2018年08月29日

嘘まみれの人生:ボブ・ディランとロリー・ワイアットと〈Blowin' in the Wind〉

 ボブのバイオ本でも真の作曲者騒動についてはほんの少ししか触れられておらず、はっきり言ってわけのわからない事件なのですが、その経緯をちょっと詳しく説明している記事を発見したので紹介します。どうでもいいことなので、わけのわからないままでも全く困らないんですけどね。ニュージャージー州の小さな町での出来事が発端となったこの騒動に関しては、「蘇る記憶:1965年10月2日ニューアーク公演」でも少し触れられています。



嘘まみれの人生:ボブ・ディランとロリー・ワイアットと〈Blowin' in the Wind〉
文:フレッド・バルズ


 風が強く、雪もぱらつき、気温は氷点より少し上。1962年4月16日(月)の晩。場所はニューヨーク・シティーのウェスト・ヴィレッジ。ジョーン・バエズは西4丁目11番地前に停まっていたタクシーに飛び乗ると、そのドライバーに向かって、聞いたばかりの歌についてしゃべり出した。

ジョーン:信じられないでしょうけど、もうびっくりしたわ。これこそ本物の詩よ。
運転手:しっかり韻を踏んでたのかい?

 その日、成功への夢見るふたりのミュージシャンは、ついさっきまでファット・ブラック・プッシーキャットにいた。ここは、グリニッジ・ヴィレッジにある薄暗いコーヒー・ハウスであるということが大切だった時代に、ヴィレッジにあったコーヒー・ハウスだった。プッシーキャットが営業を停止する際に、ニューヨーク・タイムズ紙はこう言っていた。

pussy.jpeg


 ふたりのミュージシャンとは、フォーク・シーンでもっとウケが良くなるように名前を変えたユダヤ系の若者だった。ひとりは22歳になったばかりで、もうひとりはその歳になるのにあと1カ月足りなかった。プッシーキャットはいかがわしい場所だった。将来、そこのオーナーになる人物は「汚水槽だよ」と言った。「タバコの煙のせいで人の姿が見えず、ふたりにひとりの割合でヤクの売人なんで、おちおち人に話しかけられなかった」

 ファンキーであろうがなかろうが、プッシーキャットはヴィレッジで合法的に営業している会場だった。タイニー・ティムも、ママ・キャス・エリオットも、リッチー・ヘヴンズも、シェル・シルヴァースタインも、ビル・コスビーもここに出演した。しかし、午後は、この肌寒い4月の午後もそうだったのだが、プッシーキャットは、ヒップスターやビート詩人がコーヒーをすすりながら、盗聴されることもなく話の出来る静かな場所だった。

曲の誕生
 ふたりの男がここにいる。コーヒーを飲みながら、とりとめのないことを話している。もじゃもじゃ頭の若者のほうはノートとペンを取り出して、ギターを弾き始め、コードを弾くのと言葉をノートに書き留めるのを交互にやる。「ヘイ、マ〜ン。韻を考える間、オレの代わりにギターを弾いててくれないか」 こいつは別の若者にギターを渡しながら言う。「〈No More Auction Block〉だ」
 この古いスピリチュアルを知らなかったら、1962年のフォーク・シンガーじゃない。デヴィッド・ブルーがギターでこの曲を弾く間、ボブ・ディランは歌詞に最後の仕上げを施す。
 2ヴァースが満足に仕上がったところで、ディランとブルーはガーディース・フォーク・シティーに向かう。そこでは毎週、フート・ナイトが行なわれている。月曜日はいつもそうなのだが、ガーディースの地下室は出演者リストに載りたいミュージシャンでごった返していた。全員が、ステージの鍵を握っているギル・ターナーの気を引こうとしていた。ギルはフート・ナイトの司会進行役をしていたフォークシンガー兼興行主だ。

Delores.jpeg

ギル・ターナーの結婚式でのデロアズ・ディクソンとボブ・ディラン


 ディランはターナーと親しく、ターナーのグループ、ザ・ニュー・ワールド・シンガーズのリード・シンガー、デロアズ・ディクソンに片思いをしており、ガーディースの遅い時間のセットで一緒に歌いたいと思っていた。ディクソンは、毎晩、締めくくりとして〈No More Auction Block〉を披露していたのだ。
 「あなたに是非聞いてもらいたい曲を持ってきたんだ」 ディランはターナーにこう言うと、歌い始め、ターナーはそれを熱心に聞いた。「この曲は是非オレが歌いたい」とターナーが言う。「今すぐだ!」
 ディランはギルにコードを教え、ギルは歌詞にざっと目を通し、ディランが彼のために殴り書きをした歌詞を手に取ると、急いでステージに出た。「ここにお集まりの皆さん、私はこれから、偉大なソングライターが書いた新曲を歌いたいと思います。鉛筆の先から出て来てホヤホヤです。それでは行きましょう」 ギル・ターナーによる〈Blowin' in the Wind〉の初のライヴ・パフォーマンスは、こうして始まった。
 デヴィッド・ブルーの話によると、最後には観客全員からスタンディング・オベーションをもらい、ボブはそれを喜んで見ていた、そして、ふたりは帰宅した、とのことだ。
 しかし、その日の晩に、ボブ本人も〈Blowin' in the Wind〉を歌った。フート・ナイトには「3曲歌ったら去る」という厳格なルールがあったのだが、それを破っても良いという特別な許可をギルから得ていたのであろう。ディランはオリジナル曲の〈Talkin' New York〉、3曲のトラディショナル、そして、最後の締めくくりとして〈Blowin'〉を披露した。

聞く耳持たず
 〈Blowin'〉がフォーク・ソングの怪物的名曲になるだろうと、全ての人がすぐに認めたわけではない。ヴィレッジのフォーク・ファンにとっては「マクドゥーガル・ストリートの市長」として知られているデイヴ・ヴァン・ロンクは、その翌日、ディランを引きとめてこう言った。「ボビー、何て間抜けな曲なんだ! いったい、風に吹かれてるって何なんだよ?」 ヴァン・ロンクは時たま〈Blowin'〉にこんな歌詞を付けてからかった。

How much wood could a woodchuck chuck
if a woodchuck could chuck wood?
The answer my friend is blowin' in the wind.
  ウッドチャックが木を放り投げることが出来るのなら
  1匹のウッドチャックはどのくらいたくさんの木を放り投げることが出来るのだろう
  友よ、答えは風に吹かれている


 ディランと時々つきあってたデロアズ・ディクソンは、「Blowin'」という言葉が文法的に正しくないので、歌いたくないと感じていた。彼女はこの箇所を「Blown in the Wind」に変え、ザ・ニュー・ワールド・シンガーズもその歌詞でレコーディングしている。「ボブは気にしてないようだったよ」とハッピー・トラウムは回想する。「デロアズのことが好きだったから」
 ピーター・ポール&マリーを結成し、マネージメントを担当し、時折、レコードのプロデュースも行ない、ディランともマネジメント契約を結んでいたアルバート・グロスマンは、〈Blowin'〉は良くてもB面用の曲だと考え、こちらではなくて〈Don't Think Twice〉のほうをPPMに歌わせようとプッシュした。
 しかし、幸いなことに〈Don't Think〉ではなく〈Blowin’〉のほうが1963年6月に発売されると、最初の1週間で30万枚が売れた。ビルボード誌ではチャートを急上昇して最高第2位を記録し、他にも数百ものカバー・バージョンを生み出し、全てのフォーク・シンガーのレパートリー中の人気曲になった。1962年には、ディランはまだニューヨークのフォーク・シーンの中で天才扱いされているだけだったが、翌年にはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに招かれて、ピーター・ポール&マリーと一緒に〈Blowin' in the Wind〉を披露し、大物フォーク・シンガーとなった。
 その頃、〈Blowin'〉に関する奇妙な噂が広まり始めた。

「ザ・ミルバーネアーズのメンバーが書いた曲です」
「ディランではなく、ミルバーン高校の学生、ロリー・ワイアットが〈Blowin' in the Wind〉を書き、ディランにこの曲を売ったという噂が広まっている。ディランは自分がこの曲を書いたと言い、ワイアットも自分が著作者であることを否定しているのだが、ミルバーン高校の生徒の中には、ディランが歌う前に、ワイアットからこの曲を聞いたと主張している者もいる」ニューズウィーク(1963年11月)

 ニュージャージー州ミルバーンはグリニッジ・ヴィレッジから電車で30分ほどのところにある町で、ミルバーン高校はそこにある。この学校は、課外活動の中でも、生徒が交代で参加しているアカペラ・グループ、ザ・ミルバーネアーズを特に支援していた。
 1962年9月、ミルバーン高校の3年生で、シンガー/ソングライター志望だったロリー・ワイアットは、ザ・ミルバーネアーズのオーディションに合格したという通知を受け取り、晴れて、このグループの1962年度第3期のメンバーとなった。フォーク・ミュージックに心酔していたワイアットは、自作のフォーク・ソングをザ・ミルバーネアーズに取り上げさせたいと思っていた。大きな理由は、彼らのアドバイザーがRCAにコネがあって、ザ・ミルバーネアーズのアルバムをリリースしようという話もあったからだ。
 ワイアットが、何かいいアイデアはないかと『Sing Out!』誌の10/11月号を眺めていた時に見つけたのが、ボブ・ディランの〈Blowin'〉だった(この曲の楽譜と歌詞が出版された最初期の例の1つだが、これが本当に第1号というわけではなかった。それが今後、この件において重要になってくる)。少年は〈Blowin'〉を自分の曲に作り変えようとしたが、ここまではれっきとしたフォークの伝統である。ザ・ミルバーネアーズの次のリハーサルの時、ワイアットはポケットの中に2バージョンの〈Blowin'〉を持っていた。ディランのものとまだ作りかけの自作だが、ワイアット本人も、後者はオリジナルと比べて取るに足らないものだと思っていた。しかし、誰かが「いい曲を持ってる者はいないか?」と訊いた時、この先10年間、自分に付きまとうことになる判断をしてしまった。
 ワイアットがディランの〈Blowin'〉を披露したところ、皆、驚きのあまり口もきけない状態になってしまったのだが、誰かが遂に訊いた。「お前が書いたのか?」 ワイアットは考えた。「イエスと答えたところで誰が傷つくのだろう?」と。ニュージャージー州ミルバーンにある友人宅のリビングでベージュ色の絨毯の上に座っていたその時、ロリー・ワイアット人生は狂騒に向かって真っ逆さまに落ちていった。

メンバー:感謝祭の集会でやろう!
ワイアット:だめだよ。まだ完成してないから。
メンバー:絶対やろう!

 感謝祭の集会のバックステージで、ワイアットはザ・ミルバーネアーズのメンバーに、誰が書いたかについては何も言うな、歌うだけにしといてくれと懇願した。
 しかし、メンバーのひとりが集まった観客に言ってしまった。「ザ・ミルバーネアーズのメンバーが作った歌を歌います!」

 終演後の楽屋で、ワイアットがもうこの曲は歌いませんと言っている様子を耳にして訝しく思っていたホームルームの教師は、後日、ワイアットを「ちょっと話があります」と呼び出した。この時、弱冠17歳の少年だったは、教師にまで追及されるなんて死んだほうがましだと感じ、この場から早く逃れようとして、曲の権利を1,000ドルで売って、チャリティーに寄付したと出まかせを言った。「どこに寄付したの?」と教師に訊かれたワイアットは、最初に頭に浮かんだものを口に出した。「C.A.R.E.にです!」
 1973年に『ニュー・タイムズ』誌に掲載されたワイアットの告白は、ここで話が終わっているが、実は正気でない沙汰はこれで終わったわけではなかった。

mill.jpg

 
 1963年に、ザ・ミルバーネアーズは《A Time to Sing》というLPを自費出版したが、それにはこの曲が収録され、作曲者としてロリー・ワイアットがクレジットされ、曲の成り立ちに関するライナーノーツまで印刷されていた。同年、このレコードはリヴァーサイド・レコードのサブ・レーベルによって拾われて、《Teenage Hootenanny》というタイトルで再発された。この曲はアルバムの1曲目だったが、タイトルは〈Blowing in the Wind〉と誤表記されている。作曲クレジットもワイアットではない、というより、その欄には誰の名前も記されていなかった。

308621.jpg


label.jpeg


 ミルバーン高校の新聞『ザ・ミラー』の記事も、ワイアットが1962年夏にこの歌を作曲して、ボブ・ディランに1,000ドルで売り、その金をC.A.R.E.に寄付したという話を紹介していた。
 2カ月後、『ザ・ミラー』紙は、ザ・チャド・ミッチェル・トリオが最新アルバム《In Action》で同曲を取り上げる予定だという記事を掲載した。冒険心豊かな高校生記者は、トリオのレーベルの宣伝担当者に接触して、「美しいバラッドを作ったのはロリーです」と言ったらしい。しかし、《In Action》がリリースされた時には、作曲者名が記されているのは〈Blowin'〉だけで、しかも、ボブ・ディランというクレジットだった。ピーター・ポール&マリーがこの曲を有名にしたおかげで、《In Action》が8カ月後に再発された際には、タイトルも《Blowin' in the Wind》に変えられた。
 チャド・ミッチェル・トリオは、1962年に〈Blowin' in the Wind〉をシングルとしてリリースする機会を逸していた、という話もある。当時のプロデューサーからダメ出しをくらったのだ。「歌詞に「死」が含まれている曲がトップ50に入った例はない」というのがその理由説明だった。このトリオは厳密に第1号ではないとしても、〈Blowin'〉を最初にリリースしたアーティストの中には入る。1963年1月にリリースされたアルバム《In Action》も、同月にリリースされたシングル〈Blowin'〉も、作曲者クレジットは正しくボブ・ディランと記されていたが、シングルはザ・ミルバーネアーズの《Teenage Hootenanny》の名残だろうか、再び「Blowing」と綴りが間違っていた。
 レコード・レーベルが何を言おうと、ワイアットのクラスメイトの多くは、彼がこの曲を書いたが、権利の全てを売り渡すという間違った決定をしてしまったと信じていた。「ワイアット=〈Blowin'〉の真の作曲者」説を信じている者は、インタビューに応じてこう答えている。「権利売却に伴う条件の1つに、ワイアットは、未来永劫、自分が作曲者だとは主張しないこと、というのがありました。でも、本当は彼がこの曲を書いたことを、皆、知っています」
 噂はニュージャージー州の高校からグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスに流れて来たが、それを取り沙汰する者は殆ど皆無だった。『ニューズウィーク』誌がこれを取り上げなかったら、恐らく自然死を迎えていただろう。

「僕の過去はとても複雑で、たぶん、皆さんには信じられないでしょう」
 大ボラを吹く傾向があったことを考えると、若きボブ・ディランのマスコミ対応はラッキー続きだったと言えよう。その時点までは、ディランにとっての「マスコミ」とは、ボブが本当にサーカスと一緒に旅をしたのかどうか、ホーボーとして西部を放浪したのかどうかよりも、この若者の才能のほうに興味を持っている友好的な広報係だったからだ。しかし、1963年11月に〈Blowin'〉がモンスター・ヒットとなり、カーネギー・ホールでコンサートを開催するようになると、大手マスコミの注意も引くようになった。
 1963年11月に、『ニューズウィーク』誌に、ディランの身なりから「卑猥な言葉をまぶしながら、わざと間違った文法を使うこと」まで、ありとあらゆることを批評し、歌っていない時にディランの口から出てくる言葉の殆ど全てが嘘であると言い、最後の締めくくりに、皆の知らない場所からやって来たと主張するボブ・ディランの実体はヒビング出身のボビー・ズィママンであると暴露する記事が掲載された。ディランはこれを書いた匿名の記者に、当然、気を悪くしたことだろう。
 これはジャーナリズムの世界では昔からお馴染みの中傷記事で、ディランなんてインチキ野郎だと悪口を言うのが目的なだけに、〈Blowin' in the Wind〉の本当の作者はロリー・ワイアットだという噂についても、しっかり言及していた。
 ディランの伝記を書いたアンソニー・スカデュトによると、「ディランと[マネージャーのアルバート・]グロスマンは報復をされたのだ。他の大勢の記者にもあったことなのだが、『ニューズウィーク』誌の記者はインタビューに協力するというディランの約束を取り付けていたものの、土壇場になって、ディランかグロスマンのどちらか(話にはいくつかのバージョンがあるが、最も信頼できる説によるとグロスマン)から、インタビューはなしと通達されたのだ。それで、この記者はミネアポリスとヒビングに出向いてディランの過去を掘り起こし、戻って来るやいなやゴシップ記事を出版するぞと脅した。グロスマンは譲歩してインタビューをセッティングしたが、記者がディランと話すことが出来たのはほんの束の間。ディランは機嫌を悪くして中断してしまった。ということで、この中傷記事が載ることになったのだ」
 ディランは『ニューズウィーク』誌の記事のおかげで数週間ほど落ち込んでいたが、遂には回復。この記事は、キャリアを妨害されたというよりもむしろ、ディラン神話を、ミネソタ出身のユダヤ系の若者がウディー・ガスリーのクローンに変身して、ニューヨークのフォーク・シーンを支配するというものにアップデートする材料になったと言えよう。ディランはこの後も、パンクなエレクトリック・ロッカーのディラン、レイドバックしたカントリー・ボーイのディラン、キリスト教伝道師のディラン、その他多くのディランをどんどん作り出していった。

PPM.jpeg


 『ニューズウィーク』誌の記事とインターネットのおかげで、〈Blowin' in the Wind〉の噂はなかなかの長寿を持っているようだ。真の作曲者はボブ・ディランであるという疑いのない証拠があり、ロリー・ワイアットがそれは嘘ですと何度も白状しているのにもかかわらずだ。真実はこうだ。ガーディース・フォーク・シティーで〈Blowin'〉を初演した1カ月後の1962年5月に、歌詞を追加したバージョンが『ブロードサイド』誌に掲載され、その後、『シング・アウト!』誌の10月/11月号にも再掲載された。こちらをロリー・ワイアットが----しなければよかったのに----発見することになる。ディランは1962年7月9日に〈Blowin' in the Wind〉をレコーディングし、それが収録されたセカンド・アルバム《The Freewheelin' Bob Dylan》は1963年5月に発売された。1カ月後、ピーター・ポール&マリーによるカバー・バージョンがこの曲を大ヒットさせた。

broadside.jpeg


 「〈We Shall Ovecome〉時代を代表する冠のような曲となる歌をオレが偶然見つけた話を明かすのを、セラピストはビックリしながら聞いてたよ。そして、応援してくれるようなことを言ってくれた。「まあ、少なくとも、あなたは優れた耳を持ってたってことよね」って」 ロリー・ワイアットは真のフォーク・ファンで、フォーク界では人気パフォーマーとなり、ピート・シーガーのコラボレーターも務めた。1990年代半ばに患った脳卒中のせいで活動のペースこそゆっくりとなったが、ワイアットは現在も演奏活動を続けている。
 一方、ボブ・ディランはボブ自身の最大の発明品であり続けている。

The original article “All the Lies That Are My Life: Bob Dylan, Lorre Wyatt and “Blowin’ in the Wind”” by Fred Bals.
https://medium.com/@fredbals/all-the-lies-that-are-my-life-bob-dylan-lorre-wyatt-and-blowin-in-the-wind-dd612a1fd4e4


  

posted by Saved at 21:18| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月11日

アラン・ホワイトとビートルズ:イエス加入前の話

 このインタビューは8年ほど前に行われたもののようですが、私がこれを発見したのはつい最近なので、ここで紹介します。新情報の数々に驚きの連続です。



アラン・ホワイトとビートルズ:イエス加入前の話
聞き手:マイク・ティアノ


 1960年代後半のロンドンの音楽シーンで駆け出し中身であったアランは、クラブで演奏している際にジョン・レノンの目に留まるやいなや、次の瞬間には、プラスチック・オノ・バンドの一員としてトロントのステージに立っていた。ジョンやジョージ・ハリスン、リンゴ・スターといった才能溢れるアーティストの精鋭たちとの人脈も出来、〈Instant Karma!〉〈Imagine〉〈My Sweet Lord〉等、チャートのトップになり、世界中で何百万枚も売れるようなシングルやアルバムでプレイ。エリック・クラプトンやフィル・スペクター等のロック・レジェンドとも仕事をするようになった。この記事では、アランにスタジオ及びライヴ・ステージでビートルズの元メンバーと仕事をした思い出を語っていただく。アランが才能豊かなミュージシャン/ソングライターとの作業から得たことは、彼が加入した後のイエスにも恩恵をもたらしている。

あなたがジョンと会う前のことから始めましょうか。予備知識として知りたいのですが、どのくらいのレベルでビートルズのファンだったんですか?

 ラジオでビートルズの曲を聞き始めたのは、11歳くらいの時だった。オレは長年ピアノを習った後にドラムも練習するようになっていた。両親がドラムを買ってくれたんで、リンゴのバスドラムのダブル・ビートの研究を始めたんだ。遂に解明した時には、ドラマーとして永遠にやっていけるようになったと思ったよ。ビートルズの音楽にはそういうふうに親しんでた。その後、音楽面から、ヴォーカル面から、歌詞やメンバー間のハーモニーを聞くようになって、グループってどういうものなのかを知った。自分の将来を初めて意識したのは、まさにこの時だった。

バスドラムのダブル・ビートとは?

 ドン、チ、ドンドン、チ…ってやつさ。当時はこれが、バンドでプレイするのに皆が最初に学んだものだった。これが出来るようになるやいなや、優秀なドラマー扱いだったんだ。

リンゴはドラムの達人だと思いましたか?

 もちろん。正しいタイミングで正しいことをやってたと思う。テクニック的には、名人じゃないと思うが、バンドの他のメンバーと協力して、バンドにプレイをさせる方法と手段を持っていた。それにバンドをうまく機能させるカリスマ性も持っていた。リンゴがやってたことを過小評価してる連中は多いね。

そうですね。とても過小評価されています。

 グレッグ・ビソネットがシアトルでやったクリニックを見たんだけど、クリニックの20分間丸々、ビートルズのことばかり話してたよ。リンゴのスタイルがビートルズの音楽にどういう影響を与え、どうしてああいうふうになったのかってね。

リンゴはビートルズの大きな構成要素ですが、とても過小評価されています。特にビートルズのどの曲から大きな影響を受けましたか?

 初期のアルバムも全部好きだったけど、《ABBEY ROAD》は偉大なアルバムだ。《THE WHITE ALBUM》もいい。もちろん、《SGT. PEPPER》は音楽のランドマーク的な作品だった。ビートルズはそういう踏み石のようなものをたくさん作ってるから、あの頃の人はビートルズの作品を、他の多くの音楽用のリファレンスとして使っていたんだ。ビートルズは昔も今もそのくらいビッグだった。

メロディーや曲作りの点で影響を受けた曲はありましたか?

 ポールはバンドの有力メンバーで、時にはドラムも演奏してるから、ビートルズの音楽はとても入り組んでいる。う〜ん、どこから始めたらいいかなあ…。ビートルズの曲は全部大好きだよ。〈Norwegian Wood〉とかさ。単なる思いつきで挙げただけなんだけどさ。ビートルズの話だったら永遠に続けられる。スゴいよね。〈Back In The USSR〉もいいね。影響を受けた曲を挙げる作業はエンドレスだ。アルバム全部に触れて、この曲がそうですって言うことが出来る。

ビートルズのコンサートは見たことがありますか?

 全くない。

ジョンと会う前に、ビートルズの誰かと会ったことはあるんですか?

 ない。でも、アップルには何度か行ったんだ。友人が何人かアップルにいたんだよ。アップルはサヴィル・ロウにある家みたいなものだった。中に入ると、建物全体がバイブレーションに満ち溢れていた。広報係のデレク・テイラーの部屋は、1日24時間、ディスコ状態だった。遊びに行くと楽しいところで、友人と一緒に何度かそこに行ったよ。ただそこでウロウロしてただけだけどね。ロンドンでコネがある奴なら、皆、そこに行くだろ。でも、ジョンから「ライヴ・ピース・イン・トロント」で演奏してくれって誘われるまでは、誰にも会ったことはなかったよ。

あなたがクラブで演奏してたら、ジョンが見に来たという話ですが…。

 クラブにいた時にはジョンに会ってないんだよ。ジョンはその時は演奏を見ただけ。ジョンはトロントで行なわれるフェスに出なきゃいけなくて、翌日、オレに電話をかけてきた。「一緒にギグをやってくれないか」って。ダチのひとりがオレをからかってるんじゃないかと思ったよ。ジョン・レノンの真似をしてさ。だから、「やらないよ。冗談だろ」って答えて、イタズラの主はあいつかなって思いながら、切っちゃったんだ。そしたら、5分後にまた電話があって「冗談じゃないんだよ。こっちは本当にジョン・レノンなんだ」って言う。「そうなんですか。すみません」て謝ると、ジョンは「いや。いいんだよ」って言った。
 「ギグをやりたいかい?」って訊かれたんで、「もちろんです」って答えると、ジョンは「OK。それじゃ、朝、リムジンをそっちによこすから」って言った。翌朝って意味だった。当時、在籍していたバンドのメンバー全員が、オレにブーイングさ。だって、その晩、ギグをやって、金が入る予定だったんだからね(笑)。オレは言ったよ。「オレがジョン・レノンとプレイすることになったってことを、お前ら、理解してくれないのか!」って。バンドはギグをキャンセルして、オレはこのリムジンに飛び乗って空港に向かった。次の瞬間、オレはヒースロー空港のVIPラウンジにいて、エリック・クラプトンとジョン&ヨーコ、クラウス・フォアマンと一緒に飛行機に乗るのを待っていた。

あなたの人生でとても重要な瞬間だったのでしょう。違う選択をしたら違う人生になってたかもしれません。あなたがあくまでバンドに忠実でいて、「出来ません。オレにはバンドがあるんですよ。ジョン、誰か他の人を捜してください」って言うことも出来たでしょう。そしたら、あなたのキャリアはどうなってたかわかりません。でも、バンドの他のメンバーだって、もし同じチャンスを与えられたなら、断れなかったんじゃないですか。

 皆、「もしオレが同じ立場だったら、そうしただろうな」って思ってたんじゃないかな。

その時あなたがいたのはグリフィンてバンドですよね。

 そう。

ジョンがあなたを見にクラブに来た時、彼がそこにいることは知らなかったんですか?

 ああ、知らなかった。オレたちはステージにいて、ジョンがいたのはちょっとの間だったんだ。しかも、邪魔にならないようにと、後ろの端っこのほうにいたようだ。

ジョンはどうしてそこに来てたんでしょう? あなたをチェックするという明確な意図があったんですか?

 いや。単なる夜遊びの一環さ。ヨーコと一緒に町をフラフラしてて、たまたまあのクラブにやって来たんだ。オレはジョンに会ってすらいない。ジョンはクラブの隅っこにいて、様子をチェックしてたんだ。オレはそう聞いている。30分か45分くらいいて、出てったらしい。でも、オレがそこでやってたことを気に入ってくれたことは確かだ。それで、翌日、電話をくれたんだから。

それがあなたの知ってる事実なのですね。誰かがジョンに、このクラブに行け、このバンドをチェックしろって言ったとかではないんですか?

 そうではないと思うよ。

あなたがアップルに遊びに行ったのは、これよりも前のことですよね。でも、そこでジョンに会ったことはないと…。

 オレはアップルのスタッフと知り合いだって奴と知り合いだったんだよ。それで、2度ほどそこに招かれたんだ。遊びに来いって。アップルは、四六時中、いろんなミュージシャンが出入りするのを良しとしてたからね。テリー・ドランはビートルズのメンバー全員と知り合いだった。テリーは昔、「車のセールスマン」をやってて、用命があったらどこにでも来た。テリーはジョージの部屋で仕事をしていた。ピンク色の部屋の端っこには机が1つあった。ジョージは瞑想とかをやってた時期だった。オレたちはそんなテリーと友達になった。こいつはいろんなクラブに顔を出していた。ロンドンで活動中のいろんなバンドと親しかった。テリーが、ジョンかジョージか、さもなければマル・エヴァンスのようなスタッフに、「ジョン、このバンドを見に行けよ。使えそうなドラマーがいるぜ」って話した可能性もあるかもしれないけど、確かなことはわからない。

あなたの知る限りでは、ジョンはたまたまそこに居合わせて、あなたを見て、気に入ったんですね。

 そう。有望な若手を起用するのも乙なものだろうと思って、オレを手元に置いてくれるようになったんだ。

それであなたのエゴは大膨張したんじゃないですか。ジョン・レノンが来て、あなたを数分間見て、「オレと一緒にプレイしてもらいたい」って言われたんですから。

 まあ、そうなんだけどね。皆に言ってることなんだけど、当時は、20かそこらになったばかりで、それも人生のごく一部って感じだったよ。とにかくたくさん演奏することが出来れば幸せって状態だったんだ。オレたちは世界の端っこのほうにいたバンドだったから、ジョンに誘ってもらえたってだけで、とても愉快だった。人生のもっと後になって思い返してみた時に、あの頃のオレは何て若くて世間知らずだったんだろうってことに気づいたよ。自分がやってること、つまり、自分が歴史のあの部分に関与してるなんて、当時はわかってなかったね。その後、徐々に気づき始めるんだけど、10年後かそのくらいになってようやくだったよ。

しばらく時間が経って、大局が見えるようになってきて、やっとわかるということでしょうか。あなたはジョン・レノンという大物から一緒に演奏してくれって頼まれたわけですが、別の大物も関与してましたよね。エリック・クラプトンです。エリック・クラプトンも一緒だと知らされた時、どう思いましたか?

 空港に到着して、エリックがジョンの隣に座ってるのを見る時まで、知らなかったよ。ラウンジに入って、ふたりに紹介された後、座って、おしゃべりを始めたんだけど、友人たちの中にいるような感じだったね。うちとけた雰囲気だったよ。

とても自然だったということですか?

 そう。とても自然だった。

トロントに向かう飛行機の中ではどんなことがあったんですか? 何の曲も知らない状態で飛行機に乗ったんですよね?

 飛行機に乗る時は、VIP待遇で、人目につかずにいくつもの裏口を通り抜けて飛行機に乗った。飛行機に乗るまで一般人の姿は見なかった。オレたちは全員、前方のファースト・クラスに座った。でも、ジョンが言ったんだ。「リハーサルをやる必要があるな」って。飛行機の後ろのほうは誰も乗ってなかったんで、オレたちはギターを持って後ろまで歩いていったんだ。オレもドラム・スティックを2本持っていって、自分の前の席の背中を叩いてたよ。残りの乗客たちはオレたちのやってることを無理矢理聞かされてる状態だったね。
 オレたちは飛行機の後部座席でジャム・セッションをやった。ジョンが「カール・パーキンス・バージョンの〈Blue Suede Shoes〉は知ってるか?」って言うから、オレは「知ってると思う」って答えた。すると、「「One for the money…」の後に余分なビートが入るんだけど」って言うんで、オレは「ええ、入りますね。でも、皆が何をやってるのかしっかり把握するんで、問題ないですよ」って答えた。オレたちは昔から聞き続けているスタンダード・ナンバーばかりを練習した。楽しかったね。リハーサルは後部座席で1時間くらいやったかな。エリックもジョンも自分のギターを持ってきて演奏した。とても楽しかった。誰からもやめろとは言われなかったよ。

KlausJohnEricTorontoFlight69.jpg

[全員アコギはアランの記憶違いのようです]


エレキギターではなくてアコースティック・ギターを持っていたんですか?

 そう。アコースティック・ギターが2本あった。ヨーコもそこにいた。クラウスもだ。クラウスもギターを持っていたと思う。全員ギター。オレはドラム・スティックを2本持って、前の座席の背を叩いていた。

オリジナル曲も2つありましたよね。〈Cold Turkey〉とか。

 マル・エヴァンスは「これはいい曲だから、ステージ上でやるべきだ」って言ってたよ。オレの知らない曲だし、そもそもジョン以外、誰も知らない曲だったし、ちょっと難しいところがあって、簡単には出来そうにないんで、ジョンはやらないでおこうって判断した。1969年に、ギグをやりに行く直前に書いた曲だった。ジョンは、最初のうちは、出来ませんて言ってたし、飛行機の中でもやらなかったんだけど、ステージに立つ直前に楽屋ではやったんだ。だから、演奏したんだ。
 思い出すだけで笑っちゃうんだけど、オレたちのリハーサルをジーン・ヴィンセントがそのへんに立って見てたんだよ。そしたら、ジョンは超緊張して具合が悪くなって、トイレに行って吐いちゃったんだ。でも、ジョンがそうなる前に、オレたちは〈Cold Turkey〉を一通り演奏出来ていた。エリックは要領をつかんでたし、オレも曲を支えることが出来てた。エリックも曲を覚えて、「この曲、出来るよ」って言っていた。ジョンがトイレで吐いてる間に、こっちでは「よし、出来るぞ」ってなってたんだよ。そういうシナリオだったのさ(笑)。ジョンはステージにあがる前はとても緊張してた。

07bklausyoko.jpg

[写真提供:デヴィッド・マークス]


ヨーコの曲は飛行機の中でリハーサルしなかったんですか?

 してない。

ということは、完全に即興状態だったんですね?

 そう。完全に。誰かが演奏しだすと、皆がそれについてった。

そもそも、トロント公演はやるって契約をしたので、やる義務があったものなんですか? それとも、ジョンがやりたがったんですか? ジョンはワクワクしてましたか?

 オレが抱いた印象だと、やるよって軽はずみに言っちゃっただけで、やる義務が生じてることをしっかり認識してなかったんじゃないかなあ。トロントでこのコンサートをやるという契約がある手前、バンドを持ってなかったジョンは、1日でそれを急ごしらえしたんだ。そういう時に、オレに電話してきたわけさ。でも、正式な契約をしたのなら、もっとじっくり準備したんじゃないかとも思う。だって、あまりに急ごしらえだっただろ。マネージャーだったアレン・クラインがいけなかったのかなあ。ジョンは「こんなことをやるなんて信じられないよ」って言ってたけど、それでもどうにかやったよね。オレが思うに、[モントリオールでの]ベッド・インの時にギグをやるって約束しちゃったんじゃないかな。ジョンも話の端緒はそこだって言ってたよ。

飛行機での移動は長時間だったんで、何曲か練習するのに十分な時間があったんじゃないですか?

 そうだね。全セット分、やっちゃったよ。これをやろう、あれをやろうって言いながら。でも、基本的には、多くの部分は現地に着いてから運任せの状態だった。オレたちは、ショウの後、生きて会おうなって感じで、勇敢にステージに立ち向かった。そして、皆で演奏して、見事に約束を果たしたわけさ。

ギグ[1969年9月13日]自体の思い出はありますか?

 もちろん、たくさんあるよ。ジーン・ヴィンセントやリトル・リチャードと会った。オレたちが到着したら、皆、バックステージにいたよ。当時はアレン・クラインがジョンのマネージャーだったんで、オレたちはリムジンの行列に出迎えられた。メンバーは全員、1台のリムジンに乗ると、大勢のファンが自動車で追いかけてきたけど、どこへ行っても警備がとても厳重で、スーツを着た連中がたくさんウロウロしていた。
 その後、会場に向かい、到着すると誰かが演奏していた。楽屋に入って座ってたら、ジーン・ヴィンセントが歩いて入って来た。オレは「ワオ! 遂にジーン・ヴィンセントに会えたぜ」って思ったよ。それからリトル・リチャードにもだ。たくさんの連中が楽屋にやって来た。オレたちは出番を待って座ってただけなのに。オレは20そこそこだったんで、もう大感激さ。口をポカンと開けて、「ワオ! 皆がここに来る!」って感じだった。ジョンはというと、超緊張して、具合が悪くなってしまった。再びステージに立つことに対して、体がそう反応しちゃったんだ。だって、ビートルズでコンサートをやって以来、久しぶりのステージだったからね。もう1度言うけど、オレは若造で、それはオレの周りで起こってることの1つで、オレは自分の役割をこなすだけ精一杯だったんだ。

07ayokojohn.jpg

[写真提供:デヴィッド・マークス]


流れに身を任せていただけと。

 そう。

ステージ上での調子はどうでしたか? やっつけ仕事だったんですよね?

 オレたちは全てのことを場当たり的にやってきて、そろそろステージに出るぞって段になって、皆、少し緊張してきた。でも、緊張してたのはステージに出る前の話だ。いろんな出来事に影響を受けてしまうものだからね。でも、ステージに出て人前に立つやいなや、ジョンが全てをリードした。凄く落ち着いてたよ。オレはそれまでにやったことのないやり方でドラムを叩いた。スタッフはオレの前にドラムをただ置いただけ。オレが座ってると、スタッフがドラムを持ってきた。それを調整したり、使い慣れてる標準的なドラム・キットのようにしたりする暇なんてなかった。最初の曲に入る準備をしながら、調整しようと努力はした。急いでね。

曲を演奏している時の思い出はありますか? 演奏中には何かハプニングがありましたか?

 あまりないな。演奏を始めると、それ以外のことは消えてしまい、基本的に、周りの人間にいかに合わせるかってことが対処すべき問題になる。すると、突然、内輪の人間がステージ上で音楽を演奏しているだけのことになる。前にいる観客はサブリミナルな存在になって、彼らが自分を見ているということを楽しめるようになる。音楽を通して、内輪の人間だけに通用する文字では表せない言葉で会話を交わすようなものなんだ。皆は皆の演奏能力をわかっている。そして、演奏に集中するようになるんだ。

レノンの曲はリハーサルを行なったそうですが、ヨーコの曲は完全に即興だったんですか?

 そう。全部即興だった。誰がいつ、どのタイミングで何をやるかに左右される、その場のノリってやつ。全部あの場で創造されて、ああいうものになったんだ。今まさに起こってることがアートなんだっいう姿勢さ。しかも、録音されていて、それが作品として永遠にそのままの形で残る。

  

その部分は、素敵だと思って賛成してやったんですか? それとも、「これは一体、何だ?」と思いながらも、仕事を淡々とこなしたんですか?

 ステージ上でヨーコが袋の中に入ってゴロゴロ転がってるとか、金切り声で叫んでいるとか、些細なことさ(笑)。それはそれだよ。彼女から見たらそれが芸術なんで、それに合わせて、自分もその一部になっちゃえばいいんだ。引き込まれちゃえばいいんだよ。オレはその後もジョン&ヨーコとアルバムを作った。理解出来ないものでもあるし、再び聞きたいものでもある。笑えるよね。あのアルバムはそう感じたい。

《FLY》のセッションについて話しているんですか? そのアルバムのタイトルは《FLY》だと思います。

 そう。その通り。

トロントのギグが終わった直後には、どんな出来事があったんですか? ジーン・ヴィンセント等の伝説のロックンローラーたちとパーティーをやったんですか?

 いや。オレたちはさっさと会場を出たよ。車に飛び乗っておさらばした。空港に直行して、ロンドンに戻ったと思う。さっと来て、さっと帰った。ジョンは喜んでたね。とても楽しんでた。でも、あまりに「さっ」とやっちゃったから----この言葉が、この顛末を表現するのに適していると思う----あまりにさっとスピーディーに事にあたっちゃったから、実感がわく前に、さっと済んじゃった。気がついたら、オレは家に帰ってた。

あなたとクラウスとクラプトンは帰国して、一方、ジョンは残ったんですか?

 そう。オレたちは飛行機で帰国して、ジョンは残って、どこかに行ったと思う。ジョンは別の場所に行って、オレたちはイギリスに帰った。あらゆる場所でスピーディーにさっさと事が運んじゃった。

出発前にジョンから、ロンドンに戻ったらまた会おうとか言われましたか? それとも、その後のことは白紙の状態だったんですか?

 何も言われなかったよ。その後の約束は何もなし。これはこの場限りの1回だけの仕事だった。でも、その後、連絡が来て、ジョンと一緒にスタジオでたくさんのセッション・ワークをやったよ。オレと一緒にいて楽しいようだった。あまり歳は離れてないんだけど、オレに対しては親父のような感じで接してくれたよ。音楽面では、オレの演奏を楽しんでくれた。ああプレイしろ、こうプレイしろなんて言われたことはない。オレはただプレイしただけ。自分のことをやっただけだった。ジョンはオレのプレイ全部を気に入ってくれた。プレイにこもっている感情を気に入ってくれたんだと思うな。

クラプトンはどうでしたか? トロント公演の後、クラプトンと会いましたか?

 もちろん。クラプトンからもたくさんのコメントをもらったよ。オレと演奏して楽しかったって。《ALL THINGS MUST PASS》のセッションでも会ったなあ。親しい友人同士になった。ジミー・ペイジ邸で行なわれたパーティーでも2度ほど会った。エリックはオレのことをいつも「ホワイティー」って呼ぶんだ。「ヘイ、ホワイティーじゃないか」って。そういうレベルの友人になった。

 ジジ・ホワイト:アランと私が出会ったのは、ジミー・ペイジがガールフレンドのシャーロットのために開いた誕生パーティーに行った時なの。その頃、アランはジミーとクリス[・スクワイア]と一緒にある企画をやってたんだけど[お流れになってしまったXYZプロジェクトのこと]、初めてアランと会った時、私はこの人が何者なのか殆ど知らなかったの。このパーティーで、エリックがおしゃべりをしながら、私の上にビールをこぼしちゃったのよ。その人が誰だかも私は知らなかったんだけど、その人は気づかぬまま永遠にしゃべってたの。で、その後、その人がどこかに行った時に、アランが「あの人、誰だか知ってる?」って訊くから、「いいえ」って答えると、「エリック・クラプトンだよ」って教えてくれたんで、「だったら私にビールをひっかけてもいいわ。問題なし。大丈夫よ!」なんて言ったのよね(笑)。

 あれは有名なパーティーだ。大きなテントが設営されていて、中にはミュージシャンもたくさんいて、アンプも準備されていたのに、誰もドラムスティックを持っていなかったんだ。ジミー・ペイジとオレで腹這いになってレンジローヴァーの中を探したんだけどね。オレが「どこかにあるはずなんだけど…」なんて言いながらさ。パーティーにはジム・キャパルディーやサイモン・カーク等、6、7人のドラマーが来てたんだけど、誰もドラムスティックを持ってなくて、誰もプレイすることが出来なかったんだ。だから、バンドの演奏は全くなしだった。

最近、エリックと会いましたか?

 長年会ってないけど、本当にいい奴なんだ。一緒にプレイしたことのあるミュージシャンや、音楽業界で会った人の中で、大好きな人間のひとりだよ。真の天才だ。

  






記事の続きを読む
posted by Saved at 23:01| Comment(2) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする