2018年05月18日

1966年5月17日マンチェスター公演チケット

 5/17にネット上で新たに出回ったチケットの画像です。

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 このコンサートの詳しいことはこちらの電子書籍でどうぞ。kindle unlimitedに参加しているので、会員の方は無料です。

 
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2018年04月21日

骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

 今日、4月21日はレコード・ストア・デイでしたが、私は『Dylan & The Dead』を買いました。昨今のアナログ・レコード・ブームを反映して、いろんなサイトが立ち上げられていますが、中でもVinyl Me, Pleaseにはアナログ・レコードにまつわるいい話が数多く掲載されており、旧ソ連時代のレントゲンのフィルムに音溝を刻んで作った「骸骨レコード」に関する話は、なかなか秀逸です。50代の人がこういう体験を持ってるらしいので、そんなに昔のことではないようです。ビートルズかボブ・ディランの曲が入ってるものがあったら欲しいなあ。


 
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骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

文:ドナ=クレア・チェスマン



 死に直面した時、歴史は価値を増します。
 祖母がサウス・ブルックリンの病院に担き込まれたという知らせが届いた晩、母は母国語であるロシア語で、これからお話することを私に聞かせてくれました。堂々巡りで、なかなか先に進まない話でしたが、奇跡的に言葉に詰まらず、母は祖母----つまり、自分の母親、私を10代まで育ててくれた人物----と共有していた過去を、私にも興奮しながら話してくれたのです。
 まずは病院のロビーの椅子に座りながら、その後はレストランで食事をしながら、そして最後にはコーヒーを飲みながら、私は母と一緒に、彼女がソ連で過ごした少女時代へと時間をさかのぼっていきました。時をやり過ごし、不安を静めるために始めた会話でしたが、それはソ連時代の違法レコードの取引の歴史に変わりました。

 1963年にキエフの都会で誕生した母の証言によると、ロシアには既にレコードが存在していたそうです。主にシングル盤でした。母は、幼い頃、小さな国営アパートメントでシングル・レコードに合わせて踊っていました。「1968年か69年だったかしら」 当時人気のあった子供用の曲を歌いながら、母は語ります。法律に違反してたから大きな声では言えないのですが、素敵な思い出なのだそうです。母が聞いていた音楽は非合法的に入手したものでした。'60年代〜'70年代には、正規のルートで手に入るレコードといったら、政府から許可をもらって国営の店で売っているものだけでした。
 母の説明によると、こうです。「認可された音楽っていうのはソヴィエトの音楽なの。ロシア国内の音楽ね。数も少なかったわ。アーティストもそんなにたくさんはいません。テレビで演奏を披露するのを許されていたのは、ほんの一握りのアーティストだけだったわ」
 ソヴィエト政府に公認されていない音楽を聞きたいと思ったら、レコード店に足を運ぶ以上のことをしなければなりませんでした。笑ってエスプレッソを吹き出しそうになりながら、母は説明してくれました。違法レコードが流通する闇の経済があったのです。「音楽マフィファね」 母は遠い過去に思いを巡らせていました。
 違法レコードのシンジケートはラジオとともに始まりました。母の思い出によるとこうです。「ヴォイス・オブ・アメリカやBBCといった、ロシアのラジオでは放送禁止の音楽を流す番組があったの。こうした放送を受信するためにラジオを調整するのには、あるやり方があったのよ。何時にトライしたらうまく行くとか、皆、知ってたわ。私のお父さんがテーブルについて、他の家族もお父さんと一緒にテーブルについてたのを覚えてる。ラジオのつまみをひねると、突然、声が聞こえてきたの」
 ラジオの近くにマグネトフォンのテープ・レコーダーを置きました。シンガーに対してマイクを向けるようにして。不明瞭な音で聞こえてきたローリング・ストーンズのシングルをこうしてテープに録ってる間、皆はシーンとしていました。でも、録音しただけでは、戦いはまだ半分も済んでいません。密かに手に入れた音楽をレコード盤に刻みたい場合、人脈と自由になる金が必要でした。シングル1枚を作るのに、平均的月収の半分以上を渡さなければならなかったのです。
 「そういうことをやってくれる人を知ってる誰かと知り合いになる必要があったのよ」 ソ連には、おみやげとしてメッセージや認可された音楽をディスクに録音する認可を受けているレコーディング・スタジオがありました。「例えば、いたいけな女の子がスタジオに行って、ママのために誕生日のメッセージを録音したい場合、そういうのは表だって出来たことなの。そういうのは合法で、スタジオにとってクリーンな金儲けだったわ」 しかし、それなりの金額の賄賂を渡すと、同じ人間がマグネトフォンで録音したものをレコード盤に刻んでくれたのです。
 しかし、問題は材料のプラスチックが不足していることでした。スタジオで働いていても、材料を得ることは不可能でした。そこで、解決法として登場したのがエックス線写真用のフィルムでした。
 母の説明は続きます。「皆、貧しかったから、どうにかして金を稼ぐ方法を探していたのよ。診療所から密かに持ち出すことが出来たのがそれなの。しかも、自分たちが間違ったことをしているなんて考えなくていいものでしょ。だって、古いエックス線写真なんて誰が必要なの? このフィルムをこっそり持ち出して売ったのよ。レコードを照明にかざすと、骨が透けて見えたわ」
 「フィルムを切って、レコード盤と同じ大きの円盤状にしたの。英語に訳すと「骨の上」っていう名前だったわ。音楽は骨の中に書かれてたの。レコーディング・スタジオでは、何でも録音してくれたわ。金さえ払えばね。でも、自分でそこに行くことはなかったわ。それをしてくれる誰かを知ってなきゃいけなかった。その人があれこれやってくれたの」
 この骸骨レコードを作ってもらうのに必要な金額は、気前のいい業者だったら、25ルーブルでした。母の記憶によると、1970年代には、平均的な月収は100ルーブルくらいだったそうです。1曲作ってもらうのに給料の4分1が消えます。これにはクリニックやスタジオで働いている人に渡す賄賂は含まれていません。レコードの取引には価格の吊り上げはつきものでしたが、母はこの半端なシステムから利益を得たことが----そんなつもりはなかったのですが----1度あったそうです。
 「お父さんがアメリカに向かおうとしている途中、イタリアから私にフリオ・イグレシアスのレコードを送ってくれたの。それを聞いてたら、お母さんが私に向かって叫ぶのよ。うちのプレイヤーでかけてレコード盤を痛めたくはないって。レコードはとても高い値で売れたの。それで、お母さんは、それをレコードの業者に売りに行っちゃった。だから、私がそれを聞いたのは1度だけよ」
 母が強調したのは、当時、そういうことは極めて非合法だったということでした。「刑務所行きだったわね。罪状は、英語で言うと、違法レコードの頒布、反ソヴィエト・プロパガンダの宣伝かしら」 外国の音楽には、認可されているもの以外は全て、「反ソヴィエト的プロパガンダ」というレッテルが貼られていました。当時、厳しい罰則があり、全てのレコードの取引を絶対にバレないように行なう必要がある状態で、人々はどうやってこのシステム利用していたのか、私はどうしても訊きたくなりました。
 母は声を張り上げて笑いました。「どう説明しようかしらねえ。私たちはとても奇妙な世界の中で暮らしてたの。2つの世界があったのよ。表の世界では、学校に通って、共産主義を信じていて、共産党の集会にも出かけて、共産主義者として生きてたわ。でも、もう1つの裏の世界では、みんな反共産主義的な話し合いをしてたの。キッチンの中で、ささやき声で。こんな言葉もあったわ。英語にすると「台所で話す」って意味かしら。アパートメントはとても小さかったので、皆、小さなキッチンに集まって、とても静かに、音楽を聞いてたの」
 1970年代後半になって、ペレストロイカの時代になると、ソ連の国境コントロールが緩くなり、音楽を密かに輸入する方法が出来上がりました。ソ連に観光客が来るようになると、レコードの業者はそういうホテルを下調べしておいて、高価なロシア産キャビアの缶詰との交換で最新アルバムを手に入れたのです。このシステムは世界中で知られるようになりました。ソ連を訪問する観光客は、音楽を持って行けば、ある程度高く売れることを知っていました。
 しかし、1980年代のペレストロイカの最中でさえ、非合法のレコード取引するというギャング映画的なスリルはモスクワやサンクトペテルブルク、それから、母の生まれ故郷のキエフといった大都市に限られていました。「それ以外の地域の人は何も聞けなかったのよ」 母はそういう立場の人を不憫に思いながら、説明しました。「いろんな音楽に興味を持つことが出来たのは、大都市の学校に通ってる若い人だけね。それ以外の人は、別の世界にいたの。ソ連の大多数の人は、音楽なんて聞いてなかったわ」
 母は言いました。たとえ英語とロシア語という言葉の障壁があっても、ああして聞いた曲にはずいぶん魅了されたと。母はビートルズの〈Yesterday〉をハミングで歌い始めました。そして、胸に手を置いて言いました。「今でも覚えているわ。あの歌が私の青春。[アメリカの]歌はまた違ったわ。〈Hotel California〉は魔法のよう。また別の美しい世界だったわ。ソ連での生活とはかけ離れた世界よ。歌詞を知らなくても、それがわかったわ」
 母がソ連を離れたのは1989年のことでした。アメリカに着くやいなや、カルチャーショックに襲われたそうです。「気絶しそうになったわ。アメリカには、お金で買えるものがこんなにたくさんあるんですもの」 母は深呼吸して、目を丸くしながら語ります。雑貨店にCDが並んでることはもちろん、現代のインターネットのオンディマンド・サービスで音楽が流れてくることにも、ビックリ仰天しています。
 アメリカに移住するまでの人生経験で、音楽はああいうプロセスで買うものだという観念が頭にこびりついていた母にとっては、消費社会アメリカにおける供給過多状態は理解を超えるものでした。「音楽がなかったら[ソ連での]生活はもっと酷いものだったでしょう」
 母の締めくくりの言葉はこうでした。「今でも、音楽を自分の人生から切り離すことは出来ません」


"Here's What It's Like To Have Listened To Illegal Vinyl In Russia" by Donna-Claire Chesman
https://www.vinylmeplease.com/magazine/heres-what-its-have-listened-illegal-vinyl-russia/?utm_content=buffer43312&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=Twitter+buffer
Reprinted by permisson


参考サイト
レントゲン写真製!冷戦時に作られた幻の”肋骨レコード”が美しい【旧ソ連】
https://matome.naver.jp/odai/2140436541870533901

ロックが禁止されていたソ連で「退廃的音楽」を入手するための「骨レコード」とは?
https://gigazine.net/news/20151216-bone-record-soviet-union/


 
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2018年04月16日

ガッタ・サーヴ・サムバディ 私はディランにバナナ・プディングをサーヴ

 1978〜90年に、ミズーリ州カンザス・シティーで「バックステージ・カフェ」というコンサート会場に食事をケータリングする会社を経営していた人物が、『Rock & Roll Stories』というウェウページで写真や思い出話を公開しています。ボブの話もありました。ゴスペル・ツアー中の1980年1月27、28、29日に行なわれたアップタウン・シアター公演での出来事のようです。

Rock & Roll Stories
http://www.rockandrollstories.info/index.htm


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(Uptown Photo by Mike Webber)


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ガッタ・サーヴ・サムバディ
私はディランにバナナ・プディングをサーブ


文:ペニー・ラッシュ



 アップタウン・シアターの小さなキッチンの壁は、ペンキを塗り直したばかりでした。そこにボブ・ディランにサインしてもらえないかとツアー・マネージャーにお願いしたところ、「あ〜、出来るかどうか、オレにはわからないなあ」という回答でした。まるで、ボブがわざわざそんなことするわけないだろとでも言いたげに、ツアマネ氏は言います。「ボブは昨晩もここにいたでしょうに。まあ、考えておきましょう。ところで、これは誰のサイン?」
 「ティモシー・リアリーです」と私は答えました。リアリーは講演ツアーをやっていて、数日前にアップタウンに姿を見せて、何も書いてない壁にでっかくサインを書いてくれたのです。

「我々は重力などものともしない。素敵なトリップをありがとう。愛を込めて、ティモシー・リアリー」

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 私の姪のケリーとポーラがVIPルームにディナーを運んで行きました。一方、私はずっと小さなキッチンの中にいて、おいしいバナナ・プディングを冷蔵庫の中から出して、クルーの甘党メンバー用に盛りつけていました。バニラ・プディングと厚くスライスしたバナナ、バニラ・ウェハースの層の上に、山のようにホイップクリームをトッピングしたものが載った大きな平鍋を冷蔵庫の中に戻した後、振りかえると、あの伝説のミュージシャン、ボブ・ディランその人が、自分の皿を持ってドア口のところに立っているじゃありませんか。
 ほっそりとした体型で、もじゃもじゃ頭の下から黒い目がのぞき、かすかに微笑んでいました。私は呆気にとられました。ボブは殆ど聞き取れない小さな声で私に言いました。「ここに来ればバナナ・プディングがあるって聞いたんだけど、少しもらえるかな?」
 私は驚きながらも、この機会を逃すものかと思い、こう返事をしました。「もちろん。でも、ここで待ってる間に、壁にサインしてもらないかしら?」
  ボブはいぶかしげな表情をして私を見ています。私は、中に入って、大きなドアを閉めれば、壁全体が見えますよ、と言いました。小さなキッチンの中には私とボブしかいません。ボブは私ひとりを相手にしています。
 ボブは小さく見えました。あれだけの活躍と比べてしまうと小さな小柄です。ボブは壁を見上げると、バンドのメンバーはサイン済みなのかと訊きました。私はフレッド・タケット、ジム・ケルトナー、スプーナー・オールダム、ティム・ドラモンド、ふたりの女性シンガーのものを示しました。ボブは気に入った様子です。

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(スプーナー・オールダム、キース・ルック、ロジャー・ジョーンズ、私、カンザスシティー・ケリー、フレッド・タケッド、ビューティフル・ポーラ)


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(スプーナー、ヴィッキー、フレッド、ポーラ、私の娘のアンバー)


 そして、大きく書き殴ってあるサインを見て、言いました。「これは誰の?」
 私がティモシー・リアリーのものだと言うと、さらに「本当? ここに来たの? 今は何をやってるのかなあ?」と訊くので、私は答えました。
 「講演活動ですよ」 ボブはとても驚き、俄然、興味がわいてきた様子で、壁のサインを読み、どういう意味なのか質問してきました。リアリーが講演中にステージの端から落ちてしまったことを教えてあげると、ボブは咳込むように笑いました。私が大きなマジックマーカーを手に取ると、ボブは私の手からそれを受け取りました。
 ボブはリアリーのサインの左のところに来ると、壁を抱きしめるかのように、床に両足をやや広げて置き、しっかりと立ちました。そして、大きなモーションで、大胆なストロークで、大文字でこう書きました。

「神が皆さんを力強く祝福してくれますように。愛を込めて。ボブ・ディラン」

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 ボブは振り返って言いました。「ねえ、これでバナナ・プディングもらえる?」

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(ジム・ケルトナー、ケリー、ポーラ、フレッド、アンバー)


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(ジム・ケルトナー、バーテンダー、フレッド)



The original article "You Gotta Serve Somebody…Bob Dylan" by Penny Rush
http://www.rockandrollstories.info/dylan.htm
Reprinted by permission


    
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2018年03月13日

クラウドファンディングで実現した本『ロックミュージックのオカルト的背景』

 昨年秋頃からクラウドファンディングでヨハネス・グライナー著『ロックミュージックのオカルト的背景』の翻訳出版の資金を募集してたので、1口3,000円分乗りました。サブタイトルが「アレイスター・クロウリーと深淵からの獣の浮上」なので、ロックとオカルト、クロウリーが大好きな私が読まないわけにはいきません。一般書店には置いてないそうですが、クラウドファンディングには間に合わなかった人も、出版元のSAKS-BOOKSから直接購入することが出来ます。

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 『ロックミュージックのオカルト的背景』は、シュタイナーの研究者であるグライナーがロックとオカルトというテーマに取り組んだ論文で、アレイスター・クロウリーを西洋哲学の系譜の中に、その鬼っ子、悪性腫瘍みたいな存在として位置づけています(哲学の系譜に組み込んでもらえていること自体が画期的)。論文の中身を超大雑把に要約すると「ロックはクロウリーを思想的な祖に持つゆえ、ロックを愛好する現代人はエーテル体が危機に瀕している」です。シュタイナー研究者にとっては当たり前の用語なのでしょうが、私のようなシロウトには、エーテル体だのアストラル体だのが出てきても、よくわかりません。訳者によるたった5行の脚注では足りません。「詳細はシュタイナーの『神智学』を参照のこと」だそうです。はい、わかりました(この本を読んでも理解出来るかどうかはわかりませんが…)。
 そして、最後の締めくくりが「この病を癒す薬は、何処に有るのでしょうか。この現状を打破する代替案は、何処に有るのでしょうか」です。エーテル体が危機に瀕している典型的な現代人の私の不安を煽るだけ煽っといて、疑問で終わってます。まさに尻切れとんぼ状態。シュタイナー教育の人でも、今のところ、ロックのせいで生じた深刻な「エーテル体の危機」を救うすべはないようなのです。『訳者あとがき』によると、著者本人が講演原稿に手を加え続けていて未完の状態であるのを承知して、この論文を翻訳したらしいのですが、だとしたら、「癒す薬」「代替案」についてもう少し著者の考えがまとまった時点で紹介して欲しかったなあ。時期尚早感がパないです。私の想像ですが、グライナーはこうした問題を抱えている現代人の心・精神・霊的な何かを治したいという立場の人なのでしょうに。
 そもそも、不思議な構成の本なんですよ、これ。全部で約200ページなのですが、タイトルにもなっているグライナーの論文が最初の70ページ、「訳者による解説と補足」という但し書き付きで竹下哲生の『近代と現代の分水嶺としての十九世紀』が約70ページ、残りが『深淵の獣の行方』と題した、竹下と現代フランス哲学の研究者でロックも大好きな柿並良佑の対談となっています。で、2番目の『十九世紀』が、それほどグライナー論文の解説にも補足にもなっていないどころか(だって、私に必要な解説はエーテル体のことだもん)、これはこれで独立した文として発表していいほど、面白い視点で刺激的に書かれている近〜現代の西洋音楽史なのです。3番目の『行方』対談も、グライナーのオカルト論文の解説というよりは、非常に興味深い、中高年には書けない鋭い内容の現代日本文化・文明論になっています。どちらも「解説」「補足」などという一段低い地位に甘んじる必要のない立派な内容です。はっきり言って、本の看板ではあるものの、「さて、レッド・ツェッペリンは----確認出来る範囲で----最初にリバース・スピーチ(逆再生メッセージ)を使用したアーティストだと言えます」とか、ちょっとボケたことが書いてあるグライナー論文など(ビートルズの〈Rain〉は確認範囲外だったのか?)、なくても通用する本ですよ。なので、グライナー論文をヨイショする必要性など、私には全く感じられません。何の根拠もない私の妄想ですが、本当は『十九世紀』と『行方』を発表したかったんだけど、シュタイナー系の出版社を説得するのにグライナーを取り上げなければならなかったという大人の事情でもあったのでしょうか?


   


本ブログのロックとオカルト関係記事:

・オカルト史観でロックを語る『Season of the Witch』著者インタビュー
http://heartofmine.seesaa.net/article/408594084.html

・どうしてロックはアレイスター・クロウリーを愛するのか
http://heartofmine.seesaa.net/article/433815718.html

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2018年03月10日

オーディエンス録音の「荒削り」な魅力

 我々ロック・ファンにとっては、オーディエンス録音は、TMOQやRubber Dubber、その他の海賊盤を通して、そういう怪しい世界もあるのかあ…と知ったものですが、演奏者、主催者、会場側の許可を取らずに勝手に録音したものとしては、今から約120年前にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でメイプルソンという人物が行なっていた行為が、その始まりだと言われています。クリントン・ヘイリン著『BOOTLEG!』でもそのあたりの話が書かれていますが、たとえそうした音源に興味を持ったとしても、自分にとって詳しくない分野だと、該当のCD等を見つけるのは至難の業です。今回紹介する記事は、YouTubeに存在する古{いにしえ}のレコーディングを紹介している優れた記事です。
 今では高性能小型マイクや小型デジタル録音機があるので、こっそり録音するのは簡単になりましたが、その前はDAT、さらにその前はカセットテープが使われていました。1970年代のカセットテープ時代のテーパーに話を聞いたところ、現代のノートパソコン以上の大きさのデッキをマジソン・バッグの底に隠し、「よしっ、今日もやるぞ!」と心の中で気合いを入れて会場入り口に向かったそうです(係員とのトラブルも何度か)。1980年代になってウォークマン・プロが発売された時には、その「小ささ」を大変ありがたく思ったのだとか(こうした状況を考えると、DAT以降の録音なんて苦労のうちには入らないでしょう)。
 カセットテープの前は、当然、オープンリール・テープです。1960年代前半のニューヨークのフォーク・クラブでは、誰かが客席で演奏を録音していても、咎められることはなかったそうです。現在、流通しているボブ・ディランの駆け出しの頃のライヴ・テープの多くはそうして作られたものです。当時のマニアが録り溜めていたテープの中には、もしかしたら無名時代のボブの演奏が含まれているかもしれないとして、調査をしている人もいます。1960年代前半ではロック・ファンの殆どは子供で、お小遣いも限られていました。彼らよりも年齢が高いジャズ・ファン、クラシック・ファン、フォーク・ファンのほうが録音機材に金をつぎ込む余裕があったようです。駆け出し時代に関しては、ビートルズやローリング・ストーンズよりも、ボブ・ディランのほうがはるかにたくさんのコンサート音源が残っているのは、そういう理由もあるのです。
 とはいえ、1964年2月に行なわれたビートルズのワシントンDC公演の映像も注目に値します。言うまでもなく、これはプロによる撮影ですが、映り込んでいるものが重要なのです。最前列で、膝の上にオープンリールのレコーダーを置き、マイクを宙に突き出して録音している少女がいます(このページに写真あり)。そのテープ、出来はどうだったのでしょうか? 今でも残っているのでしょうか?
 そして、オープンリールの前は…もう想像すら出来ません。蝋管蓄音機…ポータブル・レコーディング・ターンテーブル…何それ? ファンによる勝手録音とその影響も私の生涯の研究テーマの1つなのですが、まだまだわからないことだらけです。




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