2017年07月24日

1966年マンチェスター公演チケット

 1966年5月17日、マンチェスター・フリー・トレード・ホール公演のチケットがeBayに出品され、£410(本日7/24のレートで約59,000円)で落札されました。当時の定価は最も高い席で£1。プラットフォームというのはステージ上の席です。

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 このコンサートに関する詳しいことは以下の本にて:

  
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2017年07月21日

ボビー・ウィットロックが〈Layla〉のピアノ・コーダが嫌いな理由

 2010年に出版されたボビー・ウィットロックの回想録『A Rock'n'Roll Autobiography』は面白くて、夢中になって読みました。《All Things Must Pass》は当時の契約上、参加ミュージシャンのクレジットがわざと曖昧になっていたため、じっくり聞きながら「これはクラプトンでしょう」とか「このハイハット・ワークはリンゴの特徴だよ」とか考えていたのは、私だけではないはずです。ウィットロック回想録には曲ごとの詳細なパーソネルが記されており、長年の霧が一気に晴れました。今回紹介する最新インタビューを読んで興味を持った方には、はるかに詳しいことが書いてある『A Rock'n'Roll Autobiography』の一読をおすすめします。(《On Tour》のジャケットでロールスロイスの窓から足を出してるのはボブ・ディランじゃない説を唱えています)
 ウィットロックと同じ頃、デラニー&ボニー&フレンズのメンバーだったサックス奏者、ボビー・キーズの回想録『Every Night's a Saturday Night: The Rock 'n' Roll Life of Legendary Sax Man Bobby Keys』も傑作です。エリック・クラプトンとバンドを組むつもりでロンドンにやって来たら、ジョージ・ハリスンの家に連れて行かれ、何かおかしいなと思ってるうちに、自分抜きでデレク&ザ・ドミノスを作られてしまうが、ローリング・ストーンズに拾われるという波瀾万丈が生き生きと描かれています。

 





ボビー・ウィットロックが〈Layla〉のピアノ・コーダが嫌いな理由
聞き手:フランク・マストロポロ



 キーボーディスト/ギタリスト/シンガーであるボビー・ウィットロックは、デラニー&ボニー&フレンズに参加して以来、ロックファンに最も愛されているアルバムの数々でプレイしてきた。メンフィス出身のボビーは、スタックス・レコードでブッカー・T・ジョーンズやスティーヴ・クロッパーらの指導を受けた後、間もなく、彼のソウルフルなR&Bスタイルを欲しがるイギリス人ミュージシャンの間で引っ張りだこになった。
 エリック・クラプトンとともにデレク&ザ・ドミノスを結成したウィットロックは、《Layla and Other Assorted Love Songs》では9曲のオリジナル・ソングのうち、〈Bell Bottom Blues〉〈Keep On Growing〉といった人気曲を含む7曲を書いた。しかし、ベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ゴードン、客演ギタリストのデュアン・オールマンも擁したこのバンドは、たった1枚のスタジオ・アルバムを残しただけで解散。
 ウィットロックはクラプトンのソロ・デビュー作とジョージ・ハリスンの《All Things Must Pass》でプレイし、その後も、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノン、ドクター・ジョンのセッションに参加した。以来、ウィットロックはソロ・アルバムも多数リリースしたが、1980年代と2000年代には子育てのために音楽活動は休業。
 2010年に『Bobby Whitlock: A Rock'n'Roll Autobiography』(エリック・クラプトンが序文を寄せている)を出版したウィットロックは、現在、ベテラン・シンガー/ギタリスト/プロデューサーそして妻であるココ・カーメルとともにレコーディング活動、演奏活動を行なっている。ふたりは公演ごとに毎回異なるゲスト・ギタリストをフィーチャーしながら、アメリカをツアー中だ。(ツアー日程はhttp://www.bobbywhitlockandcococarmel.comを参照のこと)


自伝を出版してから7年が経ちました。今、自伝を書くとしたら、どんな話を新たに付け加えたいですか?

 大発見があるんだ。オレの曾祖母は黒人だったってわかったんだよ。その人の両親も黒人。ハリスンお婆ちゃんは超黒い肌をしている白人みたいな見た目だったんで、一族の連中はいつも、彼女はチェロキー・インディアンだってことにしようとしてたんだけど、そんなことあり得ないと思ったオレの娘が、DNA鑑定を受けてみたんだよ。そしたら、オレの一族のルーツは東アフリカだった。お袋が亡くなる直前に遂に明かしてくれたんだ。「その通り。でも、そう言いたくはなかったの。言ったら、家族の中で争いになりかねないから」って。全員、オレたちはインディアンなんだって信じ込ませようとしてたんだ。実際はそうじゃないのに。オレがこれを知ったのは約1年前さ。啓示みたいだったね。突然、自分の人生の全体の辻褄が合った。白人はオレみたいに歌わない、オレみたいなプレイはしない。白人はキャデラックのウィンドウを黒くしないし、ヴェルヴェットとシルクの服に先の尖った靴なんていう格好をしない。そんなことやらないだろ。突然、全てがはっきりしたんだ(笑)。

始まりはスタックス・レコードでしたよね。そこではどんなことを学びましたか?

 2週間ほど前にメンフィスにいたんで、スタックス博物館に行ったんだ。ブッカーが使ってたオリジナルのオルガンがあったんで、それを弾いてみた。これがオレが弾いた最初のハモンドだよ。ブッカーはオレがスタジオの中に入り、壁のところに立ち、背中越しに見学するのを許してくれたんだ。ブッカーは時々、ひとりでスタジオに入ってハモンドを弾いてたんで、オレは彼の肩越しにドローバーの使い方を覗き見しながら、耳ではそれがどんな効果を出すのか聞いた。オレはブッカーの演奏を見ながらたくさんのことを学んだ。オレは誰よりもずっとドローバーを多様する。ドローバーを使うと色とスペースを増やすことが出来るんだ。こうした質感や微妙なニュアンスの変化が、曲の中では大切なのさ。

1969年にはデラニー&ボニー&フレンズに加入して、デラニー・ブラムレットから多くのことを学んだそうですね。

 オレがあいつから何を勉強したのか話してあげよう。こういうことはやっちゃいけない。こういうふうに人を扱っちゃいけない。これがあいつから学んだことだ。でも、音楽面では、あいつはロックンロールの名曲をいくつも書いた。ある時、あいつのところにいって訊いたたんだ。「どうやって曲を書くんだい? ああいうロックンロールの名曲は、どうやったら書けるんだい?」って。オレの曲をいくつか既に耳にしてたデラニーはこう答えた。「お前が書いたバラードのうち、どれでもいいから、それに違うビート、違うテンポ、違うフィーリングを乗せてやってみろよ」って。オレは「なんだ! それだけなの。簡単じゃんか」って言った(笑)。そして、オレは帰宅して〈Where There's a Will There's a Way〉を書いたんだ。これはオレがひとりで書いた最初のロックンロール・ソングだった。
 常に口を閉じ、目と耳は大きく開いて、あらゆる人間から学んだよ。オレの周りはタージ・マハール、リオン・ラッセル、J・J・ケール、ジョー・コッカー、ドアーズ、ママ・キャス等、凄い人だらけだった。みんな、しばらくデラニー&ボニー&フレンズの取り巻きだった。そこには何かがあったよね。

   

その頃、エリック・クラプトンのファースト・ソロ・アルバム《Eric Clapton》でプレイしてますよね。

 あれはたまたまそうなったものだ。計画なんかなかったよ。エリックは自分のヴォーカルに全然自信がなくて、デラニーは超自信満々だった。そこでデラニーがやったのは、デラニーが全曲を歌い、エリックがそれをお手本にして、デラニーが歌ったように歌うってことだった。そっくりに歌うんじゃなくて、ああいうフィーリングで歌えってことだったんだけどね。こういうことは、実際にやってみなきゃ手に入らない貴重なものだ。金じゃ買えない。でっちあげで作れるものでもない。
 エリックはこうしてアイデンティティーを確立した。こうして自分の声を持つに至った。声を聞けばエリックだってわかるよね。エリックは優れたシンガーだ。あの声は好きだよ。エリックとオレが一緒に歌うと絶妙なブレンドになるんだ。でも、あいつは生まれながらのギタリストであっても、生まれながらのシンガーじゃない。レイ・チャールズは生まれながらのシンガーだけどね。

1970年にはデラニー&ボニーを離れましたね。

 オレは最初にフレンズのメンバーになり、オリジナルのフレンズの中では最後に去った人間だ。最初はデラニーとボニーとオレがアコースティック・ギター1本の伴奏で歌うところから始まったんだぜ。バンドを去ることになった時、どこに行ったらいいのかわからなかったんで、スティーヴ・クロッパーに電話をかけたら、「エリックに電話をかけて、そっちに行って、しばらく一緒に遊びたいって言ってみろよ。デラニーのバンドを辞めたことも伝えろ。それで、エリックが何て答えたか、また電話をかけて教えてくれよ」だって。それで、オレはエリックに電話をかけて言ったんだ。「ヘイ、メーン。デラニー&ボニーを辞めたばかりなんだ。疲れちまったんで、骨休みが必要だ。少しの間、そっちに遊びに行っていいかな?」って。そしたら、エリックの返事は「いいよ、こっちに来い」だった。オレはすぐにクロッパーに電話をかけ直して、エリックの返事を伝えたら、「お前用の航空券がある」って言われて、次の日、本当にロンドン行きの片道の航空券を渡されたんだよ。そんな感じだった。
 オレがエリック宅に出向いたのは土曜日の午後のことだった。出てきたエリックが「お前、ここで何やってんだよ?」って言うんで、「お前が、こっちに来いって言ったから、オレはここに来たんだよ」って答えた。エリックはオレを中に入れて、泊まりたい部屋に泊まれと言ってくれた。結局、1年近く居候しちゃったね。エリックにとってはそれで好都合だったのかもしれないけど(笑)。

その間、あなたとクラプトンはジョージ・ハリスンの《All Things Must Pass》に参加してますが、普段よりレベルの高いことをしなければならないという感じでしたか?

 いや。エリックもいたし、オレも仲間のひとりということで、ジョージを大物ロックスターとかビートルズとかいう目で見ることはなかったよ。オレは演奏するためにそこにいたんだ。あのアルバムではパンプ・オルガンは全部オレが弾いたんだ。〈Behind That Locked Door〉以外のハモンドもオレ。この曲ではビリー・プレストンが弾いている。〈Beware of Darkness〉のグランド・ピアノはオレだ。〈My Sweet Lord〉はジョージとオレで歌ってる。オレは第2パートを歌っていて、他の全てのヴォーカルはジョージが重ねた。
 オレは大きな全体の一部に過ぎなかった。ジョン・レノンがセッションを聞きに入ってきた時も、そんなに感動はしなかった。いろんな人がオレたちの様子を聞きに来て、仕事を依頼してきた。オレたちのほうから頼んだわけじゃない。アルバムをレコーディングするためのバンドを作ってくれってエリックとオレに頼んできたのはジョージなんだ。というわけで、オレたちが《All Things Must Pass》の核となるバンドになった。

   

デレク&ザ・ドミノスでは〈Thorn Tree in the Garden〉を単独で書き、6曲をクラプトンと共作してますね。クラプトンと一緒に曲を書くプロセスはどんな感じだったのですか?

 ひとりで書く時には、宇宙にあまねく解き放たれている創造の原理を素直に受け入れているよ。エリックと一緒に曲を書いた時、エリックもそれを受け入れて作業をしていた。オレたちが書いた曲は全部、最初に〈I Looked Away〉を書いて以降ずっと、自然に出来たものさ。ある日、TVルームで雑談している時、オレは手に鉛筆とノートを持ち、エリックはギターを抱えながら、ギターや車、ロックンロールや女の子のことを話していた。エリックをオレを見て、「愛ってどうしてそう悲しいもんになっちまうのかなあ(Why does love got to be so sad?)、ボビー?」なんて言うから、オレは「どうしてそんなに長いタイトルになっちまうのかなあ?」って答えて、そんなきっかけがあって曲を紡いでいったのさ。エリックはずっとパティー[ハリスンの当時の妻、パティー・ボイド]のことばっかり話していた。あの三角関係の真っ最中で、どうにか意を遂げようとしていた。ふたりは最終的に結婚したけど、それも破局を迎えちゃったなあ。
 〈Tell the Truth〉はリビング・ルームで書いたんだ。今でもあの光景は覚えている。暖炉では火が煌々と燃えていた。オレたちは1日中、曲を書いていて、エリックは「そろそろ寝ようかな」って言ったんだけど、オレはまだ寝ないと決め、ずっと起きてたんだ。大声で歌ったり、あれこれやりながらね。突然、新しい1日が訪れた。新しい生活が始まった。歌詞がどんどん飛び出してきた。オーティス・レディングがステージに膝を突いて「Tell the truth!(真実を語れ!)」ってシャウトしてるようなイメージを考えていた。オレは最終ヴァース以外は全ヴァースとコーラスを書いた。
 エリックが古くてボロボロの茶色のローブを着て、朝食を食べに降りてきたんで、「昨晩、最高のロックンロール・ソングを書いたぜ」って言ったら、あいつは「知ってる。床を通して3番目のヴァースが伝わってきたよ」だって(笑)。エリックのベッドルームはリビングの真上だったんだ。書いてる時は、そんなこと考えもしなかった。
 曲作りに決まった方法というものはない。ジャムってたらいいトラックになったのが〈Keep on Growing〉だ。でも、最初はインストゥルメンタルだったんだよ。そしたら、トム・ダウド[プロデューサー]が「インストゥルメンタルを入れるスペースはないよ」って言う。2枚組じゃなくて1枚組になる予定だったからね。それで、オレが「ヘイ、メーン。20分くれよ」って言って、クライテリア[・スタジオ]のホワイエに出て行った。まだそんなに長くは生きてないオレは、少ない経験を振り絞ってオレの能力では最高スピードで曲を書き、最高スピードでメロディーも歌詞も歌えるようになってスタジオに戻り、マイクをセットしてもらって、歌い始めたんだ。第1ヴァースの半分くらいのところで、オレはエリックに言ったんだ。「オー、メーン。こっちに来て、一緒にサム&デイヴみたいに歌おうぜ」って。そうしてオレたちは歌い、たった1テイクでOKだったと思う。そうして〈Keep On Growing〉が出来たんだ。

〈Bell Bottom Blues〉の共作者として、最近ようやくクレジットされるようになりましたね。

 ハートウッド[サリー州にあるエリックの私邸]のTVルームのドアのところに立ってたら、エリックがギターを持ってやって来て、「これはどう思う、ボビー?」って言うと〈Bell Bottom Blues〉を歌い始めたんで、オレが「You won't find a better loser(これ以上見事な負け犬は見つからないよ)」っていうフレーズを思いつくと、「ダメ、ダメ」なんて返事が返ってきた(笑)。あのフレーズはエリックじゃない。それから、TVルームに入って、サビを書いたんだ。「Do you want to see me crawl across the floor to you? (オレが床を這ってキミのもとに行くのを見たいのかい?)/ Do you want me to hear me beg you to take me back? (オレを取り戻してくれとキミにお願いするのを聞きたいのかい?)/ I'll gladly do it(だったら喜んでそうしてやるさ)」これはオレが思いついたラインだ。そして、「I don't want to fade away / In your heart I want to stay(オレは消え去りたくない/お前の心に残りたい)」はエリックのラインだ。なので、オレはエリックにメールを書くことにしたんだ。eメールのアドレスは持っていた。それで、オレはエリックにメールを書いて、この話をしたんだ。「こうだったの、覚えてる?」って。そしたら、3分もしないうちに「お前の言う通りだ。事実を正しく反映させたものにしようと思う」っていう返事が届いたよ。そして、実際にそうしてくれた。以来、〈Bell Bottom Blues〉のクレジットは「Written by Eric Patrick Clapton and Robert Stanley Whitlock」になったのさ。

〈Layla〉でジム・ゴードンが弾いているピアノ・コーダは全然気に入ってないんですよね。(〈Layla〉のコーダの真の作曲者に関する訳者の見解は、ずっと下の「おまけ」をクリック)

 《Layla》のレコーディングが終わったんで----そう思ったんで----イギリスに戻ったんだけど、ジムがエリックを熱心に説得して、あのコーダを入れさせたんだ。オレは嫌で嫌で仕方なかった。我慢がならなかったね。発情期の猟犬40匹分の勢いで反対したよ。オレはあれは入れたくなかったね。オレは全く関与してない。オリジナル・シングルにも入ってない。オレが猛反対したから、オリジナル・シングルには入れず、アルバムだけああなった。でも、そのうち、ナッシュヴィルのあるDJがアルバム・バージョンをかけ始めたんだよな。

クラプトンは何て言ってましたか?

 何も。オレと同意見なんだけど、数年前に道端で音楽について立ち話をした時には、妥協する必要があったんだって言ってた。ワーナー・ブラザーズを喜ばせる必要があった。100%賛成ではない方向性の曲もやったりしなきゃいけなかったんだ。でも、オレは自分の音楽とその基準に、生まれてこのかた妥協したことはないよ。

デレク&ザ・ドミノスは、あれだけ成功したにもかかわらず、どうしてすぐに解散してしまったのですか?

 ドミノスはあらゆることを1度しかやらなかった。小規模なイギリス・ツアーを1度だけ、スタジオ・アルバムを1枚作っただけ、アメリカ・ツアーも1度だけ。全部1回だけだ。
 ジム・ゴードンは一緒に仕事をするのが難しい奴だった。これでもよく言ってるほうだぜ。普通なら、人でなしに対処する時の言葉は「お前とかかわるのは金輪際ごめんだ」だろう。ジム・ゴードンとカール・レイドルには既に計画があった。カールはリオン・ラッセルと仕事をすることになっていた。ジムはトラフィックと何かをすることになっていた。デレク&ザ・ドミノスはエリックとオレのバンドであって、あいつらは単なるドラマーとベース・プレイヤーだった。そんなに献身的じゃなかったね。エリックとオレは相当頑張ったけどさ。
 その後、エリックはヘロインのほうを頑張ってしまい、それがバンドの終わりだった。そういうふうに終わったんだ。エリックはああいうふうに最低のところまで落ちなければいけなかった。這い上がって、今のような充実した人生を送るためには、どん底を見る必要があったんだ。あいつは何事においても道楽半分じゃ済まさない奴だった(笑)。

ココが優れた音楽的パートナーになるだろうと、どのようにしてわかったのですか?

 ココはデラニーと結婚してたんだが、電話で2度ほど話しただけで、会ったことはなかったんだ。デラニーが曲をいくつか送ってきたんで、その中の1つを聞いてたら、この声が聞こえてきたんだよ。超強力な演奏の中でも、この声は光ってたんだ。デラニーに電話をかけて、言ったんだ。「あのヴォーカルをやってる人こそ、お前が一緒に歌ってもらう必要のあるシンガーだ」って。もちろん、あいつは誰にも歌わせたりはしない。デラニーが「あいつはオレの女房なんだ」って答えたんで、「彼女がオレの奥さんだったら、絶対に一緒に歌うね」って言ってやった。ココとオレとの仲は、まずは見知らぬ同士として始まり、その後、親友になり、つき合うようになり、5年の婚約期間を経て結婚したんだよ。一緒になって17年さ。生まれてからずっと一緒にやってきたって感じがするくらいさ。いろんなバンドで活躍してきたけど、常に、ココとオレという基本形に戻る。オースティンのザ・サクソンていうところで、やりたい時に、月2回のペースでプレイしてるんだ。ここはオレたちの定宿みたいなものなんだけど、ここでやってることをもうちょっと発展させて、もう少し遠くまで行って、もう少し大きな場所でプレイしようよって、少し前に話し合ったんだ。

今行なってるツアーについて教えてください。セットリストにはどんな曲があるのですか?

 セットリストってものはないんだ。何をやるかは流れ次第さ。ピアノの上にたくさんの曲名が書いてある紙が置いてあるけど、それは曲のリストに過ぎない。変更される場合がありますってやつさ(笑)。ボビー&ココのサマー・ツアーじゃなくて、スパークリー・シューズ・ツアーってタイトルにしましょうっていうのは、彼女の提案だった。マイケル・ジャクソン・シューズ、ワインレッドのシューズ、青のシューズ、黒のシューズを、あいつがオレに買ってくれたからだ。どれも素敵なものばかりだ。それなりの気持ちが自分の中にないと、そういう靴は履けないよね。
 今までに起こったことはどれも成功とは言えない。ここに至るまでの建築用ブロックだ。今こそが成功だ。それがココとのコンビで起こってることなんだ。ボビー&ココこそ、オレたちの現在だ。そうなるべくしてなってる状態さ。

   

The original article "Bobby Whitlock on Eric Clapton and Derek and the Dominos and Why He Hates the Piano Coda of 'Layla'(Q&A)" by Frank Mastropolo
http://www.rockcellarmagazine.com/2017/07/06/bobby-whitlock-interview-eric-clapton-layla-coco-carmel-george-harrison/#sthash.iwCJ5GwK.fW2ugipi.dpbs
Reprintd by permission





おまけ
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2017年07月17日

ディラン&ザ・グレイトフル・デッドは30周年

 なんとか何十周年というのが大流行の今日この頃ですが、今年がそれにあたるというのに《Sgt. Pepper》50周年やコーネル大学公演40周年の影に隠れて全然目立ってないのが「ディラン&ザ・デッド30周年」です。前2者のような派手な「箱物行政」のリリースもなく、誰からも相手にされてない感がパないですが、嬉しいことに、ハワード・F・ワイナーというディランとデッドの両方が好きという殊勝な人物が『Dylan & The Grateful Dead: A Tale Of Twisted Fate』を出版しましたよ。そして、彼のお気に入りのショウ、ジャイアンツ・スタジアム公演が行なわれた7月12日に、今回ここで紹介する回想を自身のブログに掲載しました。
 私もこのコンサート、直に体験したかったなあ。

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[共演の翌年にリリースされたユージーン公演(私はこの公演が一番好き)の海賊盤LPと、21世紀になってからeBayで入手した同公演の未使用チケット----タイムマシンが欲しい]





ディラン&ザ・デッド、再生の場所としてのジャイアンツ・スタジアム
文:ハワード・J・ワイナー


 1987年7月12日(日)、ビルボード誌のシングル・チャートではボニー・タイラーの〈Total Eclipse Of The Heart〉がナンバー1、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストではスティーヴン・キングの『Misery』のトップだった。『Misery』に登場するよろよろ歩きの主人公のように、ディランは名声によって手足を不自由にされ、救済を求めていた。ジャイアンツ・スタジアムの10マイル東には、ボブ・ディランの神話と伝説が始まった場所であるマンハッタン島の荘厳なスカイラインがあるが、もしディラン本人がキャリア初期のヴィレッジ時代についてじっくり考えるなんてことをするとしたら、別の人生で起こった出来事のように感じることだろう。華氏95度(35℃)の猛暑だったあの日、ニュージャージー州イースト・ラザフォードでハイウェイや沼地、汗臭いヒッピーに囲まれながら、ディランはデッドからライフラインを受け取ったのだ。
 これはグレイトフル・デッドが1セット丸々ディランのバックを務めた6回のショウのうちの3回目だった。7月4日にフォックスボロで行なわれた1回目のショウは、ディランにとっては11カ月ぶりのコンサートだった。ディランのグダグダで錆びついたパフォーマンスをグレイトフル・デッドの調子の悪い日と合わせてみろ。結果は最悪だ。6日後にJFKスタジアムで行なわれたショウ2回目には大きな向上が見られた。その時、ガルシアとディランが同じステージに立っているという光景のパワーに私は心を奪われながら〈The Ballad Of Frankie Lee And Judas Priest〉の初演を聞いた。しかし、このショウのテープに私は感激したことはなく、ディラン/デッドのコラボレーションの素晴らしさを説明するのに、誰かに聞けと勧めたこともない。その2日後のジャイアンツ・スタジアム公演こそ、私がこれまでに見た最もスリリングな音楽イベントなのだ。この30年の間、数千回とテープを聞き、ビデオを見てきた後も、この気持ちは変わらない。
 ディランにもガルシアにも、躊躇やお試しという概念はない。ショウの前に協定を結んだかのようだ。2曲目の〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉の開始時、ディランはずれた拍子で歌い始めてしてしまったが、調子を落とすことなく歌い続け、第3ヴァースになると、この語り部は初めてこのバンドに畏敬の念を抱いたかの如く、歌詞を弾丸のように発射する。グレイトフル・デッドはディランのスタイルでペースを作ったアレンジを提供し、ソロのスペースは2回分、手短に残しておいた。ディランとのジョイントが終了した後も、デッドは〈Stuck Inside Of Mobile〉をレパートリーに加えたが、ガルシアはいつもソロを2回取っている。しかし、この晩には、ディランが情熱的に「Oh MAMA! Can this really be the END?」と叫ぶのを耳にしたガルシアは、ソロをもう1度余計に弾いて、大胆なパフォーマンスの流れの方向性を定めた。



 ガルシアはペダル・スティールのほうに移動すると、ディラン/デッドでは1回だけしか演奏しなかった〈Tomorrow Is A Long Time〉が始まった。ディランがこんな曲聞いたことないかのように叫び声で歌う一方、デッドはラブリーなカントリー風味の演奏をしていた。しかし、ガルシアとウィア、ミッドランドと一緒にサビを歌い、ジェリーのペダル・スティール・ソロを聞いて、ディランはこのバラッドの本質的感情を発見し、最終ヴァースの叫びには愛がこもっていた。
 〈Highway 61〉ではディランは軽快に飛ばし、「Found a promoter who nearly fell off the floor, yeah-eah, I never did engage in this kind of thing before, yeah-eah」(床に転びそうになったプロモーターを発見。イェー。前に、こんなことに関わったことなんてないぜ。イェー)を笑い混じりに歌った。ディランは歌いながら、歌詞のアイロニーに思いがけず気がついたのだ。だって、本当に、こんなことは今までにやったことがなかったのだから。ディランは常に音楽面でのリーダー役を担ってきたが、ジャイアンツ・スタジアムでは、事実上のリーダーはガルシアだった。2006年にローリング・ストーン誌に掲載されたジョナサン・レゼムによるインタビューで、ディランはこう語っている。「デッドはオレの曲をたくさんやってたから、一緒にやった時はアレンジは全部いただいた。オレよりうまくやってたからね。オレの出来の悪いレコーディングの中にある、そこに埋もれてる歌が、ジェリー・ガルシアには聞こえていたのさ」 〈Highway 61 Revisited〉でガルシアは絶妙なスライド・ギターを弾いた。ガルシアのソロ活動は、ここしばらくはジェリー・ガルシア・バンドのみだった。デッドと同じくらい実験的な音楽をやってはいたが、こっちもずっと同じメンバーだった。ディランと演奏することは夢の実現であり、かつ、ジェリーとっては、いつもの快適ゾーンの外側に踏み出すチャンスにもなっていた。
 エキサイティングな〈Highway 61〉の後、ディランとデッドは〈It's All Over Now, Baby Blue〉を始めた。1986年には2回挑戦して悲惨な結果に終わっていた曲だ。ジャイアンツ・スタジアムでもまた、ディランのシャウトのタイミングはズレ気味だったが、自信を失わずに曲を進め、第2ヴァースになると、デッドのゆったりとしたアレンジに対して銃を速射するような歌い方をうまく合わせる術を見出した。ガルシアが「And it's all over now…」と歌っていると、ディランは最後の2単語以外を早口でまくし立てた後に、ガルシアが追いつくのを待ち、ふたりで揃って最後の言葉を叫んだ。「Baby Blue!」 自分のアプローチを変えることなく、ディランはこの芸当をやってのけた。そして、ガルシアはこの瞬間が気に入ったことを、2回目のソロとして表現した。グレイトフル・デッドの歴史において、〈Stuck Inside Of Mobile〉のソロが3回あったのはこのショウのみだったが、ソロが2度あった〈Baby Blue〉もこの時のみだった。
 ディラン&ザ・デッドが〈Ballad Of A Thin Man〉を開始すると、何かが起こり始めた。ディランが1960年代に書いた予見的な歌をこのコンビは3回連続で演奏したが、ディランが歌詞を正しく歌うのを聞きながら、ウィアとガルシアも自信に満ちた表情をしていた。ガルシアはディランの歌に呼応するようにリフを演奏した。ディランが「contacts among the lumberjacks」(木こり間の連絡)に関する強力なブリッジを歌った後に、ブレントがパワフルなコードを弾くと、ミュージシャン全員のタイミングはピッタリ。ディランはブレントの貢献に「オー・イェー!」と叫んで応える。ガルシアがエンディングで弾いた精神がとろけてしまうような見事なソロは、サイケデリックな混沌の雰囲気を作り出した。私たち全員、ミスター・ジョーンズ的な性質を少しは抱えているものなのだ。



 ディランがデッドの手を借りて初期の未発表の反戦歌〈John Brown〉を蘇らせた後、薄明かりが暗闇に変わると、ミュージシャンたちはタバコのライターの炎のゆらめきを背景に楽器をチューニングした。ジャイアンツ・スタジアムに掲げられた巨大なビデオ・スクリーンの1つが、ギターを持ったガルシアの姿を映し出したタイミングで〈Wicked Messenger〉が始まった。《John Wesley Harding》に入っているこの曲は、ディランがライヴでは披露したことのなかったナンバーだが、ガルシアのソロ・バンドの1つ、リジョン・オブ・メアリーは1975年に何度か〈Wicked Messenger〉をカバーしている。ディランはマイクの前に歩み出て吠えた。「There was a wicked messenger from Eli he did come!」(悪意を抱いた使者がいた。そいつはエリからやってきた) 腹の底から声を発する伝道師のようなヴォーカルは、この曲の聖書的な雰囲気にマッチしていた。ディランの丁寧な歌い方が何かを示しているとしたら、ガルシアのブルース・リフとバンドが出す雷鳴のようなサウンドに動かされてのことだろう。ディランが「The soles of my feet, I swear, they're burning」(オレの足の裏が燃えている)と歌うのをガルシアが聞くと、彼のすばしこい指は踊るソーセージにようにフレットボード上を小刻みに動いた。ディランはガルシアのギターに酔いしれながらステージ上をウロウロした。私はこれまでで最もホットなギター・ソロを聞いた時の観客の反応に心を打たれた。 「If you can't bring good news then don't bring any」(良いニュースを持って来れないのなら、何も持ってくるな)とディランが歌うと、デッドはブルース風メロディーラインをもう1度演奏して、この曲を締めた。ガルシアとウィアはドヤ顔で立っていた。ディランは何かに取り憑かれているようだった。ミッション完了。
 このパフォーマンスに関する歴史的な云々(ディランにとって〈Wicked Messenger〉はライヴ初演だった)や、ディランが人生半ばで経験していた創造力の沈滞について全く知らなかった私は、ただ癒しを感じていただけだった。これは、ガルシアとディランが一緒にステージに立ったらこんなことが起こるかもしれないと私が考えていた予想を超えていた。
 次に披露された私の大好きな2曲〈Queen Jane Approximately〉〈Chimes of Freedom〉は少々焦点の合ってない演奏だったが、〈Chimes〉ではディランは煌めくようなヴォーカル・ワークを披露した。



 フォックスボロ公演とJFK公演の後に、私の頭の中でずっと鳴っていた曲が、《Desire》に収録されている伝説のギャングについて歌った〈Joey〉だった。ディラン・マニアになってまだ日が浅かった私は、この曲が持つパワーを見過ごしていた。ディランの横で、ガルシアは確信を持ってコーラスを歌った。「ジョーイ、ジョーイ、ストリートの王、土の子供。奴らに自分を殺しに来させたのはなぜなのか?」 デッドが何度も強くコード進行を鳴り響かせているこの時の〈Joey〉は、アルバム・バージョンを打ち砕いてしまった。ディランはフットボール・フィールドの端に建てられたステージ上に立っていた。全米トラック運転手協会のボス、ジミー・ホファの遺体が埋まってるのはそのあたりだという噂がある。ディランはギャングのペルソナをかぶり、まるで本当に見てきたかのような話しっぷりで、ジョーイ・ガロのゆりかご(ブルックリンのレッド・フックで誕生)から墓場(ニューヨークのシーフード・レストランで撃たれる)までの物語を語る。ディランはギターをライフルのように持ち、前をまっすぐ見据えて、せせら笑いながら、ジャイアンツ・スタジアムを魔法にかけてしまった。5つのヴァース全てを完璧な順番で歌い、社交クラブにいる話し上手な男のホラ話のようなやり方で事実を届けた。ディランの演奏中、巨大スクリーンの映像が観客の心の中に入り込む。ディランはそれまで見捨てていた曲と本能的に再接続していた。
 1991年のポール・ゾロによるインタビューで、ディランは語っている。「オレにとっては、いい歌さ。素晴らしい歌だという魅力は決して失われない。そういうことって、毎晩歌いながら、ようやくわかることなんだ。この曲をオレに歌わせた奴を知ってるだろう。ガルシアさ。ガルシアがオレにこの曲をもう1度歌わせたんだ。史上最高の歌の1つだとも言っていた。こんな言葉が彼の口から出てきて、どっちに受け取っていいのかわからなかったよ(笑)。デッドの演奏でこの曲を歌わされたけど、オレにとっては、〈Joey〉には、毎日耳に出来るわけではないホメロス的なところがあるのさ」
 〈All Along The Watchtower〉でもガルシアの素晴らしいギターの腕前が披露された。私はこの曲が自分が体験した最もスリリングなコンサートの最後の曲だろうと思った。最後のジャムの炎のまだまだ熱い残骸が遂にタッチダウンとなった時、ディランは言った。「ありがとう、グレイトフル・デッド!」 ディランは1987年に36回のコンサートを行なったが、オーディエンスに向かって語りかけたのは2度しかない。この時と、9月5日のテルアヴィヴ公演で〈Highway 61〉の後に「シャローム」(「みなさんに平和を」という意の別れの言葉)を言った時だ。この晩のデッドのパフォーマンスに心の動かされていたディランは、コードをいくつかかき鳴らした。その直後、ボブの口から発せられた言葉は「Come gather 'round people, wherever you roam…」。ジェリーと仲間たちは不意をつかれたに違いない。しかし、彼らは残業も厭わない。ディランの発する不朽の言葉の間のスペースを、ガルシアは生き生きとしたラインで満たした。ジャイアンツ・スタジアムに集まった忠実なファンの中に立っていた私の頬を、驚喜の涙が伝っていた。今でおなお、この〈The Times They Are A-Changin'〉の感動的な演奏は、テープで聞くたびに胸がいっぱいになる。5時間に渡って、3回の長いセットをこなした後だというのに、グレイトフル・デッドはディランと一緒に再び登場して、ダブル・アンコールに応えた。ディランは〈Touch Of Grey〉にギターで参加し、ウィアとガルシア、そして、ふたりの間にいるディランが「we will get by-eye-eye, we will survive」のラインを歌った。これ以上幸福な瞬間はない。〈Knockin' on Heaven's Door〉は素晴らしいイベントのやさしいさよならの挨拶だった。ずいぶんゆっくりとしたバージョンだったが、彼らがまだ演奏しているのは驚きだった。私はまあまあ健康な24歳の男子だったが、じりじり暑い夏の日に、倒れる寸前だったのだから。
 ディラン&ザ・デッドは1週間の休みの後、西に移動してユージーン、オークランド、アナハイムで最後の3回のコンサートを行なった。何があったのかは私には定かではないが、ツアーの最初の勢いはなくなっていた。ユージーン公演はフォックスボロに毛が生えた程度の出来映えで、残りのショウも首尾一貫性に欠けていた。7月24日のオークランド公演がこの3回の中ではベストであり、〈I Want You〉と〈Knockin' On Heaven's Door〉は必聴だ。
 1989年には、このツアーで演奏された曲をまとめたレコードがリリースされた。批評家たちはこぞって《Dylan & The Dead》を酷評した。確かに残念なアルバムで、選曲はディランが担当したらしい。デッド側からも、主にジャイアンツ・スタジアム公演から選曲されたアルバム案がまとめられたが、ディランはこの提案を拒否。ガルシアがアルバムのミックスについて相談するためにマリブのディラン邸を訪れた際、ボブはラジカセでテープを聞いたらしい。リリースされたアルバムは無意識的な自己破壊行為であり、これによってグレイトフル・デッドも間接的にダメージを被った。ジャイアンツ・スタジアム公演を中心にアルバムを作らない限り、まともな作品にはならない。ディランの《Bootleg Series》の一環として、ジャイアンツ・スタジアム公演にスタジオ・セッションのアウトテイクが加えられてリリースされたら、《Dylan & the Dead》によって不正確に記録されてしまった歴史を修正し、この重要なコラボレーションを輝かしい光で照らすことが出来るだろう。

The original article "BORN AGAIN IN THE SWAMPS: DYLAN & THE DEAD 30 YEAR AGO, GIANTS STADIUM" by Howard Weiner
http://visionsofdylan.blogspot.jp/2017/07/normal-0-false-false-false-en-us-x-none.html
Reprinted by permission

   
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2017年07月16日

ポールが死亡説を否定というフェイクニュース

 フェイクニュースのサイトが、ポールが死亡説を否定したというフェイクニュースを載せました。つまんないです。

http://worldnewsdailyreport.com/paul-mccartney-refutes-ringo-starrs-allegations-that-he-died-in-1966-3/

 いつの間にか、日本のウィキペディアの「ポール死亡説」の内容が充実してます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E8%AA%AC

  
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2017年07月11日

コンサートの録音には猛反対だったグレイトフル・デッド

 グレイトフル・デッドのライヴ音源人気投票ナンバー1の座に君臨するようになって久しい1977年5月8日コーネル大学公演ですが、今年5月にやっと正式に発売されました。それまでの紆余曲折については拙ブログでもいくつか記事を掲載しています:

今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年
長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命

 コーネル公演とその前後の計4公演を収録したCD11枚組の「箱物行政」には、コーネル大学出版局が出した『Cornell '77』(ピーター・コナーズ著)という書籍も付属し、それには1970年代後半のグレイトフル・デッドの状況から、コーネル大学のロック・シーン、ファンによるコンサートの録音とテープ・トレード文化、当日の演奏曲、コーネル公演をバンドのスタッフとして録音した人物と、彼女が残した高音質テープの行方、「コーネル公演テープはCIAによるヒッピーの洗脳実験で、実は公演自体がなかった」説まで、さまざまなことが書かれています。
 当然、私が興味を持ったのはコンサートの録音とテープ・トレードに関する部分です。約30年前に、そっち方面からこのバンドに興味を持ちましたから。デッドに関する入門書等では「フリーの精神に溢れたグレイトフル・デッドは、コンサートの録音と、ライヴ・テープの流通を気前良く許可・奨励。テープが無料の宣伝となって人気が拡大」といったストーリーをよく見かけますが、100%嘘ではないものの、実際にはもっと複雑な課程を経て、1984年10月27日のバークリー・コミュニティー・シアター公演から正式に録音者用セクションが設けられました。『Cornell '77』では1970年代前半からコンサートを録音してきた超ベテラン・テーパー(1974年のボブ・ディラン&ザ・バンドのナッソー・コロシアム公演のテープでも有名な人)の談話が紹介されています(p.45〜46):
グレイトフル・デッドがコンサートの録音を奨励していたなんて神話があるが、嘘っぱちもいいところだよ。奨励なんて全くしてなかったね。少なくとも、初期の頃は全然だ。録音をやめさせようと最大限の努力をしたけど、結局、やめさせられなかったっていうのが実のところさ。基本的に、バンド側が戦争に負けて、どこかに妥協点を見いだしたんだ。そして、そのうちに方針が変わって、「オレたちは昔から録音を奨励してたよ。もちろん、今も大賛成さ!」ってなった。ファンがコンサートを録音するのはバンドにとって重要なことだったってわかったのさ。だったら、もっと早くから賛成してくれたらよかったのに。録音がバンドを成長させたんだよ。オレが言いたいのは、デッドをビッグな存在にしたのは確かに音楽なんだが、シーン全体を超巨大に膨らましたのはテーパーたちだってことさ。

 1980年代になると、ウォークマン等の普及で会場にマイクと録音機を持ち込む輩が増加し、録音者と非録音者の間で互いに邪魔だのうるさいだのといったトラブルが頻発し、乱立するマイクスタンドのせいでミキサーからステージが見えないこともしばしば。その解決策として正式に、録音者セクションをミキサーの後ろに設けて録音者を隔離しました。そこからはだいたい入門書の通りです。でも、セクションより良い音が届く前の方の位置で録音しようとする輩が、その後もあとを絶ちませんでした。
 グレイトフル・デッドが録音を奨励していなかった面白い証拠を2つ挙げて起きましょう。まず、1970年5月16日テンプル大学公演。〈New Speedway Boogie〉の最後の40秒間にはバンドのスタッフらしき人物が録音を止めるように命じている様子が収録されています。イギリス訛の英語を話していることから(「tape」を「タイプ」と発音しています)、この人物は元ローリング・ストーンズのスタッフで、オルタモント事件後はアメリカにとどまってデッドのツアー・マネージャーになったサム・カトラーの可能性が高いです。ローリング・ストーンズの《Get Yer Ya-Ya's Out》の冒頭でバンドを「greatest rock'n'roll band」と紹介しているのがサムです。同じ声じゃないですかね。


 もう1つが、1980年10月31日のニューヨーク、ラジオ・シティー・ミュージック・ホール公演のビデオ《Dead Ahead》に収録されている寸劇です。まだ、録音者用セクションがない頃のことです。



 アル・フランケン扮するヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(キッシンジャー本人は2017年の今でも存命です!)が、グレイトフル・デッドのコンサートを隠し録音しようとして見つかり、ビル・クロイツマンに叱られています。アル・フランケンは伝説的テレビ番組『サタデー・ナイト・ライヴ』で有名になったコメディアン/コメディー作家なんですが、何と今は上院議員をやってます。大出世! この↓ミック・ジャガーの真似も大爆笑です!(デッドとは関係ないですが)



 あともう1つ、この本で注目すべきは、筆者が一番好きなコーネル音源は、サウンドボード録音とオーディエンス録音をミックスさせたものだと告白している点です(ただし、今回の箱物行政を聞く前の時点なので、今は意見が変わってる可能性もあります)。サウンドボード・テープは客の歓声が殆ど入ってなくて臨場感に欠けるというのは、デッドがバリバリの現役時代から存在していた批判であり、デッドの音響スタッフは、ミキシング・ボードからの信号を、そこに立てたマイクで拾った会場のノイズとミックスさせて、ウルトラ・マトリクス・ミックス・テープを作っていました。といっても、こういう音源が存在するのは87〜91年頃で、その他の期間はありません。しかし、コンピューター時代になり安価で高性能のDTMシステムが普及した今、手間暇さえ厭わなければ、シロウトでもボード音源とオーディエンス音源をデスクトップでうまい具合に同期させて絶妙なミックスを作ることが出来ます。グレイトフル・デッドのファンは暇なのか、こうしたミックス(デスクトップ・マトリクス・ミックス)を作って、音源交換サイトにアップロードしてくれる親切な人がいます。コーネル音源もとっくにそうした処理の対象になっています。youtubeにあるこれがそうです。皆さんも聞いてみてください。



 コーネル音源は、グレイトフル・デッドのテープを数多く聞けば聞くほど、これがベストではないだろうと感じるショウなのですが、人気投票となるとなぜか必ず1位になるという不思議な現象が起きます。私にもコーネルより好きなショウがたくさんあります。同じ1977年から選ぶとしたら11月6日ニューヨーク州ビンガムトン公演です。私はこのコンサートに関しても、手間暇を厭わないクレイジーなデッドヘッドが作ったデスクトップ・マトリクス・ミックスのほうが純サウンドボード音源より好きです。是非ご賞味あれ。


P.S. コーネル大について調べていて気づいたのですが、菅直人元総理の著書の英訳本『My Nuclear Nightmare: Leading Japan Through the Fukushima Disaster to a Nuclear-free Future』がコーネル大学出版局から出て、今年3月には同大学で講演会をやったそうです。
https://sagehouse.blog/tag/naoto-kan/

   
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