2019年06月28日

マハリシの瞑想道場に潜入したKGBスパイ、ユーリ・ベズメノフ

 1970年にカナダに亡命したソ連のスパイ、ユーリ・ベズメノフの発言が、まさに現代の世界を言い当てているとして、最近、脚光を浴びてるようです。ググったら次のような記事が出てきました。

・34年前にロシアが企んだ“米国崩壊計画”、すべて現実化していた! 元KGBスパイが明かした「長期的イデオロギー破壊工作」とは!?
https://tocana.jp/2018/08/post_17904_entry.html

・元KGBが暴露した超効果的な“国民の洗脳方法”がヤバすぎる! 善良な左翼は「使えるバカ」、一方アメリカの洗脳方法は…!?
https://tocana.jp/2018/03/post_16371_entry.html

・国家転覆の方法 by 元KGB工作員ユーリー・ベズメノフ(トマス・シューマン)
https://ameblo.jp/millnm/entry-12184863749.html

 上記の記事は、恐らく、ベズメノフが1984年に答えたインタビュー↓を元にして書かれたもののようですが、私が聞き逃さなかったのは49:55付近から語られている内容です。なんと、ビートルズが1968年に行ったマハリシ・マヘシ・ヨギのアシュラム(瞑想道場)にベズメノフも潜入調査に行ったと証言しています。



 こんなことを言ってます:

 KGBはマハリシ・マヘシ・ヨギにも興味を持っていた。まあ、単なる巻き添えのようなんだけどね…。こいつは優れた宗教指導者、大ペテン師、いかさま師----どちら側から見るかによって、さまざまな解釈が出来る人物だ。ビートルズのメンバーがインドのハリドワールにあるこいつの道場{アシュラム}で瞑想の修行を行ない、ミア・ファロウやハリウッド出身の他の役に立ちそうな愚か者どもも彼の学校にやって来て、マリファナとハシシ、そして瞑想というクレイジーな思想で精神が完全に酔った状態で、アメリカに帰って行った。
 瞑想とは、言い換えると、自国の社会・政治的問題から自分を切り離し、自分の殻の中に閉じこもり、世界の問題を忘れてしまうことだ。KGBは愚かなアメリカ人のための洗脳センターとなってる素晴らしい学校に興味をそそられた。私はアメリカのどういう種類の重要人物がこの学校で勉強してるのかをチェックするために、KGBによって派遣されたんだ。


Maharishi.jpg


● この写真の左の人物があなたですよね。

 そうだ。左に写ってるのが私だ。私はその学校に入学しようとしたんだが、残念なことに、マハリシ・マヘシ・ヨギの要求する金額が高過ぎた。入学したいなら500米ドル払えと言われたよ。でも、私の任務はこの学校に入学することではなかった。どういう種類の人間がアメリカからこの学校にやって来るのかを調べることだった。影響力のある、良い家柄の、オピニオン・リーダー的な人物が来て、インド哲学に関するクレイジーな話を頭に叩き込まれて帰国していることがわかった。
 インドの人々は彼らを役に立つ愚か者と見なしていた。KGBがそういう連中を極めて騙されやすい、誤って導かれた人間だと見なしてたことは、言うまでもない。例えば、国会議員の奥さんや、ハリウッドの有名人といったVIPは、その学校で訓練を受けると、世論を操作する者にとって、普通の人よりもはるかに役に立つ人間になるんだ。KGBはそれをよく理解している。この種の宗教修行を偽物と見抜く力がある。


● 彼らはどうして操作されやすいのでしょうか?

 さっきも言ったように、マハリシ・マヘシ・ヨギがアメリカ人に教えてることを注意深く見ればわかる通り、内省的な瞑想をやり過ぎると、問題の殆どが----今日の緊急を要する問題も----瞑想さえしてれば解決出来ると考えてしまうようになる。ボートを揺らすな。かかわるな。座って、瞑想しろ。そうすれば、宇宙の波動によってとかいう変てこりんなロジックで、全てが自然と解決する。
 これこそまさに、KGBとマルクス=レーニン主義者がアメリカにしたいプロパガンダだ。アメリカが抱える真の問題から自分の意見や注意、精神的エネルギーを逸らして、問題なんかない、世界なんかないって思い、存在しない調和を考えるようになってしまう。自意識のある、健康的な、健全な肉体を持って、現実に注意してるアメリカ人より、こうした間抜けなアメリカ人がたくさんいるほうが、ソ連にとっては都合がいい。
 マハリシ・マヘシ・ヨギはKGBの協力者名簿には載ってないが、こいつはアメリカ社会の混乱には大きな貢献をしている。本人にそのつもりがあるのかどうかは知らないけどね。しかも、マハリシだけじゃない。愚かで単純な国民から金を巻き上げるために、何百人ものグルがアメリカにやって来ている。これが今のトレンドさ。瞑想が流行。引きこもろう、が今の流行りなんだ。
 KGBがマハリシに興味を抱き、私がハリドワールに行く費用を負担し、私にあんな奇妙な任務をさせたくらいなんだから、KGBの連中は私の調査報告にうっとりしてたよ。アメリカを混乱させるのにはあの種の洗脳が非常に効果的で有用と、KGBは確信してたね。


   


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2019年06月16日

RTRツアー中、ヴァーモントで逃避行

 虚実ごちゃまぜの映画『ローリング・サンダー・レヴュー:マーティン・スコセッシが描くボブ・ディラン伝説』がファンの間(だけ)で大きな話題になってますが、このツアーに関する超笑える裏話を発見したので紹介します。この文を書いたスーザン・グリーンさんは今年3月にお亡くなりになったそうです。RIP

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RTRツアー中、ヴァーモントで逃避行


文:スーザン・グリーン



 ボブ・ディランが火曜の晩にシェルバーン・ミュージアム公演のステージに登場したら、彼は41年7カ月12日と約16時間ぶりに、チテンデン・タウンに足を踏み入れることになる。私がこうした詳細を覚えているのは、以前に会った時から10年以上経た1975年11月8日の真夜中を少し回った頃に、ボブと再会していたからだ。その晩、ヴァーモント大学でコンサートを行なう予定のディランのローリング・サンダー・レヴューは、今はなきシェルバーン・インに部屋を取っていた。
 ボブから電話をもらった私は、1964年製の黄色い小さなルノーに飛び乗って、バーリントンのオールド・ノーズ・エンドから約10マイル運転して、ボブに会いに行った。私たちが最後に会ったのはフォーク・リヴァーヴァル全盛期の1963年だ。フォーク・ファンが足繁く通っていたグリニッジ・ヴィレッジのクラブでのことだった。
 そもそも、ディランと初めて会ったのは1961年4月。私がプレインフィールドにあるゴダード・カレッジの1年生だった時の春休みにマンハッタンに行った時だ。ニューヨーク大学(NYU)に通っている高校時代の友人と私は、フォークロア・センターの奥の部屋でギターをかき鳴らしている少年とおしゃべりを始めた。マクドゥーガル・ストリートにあったこの店は、レコードや楽器を売っていた。彼は20歳だったが、見た目は15だった。小粋な黒いキャップをかぶっていた。
 それから数日後の4月5日、私たちはビックリした。生まれたばかりのNYUフォーク・ミュージック同好会のセッションで、彼が演奏しているのを目撃したからだ。これは彼にとって、この町で初めて行なったギャラ(20ドル)をもらったパフォーマンスだったのだ。彼にはあの時代の他の殆どのアコースティック・アーティストよりもはるかに斬新な声とペルソナがあった。
 私はまもなくヴァーモントのカレッジに戻ったが、晩春には再びニューヨークに行って、ヴィレッジで彼のパフォーマンスを追っかけた。カフェ・ホワ?で行なわれた午後のフーテナニーでは、ディランはハーモニカでもっと有名なヴォーカリストのバックを担当した。彼はガーディーズ・フォーク・シティーで毎週月曜の晩に行なわれているオープン・マイクでも、注目の存在になっていた。
 その年の7月、私がコネチカットのサマー・キャンプで働いていた時に、ディランは私の子供の頃からの友人であるスージー・ロトロ(後に《Freewheelin'》のジャケットに登場する女の子)と恋仲になった。この恋の関係は、ニューヨークで終日行なわれたフォーク・ショウケースで始まった。このコンサートの主催者だったボブ・イェリンはブルーグラス・バンジョーの名手であり、1980年代半ば以来ずっとアンダーヒルで暮らしている。
 それからというもの、私はニューヨークに行くたびに、彼女がディランと一緒に暮らしている西4丁目の窮屈なアパートメントを訪れた。1962年の時点ではまだ、ふたりは無一文状態であり、ボブはヴァーモントのゴダード・カレッジまで行って、往復のバス代込で75ドルもらえるギグをやりたがっていた。
 私は大学の娯楽委員会に、ディランのファースト・アルバムと、ガーディーズで行なったプロとしてのデビュー・コンサートを熱狂的に取り上げているニューヨーク・タイムズ紙の記事を貸した。しかし、委員会の決定は「申し訳ないですが、才能がある人とは思いません」だった。
 この時のすげない拒絶を、1975年にシェルバーンで再会した時に私が話すと、ボブもそれを思いだし、私たちは互いに笑いあった。私たちは会ってなかった間に起こった出来事を話した。私は娘を1人儲け、ディランはたくさんの子供を儲けていた。そのうち、彼はノドが痛むと言った。私にはハーブ療法の知識があるので、自宅まで来てくれればその状況を直せるかもと言った。
 「行こう」とディランは言った。
 私のルノーに乗ってのんびり向かいながら、私たちは良い人生を送るためには何が必要なのかを話し合った。私はビートルズの歌詞を拝借して言った。「必要なのは愛だけよ」と。これに対して、ボブからの返事は何もなかった。私のことをウブだなあと思っていたのかもしれない。
 私は行ったばかりのチック・コリアのコンサートを激賞し、このジャズ・ピアニストが観客と深い親密感を作り出していたと言った。ディランは少し防衛本能を働かせたようだった。「あれはコンサートで、オレたちのほうはショウだ」
 バーリントンのサウス・プロスペクト・ストリートを走っている時、ディランは19世紀に建てられた立派な建物に見とれていた。が、彼がチラチラ振り返って、後ろを走るステーション・ワゴンを見ていることにも気がついた。
 「どうかしたの?」と私は訊いた。
 「尾行されてる」
 尾行? クレイジーなファンに? CIAに? 「ボビー、私にどうして欲しい?」 私にやっと発することの出来たのはこんな言葉だった。
 「巻こう」
 ディランから指示が発せられた。
 私はスピードを上げた。追っ手もスピードを上げた。バーリントンの土地勘のある地域まで来たので、私はその区域を突っ切った。それでもまだ、あちらさんはついてくる。何度か急に方向転換した後、暗いストリートで私たちだけになったと思ったら、突然、再び追っ手が現れ、こっちに向かって来た。

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ボブが立ち寄ったグリーン宅


 ステーション・ワゴンが向きを変えた隙に、私は自宅のあるストリートをよろけながら曲がり、5つの寝室のある自宅のドライヴウェイに急いで入った。向こうからは見えない位置から、追っ手が目の前の道路をさっと通り過ぎるのが見えた。
 私はやっと訊いた。「連中は何者かしら?」
 すると、ボブは淡々と答えた。「オレのボディーガードだよ」
 自宅の中に入り、私がハーブ・ティーを煎れるためにストーブにやかんをかけた時、ボブはコーヒーテーブルの上から『ピープル』誌の最新号を拾い上げた。表紙と内側の7ページにはボブの写真が掲載されていた。
 ディランはお茶を飲み込んだ後、カップを洗い----まあ!----リビングルームにあるアップライト・ピアノの前に座ってブルースを弾き始めた。
 ルームメイトのひとり、エリザベス・ダナハーが2階から叫んだ。「ピアノ弾いてるの誰? 私、寝るんだけど!」
 ディランはつぶやいた。「おっと」
 私は彼女を呼んだ。「エリザベス、下に降りて来ない?」
 彼女は降りてきた。そして、さっきの自分の抗議が誰の音楽を黙らせてしまったのかが明らかになった時、呆気にとられた。
 シェルバーン・インに戻る道中、私が出してあげた美味しくない混合薬によってディランは楽しい気分になっていた。私が出したのはノコギリソウ、コンフリー、ヒヨドリバナ、ペパーミントのお茶と、粉にしたヒドラスチスとミルラのから作った丸薬だった。
 「ハーブっていいねえ」とディランは言った。「元気にしてくれるだけでなく、ハイにもなれる。しかも、副作用はない」
 「ボビー、あの中には向精神作用があるものは全然入ってないのよ」と私は言ったが、ディランは上機嫌のままだった。
 1週間後、酷い風邪をひいて(まったく皮肉なことだ!)ベッドに入っていると、ボストン近郊のどこかにいるディランから電話があった。私が使ったハーブのリストが欲しい、健康食品の店で自分で買えるように、という内容だった。目的が身体のヒーリングだったのか気分の高揚だったのかは、私にはわからないが。
 あれから何年も経ってから、私は劇作家、サム・シェパードがローリング・サンダー・レヴューについて書いた本を読んだ。サムは正式ではないのだが記録係としてこのツアーに同行してたのだ。メイン州にいる時の様子が書いてある箇所を読んでビックリした:「朝、ディランの部屋をノック。中では、ディランが電話。シャツも着ないで、乳香とミルラとローヤルゼリーを注文。しかも長距離通話で」
 ミルラと聞いてシェパードが連想するのは、赤ん坊のイエス・キリストに捧げられた贈り物だろう。私がバーリントンでディランに与えた小さな丸薬の中に入ってる抗生物質的な成分とは、思ってもいないはずだ。乳香は私があげた一服の中には全く含まれていなかった。
 1975年にディランと会った後、私は人生の新しい道を夢想した。ハーブ療法士から作曲家という転身はどうだろう。ハインズバーグに住む薬草のインストラクターのメアリー・カーズは、彼女が神聖なものだと考えている草が快楽主義者によって無駄に消費されてしまうのではないかと感じていた。彼女は聖書にある警句を言った:「豚に真珠を投げ与えるな」 しかし、1976年4月に、私はボトル入りの強壮剤をひと揃い持って、ローリング・サンダー・レヴューとともに南部4州を回った2週間のツアーの間、ロック・スターたちに自分のハーブを与えた。でも、これはまた全然別の話だ。

The original article "My night on the lam in Vermont with Bob Dylan" by Susan Green
https://vtdigger.org/2017/06/19/night-lam-vermont-bob-dylan/?fbclid=IwAR3dua0XCeu2zb6j3K5cSvDrwbB8aUpEhkCVQfqNEsjZGmHihLjNBvfvIog

   
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2019年06月10日

ロブ・ストーナー、《Desire》制作秘話を語る

 1975年秋のローリング・サンダー・レヴューのリハーサルと5公演のボブのセット完全版を収めた14枚組箱物行政《The Rolling Thunder Revue: The 1975 Live Recordings》がリリースされ、皆さん、聞くのに忙しいことでしょう。《Desire》とローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでベースとバック・ヴォーカルとバンド・リーダー役を務めていたロブ・ストーナーのインタビューがダミアン・ラヴのページに掲載されたので、ここで紹介します。聞きながら読んだら、楽しさ倍増と思います。





ロブ・ストーナー、《Desire》制作秘話を語る


聞き手:ダミアン・ラヴ


 陳腐な言い方だが、《Blood On The Tracks》がボブ・ディランの離婚アルバムだとすると、次の《Desire》は和解して縒りを戻したレコードだと言えるだろう。このアルバムでは、《Blood》を通して思い出や後悔を探して回った孤独な人物から、どんどん人数が増えて入り乱れるくたびれたミュージシャンたちのリーダーへと変身して、大きくてワイルドな世界に再び出て行く姿を見ることが出来る。
 スカーレット・リヴェラのバイオリンの音や、特殊な語りの強調や神秘的な含蓄が特徴の《Desire》は、さまざまな理由で、ディランのキャリアの中でユニークなレコードである。劇作家/舞台演出家であるジャック・レヴィーと一緒に大半の曲を共作している点がいちばんの新機軸だったのだが、この件についてディランは1975年にこう語っている:「どっちが何を書いたかは覚えてないよ。ジャックが[曲]を別のところに持って行くと、次はオレもどこか別のところ持って行って、そしたらジャックがさらに遠くに持って行って、今度はオレがさらに遠くに持って行ってって感じだったよ」
 1970年代半ばのディランの復活の頂点となった《Desire》は、今では伝説となっているローリング・サンダー・レヴュー・ツアーを生み出した。ディランが集めたミュージシャンやアーティストから成る、かなり風変わりで微妙に崩壊寸前のドサ周りのサーカス一座が建国200年目の1975年にアメリカを回ったこのツアーでは、ディランはキャリアの中で最もハングリーなライヴ・パフォーマンスを見せた。
 この間ずっとディランの側にいたのがロブ・ストーナーだ。音楽シーンではベテランの顔役的存在の彼は、《Desire》でベースを弾いてもらうためにディランに召集されたが、このレコードと後のローリング・サンダー・ツアーの両方で、事実上、バンド・リーダー役を担うようになった。2016年に行なったこのインタビューでは、私はストーナーにアルバム制作の思い出と、ツアーのことについて質問した。

stoner2.jpg


ディランと初めて会ったのは《Desire》の数年前なんですよね? 1970年代前半くらい…。

 そう。1970年代初頭だ。ロサンゼルスで会ったんだ。ジョン・ヘラルドを仕事をしてる時に。ジョンはザ・グリーンブライア・ボーイズのリーダーで、ボブはよく、このグループの前座をやってたんだ。だから、ボブはよく、彼らのコンサートを見に来てたんだよ。昔の知り合いのコンサートにはよく姿を見せていた。ザ・グリーン・ブライアー・ボーイズのロサンゼルス公演を聞きに来た際、ボブはオレの演奏を聞いて、知り合いになり、その後も連絡を取り合ってたんだ。

一気に1975年夏のニューヨーク・シティーに飛ぶと、しばらくそのシーンから遠ざかっていたボブは、再びどっぷり浸かって、動向をチェックしたり、クラブやコンサート会場に姿を見せたりしました。あなたはどういうふうにしてボブと再び繋がったのでしょう?

 ザ・バンドにバックを務めてもらうことは、もう出来なくなってたんだよ。'74年に一緒にド派手なスタジアム・ツアーをやった後、別の道を進んでしまったんで、ボブは新しい方向性を探していた。そういう目的で、新しい作曲パートナーを見つけたんだ。ジャック・レヴィーさ。こいつがいくつか新しい方向性を示してくれた。
 ボブはこうした曲をあちこちで試しに歌い始めた。ルーツに戻ろうとしてるかのようにね。グリニッジヴィレッジのクラブにさ。オレはその頃、あらゆるクラブのある通りから、2ブロックしか離れてないところに住んでたんで、当時のグリニッジヴィレッジのフォーク、ロックのクラブ・シーンではどこにでも姿を現す存在だったんだ。ロッキン・ボブ&ザ・レベルズっていう自分のバンドも持ってて、たくさんの場所でプレイしてたしね。それに、ブリーカー・ストリート/マクドゥーガル・ストリート界隈のクラブに出演しているフォーク・シンガー、ロック・シンガーの多くのバックを務めてたんだ。ごく近所に住んでたんで、土壇場で誰かが必要になった時には、オレに電話をしたら、20分でヘルプに駆けつけることが出来た。オレは何でも出来る奴だからさ。ギター、ベース、ピアノ、ヴォーカル、必要なことだったら何でもさ。だから、誰かが土壇場になって、何かの楽器を弾く奴がもう1人必要だってことになると、いつもオレに電話が来た。そして、オレは現場に駆けつけた。
 オレは常にあのへんにいたんで、ボブがヴィレッジで誰かの演奏を見に来た時、何度かオレのステージも見てるんだ。ボブの昔の友人のジョン・ヘラルドとオレが一緒にプレイしてるのも見てるよ。ボブがヴィレッジのクラブをウロウロし始めた時、ランブリン・ジャック・エリオットや、あのシーンの他のアーティストとオレが一緒に演奏してるのも見てるんだ。
 ボブから「ヘイ、メ〜ン。そのうち何かやろうぜ」って言われたよ。こうした言葉は、ボブほどのポジションにいる人だったら、出会ったミュージシャン全員に言う社交辞令で、悪意はないんだけど、実際に実現に至ることは殆どない。だから、実際に電話がかかってきて、レコーディング・スタジオに来てくれって言われた時には、とても驚いたよ。1975年8月後半のことだった。
 
あなたはロカビリーの人ですよね。ロカビリーがあなたのルーツで、その頃の音楽の大ファンで、リンク・レイといった人々と演奏をした経験があります。ディランもそういう音楽が大好きですが、ディランとロカビリーをすぐに結びつける人は多くはありません。ラジオ番組『シーム・タイム・レイディオ・アワー』で、1950年代、1960年代のロカビリーやR&Bのレア曲をかけまくった後なので、今ではそう思う人も増えたと思いますけど。そういう音楽がお互いに大好きだってことは、一緒に仕事をしてる間、絆を作る助けになったんじゃないですか?

 あの『シーム・タイム』の番組はボブの趣味が丸見えだったね。ボブと遊んでてわかったよ。こいつはロカビリーや昔のブルース、初期ロックンロール、ロックンロールより前のファンキーな音楽に、誰にも負けないくらい詳しいぞって。ボブはバディー・ホリーの歌だったら全部のフレーズを知ってる。エルヴィスの歌も全部知ってる。全部のリフを知ってる。どの曲のギター・ソロも歌うことが出来る。ギターで弾くことが出来なくてもだ。アメリカの公園にはチャック・ベリーの銅像を立てるべきだとも言ってたよ。チャック・ベリーとスモーキー・ロビンソンは最高の詩人だって思ってた。あの頃のボブ本人の音楽を聞いてもすぐにはわからないんだけど、そういう音楽に精通してて、そこからエネルギーを得ていたね。実際、オレと仕事をしてた頃は、ボブが一番誇りに感じてた手柄はエルヴィス・プレスリーが自分の曲〈Tomorrow Is A Long Time〉をレコーディングしてくれたってことだった。エルヴィスの映画のサウンドトラック盤にこっそり入ってたレベルのものだったけど、ボブは感動してたよ。



《Desire》のレコーディングについてうかがってもいいですか。《Desire》の1回目のセッションに到着した時、どんなシーンに出迎えられましたか? 私の理解だと、あのアルバムの最初のセッションではたくさんのミュージシャンが参加していて----エリック・クラプトンをはじめ、20人以上----だから、まとまらなかったようですね。最初の晩は、あまり成果は上がっていません。

 その通り。ニューヨークの東52丁目にあるコロムビア・レコードのレコーディング・スタジオに行って、セッションを目撃して「フゥー」って思ったよ。最初に、ボブのプロデューサーのドン・デヴィートから電話をもらった。ドンはレコードの作り方に関して人の邪魔をするようなところがあった。皆が何かを生み出そうと頑張ってるのにさ。スタジオに行って目撃したのは、混乱してて制御不可能な状況だった。俗に言う、船頭多くして船山に登るってやつ。完全にカオスだったね。
 スーパースターのプレイヤーが揃ってた。エリック・クラプトンにデイヴ・メイスン、ココモっていうイギリスのグループ。ジョー・コッカーのグリース・バンドのメンバーだった奴もいた。こうした連中がいて、そのひとりひとりに取り巻きがいた。少なくとも2人のゲストがいた。だから、仕事の環境というよりは社交の場だったなあ。実際、レコーディングに使ってたスタジオの隣の部屋もいくつか開けて、他の連中が交流出来る場所を作らなければならなかった。飲食物を並べたテーブルが用意されてて、レコーディング・セッションていうよりはコンサートの後のバックステージでのパーティーのようだった。
 哀れだったのはボブさ。こうしたカオスの中心にいて、新曲をやろうと頑張っていた。一部はオレの聞いたことがあるものだった。レコーディングに入る前の数週間、ボブがヴィレッジで試しに演奏してるのをオレは聞いていた。たいてい、ひとりで歌ってたけど、ここでは同じ曲を大所帯のバンドでやろうとしてたんだ。
 ボブ以外の連中は、ロックのレコードを作る際にはテイクにテイクを重ねるという方法を取っていた。何時間もかけてドラムの音を作って、それから、この音、あの音って試して、完璧なテイクを求めて延々に通しで演奏をする。ボブにはそんなことをやる辛抱強さはないし、ボブの音楽もそういうアプローチには向いてない。ボブの音楽は瞬間の中にある。ミスのないテイクを1つ得られればいいんだ。酷いミスのないテイクを、って言ったほうがいいかな。ディランのレコードには間違いがたくさんある。ミスなく出来た最初のテイクが「キープ」になる可能性が高い。無秩序な大グループだと、そういうものは得られないものさ。

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こんなにたくさんの人を集めたのはどんなアイデアがあってのことだと思いますか?

 問題はプロデューサーがいなかったことだ。ドン・デヴィートは名義はプロデューサーだったけど、現場をしっかり仕切るプロデューサーっていうよりは、レコード会社との橋渡し的な役割の奴だった。事実上、責任者は皆無で、それが問題だった。ボブも断固たる態度を取らなかった。そもそも、そういう性格じゃないからね。このプロデューサーは何でも勝手にやらせておいて、それで何かまとまればいいなあっていう感じだった。でも、そんなことして待ってても無駄だって、オレにはわかってたよ。こんなのは、ボブの曲に永遠の命を与える生産的な方法とは言えないからさ。その晩、録音したトラックで《Desire》に収録されたのは〈Romance In Durango〉だけだった。クラプトンが入ってる。このアルバムでクラプトンが入ってるのは、唯一、この曲だけだ。伝説のスタジオ・プレイヤーのヴィニー・ベルもいた。この曲は他の連中の殆どを帰宅させた後にやったものだ。この曲をレコーディングした後、その晩、残ってた人ともう1曲やったんだ。クラプトンとヴィニー・ベル、偉大なアコーディイオン・プレイヤーのドン・コーテスらがいた。



ドン・デヴィートは、アルバム用のセッションが進むにつれて、もっとプロデューサーの役割を果たすようになったのですか?

 いや。何が起こったのかというと、ドンはそれをオレに頼んできやがった。やるべきことをね。召集の電話を受けた時、ドンが電話の主で、「ボブがあなたにスタジオまで来て欲しいと言ってます」って言ってたんだけど、オレに来て欲しいと思ったのが本当にボブだったのか、ボブとドンの両方だったのか、どっちか片方なのか、今となってはわからない。当時もわからなかった。そこに着いたら、もう既にたくさん過ぎるくらいミュージシャンがいて、どの曲にもオレが入り込む余地なんてなかったんだ。あまりにカオス状態だったから、しゃしゃり出たいとは思わなかったな。事態を見て、参加はごめんて思ったよ。
 そしたら、ボブとドンから端のほうに呼ばれて----ふたり一緒にではなく、ひとりずつ----「この状態、どう思う?」って訊かれたんだ。中立の立場の奴の意見を聞きたかったんだと思う。この状況の外からやってきた人間、この種のレコードでプレイした経験のある奴のね。もちろん、ボブはバンドのバックが付いてるレコードをたくさん制作している。でも、理由が何であれ、オレは意見を求められたんで、新たに仕切り直すべきだっていう大胆な提案をして、「今夜のことは忘れよう。皆を帰らせ、明日の晩、小さなバンドと一緒にここに来よう。スタッフも最小限で。そしたら、うまくやれる」って言うと、「それじゃ、誰がいいと思う?」って訊くんで、「クラプトンはいいね。残ってもらおう」って答えた。実際、ボブとドンは殆どの連中を帰してしまったが、オレがエミルー・ハリスには続けてもらおうって提案したのは覚えている。エミルーはいい声だからさ。
 ということで、オレたちはもっと小所帯のスタッフと一緒にスタジオに戻った。事態はただちに良くなった。良い結果が出た。不朽の名作をものにしようと、既に2晩、頑張ってたわけだけど、オレの提案を受け入れるやいなや、アルバムの大半を1晩で録音してしまった。それでオレの株は上がったってわけさ。1晩でアルバムのだいたい全部、録音しちゃったんだから。いや、半分以上と言った方がいいかな。その後、もう1晩、スタジオに戻って、録音したマテリアルを聞いてみて、昨日の晩、夢を見てたわけじゃないことを確認したんだ。あの晩、大きな成果があった後、信じられないって感じだったからさ。
 さっき言ったように、最初にミスがなく出来たテイクが「キープ」なんだ。あの晩のそういう演奏がアルバムに収録された。オレが覚えてる限りでは、皆、初めて出来た完奏だ。必要なのはまさにそういうものなんだ。いくつかの曲は何度か通しで練習してから本番の演奏をしたんだけど、ドラムの音や、あの音、この音をいじる大作業は全くやってない。スタジオに入って、生のまま録音。録音の黎明期以来、ずっとそうやってきたように。オーバーダブとかをやるようになる前の時代にね。実際、1つの例外を除いて、あのレコードではオーバーダブは全くやってない。スタジオの中で完全にライヴで演奏したものだ。聞こえてくる音が、実際に起こったことだ。ボブ・ディランの音楽はそういうふうに聞くべきだ。成り行きのスナップショット、その瞬間のスナップショットなんだよ。
 
笑ってしまいます。20数年後のアルバム《Time Out Of Mind》に参加した人々にインタビューしたのですが、その時もスタジオにはたくさんのミュージシャンが集まっていて、ミスなく出来た最初のテイクが採用されることについて、あなたが言ってたのと同じようなことを話してました。ただし、彼らのルールは、どう演奏したらいいのかわからなかったら、つまり、それをしっかり把握出来てなかったら、全くプレイするな。それがアルバムに採用されるテイクになる可能性があるから、ってことでした。

 ああ。疑念がある時には離れてろって、その通りさ。しかし、小さなグループの時には、それをやってる余地はない。皆が参加しなきゃいけない。あらゆるダウンビートで何かを心して演奏しておいたほうがいいね。



何テイクも演奏しないとおっしゃってましたが、作業があまりに長引いてしまった時、ディランがフラストレーションをため込んだり、燃え尽きてしまうなんてことはありませんでしたか? 最初のほうのセッションでそんな様子を目撃したりはしませんでしたか?

 あの最初の晩に? 大グループでやった時に? ああ、もう悪夢だったよ。見ていてボブを気の毒に思ったよ。自分の力が及ばず、フラストレーションがたまってるようだった。デヴィートがボブの後ろ盾になって、この混乱の中で断固たる態度を取ってしっかり主導権を握ってなかったのも、気の毒に感じたよ。凄い連中が勢揃いだったので、あいつらはプロだし経験も豊富だから、そのうちまとまるはずさって思ってたんだろう。ところが、そうはいかない。どれほど有名か、どれほど優れたミュージシャンかなんて関係ない。良い結果を得たいなら、固守しなきゃいけない原理ってものがある。

翌晩、人数を減らしたバンドでスタジオに集まって、その1晩だけでアルバムの半分以上をレコーディングしてしまったんですよね。何かが違うぞって手応えを感じたのはいつの時点ですか?

 1曲目だ。ボブはこのアンサンブルでプレイしたことはなかったんで、全く新しいアイデアだった。ギターとハーモニカのボブ、ヴァイオリンのスカーレット・リヴェラ、オレと昔からやってるドラマーのハウイー・ワイアス、それからパーカッションを演奏する女の子がいた。名前はシーナ・サイデンバーグっていって、後にもっと経験豊富な男のパーカッショニスト、ルーサー・リックスを入れた。あの晩までは、ボブはドラマーと会ったこともなかった。
 最初、少人数のグループでやってみようっていう提案を試してみることにした時、ボブは「ドラマーは誰がいる?」って言った。そして、ボブは思いついた。「ナッシュヴィルからケニー・バトリーを呼ぼう」って。《Blonde On Blonde》をはじめ、向こうで作ったアルバムで、いい仕事をしてくれたからだ。ボブは直ちにケニー・バトリーに電話を入れたんだけど、ケニーには既に他のプロジェクトの先約があって、無理なことがわかった。それで、オレが言ったんだ。「オレと一緒に演奏してた奴、覚えてるだろう。そいつがオレのバンドで演奏してるの聞いてるはずだ。ハウイー・ワイアスって奴だ」 すると、ボブは「ああ、良さそうだね。そいつを入れよう」って言った。
 ボブはハウイーと演奏したことはなかったんだけど、あの晩、スタジオで初めて顔合わせをして、1曲目の作業をやってる時だった。初めてミスなしの完奏テイクが出来たんで、すぐにコントロール・ルームに行ってプレイバックを聞いた後、オレはボブからわきに連れていかれた。何を言われるんだろうと思い、「ヘイ、マ〜ン、お前んとこのドラマーさ〜…」って言われるのを半分覚悟してたら、ボブは「こいつ、いいよ。ドラマーは完璧だ。パーフェクトな音だ。これならうまく行く」って言い出した。提案が受け入れられて、満足の行く作業が出来て、オレはホッとした。1曲目から、こいつはうまく行きそうだってわかったよ。演奏を聞いててわかったよ。ボブも同じ意見だった時、オレは思った。これで決まったって。そうして、その後も作業を続けた。
 夜の7時から始めて、翌日の朝7時まで作業を続けた。調子がいいっていう自覚があったから、続けたんだ。ドラッグも酒も何もなかった。全員が純粋なアドレナリンだけで作業をしていた。《Desire》はテキーラ浸けで作ったレコードとかいうバカバカしい記事を見たことがあるけど、テキーラって言葉が出てくる歌があるんで、そう思っちゃったんだと思うよ。超シラフなセッションだったことは、オレが保証するよ。カフェインとアドレナリン、それから、当時は欠かせなかったニコチン以外は何もなかった。CMや映画のサントラを抜かしたら、これはオレが参加した最もシラフのセッションだった。
 その晩、オレたちはやり続けた。乗ってるって実感があった。魔法の呪文にかかってるような感じだったんで、止めたくはなかったんだ。それで、とにかくそのまま続けた。朝の7時に止めたたった1つの理由は、マンハッタンのあのストリートでは、その時間に車をレッカー移動してたからだ。オレたちは車を移動されたくなかったんで、作業は午前6:30にストップした。


ロブ・ストーナー、ルーサー・リックス近況


あなたはこうした曲の進化中の状態を聞いてるんですよね。ディランがヴィレッジのクラブで歌った時とかに。ディランはスタジオに来て、ミュージシャンたちにどういうふうに曲の説明をしていましたか?

 オレが働いてたテネシー州ナッシュヴィルでは、レコードを録音する時、何度か通し稽古をして、他のいかなる場所よりもさっさと曲を録音してしまう。ナッシュヴィルには数字を使ったシステムがあって、コードをコード名じゃなくて数字的に見てるんだ。オレは数字のシステムの使い方を知っている。コードのチャートを速記するようなものさ。ボブが歌い始めると、オレは一心不乱にメモを取り始めた。コード・チェンジを気にしなきゃいけないのはオレだけだった。ヴァイオリニストのスカーレットは全部の楽器の上で演奏していた。ボブがギターで弾いてるのと同じコード上にいる必要があるのはオレだけだったんで、ボブの手を観察して数字をメモし、同時に演奏もしていた。左手で演奏して、右手で数字を書いてたよ。ベースは片手でプレイすることが出来るんだ。たいていのベース・プレイヤーは左手だけで演奏することが出来るものなのさ。
 オレは左手で演奏して、右手でメモを取った。しっかりとした情報を得るためにね。もちろん、その間はずっとボブの手を見ていた。ボブがどのコードを弾いてるのかわかるだけでなく、次はどのコードに行くのかも予測出来るようになった。手の筋肉が弛んで、手の形が次のコードになり始めるのを観察してたからね。次にどのコードが来るかという視覚的観察と、どのコードがどのコードとスムーズに繋がるかっていうミュージシャンとして知ってた知識の両方を使って、曲がどんな「和音的ボキャブラリー」を持ってるのかを知ったわけさ。これはいわゆる「フェイク」だ。ミュージシャンはいつも「フェイク」をしていなきゃならない。オレたちがいつも使ってるんだけど、「フェイクブック」っていう本もあるくらいだ。これは曲の大まかな骨組みを演奏するためのもので、大きなミスをせずに演奏する程度には役に立つよ。
 オレがやろうとしてたのはそれだ。曲を覚えるのに時間を取って、進行を滞らせたくはなかったからね。ボブが演奏をスタートしたら、オレもスタートだ。 もう「スタンプ・ザ・バンド」(1990年代にゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツがやっていたお遊び。客に他のバンドの曲のタイトルを叫ばせて、それを即興で演奏する)だよ。少なくとも、オレにとっては「スタンプ・ザ・ベース・プレイヤー」だった。ドラマーはテンポを保つだけでいい。ヴァイオリニストは進行しているものの上に乗っかってプレイしている。スカーレットはとても優れた耳を持っていた。何度か一緒に仕事をしたことがある。オレたちは全員、フェイクしながら演奏をしていた。全員、この技が得意だった。ジャム・セッションの時にやるのがこれさ。聞いたことのない曲をジャムってるように演奏した。こんなことは何度もやったことがある。ミュージシャンがリハーサルをしてない状況でステージに上がり、楽譜も何もない場合、互いを見て、互いの音を聞きながら演奏する。そういう状況だったんだ。不慣れな曲に飛び入り参加って感じかな。しかも、それが功を奏したのさ。あぁ、足も見てたね。ビートの入り方を確かめるためにボブの足を見てた。

こういうふうにオールナイトでセッションをやるのは、あなたの経験ではよくやってたことなのですか? それとも、世間一般での「労働時間」にレコーディング・セッションをやるほうが慣れていたのですか?

 プロジェクト次第だよ。多くのロック・バンドは----人気のある大物グループのために働いてるなら----1週間くらいスタジオを予約して、何時にスタジオ入りしてもOKな状態にしておく。そういう日取りだと、夜通しのセッションなんてことがありうる。当時、オレがやってた仕事の殆どは----当時、存在してたバンドの殆どは----9時〜5時だったね。つまり、午前9時から午後5時まで。午後9時から午前5時までじゃなくてね。でも、多くのミュージシャンは、生活のリズムが夜の仕事用に合わさってるだろ。デューク・エリントンは夜通しのセッションが好きだったって読んだことがある。少なくとも、自分のプロジェクトを自分でコントロールする権限の持ち主はそうだ。レコード・レーベルの小物は、上の奴から言われた通りの時間にスタジオに行くまでさ。

レコードに参加してるミュージシャンについておかがいたいと思います。エミルー・ハリスがハーモニーを歌ってる時、ボブ・ディランとの相性はどうでしたか? エネルギーの生じ方とか環境とか。

 即興さ。歌詞もどんどん変わった。ジャック・レヴィもいた。歌詞は大きな黄色いリーガルパッドに鉛筆で書いてあった。テイクごとに歌詞が変わることもあった。ジャックはそこにいて、歌詞を書いていた。ブロードウェイ・ショウを作ってるようだった。常に歌詞やセリフをいじくり回し、ボブも常に歌詞をいじくり回していた。だから、エミルーはリハーサルなしでボブのフレージングについていかなきゃならなくて、少々ビクビクしてたよ。ボブのフレージングって特異だろ。ボブとハモるのは容易じゃない。
 エミルーは2晩しかいなかった。大混乱の晩にいて、小編成でやった晩にもいた。大きな成果を上げた晩にね。でも、他の仕事があったんで、その後はいなかった。だから、その時点で、オレがハーモニー・シンガー役を引き継いだ。《Desire》セッションで録音した〈Abandoned Love〉って曲があるだろ。どうして《Desire》に入らなかったのかは知らないんだけどさ。でも、ボックスセット《Biograph》に収録された時に、「エミルーはこの曲で好サポートしてる」って評を見たことがある。違う違う。それ、オレだよ。《Desire》のセッションだからエミルーだと思われてる節があるけど、違うんだよ。彼女はあの時点ではもう帰っちゃってて、オレがハーモニー・シンガーの仕事を引き継いだんだ。
 ボブと一緒に歌うのがどんなに大変かわかったのがその時だった。まず、未完のテイクでもない限り、リハーサルがない。未完のテイクが唯一のリハーサルだったりする。さっきも言ったように、初めて出来た完奏テイクがリリースするテイクになる可能性が高かった。完奏テイクをものにした後、「もう1度やって、もっと良い演奏にしようか」ってことになる時もあったけど、たいてい、前のほうのテイクがベストだった。でも、ハーモニー・シンガーにとって、最初のほうのテイクは、まだ自分のフレージングがボブと正確にマッチング出来てないっていう問題がある。アルバムを聞くと、完全にシンクロしてないことがわかる。音程に関しては、エミルーは素晴らしい。ピッチは正確なんだが、フレージングについてはボブに合わせようと努力奮闘してることがわかる。オレにはエミルーのやってることがわかる、その後で、オレも同じことをやってたから。〈Abandoned Love〉のレコーディングだけじゃない。ローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでもオレはスティーヴン・ソールズ、Tボーン・バーネットらとハーモニーを担当してた。そういう体験から、ボブとハモるのは難しいってことを知っている。ボブがしょっちゅう節回しを変えちゃうからさ。ボブのフレージングって超特殊で、韻律を壊してしまうんだよ。そうすることで、リズムの自由を得てるんだけどね。それに対処するベストな方法は、ボブの顔を見て、次にどういう言葉が出てくるのか予測することだ。だから、簡単じゃないんだよ。
 エミルーはグラム・パーソンズのところにいて、もっとコントロールされた、きちんと練習するような状況のほうに慣れていたんで、ボブのやり方には完全にビビッていた。あの晩のある時点で、「オー・マイ・ガーッ、とても難しいわ。もう1度やるチャンスをもらえないかしら」って言ってたよ。後になって、彼女はもう1度やるチャンスをもらえることになって、後日、オーバーダブしたんだけど、結局、オリジナル・テイクのほうが採用された。こっちのほうが雰囲気が優れていたからだ。
 アルバムを聞くと、エミルーが何を心配してたのかよくわかる。彼女の節回しはボブと完全には合ってない。歌詞が同時に始まり、同時に終わってない。でも、そこがいいんだよ! それこそ音楽ってやつだ。間違ってるんだけど力が漲{みなぎ}ってるだろ。オレもアルバムでいくつかミスを犯してる。自分で聞いたらわかる。ベーシスト以外は誰も気づかないかもしれないけど、正しくない音を弾いてる箇所が2つある。オレはテイクを止めず、演奏を続けた。ミスも人生の一部、音楽の一部だ。オレたちが目指してたのは音の真実であって、完璧であることじゃなかった。ミスをしてるのにパワーが漲ってる。オレたちはひとかどのものを持ってるってわかってた。他とは異なるとても重要なものを作ってるんだってわかってた。質の高い曲、ボブ・ディランとジャック・レヴィの努力の成果のおかげでさ。これはユニークな文芸作品だ。不朽のね。

スカーレット・リヴェラはいかがでしたか? 彼女の貢献がなかったら《Desire》は全く趣の異なるアルバムになっていたでしょう。スカーレットのヴァイオリンがこのレコードの看板だという意見もありますが、私が驚いているのは、彼女はそれまでレコーディングの経験があまりなかったということです。彼女はああいうスタジオの環境をどう感じていたと思いますか?

 そういう機会をもらえてとても喜んでたよ。そして、自分のアプローチが適切だったことにも満足していた。あの種の曲のためにはまさにピッタリだったし、しかも、ボブにとっても全く新しい楽器だったし。いつもは、ボブのレコードでリードを取るのはギターやキーボードといった従来の楽器なので、レコード全体にヴァイオリンを入れたことで、非常に独特なフィーリングが生じた。しかも、スカーレットのアプローチも素晴らしかった。ビブラートも素敵だ。ファンキーなロックンロールも出来る。オレには、スカーレットのバイオリンは、エレキギターをマーシャル・アンプに通してガンガン弾いてるように聞こえた。低いヴォリュームっていう点が違ってたけどね。オレの言いたいこと、わかるだろ。サステインがたくさん、ブルージーなフレーズ、たくさんのベンディング。まるでギタリストの演奏みたいで、ブルージーでとてもファンキーだ。たいていのヴァイオリニストはちょっと躾が良すぎるんだが、スカーレットは演奏にああいう鋭さがあった。今でも、それを持っている。クラシック音楽のテクニックも持っていて、状況に合わせることが出来た。そのおかげで、躾が良すぎるような演奏にはならなかった。そんな演奏だったら、ああいう場ではフォーマル過ぎてしまっただろうなあ。

レコーディングに関して、一番思い出に残ってるのはどの曲ですか?

 〈Abandoned Love〉だ。オレが歌ってるのに、クレジットされてない。ブートレッグ・シリーズの中でローリング・サンダー・ツアーを収録した《Live 1975》でも、オレのヴォーカル担当のクレジットがない。ブックレットでは「ロブ・ストーナー:ベース」って書いてあるだけだ。全部の曲で高い音程のハーモニーを歌ってるのにさ。シンガーとしてのオレの名前はレコード会社によって削除されてしまった。それがショービズってやつさ。

セッション最後の晩のついてうかがいたいと思います。〈Sara〉をレコーディングしたのはその時ですよね?

 再度スタジオに行った時だ。基本的には、今までに録音したテープを聞き直して、前の晩に起こったことが思い違いではないことを確かめようってことだった。それから、いくつか残ってる曲をやってみるという目的もあった。〈Abandoned Love〉はその晩にやったんだ。エミルーはいなかったから、ハーモニーをつける仕事はオレに割り当てられた。その晩、サラ・ディランもいた。ボブは彼女をバンドに紹介すると、「今夜はサラのために1曲やるから、みんなお行儀よくするように」って言った。素晴らしい瞬間だった。レコーディング・セッションていうのは、普段はプライベートなものではなくて、ミュージシャンは雇われた従業員のように扱われるものなんだけど、この時はオレがやり慣れてた環境よりも、少しプライベートな雰囲気だった。ボブが突然、オレたちに奥さんを紹介して、「さあ、最高の瞬間になるよ」って言ったんだ。

数カ月後に〈Hurricane〉のレコーディングをやり直さなければなりませんでしたよね。既に録音してあったオリジナル・バージョンの歌詞の一部が、法律的に問題ありそうだってことで。

 そうそう。だから、この曲だけちょっと違うよね。それを説明しようか。既に話した通り、《Desire》はリハーサルなしで、皆がフェイクしながら作ったアルバムだ。でも、〈Hurricane〉のレコーディングをやり直す頃には、既に、ローリング・サンダー・ツアーのリハーサルをやってたんで、それを中断して「ヘイ、コア・グループとリズム・セクションはコロムビア・スタジオに行って〈Hurricane〉をレコーディングし直すぞ」って通達があったんだ。この時点で、しばらく練習を重ねてたので、アルバムに収録されたバージョンの〈Hurricane〉はフェイクじゃないんだよ。つまり、オレたちは曲を覚えてたんだ。録音をやり直す頃には、ずっと練習し続けていて、曲を知ってたわけさ。アルバムの残りの曲は、録音する時点では知らず、フェイクで演奏していたんだ。
 町の向こうのSIRスタジオでリハーサルをして、既にバンドになってたってことが、〈Hurricane〉と残りの曲の違いだと思うね。核となってたバンドはハウイー・ワイアスとスカーレットとオレだ。それから、この時はパーカッショニストのルーサー・リックスにコンガを演奏してもらった。それで音がかなり豊かになったなあ。アルバム中でコンガとトラップドラムが入ってるのは、この曲だけだ。リズムに推進力を与えているよね。それから、ロニー・ブレイクリーとスティーヴン・ソールズも一緒だった。他にもバック・シンガーがいた。リズム・セクションもいつもより少し大きかった。しかも、オレたちはあらかじめ曲を知ってた。それが《Desire》の残りの曲と一番違う点だ。2つのレコーディングのうち、オレはもちろん、2番目のほう----発売されたほう----がいいと思う。レコーディングして以来、オリジナル・バージョンは聞いたことがないんだけど、記憶では、この曲は複雑だから、エミルーはボブとハモるのにとても苦労していた。他にもいくつか難点があったと思う。アルバムの中でも野心的な曲だった。オリジナル・レコーディングは全然洗練されてない。だから、やり直せて嬉しかったよ。やり直しを主導していたCBSの法務部もそうだろう。
 最初のバージョンが発売されてたとしても、優れた曲だったと思う。もちろん、ツアーでは全曲やり直す機会があった。あのツアーのレコーディングを聞けば、殆ど全曲、少しは練習を積んでる様子がわかる。でも、最初のレコーディングで決めるべき箇所は見事に決めてると思うよ。ライヴ盤《Rolling Thunder Revue》と《Desire》の曲を聞けば、基本的には同じことをやってるのがわかるだろう。本能的に、最初にこうするのがいいってわかったことをやり続けた。



ローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでは、あなたはバンド・リーダー役を務めていましたが、この仕事で最も大変だったのはどんなことですか?

 そうだなあ。一番大変だったのは管理する立場だったってことかな。音楽の仕事っていうのは名ばかりで、実際には…「ネコを集める」って比喩わかるかな? まさにそれなんだ。ひとところにじっとしてない、自由奔放で、パーティー好きの連中だったから、リハーサルをさせて、ショウに磨きをかけるのは大変だったよ。さっき話したスーパースターだらけの1回目の《Desire》セッションみたいな態度で、皆、「いいね。パーティーしようぜ」って感じだった。でも、それじゃダメだろ。演奏にはもっと良くなる余地があった。いつの日か、顕微鏡で調べられるようにオレたちの演奏は検証させる。つまり、演奏が全て世に出ることはわかっていた。一方、数千人の観客に向かって演奏している。だから、最高の演奏をしたいとオレは思ったんだ。それに、一部の奴がプロの心構えでやってないように、オレの目には見えたんだ。正確に言うと、皆、プロの心構えを持ってはいたんだけど、少し楽しくやり過ぎてたんだ。自分の部屋でテープを聞いて、気がついたことをメモを取り、いろんな人にそれを回した。「お前だったら、ここを、もっとうまく出来るはずだ」とか「ここを違ったふうに出来るはずだ」とか。
 オレがやってた唯一のリハーサルはサウンドチェック時にやっていた。実際、そうしているバンドは多い。だから、サウンドチェックの時に「こうしてみよう。ああしてみよう」って提案して、演奏をさらに磨き上げた。ツアー初期では、多くの曲がイントロもなければエンディングもない。ヴァースからコーラスに移るのも、その逆も、スムーズに出来てない。フックが外れてしまっている。皆が一度にあれこれ音を出していて、悪夢のようだった。音楽ディレクターとは名ばかりの奴の視点から見るとね。オレがそういう役をやることになったってことにも驚いたよ。だって、アレンジの知識もあって、こういうのに適役の人間が他にもたくさんいたからさ。ミック・ロンスンはデヴィッド・ボウイのためにそういうことをやってたんだろう。Tボーン・バーネットはレコード・プロデューサーとして、数多くのアーティストに対してそういうことをやってきた奴だ。デヴィッド・マンスフィールドも優れたミュージシャンで、バンド全体の中で一番優秀なプレイヤーだ。あいつだって、やろうと思えば出来ただろう。若かったから、トラブルを避けるために出しゃばらなかったんだろうが、デヴィッドはステージで最も多芸な奴だった。
 優れたプレイヤーが勢揃いして、皆がガンガン演奏してるわけさ。でも、重要なのは、誰も他人の楽しみを邪魔する奴、躾の厳しい奴にはなりたがらないってことさ。人気のない役割だからね。オレはベースを弾きながら、同時に指揮をしていて、ステージの向こう側にいる奴の注意を引くために手を振ったりしてた。
 オレは証拠に基づいて言ってるんだぜ。前半のギグと後半のギグのレコーディングを聞き比べてみると、オレのささやかな貢献を聞くことが出来る。後半のほうでは、皆が適当にジャカジャカやって終わるんじゃなくて、曲にエンディングがある。イントロがついている。後半の頃の曲になると、ある曲にはダイナミクスが生じて、3番目のヴァースに向かうのにコントラストを生じさせているなんてことがある。
 このツアーの前半のショウを聞いて、後半のショウと比べてみると、明らかに向上してることがわかる。ツアーが進むにつれて、オレがリハーサルをやるぞと言っても、無駄なことが多かった。リハーサルをやるぞと呼びかけるのは、猫を一カ所に集めるようなことだった。ある者は乗馬に行ってしまってる。別の奴は酒を飲んで大騒ぎをしてる。ここいる奴は二日酔いだ。こんな調子だったので、数名を集めることが出来ただけでも御の字だったよ。その場にいなかった奴等には、メモを渡したんだ。毎晩、皆がパーティーをやってる時に、オレは何をやってたと思う? 自分の部屋でその晩のボード・テープを聞いて、次のショウではどこを引き締めなければいけないか、メモを取ってたんだよ。誰かがバンドリーダー役をやらなきゃいけない。悲しいけど事実さ。


このインタビューは2016年頃に行なわれたもので、現在執筆中で、いつかは完成予定の本『Rolling: In The Studio With Bob Dylan』からの抜粋である。


The original article "Wrong But Strong: Rob Stoner on the making of Bob Dylan's Desire" by Damien Love
https://damienlove.com/writing/wrong-but-strong-rob-stoner-on-the-making-of-bob-dylans-desire/?fbclid=IwAR2-x_dP9ip3ZogkijcPcqYMMmQTJYxYgbaT4P1h4L4cFBFzgQ712m9mvKcof-bob-dylans-desire/?fbclid=IwAR2-x_dP9ip3ZogkijcPcqYMMmQTJYxYgbaT4P1h4L4cFBFzgQ712m9mvKcgQ712m9mvKc
Reprinted by permission


  
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2019年06月08日

ジョージ・ハリスンとグレアム・ナッシュもその場にいた《Phil Spector’s Christmas Album》フォト・セッション

 今頃、この記事を紹介するのはタイミングをはずした感がパないですが、今年のクリスマス・シーズンが来たらもう1度読んでください。
 フィル・スペクターがプロデュースしたクリスマス・ソングを集めた《A Christmas Gift For You From Phil Spector》は1963年のクリスマス・シーズン用に発売されたレコードですが、フィルが《Let It Be》やジョン、ジョージのソロ作をプロデュースしたのが縁で、1972年にはアップル・レーベルから再発されることになりました。その際、タイトルは《Phil Spector’s Christmas Album》となり、新しいジャケットも制作されました。今日、紹介するのは写真家が語るそのフォト・セッション秘話です。
 《Phil Spector’s Christmas Album》はビートルズのメンバーが参加してないのに、アップル・レーベルということで中古盤屋では高値が付いていた記憶がありますが、少し前に(といっても、21世紀になったかならないかの頃)どこかの倉庫からデッドストックが大量に発掘され、それが中古市場に出回って値段は暴落。私はこのタイミングで、未使用状態のイギリス盤を2,000円前後で手に入れました。


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ジョージ・ハリスンとグレアム・ナッシュもその場にいた《Phil Spector’s Christmas Album》フォト・セッション(1972年)

文:クライヴ・アロウスミス



 聞き慣れたリヴァプール訛の楽しそうな声が受話器から聞こえてきた。「クライヴ、フィル・スペクターの《Christmas Album》のジャケット写真をキミに撮ってもらいたいんだ」 聞き慣れた声の主はジョージ・ハリスンだった。もちろん、喜んで承諾した。クリスマス・ツリーを背景にフィルの写真を撮影してもらいたいとのことだった。ジョージとフィルが親しくなったのはビートルマニア全盛の頃だ。その頃はフィルも「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる音楽プロダクションで有名だった。

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 2人の才能豊かな伝説の音楽家と仕事が出来るのは本当にありがたいことだと、私は感じていた。撮影はロンドンのスタジオで行なわれた。ジョージとフィルは一緒に到着し、フィルは少しなよなよふらふらしているようだったが、ジョージにドレッシング・ルームに連れて行かれて、そこで、スタイリストにサンタクロースの衣装を着せてもらった。その間、ジョージは隅に座って、数珠を持ちながらハリー・クリシュナのお経を唱えていた。

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 撮影セットには、クリスマスの飾り、クリスマス・ツリー、カラフルな照明、さまざまな神像等、ありとあらゆるクレイジーなものが用意されていた(写真をよく見てただきたい)。私は星がキラキラ輝いてるような効果を出すフィルターを使って、さらにクレイジーなキッチュ感を出そうと考えた。サンタクロースの格好をしたフィルの写真を他にも何枚か撮影した。その時、私はブランデーのボトルを手離せなかった。ジョージとフィルと一緒に仕事をしているということで、超緊張していたからだ。ジョージとは知り合いだ。大好きな人物だ。しかし、ジョージは今でもなお、元ビートルズのジョージ・ハリスンなのだ。私は最初の20分は大丈夫だったのだが、そのうち心を落ち着かせてくれるものが必要となってきた。
 私はセット作りと照明の調整で忙しかった。それに夢中になっていた私は、ミスター・スペクターの体調がすぐれていないことにあまり気づいていなかったのだが、実は、サンタクロースの衣装を着るだけでも相当苦労していたようなのだ。私はマルチカラーのクリスマスの照明をフィルムに収めたかったので、それがフラッシュライトで帳消しにされてしまわないようなやりかたで撮影する必要があった。フラッシュを使うとなると、これには絶妙なタイミングを要する。フィルはプロデュースの巨匠なので、写真撮影の技術的側面も十分理解してくれるだろうとは思っていた。実際、私は技術面の会話をすることで、自分とフィルの間の緊張がいくらか解{ほぐ}れるのを期待していたのだ。
 私の助手たちがフィルを支えながらセットに連れて来て、木の前に立たせた。この時、フィルの体調が少々レイドバックしているどころの話ではないのに私は気づいていなかったのだが、知らぬが仏とはまさにこのことだった。私は「フィル、メインライトのフラッシュが炊かれてから、(半分暗い状態で)私が10秒数えます。そうすると、キラキラ状態をフィルムに収めることが出来るんです」と指示を出した。シナリオ通りだ。フィルも「ああ」と言ったので、全てが順調だと思っていた。

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 照明が消えて、私は数を数え始めた。「千、2千…」 口から「3」という言葉が出かかったまさにその瞬間、バタンと派手な音がした。超恐ろしいことに、フィルが前に倒れたのだ。極めて不思議なのだが、手を前に出して身をかばおうともせず、人形のように顔からバタンと倒れていた。薄暗い中、私はフィルのそばに駆け寄った。ジョージも私のすぐ後ろにいた。私はスタジオの床の上にあるフィルの顔の横に自分の顔を置いて、様子をうかがった。その間、アシスタントがスタジオのメインライトをつけた。目の前の光景は奇っ怪を超越していた。「フィル!!!大丈夫??」と私は叫んだ。意味深長な一時停止以上の時間が経った後、彼の目はゆっくりと開き、口はこう言った。「大丈夫だ」 しかし、彼の不明瞭なしゃべり方のせいで、この言葉は子犬のワルツのように聞こえた。
 フィルが続けようと言ったので、ジョージと私は笑い始めた。この笑いは、フィルの言葉からよりも、私の側の安堵から出た割合ほうが多かったに違いない。フィルは誰かの支えなしに立っていることが難しいようだったので、私のアシスタントが床に厚板を打ち付けて、さらに、それに箒を打ち付けて、ブラシのほうにフィルが寄りかかれるようにして体を支えた。私は試行錯誤の後、どうにかジャケット写真をものにした。このとてもキッチュなアルバム・ジャケットに使われた写真をだ。
 後日、私がこの撮影のことを、当時の愛妻、ローズマリーに話すと(彼女はクリスマスツリーやセットを整えるのを手伝ってくれた)、彼女は私にこんなことを思い出させてくれた。私が撮影中の殆どの時間、(真偽のほどは不明なのだが)ミック・ジャガーが被っていたという白いトップハットを被っていたというのだ。それは写真の中ではフィルの後ろにあるのだが、ジョージがこの帽子を持って来て、持って帰った。それから、私は撮影中、妻のおしゃべりの相手をあのグレアム・ナッシュにお願いしていたらしい。フィルが倒れたという恐ろしい出来事のおかげで記憶が全部吹き飛んでしまったため、私はこのことは覚えていないのだが…。
 フィルの人生がこの後、下降線をたどっていったことについては悲しみを感じ、彼の手にかかって命を失った若い女性の家族に対しても哀悼の意を表する。フィルの人生が順風満帆でない兆候は1972年にもあった。名声は酷いやり方で世界を歪めてしまう。人間は簡単に傲慢の中に捕まってしまう。私は酒とドラッグをやめて、あの時代に死なないで済んだ自分をラッキーだと思う。ジョージ・ハリスンへの感謝の気持ちは小さくはない。その日、ジョージがお経を唱えているのに気づいた私は、「それはオレの助けにもなるのかなあ?」と訊いてみた(その時、私はかなり酔っぱらっていて、正常な判断が出来る状態ではなかった)。すると「もちろんだよ、クライヴ」という言葉が返ってきた。翌日には、ジョージのアシスタントが、お祈り用の数珠と宝石がちりばめられたバガヴァッド・ギーターの本、そして、「Hareはハリーと読んでください」という手書きのメモを持って、拙宅の玄関先に現れた。これがきっかけとなって、私は精神的インスピレーションを求めて東洋に目を向けるようになった。
 その点で、私はジョージから多大な恩を受けている。チベット仏教を信仰し、 キョングラ・ラト・リンポチェ師と出会うことにつながる道を歩むことになったのも、ジョージのおかげだ。ジョージはとても心の広い人物だった。あの時は、私とフィルを手助けしようと頑張ってくれた。ソーホーのスタジオでジョージとフィルと過ごしたあの奇妙な日が、私の人生を良い方向に変えた。ジョージに神の祝福があらんことを。そして、私からは永遠の感謝の気持ちを贈りたい。

The original article “Back To Mono – The Phil Spector Christmas Album photo session with George Harrison and Graham Nash (1972)” by Clive Arrowsmith
https://clivearrowsmith.org/2018/12/24/back-to-mono-the-phil-spector-christmas-album-photo-session-with-george-harrison-and-graham-nash-1972/
Reprinted by permission

  
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2019年06月02日

ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦

 今週の金曜日(6/7)からラケーシュ・チョーラシアの日本ツアーが始まります。ラケーシュは、ビートルズの〈The Inner Light〉でインドの横笛(バーンスリー)を演奏しているハリプラサド・チョーラシアの甥で、彼もバーンスリーの演奏家です。公演の日程やチケット等はこのWebページを参照してください:

https://www.flute-rakesh-japan2019.com/

 今日はインドとビートルズに関連した記事を紹介します。


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ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦
文:アヌ・クマル


 ジョージ・ハリスンのシタール熱が最高潮に達したのは、1966年6月にラヴィ・シャンカールと会った時だった。ビートルズのメンバーとシタール奏者との会見は、ロンドンのヘムステッドにあるアヤナ・デヴァ&パトリシア・アンガディ宅で実現した。カルナータカ州ベルガウム地区出身のアヤナと妻パトリシア(旧姓フェル=クラーク)は、1946年にエイジアン・ミュージック・サークル(以下AMC)を設立し、自宅をその事務所としていた。ここは元はパトリシアの実家だったのだが、20年以上に渡って、AMCはインド出身のミュージシャンが集まる拠点として機能しており、インド人音楽家が西洋(まずは主にイギリス)に紹介され、演奏する機会を得たのは、AMCの尽力のおかげだった。
 アンガディ夫妻が世話をしたアーティストには、ラヴィ・シャンカールの他に、アリ・アクバル・カーン、ヴィラヤット・カーン、アラ・ラカ、チャトゥール・ラルらがおり、バイオリニストのユーディ・メニューインや作曲家のベンジャミン・ブリテン、バレエ・ダンサーのベリル・グレイといった大物アーティストがAMCにかかわっていたおかげで、この組織は立派な社会的地位と信用を得て、活動範囲も広まった。

ロンドンのインド人

 アヤナ・デヴァ・アンガディはカルナータカ州北部のジャカヌール村出身で、ロンドンには1924年にやって来た。一説によると、彼がイギリスにやって来たのは、インドの公務員試験の受験準備のためだったという。しかし、レイ・ニューマン著『Abracadabra: The Complete Story of the Beatles' Revolver』にも引用されている息子シャンカラの発言によると、アンガディがロンドンに来たのは「数学の学位を取るため」だったらしい。彼はボンベイ大学では数学を学ぶ学生だった。
 しかし、アンガディは急進的左翼のグループと関わり始め、まずはトロツキストになり、次にCLR・ジェイムズの革命的社会主義者同盟に参加した。1930年代〜1940年代前半の反共産主義のヒステリアの中では、アンガディはラジ・ハンサというペンネームを使って理想のための論考を執筆した。CLR・ジェイムズによると、スターリンを支持していなかったラジ・ハンサは「モスクワ裁判」----政敵を粛清するためにスターリンが利用した裁判とは名ばかりの茶番劇----の話題を無理矢理取り上げさせるために、グレート・ブリテン共産党の集会やもっと真剣度の高い左翼集会を混乱させたことで有名だった。
 1993年にアンガディが死去した際にマスコミに掲載された死亡記事には、故人の人生に関するもっと詳しい情報が載っていた。『オブザーヴァー』紙に掲載されたレジナルド・マッシーによる記事は、アンガディーが別のペンネームも持っていたことを明らかにしている。彼はジャヤ・デヴァという名前で政論に関する本を出しており、第2次世界大戦中、日本が枢軸国の1つとして優勢だった1943年には『Japan's Kampf』という本を出版した。左翼系出版人ヴィクター・ゴランズによって出版されたこの本を、アンガディは1939年に出会った女性、パトリシア・フェル=クラークに捧げている。ふたりは彼女の両親に反対を押し切って1943年に結婚した。

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ラジカルな夫婦

 パトリシア・フェル=クラークはアヤナ・アンガディより10歳年下だった。1913年生まれの彼女は、幼少の頃は自宅で家庭教師がつき、少し大きくなったら私立学校に通い、そして最後はヨーロッパのフィニッシング・スクール[良家の子女が社交界にデビューするための仕上げ教育をする私立学校]に行くという、イギリスの上流階級のやり方で教育を受けていた。彼女は極めて才能のあるアーティストであり、エイジアン・ミュージック・サークルの設立メンバーとなった他に、後には小説を書いたり、学校で演劇や音楽を教えたりもした。
 政治活動に熱心だったアンガディは殆ど定職に就くことはなく、階級や人種も異なっていたため、フェル=クラークの家族からは気に入ってもらえなかった。ふたりが結婚した時には、彼女の親族からは、昔の子供時代の家庭教師以外は誰も式に出席しなかった。
 ふたりがエイジアン・ミュージック・サークルを自宅で開始したのはその3年後だった。フェル=クラークの家族もその頃にはふたりの結婚を認めており、屋敷の最上階を彼らの居住空間、兼、AMCの本部として使い、ここから次の25年間、彼らは人生の次のミッションを展開した。ヨガの導師{グル}BK・アイアンガーは、AMCの後援で、その裏庭で初めてのセッションを行なっている。
 ジョージ・ハリスンがAMCとのコネを作ったのは1965年のことだった。映画『Help!』の撮影中(公開は1965年)に初めてシタールに遭遇したジョージは、レイ・ニューマンの本によると、ロンドンのインド雑貨の店で比較的安価なシタールを購入し、それを使ってアルバム《Rubber Soul》に入っているレノンの曲〈Norwegian Wood〉のために簡単なフレーズを弾いた。
 逸話によると、アビイ・ロード・スタジオでこの曲をレコーディングしている時に弦の1本が切れてしまい、直す必要が生じたらしい。そして、次に何が起こったのかについては2通りの話が存在する。インド大使館に問い合わせたところ、AMCが弦の交換に関して力になってくれるかもと教えてくれた、というのが1つ目の話だ。一方、ニューマンの本では、サークルに問い合わせてみるようアドバイスを与えたのはプロデューサーのジョージ・マーティンとなっている。彼は以前、ピーター・セラーズの《Goodness Gracious Me》のレコーディング・セッション用に、AMCとアンガディに助けを求めたことがあった。

友情を育む

 ハリスンはAMCから必要な援助をしてもらい、間もなく、そこの常連になった。アンガディ夫妻はアビイ・ロードで行なわれているビートルズのレコーディング・セッションに招待され、パトリシア・アンガディはそこでハリスンとレノンをスケッチしたと言われている。アンガディ夫妻がハリスンとパティー・ボイドと一緒に写っている写真は、これが唯一のものである。下の写真にあるように、パトリシアは自宅でパティーとジョージの絵を描いた。

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 1965年夏、大成功に終わった全米ツアーの際に、ハリスンとビートルズの他のメンバーはザ・バーズのデヴィッド・クロスビーとロジャー・マッギンからラヴィ・シャンカールの音楽を紹介されていた。ちょうどこの頃、ロサンゼルスでは、ドン・エリスとハリ・ハル・ラオがヒンドゥスターニ・ジャズ・セクステットのメンバーとして演奏活動を開始していたが、エリスとハリスンが会った可能性は低い。しかし、後になってシャンカールとハリスンの間で育まれたコラボレーションを、エリスはよく知る者となる。ハリスンとシャンカールが1974年にカリフォルニアを訪れた直後に、エリスはハリスンに記念すべきインタビューを行なっている。



 そして、ビートルズがアメリカから帰国してしばらく経った後の1966年6月に、遂にその時がやって来た。アンガディ宅でのディナーにハリスンがポール・マッカートニーと一緒にやって来た時、ラヴィ・シャンカールも特別ゲストとしてそこに居合わせていたのだ。ジョージとラヴィの初対面は、その後、大きな伝説にまでなった友情の始まりとなった。実際にジョージにシタールを教えたのは別のシタール奏者だった(時の経過で名前はわからなくなってしまった)と考える音楽史研究家も多いのだが、ジョージがヒンドゥー教や瞑想、そして、その後のアルバムでのシタールの導入など、さまざまなインド的モチーフを実験的に用いたのは、シャンカールとの交遊関係のたまものである。

時代の終焉

 ハリスンの興味をよく反映している曲は、ヒンドゥスターニ古典音楽のリズムでシタールで演奏されている〈Love You To〉であり、エイジアン・ミュージック・サークルのアニル・バグワットがタブラで伴奏を務め、アルバムにもクレジットされている。AMCのミュージシャンが再び参加しているのは、1967年に発表されたアルバム《Sgt. Peppers' Lonely Hearts Club Band》に収録されているハリスン作の〈Within You, Without You〉だ。インドの楽器を演奏しているミュージシャンはクレジットされておらず、誰が参加しているのかはずっと不明のままだったが、2017年6月にリヴァプール大学の研究者によって遂に突きとめられた。マイク・ジョーンズ博士によると、故アンナ・ジョシと故アムリット・ガジャールがディルルバ、ブッダデヴ・カンサラがタンプーラ、ナトワール・ソニがタブラを演奏しているとのことだ。最後のふたりは80代で存命だ。
 アヤナ・アンガディが1970年前半に故郷の町、ジャカヌールに帰ると、間もなく、AMCは解散してしまった。レジナルド・マッシー著『Azaadi: Stories and Histories of the Indian Subcontinent After Independence』によると、アンガディはこの町で地方開発プロジェクトに取り組み、1993年にこの地で没している。
 一方、パトリシア・アンガディは4人の子供とともにロンドンにとどまった。彼女は小説家としての新しい人生を見つけ、70歳の時に処女作『The Governess』を書き、1987年発表の『The Highly Flavoured Ladies』(1987年)は高い評価を得た。時間的には100年の隔たりがあるが同じ家で暮らした2つの家族を描いたこの小説は、パトリシア・アンガディが自宅で送っていた共同生活を彷彿させる。その後すぐに発表された『The Done Thing』は半自伝的なものだった。生まれながらにして昔風の、心を押し殺した無口な少女が、インド人らしき登場人物と恋に落ち、結婚20年目にして本当の自分を見つけて解放されるという話だ。
 『Playing for Real』(1991年発表)等のパトリシア・アンガディの小説は「大部分は鋭い筆致でよく書けているが、感傷的な話も多数含まれている」という評判だ。彼女は2001年に亡くなった。彼女の回想録は未発表のままだが、エイジアン・ミュージック・サークルに関連した話がたくさん含まれているに違いない。

The original article "George Harrison Ravi Shankar Asian Music Circle Music Beatles History" by Anu Kumar
https://scroll.in/magazine/881709/how-an-indian-man-and-his-english-wife-introduced-george-harrison-to-ravi-shankar-to-create-history?fbclid=IwAR0t0j6iB6-CoUcGisFfEJdGCpkcBb4BXpB9UJEtMLgq72xrWFBgGBsCdN8
Reprinted by permission

  
posted by Saved at 11:12| Comment(0) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする