャズ・カルテットを結成して、ジャズのフォーマットで〈Tarkus〉〈Trilogy〉をプレイすることくらいだ。

DVDのリリースも予定されてるんですよね。どんなことに焦点を当てたものなんですか?

 キースが亡くなったことに関して、何かをやらなきゃならなかった。時間はどんどん少なくなってきているんで、3つのことをやったんだ。まず《Live In America》をリリースしら。レコード契約すら持ってなかったんだけど、準備して、プレスして、キースとオレの最後のツーショット写真を見つけて、ツアー中に売ったんだ。まだ完全には配給契約を交わしてはいないんだけど、オレたちにはとにかく時間がなかった。キースは突然亡くなってしまっただろ。こんなに悲劇的なことになるとは思ってもいなかった。追悼する必要があると思ったんだけど、オレに出来ることといったら、コンサート的な観点からキースの人生を讃えることかなあって考えた。コンサートを開催して、ステージに設置した大きなビデオ・スクリーンを使ってキースのビデオを映して、ゲストにも出演してもらって、一緒にプログラムを作って、それでうまく行けばいいなあと思ったら、実際にそうなったんだ。キースとオレで話し合ってたことのひとつが、オレが何を演奏して、キースが何を演奏しに来てくれるかなあってことだった。オレが作ったリストには〈Peter Gunn〉が載っていた。是非やりたかったし、EL&Pはよくこの曲でジャムってた。結局、キースとのショウは出来なくなっちゃったんだけど、キースへの捧げものとしてショウを実現させる必要があったんだ。
 それで、フロリダのオリンピア・シアターでコンサートを開催したんだけど、たくさんの友人からたくさんの支援を受けた。ジェネシスのギタリストだったスティーヴ・ハケットが来て、2曲ほど演奏してくれた。ハーモニカとギターをプレイしてくれた。ヴァニラ・ファッジのマーク・スタインも出演してくれた。信じられないかもしれないけど、キースは昔のヴァニラ・ファッジが好きだったんだ。ムーディーなキーボードのイントロが大好きだったんだよ。カッコイイものは全部好きだったよ。キースがマーク・スタインに会ったことがあるかどうかは知らないけどね。〈Jerusalem〉では合唱団を起用することにしたんだ。昔、EL&Pが〈Jerusalem〉のシングルを出した時、BBCでは放送禁止になっちゃったんだ。ある曲がラジオで流していいかどうか、テレビに出演して演奏していいかどうか、BBCが決めてたんだ。この曲は神聖を汚している、この曲は教会のものだから、ロック・バンドとしては演奏すべきではない、っていうのが連中の言う理由さ。オレたちはコードから何まで正しく演奏していたのに、1970年代にはBBCでは放送禁止だったんだ。EL&Pはこの曲をシングルとしてリリースしたけど、売れなかったなあ。でも、素晴らしい音楽だった。これこそまさにプログレッシヴ・ロックだと思ったね。だって、歌詞は偉大だし、音楽も素晴らしい。とにかく、この曲をトリビュート・ショウに含め、IDA児童合唱団に歌ってもらったんだ。



 ある時、キースとオレで相談してたことのひとつが、音楽と一緒にバレーも使おうってことだった。EL&Pがオーケストラと一緒にツアーした時には、もしこれが大成功したら、ショウを組み立てて、バレーを導入しようって思ったんだ。だから、トリビュート・ショウでは、バレーこそ使わなかったけど、フロリダのセンター・フォー・コンテンポラリー・ダンスを起用することにしたんだ。5、6人のメンバーからなる小さな団体なんだけど、〈Pictures At An Exhibition〉の他、いくつかの曲で踊ってもらったんだ。全体として、面白いショウになったよ。キースが目指してたことも2、3あったし。キースのアイデアとオレのバンドを中心に作ったコンサートだった。はっきり言って、やらなきゃいけないことになっちゃって、残念なショウだった。キースが生きてたらなあって気持ちが強い。でも、現実はそうじゃない。DVDが出て、アルバムも出る。アートワークも完成させた。オレのアートを紹介しているサイト、http://www.carlpalmerart.com を見てくれ。「Welcome Back My Friends To The Show That Never Ends」ってタイトルの作品がある。これはオレがキースのために作ったものだ。LEDドラムスティックと、シャッタースピードが異なる2台のカメラを使った作品だ。信号全部をコンピューターに取り込んで、運が良かったら、オレがいろんな曲を演奏している様子が映る、光と影からなる芸術作品が出来上がる。そんなものを作ってるんだ。「Welcome Back...」のドラム・パートはいろんな色の光で出来ていて、その上にオレがメタリック・ペイントを加えているんだ。これはキースに捧げた作品だ。
 過去において、意見が一致しなかったことや、議論になったことがあれこれあったけど、オレは出来る限りのことをしてキースを送り出してあげようとした。3月5日にはイングランドでもコンサートをやる。キースの息子も出演する。有名なプレイヤー2人も着てくれることになっている。問題が生じるといけないので、まだ誰かは言いたくはないんだけどね。でも、参加予定であることは確実だ。オレが一緒にプレイした最高のミュージシャンであるキース・エマーソンのために、オレは出来る限りのことをやってきたし、これまでずっとたくさんの友人が手伝ってくれたことにも感謝してるよ。

