2018年07月21日

ビートルズ誕生の地、リヴァプールに行ったぞ

 旅が大嫌いながらも、世界を見てみたいなとは思ってるんですよ。で、ボブ・ディランやグレイトフル・デッド、ローリング・ストーンズのオッカケという名目で、何度か重い腰を上げて、ロック・コンサートが行なわれるような大都市はいくつか行きましたが、なぜか今まで残ってしまっていたのがリヴァプールです。ポールとリンゴがここでコンサートをやる時を逃していたのが最大の原因なのですが(12月のポールのリヴァプール公演決定のニュースはマンチェスターで聞きました。今回もタイミング悪い)、この2人でなくても、何かいいコンサートはないかと機会をうかがっていたところに、ロジャー・ウォーターズが夏にヨーロッパ・ツアーをやるというので、まずは7月2日(月)リヴァプール公演と3日(火)マンチェスター公演をTicketmaster UKで予約。そろそろ飛行機とホテルを予約しようと思っていたら、7日(土)にアイルランド音楽の祭典「Feis Liverpool」が開催されることが決定し、ヴァン・モリソンとチーフタンズが出るというので、現地に少し長居してこれも見ることに。この3つのコンサートを核にして、暇な時間にリヴァプール観光、フリー・トレード・ホール、Bron-Yr-Aur訪問という計画を立てました。後者2つについては既にここに書いた通りです。
 ということで、やっとリヴァプールにやって来たものの、町自体がボロボロで、ホームレスも多く(マンチェスターも)、公道での喫煙も多すぎ。どこに行ってもパブだらけ。ストリートは吸い殻だらけ。町を歩いてる人のタトゥー率も異常に高いです(ワンポイント£5で入れてくれる店が多数)。危険な目には全くあっていませんし、酒やタバコがOKな人には何ともないことだとは思いますが、私にとっては神経に障ることだらけです(日本にいてもそうなんだけど)。かといって、再開発されてキレイになってるところは私には無縁だし…と複雑な気持ちで行った場所を、極めて主観的な見応え度(☆5つが満点)付きでメモ程度に紹介したいと思います。

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リヴァプール博物館(☆☆☆☆)
 先史時代から現代までのリヴァプールの歴史を鳥瞰することの出来る博物館です。丁度「ダブル・ファンタジー展」が行われていました。小ぶりの特集だったものの、さいたまスーパーアリーナ内にあったジョン・レノン・ミュージアムで見た品々に再び会えてうれしかったのと、埼玉には展示されたことがない(と思います)サードニクスを見ることが出来て大感激。

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 同時に「リヴァプールにおけるゲイの歴史」の特集もやってたので、もしやと思ってのぞいてみたら、やっぱりブライアン・エプスタインが登場。避けて通れない人ですね。

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マージーサイド海事博物館・奴隷貿易博物館(☆☆☆☆)
 リヴァプールはかつては奴隷貿易に加担したという負の遺産も抱えていることをしっかり自覚しているようで(南北戦争時には南部を支持)、海事博物館の一部が奴隷貿易博物館となっています。私が行った時には「タイタニック展」が行なわれており、乗船者リストには細野晴臣のおじいちゃんの名前も。

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キャヴァーン・クラブ(☆☆)
 今あるものはオリジナルではなく、場所を少し移してそっくりに作られたものです。コンサートもよく行なわれているようですが(アンディー・フェアウェザ=ロウやチープ・トリックといった有名どころも出演)、基本的には飲み屋です。特に感慨はなし。マシュー・ストリート自体が飲み屋通りで、雰囲気悪いです。エンガチョ。ハンブルクでも赤線地帯の飲み屋でプレイしていたので、ビートルズは酔っぱらいに鍛えられたようなものなんだということを確認。今は店内禁煙ですが、ビートルズが出演していた時代には禁煙なんていう概念はなく、ナチスのガス室状態だったことは容易に想像出来ます。

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ザ・ビートルズ・ストーリー(☆☆)
 ゆかりの品とかもまあまあの量、展示されてますが、最近になって観光目的で作られたもの。特に感慨はなし。ヘッドホンガイドによる説明を聞きながら中を回る仕組みですが、半分以上知ってることなので、面倒臭くて全部は聞いてられません。私が行った時には特別に「インド瞑想旅行50周年」のコーナーが出来ていましたが、皆が勢揃いしてマハリシと一緒に写ってる写真が壁一面に大伸ばしになってるだけ。ジョージが持っていたシタール以外は大した展示はありませんでした。

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 ギターでいうヘッドとナットの間に「Rikhi Ram」(デリーの楽器屋の名前)の文字が。

ブリティッシュ・ミュージック・エクスペリエンス(☆)
 ビートルズだけでなく、スキッフル以降のイギリスのロック全般に関する博物館ですが、展示品も少ないし(アップル・ビルの落書きだらけのドアは今はここにあります)、演奏体験コーナーは「ギブソンの提供」と謳ってる割には、置いてあるギターの殆どはエピフォンのものだったりと、ガッカリ度が高いです。大英博物館なんていうものすごい博物館を作る国なんだから、1つの部屋を丸々使って1つのブームやジャンルを紹介して、全部で少なくとも20部屋くらいあるようなロック博物館を作って欲しいです。

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マジカル・ミステリー・ツアー(☆☆☆☆)
 いわゆるバスでビートルズゆかりの地を回る観光ツアーです。土地勘が全くない個人が普通の路線バスを乗り継いで行くのはハードル高いので、メンバーの少年時代の家やゆかりの地を約2時間で効率よく回ってくれるこのツアーは便利です。リヴァプール訛りのお兄ちゃんの愉快なガイドがついて、これから行くところにちなんだ曲や、誕生日や他の記念日の人のお気に入りの曲をバスに乗ってる皆で大合唱しながらの楽しい2時間でした。私が参加したのは7月2日午前11時出発のバスでしたが、6月にポールが『Carpool Karaoke』に出演したこともあって、車内はこのネタで盛り上がりました。「さて、問題です。ポールが最後にここを訪れたのはいつでしょう? そうです。3週間と2日前です」なんていうアナウンスが3回くらいありました。この番組でポールがサインしたペニー・レインの看板ですが、私がここに来た時点(11:30頃)ではこう。かなり薄くなっちゃっていました。

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(2週間後の時点の様子をリポートしたページがこれ。今では透明なプラスチック版で覆われているそうですが、もう少し早くそうしとけばよかったのに)

 ストロベリー・フィールズでは門をバックに記念写真を撮る参加者が多い中、私が注目したのはポール死亡説がらみの落書き(〈Strawberry Fields Forever〉はポール死亡説ソングの1つ)。撮影の順番を待ってる人、既に終わってわきによけて休んでる人に、「ちょっとすいません」と言ってどいてもらって撮影したのがこれ。変な目で見られたことは言うまでもありません。

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カスバ・コーヒー・クラブ(☆☆☆☆☆)
 例のマジカル・ミステリー・ツアーではルートに含まれてなかったので、自分で勝手に行くことにしました(もっと高い料金のツアーだと、ここも含まれてるようです)。ジェイムズ・ステイションからストックブリッジ・ヴィレッジ行きのバスに乗って、約25分後、イートン・ロード・ノースで降りて、歩いてすぐのところにあるのですが、バスは「次は●●に停車します」というアナウンスは一切流れず、初心者には超ハードルが高い。乗り合わせてる親切な人に「ここに来たら教えて」って助けを請うしかありません。そうしてバスを降りてカスバにたどり着いたのですが、自由に内部を見ることが出来るシステムではなく、あらかじめ見学ツアーを申し込んで置かなくてはならないようなのです。で、次のツアーは30分後というので庭で待っていると、垢抜けないそこらのオジサンがガイドとして現れ、私ひとりのために説明を開始(リヴァプール訛がきつい)。1対1なので、こちらからも自由に質問出来る状態でした。

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 カスバはリヴァプール中心地からはかなり離れた、本当に閑静な住宅街にあります。近所には喫茶店やスーパーすらありません。こんな静かなところに、突然、ティーンエイジャーの子が集まってわいわい騒ぐ場所が出来たら、近所の人から苦情が来たんじゃないかと思うのですが、オジサンの説明によるとこうです:

・ロックンロールがブームになった時、ここみたいな私的なクラブを作ったものの、騒音に対する苦情が来て、1週間くらいしか続けられなかったところが、それこそたくさんあったんだよ。
・カスバは、その点で、近所の人とある取り決めをしてたんだよ。いつでも遊びに来てください、コーヒーもコカコーラもタダで飲んでくださいって懐柔してたんだ。そこがモナのうまいところさ。さもなきゃ、すぐに苦情が来ちゃって、店は続けられない。店で出してたのはコーヒーとコカコーラだけで、酒は出さなかった。子供たちが安全に遊べる場所だった。モナは「子供たちは私が守ります、私が保護し、監督します」って言って、周囲の大人たちを納得させていたんだ。モナはまさにリヴァプールのロックンロールの母親さ。

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 観光用に新たに作ったキャヴァーンやザ・ビートルズ・ストーリーとは違って、カスバは当時のものがオリジナルの状態で残っています。ビートルズの面々がペンキ塗りを手伝ったという壁や天井、ジョンのいたずら書きもそのまま残っています。

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 ピアノは当時のものとはいうものの、ボロボロで弾けなくなっちゃったので、弦を外して棚として使っています。

 下の部屋なんて6畳くらいの広さしかありません。ビートルズの面々はまずはここで演奏し、腕を磨いた後、市の中心にある本格的なライヴハウスに進出していきました。この場所こそビートルズの原点だと思うと、感慨もひとしおです。

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 8月には『ビートルズはここで生まれた 聖地巡礼 from London to Liverpool』という本が出るようです。読みながら旅の復習をしたいと思います。『ポール・マッカートニー死亡説大全』も引き続きよろしくお願いします。

   
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2018年07月17日

マンチェスター・フリー・トレード・ホール(跡地)に行ったぞ

 フリー・トレード・ホールは、1966年5月17日に行なわれたボブ・ディランのコンサートで、エレクトリックな音楽が気に入らなかった客から「ジューダス!」という野次が飛んだことで有名な会場です。中学を卒業し、高校に入学するまでの春休みの頃、この様子が生々しく収録されている海賊盤を聞いてビックリして、怪しいレコード/音源の魅力にハマってしまった私としては、ここに来たことは自分のルーツのひとつを再確認したようなものでした(最初の10年間くらいは、ここではなくロンドンのロイヤル・アルバート・ホールだと思っていましたが…)。

 

 昨年4月に拙訳で『ジューダス! ロック史上最も有名な野次』を電子書籍として出版しているので、その原著者であるCP・リー氏に会うという夢も果たすことが出来ました。CPはかつてはアルベルト・イ・ロスト・トリオス・パラノイアスというパンク・バンドで活躍してBBCに出演するという経験を持つだけでなく、マンチェスターのロック史に詳しい郷土史家としても活躍しています。秋に発売されるマンチェスター出身のロック・アクトをまとめたオムニバス・アルバムの解説も既に執筆済なのだとか。

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 さて、私が宿泊していたザ・ブラック・ライオン・ホテルにCPが迎えに来てくれて、マンチェスター観光ツアーが始まりました。ここは1階(イギリス式に言うとグランド・フロア)がパブ、2〜3階(イギリス式に言うと1〜2階)が安ホテルとなっているのですが、CPは開口一番こんな話をしてくれました。

CP:ここは昔、ジョン・メイオールがロンドンに進出する前、よく演奏していたところなんだよ。
私:そんな由緒があるホテルとは全然知りませんでした。
CP:知らなくても仕方ないよ。何にも書かれてないんだから。そもそも、アメリカのブルース・シーンとコネのある人がマンチェスターにしかいなかったので、ブルース・ミュージシャンはまずマンチェスターにやって来たんだ。そんな時には、ロンドンのミュージシャンも鉄道に乗ってマンチェスターまで見に来たんです。だから、ブリティッシュ・ブルースの本当の誕生地はマンチェスターなんだ。ロンドンじゃなくてね。
 
 ドアから入って右側にはバーやテーブルがあるのですが、左側はライヴハウスとしても使えるスペースとなっています。現在では一段高いところにビリヤード台が置かれており、今でも時々、ここでバンドの演奏が行なわれているようですが、メイオールもここでプレイしていたのでしょうか? この日の夜と翌日朝に、ホテルのスタッフ数人(20〜30代)にこの件について質問しましたが、残念ながら誰も何も知りませんでした。
 その後、「ここがマンチェスター発祥の地なんだ。2本の川が合流するここにブリガンテスと呼ばれる人たちが家を作ったのが、この町の始まりです」、「この図書館にはジョン・ディーの自筆の日記が保管されています」、「トマス・ド・クインシーがふらふら歩いていたのはこのあたりですね」(セント・アンズ・スクエア)、「ここがヴィトゲンシュタインがよく飲みに来たパブだよ」という具合に、私のレーダーがピピピッと反応するような情報をまぶしながら市内のあちこちを案内してくれたのですが、そうこうしてるうちにたどりついたのがタウンホールの近くにあるエイブラハム・リンカーンの銅像です。

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CP:リンカーンの銅像があるのは、アメリカの南北戦争の際に、マンチェスターの労働者が北部のほうを支持していたからなんです。それで、戦争が集結してから、お礼として、アメリカからこの町にリンカーンの銅像が贈られたってわけ。ほら、ここに感謝の言葉が書いてあります。
私:リヴァプールのいくつかの博物館では、リヴァプールは南部同盟を支持していたって書いてありました。
CP:あちらさんは綿花が欲しかったからね。都市によってどっちを支持するか違ってたんだよ。

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 ここから私たちは歩いてフリー・トレード・ホールに向かいました。現在はもうホールとしては存在しておらず、ストリートに面している部分は残っているのですが、裏はラディソン・ブルー・エドワーディアンという高級ホテルになっています。CPはフリー・トレード・ホールの保存運動でも中心的な役割を果たしました。

CP:ここでピータールーの虐殺という事件があったんです。地主(貴族)に便宜をはかって穀物の輸入を制限してその値段をつり上げていた穀物法に反対した群衆が「フリー・トレード(自由貿易)」を求めてデモ集会を行なってたところに軍隊が突入してきて、市民から多数の死傷者が出たんだ。丸腰の市民に向かって剣を抜くなんて、絶対にあっちゃいけない。なので、この事件を忘れないためにホールが建てられたんだ。「フリー・トレード」という抽象的な概念が名前となったホールは世界中探してもここだけだと、ある歴史家も言ってます。

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CP:ここがかつてメイン・ドアだったところです。私もあのコンサートの時にここから入ったんだ。

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(警備員が立ってるところ)


CP:セックス・ピストルズがコンサートをやったことで有名なレッサー・フリー・トレード・ホールの入口はここです。ここから入って上に登っていったんだ。上の階に小さな会場があったんだよ。

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 かつてロビーだったところは、今はレストランになっています。

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 ホテルの1階ロビー(イギリス風に言うとグランド・フロア)の奥の壁にはピータールーの虐殺の絵があり、2階(イギリス風に言うと1階)には、フリー・トレード・ホールの歴史に関する展示があります。

CP:私はこの絵はあまり気に入ってません。内容的にいい絵とは言えません。群衆同士が喧嘩していることになっていて、軍隊が群衆を弾圧してるところはあまり描かれてないからです。
私:ボブよりも前に、マディー・ウォーターズがフリー・トレード・ホールでコンサートをやった時に、エレキギターを弾いて観客の不興を買ったというのは本当なんですか?
CP:マディーが不興を買ったんじゃないよ。あの当時はミュージシャン組合の規定で、外国から歌手が来た場合、バックの演奏はイギリスのミュージシャンが担当しなきゃならなかったんだ。それで、マディーはギターを弾くことが出来ず、ヴォーカルに専念せざるをえなかったんです。ファンは、くだらない規定のせいでマディーがギターを弾けないことに怒りました。ジョン・メイオールも怒った人のひとりでした。
 あ、そうそう。ここ(ミッドランド・ホテル)はボブがネヴァー・エンディング・ツアーで何度めかに来た時に宿泊したホテルなんだけど、シーツを全部黒にしてくれなんていう変なリクエストをしたのがここだよ。


 

 その後、光栄なことに、CP宅に招待されて、おいしい夕飯をごちそうになりました。マンチェスター郊外の素敵な家の本棚には、ボブ・ディランやロックに関する書籍にまじって、ジョン・ディーやアレイスター・クロウリーの本もありました。(誰かの家に行ったら何よりもまず本棚をチェック)

私:CPは何の省略ですか? クリストファー・フィリップ?
CP:クリストファー・ポールです。既にクリストファー・リーっていう俳優がいてね。組合の規則に、たとえ本名であっても、先に存在する俳優・歌手・タレントと同じ名前はダメっていうものがあるんだ。それで、CP・リーって名乗ることにしたんです。
私:バンドもやってたんですよね。
CP:ええ。フリー・トレード・ホールにもBBCにも出演したんですよ。これを見たまえ。





私:近所の人は、ここに住んでるオジサンが元パンクロッカーだって知ってるんですか?
CP:知らないだろうなあ。1960年代のバンド、グリージー・ベアのアルバムは、ヴァイナル・リヴァイヴァルからやっと発売されたんだ。

 

私:Brexitについてはどう思いますか?
CP:私はアイルランドから来た移民の子孫なので、イギリスが離脱するのと同時に、国籍をアイルランドに変えようと思ってるんだ。EUの市民で居続けたいからさ。来週はトランプ訪英反対デモに参加しなきゃならないし、忙しいなあ。

 たった滞在してたのはたった2日間だけですが、マンチェスターは図書館が充実している町という印象を受けました。マンチェスター・ヴィクトリア駅の近くのチェサムズ・ライブラリーには、エリザベス1世の時代の宮廷魔術師だったジョン・ディーの自筆の書が保管されているそうですが(私が滞在中は何かのイベントが行なわれていて、一般客は入れませんでした)、たまたま見つけて入ったザ・ジョン・ライランズ・ライブラリーでは、「The Alchemy Of Colours」というタイトルの展覧会をやってました。絵の具屋、ペンキ屋のない時代に、中世の写本を製作する職人が任意の色をどのようにして出したかということをテーマにしていて、小規模ながら優れた内容でした。常設展には1800年くらい前の聖書のパピルス写本の断片もありました。もうビックリです。「ブリティッシュ・ブルース発祥の地はロンドンではなくマンチェスター」という件も含めて、この町はもっと要注目です。

   
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2018年07月16日

秘境Bron-Yr-Aur(スノウドニアの小屋)に行ったぞ

 今年の夏休みはイギリスに行って、ロックの聖地を3箇所訪問してきました。その中の1つが、1970年にレッド・ツェッペリンのメンバーがこもって作曲合宿を行ない、〈Stairway To Heaven〉〈Over The Hills And Far Away〉〈Friends〉〈That's The Way〉等を書いたというウェールズの山間部の小屋「Bron-Yr-Aur」です。リバプールとマンチェスターに行く用事があったので、グーグルでウェールズの情報も調べているうちに、たまたま「Bron-Yr-Aur」に関する情報に行き当たりました。「スノウドニアの小屋」という通称の通り、ここは確かにスノウドニア国立公園の南端にあるようですが、近所に鉄道の駅があるじゃないですか。そこからは歩いて30分ほどのようです(自動車の運転が出来ない私には、これがとても重要)。しかも、頼みもしないのに、画面には鉄道のチケット予約サイトのリンクまで登場してます。試しに見てみると、最寄り駅のマハンスレス(Machynlleth)まで、リヴァプールから鉄道を乗り継いで約3時間。希望の日にちや時間を入力すると、便利な接続を提案してくれて、支払いはカードでOK。運賃は片道£24(約3600円)でした。ということで、切符は日本にいる時に予約し、リヴァプール到着後、ライム・ストリート駅にある機械で番号を入力して発券しました。こんな簡単でいいのか! テクノロジーの威力、パねえ。でも、ここから先は人間が実際に動かなければなりません。

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 「Bron-Yr-Aur」の読み方ですが、ここここのサイトによると「ブロンナライヤ(シュ)」と発音するようです(最後にほんの少し「シュ」という音が残る)。リヴァプール・セントラル駅を朝8:30に出発して、チェスター、シュルーズベリーで乗り換え(チェスターより先は、鉄道の駅周辺以外は、基本的に延々と森と草原が続きます)、マハンスレスに到着したのは11:40頃。町のメインストリートにあるThe Quarry Cafeという菜食主義のレストランで腹ごしらえをした後、山の方に向かいました。

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 チェスター駅(電光掲示板の表示が変なのはシャッタースピードのせいです)

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 マハンスレス駅に到着(グーグルマップではカタカナで「マッキンレー」と表示されますが、現地での発音は「マハンスレス」)

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 駅からBron-Yr-Aurのほうを望むと

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 マハンスレスのメインストリートを見守る時計台

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 橋へ向かう道(A487)からBron-Yr-Aurのほうを望むと

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 橋に到着。スノウドニア国立公園の表示があります

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 橋の上からBron-Yr-Aurのほうを望むと

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 橋を渡ったところにある建物

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 川沿いの道路(A493)からさっきの橋を見ると

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 この標識のあるところで右の山道に入ります。

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 しばらく登ると、ゲートが閉まってます。え〜っ、せっかくここまで来たのに〜。しかし、こんな表示があるので、しっかり閉めさえすれば通っていいのだろうと判断。

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 ゲートを過ぎた直後のこの直線の坂が、非体育会系で体がなまりまくりの私には超きつい(この時点で超汗だく、頭クラクラ、息ハァハァ)

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 森の中を進むと、分かれ道のところにこんな道標が(これがなかった頃は、左の道を進んでしまい、小屋にたどり着けない人がいたのではないでしょうか)。

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 前の箱の中にはカワイイ絵の描いてある石がいくつか置いてあり、瓶の中に好きな金額を入れれば、記念にひとつもらっていいみたいでした。

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 途中、羊に出くわしながら(写真を撮り終わるまでじっとこっちを見てる)、木陰の道を5分くらい進むと

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 やっとBron-Yr-Aurにたどり着きました。駅からの所要時間はグーグルマップの言う通り約30分(正確!)。この時点で超疲れ果てており、しみじみ感慨にふける余裕はなし(日頃から体を鍛えておくことの重要性を痛感----感じただけで、帰国後はいつものだらけた生活に戻り、特に何もやってません)。

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 この小屋は18世紀に建てられ、ロバート・プラントの家族が所有していた頃は電気も水道も通ってなかったらしいですが、今は風力と太陽光で電気は確保しているようです。

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 現在ここは私宅で、話によると、住んでる人は巡礼者に寛容で、ゲート内の敷地をウロウロさせてくれるようなのですが、残念ながら私は家主に発見してもらえず。息が整い、汗が引くまで、しばらくゲート前の木陰にたたずんで、体力が少し回復した後に来た道を引き返しました。頭がクラクラ、息がハァハァしてた往路では気づかなかったのですが、帰り際にさっきの木陰の道から見えた光景がまさに「Over The Hills And Far Away」。頭の中でこの曲のイントロが流れてきたことは言うまでもありません。

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 来た時と同じ時間をかけて(下りは、登る時とは別の、普段使わない筋肉を使うんですね)麓の町に戻り、列車の時間まではRoyal Houseというお菓子とチーズ、紅茶のお店でアフタヌーン・ティーを楽しみながら休憩。疲れた時はおいしいスイーツに限ります。ラズベリーののったプディングと紅茶で£2。1時間半も居座っちゃったので、これにプラスしてチップを50%置いてきました。
 16:00過ぎの列車に乗って帰路につきましたが、帰りは満員で、座れない人もいるほど。しかも、マハンスレス〜シュルーズベリーは冷房が故障していて車内が蒸し暑く、遅れも生じ(シュルーズベリー駅ではチェスター行きの列車がちょっと待っててくれました)、最終的にリヴァプールにたどりついたのは20:00近く。ちょうど12時間の遠足でした。


 Bron-Yr-Aurについて、ネットには以下のような情報もあります。

現在、Bron-Yr-Aurに住んでる家族に関する記事:
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2631326/Family-live-Welsh-mountain-Led-Zeppelin-fans-Stairway-Heaven-written-house.html

ギターを持参して(あの急な坂を余計な荷物を持って登ったのか! すげえ体力!)、小屋の近くで〈Bron-Yr-Aur〉を弾いた強者もいるようです。私もこれ、やりたかったなあ。



  



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2018年06月06日

《Aqualung》のジャケットを描いた画家、バートン・シルヴァーマン・インタビュー

 今回紹介する話題は、再発、リマスター、紙ジャケ、ボックスセット(箱物行政)が商売の大きな潮流となっている現代ならではのことです。
 アメリカの画家が1970年に《Aqualung》のジャケット用の絵を3枚描く仕事を軽い口約束で引き受けて、ギャラ1,500ドルを受け取ったものの、その後しばらくして、アルバムは名盤扱いされて再発に次ぐ再発となり、バンド側はポスターや関連グッズも作って売って儲けているのに、自分には一銭も入って来ないので画家は面白く思ってないらしいのです。画家側は再発による利益を少しくらい回してくれてもいいんじゃないのと主張しているものの、ジェスロ・タル側は絵を1,500ドルで買い取り、約束は果たしたということで、これ以上はビタ一文払うつもりはなく、今のところ画家側の泣き寝入り状態です。
 こういう話、いっぱいあるんじゃないかなあ。


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《Aqualung》のジャケットを描いた画家
バートン・シルヴァーマン・インタビュー

聞き手:ファン・カルロス・ヴェラルド


 
 バートン・シルヴァーマン(1928年にブルックリンで誕生)は、描く作品が画廊に展示されるレベルのプロになって60年以上になる芸術家で、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ワシントン等の都市を含む、全世界でも個展を開催している。芸術の世界では37の大きな賞を受賞し、作品はニューブリテン・アメリカ美術館、スミソニアン・アメリカン・アート美術館といった有名美術館でも展示されている。しかし、多くの者にとって、シルヴァーマン氏は、ロック史上、最も有名なレコード・ジャケット、ジェスロ・タルの《Aqualung》のアートワークを手がけた人物として知られている。
 シルヴァーマンはかの有名なレコード用に3枚の絵を提供し、その結果、このアルバムは現代のポピュラー・ミュージックにおいて最も評価の高いジャケットを持つものとなった。
 親切なことに、シルヴァーマン氏は『Aqualung My God』用に独占インタビューに応じ、イアン・アンダーソンの傑作がリリースされた1971年のあの3カ月のことを詳しく語ってくれることになった。


あなたはご自身が現代のポピュラー・ミュージックで最も有名なアルバム・ジャケットを描いたアーティストだという自覚はありますか?

 手短に答えるとノーです。私は自分がそういうふうに説明されていることに少々ビックリしています。私はポップ・ミュージックの歴史も、その時代に作られた名作アルバムや成功したバンドのことも全く知らないのです。あるアルバムがとても長い間人気を保っている様子は、時々、垣間見ます。私よりも20〜30歳若い人と会って、「あなたが《Aqualung》のジャケットを描いた人なんですか!」って言われた時とかね。娘の大学巡りにつきあった際、イェール大学の学生寮を少しチェックしていたら、学生の部屋の壁にあの絵を大きく引き延ばしたポスターが貼ってあるのを発見しました。娘が何気なく「あれを描いたの、うちの父よ」と言うと、寮から出ようとした時に、突然、学生が駆け寄って来たんです。あのポスターとペンを持って。そして、おどおどしながら、ここにサインをしてくださいって言うんです。
 何年も前ですが、ボディーにあのジャケットが描かれているトラックが通り過ぎて行ったことがありました。娘が卒業旅行で世界を一周してロンドンに滞在していた時、ロックンロール・クイズのカードゲームを送ってくれたんですが、「ジェスロ・タルのアルバム《Aqualung》のジャケットを描いたのは誰?」っていう問題が載っていました。私はこのアルバムがこんなに長寿のものだとは全く知りませんでした。オーディオ・テープやCDの登場によって、さらにそれを知るに至り、最初に注文を受けた時の契約以外で使用された場合の報酬も受け取って当然じゃないかと思うようになりました。

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ということは、さまざまな関連グッズから発生する使用料について問題を抱えているのですね。支払われてはいないのですか?

 1990年代半ばにクリサリス(後にワーナー・レコードになる)に問い合わせをしたら、争いごとになってしまいました。あれは握手を交わしただけの取り決めで、私の側では、アナログ・レコードのジャケットになる場合のみの取り決めだったことを証明することが出来ず、向こうも、そうではないことを証明することは出来ませんでした。文書としては残ってないので。私はアンダーソンに手紙を書いて助けを求めることにしました。無力で何も持たざる者たちの味方であるアンダーソンなら、実際に正義を実行するチャンスに飛びつくだろうと思ったからです。3つの会社のロゴが入った便箋に書かれた返事が届きました(全く整理のされてないファイルの中に手紙は残ってると思います)。アルバムがずっと売れ続けていることに自分が何らかの役割を果たしてると思ってるなんて、お前は何様だ、と腹を立てていて、私の「権利」の主張には無関心で、結局は、アクアラングという人物に自分の顔があるからこそ、アルバムが売れ続けているのだと言ってました。ということで、私は引き下がりましたよ。ソングライター、ポップスターの思い上がりに関して、ひとつ勉強になりました。

ジャケットの絵を描く仕事はどのようにして得たのですか? 誰があなたに声をかけてきたのですか?

 タルのマネージャーで、精神的指導者のような存在でもあったテリー・エリスです。比較的無名のバンドだったタルを、特にこのアルバムによって光のあたる場所に導いたことから、音楽的にも権限を持つようになったんです。ジャケットを作らせるのに誰がいいのか『American Illustrators』も調べていました。当時、それは殆ど全世界で(もちろん、冷戦時代だったので、東欧は別ですが)出ていた有名なアート本でしたから。彼は『Esquire』や『New Yorker』で私の作品を見て、ニューヨークの画廊でも私の絵を見ていました。皆からは、いい仕事だって言われました。ロンドンまでの旅費とホテル代は(私の記憶によると、なかなかいいホテルでした)向こう持ちで、アルバム用の絵を描いて1,500ドルもらえるんですから。この金額は今の価値に換算すると10,000ドルほどになるでしょう。バンドのメンバーに会い、リハーサルを聞きながらスケッチをしてくれってことでした(巨大なスピーカー・セットから、今までに聞いたことのないような大きな音が出て来たので、私はスタジオの外に、文字通り、吹き飛ばされてしまいましたよ)。ということで、ニューヨークにある私のスタジオで握手を交わして、3週間後にロンドンに行ったんです。

イアン・アンダーソンのアイデアに基づいて作業をしたんですか?

 いいえ。声を大にして言いますがノーです。テリーは全てを私に一任しました。イラストには何が含まれているか、どんなデザインにするかは、私の頭の中にあったことです。テリーが最終的にOKを出すかどうかが、唯一の判断基準でした。私がアンダーソンに会ったのはごく短時間であって、スケッチは全部、リハーサル・スタジオのスピーカーの隣でやりました。そのうちの1つを水彩画として仕上げたんですが、その絵は、現在、ある人物のプライベート・コレクションの中にあります。その後、私はホテルに戻って、グループの写真を見ながら、アイデアをあれこれ練り始めました。



イアン・アンダーソンにポーズを取ってもらったのですか? それは肖像画だったんですか? それとも、イアン・アンダーソンが言ってるように、あなたは写真を基にして作業をしてたんですか? あの絵はアンダーソンの肖像なんですか? あの絵の中にイアンの顔を描きたかったんですか?

 体を丸めた人物は想像上の人物で、自分の不幸を喜んでるような目つきのホームレスの男ってこんな感じじゃないかなっていうものを描いたんです。この人物像を描くのに、私は実際に自分のしかめ面を使いました。この男が戸口の前で、殆ど追いつめられながらも、周囲に対して威嚇している様を描きましたが、アルバムに入っている数曲と内容的にぴったりのようでした。ロンドンの12月の、テームズ川から凍てつく風が吹いてくるとても寒い日だったので、普段はストリートで無視された存在のこの男と好対照となるよう、やんわりとした皮肉としてスキーのポスターを使うことにしました。アンダーソンはこの人物のモデルではありませんが、髪の毛や輪郭は彼のステージ上でのペルソナを描いたものです。

イアン・アンダーソンは、あの絵は気に入らなかったって言ってますが、それについてどう思いますか?

 アンダーソンにはそう思う権利がありますが、私のあの絵があってこそ、アルバムは精彩を放っているのですよ。この人は、あの絵のプリント版を作って、自分のサインを入れて売って、昼飯代を稼ぎたくなるほど、あの絵が嫌いなんですねえ。何年も経ってから、ニューヨーク州ロング・アイランドの子供たちが、あの絵をもとしてハロウィーンの衣装を作ったなんて話も聞きました。

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アルバムの見開き部分はバンドが教会の中で演奏する絵ですが、そのアイデアを出したのはあなたですか? 裏ジャケットにある、 ホームレスの男が路上で犬と座っている絵には、どういう意味があるのですか? あなたのアイデアですか、それとも、そういう絵を描いてくれという注文があったのですか?

 こういう絵を描いてくれなんていう指示は、誰からもありませんでした。見開き部分の、アンダーソンが古風なダンスをしている絵は、写真をもとに描いたんです。教会の中で大騒ぎのコンサートをやっている他の人物もそうです。私の記憶では、あれは私のアイデアです。裏ジャケットの絵は後から追加したものです。締め切りが近づいて、どんどん時間がなくなてきていたし、寒い部屋の中でどんどん悪化する風邪と戦ってもいました。裏ジャケットの絵は、この人物が世間に向かってわめき散らしてることの別の面なのです。絶望しながら、唯一の仲間である野良犬と一緒に暗いところで座っているのです。
 私はロンドンのオフィスでテリーと握手を交わして、そこで3枚の完成した絵を渡しました。彼が絵を保管するということで合意しました。私はクリスマス休暇直前にロンドンを発ちました。

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1971年以降にイアン・アンダーソンとは会ったことはありますか? 絵の件について話したことはありますか?

 アンダーソンにもバンドにも会ってません。先にも書いたとおり、手紙をやりとりしただけです。

原画はホテルの部屋から盗まれたというのは本当なんですか?

 これはまた全然違う話です。偶然、テリー・エリスの連絡先がわかったので、私はこんなメールを彼に送りました。

『Classic Rock Presents Prog』誌のマルコム・コウムから貴殿のメール・アドレスを教えてもらいました。この雑誌でアルバム《Aqualung》の特集を組むので、イラストに関する裏話を聞かせて欲しいという連絡が、私のところにありました。あのアルバムからは並々ならぬ歴史が生まれ、それについては私の思い出話などは必要ないでしょう。でも、あまり知られていない別の話があります。
 好奇心をそそる出来事が2年前にありました。ジョージア州在住の男から接触されたのです。この人物はアルバムの原画を買い戻す気はないかと言ってきました。最初、私は驚きました。というのも、ジェスロ・タル・コレクションの一部として、今でもあなたが保管していると思っていたからです。私は多少程度の興味しかないふりをしました。たとえ本当に原画を取り戻すことが出来るとしても、大きな賭けだと感じたからです。私はきな臭さを感じました…。


 手紙では、続けて、この人物と何度かやりとりをしたものの、交渉が決裂したことを説明しました。手短に言うと、この男はアメリカ人で、自分の母親がロンドンのホテルでメイドとして働いている時に、アートワークを発見し、とても気に入ったので、アメリカに持ち帰ったそうなのです。サンタクロースを信じるようなものですね。その後、彼の話は変わり、今度は、母親は絵をプレゼントとしてもらったなんて言い出しました。表ジャケットの絵と裏ジャケットの絵しか持ってないとのことでした。私が絵が「盗品」であるとネットに書き、あらゆる画商にも通知するぞと脅すと、交渉は決裂しました。私の絵と思しきものについて最後に耳にしたのは、この男はいくつかの小規模なオークション・ハウスで5,000ドルで売ろうとしていたということです。
 私がエリスに書いた手紙を添付しておきましょう。彼は返事をくれました。絵をしっかり保管していなかったことを遺憾に思うと書いてありました。見開き部分の絵は彼のオフィスの壁にかけてあったのですが、消えてしまったそうです。スタッフに盗まれたのかもしれないとのことです。彼もまた、絵がこんなことになるとは思ってなかったようです。

キャリアを振り返ると、これがあなたの最高傑作ですか? あなたはいくつもの賞に輝いていますが、《Aqualung》は最も代表的な、最も有名な作品だと思うのですが。

 正直、これは気の利いたイラスト程度のもので、たまたまアルバム中の多くの曲と関連性を持ち、社会的正義への新たな共感と、その実現に向けた新たな戦いを必要とした当時の社会的・政治的スピリットと、たまたま合致しただけです。私は画家としてそこそこの評判をずっと保ち続けていますが、それは他人のではなく自分の「物語」を語っているからです。これが私には大切なことなのです。でも、私は得てしまったこの奇妙な「名声」に対して、ニコニコしていなければいけません。重要度ゼロのものとして始まったもののおかげで、一生ついて回る評判を、偶然、予期せずして得てしまうということが、時にはあるのです。

音楽的には《Aqualung》についてどう思いますか? 聞いたことはありますか? 気に入っていますか? 歌詞の意味は理解出来ますか? アンダーソンの言っていることに共感出来ますか?

 もうしばらく聞いていません。私がアンダーソンと争っていることを知った弟子のひとりがCDをくれましたが、全然聞いていません。今は、彼の上から目線と偽善的な態度に腹を立てているのかもしれませんが、絵を描いた当時は気に入っていましたねえ。ずっとずっと昔のことです。
 
原画について誰かに訊くことは出来ないのですか? どこかで売りに出されてはいないのですか? あなたのブログ上で何か出来ないのですか?

 例の絵はコピーの可能性もあります。でも、原画は今でもテリー・エリスのものなのです。彼も取り戻したいでしょうねえ。

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Copyright (C) Burton Silverman


 この写真を送るのを忘れていました。ロンドンで行なわれたリハーサル・セッションで描いたスケッチをもとに仕上げたアンダーソンの肖像画です。そんなに似てないでしょう。でも、これは私がこのミュージシャンにはパフォーマーとして興味を持っていたこと、そして、古風な方法で音楽を作ろうというアイデアを面白いと思っていたことを示しています。ワイルドな髪型とのコントラストがこの絵を興味深いものにしていると思います。
 アンダーソンにはあまり「好意」は持っていませんが、この素晴らしいアルバムと、これが音楽の世界でずっと人気を保っているのに関与出来たことを、心の中では、とても光栄に感じています。最終的に、私の画家としての「シリアス」な作品を語った後に、まだ何か語るものがあるとしたら、やっぱりこれでしょうね。でも、そんなことは、私の子供たちが考えることですよね。


2011年1月にテリー・エリスに送った手紙

テリー・エリス様、

 バートン・シルヴァーマンです。今でもなお人気のアルバム《Aqualung》のジャケットを描いたアーティストのことを、きっと覚えていらっしゃることと思います。『Classic Rock Presents Program』誌のマルコム・コウムから貴殿のEメール・アドレスを教えてもらいました。ここでは《Aqualung》を特集するとのことです。絵に関する裏話を聞きたくて、私に連絡をしてきました。
 あのアルバムからは類まれなる歴史が生まれましたが、そのことについては、今回、私には特に語る必要のある思い出話はありません。しかし、世間には全く知られていない別の話があります。
 興味をそそる出来事が2年前にありました。米ジョージア州に住んでいる男性から連絡がありました。アルバムの原画を買い戻す気はないかと。最初はビックリしました。というのも、原画はジェスロ・タル・コレクションの一環として、貴殿が今でもお持ちであると思っていたからです。原画を本当に取り戻すことが出来るとしても、大金をふっかけられると思ったので、そんなに興味がないふりをしました。それに、少々、きな臭さも感じたからです。
 謎を解く手がかりを書いておきます。本当に私が描いた絵であることを確かめたいのとは別に、この人物がどのようにして作品を入手したのかも知りたいと思いました。「自分の母親がロンドンのホテルに滞在中に見つけて気に入ったので、自分のものにした」と言っていましたが、バカげていると思いました。私はそれが本当に自分が描いた絵なのか確かめるために、それを私のところに送らせようと、彼の話を信じたふりをしました。裏ジャケットの絵もあるが、今すぐは用意は出来ないと言っていましたが、こちらの話も同じく疑わしいと思いました。最初に話した時以降、何度か会話をしているうちに、この男の話が変わってきました。「絵をどうやって入手したってもう1度話してくれないか」とお願いしたら、今度は、彼の母親がプレゼントとしてもらったと言いました。誰から?と訊いたら。覚えてないと言いました。
 絵が「盗品」であるとネットに書き、画商にも警告すると脅すと、交渉は決裂して終わりました。原画と思しきものについて最後に耳にした噂は、この男がいろんな小規模オークション・ハウスで5,000ドルで売ろうとしたということです。
 ということで、貴殿にこの一件を解明していただきたいのです。ジェスロ・タルのマネージャーとしてのキャリアの方向性からすると、この絵はとても重要なメモラビリアだったでしょう。もしホテルの部屋でなくしてしまったか、置き忘れてしまったのなら、取り戻そうと大変な努力をしたことでしょう。
 私の側では、こうした出来事に関して思い当たる節は何もありません。ということで、貴殿からはっきりとした情報をいただければ、
a) 絵に関する真実を解明すること
b) 違法に入手したものだとしたら、貴殿がそれを取り戻す手だてを講じること
に役立つと思います。
 貴殿がこの件に関心をお持ちになることを希望します。ご返事をお待ち申し上げております。
敬具 バートン・シルヴァーマン


The original article "BURTON SILVERMAN-AN EXCLUSIVE INTERVIEW" by JUAN MARCOS VELARDO
http://aqualung-mygod.blogspot.jp/2014/02/burton-silverman-exclusive-interview.html
Reprinted by permission

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 これには後日談もあります。今年の5月にThe Outlineに掲載された記事(バートン・シルヴァーマンの息子、スティーヴによるもの)によると、こうです:
 見開き部分の絵は、しばらくオフィスの壁にかけてあったのですが、ある時、賊が入り、あれこれ盗んでいったものの、その絵はなぜか手つかず。その後、いつの間にか絵はどこかに消えてしまったのですが、バートンからの連絡を受けて保管庫を探したら、無傷の状態であったそうです。残りの2枚の原画は今でもなお行方不明なのだとか。
 アートワークの権利に関しては、息子も協力して、少しでも認めてもらえるように動いてきたのですが、全く進展はないようです。


   
posted by Saved at 22:06| Comment(0) | Jethro Tull | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月04日

Live 1962-1966 Rare Performances From The Copyright Collections

 7月に発売される来日記念盤《ライヴ:1962-1966〜追憶のレア・パフォーマンス》には「Rare Performances From The Copyright Collections」というサブタイトルが付いていますが、「The Copyright Collections」とは2012年〜2016年の年末に1年分ずつリリースされた著作権延長用音源のことです。録音されたものの、50年間リリースされずに放置されている音源は誰でもリリースが可能になってしまうので、ぎりぎり間に合う時に形だけでもリリースしておいて、それを回避しようということで、駆け込み寺みたいなやり方で急遽リリースされました。
 最初にリリースされた1962年分はCDRでわずか100セットほどしかリリースされず、1963年分はLPでわずか100セット、1964年分はLPで1,000セットがリリースされたそうです。1965年分は《The Cutting Edge 1965-1966》の18枚組コレクターズ・エディション購入者にネットでダウンロードというかたちでmp3音源を無料プレゼント、1966年分は《The 1966 Live Recordings》として一般発売されました。今回はその中から面白いライヴ音源をセレクトしてCD2枚に収録したものが出るようです。ナイスな企画です。海外のボブ・コレクターの間でも話題沸騰中。

 


 1962年の音源がリリースされた際には、ここではこんな記事を掲載しました:

【ISIS Selection 11】パブリック・ドメインと50周年記念コレクション
http://heartofmine.seesaa.net/article/324009111.html


ラベル:コピーライト
posted by Saved at 21:01| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする