2018年10月16日

《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー

 《More Blood, More Tracks》の発売まであと2週間くらいですが、ミネアポリス・セッションに関してはアルバム採用テイクのマルチトラック・テープしか発見されなかったため、ニューヨーク・セッション中心の内容となったようです。発見されたら、改めてリリースして欲しいですね。量的にはCD3〜4枚で済むでしょう。
 付属のブックレットにどんなことが書いてあるか私には今のところ全く不明なのですが、ミネアポリス・セッションで中心的な役割を果たしていたギタリスト、ケヴィン・オドガードが、今回紹介するインタビューによると、当時、フルタイムでプロとして活躍しているミュージシャンではなかったというのは驚きです(ソロアルバムも何枚か出ていて、日本でも一部の音楽マニアに注目されているレベルなのに)。設備もスタッフも2流3流の田舎のスタジオで一体何が出来るんだ?というのが、ニューヨーク側のスタッフが、ボブがミネアポリスでレコーディングをやり直すという話を聞いた時の素直な気持ちでしょう。今回はニューヨークの人の気持ちになるとして、将来、ミネアポリス編が出た時には、今度は、こっちの参加者の並々ならぬミュージシャンシップに驚愕することになるでしょう。




《Blood On The Tracks》ミネアポリス・セッションのギタリスト、ケヴィン・オドガード最新インタビュー


 先月、ケヴィン・オドガードの最新CD《Artifacts》を入手した。その時はアルバム評でも書こうかなという軽い意図しか持っていなかったのだが、2度ほど聞いた後、私はもっとたくさんのことを知りたくなった。特に3曲目の〈Dear Friend〉に心を動かされ、魅了されてしまったからだ。この2年の間にとても親しい音楽仲間を2人も亡くしたことに触発されて書いた曲であるに違いない。この2人のミュージシャンとは、長年に渡って開催されているノースランズ・ディラン・フェストというイベントを通して出会い、私も知っている人物だ。アルバム全部に金をつぎ込みたくはないという方は、アマゾンでこのトラックだけをダウンロードしてみたらいかがだろう。サマー・オブ・ラヴを覚えている世代なら、親しい友人を少なくとも数人は亡くした経験をお持ちだろう。このトラックは凡人には表現することの出来ない何かに繋がっている。
 それはそうとして、ケヴィンは今週、エーゲ海でセイリングに興じているまっさい最中なのだが(リヴァプールに行って、キャヴァーン・クラブにも出演している)、海からあがっている間にいくつか質問に回答してくれた。
 事情に詳しくない人のために説明しておくと、ニューヨークで行なわれた《Blood On The Tracks》の最初のレコーディング・セッションの約3カ月後に、ボブ・ディランの弟、デヴィッド・ズィママンの仕切でミネアポリスで再レコーディングされたのだが、その時に集められた地元のミュージシャンのひとりがオドガードだった。既にレコーディング済みのトラックの一部に複雑な感情を抱いていたディランは、《Blonde On Blonde》の時にやったように、欲しいサウンドを獲得するのに場所を変えてやってみる価値ありと判断したのだ。
 ということで、ケヴィン・オドガードは《Blood On The Tracks》のセッションに招かれてギターをプレイした。〈Tangled Up In Blue〉のイントロのあの聞き慣れたギターを弾いているのが彼なのだ。ケヴィンはその後、自分のバンドで中西部で活動した後、ロサンゼルスに居を移してナショナル・アカデミー・オブ・ソングライターズ(NAS)の理事となり、作曲家の権利と収入の保護に尽力し、VH-1とショータイム・ネットワークで放送された『A Salute To The American Songwriter』の共同プロデューサーとなり、2004年にはアンディー・ギルとの共著『A Simple Twist Of Fate: Bob Dylan and the Making of Blood On The Tracks』を出版した。
 長年に渡る結婚生活が破綻をきたしつつある時に、心の奥底にあるものを吐き出したような作品《Blood On The Tracks》は、ディラン史上最も売れたアルバムとなったのだが、ミネアポリス・セッションが終了した頃には、10万枚分のアルバム・ジャケットが既に印刷済みだったので、セッションに参加したミュージシャンは誰ひとりとして公にはクレジットされないままになっていた。オドガードと評論家のアンディー・ギルが『Making』本を出版したのはは、事実を正しく伝えるためだった。そして、来月リリースされる《More Blood, More Tracks》で、やっと、話の全体がありのままに語られることになった。


《Blood On The Tracks》のレコーディングに参加した時、あなたは何歳だったのですか? ディランとレコーディングするという体験が、いったいどうやって転がり込んで来たのですか?

 《Blood On The Tracks》をレコーディングした時、私は24歳で、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン鉄道のブレーキマンをやってました。ずっとデヴィッド・ズィママンが私のマネージャーでしたが、ウーフ・レコードから1971年に出したファースト・アルバムは全然売れなかったので、レッド&ホワイト・タクシーのドライバーをやりながら、時々、一目置いている友人たちとギグやレコーディングの仕事をやってたんです(ミル・シティー・レコードからシングル〈Can't Turn Back/Sunshine Silver Mine〉をリリース) 。グレッグ・イノーファーは昔からの仲間だったので、1974年のクリスマスの直後にデヴィッド・ズィママンから電話があった時、真っ先にグレッグを推薦しました。他に薦めたミュージシャンはスタン・キッパーとダグ・ネルソンですが、ダメでした。リズム・セクションは既に選定済みだったんです。ビル・バーグとビリー・ピーターソンはサウンド80で引っ張りだこのミュージシャンで、素晴らしい人選だったと思います。
 ズィママンが私を選んだのは、私の母と友人だったからです。彼は私の人生の中でも母の人生の中でも特別な人物でした。私は何の変哲もないギタリストでしたが、強力なリズムの出せるギターを持っていたんですよ。ストラディヴァリに匹敵すると思います。夏にノーズ・ダコタ州メドラで夏の出稼ぎ仕事をやった後、ニューヨークのマニーズ楽器店で購入しました。ディランもここで買い物をしてますよね。このギターを手にした私は、その年の夏にメドラでスティーヴン・デラップとドクター・チャック・アンダーソンがやってたトラヴィス・ピッキングをやってみようと思い立ったのです。
 彼らはすぐに忘れられてしまうようなヒット曲を演奏してお茶を濁してたわけではありません。レパートリーは、ドック・ワトソンやミシシッピ・ジョン・ハートが守ってきたアパラチアやデルタ地方のフォーク・ブルースを、深く掘り下げたものでした。聞いていて、すっかり魅了されました。'69年の夏のことです。うっとりしながらも、私はよく観察しながら盗むという学習スタイルを実践していました。もっぱらエピフォンの安物のコンサート・モデルの12弦を使ってたのですが、それを置いて、彼らの指が弦から弦へどう動いてるのか、金属製のピックを指にはめて、何をどのタイミングでどういうふうにやってるのかを観察しました。
 今でもそういうふうに学習してます。会場からお持ち帰りというのが私の方針です。そうして、創造的な副産物がどこから生じるか、認識を新たにしていたわけです。それが私の才能となってます。そして、指先から血が出るまで練習してやっと、マーティンD-28からああいう音が出てきて恍惚感に浸れるのです。自然の中にも人間の技術の中にも、マーティンに匹敵するものはありません。騒音だらけの部屋の中で40歩離れたところからでも、目隠しテストでマーティンの音を言い当てることが出来ます。私の小さな世界の中では、今でも、マーティンは山上の予言者の声なのです。無双の存在。これからもそうでしょう。

  

 昨年、ペンシルヴァニア州ナザレスにある工場の見学に行ったのですが、この意識は2倍強くなりました。そこにいたのはアメリカを代表するギター職人たちでした。あんたの持ってる特注のオルソンを見せてくれないか、なんて言うんです。これは昔、ジェイムズ・テイラーが持ってたもので、私にとってはマーティンD-28の次に値の張るギターです。マーティンが私をボブ・ディランのレコーディングに連れてってくれたのです。〈Tangled Up In Blue〉では私のマーティンの音がはっきりと聞こえます。最高の音です。正直、今は両手とも進行性の関節炎にかかってるので、カニレアの5弦のウクレレを演奏しています。美しい楽器で、音の鳴りも優れています。ピックアップも内蔵されています、でも、一緒に墓に入りたいのはマーティンとですよ。あのマーティンの奏でるセイレンの歌(美しい歌声で船乗りを誘う海の精)が、私をディランのセッションに連れってってくれたのだと、今でも信じています。

● 『A Simple Twist of Fate』は、ミネソタのミュージシャンがアルバムに全くクレジットされてないことから、真相をはっきりさせようという意図で書かれたものですよね。あの話を書くよう、誰かから勧められたのですか? どういう経緯であの本は出たのですか?

 レコーディングから30年経った頃、ゲイリー・ダイアモンドから電話があったんです。彼は音楽業界の友人なのですが、『MOJO』誌で《Blood On The Tracks》のニューヨーク・セッションの特集記事を見つけたのです。それで、「ヘイ、ケヴィン。この話のもう半分を『MOJO』のライターのアンディー・ギルと書いてみないかい?」って、話を持ちかけてきました。その頃、私は通勤列車の運行部長で、頭の中では、人の死やディランの最近の作品、ますます大きくなるディラン伝説等、いろんなことを少しずつ意識ようになっていました。ディランは文学賞候補になったり、やることなすこと全部において巨匠扱いされるようになってきていました。私はそういうのを凄いなあと思っていたので、本の話には飛びつき、この業界で最高のスタッフを確保しました。ポール・ブレスニックは優秀な編集者です。ベン・シェイファーは優秀な出版人です。そして、作業を進めて、ある種の強力な執念、芸術のイミテーションのような人生の形に仕上げました。《Blood On The Tracks》の登場人物と同じく、私も離婚を経験し、家族や家、仕事を失ったことがありますし。



 ポール・メッツァの呼びかけで、その数年前に《Blood On The Tracks》に参加したバンドの殆どの面子を再び集めて、ファースト・アヴェニューで1度だけコンサートやったんです。その後、もう1度集まって、本の出版を記念して、'04年3月にミネアポリスのパンテージズ・シアターでフル・バンドでコンサートをやりました。音楽で初の成功を収めたのは人生絶不調の時で、立ち直るのにあと3年かかりました。本は2刷の後は常に手に入るようになりました。世間の人から注目してもらえるような自慢の種をやっと獲得することが出来たというわけです。
 今回発売される《More Blood, More Tracks》のためにあれこれ調査を行なった人々から、私が自分の本を書く際に集めた情報に小さな矛盾があることを教えられました。当時は見たことのないセッション記録にヴォーカルをオーバーダブしたという記述がありました。その記録を見て、私は夜も眠れなくなりました。問題はオーバーダブではありません。これはレコーディングのプロセスの一部です。あれから40年以上経ってるのに、私が眠れなくなってしまったのは、私がレコーディングに参加出来るように手を貸したミュージシャンのクレジットが全くなかったことなのです。グレッグ、クリス、それと、ピーター・オストルーシュコです。彼らのこともクレジットするよう、あの時、もっと強く主張しなかったことに関して、ずっと罪悪感を抱いてきました。その後、私はロサンゼルスの音楽業界で、ソングライターや映画音楽の作曲家の権利、収入、クレジットを求めた活動を数十年間やりました。デジタル時代になって、全て再交渉する必要があります。
 でも、今はもう、罪悪感に苛まれてはいません。ディランの事務所がドアを開けてくれたからです。今度はミュージシャン全員の名前を正しい綴りでクレジットしてもらえることになったからです。私はその責務、人生のミッションから解放されました。



 今のアメリカには笑いが足りません。だから、私は人生のパートナーである妻、スーザン・ケイシーと一緒に笑える本を書こうと思ってるんです。私がスーザンと出会ったのは2007年のことで、彼女は騒動のあれこれを目撃しています。音楽ビジネスは楽しいところです。これでなければダメという定型も構造もありません。私のような老いぼれが親父バンドを結成したら、それこそ面白いことになるでしょう。

《Artifacts》は強力な歌が収録されている素敵なアルバムです。オープニング曲はとても甘いスピリットを持っています。あなたが作ったアルバムは全部、こうした感じなのでしょうか? その時点でのあなたの人となりを反映したものなのでしょうか?

 本でいう、あとがきのようなものです。《Artifacts》は私にとっては締めくくりです。さまざなレコーディングを集めたもので、古いものは1971年のサウンド80までさかのぼります。友人のゲイリー・ロパックとまとめました。ビートルズとディランの雷に打たれたアメリカの少年の軌跡をたどりたい人にはお誂{あつら}えです。私を知るための人間学的作品です。



〈El Nino Suite〉の背景について詳しく教えていただけますか?

 〈El Nino Suite〉はまさに私のとっての《Blood On The Tracks》です。アメリカの労働者は自分の仕事が嫌いで、天気や死の心配ばかりして、仕事と結婚生活を失って、メキシコで漁船をチャーターして暮らす生活を選択しても、こっちも最後は悲惨です。祖父の古い木製のボートを徴用してキューバからマリエル難民の輸送に関与するのですが、最後はクジラに食われてしまうのです。全然良いものではありません。私は昔のテープをスーザン宅の地下室に入れておいたのですが、彼女はこの哀れな男のマニフェストを、箱の中に入った録音の断片から蘇らせてくれたのです。


The original article “Kevin Odegard's Artifacts Seasoned with Blood On The Tracks, Sweat and Tears” by Ed Newman
https://pioneerproductions.blogspot.com/2018/10/kevin-odergards-artifacts-seasoned-with.html
Reprinted with permission

 

posted by Saved at 19:42| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする