2016年01月26日

ロニー・ウッド、新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』について語る

 しばらく前に豪華本出版社ジェネシス・パブリケーションズからロニー・ウッドの新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』の案内が届きましたが、グレイトフル・デッドの80枚組箱、ボブ・ディランの18枚組箱等、高額箱物行政への出費が相次いでいたため、こっち(£295----6万円以上)はかなり後ろ髪を引かれながらも注文には至らず。そしたら、いつの間にか貧乏人用の廉価版が出てるじゃありませんか。これなら買えます。
 今回発見したインタビューはロニー・ウッドの1965年の日記をもとにした新著のプロモーションを兼ねたものですが、1960年代のロックの大進化の要因の1つをマネージャーの存在に帰してるところが興味深いです。この記事の準備を始めた途端に飛び込んで来たのが、ジョルジォ・ゴメルスキーやロバート・スティグウッドといった名物マネージャーの訃報です。年末以降、ミュージシャンの訃報も相次いでおり、生き残り組の人々もボックスセットや自伝等を発表して、人生の総決算に取り組んでいます。ひとつの時代が終わる感がハンパない今日この頃です。



ロニー・ウッド、新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』について語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ




ロニー、『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』は、音楽史において非常に面白い年だった1965年のスナップショット的な内容ですね。何に触発されて書いたのですか? このプロジェクトはどのような経緯で始まったのですか?

 お袋がいなかったら、この本はなかっただろうなあ。お袋は亡くなる前にこれをオレの兄貴に渡していたらしい。そして、兄貴たちからも「これ見ろよ。お袋がお前のためにとっといてくれたんだぞ」って亡くなる前に言われたんだ。オレは超驚くのと同時に、50年前の思い出が突然蘇ってきた。「凄えや!」って思ったね。たった数年前の出来事みたいだった。詳しいことを思い出すのに、そんなに時間はかからなかったよ。出来事を正確に思い出すことが出来た。家の横に車をつけて、ギグ用ワゴンの後ろに荷物を積んで、イングランドのあちこちを回るクラブ・サーキットをしたんだ。主にザ・バーズ(The Birds)ってバンドで修行してた頃の話さ。オレの周囲では、キース・ムーンとか、友人{ダチ}が突然、ヒット・レコードを出すようになってさ----〈I Can't Explain〉とか----こいつら、オレたちをからかいに来るんだよ。クラブにやって来て、「オレたちナンバー1だぜ!」って騒ぐんだ。美しい友情なんだけど。

確かに友情なんでしょうが、もっといいパフォーマーになろうとか、もう少ししっかり音楽の世界で足固めをしようとか、互いに刺激し合ってた面もあったんじゃないですか?

 もちろん。オレたちの頭の中ではいつも、出来る限り良いミュージシャンになろう、向上し続けよう、勉強し続けようという意識があった。アメリカのバンドから学んだり、ジャズやブルースやロックンロールの輸入レコードを聞いたり。

あなたのバンドのザ・バーズ(The Birds)とアメリカのバンドのザ・バーズ(The Byrds)との間で法的問題が発生した話を、面白く読みました。この問題が生じた時、あなた自身はどういう見解を持ってたのですか?

 あっちが名前を盗んだって訴えようっていうのは、オレたちのマネージャーが決めたことさ。酷い売名行為で、マネージャーにとっては裏目に出ちゃったんだけど、そのおかげでオレたちはメロディー・メイカー紙の第1面に載ることが出来たんだ。酷{ひで}えやり方で表紙を獲得したよ。数年前にマッギンと会ったんだけど、ザ・バーズ(The Byrds)が初めてイギリスの土を踏んだ時に起こされた裁判のことを覚えてたよ。「ちょっと待った、それ、お前だったのか!」って言われたから、「そうなんです」って答えた。マッギンはふざけてオレの首を絞める真似をして、許してくれたよ。

少し前に、キース・ムーンは友人{ダチ}だっておっしゃってましたよね。

 ああ。

どういう関係だったのですか? どのくらい親しかったのですか?

 超いい奴だったよ。オレにとっては保護者みたいなもんだった。オレが正しい連中と交じっていられるようにしてくれた。オレが自分の力じゃどうにもならない場合には、キースがオレの面倒を見てくれたり、オレの面倒を見てくれる奴をよこしたりしてくれたんだ。オレと一緒にいる女の子の面接をして、「OK。合格だ。ロニーと付き合ってよろしい。だが、オレが気に入らないと思った時には、帰らせるからな」なんて言うんだよ。楽しい奴だったなあ。

ジミ・ヘンドリクスとも友達だったんですよね?

 ああ。数週間、同じアパートメントで暮らしたこともある。パット・アーノルド----P・P・アーノルド----が大家さんだった。ジミはバセット犬を飼ってて、こいつがそこら中で大小便をやらかしちゃうもんだから、「お前はもう出てけ!」と言われてた。ジミが「ツアーに出なきゃいけなから、オレの犬、お前がもらってくれないか?」って言うんで、「いいよ」って答えた。だから、オレはジミから犬を相続したんだ。ジミはとてももの静かで、おとなしい奴だった。とても謙虚な奴だった。歌声はあまりいいとは思わなかったけどな。「心配するな、ジミ。ギターで十分埋めわせ出来てるから」って言ってやったよ。

(笑)知りませんでした。いい話ですね。あなたはジェフ・ベックやエリック・クラプトンとも交流があるんですよね。それより前にはなかった芸術が孵化しつつあった頃に、こうした人々と交流するなんて、さぞかし楽しかったでしょう。当時の革新的なミュージシャンと交流してたんですから。あなたもそのひとりなわけですが。

 楽しかったね。エリック・クラプトンの話をしようか。革新的なギター・プレイヤーだってことは置いといて、あいつはオレの最初の結婚相手で、息子ジェシーの母親となったクリッシーと付き合ってたことがあるんだぜ。エリックとオレはこのくらい親密なんだ。息子としてみたら、オレと付き合ってた頃のクリッシーの話を読むのは興味津々だろうなあ。エリックとオレはいつも互いにからかいっこしてたんだ。「オレの女を盗みやがって!」とかさ。いつも友好的だったよ。オレたちは恩恵をギブ&テイクしていたからね。オレのギター・プレイに大きな影響を及ぼしてることの他に、私的な関係においてもオレはこいつには一目を置いていた。ヒーローとしてリスペクトしながら、親しくしてもらえてるんだから、ちょっと奇妙な関係さ。こいつら全員、オレより数歳年上だから、いつも思ってたよ:「オレの時代もそのうちやって来る。今はこいつらが有名で人気があってナンバー1かもしれないけど、心配無用だ。そのうちオレの番も来る」って。ジェフ・ベックもそうだった。こいつはヤードバーズにいた。ロッド・スチュワートもそうだった。ジョン・ボールドリーのところでそれなりに成功してたけど、回りの連中は少し年上だった。オレはこいつらから学んだよ。オレの時代も来るって。でも、ずっと、そういう気持ちの下側に、ストーンズに入りたいって気持ちもあったんだ。

その目標に対してどうやって備えていったのですか? 一連の出来事がストーンズに繋がっている道だったと思いますか?

 もちろん。一連の出来事は踏み石だった。ジェフ・ベックがヤードバーズを辞める前に、オレはシェフィールドでこいつと友達になっていた。シェフィールド・モジョってクラブでね。打ち解けて友情を育んでから言ったんだ。「いつの日か一緒にやろう」って。そしたらジェフも「ヤードバーズは永遠には続かないから、いつか何かやろうな」って言ってくれた。しばらく、この話はそのままになってたんだけど、ジェフがヤードバーズを辞めた時に、電話をかけて「これからどうすんのさ?」って訊いたんだ。そしたら「何をやったらいいのかわかんないんだけど、あのバンドからは抜け出す必要があった。あまりに窮屈でさあ。ところで、オレと一緒にバンドをやるっていうのはどう?」なんて言うから、オレは「いいね」って答えた。あれも1つの踏み石だった。で、このバンドが解散する間際には、既にロッド・スチュワートと強い絆が出来てたし、オレたちはスモール・フェイセスが大好きだったから、スティーヴ・マリオットが辞めた時に、ロニー・レインに電話をかけたんだ。そして、ふたりでこのバンドをフェイセスに変えちゃったんだ。ロニー・レインから「オレたちどうしたらいいのかわかんないよ。助けてくれないか」って言われたので、「いいよ」って答えたんだ。それだけ。これも踏み石だった。丁度この頃、オレは知らなかったんだけど、ストーンズからロニー・レインに打診が来てたんだって。オレがストーンズに入る気あるかどうかって。ブライアン・ジョーンズが亡くなってミック・テイラーが加入する前の話さ。そしたら、ロニー・レインが「あいつならフェイセスで超ハッピーにしてるよ」って答えちゃったんだよ。オレに一言も言わずにだぜ。オレは5年間、このニュースを知らなかった。でも、これは結果的に、災い転じて福ってやつだ。

  

ついこの間、フェイセスの1970〜75年のアルバムを集めたボックスセット《You Can Make Me Dance, Sing, Or Anything》がリリースされました。多くの人は、この一連のアルバムを、あなたやロッド・スチュワートの音楽的成長を記した重要な作品だと考えています。この時期を振り返ってみると、フェイセスは音楽文化にどのような貢献をしたと思いますか?

 白人のガキがソウル・ミュージックに進出する自由を獲得したことだ。オレたちはデヴィッド・ラフィンやテンプテーションズ、インプレッションズのカバーをやってたし。それから、マディー・ウォーターズのブルースを楽天的なパーティー・フィーリングとミックスしたことだ。コンサートの後、ファンを丸ごとホテルに招いて、たっぷり盛ってやったり、音楽のレッスンをしたりした。オレたちは何かを感じたかったんだ。

新著にはあなたが1965年に行なった冒険が記されています。この年はロック史上、特に面白い時期でした。音楽は急激に発展を遂げていましたが、その原因としてどんなことが起こってたと思いますか?


 才能のある連中を育てていたマネージャーがたくさんいたんだよ。ロバート・スティグウッドとか。ザ・バーズ(The Birds)はレオの後、こいつがマネジメントしてたんだ。キット・ランバートって奴にも会った。こいつはザ・フーや他のいくつかのバンドの世話をしてた。それからブライアン・エプスタインだ。こういう連中が才能のある奴らを抱えてたのさ。家族みたいなものだった。オレたち全員、互いに親しくしていた。ちょっと違うことをやってるが、常にもっと良くなるように頑張ってるという共通の繋がりもあった。

この本はあなたがこの年に行なったさまざまなトラベルのドキュメンタリーにもなってます。この頃を振り返って、新たに思い出したことはありますか?

 ある日の午後をウィルソン・ピケットと過ごしてたって話があるだろ。ウィルソンに会ったことなんて忘れちゃってたから、「ワオ!」だった。初めて会ったのは、数年前にニューヨークでボビー・ウーマックと一緒に楽屋に行った時じゃないかと思ってたよ。ところが実は、50年前に会ってたんだよ。〈Midnight Hour〉の頃だろ。凄いよなあ。

ロニー、新人アーティストにはどんなアドバイスをしますか?

 野心の要素を捨てるなってことだね。頑張ることをサボっちゃいけない。聴衆に手応えがなくても、心が折れちゃいけない。オレは昔、そういう連中を壁の花って呼んでいて、そいつらを壁から引っ剥がして、ステージ前まで来させようと頑張った。出番が終わる頃には、数百人を自分の音楽に改宗させたかなあ。その連続だった。マネージャーもオレたちのために毎晩頑張っていた。オレは1966年にも日記をつけてたので、それも読み返してみたいんだよね。1965年のものよりずっと小さいし、面白さもずっと少ないと思うんだけど、筆致は変わってないはずさ。これも発掘しなきゃいけないなあ。どこかにあることはわかってるんだ。マネージャーのシェリーが持ってると思う。彼女は1965年の日記を初めて見た時に、「これはちょっとしたお宝だわ。大勢の人に見てもらわなきゃ」って言ってたよ。



50年後、B面の〈How Can It Be?〉をマーク・ノップラーのスタジオでレコーディングしましたね。様子はどんな感じでしたか?

 スタジオに入って、ちょっとこの曲を復習して、ちょっとアップデートしてみようかなって思ったんだ。基本的に、この曲は単なる端曲だ。日記全体の雰囲気もそうだ。1960年代のあの年をチラッと見るようなものだ。あの頃起こってたことは、次に起こる出来事への糸口みたいなものだった。それから10年もしないうちに、オレはストーンズのメンバーになったけど、そんなことになるとは、あの頃には考えてもなかったんだから。

ストーンズのメンバーになってからは、17歳の頃を思い出したりしましたか?

 ああ。ストーンズ初期の歌を練習したのを覚えてるよ。1974年にはストーンズのリハーサルに参加し、1975年にはツアーに出た時には、全冒険をやり遂げたような変な感覚があった。さて、オレを夢中にさせた曲を全部演奏しよう。それには自分の音を与えよう。だが、レコードではブライアンかミック・テイラーがプレイしてるオリジナルのパートにも敬意を払わなきゃね。

1965年のロニー・ウッドにはどんなアドバイスをしますか?

 何も変更するな。そのまま続けろ。頑張って進み続けろ。そうすれば、常に正しい時には正しい場所にいることになる。

[テープ起し担当:ガレン・ホーソーン]


Copyrighted article "A Conversation with Ronnie Wood" by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/mike-ragogna/how-can-it-be-chats-with_b_8608838.html
Reprinted by permission
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2016年01月12日

メタリカのロバート・トゥルヒージョ、ジャコ・パストリアスを語る

 ジャコ・パストリアスの伝記映画《Jaco》が完成し、アメリカではDVD/Blu-rayとサウンドトラック盤が既に発売。本邦でのジャコ人気からすると、日本でも既に映画の公開やディスクの発売が決定してると思います。
 この映画で面白いのが、スイサイダル・テンデンシーズ〜インフェクシャス・グルーヴズで活躍し、現メタリカのベーシストのロバート・トゥルヒージョ(トゥルヒーヨ?)が制作を担当していることです。私の音楽的興味は狭い範囲で凝り固まってしまっているため、このへんのメタル系とは殆ど接点なく暮らしてきましたが、ロバートの交友関係や音楽に対する造詣の深さが半端でないことにはただただビックリ。
 ひとつのインタビューでここまで多岐に渡るジャンルの音楽(ハードコア・メタルからUKポップ、プログレッシヴ・ブルーグラスまで)が話題にされているのは、拙ページでは初めてでしょう。





 



メタリカのロバート・トゥルヒージョ、ジャコ・パストリアスを語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ


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[こんなルックスの人が実はジャコの大大大ファン]


ロバート、あなたが受けた人生初の音楽的衝撃ってジャコ・パストリアスなんだそうですね。

 そう。ミュージシャンだったらたいていやってることなんだけど、オレも常に自分のいろんなインスピレーション元からアイデアを引っ張ってきて、大量のそうした影響を合体させて自分の音楽にしようと頑張っている。1979年に初めてジャコを見た時には大感激だった。それで人生が変わって、クリエイティヴな道に進もうと思ったわけさ。

どの時代のジャコのライヴ・パフォーマンスを初体験したんですか?

 ウェザー・リポートにいた時に見たんだよ。1970年代後半にジャコの評判を聞いてはいたんだけど、ウェザー・リポートが来てサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムでコンサートをやったのは、1979年のことだった。当時は、ここがよくコンサートを見に行く地元の会場だった。自転車で行けるっていうのが、サンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムのいいところだった。この時は、親父がオレと友人たちを車で送ってくれたんだけどね。ロニー・ジェイムズ・ディオ、ジャン=リュック・ポンティー、ウェザー・リポート、プリテンダーズも見に行ったなあ。あの会場にはいろんなジャンルのミュージシャンがやって来た。しかも、住んでたところの近くにあって、行くのが簡単だった。生活の一部だったね。ジャコはずっと謎の人物だったんだ。今では、インターネットでバンドやミュージシャンのことを調べられるけど、昔はそうはいかなかった。実際に見なければならなかった。まずレコードを買って、それで体験して、その後、運が良ければコンサートを見に行くことが出来たわけさ。良い時代だった。楽しい時代だった。ああいうスタイルの音楽が人気があって、同じ頃、スタンリー・クラークを見ようと思ったんだけど、チケットが売り切れで、会場の中に入ることが出来なかった。グリーク・シアター4公演が売り切れになっちゃって、オレは漏れてくる音を駐車場で聞こうと頑張ったくらいさ。当時は、全て自分の体を使ってやらなければならなかった。
 ジャコに注目したのは、観客を手中に収めるのがうまかったからだ。殆どジャコのコンサートみたいになっていた。他のミュージシャンをないがしろにするような行動をしてたってことじゃないよ。ジャコは人の心を掴むのがうまく、それにカッコよかったのさ。「こいつはオレたちと同類だ。長髪で上半身裸だし」みたいな感じだったね。
 ジャコが発するエネルギーは、年上の友人や、オレたちが一目を置いていた人たち、ヴェニス・ビーチ・トライブに含まれる人たちを彷彿させた。スケーターやサーファー、ミュージシャンの多くは似たような雰囲気を持っていたが、中でもジャコは独特な存在だった。「あいつ、カッコいいぜ!」 コンサート会場にはいろんなタイプの連中がいた。年上の奴、保守的な奴、パンク・ロッカー、ヘヴィー・メタル系、ジャズ・ファン、ロック・ファンが回りにいた。そういう雰囲気もとても良かったよ。パーティーさ。

あの当時、ジャコとパット・メセニーは新しいやり方で音楽的冒険を行なっていました。聴衆が彼らに魅了されたのは、自分がどういう音楽を聞いてるのかよく分からなかったからでもあるでしょう。

 オレもそう思うね。パットは《Offramp》でそれをやった。ギター/シンセサイザーの領域を探検したんだ。当時はその分野はあまり探検されてなかったから、皆、ポカーンさ。でも、オレはそうならなかった。大好きだった。11年生の時に学校をサボってパーム・スプリングスに行って、プールサイドに大型のラジカセを持ち込んで、パット・メセニーの《Offramp》を聞いたよ。いろんな音楽を聞いてトリップしたなあ。でも、ジャコこそ革新者だと思ったよ。エディー・ヴァン・ヘイレンみたいなね。エディーの最も有名なギター・ソロ曲の〈Eruption〉を初めて聞いた時、凄いんだけど何だかわからなくて戸惑ってしまった。ギターなのかシンセサイザーなのかキーボードなのかわからなかったんだ。エディーはハマリングオンのテクニックを使ってるんだけど、全然違うように聞こえた。それでいて、ヘヴィーでメタルだった。「いったい何の楽器を使ってるんだ?」って思ったよ。
 ジャコを聞いた時も同じだった。フレットレス・ベースでゴロゴロ鳴るような超ユニークな音を出していただろ。〈Teen Town〉ていう曲があるけど、基本的にはキック・ドラムとハイハットがリズムを刻んでいて、飾りで少しキーボードとサックスが入るだけで、この曲の大部分はベースが占めてるんだ。これはステートメントだったよ。ベースがメロディーを弾いていて、しかも、ソロでもあるんだから。パワーと激しさを持っていた。オレには超強力な瞬間だったね。その後、〈Portrait Of Tracy〉を聞いた時には、さらにクレイジーになった。ベース・ソロの作品なんだけど、ハーモニクスとメロディーで出来てるんだ。当時は、ハーモニクスっていったら、もっぱら楽器をチューニングをする時に使うものだった。でも、ジャコはそれで曲を作ってしまったんだ。エディー・ヴァン・ヘイレンのギターから受けたのと同じ衝撃をジャコから受けたよ。頭を掻きながら「こいつはどうやってるんだろう?」って悩んだね。何をやってるのかわからないという状態には、いいことがあるんだよ。後になると、それによって特別性が増すのさ。初めてライヴでそれを見る時には、エイリアンか何かに遭遇して「ありゃ何だ? こいつはどこから来たんだ?」って気分になるんだ。

  

ジャコはハービー・ハンコックと〈Liberty City〉を録音しましたが、一緒に演奏する人が誰であってもガッチリと手を組み、その人を盛り立てるアレンジを作り出す才能も持っていましたね。

 偉大なコラボレーターでもあったね。皆にジャコとわかるような技を駆使しながらも、他のミュージシャンもしっかり立てるやり方で演奏することが出来る人だった。

 

でも、ジャコとコラボしたミュージシャンにとっては、笛吹きオジサンについて行くような感じだったのではないでしょうか。ジャコが作ったパートによって曲調が設定され、他のミュージシャンがうまく解釈しながらそれについていってると、ジャコは予想外の音を挿入して、コラボ相手のヴィジョンを補完しました。

 コール&レスポンス的なアプローチをしてたんだと思うね。つまりコミューニケーション。特に当時のジャズの世界で行なわれていたようなミュージシャン同士の会話だ。ハービーやジョー・ザヴィヌルがあるフレーズを弾くと、ジャコがそれに合わせて入るとか、そんなことをずっとやってたんだね。柔軟性コンテストというか、互いに人の一枚上をいく競争のようになってた時もあった。ジャコは競争心旺盛だったから。ジャコがベース・プレイヤーとして素晴らしい会話をしていたことは確かだね。そうすることを恐れていなかった。自信は建物の屋根を突き抜けるほどあっただろう。自分が受けたさまざまな影響をベースを通して皆と共有することに誇りを思ってた人だったんだから。ここはヘンドリクスのフレーズ、ここはチャーリー・パーカー。ジェリー・ジェモット等、いろんなヒーローから拝借したファンキーなベース・ラインも聞こえてくる。ジェリーは当時トップのセッション・ベース・プレイヤーで、アリサ・フランクリンやB・B・キング、それこそたくさんの人のセッションに参加していた。ジャコはジェリーのフレーズも拝借している。ジャコの弟が言ってたんだけど、テレビを見ている時でさえもベースを持っていて、テレビから聞こえてくるベース・ラインを拝借していた。いろんなテレビ・コマーシャルからもね。それを〈Slang〉っていうベース・ソロの中に投げ込んでいたらしい。この曲はいつもちょっと違うだろ。ジャコは自分の中にあるもの全部を他のプレイヤーと、それからオーディエンスと共有していたんだ。

  

映画のプロジェクトはどういうふうに始まり、進展していったのですか? ジャコの息子のジョンと作業をしたんですよね?

 そう。長い話なので、ショート・バージョンを話そう。ジャコの長男のジョニー・パストリアスに初めて会ったのは、1996年のことだった。スイサイダル・テンデンシーズと、オレのもう1つのバンド、インフェクシャス・グルーヴズのツアー中に、フロリダで共通の友人を介してちょっと話をしたんだよ。インフェクシャス・グルーヴズはもろにジャコの影響を受けているオルタナティヴ・ファンク・バンドで、エピック・レコードからアルバムを3枚出している。ジャコからの影響が主な原動力だったんだけど、あちこちにセックス・ピストルズやメタリカ、スレイヤーの影響もあって、まさにそういうスタイルのミクスチャーで、とても楽しかった。でも、何よりもベースがインフェスシャス・グルーヴズの音楽の創造力の主な源だったんだ。ジョニーはそれがわかっていた。1996年に共通の友人がオレたちを会わせてくれた時には、本当にウマがあったよ。オレがジョニーに言った最初の言葉のひとつが、いつか自分の親父の映画を作る必要があるよ、だった。ジョニーの親父の影響力は巨大かつ広範囲だ。ジャコに心酔しているゴスペルのベース・プレイヤーもいる。ジャコがこの星で最もカッコいいベース・プレイヤーだと思っているヘヴィー・メタルのミュージシャンもいる。ロックの連中だってそう。それこそいろんなタイプのミュージシャンがジョニーの親父をリスペクトしているんだ。「語らなければいけない物語があるだろ」ってオレが言ったら----皆がビックリするような特別なものだからね----ジョニーは「ああ、そうだな。いつかはやるよ」って言っていた。
 それからしばらく経って、ジョニーがいろんな人にインタビューを開始したのを知ったんだけど、オレの目には映画が完成しそうにないほどノロノロしてるように見えた。単にオレがそう思ったってだけのことなんだけど、音楽であれ映画であれ、バンドをやってレコードを作ってる友人もいるし、映画を作ってる友人もいるので、事がどういうふうに運ぶのかはわかっている。十中八九、完成には漕ぎ着けないだろうと判断出来る理由がたくさんあったんだ。映画作りは超複雑な作業で、それに一生をかけてる人はたくさんいる。この映画が実現するためには、誰かが制作の管理をしなきゃいけない、少なくとも資金調達等の面で、ということにオレはある時点で気づいたんだ。それで、オレはプロジェクトの資金を調達し、プロデューサーとして制作の管理をすることで、かかわることになったのさ。そしたら、ギアが入ったよ。6年前まではこんな調子だったけど、それ以後はオレがプロジェクトをしっかり管理している。
 幸運なことに、素晴らしいスタッフが揃った。このプロジェクトには3人の監督がいたんだけど、1人目の奴は1カ月しか続かず、次のスティーヴン・キジャックは1年かかわってくれた。その後、ここ4年間はポール・マーチャンドが務めている。ポールは編集者でもあって、いつも素晴らしいセグメントを作ってくれた。彼はマッド・サイエンティストみたいな奴なんだ。スクリーンに魔法をもたらしてくれるクリエイティヴなマッド・サイエンティストだ。ジョニーとポールとオレで作業をした時もあれば、オレだけだったこともある。1年半前に、ポールがマーティン・スコセッシと仕事をするんで半年ほどこっちを離れていた間に、オレはそれまでに作ったカットを見直して、メモを取り、インタビューのいくつかを詳しく検証してみた。ブーツィーのインタビューを最初から最後までじっくり見て、貴重な発言を発見した。
 こういう映画には長いプロセスが必要だ。1、2年で出来るものじゃない。たくさんの宝物がある。1年ごとにこれでもう終了かと思ったら、別のお宝が出てくる。2年前はジョニ・ミッチェルの協力を得ることが出来た。ジョニは最初の4年間はプロジェクトの中にはいなかったんだけどね。3年前にはジェリー・ジェモットの協力を得ることが出来た。映画制作の前半の期間には関与してなかったんだけどさ。ジェリー・ジェモットとジョニが関与してくれたおかげで、映画の方向性がガラッと変わり、はるかに良いものになった。大きなインパクトがあったね。生きてりゃ、学ぶことが多いよ。人生ってそういうプロセスだろ。

この映画を作ったことで、ジャコのどんなことを発見しましたか?

 皆、それぞれの物語を持ってるということだ。初期段階のうちにわかったのは、全部の話は紹介出来ないということだった。これとは別に9時間の映画になってしまうから。たくさんの人に取材した。知らない人もやって来て、話をしてくれた。悲しい話の時もあれば、超笑える話の時もあった。ジャコは優れたユーモアのセンスの持ち主だったからね。彼のユーモアのセンスについては常に聞かされた。ジャコはよく人にいたずらを仕掛けたんだ。いたずらの王様だった。最も酷い状態だった時でさえも、ジャコはいつも、人を笑顔にしようとしてたんだ。オレが学んだのは、ジャコがもの凄いユーモアのセンスの持ち主で、常に人を幸せにしたがっていたってことだ。
 特に昔は、ジャコは家庭を超大切にする人で、子供のためなら何でもやった。年が上の子2人、ジョンとメアリーをよくツアーにも連れていった。ジャコはまた、あらゆるレベルで向こう見ずな男だった。ツアー・バスの屋根の上に立ってサーフィンの真似をしたり、海でボディー・サーフィンをやったり。泳ぐのも超得意で、運動神経抜群だった。映画の中ではそういうシーンも少し入っている。若い時から才能豊かだったことがわかる。でも、ジャコの精神状態についても、たくさん知ることになった。以前と同じ目でホームレスの人を見れなくなってしまったよ。人がホームレスになってしまうのにはたくさんの理由があるってわかったからさ。ドラッグの乱用のようなものだけじゃない。他にもいろいろな理由がある場合がある。ジャコは双極性障害を抱えていて、それで心身を病んじゃったんだ。そんなことも知ったよ。
 オレにとって、この映画は興味深い旅だった。自分に影響を与えた超重要な人物についてだけでなく、ジャコが人生で抱えていた問題についても知るに至った。今は1970年代とは状況が違う。昔は双極性障害について知ってる人は少なかったけど、今では薬で治療することが出来るんだ。いくつかの薬を正しい量飲めば、問題なく生活することが出来る。既にたくさんの人がそうしている。ジャコのことについて考えなかったことは一瞬もない。夜中に目が覚めても、考えてしまった。ジャコがそこにいて、何かを話してくれる、オレと何かをわかちあってくれているような感じだったよ。監督のポールもそういう状態だったと思う。何かが起こるのは理由があるからだ。もうやるべきことはやりきったと思う瞬間が何度もあったけど、実際はそうじゃなかった。そうして6年後、特別な映画が出来た。オレは鼻が高いよ。

ジャコはベース・プレイの歴史にどんな点を加えたと思いますか?

 どのスタイルのどのベース・プレイヤーに、ベーシストのトップ5は誰かって訊いても、ジャコは常にその中に入っている。トップ1、トップ2ではなくても、絶対にトップ5には入っている。ゲディー・リーやスティング、ヴィクター・ウッテンといった、オレたちがリスペクトし、高く評価し、大好きなプレイヤーに訊いてみても、ジャコの名前は必ず出て来る。凄いよね。オレにとっては、ジャコはジミ・ヘンドリクスと一緒にトップに位置する。たいていの連中が、ジャコをジミヘンにたとえている。ふたりをツイン・タワーと呼んでる奴もいる。
 ジャコのレガシーは、そのうち、作品に焦点を当てて語られることにもなるだろう。ジャコはベースを自分の楽器として使っていたけど、優れた作曲家でもあった。多くの連中が「ジャコはフレットレスのプレイヤーだった」って言ってるけど、フレットレス・ベースだけだったわけじゃない。〈Birdland〉ではフレットレス・ベースを弾いてるが、フレットレスと同じくらいフレット付きのベースも弾いていて、どんな人とも演奏することが出来たんだ。
 デヴィッド・ボウイはジャコと仕事をしたかったんだけど、願いは叶わなかった。イアン・ハンターがジャコと作った《All American Alien Boy》に触発されたんだろう。これは名盤だ。〈All American Alien Boy〉というトラックでは、ジャコはギターを弾いている。そして、この曲でロック史上最高のベース・ソロも弾いている。あまり知られてないんだけどさ。メタリカのスタジオで、これからイアン・ハンターに会いに行くんだぜって皆に言ったら----5年前にインタビューした時のことなんだけどさ----「オレもイアン・ハンター大好きだぜ。すげえじゃん。《All American Alien Boy》はいいアルバムだ」なんて言うんで、オレは皆に教えなければならなかった。「ジャコがあのアルバムでプレイしてるの知ってる?」って言うと、「マジ? 知らなかったよ」っていう反応だった。ジャコがあのアルバムに参加してるってことを知らない人もいる。実は、フレディー・マーキュリーとブライアン・メイも参加してて、ロックンロールの有名ミュージシャンのオールスター・キャスト状態なんだよ。ジャコのレガシーは、既に、その現実の大きさ以上に拡大しているのかもしれない。彼はこの世にいた短い間に音楽シーンに大きな衝撃を与え、その大きな部分がジョニ・ミッチェルとのコラボだと思う。《Hejira》は超美しいアルバムだ。ジャコはジョニの音楽のことを大して知らなかったんだけど、誰かとコラボするのが好きだから、「OK。それじゃ、音楽を作ろう!」って感じだったんだ。でも、出来上がったものは、それをはるかに超えてたよね。それが1970年代だった(笑)。

  

今の音楽の中にもジャコの影響は見てとれますか?

 面白いことを話そう。1980年代に大ヒットしたポップ・ソングがあった。カジャグーグーってバンドに〈Too Shy〉って曲があっただろ。この曲のイントロはジャコ・パストリアスの影響をモロに受けている。あのバンドのベース・プレイヤーだったニック・ベッグスにもインタビューしたんだ。あれは100%、ジャコの影響が出ている瞬間だと語ってくれた。彼が関与している他のたくさんの曲もそうなんだとか。これは当時、ナンバー1になった曲だ。それから、ポール・ヤングの〈Everytime You Go Away〉も、ジャコの影響だらけの大ヒット曲だ。オレが勝手に言ってるだけなんだけど、デュラン・デュランの〈Rio〉もジャコの影響と思しき瞬間のある曲だ。

  


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2016年01月09日

カルカッタでジョージを怒らせた私

カルカッタでジョージを怒らせた私
〜3番目のビートルズとのほんのちょっとの出会い


文:C・Y・ゴピナート


 ジョージ・ハリスンが怒り心頭状態なのは、私を睨みつけるその表情からわかりました。口をギュッと結び、とても腹を立てているようでした。
 私達はカルカッタにある古いアパートメント・ビルの8階のエレベーター・フロアで立っていました。1976年のことでした。ジョージの後ろでは、彼が泊まっていた部屋のドアが閉まっていました。私達の前には旧式のエレベーターの格子ドアがありました。エレベーターはクランクが回る音を立てながら、1階からゆっくりと、各階で停止しながら上がってきます。私達のいる階に到着するまで、少なくとも5分はかかるでしょう。私は5分間、ジョージを独り占めです。彼にお願いしたいことがひとつだけありました。

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【ジョージとウダイ・シャンカール 1974年に撮影されたもののようです】


 私はジュニア・ステイツマンという若者向けの新聞の記者をやっていて、その日の朝はいつも通り平穏に始まりました。ところが、午前11時くらいに、突然、編集長の部屋に呼び出されたのです。デスモンド・ドイグはアイルランド人で50代でしたが、30歳以上の人が誰もいないこのオフィスの中で、精神的には最も幼い人物でした。彼はとてもシリアスな雰囲気を装っていましたが、それはとても興奮している証拠でした。彼はそういう気持ちを隠せない人だったのです。
 「噂によるとですね〜」 デスモンドはメロドラマ風に言いました。「ジョージ・ハリスンという人物が、今、まさにこの町のどこかにいるそうなんです。しかも、噂によると、明日にはもういなくなってしまうのだとか。ヴァラナシに行くのではとささやかれています。本日のキミの仕事は、この人物を捜し出してインタビューし、生涯のスクープをものにすることです」
 スタートはこんな感じでした。

 カルカッタは大きな町ではありません。皆が皆を知っている状態です。まだインターネットもショート・メッセージ・サービスもWhatsAppもなかった時代ですが、私は目ぼしい数カ所に電話をかければ重要な情報にヒットすると思っていたのです。まずは、活躍中のロック・ミュージシャンたちに電話をかけることにしました。
 電話をかけるには、まず、親紙であるザ・ステイツマンの電話交換手を呼び出さなければなりませんでした。その日、当番だったオペレーターは、ステキな声のシンシアただひとりでした。私は毎回ここを通すことで、自分の電話の優先度をアップさせていました。シンシアはやさしい人でした。それに、私はシンシアに気に入られているようでした。
 彼女に繋いでもらって電話をかけた先は、伝説的グループ、グレイト・ベアのドラマー、ノンドン・バグチ;同バンドのギタリスト兼シンガー、故ディリップ・バラクリシュナン;別のグループのベーシスト、ルー・ヒルト;ジャズのマエストロ、ルイス・バンクス;別のジャズ演奏家、A・ブラガンザでした。彼らの多くは明らかにラリっていました。朝寝してるところを起こしてしまった人もいました。しかし、ジョージ・ハリスンが町に来ているのに、誰もそれを教えてくれなかったことに、少し傷ついている様子だったのは、皆共通でした。
 「ナイトクラブにかけてみたら。ジョージがどこかに来る予定が入ってるかもしれないよ」と記者仲間が入れ知恵してくれました。グッド・アイデアだ! 私はトリンカ、ムーラン・ルージュ(フランスのではなくて、ベンガル人が勝手に真似したものです)、モカンボに電話をかけました。しばらくして、こんなことしても何の埒も明かないことに気づきました。
 昼時になっても、私はジョージ・ハリスンを見つけるという目標に一歩も近づけていませんでした。取材が得意な記者という私の仕事は危機にさらされていました。鋭い取材を行なうジャーナリストという自尊心、威厳、評判も同様でした。私はランチを食べようと、しょんぼりした気分で下のスタッフ用食堂に行きました。

 ひとつだけ空いていた席に座ると、反対側にいたのは気難しいインド舞踊評論家でした。メインの新聞の記事執筆者の中でも、このインド舞踊評論家は一番の嫌われ者でした。彼は人をバカにした態度で大袈裟なことを言う、簡単な言葉で言うと、嫌な奴でした。
 「大したプリマドンナだよ!」 カレースープをズーズーすすりながら、こいつは文句を言ってました。
 「誰がですか?」と私は何の気なしに訊きました。
 「あの一家全員さ!」とこいつは語り始めました。「ひとりが音楽家で、もうひとりが舞踏家だからって、自分らは背後からお天道様に照らされている存在だ、約束なんか守る必要ないって思ってるのさ。だが、私の辞書では約束は約束だ」
 「約束をすっぽかした音楽家と舞踏家のいる一家って誰なのですか?」と私はぼんやりしながら訊きました。
 「シャンカール家の連中だよ!」こいつはお椀の中にパンを叩きつけ、そこらじゅうにスープを飛び散らかしました。
 「ラヴィ・シャンカールですか?」 私は突然、シャキッとなった。ジョージ・ハリスンがラヴィ・シャンカールを師として慕い、彼からシタールを習っていることは、皆が知っていました。
 「いや」と舞踏評論家は腹を立てながら言いました。「キミらジャーナリストは何も知らないんだね。ラヴィ・シャンカールはカルカッタじゃなくて、ヴァラナシで暮らしているよ。私が言ってるのは、兄のウダイ・シャンカールのことだよ。舞踏家の」
 「その人があなたの約束をすっぽかしたんですね?」
 「その通り」 舞踏批評家はしかめ面で言いました。「特別な来客があるので、今日は会えませんなんて言ってきやがった」
 「その特別な来客とは誰なのですか?」と私はすかさず訊きました。
 「さあね。バカな外国人がサラスワティの粘土像を買うために、明日、ヴァラナシに行くんだとさ」
 「特別な来客」が誰なのか、ピンと来ました。遂にジョージ・ハリスンを捕まえたと思いました。ジョージはラヴィ・シャンカールの兄の家にいるのだ。

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 私はデスクに戻って、シンシアの助けを少し借りて、ウダイ・シャンカール宅に電話をかけました。ミスター・ウダイ・シャンカール宛の手紙を持ってるので、ご自宅にうかがえば受け取っていただけますか?と私が言うと、イエスとの返事でした。そして、ミスター・ハリスンとかいう方宛の手紙も持っているのですが、そのようなお名前の方もいらっしゃいますか?と訊いたところ、電話はガチャンと切られてしまいました。
 と、殆ど同時に、電話交換手のシンシアの声がしました。彼女は朝中ずっと電話の中身を聞いていて、全てを知っていたのです。「ということは、あなた、ジョージ・ハリスンに会いに行くのよね?」と彼女が訊いてきたので、私はそうだと打ち明けました。「ねえ、難しいとは思うんだけど、哀れなシンシアのためにサインをもらってきてくれないかしら。今日はこんなにたくさんあなたのお手伝いをしたんだから」
 お安い御用だと私は言いました。

 約1時間後、私はカメラマンと一緒に苔だらけの古い建物の中にいました。その8階にはウダイ・シャンカールが暮らしているベンガル風コンパウンドがありました。『不思議の国のアリス』に登場するヤマネのように、半分寝ている80代の老人が、エレベーターを動かしていました。彼は中に人がいようがいまいが、全ての階に停まるのです。
 5分後、8階に到着し、私はウダイ・シャンカール宅のドアのベルを鳴らしました。ガタンという音を立てながらドアが開くと、料理人が言いました。「どんな御用ですか?」
 すると、彼の後ろに、現代で最も素晴らしいリード・ギタリストの1人の、あの有名な痩せた顔が見えました。ビートルズ3番目のメンバー、ジョージ・ハリスンでした。この瞬間、ジョージは不安げな顔をしました。マスコミの人間に見つかるのが彼お気に入りの悪夢であることは、明らかでした。
 ジョージは記者である私と、同行したカメラマンに発見されてしまったのです。
 私は料理人に、ウダイと面会の約束があると伝えました。すると、信用されたのか、ドアが開いたので、私は中に入りました。と、その時、ジョージはさっと家の外に出て行きました。私の横を通り過ぎて。私の後ろでドアが閉まりました。しかし、スクープ・インタビューの相手がこんなに近くにいるのに、みすみす逃してはなるものかと思い、私はUターンして、外に出ました。
 ドアが私の後ろで閉まりました。ここにいるのはジョージ・ハリスンとサイ・ゴピナートだけです。ふたりで超遅いエレベーターを待っているのです。
 ジョージ・ハリスンを見ると、エレベーターの格子ドアを睨みつけていました。パジャマとクルタを着ていて、長い髪が背中まで伸びていました。ここで私は1つのことを確信しました:スクープ・インタビューは無理そうだな。私はシンシアを思い出しました。今頃は、ジョージ・ハリスンのサインが手に入るかもって、友達全員に吹聴してるだろうなあ。
 私は取材用ノートの何も書いてないページを開いて、ジョージのほうに差し出しました。
 「サインをいただけませんか、ミスター・ハリスン」と私が言うと、ジョージはこっちに怖い顔を向けました。「キミ、マスコミの人間だよね…」 ジョージはこう言うと、むこうを向いてしまいました。
 ジョージ・ハリスンが私に向かって発したのは、この一言だけでした。

追記:私が書いた記事『ジョージ・ハリスンは真夜中にガンジスのほとりで何をやっていのか?』はジュニア・ステイツマン紙に掲載されました。ジョージの死後、2013年にマーティン・スコセッシがジョージの伝記映画『Living in the Material World』を作りましたが、私が1974年に書いたこの記事にカメラがズームインしている箇所があります(0:47〜0:54)。



 電話交換手のシンシアには、ジョージ・ハリスンのサインをあげました。そして、彼女は今でも、それをジョージが書いたものだと信じています。


Copyrighted article "How I got George Harrison all peeved in Calcutta in 1976" by C Y Gopinath
http://scroll.in/article/801227/how-i-angered-george-harrison-in-calcutta-in-1976
Reprinted by permission

   


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2016年01月04日

ブレント・ミッドランドの未発表ソロ・アルバム

 以前、当サイトでは、数奇な運命をたどっているグレイトフル・デッドのライヴ・テープに関する話を紹介しました(「長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命」)。その記事では、これらの音源の録音に携わった女性がブレント・ミッドランドと男女の関係になり、一緒に彼のソロ・アルバムをレコーディングしたことにも少しだけ触れていましたが、今回紹介する記事では、同じ著者がその部分をもっと詳しくリポートしています。
 日本語版の掲載に際し、参考になる音源のあるサイトのURLを、記事中に適宜加えておきました。

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ブレント・ミッドランドの未発表ソロ・アルバム
文:ディーン・ブドニック


 2015年はグレイトフル・デッド結成50周年だっただけでなく、暗い出来事の25周年でもあった。1990年7月26日に、グループのキーボード・プレイヤー、ブレント・ミッドランドが37歳という若さでヘロインとコカインの同時摂取によって亡くなった。ミッドランドはボブ・ウィア・バンドで活動した後、1979年にグレイトフル・デッドに加わった。ミッドランドはキース&ドナ・ゴッドショウがグループを離れた後にデッドのメンバーになって、ひとりでふたり分の役割をこなし、キーボードのスペースはハモンドB3の分厚いサウンドで満たし、他のメンバーの少々くたびれたヴォーカルには高音のハーモニーで甘みを付けた。
 2つのボックスセット《Spring 1990》《Spring 1990 (The Other One)》に収録されているミッドランドの晩年を、ボブ・ウィアはグレイトフル・デッドの「最もホットな時期」と称し、ビル・クロイツマンも自伝の中でこう語っている:「今までにいろんな奴の演奏を聞いたが、ブレントが最高のオルガン・プレイヤーだ。こいつは内面にたくさんのエネルギーを持っていて、それを毎晩、演奏にもたらしてくれた。(1990年春の)ショウにはエネルギーがあった。雷のような電気があり余ってるほどだった」

   

 キーボードとヴォーカルでの熱演の他、ミッドランドはバンドに合うスタイルを徐々に見出しながら、グレイトフル・デッドに対してオリジナル曲でも貢献した。〈Far From Me〉〈Easy To Love You〉といった初期の曲は、彼がラジオ受けの良さそうなマテリアルを作っていた時期の名残のようなナンバーで、多くのデッドヘッズの好みには合わなかったが、《Built To Last》に収録されている〈Blow Away〉〈Just a Little Light〉等の後期の作品は、ライヴで頻繁に演奏される人気曲になった。
 現在、グレイトフル・デッドのテープ庫の中には、ブレントの創造活動の、このもうひとつの面を証明する4箱分のテープが存在している。「ブレント・ソロ・プロジェクト」と記されたこのテープに収録されているのは、カリフォルニア州サンラファエルにあったデッドのフラント・ストリート・スタジオで1982〜83年に行なわれた作業だ。グループのレコーディング・エンジニアを長らく務め、当時はミッドランドと恋人同士の関係にあったベッティー・カンター=ジャクソンが、セッションのプロデューサーを務めていた。同じくデッドの音響スタッフのジョン・カトラーもエンジニアを務めた。



 「当時、ブレントと私は一緒に暮らしていて、彼はレコーディングしたいマテリアルを抱えていました」とカンター=ジャクソンは回想する。「私がフラント・ストリートの時間を押さえると言いました。でも、まずブレントがバンドを作ることが必要でした。彼が作りたかったのはグレイトフル・デッドのアルバムではなかったからです」
 実働している自分のソロ・バンドを持っていなかったミッドランドは、いろんなエリアを捜し回って、セッション用のプレイヤーを集めた。ある晩、ブレントはカンター=ジャクソンと一緒にビリー・サテライトというローカル・グループを偵察しにいった。このバンドにはギタリストが2人いたが、そのうちの1人、ダニー・チョーンシーは数年後に.38スペシャルに加入する。カンター=ジャクソンによると、彼女はチョーンシーが適任の人物と思ったが、ミッドランドは派手でない方のプレイヤー、モンティー・バイロムのほうが気に入ったらしい。
 バイロムは回想する:「不思議の国のアリスみたいな状況だったよ。当時、オレたちはキャピトルと契約する方向で話が進んでいるところだった。ある晩、ブレントとベッティーが客席にいたんだけど、正直言うと、オレはブレント・ミッドランドが何者なのか知らなかったんだ。グレイトフル・デッドの最新ラインナップはチェックしてなかったからさ。翌日、リハーサルをしている時に電話がかかってきて、電話の向こうの人間が「私はグレイトフル・デッドのブレント・ミッドランドです。あなたのギター・プレイをとても気に入りました。私のレコードでプレイしてもらえないかなあ」と言っていた。1週間もしないうちに、ブレントはオレたちのリハーサルにやってきて、ブラブラしたり、オレのバンドとジャムったりして、すぐに意気投合した。当時はブレントのことを大親友だと思っていた。クレイジーなリハーサルを始めた頃、オレはしばらくベッティー宅で暮らしていて、裸のジャニス・ジョップリンの写真の下にあるベッドで寝てたよ。
 ブレントはオレが出会った奴の中で最も才能豊かな人物のひとりだ。毎晩、あんな高音まで歌える奴んて会ったことない。グレッグ・オールマンとハウリン・ウルフを足して2で割ったような奴だったね。凄い男さ。オレが音楽ビジネスに入る足がかりとなったのが、あのプロジェクトだった」
 ドラマーのジョン・モーセリとベーシストのポール・マーシャルが参加して、プロジェクトのラインナップは完成した。ふたりともカリフォルニアのサイケデリック・ロック・シーンと深い結び付きを持っているミュージシャンだった。ミッドランドがモーセリと出会ったのは、1974年に両者がバットドーフ&ロドニーというフォーク・ロック・デュオのバックをやった時だった。4年後、ボブ・ウィアが《Heaven Help the Fool》を宣伝するためのツアー用の5人編成バンドを組む際、彼にミッドランドを推薦したのがモーセリだった。マーシャルは、1969〜71年にロサンゼルスを中心に活動していたストロベリー・アラーム・クロックの元メンバーで、彼と演奏活動をともにしていたこともあったモーセリが、彼の参加をミッドランドに提案した。
 ミッドランドはグレイトフル・デッドみたいなアルバムにはしたくないという意向を持っていたものの、彼がこのグループの中でああいう役割を担っていたことや、レコーディングに使っていた場所が場所だったので、さまざまなメンバーが時折、様子を見に来た。カンター=ジャクソンは、ジェリー・ガルシアがトラックの1つに参加したことを覚えているという。これまでに流出した音源の中には、これは含まれてないが、テープ庫の中にはまだまだたくさんのテープが眠っている。彼女によると、ジェリー・ガルシア・バンドの往年のベーシスト、ジョン・カーンも1曲で参加したという。
 バイロムとマーシャルは、ミッキー・ハートとフィル・レッシュがオブザーバーとして何度もセッションに立ち会っていたことを覚えている。バイロムは〈Maybe You Know〉のレコーディング中のワン・シーンをこう回想する:「はっきりと覚えているよ。ソロを弾いてる時にスタジオの向こうを見たら、フィル・レッシュがこの曲に合わせて、我を忘れたように跳びはねてたよ。ブレントとベッティーに愛と応援の気持ちを贈ってたんだね。オレたち全員にとって、これはとてつもなく大きなことだった」
 このギタリストは、記憶に残るシーンをさらにもう1つ回想する。1980年代初頭のような雰囲気のロックンロール・ナンバー〈Nobody's〉のレコーディング中の出来事だ:「1本2万ドルもするマイクロホンをいくつもフラント・ストリートに設置したんだ。ベッティーが、ブレントのおニューのハーレー・ソフテイルがトップ・スピードで走る音を録音したいと言い出したのさ。オレのギター・ソロの前に、この音を入れる予定だったんだ。クレイジーだったね。サンプリングとか、まだ存在してない時代だった。1度目にブレントが1ブロック走った時には、十分なRPMに達していなかったので、もう1度やったんだけど、この時は向こうのほうで事故って、バイクを大破させてしまったんだ。超心配して行ってみると、ブレントは無事で、「オレがここまで頑張ったのは、モンティーにギター・ソロを弾いてもらうためだからな」なんて言ってたよ」
 マーシャルは次のような思い出を語る:「ブレントとはとても仲良くなったんだ。あいつの家に泊まって、一緒に飯を食い、遊んだよ。楽しかったなあ。ブレントは食べ物とワインにおいていい趣味をしているスイートな奴で、素晴らしいキーボード・プレイヤー&シンガーだった。ドライで気の利いたユーモアのセンスも持っていた。
 一緒にレコーディングの作業していて楽しい奴だった。とても辛抱強く、集中力のある人間だったよ。オレは曲をとても気に入っていた。プロジェクトの何もかもがグレイトだった。精神もしくは気分を変容させる物質が常に大量にあったので、セッションの記憶はちょっと曇っちゃってるかもしれないし、あの時のプレイにも少し影響してるかもしれないけど、ジョンとブレントとモンティーは優秀で、いいトラックが録音出来た。修正が必要な箇所が1、2箇所あったとしたら、それはオレのプレイしたものだ」
 著作権に関する記録を見ると、ミッドランドが〈Inlay It in Your Heart〉〈Dreams〉〈See the Other Side〉〈Long Way to Go〉など、全曲のメロディーと歌詞を作ったことが確認出来る。マテリアルの多くは、当時のFMでよくかかっていたようなギラギラ系サウンドに乗せたラヴ・ソングで、ミッドランドのヴォーカルもケニー・ロギンズやマイケル・マクドナルドを彷彿させる。後にグレイトフル・デッドのレパートリーになった曲も2つある。〈Tons Of Steel〉《In The Dark》用にレコーディングされ、LPではB面のオープニングを飾った。前述の〈Maybe You Know〉は、デッド伝説においては、1986年4月21日のミッドランドがベロンベロン状態の時のバージョンで有名になってしまった曲だ。
 レコーディングのプロセスが1年もの期間に及んだのには、ミッドランドの完璧主義が反映されている。バイロムは次のように説明する:「オレはデッドのショウに通い始めたよ。ジェリーを抜かしたら、ブレントは一番働き者のメンバーだった。ある晩、サンタクララでブレントと一緒にB3のスツールに座っている時に、1曲のうちに3台のB3オルガンを取っ替え引っ替えするのを目撃したよ。1曲のうちにだよ。3台だよ。2台じゃなくて。スタッフがB3を転がしながら向こうに持って行くと、ブレントは言った。「これは不合格。別のものを持って来てくれ!」 確かにあいつの言う通りだったんだけど、完璧主義っていうのは音楽においては不幸の元なのさ。オレ自身、ちょっと完璧主義なところがあるんだけど、どこかのレベルで、それを止めなきゃいけない。完璧ではないものも受け入れなければいけない。そういうものにこそ味わいがあったりする。そうでなかったら、ジミ・ヘンドリクスのレコードなんてこの世に存在しないよ。それがブレントが抱えている唯一の不幸の種だった。こいつにとっては、ハーモニーの全てが完璧でなくてはならなかった。オレは思ったよ。「ブレント、ちょっとフラットしてたかもしれないけど、及第点だよ。オマエらしさがある」って。
 その後、レコード・プロデューサーになった身として、オレはこのセッションからいろんなことを学んで、後になって、それを仕事に生かしたよ。ブレントの抱えている恐怖心を見ることによって、自分の恐怖心をなくすことが出来た。今では、オレはさっさとレコードを制作する。ブレントのセッションでは、オーバーダブは歯を抜くようなものだった。あれ以来、オレはあんなふうにレコードを作ったことはない。そう感じてたのはオレだけじゃない。ベッティーも同じ意見だった。彼女も「十分いい、ブレント。本当に素晴らしい」って言っていた。でも、ブレントにとっては、グレイトフル・デッドのキーボード・プレイヤーではあったものの、アーティストになるのは新しい体験だったんだ。ブレントは、オレから見たら、あらゆる点でアーティストだったんだけど、自分で自分をアーティストと呼ぶのに抵抗があったんだろうね」



 バイロムは、ミッドランドとともに、レコーディングの作業と定期的に行なうその手直しの作業を1年間続けた後、遂に、先に進むことにした。ビリー・サテライトはドン・ゲーマン(ジョン・メレンキャンプやR.E.M.の作品も担当)のプロデュースのもと、キャピトル・レコード用にアルバム《Billy Satellite》を録音し、ジェファーソン・スターシップのツアーで前座を務めた。このグループはこのアルバムをリリースしたのみで解散してしまったが、2年後、バイロムが共作者としてクレジットされている〈I Wanna Go Back〉は、エディー・マネーのトップ15・ヒットとなった。

 

 ミッドランドも間もなく熱意と勢いを失った。カンター=ジャクソンは回想する:「私たちは別れてしまい、プロジェクトも瓦解してしまいました。私がミキシングをしたのですが、ブレントはミックスしたテープをどこかにやってしまい、自分でミックスしようとしたものの、同じものにはなりませんでした」
 オリジナル・ミックスも別バージョンも、今日、テープ庫の中にある可能性は極めて高い。こう思うと、モンティー・バイロムは今でも心が痛む。「あのレコードが暗い物置の中で静かに死を迎えるなんて、正しいことじゃない。未発表のままなのはとても残念だ。フェアじゃないよ。1982年ぽいサウンドだとしても、ブレントのたったひとつのソロ・レコードなんだから」


Copyrighted article "The Other Side: Brent Mydland’s Unreleased Solo Album" by Dean Budnick
http://www.relix.com/articles/detail/the_other_side_brent_mydlands_unreleased_solo_album
Reprinted by permission



 以上が1982年頃制作していたブレント・ミッドランドのソロ・アルバムの話ですが、私のほうからちょっと追加したいことがあります。





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