あなたのアートワークについて詳しく聞きたいのですが。

 インターネット・サイトに行って見てくれよ。動画があるので、それを見ればわかってもらえると思う。かれこれ4年くらいやってるんだよね。カタログは2冊目になっていて、本も数冊出した。アートワークから得たお金の一部はキャンプ・グッド・デイズ、癌関係、ドンキー・サンクチュアリー等のチャリティーに寄付している。寄付することが出来て、とても満足している。キースに捧げた特別なアートワーク----60インチ四方のバージョンと小さなバージョン----も作ったんだ。すでにたくさんの人が購入してくれた。出来るだけステキなEL&Pのアートワークも作りたい。

カール、新人アーティストに対してはどんなアドバイスをしますか?

 今日、オレが話したことをキミがどこかで発表するとしても、約1カ月後にはあまりいいアドバイスではなくなってることだろう。基本的なことがいくつかあるけど、今は音楽ビジネスの移り変わりが激しいから、ストリーミングやらダウンロードやら、しっかり見て理解しなきゃいけないことがとてもたくさんある。結局のところは、オレがアーティスト全員に言えるのはこれだけだ:オリジナルなアーティストになれ。オリジナルなものを提供できるアーティストになれ。そうすれば、遂には的を射た音楽が出来て、皆が聞いてみたいと思うようになるだろう。オリジナルなものは常に長続きする。オリジナルな音楽はなくならない。ハイテクなプレイヤーばかりのバンドがガラクタみたいな音楽を演奏するよりも、下手クソなミュージシャンばかりのバンドがいい曲を演奏するほうがいいと思うね。オリジナルなアイデアを持っていて、それを自分で演奏するように曲にしておけば、その作品は音楽の世界で生きていくのに必要な保険になるだろう。

駆け出しの頃の自分自身にはどんなアドバイスをしたいですか?

 学校の勉強をもっと頑張って、とにかく医者になれ、かな。

(笑)

 正直、オレは恵まれたキャリアを歩んできたと思う。1968年には、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンで人生初のナンバー1ヒットを手に入れた。18歳の時だった。次のナンバー1シングルはアトミック・ルースターの〈Tomorrow Night〉だった。オリジナル曲のレコーディングには参加したんだけど、リリース前にバンドを辞めて、キースとグレッグと合流してしまったんだ。そしたら、アトミック・ルースターは新ドラマーでレコーディングをし直したんだよ。これもオレが関与したシングルだ。エマーソン・レイク&パーマーでも〈Fanfare...〉がナンバー12シングルになった。他の国でもね。そして、エイジアでは〈Heat Of The Moment〉とアルバムが1位になった。ミュージシャンていう職業に関しては、オレは本当に恵まれている。幸運もたくさん持っている。一生懸命に働いてもきたけど、運の良さはまた別のことだ。オレは超ラッキーだった。自分の運に感謝している。正直、アメリカって国がなかったら、オレは今ここでこうしていないだろうなあ。オレは常にアメリカに感謝してるし、いつもアメリカでプレイすることを楽しみにしている。オレはヨーロッパ人で、アメリカ人にはなれない。仕事が終わったら自分の国に帰りたい。でも、アメリカはヨーロッパと同じくらい、オレのキャリアにとって重要な地域だ。でも、アメリカでの成功の方が、ヨーロッパでの成功よりデカいかな。成功こそ世界を回すものだよね。

《Brain Salad Surgery》等のEL&Pのカタログは、リイシューのたびにリフレッシュされ、拡大されていますが、こうした音楽のレガシーは今後どうなると思いますか?

 EL&Pの最初の4、5枚のアルバムのうち、どれか1つでも選んだら、超ハイクオリティーの曲作り、演奏、プロダクションを耳にすることになると、オレは心底信じている。極めて素晴らしいものを聞くことになる。オレたちにも維持することが不可能だったレベルの素晴らしい音楽を聞くことになる。皆が知っての通り、実際、維持してないよね。EL&Pが頂点を極めていたのはわずか3、4年で、その後は「B級」になり下がってしまった。数年間、オレたちはあまりに最先端で、怖いほどだった。この音楽は高品位と独創性の香りがぷんぷんしている。他とは違う。世界に残したレガシーは、これが真のヨーロピアン・ロックンロールだったってことだ。ギター中心でもない。ブルースを基礎にしたものでも、ジャズを基礎にしたものでもない。オレたちは全然違うものを世界にもたらすことが出来たんだ。特に、アメリカにもたらすことが出来た意義は大きいね。だって、世界に対してブルースやジャズを大量に広めた国なんだから。EL&Pはクラシック音楽を現代的なロック音楽に変えて音楽を前進させただけでなく、プログレッシヴ・ロックの構想を作り、このジャンルのスタンダードな存在となった。アメリカにはジャズとブルースがあった。そして、イギリスにあったのがプログレッシヴ・ロックだ。

(Transcribed by Galen Hawthorne)



The copyrighted article "A Conversation with Carl Palmer" by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/entry/chats-with-locash-mick-fleetwood-and-carl-palmer_us_57bb2274e4b007f18199345a
Reprinted by permission.


  
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