2016年11月20日

階下で練習するボブ・ディラン

 今回紹介する記事は下の地図の界隈で起こった出来事に関するものです。ボブはマクドゥーガル・ストリート94番地のタウンハウス(6番街の1本東がマクドゥーガル。94番地はマーメイド・オイスター・バーの向かい側あたり。AJ・ウェバマンはここのゴミ箱を漁った)を持っていた他、ヒューストン・ストリート124番地を借りて練習スタジオにしていました。2014年に149枚ものアセテート盤が見つかったのは後者からです。

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 1975年6〜7月のボブの動向は以下の通りですが、特に6月末から7月上旬にかけて撮影された写真で、ボブの着ている服が同じなのが気になります。真夏のニューヨークでシャツを何日も替えないのは良いアイデアではありません。同じものをいくつも持ってたのかもしれませんが…。

1975年6月26日 ジ・アザー・エンドでパティー・スミスのライブを見る

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6月27日 ホテルでサンタナと会った後に一緒にローリング・ストーンズのMSG公演に行き、楽屋でミック・ジャガーと会談

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6月30日 路上で見かけたスカーレット・リヴェラをナンパ。夜はボトムラインでマディー・ウォーターズのライヴに飛び入り

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7月2日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴを見る

7月3日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴに飛び入り



7月4日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

7月5日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

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7月中〜下旬 イースト・ハンプトンでジャック・レヴィーと曲作り
http://heartofmine.seesaa.net/article/367640792.html

7月28日 《Desire》レコーディング開始


  







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2016年11月05日

カール・パーマー、キース・エマーソンの思い出と近況を語る

 キース・エマーソン死去後(9月)に行なわれたカール・パーマーのまとまったインタビューがこれ。早口でたくさん喋る人のようです。

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カール・パーマー・インタビュー
聞き手:マイク・ラゴーニャ


ニュー・アルバム《Live In The USA》をEL&Pのバンドメイト、キース・エマーソンに捧げてますね。ここ数年間は、キースとはどのような関係だったんですか?

 知っての通り、EL&Pはメンバーが仲良しで、一緒にディナーに出かけ、家も隣同士で、祝日を一緒に楽しむようなバンドではなかった。演奏する時だけに限って手を組んでいたバンドだった。音楽に関しても、いろんなことで意見が合わなかった。オレたち全員が、それについて文句を言ってた。オレも「もう一緒にやってられないよ」って言ったひとりさ。これはロンドンで《High Voltage》コンサートをやった直後の話だ。プログ・ロック・フェスティヴァルだった。もうEL&Pは終わりにして、それぞれがやりたいことをやったほうがいいだろうと思ったんだ。このコンサートはうまくいったけど、ノスタルジアだった。バンドは昔ほどいい演奏をしてなかった。演奏するのが徐々に辛くなってたキースは、EL&Pを終了して少しホッとしてた。オレとキースの関係は、昔と殆ど同じだった。あいつは何が重要なのかをしっかり見ている男だった。それは正しいことだった。もし、多くの「A級」のバンドがしてるように、助っ人プレイヤーを加えて続けてたら、オレはあまり満足しなかっただろうなあ。キースはEL&Pを終わりにして幸せだった。オレもそうだった。オレとしてはもう少し続けてもよかったんだけど、現実はそうはならなかったね。キースは今年、オレと一緒にプレイする予定で、(昨年の)12月にそのことについて話し合ったんだ。キースは自分のグループで日本に行く予定があったんで、6月、7月、8月の予定を確かめて、そこから話を具体化していこうとしていたんだよ。生きてたら、1、2回くらいならプレイしてたかもなあ。

  

 オレとキースとの関係は、昔からそんな感じだった。一緒に演奏するのは楽しかったけど、大親友ってわけじゃなかったんだ。とはいえ、オレのアート作品を展示したアート・ギャラリー・イベントに、キースは何度も足を運んでくれたんだ。キースは喜んでやって来て、いつも一緒に楽しくやったよ。好きな音楽も同じだった。EL&P以外でも、自宅にはレコード、CD、カセット等、似たような音楽コレクションがあった。たまに一緒に演奏するのなら何の問題もなかった。キースもわかってたんだよ----オレがそう言わなきゃいけない役目だったんだけどさ----EL&Pはバンドとして、もうこれ以上は仲睦まじく活動を続けてはいられないって。キースはオレとはOKだった。おそらく、グレッグともOKだったんだろう。でも、オレはバンドは続けられないって判断した日以来、グレッグとは話をしてないんだ。グレッグとキースの関係がどんなだったかは知らない。ふたりが一緒にツアーをやってた時にも、人間関係が多少アップ&ダウンしてたことは知っている。でも、オレはどっちの時もふたりを励まそうとした。ふたりがコージー・パウェルとツアーに出たいって言い出した時には、オレは喜んで送り出したさ。12年も一緒に活動してきたのに、あいつらはオレがエイジアのアルバムを完成させるまで、6週間も待てないなんて言うんで、「自分の仕事をやり遂げるまではエイジアを離れるわけにはいかないんだ」って答えて、コージー・パウェルとツアーに出るのに賛成したんだ。ロゴの使用やその他のことにもね。コージーとも個人的に話をしたよ。オレはこれがバック・カタログを大宣伝するビジネス・チャンスだと考えた。オレには金が入ってくるし、人々はエマーソン・レイク&パーマーの名曲を聞くことが出来るしね。

