2017年11月23日

ユニオン・カレッジ教授が尼僧に助けてもらってボブ・ディランを隠し撮り

 《Trouble No More》の発売を機に、些細なんだけど面白い事実の証言が世に出てきて、楽しい今日この頃です。

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ユニオン・カレッジ教授が尼僧に助けてもらってボブ・ディランを隠し撮り
文:マイケル・ホシャナデル(ザ・デイリー・ガゼット)


 ウェスト・ソーガティーズ生まれ(後にニューヨーク州ニスカユナ----オルバニーの近く----に転居)の写真家、ユニオン・カレッジ教授のマーティン・ベンジャミンは、ボブ・ディランとは昔から接点があった。
 ベンジャミンは、10代だった頃に、当時ウッドストックで暮らしていたディランが郵便局に入っていくのを目撃した。彼はスターを一目見ようと、回れ右をして郵便局の中に戻った。ディランが1980年4月にザ・パレスで2回公演を行なった時、ベンジャミンもそこにいた。ディランはショウの撮影を禁止していたが、ベンジャミンにはカーロッタ・デュアーテという友人がいた。ボストン出身の写真家でカトリック教会の尼僧をやっている彼女に、機材を持ち込みを手伝ってもらったのだ。彼はディランがギターを高く掲げ、天を指しているショットをものにした。(ディランは同年夏にリリースのアルバム《Saved》に収録されたキリスト教の歌を歌っており、多くの尼僧や牧師は無料で会場に入ることが出来た)
 初日の晩の後、ベンジャミンはフィルムを現像し、紙に焼いた。彼はバンドメンバー(その後、ディランが密かに結婚することになる女性シンガーも含む)がディランと同じフレームに入ってる写真を丁寧に撮影していた。2晩目のショウの後、ベンジャミンはプリントした写真を持って、ディランのバンドが宿泊していると聞いていたベスト・ウェスタン・ホテルに行った。彼はバーでバンドメンバーに、ディランと一緒に写っているステージ写真をプレゼントした。
 ベンジャミンが望んでいた通り、ひとりのバンドメンバーが彼を脇に連れていき、ディランがステイト・ストリートのウェリントン・ホテル(今はもうない)に泊まっていることをこっそり教えてくれた。彼が急いでウェリントンに行って、ロビーで張り込んでいると、午前3時頃、ディランとボディーガードがエレベーターから出てきてロビーに出てきた。ディランが通りかかった時、ベンジャミンはカメラを持ち上げて、写真を撮らせてくれとお願いした。頭が振り向いた。
 ディランは言った。「どうしてオレの写真が欲しいんだい?」
 ベンジャミンははっきり言った。「昨日と今日、2回ショウを見て、素晴らしかったからです」
 すると、ディランは立ち止まった。「気に入ってくれたのかい?」 ふたりはウェスト・ソーガティーズについて話し、ベンジャミンは天を指してるショットの大判プリントをディランにプレゼントした。この写真はソニーからリリースされた《Trouble No More / Bootleg Series #13》でも使われた。11月3日にリリースされたこのアルバムには1979年〜1981年のディランの音楽が収録されている。

The original article "The night a Union professor secretly photographed Bob Dylan" by Michael Hochanadel/For The Daily Gazette
https://dailygazette.com/article/2017/11/16/the-night-a-union-professor-secretly-photographed-bob-dylan-and-later-met-him


   
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2017年11月11日

ディラン・ファンの間ではお馴染みのユダヤ系論客2人が語るゴスペル・ディラン

こちらでは過去にこんな記事を取り上げているお二方の見解を紹介します。

セス・ロゴヴォイ
・ポール・マッカートニーの(秘)ユダヤ系人脈史
http://heartofmine.seesaa.net/article/426311411.html
・セス・ロゴヴォイ著『Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet』書評
http://heartofmine.seesaa.net/article/188176677.html

ハロルド・レピドゥス
・キャロライン・へスター 1992年ボブフェストを振り返る
http://heartofmine.seesaa.net/article/186841127.html
・ハーヴィー・マンデル グラミー2011を語る
http://heartofmine.seesaa.net/article/187202945.html
・1992年1〜2月頃のレコーディング活動に関する新データか?
http://heartofmine.seesaa.net/article/218955075.html
・ディラン、マイルス、ジミヘンと共演したミュージシャン、ハーヴィー・ブルックス・インタビュー
http://heartofmine.seesaa.net/article/383104123.html
・ロジャー・マッギン来日直前インタビュー
http://heartofmine.seesaa.net/article/420629716.html





ボブ・ディランはキリスト教時代の時がベストだったのか?
文:セス・ロゴヴォイ(『Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet』の著者)

 私は先日、バークシャーズ・サマー・キャンプの同窓会に出席した。私は1970年代にキッチンで働いていたのだが、旧友との再会の場では「ボブ・ディランがボーンアゲイン・クリスチャンになった時、キミがどんなにガッカリしてたか、よく覚えてるよ」と複数の人間から言われた。
 1978年の初夏の頃に、ディランがキリスト教に改宗したらしいと報じられた時、私は朝礼でステージの上に立って、もう金輪際ディランの曲は歌わないと宣言したのだ。キッチン・キャビンにいたルームメイトたちにも、ディランのアルバムをかけることを禁止した。私は確かにガッカリした。会うのが40年振りの人でさえ、その日のことを覚えているくらいにだ。
 1979年8月に、ディランの「ゴスペル3部作」の1枚目《Slow Train Coming》が出た時、私はどうしたらいいのかわからなかった。その頃までは、私はディランのアルバムは全部持っていて、新譜が出る時には列の1番目の並んでいた。9月のある時、私は譲歩した。ディランが作ったアルバムがどんなものなのか聞きたいという好奇心、及び、聞かなきゃという義務感から、遂に買ったのだ。初めてレコード盤をターンテーブルの上に置いた時、私は恐ろしさのあまり身震いした。まるで、禁を破ったら、その途端に雷に打たれるかのごとく。ジャケット・イラスト----汽車がこっちに来る、男がふるうツルハシが十字架に似ている----にすら私はビビった。しかし、曲が進むとディランはこう歌った。「悪魔かもしれないし、主かもしれない。でも、人は誰かに仕えなきゃいけない」って。いいじゃないか!
 素晴らしいレコードだった。最も優れた音質のアルバムだったかもしれない。ジェリー・ウェクスラーとバリー・ベケットという真のプロフェッショナルなR&Bメンがプロデュースしたアルバムだ。曲はファンキーかつロックしている。ソウルフルなホーンセクション、セクシーなキーボード、レゲエのビート…曲によってはブルージーなバックシンガーも入っている。ディランの歌にも熱がこもっている。曲の殆どは、新たに発見した信仰、聖書(パート1も含む)、メシヤ信仰、愛など、さまざまなものを歌っている。ある女性への愛ともとれるし、神への愛とも取れるが…。ジャケットの十字架と、アルバムの最後に置かれた曲〈When He Returns〉を除いて、イエス・キリストにストレートに言及している箇所は殆どない。
 翌年夏にリリースされた《Saved》は違っていた。このアルバムにはれっきとしたゴスペル曲が満載で、誰のことを歌っているのかははっきりとしていたが、それでもラヴソングもいくつかあった。その中の1つ、〈Covenant Woman〉には好奇心をそそるフレーズがあった:「オレはいつもお前のそばにいるよ。契約書も持ってるし」 まるで、自分もキリストと契約を結んでる人間なんだが、違う契約なんだと、語り手が女性に言っているかのようだ。ユダヤ教徒がキリスト教徒に言いそうなことだ。
 《Slow Train》がリリースされた後、ディランはツアーに出た。マスコミに注目されやすい大マーケットは避け、普通なら飛ばしてしまうような州の小さな会場で、好意的な耳にしか届かないであろう新曲ばかりを演奏した。ツアーは最初の都市、サンフランシスコでの連続公演からして、波乱含みだった。ディランは次のツアーからは態度を軟化して、徐々に、過去のアルバムに収録されていた昔の名曲を混ぜていき、ツアー終盤にはゴスペル期以前のマテリアルのほうにバランスは傾いていた。
 こうした賛否両論を巻き起こしたコンサートの記録は、今の今まで、オフィシャル筋からは殆ど発表されなかったが、今月、コロムビア・レコードはこれまでのほったらかしの方針をあらため、《Trouble No More:The Bootleg Series Vol.13 / 1979-1981》をリリースする。パッケージは数種類あるが、コンプリート・バージョンではCD8枚+DVD1枚に100トラックの未発表ライヴ/スタジオ・レコーディング(そのうち、14曲は未発表曲)を収録している。コンサート・レコーディングは特に聞く価値がある。ディランが抱えていた最高のツアー・バンドをフィーチャーし、ディラン本人のヴォーカルも熱い。このボックスセットと、タイミングぴったりにリリースされるクリントン・ヘイリン著『Trouble in Mind: Bob Dylan's Gospel Years What Really Happened』によって、ゴスペル期が音楽及びその他の面で再評価される機会となるだろう。
 ヘイリンの本は、タイトルが示す通り、ディランがヴィンヤード・フェローシップの聖書教室に3カ月間通ったことから始まって、レコーディング・セッションやその後のツアーで紆余曲折があったことを物語ったもので、ディランをロックンロールによる伝道へと駆り立てた宗教体験の産物として「何が起こったか」を描くことを意図したものだ。ディランはコンサートではよく宣教師のように説教し、間もなく到来するであろうこの世の終末の時に救済から取り残されぬよう、観客や仲間のミュージシャンに考え(と行動)を改めるよう戒告することも多かった。
 ヘイリンによると、こうした説教の多くのダイレクトなネタ元は、人気のあるクリスチャン作家、ハル・リンゼイがあの頃に出版した本であるらしい。リンゼイが著書『The Late, Great Planet Earth』『Satan Is Alive and Well on Planet Earth』において展開しているのが、イスラエル建国と冷戦を、この世の終わりが近いという予言の成就のしるしと見なす、キリスト教の中でも極端な部類の終末論なのだ。ディランは自分の言葉を述べるというよりはむしろ、リンゼイの文句をそのまましゃべっている場合が多かった。
 非意識的にだと思うのだが、ヘイリンは、ボブ・ディランの宣教師化には他所からの影響もあるという証拠を挙げている。その1つが女性である。つまり、アフリカ系アメリカ人のバックシンガーたちだ(彼女のうちのひとりが、短期間ではあったが、ディランの2番目の妻となった)。さらに重要なことには、ヘイリンはイギリス人ジャーナリストの以下の発言を引用している:「私は、ボブの「改宗」が精神的探求の一環であると考えました。彼はユダヤ人というルーツを既にチェックアウトしていたのです。ただ、私が全然理解することが出来なかったのは、キリスト教がボブの精神的探求のもう1つの段階だったということではなく、コカインで脳味噌の腐ってる連中用の日曜学校みたいなものによってボブが「改宗」したという点です」 私がディランの親友の詩人、アレン・ギンズバーグをインタビューした時、彼が主に語ったのは、ディランが抱くにいたった新しい世界観についてではなく、ディランがいかに健康になったかということだった。つまり、ドラッグをやめて心身が健康になったというのだ。
 ディランが歌の中で、そして、ステージ上で、キリスト教というブランケットを身につけるのも素早かったが、それを脱ぎ捨てるのも素早かった。しかし、予言者的な傾向や神学的熟考はその後も残った。特に、1983年に出したアルバム《Infidels》ではその雰囲気が色濃い。〈I and I〉ではモーゼを彷彿させ、〈Neighborhood Bully〉ではイスラエルを想起する。1989年の《Oh Mercy》では、〈Everything Is Broken〉をはじめ、さまざな曲の中でカバラ的テーマを探求している。ゴスペル期後の35年間においても、ディランはコンサートで時々、ゴスペル期の曲を1つ、2つ取り上げるが、50余年のキャリアのさまざまな時点で作られた曲と違和感なく歌われている。遅くとも1962年には出来ていた〈A Hard Rain's a-Gonna Fall〉から、2006年の〈The Levee's Gonna Break〉に至るまで、ディランの歌はずっと、この世の終末を警告し続けてきたからだ。ディランは今日においても伝道活動を継続し、ネヴァー・エンディング・ツアーにおいて毎晩、古代的な意味での予言を行なっている。ヘイリンは1981年のギンズバーグの言葉を引用している:「ディランは文明において起こってること、自分が予言者になってることに対する恐怖のようなものに反応して、それをとても真剣に受け取っているんだよ」 
 読者諸兄姉も同意見だろうか?

Seth Rogovoy is a contributing editor at the Forward and is the author of 『Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet』(Scribner, 2009).

The original article "Was Bob Dylan At His Best When He Was Christian?" by Seth Rogovoy
http://forward.com/culture/music/386298/was-bob-dylan-at-his-best-when-he-was-christian/
Reprinted by permission

  






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2017年11月08日

Rolling Stone誌のサイトでポール死亡説

 基本的な説を並べているだけで、特に新しい情報はありません。動画は英語のリスニングの練習になります。



http://www.rollingstone.com/music/videos/paul-mccartney-musics-most-wtf-conspiracy-theories-explained-w511027?utm_source=rsnewsletter&utm_medium=email&utm_content=daily&utm_campaign=110617_16

 こっちの方が断然詳しいです。
 
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2017年11月02日

今話題のブッチャー・カバー・オークション

 ジョンとポールとリンゴのサインが入ったブッチャー・カバーのオークションが話題になってます。日本の音楽系ウェブサイトでも話題になり始めました。

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ビートルズ、ジョン・レノンが所有していたブッチャー・カヴァーのステレオ盤が競売に
https://nme-jp.com/news/45699/

 このレコードをデイヴ・モレルが少年時代にジョンからもらった話は『Horse Doggin'』に詳しく書いてあります。何と、海賊盤《Yellow Matter Custard》と交換したようなものだったのだとか。この直後と思しき時に、ジョンが《Yellow Matter Custard》に入ってるものをデッカ・オーディション・テープだと思い、ポールに驚きのメッセージを送っていることは、『The John Lennon Letters』で明らかになりました。「ポール、リンダ、その他の皆さん、これはデッカ・オーディションだ!! テープじゃなくて、海賊盤を見つけたんだ:こいつら、イカしたグループだったよな。なのに、これを不合格にするなんて! 愛を込めて、ジョン+ヨーコ」と書いてあります。今回のブッチャー・カバーはそういう因縁のあるレコードです。

  

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 話題の人物となっているデイヴについては、拙ブログではこんな形で紹介しています:

ファンを相手にデマを流したモーリス・ギブ
http://heartofmine.seesaa.net/article/451326012.html

 拙宅にあるブッチャー・カバー(無価値)の話もついでにどうぞ:
http://heartofmine.seesaa.net/article/225010430.html

  
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2017年10月30日

《Shot Of Love》制作秘話

 《Trouble No More》の発売まであと1週間ですが、拙ブログの記事「予習(3)」でも書いた通り、ブートレッグ・シリーズの第13集ではゴスペル期の「ライヴ」に主眼が置かれており、《Shot Of Love》の「レコーディング・セッション」に関しては手薄となっているようです。出回る音源がいくつか増えることは確実ですが、全貌がわかるにはほど遠いでしょう(それに興味のある人がどのくらい存在するのかという問題もある)。ということで、今回はこの件に関しては、このアルバムに参加したミュージシャンやプロデューサー、計3名の証言を聞きながら、将来、素敵な回顧リリースがあることを期待したいと思います。





《Shot Of Love》制作秘話

文:ダミアン・ラヴ


 1981年8月にリリースされた《Shot Of Love》は、ボブ・ディランのキャリアの中で最も顧みられていないアルバムの1つであるが、その第1の理由は、いわゆる「ゴスペル期」の作品だからということであろう。1979年の《Slow Train Coming》、1980年の《Saved》とのセットで構成される「キリスト教3部作」の最後のアルバムとして、条件反射的に後回しにされてしまうのだ。
 1985年にリリースされたレトロスペクティヴなボックスセット《Biograph》のブックレットで、ディランはこのアルバムについてこう語っている:「評論家連中はイエスがああだこうだ言ってたね。まるで、メソディスト派のレコードみたいな感じでさ」
 確かに、評論家受けは悪かった。ポール・ネルソンはローリング・ストーン誌のアルバム評で「うっとうしい。敵意と混乱とエゴイズムだらけだ」と書き、ニック・ケントもNME誌において自分の気持ちを遠慮なく述べている:「ディラン史上最低のアルバムだ」 
 しかし、《Shot Of Love》の立ち位置は前2作からは少し離れている。精神的探求やゴスペルへの傾斜は相変わらずだが、激しいブルース、ロックンロール、使い古された昔のシンプルなポップ・ミュージックへの信仰が、それと同じスペースを共有しているのだ。現に、タイトル・トラックをプロデュースしたのは、1950年代のリトル・リチャードの伝説的シングルや、サム・クックの神々しいナンバー〈You Send Me〉を制作したことで知られているベテラン・プロデューサー、ロバート・「バンプス」・ブラックウェルだ。PJ・ハーヴィーからエルヴィス・コステロまでの熱狂的信者が言うように、《Shot Of Love》は再検討する価値のあるアルバムである。1つには、〈Every Grain Of Sand〉や〈Angelina〉(レコーディングされたがアルバムには使われず、最終的に《The Bootleg Series Vol.1-3》に収録された)のような曲において、特に曲をたくさん書いていた時期のディランの真骨頂が聞けるからだ。また、〈Groom's Still Waiting At The Altar〉(アルバム用にレコーディングされたが、オリジナル・プレスには未収録)といった曲では、1966年以来、しばらくレコードでは聞けなかったようなノリで激しく演奏しているという点も魅力である。3つ目の理由はサウンドである。ディランの最高傑作アルバムの特徴となっている、いい加減なミックスの、暖かみのある、生のフィーリングを有しているのだ。次にディランがスタジオでこのサウンドを実現するのは、世紀の変わり目まではない。
 「あのレコードには1940年代か50年代になら作ることが出来たかもしれないサウンドがあった」とディラン本人は発言しているが、今回は、レコーディングで中心的な役割を果たした3人のプレイヤーに、ディランとの仕事について、アルバムのメイキングについて思い出を語ってもらった。

