2016年08月13日

『ポール・マッカートニー死亡説大全』Amazonで読み放題

 『ポール・マッカートニー死亡説大全: ビートルズ末期に起こったロック史上最大の珍事』をアマゾンで読み放題に設定しました。こんなくっだらね〜トンデモ本、タダなら読んでやらないことはないという方、今がチャンスです。

フレッド・ラバー(誤)→ フレッド・ラボア(正)に直しながら読んでいただければ幸いです。

 

 youtubeにポールの顔の変化をまとめたこんな動画があります。頬がたるみ、シワが増えてきますが、鼻の形は同じ。途中で別人に入れ替わってはいないようです。

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2016年06月23日

「ハリケーンの夜」のテープの話(少しだけモハメド・アリ追悼)

 1975年12月8日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれた「ハリケーンの夜」は、《The Hurricane Carter Benefit》等のブートレッグに収録された超優秀オーディエンス音源(ボブ・ディランの部分だけ)が昔から知られていますが、今回紹介する記事に出てくるのはこのテープではありません。オープニングから〈Hurricane〉までの約4時間を収録したモノラル・レコーディングを、15年ほど前に録音者本人が放出したので、それまで文字情報だけで音を全く聞くことが出来なかった部分(モハメド・アリのスピーチやルービン・カーターの電話出演、ロバータ・フラックのセットなど)を含むショウの「ほぼ」全貌が「音」として明らかになりました。「ほぼ」というのは、優秀オーディエンス録音は最後の2曲〈Knockin' On Heaven's Door〉〈This Land Is Your Land〉がなぜかノイズだらけ(この2曲を別の日から持って来たブート、ノイズだらけのまま収録したブートがあります)、新発掘の4時間テープは〈Hurricane〉までの収録という具合で、どちらもショウの最後の最後が不完全でした。

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 とはいえ、今回の記事でも触れられているrec.music.dylanへの書き込みに対して、私も問い合わせを行ない、4時間バージョンを送ってもらったのを覚えています。「リクエストが世界中から」の中には私も含まれます。私からは何を送ったかなあ…。
 この録音者と再び接触があったのは、私がfacebookに登録した2010年のことですが、彼が作ってるディラン情報サイト、Dylan Examinerにこの話が掲載されるまで、彼があのテープの主だったとは気づきませんでした。あちらさんもトレードの件はすっかり忘れてたようです。
 私達が直に会う機会があったのは、2013年7月のポール・マッカートニーのボストン公演の時でした。パソコンの回線の向こうのずっと先のほうには本当に人間が存在しているのを確認するのは、毎回、嬉しいことです。

  





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2016年06月21日

ザ・ディキシー・ハミングバーズ〈City Of Gold〉秘話

文:ロッド・ペック

 私がラリー・キャンベルというミュージシャンの存在を知ったのは、1997年5月1日、インディアナ州イヴァンスヴィルでのことです。ボブ・ディランのバンドにいるラリーを見たのは、この時が初めてです。この頃はまだインターネットを始めてませんでしたが、ディランがイヴァンスヴィルに来ることと、バンドに新メンバーがいることは知ってました。エレクトリック・セットの最初の6曲では、ラリーが何をやってたかは覚えてませんが、その後、彼がフィドルを手にするとアコースティック・セットが始まり、その1曲目でディランが〈Friend Of The Devil〉が歌ったのです。これは音楽ファンとして私が体験した最高の瞬間の1つです。

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 ところで、この話の本題はディランのレア曲〈City Of Gold〉です。これはディランが「ゴスペル期」の1980年に書いた曲で、理由は定かではないのですが、ディランはこの曲をコンサートでわずか数回披露した後は捨ててしまい、アルバム用にレコーディングすることもありませんでした。偉大なディラン研究家のポール・ウィリアムスは「伝統的スピリチュアルの優雅でシンプルな構成を持ったディランの新曲」と述べています。この曲が再び世に出たのは2003年のことでした。1920年代に結成された超ベテラン・ゴスペル・グループ、ザ・ディキシー・ハミングバーズの75周年記念アルバム《Diamond Jubilation》に収録されたのです。まさにこういうゴスペルを聞きたいと思うような、素晴らしい演奏です。しかも、驚いたことに、このアルバムのプロデューサーはラリー・キャンベルじゃないですか! 以来、私はずっと考えていました。「どういう経緯であのディランの曲がアルバムに入ったのかなあ?」と。

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 時間を2015年まで早送りしましょう。この年、ラリー・キャンベルとテレサ・ウィリアムズは共演アルバム第1弾をリリースし、それが素晴らしい内容だったことは言うまでもありません。昨年夏にアイオワ州セダー・ラピッズのCSPSホールでふたりのショウがあったので、私は妻や友人たちと一緒に見に行きました。この規模のコンサートでは、たいてい「ファン・ミーティング」が催されるので、ラリーに〈City Of Gold〉について質問しようと思ってたのですが、一緒に行った仲間からはやめとくように言われました。ボブの話をしたらラリーに気まずい思いをさせてしまうのではないか、雇用契約にボブのことは他言無用という条項があったかもしれないし、というのが彼らの言い分でした。実際、ディランが自分のプライバシーをしっかり守り、彼に近い人間も口が堅いことは、有名な「ディランの神秘性」の一部です。ラリーは優しく、とても気さくな人物でしたが、彼と一言交わせる機会が回ってくる頃には、私は既に、ディランのことは訊かないようにしようと心に決めてました。しかし、全てが終わった後、「ラリー、〈City Of Gold〉の件、教えてください」と言わなかったことで自分を責めました。
 ということで、この前の日曜日(2016年4月17日)にラリーとテレサが再びセダー・ラピッズでコンサートをやることになっていたので、思いました。「今度は質問してみよう!」と。ショウの間ずっと、私は「どうしたら、ラリーにこの件を快く話してもらうことが出来るだろうか」と考えていました。それに、他に訊きたい質問もたくさん頭の中を駆け巡ってました。何カ月も前から計画してたことなのに、ショウが終わる頃には、私は緊張してきました。
 ということで、私はロビーのCDが並べられているスタンドの近くでラリーが出て来るのを待っています。この待ち時間を利用して、「ディランの神秘性」なんかナンセンスだと思ってる人に、それがどんなものなのか説明しましょう。ディランは存命中のアメリカ人ミュージシャンの中で最も影響力が大きいだけでなく、作曲や演奏において、実際的なレベルでは意味をなさず、神秘主義のようなものを通さないと理解することが出来ない深遠な内容を含んでいるようなイメージを与える才能も持っています。それにプラスして、あらゆるディラン・ファンが自分なりの「主張」を持っていて、本当にそう出来てるのかどうかはわかりませんが、自分にはディランの作品に対するある程度の洞察力があると思っています。そして最後に、数年前、私は週に1回、ディランに関するラジオ番組を担当してたのですが、作業をしている間中、後ろからボブがのぞき込んでいるような、私がバカなことを言わないか、ボブが聞き耳を立ててるような気がしてなりませんでした。これをお読みのディラン・ファンなら、私の言ってることがわかるでしょう。他の人は、私の頭がおかしいと思うでしょうけどね。
 さて、ラリーと話せるチャンスが遂に回ってきました。私のアゴはガクガク震えていましたが、遂に言いました。「あなたがプロデュースしたザ・ディキシー・ハミングバーズのアルバムに入ってる〈City Of Gold〉って曲について訊きたいことがあります。どういう経緯であのアルバムに収録されることになったのか、裏話があったら教えてください」
 そしたら、何のためらいもなく、ラリーは答えてくれました。「プロデュースの仕事が舞い込んだ時、ボブのところに行ってその件を話して、おすすめの曲はないかと訊いたら、この曲をくれたんだよ」
 そして、ディランは完成したトラックを聞いて気に入り、同年に出た映画のサウンドトラック《Masked and Anonymous》にも収録した(この時点で映画は既に完成していたのに)とのことです。
 私はディランに関するこのインサイダー情報を聞いて超驚き、訊きたいと思ってた他のことは全部、すっかり忘れてしまいました。「ワォ、ラリー。ステキな話だ」とお礼を言って、私の番は終了。
 ザ・ディキシー・ハミングバーズの歌う〈City Of Gold〉は下のアルバムに収録されています。



 1980年11月12日にサンフランシスコ、ウォーフィールド・シアターで披露されたディラン本人のバージョンは、ここで聞けます。



 明らかにリハーサル不足で、アレンジらしいアレンジも施されてませんが、それでもいい曲です。ディランはリジーナ・マクラリーとこんな歌詞を歌っています:

There is a city of peace
Where all foul form of destruction will cease
Where the mighty have fallen and there are no police...
There is a city, a city of peace
There is a city of hope
Across the ravine by the green sunlit slope
An' all I need is an axe and a rope...
To get to the city of hope


The copyrighted article "City Of Gold" by Rod Peck
Reprinted by permission


   

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2016年05月30日

フィル・ラモーン:天才の耳 ヒット・レコード制作とステキなセックスとの共通点

 グレン・バーガーの『Never Say No To A Rock Star』が出る前に、このなかなか味わいのある文もどうぞ。


フィル・ラモーン:天才の耳
文:グレン・バーガーPhD.


 ヒット・レコードを作ることとステキなセックスをすることには大きな共通点があるのだ。まあ、続きを読んでくれたまえ。

 1975年11月、私の親方であるフィル・ラモーンは、ある人物とレコードを共同プロデュースするという機会を得た。彼は既に超一流エンジニアとしての地位は確立していたが、プロデュースの世界には足を踏み入れようとしているところで、ビリー・ジョエルと組んでヒットを飛ばしまくるのは、まだ数年先のことだった。この共同プロデュースの仕事は彼の旧友、ミルト・オウクンからのプレゼントだった。オウクンはピーター・ポール&マリーのトップ・ヒットを含む、数多くのフォークのレコードのプロデュースや音楽監督を務めた重要人物で、ラモーンはその多くでエンジニアとして働いていた。
 オウクンはビル&タフィー・ダノフという夫婦が率いるバンドを呼んでいた。彼らはファット・シティーというバンドで活躍していたが、その後、ジョン・デンヴァーのためにヒット・ソング書いた。〈Take Me Home, Country Roads〉という不朽の名曲がそれだ。ふたりはデンヴァーの計らいで、彼とミルト・オウクンが経営するレーベル、ウィンドソングと契約した。(オウクンはデンヴァーの成功にも大きく関与していたのだ)

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 ビル&タフィーはジョン・キャロル、マーゴット・チャップマンという2人のカワイイ顔した若手と手を結び、グループを結成してスタジオにやって来た。ラモーンはエンジニアと共同プロデュースを担当することになっていたのだが、こんなグループにかかわったところで出世の役には立たないだろうと、早いうちに感じていたに違いない。レコーディングの仕事を、元弟子であるリック・ブレイキンと私に丸投げしてしまったのだ。
 殆どの時間、ラモーンはどこにもいなかった。彼はコークを手に入れたり、のんびりしたり、男まさりのストライザンドをなだめたり、シカゴの次のコンサートの準備をしたりしていたのだ----一方、全ての作業をしたのは私たちだった。
 ラモーンは時たま、クレジットに値する仕事をやってますというアリバイ作りのために、コントロール・ルームにひょっこり顔を出した。
 オウクンもあまり仕事をしなかった。彼はプロデューサー席に座ってビルボード誌を読んでいたが、大した問題ではなかった。現場は基本的にはビル・ダノフが仕切っていた。4人のバンド・メンバーは全員、とても有能だった。ベースのラッセル・ジョージ、ドラムのジミー・ヤング、サックスのジョージ・ヤングといった最高のスタジオ・ミュージシャンもいたので、ベテランにとっては楽勝だろう。でも、私にはこのレコードは我慢がならなかった。私が関与したレコードの中で最大の駄作の1つだと思ったのだ。白人のヴォーカル・カルテットが1970年代のカントリー・ロックを歌ってるこんなアルバム、当時の私のヒーローだったジョン・レノンやブライアン・イーノとは全然違う。フィルとミルトが無関心なのは、ふたりもこれが失敗作だと思ってるからなのだろう、と私は想像した。
 音楽がクソだとレコーディングは退屈なものになるが、たとえ音楽がクソでなくても、レコーディングの作業は永遠に続く退屈なのだ。このレコーディングで私が学んだのは、超つまんない時に、自分がやらなきゃいけないことをしっかりこなしながら、適当にのんびりすることだった。
 ラモーンが形式的にスタジオの見回りに来たので、私はちんたらしてなどいられなくなった。ラモーンは止まることなく、大声で指示を出した。こいつは今、不必要な混乱状態を作り出して、消火栓に小便をかけるほどの真っ当な理由しかないことのために、オレたちに仕事をさせようとしてるんだ、と私は思った。
 ラモーンは偉そうな声で命令した。「お前の仕事はこれだ。ペダル・スティール・ギターを持って来い。それをファズ・ボックスとフランジャーに通せ。“skyrockets in flight”(ロケット花火が飛んでいる)って歌うところで、ペダル・スティールにビューンて降下する音を出させろ。そうすりゃ、ナンバー1レコードの出来上がりだ」
 何? この時代遅れの音楽からナンバー1レコードを作るだって? そんなバカなと思ったものの、ラモーンからの指示だったので、私たちはその通りにした。アーティストも同様だった。ペダル・スティールのダニー・ペンドルトンに来てもらって、エフェクターに通して、「ロケット花火」の箇所に効果音を加えた。
 アルバム全体で、ラモーンの貢献はこれが全てだった。



 で、あの曲、〈Afternoon Delight〉はというと、ナンバー1レコードになった。1970年代最大のヒット曲の1つにもなったのだ。このバンド、スターランド・ヴォーカル・バンドはグラミーで最優秀新人アーティスト賞など、2冠に輝いた。
 ラモーンは天才の耳を持っていた。電話の最中でも、廊下の向こうから何かを聞いて、ヒット曲になることがわかる出来る人間だった。耳のためのちょっとしたキャンディーを加えるといいこと、リスナーの心を掴み、レジのところに引っ張ってくるには、正しいひっかかりが必要なことをわかってたのだ。スタジオで働いていた最初の3年間で、私はフィルがプロデュースして、グラミーの最優秀新人賞に輝いた2枚のレコードの作業を担当した。1枚はフィービー・スノウ。そして、これだ。
 ペダル・スティールが要だったのだ。あの1節でラモーンはプロデューサーのクレジットを得たのだ。このバンドは一発屋で、さらに3枚アルバムを出したが、鳴かず飛ばずだった。
 ラモーンのマジックとは何だったのか? ラモーンが持ってた特質とは、バーナード・メランドの言う審美意識だった。ウィリアム・ブレイクふうに言うと、一粒の砂の中に宇宙を見る、つまり、普通のものの中に美を見いだす能力だ。養おうと思えばそうすることの出来る、この能力こそ、人生の精神的目標の1つなのだ。我々の世界に存在するあらゆるものが素晴らしい。私達は、限られた視野を突破するなら、全てのものをそういうものとして体験することが出来るのだ。私の耳には退屈な音楽しか聞こえていなかったのだが、ラモーンには荒れ地の中にダイアモンドがあるのが聞こえていたのだ。
 それで、これが素晴らしいセックスとどういう関係があるのかって? 私の精神療法の患者のゲイでない男性の多くが、遅かれ早かれ、最近パートナーとのセックスに飽きてきたと言うようになるのだ。
 彼らは生活をともにしている人間の中にある、永遠の女性美よりも、小さな欠点のほうばかりを見てしまうのだ。ここにちょっと肉がついてきたとか、胸の形が変だとか。一生涯、同じ人とステキなセックスライフを送るのに重要なのが、審美意識なのだ。ラモーンは、これが本当だってことを証明した。美は対象の中に存在するので、それを知覚する必要があるのだ。
 そういう能力が開発されていないと、自分が見逃しているものが何かもわからない。
 あの頃の私はとても鈍感で、あのダサいヒット曲が実は変態の歌だと気が付いたのは、何年も経ってからだった。真っ昼間にセックスをするという歌だったのだ。

The original article "Phil Ramone's Ears of Genius" by Glenn Berger PhD.
http://www.huffingtonpost.com/glenn-berger-phd/phil-ramones-ears-of-geni_b_9439254.html
Reprinted by permission


    
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2016年05月29日

リアル『ヴァイナル』

《血の轍》ニューヨーク・セッション秘話
ヨーロッパ'73ミキシング秘話
ピーター・ポール&ジェイムズ・ブラウン
は当ブログで紹介した最もエキサイティングな記事だと私は思ってますが、これを書いたグレン・バーガー博士(バーガーのほうが正しい読み方のようです)は今年7月に回想録『Never Say No To A Rock Star』を出します。超楽しみ。今年発売されるロック本の中で面白さは恐らくナンバー1でしょう。



 その前に、要約版のような内容の文をハフポストに投稿しているので、今回はそれを紹介します。1970年代前半のロック・ビジネスを扱ったテレビドラマ『ヴァイナル』がアメリカで放送され、それに触発されて書いたようです。日本でも7月にBS10スターチャンネルで放送されることになりました。





リアル『ヴァイナル』
文:グレン・バーガーPhD.


 マーティン・スコセッシ&ミック・ジャガー制作によるHBOの新シリーズ『ヴァイナル』は、1970年代のニューヨークの伝説的な音楽シーンを今に蘇らせた。現代文化史のこの栄光の瞬間を、私はラッキーなことに、最前列の席で目撃している。1973年から1980年まで、私はニューヨークにある世界で最も偉大なレコーディング・スタジオ、A&Rスタジオでレコーディング・エンジニアを務めていたのだ。プロデューサーのテレンス・ウィンターが述べているように、狂気の時代、狂気のビジネスだった。17歳の時に研修生として勤務した初日に、ジェイムズ・ブラウンのセッションを見学し、ノンストップでドカドカ鳴るキックドラムとスネアのせいで、私は耳から血を吹き出しそうになった。それから、ポール・サイモンが第2位に輝いたヒット・シングル〈Loves Me Like A Rock〉用に、ゴスペルの名グループ、ディキシー・ハミングバードのコーラスをオーバーダブする様子も目撃した。あの頃の放蕩三昧の話は本当だ。私はスタジオに入って1時間もしないうちに、誰かからコカインをすすめられた。
 A&Rはミッドタウンに2つのスタジオを持っていた。週給80ドルで雇われた時の最初の仕事は、人から「のろま」と罵倒されることだった。つまり、機材を手押し車に乗せて一方のスタジオから他方のスタジオへ運ぶことだった。ニューヨーク市は財政が破綻している状態で、ストリート中に犬の糞が転がり、空はいつも腐ったような灰色がかった緑をしていて、いつ化け物が物影から飛び出し、私の頭蓋骨目がけて斧を振り下ろしてきてもおかしくはなかった。横にずれたり、渡ったり、避けたりするコツを熟知し、常に用心を怠ることなくストリートを通過しなければならなかった。私は「邪魔だ、ガキ!」等の罵声を浴びながら実地でいろんな技を身につけた。
 そうしたイニシエーションを無事通過した私は、グラミーのライフライム・アチーヴメント賞に輝いた世界的なプロデューサー/エンジニアであるフィル・ラモーンにアシスタントとして拾ってもらえるという、信じられない幸運に恵まれた。彼がA&Rスタジオのオーナーだったのだ。
 ミック・ジャガーの話をしよう。フィルと私は、ボブ・ディランの《Blood On The Tracks》をレコーディングしていたのと同じ週に、若くてイケメンの頃のミック・ジャガーと数日間を過ごして、《Bedspring Symphony》として有名な'73年ブリュッセル公演のミキシングを行なったのだ。この2人のロック・アイコンが一緒にいるのを見るのは超自然的だった。ミックは最高に魅力的な男で、彼からジンジャーと呼ばれ、長い巻き毛をクシャクシャされた時には、私は卒倒しそうになった。一方、ディランは「パシリ」を存在として認めてすらくれなかった。
 『ヴァイナル』はグラム・シーンのトップ・バンド、ニューヨーク・ドールズの再現から始まる。私は彼らのセカンド・アルバム《Too Much, Too Soon》の作業に1日付き合い、とても楽しい思いをした。彼らは予定開始時刻より何時間も前に、取り巻きたちと一緒にスタジオに到着し、早速パーティーを始めた。ベース・プレイヤーのキラー・ケインは高さ6フィート(180cm)のツインのマーシャル・スタックを持っていて、ベースでバーンて音を出した時には、その衝撃で私の足はゴムバンドを弾{はじ}いたように震えた。ジョニー・サンダースが腕を回して勢い良くギターを弾こうとしているのを見た私は、咄嗟に使ってないヘッドホンを装着した。それでも音は超でかく、この時、耳は修復不可能なダメージを被ったに違いない。
 『ヴァイナル』は当時人気のあったジャンル、パンクとディスコに焦点を当てているが、あの頃のニューヨークではもっとたくさんのことが起こっていた。シンガー・ソングライターもブームであり、A&Rスタジオでは、そのジャンルのアルバムを数多く制作した。私はグラミーの年間最優秀アルバムに輝いたポール・サイモンの《Still Crazy After All These Years》の作業を担当した。才気にあふれたポールは、元パートナーであるガーファンクルの悪口を臆することなく語った。この上なく味わいのある美声を持ったジュディー・コリンズの《Judith》も担当した。このアルバムにはヒット曲〈Send In The Clowns〉が入っている。私が担当した最初のアルバムは、フィービー・スノウという風変わりなシンガーの《Poetry Man》だったが、これはサプライズ・ヒットとなった。彼女は自分のキャリアを犠牲にして、脳に大きな損傷を受けた娘さんの介護に尽力した。それから、歌手としてのベット・ミドラーだ。彼女は愉快で頭が切れ、キスが上手だった。3つ目の点については個人的経験から知っている。
 それから、ファンクも流行していた。1970年代のニューヨークのスタジオ・ミュージシャンほど、体格が良くて屈強なプレイヤーはいない。彼らにどんな演奏が出来るのかを知りたければ、スティーリー・ダンのアルバム《Royal Scam》を聞くといい。このアルバムも私がお手伝いを担当した。この作品中の火を吹くようなトラックは、ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンのお茶目なウィット、鋭角的なリズム、高度なハーモニーが、譜面を渡されて演奏するファンキーなミュージシャンのグルーヴと結び付いて生じたものだ。彼らのレコードは最優秀エンジニアリングを含む、複数の部門でグラミー賞を獲得したが、それなりの理由があってのことだ。
 当時、スタジオは1日24時間、1週間に7日間予約されていたが、アルバムを作っていない時には、映画のサウンドトラックのレコーディングを行なっていた。私の最も鼻高々な業績は天才ボブ・フォッシーの映画『オール・ザット・ジャズ』のサウンドトラックを制作したことだ。フォッシー本人に基づく主人公は、アル中になり、ヤク中になり、自分を大切にせず遂には死んでしまうという1970年代の感性の典型だった。
 あの頃は狂気の時代だった。スタジオというささやかな遊び場においても、数多くの狂人が存在した。私の師匠で、ビリー・ジョエルの全てのヒット・レコードをプロデュースしたフィル・ラモーンも、極端な例かもしれない。ある時、私がフィルに質問したら、「オレは神だ。神に質問するな」と言われたことがある。
 しかし、狂気とセックス、ドラッグ、そしてエゴの塊のスーパースターを除いたら、スタジオ・シーンは皆が本気で仕事に取り組んで、史上最高の名盤を作り出す場だった。レコーディングの仕事に関与している者は全員、自分の仕事を超真剣に意識していた。A&Rスタジオのスタッフは、上は一流のシニア・ミキサーから、下はテープをコピーする小僧に至るまで、ラモーンによって完璧主義を叩き込まれていた。こうした裏方の人間も私のヒーローだ。間抜けな連中を祝う文化においては、彼らの善意、気前の良さ、無私の心は極めて貴重だった。
 1970年代のニューヨークの音楽シーンで働いていた者の間には、言葉では言い表せない絆がある。あの頃は、私達の人生で最もスリルに満ち、最も忘れられない時代だった。私達は偉大さと一緒に生きており、運が良い時には、自分でその偉大さに触れることが出来た。私達は最高だった。私達は歴史を作った。

"Real Vinyl: In The Studio With Dylan, Jagger, Sinatra and More" by Glenn Berger PhD.
http://www.huffingtonpost.com/glenn-berger-phd/real-vinyl-in-the-studio-_1_b_9312272.html
Reprinted by permission


   
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