 

 オレが今回のアルバムを作り、キースのためにショウを行なった理由は、一緒にたくさんの音楽を作ったからってだけじゃない。オレがEL&Pの音楽を今でも宣伝し、演奏しているのは、それを誇りに思っているからさ。オレの全キャリアの中で一緒にプレイしたミュージシャンの中で、キースは最も優秀な奴だったっていうのは、本心からの発言だ。だから、キースが絶好調の時は、オレも実力を十分に発揮することが出来た。オレたちをまとめていたのは音楽の力だ。音楽は永遠になくならない。だから、キースのために出来る限りたくさんの時間を捧げたことを、自慢に思ってるし、それでただただ幸せだった。キースの音楽を生かし続けるのに、オレたちの音楽を生かし続けるのに、キースの名声を生かし続けるのに、オレが自分に出来る限りのことをやるのに、それが功を奏したんだ。今回のアルバムをリリースしたのは、音楽と、ミュージシャンとしてのキースへのリスペクトの気持ちからだよ。

今回のアルバムに収録されたライヴ・トラックはEL&Pの曲のバリエーションですね。ツアーに出てアレンジを考えるんですか? それとも、ツアー・ミュージシャンのポール・ビーラコヴィッツ、サイモン・フィッツパトリックと一緒にあらかじめ練っておいたんですか?

 キーボード・パートに関する限り、それをギターでどの程度までプレイ出来るのか、オレにはよくわからなかった。オレにはEL&Pの音楽をコピーする必要なんてない。それはそれでもうやっちゃったものだからさ。EL&Pの音楽はオーケストラやジャズ・バンド、いろんなジャンル、いろんなやり方で演奏されてきたんで、オレは別のやり方で披露したかったんだよ。すぐに思いついたのが、ギターを使おうってことだった。8弦ベースもいい。ハイテク・ギター・プレイヤーと、チャップマン・スティックも演奏出来るベース・プレイヤーが欲しい。チャップマン・スティックはシンセサイザーの音も出せるから、新しい世代に新しいやり方でEL&Pの音楽を届けようと思ったんだ。EL&Pがやったことをもう1度やる必要なんてない。それはもうやっちゃったんだから。この音楽を違うやり方で表現するのが、進むべき新たな道だった。ギターで弾けること、弾けないことを理解するのが、オレにとっての課題で、ロンドンに住んでて、キーボードのパートをギターにトランスポートする専門家のところに行ったんだ。その作業をしてもらって、出来ること、出来ないことを理解するやいなや、進むべき道が明らかになった。クラシック音楽とEL&Pのカタログを原動力とするプログレ・ヘヴィー・メタル・トリオを作ることだ。これがごまかしのない、ベストなアプローチのようだった。起用することの出来たギタリスト、ベーシストは、この音楽をキーボードからフレットボードに見事に変換してくれた。もちろん、ある種のハーモニー等は失われてしまったけど、一方、シンセサイザーからは得られないがギターからなら得られる荒削りの興奮があった。つまり、EL&Pの音楽を演奏したけど、違うやり方でってことさ。違うキャンヴァスの上の違う場所に違う絵の具を使って絵を描いたんだ。

〈21st Century Schizoid Man〉をカバーしてますが、キング・クリムゾンの代表曲を入れることで、EL&Pトリビュートというコンセプトを延長したのですか? EL&Pの歴史の中にもこの曲は登場しますよね?


 今回のアルバムに〈Schizoid〉と〈America〉を入れたのは、EL&Pがグループとして演奏したまさに最初の曲だからだ。理由は聞かないでくれ。ステージでよく話すことだから。今年、キース・トリビュートとしてリリースする予定のビデオにも入ってるよ。「これはグレッグ・レイクがやろうって提案した曲なんだ。理由は言うまでもない。キースはこの曲用の新しいパートを考えたって言ってた。そしてオレは、バンドがやりたい曲ならば、喜んで練習しようって言ったんだ」なんて話してる。イギリスのミュージシャンは、コードを2、3決めただけのジャムのためのジャムみたいなことはしない。オレたちはまず曲を覚え、覚えて構成を作り上げた曲をもとにしてジャムるほうが好きなんだ。オレたちがやったのもそれだった。極めて荒削りだったけど、グループとして練習して演奏したのが、この曲だった。だから、EL&Pの歴史の一部ではあるね。EL&Pでもこの曲をレコーディングしてるんだけど、今回は違うふうにやったんだ。EL&Pのレコーディングではユニゾンのセクションを削除しちゃったんだけど、今回はあれやこれやに敬意を表して、そこをキング・クリムゾン風に演奏したんだ。なかなかだろ。



 〈America〉はレナード・バーンスタインが書いた曲だ。クラシック音楽を改造した曲の第1号で、キース・エマーソンがザ・ナイス時代に弾いてるのを聞いたことがあった。オレがキースに会ったのは17歳の時だ。キースはザ・ナイスでプレイしていて、オレはフリートウッド・マックにいた。今、皆が知ってるのと同じバンドなんだけど、あの頃はまだ女性メンバーはいなかった。ジェレミー・スペンサー、ピーター・グリーン、ジョン・マクヴィーっていうラインナップで、ミック・フリートウッドの体調がすぐれなかったんで、オレは1晩だけ演奏するように頼まれたんだ。で、その晩にキース・エマーソンに会ったんだよ。ザ・ナイスはトリのバンドで、フリートウッド・マックは2番手だった。オレは「ハイ」って声をかけたんだけど、次に会うのは3、4年後、EL&Pで演奏するようになった時だ。〈America〉は現代のグループがクラシック音楽をロックにアレンジした曲の第1号で、あの時、キースがそれをプレイするのを聞いたのは、今でも覚えている。そういうわけで、オレはこの曲をアルバムに入れることに決めたのさ。これもまた、キースの業績へのトリビュートだね。
 クラシック音楽の家系で育ったオレにとって、基本的に、EL&Pはパーフェクトなグループだった。お爺ちゃんはロイヤル・アカデミーの音楽の教授で、ひいひいお婆ちゃんはクラシック・ギターの演奏家だった。オレの親父は少しクラシック・ピアノを弾いていた。オレはクラシックの打楽器奏者になりたいと思ったことはなくて、100%ロックンロールのドラマーだけど、そういう音楽を現代的なやり方で、技術の恩恵を活用して----昔はシンセサイザー、今はMIDIを使って----演奏したいとは思っていた。 EL&Pでそういうムーヴメント初期の一翼を担っていたことを、オレは誇りに思っている。もちろん、今でも前進を続けてるよ。後退なんてしたことない。今はテクノロジーを取り除いて、ギターを使うことで技巧的演奏を復活させた。ギター・ペダルやチャップマン・スティックはたくさん使うけど、シンセサイザーは使わない。シンセサイザーのような音はギターから出てるんだ。

クラシック音楽の背景があったのに、どうしてEL&Pはロックを追求したのですか?

 事実、オレたちはアメリカ人じゃない。オレたちはヨーロッパ人で、毎日ラジオでたくさんのクラシック音楽を聞いているから、それがオレたちの血や魂の中を流れてるんだ。〈Third World Symphony〉か何かを聞けば、ロックのフォーマットでも演奏出来るかもって思うだろう。それが正しいことだって思う。そうする必要がある。そうしたい。イギリスには常にこういう衝動がある。キースとオレは音楽的にこの点で一致し、どっちもこの種の音楽を演奏することに熱心だった。オレのバンド、カール・パーマーズ・ELPレガシーは、〈Pictures At An Exhibition〉をギターと、キーボードではないシンセサイザーでカバーしてるんだ。キーボードではない オレはこの曲を7歳の時から聞き続けている。EL&Pでこの曲をレコーディングしたのは、キースのお気に入りの曲で、グレッグも知ってる曲だったからだ。グレッグはこの中にステキな歌を挿入した。グレッグはとても頑張った。この曲をバンドでレコーディングした時には、オレは月に昇った気持ちだった。オレは最高のグループにいるんだって確信した。ラガーディア空港で飛行機を降りて、車の後部座席に乗り込んだら、誰かがWWWRの生放送で、エマーソン・レイク&パーマー・バージョンの《Pictures At An Exhibition》を23分間フルで流してくれってリクエストをしてるんだぜ。最高だよ。やった!って思ったよ。ブルースとソウルの国に、イギリスのプログレッシヴ・ロックの形でクラシック音楽を届けてるんだよ。オレたちは違うんだぜってことで鼻高々だったよ。もちろん、それは生まれつきだ。でも、アメリカでこんなに人気が出て、大好評を得るとは全く思ってなかったよ。

ムーディー・ブルースは例外かもしれませんが、クラシック音楽を派手なロック・バージョンにしてアメリカで人気を博したロック・グループは、EL&Pの前にはいないと思います。

 他のヨーロッパ人がいたはずだよ。キースとオレが楽しんで聞いてたのが、ジャック・リューシェってフランス人ピアニストだ。アコースティック・ベースとスタインウェイとレギュラー仕様のドラムセットってバンドでバッハをプレイしてた。ジャズのフォーマットでだ。ビックリしたね。信じられないかもしれないけど、涙を流すくらい驚いた。こういうのはヨーロッパ限定だったのかなあ。EL&Pがそれをやった時が一番衝撃的だっただろ。EL&Pはギターなしで、ヴォーカルとキーボードをメインのメロディー楽器に使ってそれをやって、しかも、アメリカに持ってきたんだ。あの頃はそれが肝だったんだけど、今はギターを使ってそれをやり遂げることが出来て、オレは大満足さ。さっきも言った通り、現代の基準でテクニックのあるプレイヤーだから、ギターのフィンガーボードの上で指を走らせて、キーボードのパートを弾くことが出来るんだ。オレは今、人生の円を殆ど一巡したところさ。まだやってないのは、ジャズ・カルテットを結成して、ジャズのフォーマットで〈Tarkus〉〈Trilogy〉をプレイすることくらいだ。

DVDのリリースも予定されてるんですよね。どんなことに焦点を当てたものなんですか?

 キースが亡くなったことに関して、何かをやらなきゃならなかった。時間はどんどん少なくなってきているんで、3つのことをやったんだ。まず《Live In America》をリリースしら。レコード契約すら持ってなかったんだけど、準備して、プレスして、キースとオレの最後のツーショット写真を見つけて、ツアー中に売ったんだ。まだ完全には配給契約を交わしてはいないんだけど、オレたちにはとにかく時間がなかった。キースは突然亡くなってしまっただろ。こんなに悲劇的なことになるとは思ってもいなかった。追悼する必要があると思ったんだけど、オレに出来ることといったら、コンサート的な観点からキースの人生を讃えることかなあって考えた。コンサートを開催して、ステージに設置した大きなビデオ・スクリーンを使ってキースのビデオを映して、ゲストにも出演してもらって、一緒にプログラムを作って、それでうまく行けばいいなあと思ったら、実際にそうなったんだ。キースとオレで話し合ってたことのひとつが、オレが何を演奏して、キースが何を演奏しに来てくれるかなあってことだった。オレが作ったリストには〈Peter Gunn〉が載っていた。是非やりたかったし、EL&Pはよくこの曲でジャムってた。結局、キースとのショウは出来なくなっちゃったんだけど、キースへの捧げものとしてショウを実現させる必要があったんだ。
 それで、フロリダのオリンピア・シアターでコンサートを開催したんだけど、たくさんの友人からたくさんの支援を受けた。ジェネシスのギタリストだったスティーヴ・ハケットが来て、2曲ほど演奏してくれた。ハーモニカとギターをプレイしてくれた。ヴァニラ・ファッジのマーク・スタインも出演してくれた。信じられないかもしれないけど、キースは昔のヴァニラ・ファッジが好きだったんだ。ムーディーなキーボードのイントロが大好きだったんだよ。カッコイイものは全部好きだったよ。キースがマーク・スタインに会ったことがあるかどうかは知らないけどね。〈Jerusalem〉では合唱団を起用することにしたんだ。昔、EL&Pが〈Jerusalem〉のシングルを出した時、BBCでは放送禁止になっちゃったんだ。ある曲がラジオで流していいかどうか、テレビに出演して演奏していいかどうか、BBCが決めてたんだ。この曲は神聖を汚している、この曲は教会のものだから、ロック・バンドとしては演奏すべきではない、っていうのが連中の言う理由さ。オレたちはコードから何まで正しく演奏していたのに、1970年代にはBBCでは放送禁止だったんだ。EL&Pはこの曲をシングルとしてリリースしたけど、売れなかったなあ。でも、素晴らしい音楽だった。これこそまさにプログレッシヴ・ロックだと思ったね。だって、歌詞は偉大だし、音楽も素晴らしい。とにかく、この曲をトリビュート・ショウに含め、IDA児童合唱団に歌ってもらったんだ。



 ある時、キースとオレで相談してたことのひとつが、音楽と一緒にバレーも使おうってことだった。EL&Pがオーケストラと一緒にツアーした時には、もしこれが大成功したら、ショウを組み立てて、バレーを導入しようって思ったんだ。だから、トリビュート・ショウでは、バレーこそ使わなかったけど、フロリダのセンター・フォー・コンテンポラリー・ダンスを起用することにしたんだ。5、6人のメンバーからなる小さな団体なんだけど、〈Pictures At An Exhibition〉の他、いくつかの曲で踊ってもらったんだ。全体として、面白いショウになったよ。キースが目指してたことも2、3あったし。キースのアイデアとオレのバンドを中心に作ったコンサートだった。はっきり言って、やらなきゃいけないことになっちゃって、残念なショウだった。キースが生きてたらなあって気持ちが強い。でも、現実はそうじゃない。DVDが出て、アルバムも出る。アートワークも完成させた。オレのアートを紹介しているサイト、http://www.carlpalmerart.com を見てくれ。「Welcome Back My Friends To The Show That Never Ends」ってタイトルの作品がある。これはオレがキースのために作ったものだ。LEDドラムスティックと、シャッタースピードが異なる2台のカメラを使った作品だ。信号全部をコンピューターに取り込んで、運が良かったら、オレがいろんな曲を演奏している様子が映る、光と影からなる芸術作品が出来上がる。そんなものを作ってるんだ。「Welcome Back...」のドラム・パートはいろんな色の光で出来ていて、その上にオレがメタリック・ペイントを加えているんだ。これはキースに捧げた作品だ。
 過去において、意見が一致しなかったことや、議論になったことがあれこれあったけど、オレは出来る限りのことをしてキースを送り出してあげようとした。3月5日にはイングランドでもコンサートをやる。キースの息子も出演する。有名なプレイヤー2人も着てくれることになっている。問題が生じるといけないので、まだ誰かは言いたくはないんだけどね。でも、参加予定であることは確実だ。オレが一緒にプレイした最高のミュージシャンであるキース・エマーソンのために、オレは出来る限りのことをやってきたし、これまでずっとたくさんの友人が手伝ってくれたことにも感謝してるよ。

あなたのアートワークについて詳しく聞きたいのですが。

 インターネット・サイトに行って見てくれよ。動画があるので、それを見ればわかってもらえると思う。かれこれ4年くらいやってるんだよね。カタログは2冊目になっていて、本も数冊出した。アートワークから得たお金の一部はキャンプ・グッド・デイズ、癌関係、ドンキー・サンクチュアリー等のチャリティーに寄付している。寄付することが出来て、とても満足している。キースに捧げた特別なアートワーク----60インチ四方のバージョンと小さなバージョン----も作ったんだ。すでにたくさんの人が購入してくれた。出来るだけステキなEL&Pのアートワークも作りたい。

カール、新人アーティストに対してはどんなアドバイスをしますか?

 今日、オレが話したことをキミがどこかで発表するとしても、約1カ月後にはあまりいいアドバイスではなくなってることだろう。基本的なことがいくつかあるけど、今は音楽ビジネスの移り変わりが激しいから、ストリーミングやらダウンロードやら、しっかり見て理解しなきゃいけないことがとてもたくさんある。結局のところは、オレがアーティスト全員に言えるのはこれだけだ:オリジナルなアーティストになれ。オリジナルなものを提供できるアーティストになれ。そうすれば、遂には的を射た音楽が出来て、皆が聞いてみたいと思うようになるだろう。オリジナルなものは常に長続きする。オリジナルな音楽はなくならない。ハイテクなプレイヤーばかりのバンドがガラクタみたいな音楽を演奏するよりも、下手クソなミュージシャンばかりのバンドがいい曲を演奏するほうがいいと思うね。オリジナルなアイデアを持っていて、それを自分で演奏するように曲にしておけば、その作品は音楽の世界で生きていくのに必要な保険になるだろう。

駆け出しの頃の自分自身にはどんなアドバイスをしたいですか?

 学校の勉強をもっと頑張って、とにかく医者になれ、かな。

(笑)

 正直、オレは恵まれたキャリアを歩んできたと思う。1968年には、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンで人生初のナンバー1ヒットを手に入れた。18歳の時だった。次のナンバー1シングルはアトミック・ルースターの〈Tomorrow Night〉だった。オリジナル曲のレコーディングには参加したんだけど、リリース前にバンドを辞めて、キースとグレッグと合流してしまったんだ。そしたら、アトミック・ルースターは新ドラマーでレコーディングをし直したんだよ。これもオレが関与したシングルだ。エマーソン・レイク&パーマーでも〈Fanfare...〉がナンバー12シングルになった。他の国でもね。そして、エイジアでは〈Heat Of The Moment〉とアルバムが1位になった。ミュージシャンていう職業に関しては、オレは本当に恵まれている。幸運もたくさん持っている。一生懸命に働いてもきたけど、運の良さはまた別のことだ。オレは超ラッキーだった。自分の運に感謝している。正直、アメリカって国がなかったら、オレは今ここでこうしていないだろうなあ。オレは常にアメリカに感謝してるし、いつもアメリカでプレイすることを楽しみにしている。オレはヨーロッパ人で、アメリカ人にはなれない。仕事が終わったら自分の国に帰りたい。でも、アメリカはヨーロッパと同じくらい、オレのキャリアにとって重要な地域だ。でも、アメリカでの成功の方が、ヨーロッパでの成功よりデカいかな。成功こそ世界を回すものだよね。

《Brain Salad Surgery》等のEL&Pのカタログは、リイシューのたびにリフレッシュされ、拡大されていますが、こうした音楽のレガシーは今後どうなると思いますか?

 EL&Pの最初の4、5枚のアルバムのうち、どれか1つでも選んだら、超ハイクオリティーの曲作り、演奏、プロダクションを耳にすることになると、オレは心底信じている。極めて素晴らしいものを聞くことになる。オレたちにも維持することが不可能だったレベルの素晴らしい音楽を聞くことになる。皆が知っての通り、実際、維持してないよね。EL&Pが頂点を極めていたのはわずか3、4年で、その後は「B級」になり下がってしまった。数年間、オレたちはあまりに最先端で、怖いほどだった。この音楽は高品位と独創性の香りがぷんぷんしている。他とは違う。世界に残したレガシーは、これが真のヨーロピアン・ロックンロールだったってことだ。ギター中心でもない。ブルースを基礎にしたものでも、ジャズを基礎にしたものでもない。オレたちは全然違うものを世界にもたらすことが出来たんだ。特に、アメリカにもたらすことが出来た意義は大きいね。だって、世界に対してブルースやジャズを大量に広めた国なんだから。EL&Pはクラシック音楽を現代的なロック音楽に変えて音楽を前進させただけでなく、プログレッシヴ・ロックの構想を作り、このジャンルのスタンダードな存在となった。アメリカにはジャズとブルースがあった。そして、イギリスにあったのがプログレッシヴ・ロックだ。

(Transcribed by Galen Hawthorne)



The copyrighted article "A Conversation with Carl Palmer" by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/entry/chats-with-locash-mick-fleetwood-and-carl-palmer_us_57bb2274e4b007f18199345a
Reprinted by permission.


  
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2016年11月04日

ディランと変わりゆくアラブ世界の文学観

 ノーベル文学賞騒ぎはアラブ世界にも波及したようで、私がかろうじて読める英語で書かれている記事としてはこんなものがありました。ボブ・ディランにこの賞が授与されることに関する意見は想定の範囲内の内容のものばかり(しかも、くだらん)ですが、普段疎遠な(あくまでも私個人にとってです)エジプトの記事であることが珍しく感じられ、記事の後半部分においてアラブ世界の文学観の変遷と、そういうフィルターを通して中東の人が見ているボブ像が垣間見られる点が面白いと思います。いかがでしょう。
 ちなみに「a」の上に「-」のあるような文字は表示出来ないので、「a」と記しておきました。直しながら読んでいただければ幸いです。人名の読み方も適当ゆえ、正しい読み方をご存知の方は、大変お手数ですが、ご一方くださると幸いです。


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アル=ハヤト紙のサイト



ディランと変わりゆくアラブ世界の文学観
文:テレサ・ペペ


 「アメリカ歌謡の偉大な伝統の中で新しい詩的表現を創造した」として、ソングライターであるボブ・ディランにノーベル文学賞が授与されることが10月14日に発表されると、文学界では賛否両論が巻き起こった。スティーヴン・キングやジョイス・キャロル・オーツ、サルマン・ラシュディーといった有名作家のように、ディランの文学的功績を讃えて「吟遊詩人の伝統の素晴らしい継承者」と呼んだ者もいれば、この決定は見当違いと呼び、たとえどんなに優れたものであったとしても、歌の歌詞が文学のレベルに達することがあるのかどうか疑問を呈する者もいた。
 この論争はソーシャル・ネットワークや顔を合わせた議論、印刷メディアを通して、アラブ文学界も巻き込んだ。ロンドンで発行されているアル=ハヤト紙は「書籍マーケットを甘やかし、世界中の作家を怒らせるノーベル賞」という記事を載せ、翌日にも、「賞はボブ・ディランを正しくも不当にも評価している」と書いていた。エジプトの国営の文芸誌アクバル・アル=アダブは最新号に「この奇妙な日の朝」と題した4ページの折り込みを付けたが、エジプトの国有紙アル=アフラムは、ディランがこれまでに親シオニスト的な発言をしていることを取り上げて、「政治とシオニズムが審査に一役買ったのでは?」と問いた。
 アクバル・アル=アダブ誌には、ディランの受賞に関するエジプト人作家や学者の意見を取りまとめた「ボブ・ディランて何者? これは冗談?」という記事もあった。こうした記事は、アラブ文学界においては失望感が漂っていることを示していると思われる。
 コメントを求められた10人の作家のうち、喜んだ者はたった2名のようだ。文芸評論家のサイド・アル=カフラウィは受賞を「恐怖が世界に影響を及ぼしている」悪い兆候だと解釈しており、同じく、評論家のシャキル・アブド・アル=ハミドも「我々が生きているカオス状態の一部」と断言している。エジプト人作家のマイ・カリドも、人々が難解な本を読む暇を持たぬゆえ、箇条書きや歌を好むような時代の、文化の平易化(istishal)の兆候だとして、こう忠告する。「我々はこのようなトレンドには逆らい、言葉(jahd al-lugha)で努力することを怠るべきではない。これこそ、文学(adab)を他の種の文と区別しているものなのだから」と。詩人、翻訳家のモハメド・イド・イブラヒムはディランの受賞を、「質より売り上げ重視の自由主義経済の一環だと理解している。でも驚いた。アラブ・エジプト文学界も同じ基準に支配されているので」と語った。学者であるヘバ・シャルフはアンビバレントな気持ちであるようで、ディランの歌は民衆文学(adab shaabi)として分類すべきだとは言うものの、アカデミーがより民衆的な形態の文化に門戸を開きつつある兆候があることは支持している。
 アカデミーの決定に反対する他の意見としては、学者のシリン・アブ・アル=ナガや作家のアフマド・アル=シャフィが言うように、ディランは歌手(mughanni)もしくは作曲家(musiqar)として世界的に知られており、それゆえ、作家(adib)ではないというものもある。アル=シャフィの説明によると、「adib」とは小説(khayal)を書く人のことを言う。「この理由から、アカデミーは文学(adab)の破壊に手を貸している。昨年もジャーナリストのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチに賞をあげているので」とアル=シャフィは考えている。アファク出版社の代表、スーザン・バシールは「ノーベル文学芸術(al-adab wa-l-fann)賞と呼ぶべきです」と総括する。文学とは何かを判断し、正統的文学と認められるものの許容範囲を定義するという役割をスウェーデン・アカデミーは担っているが、この件に関するエジプトの作家たちの他の意見が、アラビア語のオンライン・ニュースペーパー、マダ・マスルに掲載されているが、アフダフ・スエイフのように好意的な意見を寄せた者もいる。
 しかし、否定的なコメントは次の2点に集約されているようだ:まず、印刷された小説、詩、短編からなる高等文化の格調ある形態としての文学(adab)は、絶滅の危機に瀕しており、スウェーデン・アカデミーがその死に手を貸している。第2に、上記に述べた寝の文学とは全く関係のない歌手/ミュージシャン、もしくはジャーナリストに作家(adib)が取って代わられつつある。
 なぜ歌の歌詞が詩として評価されるべきなのかを論じたり、ディランがノーベル文学賞受賞者の殿堂に入る資格があるのかどうかを判断したり、ディランが持っていると思しき親シオニスト的見解(イスラエル人ファンの一部は既にこれを誇りに思っている)を調査することは、私の意図ではない。私はディランの受賞をきっかけとして、もっと一般的な疑問----現代社会における文学の理解----について皆に考えてもらいたいのである。
 注目してもらいたいのは、文学(adab)や作家(adib)といった言葉は、単なる言葉ではなく、コンセプトとして理解されるべきだということだ。1つの意味しか持たない言葉(例えば、テーブルにはさまざまな形のものがあるかもしれないが、テーブルは常にテーブルである)とは異なり、コンセプトとは、意味的可能性に満ちている抽象的な概念で、ゆえに、曖昧なのである。こうした意味はさまざまな解釈が可能であり、ここ数日のディランのノーベル文学賞受賞が我々に示したように、解釈に関する議論の対象にされることがよくある。 さらには、これらの意味は、コンセプトが使用される政治的、社会的状況によって形成される。ゆえに、あるコンセプトに帰される意味の幅は、時間の経過とともに変化していく。しかも、これが直線的な経緯をたどらないこともある。20世紀の前半までは、文学(adab)と作家(adib)に関するアラブ的コンセプトは、イギリス人の持つ文学と作家の概念とは部分的に異なっていたが、こうしたコンセプトの登場は、1850年〜1920年の間にアラブ世界を変えた「アラブの覚醒」と呼ばれる近代化プロジェクトと時期的に一致しており、グローバル化とローカル文化の変化のまっただ中の今日においても、価値を見直されつつある。
 adabはもともとはスンナ(ムスリムの習慣や慣例)を意味する言葉だったが、後に、イスラム教が広まった後は、「頭を鍛え、教育する」という機能を果たす世俗的知識全体を表すために用いられた(F・ガブリエリ『Encyclopedia of Islam』2012年)。アッバース朝(イスラム歴では2世紀/西暦では8世紀)で宮廷文化が盛んになると、adabは宮廷に出入りする人間を教育し、楽しませる作品を示すようになった。その中には、伝記、歴史、旅行記といったジャンルだけでなく、行動や品行の手引書も含まれていた。
 20世紀前半になると、「adab」という言葉は、小説、短編、戯曲といった新しい形式も含むようになった。ゆえに、「学者、つまり博識で礼儀正しい人」(J・サダン『Encyclopedia of Arabic Literature』1998年)と同じ意味だったadibは、徐々に小説を書く人として理解されるようになっていった。このプロセスは、翻訳を通してヨーロッパの文学作品と出会い、印刷機が導入され、文学を扱う市場が出現し、現代的な世俗的教育が普及し、それとタイアップして、物語に貪欲な、読書をする市民が新たに出現したという一連の社会的、文化的変遷によって進んだ。アラビア語の文学やこの言葉で著述活動を行なう作家がたどった似たような変遷は、その源をたどると文学のイギリス的コンセプトに行き着くかもしれない。文学という言葉は、もとはあらゆる種類の書籍や著作活動を指していたが、18世紀末にヨーロッパ的ロマンティシズムの登場によってはじめて、「想像力豊かな創作文学」(R・ウィリアムズ『Keywords』)という境界を定められ始めた。スウェーデン・アカデミーのウェブサイトには、賞の授与基準は100年間のうちに変わってきた旨が記されているので、これらのコンセプトが変化する性質を持ってることに、この団体も気づいている。
 これらのコンセプトの変化は議論に対して免疫を持っているわけではない。例えば歌の歌詞等の、ある種の形式を文学の領域の中に入れるか否かに関する論争は、アラブ復興運動においても、18世紀のイギリスにおいても、例えば小説(riwayah)の文学性に関して似たような議論あったことを彷彿させる。
 アラブ世界において、小説は初めは若者の意識を逸らすものと見られていたが、後には、(フィクションではない)教訓を伝え、人を啓発する品行方正な役割を強調することによって、文学の一部として認められるようになった。短編小説と戯曲は、アラブの作家によって、社会問題を描くために使われた。小説に文学の地位を与えていいのかどうかという議論が生じた理由のひとつには、ヨーロッパの小説の翻案物が、当時のアラブの印刷物市場を侵略していたという事実がある。
 これは私が話したいもうひとつの点と関係がある。アラブ世界では、20世紀の初頭に「adab」という言葉の意味が「文学」として再構築されたことは、それが高等文化として認められ、それゆえに、通俗という頽廃した領域に属する大量の作品から除外されたことを意味している。そして、こうした作品がエジプトの基準でいうところの文学から除外された理由は、想像力を大量に駆使していること、半分歌うようなスタイルであること、日常語を使った表現をしていること(サマー・セリム『The Narrative Craft and Realism』2010年)だった。エジプトの詩人、ギルギス・シュクリーはアクバル・アル=アダブ誌のインタビューで、エジプトでディランのような人物の先例があったとしたら、それはバイラム・アル=トゥニシ(1893〜1961年)だと語っている。バイラムもまた日常語を使った民衆的なバラッドをたくさん作っているのだが、彼のような詩人(zajal)が、体制からは文学とは認められなかったのは、そういう理由からだった。
 ここ数十年においては、高級な文学と民衆文学を分けるのは、アラブ世界においても、世界全体の文化的フィールドの残りの地域においても、多くの者にとっては意味はないようだ。アラブ世界の若い読者層の興味の幅が、国際的ベストセラーや古典的名著から、グラフィック小説、イスラム教の本、そして、しばしばインターネットで無料でダウンロードすることの出来る風刺小説に至るまで広がっていることを知るには、毎年行なわれているカイロ・ブック・フェアに行ったり、Goodreadsの評価を見てみるだけでいい。
 グラフィック小説のようなオーディオ/ヴィジュアル的要素と結びついたジャンルや、ブログ、デジタル小説は、他の地域と同様、アラブの文学界でも活気づいている。マダ・マスルに掲載されたナエル・エル=トウキーによるインタビューでアフダフ・スエイフが指摘している通り、エジプト革命は文学の定義にも及んでいる。今や、ブログやグラフィティー、革命スローガン、獄中からの手紙等の形態も文学なのだ----「文学はいたるところにある」
 ということなので、去る1月に「アラブ世界における非主流作品」を扱うウェブサイト、アル=キタバーに、ディランの歌詞がアラビア語に翻訳されて掲載されたのは、驚くことではない。ノーベル文学賞発表後、彼の歌のビデオや歌詞が、アマチュアによってアラビア語に翻訳され、ツイッターやフェイスブックで出回っている。これが意味するのは、文学は我々が思っている以上のスピードで変化し、社会的現実に対応しているということである。そして、アカデミーもそれを認めるようになったということである。
 結論として、私は皆さんに次のことに注目してもらいたい。ノーベル文学賞はアラビア語に翻訳すると「Nubil al-Adab」となり、ここで「adab」の複数形が使われているのは、国境線を越えて「さまざまな文学」に対してだけでなく、広い意味での「人文学」(大学の人文学部、Kulliyat al-adabのような意味での)にも与えられる賞だということなのだ。混乱と文化的、社会的大変化の時代においては、変化し、拡大した意味の「adab」において、ボブ・ディランにノーベル文学賞が授与されたのだと言える。ボブ・ディランは広い人文学的な知識を有する「adib」であって、アカデミーのメンバーの言うような「失礼で傲慢」な人物なのだとしても、言葉と音楽の両方を通して、人間の普遍的な感情と体験に声を与えてきた人なのだ。


"Dylan and the a-changing times of literature, in the Arab world and elsewhere" by Teresa Pepe
http://www.madamasr.com/en/2016/10/27/feature/culture/dylan-and-the-a-changing-times-of-literature-in-the-arab-world-and-elsewhere-2/


   
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