人物紹介

チャック・プロトキン:《Shot Of Love》ではディランとともにアルバムの共同プロデューサーを務めた。長らくブルース・スプリングスティーンのアルバムをプロデュースしていたことで有名。

フレッド・タケット:1979〜1981年の「ゴスペル」期にディランのバンドでギターを演奏。《Saved》《Shot Of Love》に参加。現在はリトル・フィートのギタリスト。

ベンモント・テンチ:トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズのキーボード・プレイヤー。《Shot Of Love》や《Empire Burlesque》のレコーディング・セッションでプレイし、1986〜87年にはライヴでもディランのバックを務める。2002年には再びディランとレコーディングする機会があり、〈'Cross The Green Mountain〉で荘重なオルガンをプレイ。



ベンモント・テンチ:オレがディランと初めて演奏したのは、《Shot Of Love》のセッションが始まる少し前だった。ディランは〈Caribbean Wind〉っていう曲をレコーディングしようとしていた。《Shot Of Love》として世に出るアルバムの作業を開始したばかりだったんじゃないかな。でも、この曲はアルバムには収録されず、後になって出た[《Biograph》に収録]。最初のセッションではジミー・アイオヴィンがプロデューサーだったんだけど、ジミーはボブと仲違いしちゃったようなんだ。ジミーは完成前に去ってしまった。何があったのかは知らないんだけどさ。



フレッド・タケット:アイオヴィンがアルバムの完成前に仕事を降りちゃった理由を知ってるかって? ああ、知ってるよ。ハリー・ニルソンとも同じことが起こってるんだよ。ハリーはオレの親友だったんだけど、ボブと似てる点があるんだ。つまり、自然なサウンドが欲しかったんだ。ハリーがスタジオで曲を書いている時に、18人くらいのミュージシャンと一緒にジミーが入って来て、「OK。ハリー、キミはここに座ってくれるかな。Aチームのサウンドを作ろう。ミュージシャン全員を別々に録音させてくれ。被りのない、いい音を録りたい」って言った。すると、ハリーは電話を取って、警備員に「こいつをオレのスタジオからつまみ出せ」って言ってたよ。ボブもそういう奴だった。
 ボブは、昔のR&Bやカントリーのレコードがレコーディングされた、古い、ビンテージなスタジオを探してたよ。ロサンゼルスのゴールド・スターとかさ。オレたちもそこでレコーディングをした。フィル・スペクターのレコードとか、歴史的なレコードの多くがここで作られた。ボブは常にそういう機材、古いマイク、ビンテージのスタジオを探していた。ということで、オレたちはリチャード・ペリーが所有しているスタジオ55にやって来た。そこは今でこそ、トップの機材、最新技術の機材が揃っているロスのナンバー・ワン・スタジオになっちゃってるけど、昔は古いスタジオだったんだ。バンドがまずそこに到着すると、ジミー・アイオヴィンがいて、彼が最初にやったのは、オレたちを別々のブースに入れることだった。当時はそれがスタンダードだったんだけどね。アコースティック・ギターは全部、ドラムから完全に離しておいた。他の楽器の音が入り込まず、とてもクリーンな音が得られるようにさ。オレは小さなブースの中に隔離されて、マンドリンを弾いていた。そのようにして〈Caribbean Wind〉に取り組んでいた。そういえば、オレはいつも、この曲を〈Mandolins In The Wind〉って呼んでたんだよなあ…。とにかく、ボブはまだ到着してなかったんだけど、この曲をレコーディングしたんだ。素晴らしい音質で、超クリーンで、ナンバー・ワンの音、Aチームの音、トップのレコーディングだった。
 すると、ボブがやって来て、後ろのほうに立ってスタジオを眺めながら、録音したばかりのトラックのプレイバックを聞いていた。その瞬間、誰かがボブに「ヘイ、ボブ、ここはビング・クロスビーが1940年代に〈White Christmas〉を録音したとこなんだぜ」って言ったら、ボブはいつも世話を焼いてくれているアシスタントのほうを向いて「〈White Christmas〉の楽譜を持ってきてくれないか。このスタジオじゃオレの音楽はレコーディング出来ないから」って言った。そして叫んだ。「フレッド、どこにいるんだい?」って。オレが「こっちにいるよ。後ろの小さな部屋でマンドリンを持ってる」って答えると、ボブは「エレキ・ギターを持って、こっちに出てこいよ」って言った。ボブは皆に声をかけ、次に、仕切を全部壊して全員をひと所に集めた。オレにスティーヴ・リプリー、ジム・ケルトナーとドラム、ベースのティム[・ドラモンド]が、アンプも一緒に1つのスペースに入って、急ごしらえでセットアップして、いつも通りのことをやり始めた。つまり、いろんな曲を演奏し始めたのさ。ボブが演奏を始めたので、オレたちも加わった。プレイして、プレイして、プレイした。〈Groom's Still Waiting At The Altar〉を演奏してる時に、ふと上のコントロール・ルームを見ると、ジミー・アイオヴィンと彼お抱えのエンジニアの姿は消えていた。セカンド・エンジニアだけがそこに残って、レコーディングをこなしていた。狂乱状態だったよ。



チャック・プロトキン:《Shot Of Love》に共同プロデューサーとして関与することになったのは、デヴィッド・ゲフィンに紹介してもらえたからだと思う。あいつとボブは友達で、ボブはレコードを作るのを手伝ってくれる奴を探してたんだ。ボブは超早いペースでマテリアルがたまってきてるので、そろそろもう1枚レコードを作る時だって感じたんじゃないかな。前に一緒に仕事をしたことのない人から助力を得たかったんだ。ということで、デヴィッドがオレの名前を出してくれたわけさ。
 笑ったなあ。わけがわからなかったよ。電話が2回来たんだ。オレが持ってたのはハリウッドのちっぽけなスタジオで、ささやかな事務所が上の階にあった。そこに留守電のメッセージが残ってたんだよ。ボブだけど、ってさ。オレはボブと会ったこともなかったから、連絡をもらうなんて全くの想定外さ。友人の誰かがオレを騙そうとしてるのかと思ったよ。だから、折り返しの電話をかけなかったんだ。そしたら、遂に3度目の電話がかかってきた。今度は誰かがボブの代理で電話をしてきた。オレはボブの大ファンだ。ボブはオレのヒーローだ。ボブがオレに電話で連絡を取りたがってるんだと考えただけで、オレは緊張したよ。受話器を抱えて、ダイヤルを回しながら、オレは考えた。誰かが電話に出たら、オレは何て話したらいいんだろう、って。「ボブはいるかい?」でいいのかな? 「ミスター・ディランはいらっしゃいますか?」なんて話し方はオレには無理だ。滑稽だ。「ボブ・ディランさんはいますか?」って言おうかな。もっとダメだ。オレは正しい言い方がみつからなかった。ということで、遂に誰かが電話に出た時に、オレはこう言ってみた。「ボブはいる…かな?」 そしたら、電話に出た女の人が、電話での正しいしゃべり方を見つけられなかった罰みたいな感じで、「どっちのボブかしら?」って言った。どうやら、ボブのいるところには繋がったらしい。ボブはツアー用の機材を保管するための倉庫スペースを持っていて、そこにはある程度のレコーディングが出来るリハーサル・スペースもあった。実際に、そこにはボブって名前の人が何人かいた。それで、オレは必要に迫られて言った。「えっと…ボブ・ディランさんです」と。とにかく、ボブは電話に出た。しかも、超思いやりのある人物だった。どういう意味かというと、自分から突然、電話を受けた人がどんな感じになるのかを理解していたんだ。ボブのほうから会話をしやすくしてくれた。ボブは「レコードを作る準備が整い始めてきてるんだ。キミはオレの作品を知ってる?」と訊いてきたんだけど、オレはボブの作品に超精通してたとはいえ、それを過剰にアピールしたくはなかったので、ただ「イエス」と答えた。そしたら、ボブが「それならさあ、こっちに来て、オレが今やってることを聞いてくれないかなあ」って言うので、オレが「いいですよ。いつがいいですか?」と訊くと、「今はどう?」って言い、所在地を教えてくれたので、オレは自動車でリハーサル場所に行った。既にバンドのメンバーの一部も集めてあった。後でわかったことなんだけど、ボブはプロデューサー候補者の面接みたいなことをやってたんだ。いろんな名前が載ってるリストがあった。いろんな人がやって来て、少しリハーサルを聞いて、少し話をしていた。そのうち、ボブは何をどうしたらベストかわかったようだ。実際、オレが行った最初の日にはバンプス・ブラックウェルがいて、〈Shot Of Love〉のリハーサルをやっていた。レコードに収録されたのは、この時のバージョンだ。これはボブのリハーサル・スペースで録音されたものなんだ。バンプスはそこに立って、ボブとバンドを指揮して、ドラマチックなストップを作っていた。その時は、こいつが誰だかわからなかった。名前は知ってたよ。「バンプス」・ブラックウェルが何者なのかも知ってたよ。でも、会ったことがなかったんで、あいつがその人だとはわからなかったんだ。オレはリハーサル・スペースに行って、そういう状況の中に足を踏み入れたのさ。でも、バンプスはちょっと寄っただけだったと思う。アルバム全体をプロデュースしてもらうために、ボブが面接してる人物じゃなかったと思う。ボブがどういうふうに意志決定をしてるのかは、オレにはわからないし、どういう理由でオレをいいと判断したのかもわからない。でも、オレたちは仲良くなった。ウマが合った。オレはボブが気に入り、とても気軽に会話をすることが出来た。一緒にいて心地よかった。ジミー[・アイオヴィン]と何があったかは知らないけどさ。ボブは実験をしてたんだ。会いに行く前の電話でオレに話してくれたことの1つが、「オレの作品を知ってるなら、オレがレコード作りがそんなに上手じゃないことはわかってるよな。レコード作りはオレにとって根本的なことじゃないし」みたいなことだった。ボブの出したレコードのいくつかはオレの大好きなレコードなので、それがどういう意味なのか殆どわかってなかったんだけどさ。

Chuck Plotkin (left), Jon Landau and Jimmy Iovine (right).jpg

[左から:プロトキン、スプリングスティーン、
ジョン・ランドウ、ジミー・アイオヴィン]


ベンモント・テンチ:ディランは《Shot Of Love》ではやりたいことの焦点が定まっていたようだった。オレから見て、曲のあるべき姿を模索してるような様子はなかったなあ。ディランは自分の頭の中に存在していることを正確にわかってるようで、オレたちの側でも、ディランが求めてることを理解するのに苦労してる感じはなかった。オレたちは全ての曲をスタジオ・ライヴで録音した。素晴らしかったなあ。バック・シンガーは本当に歌ったり、パーカッションを演奏したりしていた。さっさとやっちゃったね。パァーッと。

チャック・プロトキン:大人になってからの人生の多くをレコード作りに費やしてきた人間として、面白いことの1つは、レコードを制作している際に、何が問題なのかを見い出すことなんだ。つまり、この状況の中で、何か自分の仕事なのかってことさ。《Shot Of Love》でオレがやった最も重要なことといったら、自分はコントロール・ルームにいる必要がないって判断したことだ。そんなことしても意味はないと思って、コントロール・ルームにいるのをやめたんだよ。[エンジニアの]トビー・スコットとは仲が良くて、ツーカーの関係だったから、オレがコントロール・ルームにいてあれこれ指示を出す必要なんてなかったよ。ボブはレコーディングの最中、ヘッドホンを着けたがらなかった。そんな事態はあの時が初めてだ。別のやり方を考えなきゃって思ったよ。プロセスのコントロールし過ぎを避けたいのなら、何らかのエネルギーが発生する可能性をしっかり温存する方法を考えなきゃならない。誰もヘッドホンを着けなくてもいいように、スタジオ内でのミニ・サウンドシステムみたいなものを準備する必要があった。これは大きなチャレンジだったよ。ということで、オレはバンドと一緒にスタジオにいたんだ。ある日、ボブはずっとギターを弾いてたんだけど、突然、ピアノのほうに行って演奏を始めた。ピアノの音はマイクで拾うようになってたんだけど、そこにはヴォーカル・マイクはなかったんだ。ボブはピアノを弾かなかったから、そういうセットアップしはしてなかったんだよ。オレはわかったよ。こいつはしっかり7テイクをやり通そうなんて全然考えてないんだって。7テイクなんて忘れちまおう。ボブが正しく歌えたら、それが完成テイクなんだ。ボブはアーティストだが、レコーディング・アーティストじゃない。それはボブの本分じゃない。だから、ピアノを弾き始めた時、オレはそれを止めたくはなかった。演奏を始めたってことは、何かを演奏してるってことだ。オレにはそれが何だかわからないけどね。ボブはオレが聞いたことのない曲を演奏している。何が起こるかわからないのがボブだ。ということで、オレは、ボブがギターを弾きながら歌ってた場所に立ってるスタンドからマイクを抜いて、自分がマイクスタンドになったんだ。文字通り、オレがマイクを握って、ボブの邪魔にならず、心地よく歌えるポジションを探したのさ。演奏が続くだけの時間、オレはどうにか腕を伸ばしていることが出来た。この歌こそ〈Every Grain Of Sand〉だ。オレはそこに立って、初めてこの曲を聞いたんだ。圧倒されたよ。超名曲の1つだと思うね。ボブの横でマイクスタンドになりながら、初耳のこの歌をまさに聞いてたんだぜ。レコードに収録されたのはこのバージョンだ。「プロデューサーとしてあなたはどんなことをやるのですか?」ってよく質問されるんだけど、オレの回答はこうだ:「時にはマイク・スタンドにもなる。プロセス中で生じるエネルギーを失わない方法を見いだす努力をする」 



フレッド・タケット:ああ。チャックはオレたちと一緒にスタジオのほうにいることが多かったね。コントロール・ルームにいるよりも楽しかったみたいだ。しかも、いつもドラムを演奏したがった。ある晩、リンゴ・スターがいたんだよ。もちろん、ジム[・ケルトナー]もいた。優秀なドラマーがふたりも揃ってたんだ。なのに、オレがスタジオに入ると、チャックがリンゴのドラムを叩いてるんだぜ。〈Heart Of Mine〉て曲の時だ。「どうしてチャック・プロトキンがリンゴのドラムを叩いてるんだよ? リンゴがプレイしたくて、そこにいるってうのに」って思ったのを覚えてるよ。



チャック・プロトキン:その経緯を説明するのは不可能に近い。この曲は既に1バージョンを録音してあったんだ。1バージョン以上録音するのは非常に稀だったんだけど、最初のバージョンはテンポが間違っていて、良く出来たトラックと感じられるようなもんじゃなかった。一方、ボブがレコーディングをしていることを知った人全員が、電話をかけてきていた。リンゴからも電話が来た。「あのさあ、オレも今、こっちにいるんだよね。スタジオに寄りたいなあ。何かをプレイしたいよ」って。ボブからそう告げられたので、オレは「凄いね。了解」って言うと、その日のプランを練って、その通り実行した。当日には、ロニー・ウッドもやって来た。忘れられないよ。オレは当時、30代で、こうした人たちとは全く会ったことがなかったんだ。ハリウッドの小さなスタジオじゃ、凄いことなんて起こらない。が、突然、オレのスタジオにボブ・ディランにビートルズにローリング・ストーンズが揃って、この曲を演奏してるんだぜ。あのセッションにはドナルド・「ファック」・ダンもいたなあ。
 とにかく、〈Heart Of Mine〉は是非とも完成する必要のある曲だった。シングルにぴったりの曲だったからだ。それに、リンゴもいる。ジム・ケルトナーもだ。ジムはチームのレギュラー・メンバーだ。ボブのドラマーだ。華々しいメンツとしか言いようがない。オレたち全員、スタジオの中ですし詰め状態になっていた。でも、何らかの理由で、ぴったりのテンポ、ぴったりのグルーヴが見つからなかったんで、休憩を取ることにして、いったん解散となった。上の階にちょっとした休憩場所があって、皆、トイレに行ったり、軽い食事をパクついたりしてたんで、オレはスタジオでひとり、リンゴ用のセットに座ってたんだ。レンタルのドラムだったんだけどね。ぴったりのグルーヴをみつけようとしてたのさ。オレはドラマーじゃないし、自分のセットも持ってない。オレの楽器じゃない。それでも、ドラムを叩きながら、テンポを見つけようとしてたんだ。その時、リンゴが戻って来て言った。「それだよ、それ。そのフィーリング」って。リンゴに席を譲るために立ち上がり始めたら、「ノー、ノー、ノー。立ち上がるな。止めるな。そこにいて、続けろ」って言うんだよ。オレはどう返答したらいい? 私はドラムを演奏したことはないんですなんて、今さら言えるかい? で、リンゴが言ったんだよ。「そのまま座って、ハイハットとスネアとキックを演奏してよ。オレはタムとシンバルをプレイするから」って。それで、リンゴは別の椅子を持ってきて、ふたりで一緒に1つのドラム・キットを叩いていると、皆がスタジオに戻ってきた。ケルトナーが座ると、誰かが「1-2-3」てカウントして、演奏が始まった。このレコーディングを聞くとわかるよ。超荒削りな演奏だって」

ベンモント・テンチ:このセッションでは、皆、超集中してたよ。アレンジか何か関して急な変更はなかったと思う。自然とそうなっていった。かなり夜遅くにレコーディングしていた。12時、もしくは、それをはるかに過ぎてたこともあった。
 〈Watered Down Love〉にはベースが入ってない。どうしてかというと、1日の作業を終えて、ベース・プレイヤーのティム・ドラモンドを含む皆が、荷物をまとめて帰っちゃったんだけど、2、3人がその後もしばらく残ってたんだ。その後、夜遅くに、スタジオに戻って、ベースなしでこの曲を録音して、そのバージョンがアルバムに入ってる。

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[右端がテンチ]


チャック・プロトキン:レコードには少々荒削りな曲がいくつかある。レコード全体がそうだ。具体的に言うと、ミキシングだ。レコードとしてリリースされたミックスがだ。あれは全部、毎晩の終了時に出来ていたモニター・ミックスなんだよ。1曲レコーディングする。気に入ったトラックが出来る。ラフなモニター・ミックスを急いで作る。皆が聞いてるのはそれだ。オレはちゃんとしたミックスのレコードを作ろうとしたんだぜ。エンジニアのトビーと一緒に、ちょっとレベルを調整したりして、もっとよく聞こえるように、巧みな処理を施そうとしたんだよ。でも、そうした完成ミックスを作ってボブに聞かせるたびに、「ノー、ノー、ノー。別のミックスのほうがいいな。ずっと聞いてたやつだ」って言う。レコードになったのは、結局、それなんだ。ラフ・ミックスには不思議な魅力があった。ボブにはそれを実現することの出来るセンスがあったんだ。

ベンモント・テンチ:《Shot Of Love》でのチャック・プロトキンのプロダクションはとてもナチュラルで現実的だ。このレコードが価値を失わないのは、いかなるトレンドも追ってないからだと思う。ミュージシャンとシンガーが優れた歌を一緒に演奏しているサウンドそのものだ。1980年代の後半はレコード・プロダクションが全てっていう時代だった。《Empire Burlesque》は、オレも参加した作品なんだけど、音的には当時の「今風」の後を追ってるみたいだろ。オレの好みとしては、1980年代に流行してたサウンドはホラー・ショウだ。だから、《Empire Burlesque》のああいう色は、曲に正しい色合いをつけてない。素晴らしい曲があったのにさ。オレにとってのボブの物語は、何をやっていようが、どんな時期であろうが、あくまで曲なんだよな。



チャック・プロトキン:《Slow Train》の曲〈Gotta Serve Somebody〉を初めて聞いた時のことを覚えてるよ。ラジオで聞いた時、素晴らしいって思ったよ。確かに宗教臭かったけど、オレがこの曲をボブの名曲だと受け取るのに、それは邪魔にはならなかった。バンドに誰がいるのかをチェックしたら、マッスル・ショールズで作ったものだとわかった。ああ、あいつらか。優れたミュージシャンと訓練の行き届いた人間の集団だ。ボブは素晴らしい環境を見つけたな。あそこなら仕事を任せられる信頼できる人ばかりだ。オレはそう思ったよ。でも、その後、《Shot Of Love》の時にボブと少し話したんだ。《Slow Train》は素晴らしいアルバムだと思うよって言ったら、ボブは「作ってて落ち着かなかったなあ。そこに行って最初にやらされたのは、連中のために全曲じっくり演奏することだった。全曲聞きたかったんだとさ」って言った。こんなこと言ってるのがボブ・ディランじゃなかったら、「無理な要求じゃないよ。当然、全曲聞きたいはずさ」って思うだろう。でも、ボブが相手じゃ、そんな意見はパスだ。レコードで最も大切なのは、ボブが今ここで頭脳の奥の方で書いてるものになるかどうかってことだろ。ボブは部屋の中で誰かのために全曲歌いたいと思うような人間じゃない。横柄っていうのとは違う。ボブが創造性を発揮し続けるためにどういう援助が出来るか、しっかり認識するのが大切なんだよ。その結果の1つが、〈Every Grain Of Sand〉が出くるボブの口元にマイクを突きつけながら立ってたことさ。

ベンモント・テンチ:ディランと演奏をともにしたあらゆる機会のうち、その経験をいちばん集約してるのが《Shot Of Love》だ。特に、〈Every Grain Of Sand〉を皆に披露した瞬間だ。ボブは最初はピアノを弾いてて、レコーディングの時はハーモニカを吹いていた。オレはボブとバック・シンガーのごく近くにいた。そういうセットアップだったからね。ボブがハーモニカ・ソロをプレイするのを観察してたんだ。ボブの演奏を見るのは、なぜだかわからないんだけど、感動的なんだよな。

フレッド・タケット:この時期の一番思い出深い瞬間は、〈Every Grain Of Sand〉をレコーディングした時だ。ボブとオレだけだった。皆はどこかに行って、各自何かやっていた。いっぱい作業をやった後、休憩を取ったんだ。その日はチャックもジムもリンゴもいたんだけど、皆は昼食か何かを食べに出かけてしまっていて、スタジオの中にはオレとボブのふたりしかいなくなってしまった。そしたら、ボブがピアノを弾きながら〈Every Grain Of Sand〉を歌い始めたんだ。オレはアコースティック・ギターを弾いていた。このレコーディングは上出来だった。〈Groom's Still Waiting At The Altar〉も上出来だったなあ。なかなかロックしてたし。

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[フレッド・タケット]


チャック・プロトキン:〈Groom's Still Waiting〉はアルバムが最初に出た時のオリジナル・バージョンには入らなかったんだよな。レコードに何を入れて何を入れないか決める時、このトラックには何か気にくわない点があったんだ。ちょっとうまくいってない箇所がね。それが何だかオレも考えてみたんだけど、唯一思いついたのがテンポだ。レコーディングの時、テンポが少し遅かったかなあ。フィーリングはバッチリなんだけど、テンポが遅いんだ。ボブのようなアーティストは、当然、技術を使って手を加えることにとても懐疑的だ。でも、どこかの時点で、シングルB面には使えるんじゃないかなあってことになったんで、オレは何度かテープを再生して、スピードアップして雰囲気を壊さないレベルを見つけた。1981年当時、ピッチを変えずにスピードアップ出来る機材が、やっと手に入り始めた。それより4、5年前だったら出来なかっただろう。ボブはツアーに出ていたんで、コンサートの時にボブを捕まえた。〈Groom's Still Waiting〉の少しスピードアップしたバージョンを持って行ったんだ。同じ演奏なんだけど少しスピードアップしてあって、テンポの遅さに引きずられちゃう元のバージョンとはちょっと雰囲気が違うから、感情に対するインパクトがあるんだ。最初のバージョンを聞いた時には、「遅過ぎるから、スピードを早くする作業をやらせてよ」なんて言えなかった。うまくいかないよって言われるのがオチだからさ。でも、ツアー先で新バージョンを聞くと、ボブは気に入ってくれて、シングルB面として世に出た。そして、アルバムがCDとしてリイシューされる時には、このトラックも収録されたんだ。素晴らしいトラックに仕上がったのに、アルバムには入れるスペースがなかったものもある。〈Groom's Still Waiting〉はぎりぎりのところでボツ。〈Angelina〉もいい曲だった。プロデューサーとして、曲を収録してもらえるよう戦う時もある。喧嘩を売らなきゃいけないこともある。でも問題は、作品を作るのにオレが助けになってるとアーティストに感じてもらえることで、オレの仕事は成り立ってるってことだ。しかし同時に、「だめだ。もっと良くなる余地がある」とか「いや、こっちのほうを使うべきだ」って言うために雇われてもいる。ボブとはある特定の曲をめぐって戦ったって記憶はないけど、オレはスプリングスティーンとは、25年、一緒に仕事をやってきただろ。「また別の勇敢な兵士が名誉の戦死」って心の中で思ったことが何度もあったよ。よくあることさ。曲が第一なんだから、時には曲のために主張してやらなきゃ。でも、出しゃばりすぎると信頼関係が壊れてしまう。オレはブルースとはいろんな曲で戦ったよ。

ベンモント・テンチ:《Shot Of Love》は見過ごされてるアルバムだと思う。「キリスト教3部作」っていうレッテルを張られちゃってるからかもね。残念ながら、原理主義の連中はキリスト教の評判を落とすようなことをやってきてるから、多くの人はちょっとでも宗教臭いものには見向きもしない。原理主義の連中は皆に嫌な後味を残してる。でも、スピリチュアルな意味を探求している名曲は、なかったことには出来ない。ミルトンの『失楽園』は歴史から削除出来るかい? 《Shot Of Love》には〈Every Grain Of Sand〉があるだろ。なかったことには出来ないよ。〈Trouble〉も名曲だ。あのレコードではボブは本当にいい曲を書いてると思う。

フレッド・タケット:《Slow Train》《Saved》《Shot Of Love》の3枚とも優れたレコードだ。ボブに訊いたら、気に入ってると言うと思うよ。いい曲だらけだろ。でも、宗教関係ってことで、皆から毛嫌いされちゃったんだ。オレにはそのロジックは理解出来ないよ。でも、楽しかったなあ。オレたちは任務を負っていた。ボブには明確なヴィジョンがあった。ああいう音楽をやりたいっていうね。だから、バンドのメンバーは歴史的な何かに参加してるように感じてたよ。マイリー・サイラスの最新レコードか何かをやってるのとは違ってた。そんじょそこらのレコードに参加してるんじゃない。大切なことをやってそうだと感じることをやってたんだ。優れた音楽、ポジティヴな意識があった。音楽界の優れたアーティストは皆、世俗的な音楽をやる時もあれば、宗教的な音楽をやる時もある。オレは、こうした音楽をやる機会に恵まれたのは、自分の音楽人生の中の1つの業績だと感じている。ボブ・ディランと活動をともにしたあの3年間で経験したことは全部、オレにはとても大切なものだ。素晴らしいミュージシャンとプレイしていて、その一瞬一瞬の全てが楽しかった。移動がきつかったり、ホテルが粗末だった時もあるけど、全体験が超素晴らしかった。いい経験をさせてもらったよ。

チャック・プロトキン:《Shot of Love》の前に出た《Saved》はボブの作品の中で最も評価の低いアルバムだと思う。昔からのファンの多くは、ボブが行こうとしてるところは既に他の人によって定められた場所だと感じ、殆ど裏切られたように思ったんだ。ボブはどこに行っちまったんだ? ボブがブラックホールの中に消えちまったかのように感じたのさ。一方、ボブは「違うよ。こっちの穴は光に満ちあふれる」って言ってた。でも、ファンがボブにがっかりしたのは事実だよ。それが《Shot Of Love》の評価に影響を与えている。このレコードには一部の人間には聞いてもわからない、こういう変な、ワイルドな、荒削りの雰囲気がある。でも、不朽なものとなるためにはアルバムはこうあるべきだという性質と、この雰囲気は見事に合致した。風変わりな雰囲気だ。超ラフなミックスを使った。世間からはあまり顧みられてないレコードだと、オレも感じる。一部はオレの責任なんだけどね。レコードを完成させるために、普通だったらあれこれ調整すべきところで、調整作業を放棄しなければならなかった。誰かから「プロトキン、バランスが悪いよ。ちゃんとやってないだろ。お前の耳なら、それがわかるだろうに」って言われるかもしれない。でも、これでもオレは、普通の音楽ファンのために出来る限りのことはやったんだぜ。つまり、これは普通のレコードじゃないんだよ。〈Every Grain Of Sand〉の歌詞を読んでみろ。凄いもんだぞ。10年、20年前だったら書けなかっただろうなあ。自分の人生をよく理解し、オレたちの人間の人生を深く正確に理解している男じゃないと書けないものだ。「…オレは誘惑の怒りの炎の中をじっと見つめる。そこを通るたびに、いつもオレの名前を呼ぶ声が聞こえてくる…」 ワォ! その調子だボブ。今でも泣けてくるぜ。

* * * * *


以上のインタビューは全て2014年前後に行なわれたもので、現在執筆中(完成日未定)の本『Rolling: In The Studio With Bob Dylan』から抜粋したものである。

The original article "A Hole Full Of Light: The Making Of Bob Dylan's Shot Of Love" by Damien Love
https://damienlove.com/writing/a-hole-full-of-light-inside-bob-dylans-shot-of-love/
Reprinted by permission


 この記事の著者、ダミアンによると、彼は現在は子供向けの本の執筆中で、ボブ本(《Shot Of Love》だけでなく、いろんなアルバムを取り上げたものとなるそうです)が完成するのは、いつになるかわからないとのことです。世に出ることになったら、ここでまた改めて紹介したいと思います。

   ヴィン
posted by Saved at 22:26| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする