2019年02月24日

《Hot Rats》ジャケットの怪しい女性

 今日は《Hot Rats》の聞こえ方が少し違ってくるかもしれない話を紹介します。



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『ティーンセット』誌の表紙用にポーズを決めるポップ・グループThe GTOs(1969年)。
(左上から時計回りに:ミス・シンデレラ、ミス・サンドラ、ミス・クリスティンン、ミス・パメラ)



《Hot Rats》ジャケットの怪しい女性

文:エリック・ヒメルズバック=ワインシュタイン


 1972年11月にマサチューセッツ州の眠ったような町、コハセットに到着した22歳のクリスティン・フルカは、既にロックンロールの伝説的存在になっていた。有名なグルーピー、そして、ロサンゼルスのロック・グループ、The GTOsのメンバー「ミス・クリスティン」としてだ。彼女はアリス・クーパーのミューズで、フランク・ザッパの1969年のアルバム《Hot Rats》のジャケットや、トッド・ラングレンのアルバム《Runt》のレコード・スリーヴにも登場。クリスティンは自分のヘアスタイルをワイルドにすることにかけては天才で、ミュージシャンの好みは----ラングレンやアーサー・ブラウンからスパークスのラッセル・メイルにまで----いろいろだった。しかし、その裏では、脊柱側湾症とアンフェタミン中毒に苦しんでいた。

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《Runt》のインナースリーヴ


 クリスティンがその年の秋にコハセットを訪れたのは、ボーイフレンドのデヴィッド・ロビンソンに会うためだった。デヴィッドは世間を騒がし始めていたボストンの奇抜なバンド、ザ・モダン・ラヴァーズのドラマーで、当時は、バンドのメンバー全員が10部屋ある広い屋敷で暮らし、リハーサルを行なっていた。このワイルドさに欠けたシーンにもクリスティンはすぐに慣れた。「オレたちはドラッグをやらない堅物で、売れるには10年か20年時期尚早って状態だったね」とキーボーディストのジェリー・ハリスンは語る。ハーヴァード出のジェリーは、後にモダン・ラヴァーズからトーキング・ヘッズのメンバーへと出世した人物だ。
 デヴィッド・ロビンソンによると、クリスティンはバンドのおとなしい雰囲気を鋭く感じ取っていたという。「クリスティンは言ってたよ。『みんなはドラッグには反対なんでしょ。私は完全にクリーンだから、あなたたちの家には何も持ち込まないわ。約束する』って」
 クリスティンは友人と一緒にやって来て、夜遅くまでおしゃべりをしていた。殆どはデヴィッドと。しかし、翌朝、彼がシャワーを浴びていると、バンドリーダーのジョナサン・リッチマンが慌ててやって来た。「クリスティンがおかしいんだ」
 「オレは裸のままバスルームから飛び出して、急いで部屋に行ったんだ」とデヴィッドは回想する。
 「床に倒れてたんだよ」とギタリストのアーニー・ブルックスは言う。「ジェリーと一緒に、寝かせるのにもっといいところに彼女を運んで、出来ることは何でもやってみた。マウス・トゥー・マウスで人工呼吸をしたり、胸を押したり。どうしたらいいかなんて、何となくしか知らなかったんだけどさ。クリスティンが生きてないことは明らかだった」
 死因はオーバードーズだった。恐らくは、鎮痛剤とと睡眠薬を一緒に飲んだのだろう。アーニーの記憶では、彼女の腕には針が刺さってたかもしれないとのことだ。インターネット上にある彼女のバイオグラフィーでは、薬物は、しばしば、ヘロインとなっている。
 「あれが助けを求めた叫びだったのかどうか、わからないよ」 40年以上経た現在、アーニーの声は弱々しい。

断片と曖昧な記憶
 ミス・クリスティン・フルカが若くして亡くなってから半世紀近く経った現在、彼女の物語は謎となってしまっている。彼女と同じ世代の多くの者は、今ではヒッピーのノスタルジアとして作り直されているワイルドな時代を生き延びて、自分の過去を書き直し、修正しているのだが、彼女にはそうすることが出来ない。
 彼女の人生は、はっきりとしない断片や曖昧な記憶、書籍やネット上にある美しい写真の中でしか記録されておらず、何が真実で何が事実かは、それを見る者の目に任されているという状態だ。「実際はどうだったのか、私は知りません」と語るのは『Freak Out! My Life With Frank Zappa』の著者であるポーライン・ブッチャーだ。彼女は1960年代後半にザッパの秘書として働いていた頃のクリスティンを知っていた。「何の変哲もありません。あの娘{こ}は成長し、ドラッグをやって、死んだのです」 アリス・クーパーは、クリスティンやGTOsの世界を、現実のしきたりなんかどうでもよくなる「幻想の世界{ファンタジータンド}」だったと説明している。「あの娘{こ}らのおしゃべりときたら、真面目な内容は全くなかったね。[クリスティンには]何を言っても無駄だった。『本当はどこ出身なの?』とか『これについてどう思う?』とか。そういう話はお門違いだったのさ」 ミス・クリスティンは、最終的には、ローレルキャニオンの音楽シーンのグラマラスな女神というアイコン、退廃と乱交、そしてウーマン・パワーの神として、皆の思い出の中に存在している。

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ポップ・グループ、The GTOs(ガールズ・トゥゲザー・アウトレイジャスリー)
左から:ミス・クリスティン、ミス・シンデレラ、ミス・マーシー、ミス・ルーシー、ミス・サンドラ、ミス・パメラ、ミス・スパーキー
ED CARAEFF/GETTY IMAGES


バスルームの窓から出て行った
 クリスティンの人生は、少なくともその始まりにおいては平凡だった。クロアチア系の両親のもとで1949年に誕生し、サンピドロで少女時代を送った。「クリスティンは子供時代の家にオレを連れてってママに会わせ、自分のささやかな世界を見せてくれたよ」と写真家のアンディー・ネイザイソンは回想する。アンディーはクリスティンのかつてのルームメイトで、《Hot Rats》のジャケットとなる写真を撮影した人物だ。「子供時代に使ってたベッドとか、そういうささやかなものをあれこれとね。普通だったよ」
 しかし、彼女のその後の人生は全然ノーマルにはならなかった。クリスティンは常に一番背が高く、トゥイギーよりも痩せていてヒョロヒョロで、体の痛みも抱えていた。12歳の時には背骨が湾曲する病気である脊柱側湾症と診断されていた。彼女の兄[もしくは弟で、父親が違う]のジェイムズ・セリーシがフェイスブックに書き込んだ投稿によると、「クリスティンは腰から肩までギプスを付けていました。6カ月くらいギプスをしていて、それから2カ月くらい外し、そしてまた付けてなんてことをしてたのです」 しかし、うまくいかなかった。
 1967年、クリスティンは、サンピドロ高校を卒業した日に、バスルームの窓から脱出して逃走した。向かった先はハリウッド。ジェイムズの書き込みによると、「書き置きがありました。両親に宛てて、家を出ていく必要がある、追わないでくれ、そのうち連絡をする、って書いてありました」
 クリスティンはフリークヴィル{変人の町}の中心に行った。もっと詳しく言うと、彼女がたどり着いた先は、ローレルキャニオンにある伝説の屋敷、ロング・キャビンだった。ここは、かつてカウボーイ俳優だったトム・ミックスが所有するロードハウスだったが、その頃は共同生活の家になっていた。好色な彫刻家/舞踏家、ヴィトー・ポーリカスは、ここでワイルドな四肢をした門下生を集めており、そのほとんどは若い女性だった。クリスティンはそれにぴったり当てはまっていた。


ローリング・ストーンズの映画『Gimme Shelter』に少しだけ登場するこの爺さん、
ヴィトー・ポーリカスだという説あり


 「[ポーリカスの]スタジオの上にはアパートメントがあったの。クリスティンと初めて会ったのはそこだったわ」と、GTOsのメンバーで、ロックンロールの回想録『I'm With the Band』等の著者でもある伝説のグルーピー、パメラ・デ・バレスは語る。「私たちは目立って、スゴいと思わせ、皆を振り向かせるために、突飛な格好をしたクレイジーな女子だったの」 ヴィトーズ・ダンサーズはメンバーの出入りが激しいダンサー集団で、ロサンゼルス中のステージで踊りを披露していたが、パメラとクリスティンもその一員になった。「いろんなパーティー、いろんなクラブに招かれたわ。入場料なんか払わなくても、どこでも入れてもらえたの。どこへ行っても大盛り上がりになったから。当時は、ああいう大騒ぎをみんなが欲してたんだもの」とパメラは語る。
 1968年前半になると、ヴィトーの一団は屋敷を出て行き、新たにフランク・ザッパとその家族が引っ越してきたのだが、クリスティンはヴォールト(倉庫)と呼ばれている自分のスペースに居続けた。「ヴォールトでたくさんの時間を過ごしたわ」とパメラは言う。「セックスしたい人全員の名前を壁中に書いたっていうのは、そこの部屋よ」
 クリスティンはザッパとその妻、ゲイルのために働いた。家政婦、及び、まだ幼い娘ムーン・ユニットの子守として。19歳の時、クリスティンは身長が5フィート8インチ(約170cm)になっていた。この数字には彼女のお気に入りのハイヒール・ブーツの底の高さは含まれていない。ポーライン・ブッチャーは彼女と初めて会った時のことを覚えている。「ああいう格好の人は見たことなかったわ。髪の毛が6インチ(15cm)くらい立ってて、大きな後光の中に顔があるみたいだったわ。まっ平らの胸の上にはシースルーのブラウス。スカートは超ミニ。鮮やかな色のタイツを穿いてたっけ。素晴らしいデザインの才能の持ち主でした。スゴい娘{こ}だったわね」
 しかも、超ガリガリだった。「骨と皮でした」とポーラインは語る。「体のゆがみを上手に隠してたけど、それをとても恥ずかしがってたわ。それに、今の言葉で言うところの拒食症ってやつだったわね」
 「いつもスピードをキメて、いつも家の掃除をしてたわ」とパメラは語る。「ザッパにはわからないようにやってたの。彼はドラッグには反対だったから。ゲイルとフランクからは愛されてた。ムーンの面倒をとてもよく見ていて、掃除をしてる時はいつもムーンを背負ってたわ」
 掃除をしていない時のクリスティンは裁縫をやっていた。彼女は古着から突拍子もない、派手な色のデザインの服を作り出しており、半分の丈のスカートや半分の丈のパンツ等、常識を無視したものだったが、彼女が着るととてもよく似合っていた。
 フランク・ザッパの奇怪な世界の中でも、クリスティンは目立っていた。GTOsのマーシー・ピーターズはクリスティンのことを、『Mad』マガジンに登場するキャラクターをフェリーニ監督が描くとああいうふうになったかもと説明する。パメラは、ドクター・スースの絵本から飛び出してきたような娘{こ}だと思っていた。アンディー・ネイザイソンは言う。「クリスティンはティム・バートンが登場する前のティム・バートンだったね」



ワイルドな女の子たち
 クリスティンはパメラ・デ・バレス、ミス・マーシー(ジュディス・ピーターズ)、ミス・シンデレラ(シンシア・ウェルズ)、ミス・サンドラ(サンドラ・リアーノ)、ミス・ルーシー(ルーシー・オファロール)、ミス・スパーキー(リンダ・スー・パーカー)といった同じような感性を持った女の子たちと一緒に、ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションのステージでだらだらと踊り明かすことが多かった。それだけでは芸がないと思ったザッパは、1968年半ばに、彼女らはバンドを作ったほうがいいというアイデアを思いつき、こうしてGTOsが誕生した。
 GTOsはロック・ミュージシャンと一緒に浮かれ騒ぐ「グルーピー」という存在で、1960年代の基準からすると、放し飼い状態の野生の女たちだった。バンド名はガールズ・トゲザー・アウトレイジャスリーの頭文字だと言われている。
 「私たちはミュージシャンが大好きだったの。彼らと会い、デートをして、とにかく、全力で彼らと一緒にいたかったの」とパメラは語る。「世間の人からは、ミュージシャンとセックスしたいだけでしょなんて言われたけど、あまり正解じゃないわ。特にクリスティンにとっては。彼らと一緒にいたくて、ガールフレンドになりたくて、遊び回りたくて、音楽を楽しみたくて、そういうことも経験してたけどね。そもそも、私たちは全員、音楽フリークだったのよ」
 実際、クリスティンはセックスレスのグルーピーを自称していた。「脊柱が曲がってたからでしょう。とても辛かったと思うわ」とパメラは言う。「控えめな娘{こ}でした。セックスは嫌い、板のように横になって、事が終わるのをじっと待ってるって、いつも言ってたわ」
 「グルーピー」という言葉はセックスと同意語になっており、GTOsと遊んだ金持ちロックスターを列記したら相当立派なリストが出来上がるが、彼女らは長髪男子の相手をした女というだけではなかった。『Tiger Beat』誌に載っているような音楽ファンの女の子の枠からは飛び出して、お気に入りのミュージシャンとベッドインし、かつ、皆の記憶にも残るほどの強力な存在だった。今日で言うところのインフルエンサーだったのだ。「私たちはまるで王族のように扱われたわ」とジュディス・ピーターズは言う。「皆が私たちと会いたがってたの」
 長年ロック・ミュージシャンのマネージャーをやっているシェップ・ゴードンは言う。「彼女たちは文化的にとても強い影響力を持っていました。全員がです。女性版メリー・プランクスターズでした。でも、もっと風変わりな。アシッドでトリップしたヴィレッジ・ピープルって感じですかね」
 シェップはアリス・クーパー・バンドのマネージャーという立場を通してGTOsの友人になった。アリス・クーパー・バンドは、富と名声を求めてフェニックスからロサンゼルスに出てきてジタバタしている野暮な男の集まりだった。しかし、それを作り変えたのがGTOsだった。しかも、殆どGTOsのイメージで。クリスティンは本名をヴィンス・ファーニアというリード・シンガーに特別な興味を抱いた。この男こそ、後のアリス・クーパーだが、当時は単なる痩せこけたガキだった。「オレたちはGTOsと出会った。フェニックス出身のガキどもの集団にも可能性があることが、彼女たちには見えてたんだ」とアリスは語る。「オレたちは既に、かなり芝居じみたステージをやっていて、それを見てオレたちの後押しをしてくれたんだよ」
 「主にミス・クリスティンがね」とパメラは言う。「アリスにああいうメイクをやったのはあの娘{こ}だったわ。これが一番重要よ」 あの吸血鬼の道化師のような、ロック史上最もよく知られた化粧の1つを作り出したのがクリスティンなのだ。
 「ふたりはカップルになったわ。恋人同士って意味でよ」とジュディスは言う。「クリスティンの衣装は全部自分で作ったものなの。スピードでハイになりながら。ファッション面でアリスに及ぼした影響はとても大きいわ」
 アリス・クーパーの思い出の中では、ふたりの関係はもっと純真なものとなっている。「よくクリスティンと一緒にフランクの子供たちの子守をしたんだ。デートでアイスクリーム屋に行くのが好きだった。ボーイフレンド、ガールフレンドって関係じゃなかったな。仲間って感じだったよ。手を繋いで歩いて…相当変な格好だっただろうけどさ」
 クリスティンはアリスがザッパのビザール・レコードと契約するのにも一役買っている。「フランクのところに行って、オーディションの機会を取り付けてくれたのがクリスティンなんだ。今でも彼女には感謝してるよ」とアリスは言う。「もうこの世にはいないけどさ」

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フランク・ザッパの1969年のアルバム《Hot Rats》のジャケット
撮影:アンディー・ネイザンソン


シーンの創造
 1968年末にザッパ一家がログ・キャビンから引っ越した時、GTOsもバラバラになった。クリスティンとジュディス、そしてミス・シンデレラはハリウッド・ブールヴァードよりも北側のラブレア・アヴェニューにあるランドマーク・モーター・ホテルに居を移された。ザッパは彼女らを週給35ドルで雇い続け、ここの部屋代も持った。
 「ここはパーティーの中心だったね」とシェップ・ゴードンは言う。「ホテル・カリフォルニアさ」 宿泊客の中にはジャニス・ジョップリン、チェンバーズ・ブラザーズ、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルらがいた。
 清掃作業をすべき家もなく、ハリウッドのストリートでたむろするドラッグ密売人の近くで暮らすことになったクリスティンは、ドラッグの使用を隠さなくなっていった。「マーシーとクリスティンは一緒にスピードをやってたわ。注射で」とパメラは言う。「ある時、スパーキーと一緒にあの娘{こ}たちの部屋に入ったら、ちょうどそうしてる時だったの。とても怖かったわ」 ドラッグの使用は時代の趨勢だったとシェップは語る。「ドラッグ量が多いほど、スゴい奴だって思われてたんだよ。隠れてやるものでも秘密でもなく、自慢の種だったのさ」
 しかし、クリスティンの生活はだらしなくなり、ドラッグの使用で2度逮捕された。1度目は1969年前半だった。ジュディスの話によると、パトカーがランドマークの横を通りかかった際、警官がバスルームの窓越しに彼女が注射している姿を目撃したらしい。
 この逮捕の後、ザッパはGTOsからさっさと手を引いてしまったのだが、1969年にリリースした《Hot Rats》のジャケット用にアンディー・ネイザンソンが撮影した写真を使用することを、思いとどまることまではしなかった。ホルムビー・ヒルズにある屋敷の空っぽのプールから、悪霊のような、赤紫色を帯びたクリスティンが、筋っぽい指と爆発している髪と鋭い目をのぞかせている写真は、不幸な運命だったGTOsメンバーの最も不朽のイメージだろう。「今でもあのアルバム・ジャケットを眺めるんだよ」とアリス・クーパーは言う。「クリスティンがこうして永遠の命を与えられてるのは素敵なことさ」

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別ショット


 ミス・クリスティンが次に向かったのはニューヨークだった。彼女は1969年にこの地でトッド・ラングレンと暮らし始めた。ミュージシャンのマーロウ・ウェストの回想によると、彼が訪問して一緒に古着や食料の買い物をした際は、クリスティンは健康で、落ち着いて、家庭的な人間になっていたという。「[ラングレンのために]作ってるところだというパッチ付きのベルトを見せてくれたよ。《Runt》のジャケットでしてるベルトさ」
 しかし、ジュディス・ピーターズが1970年夏にニューヨーク州を訪れた際に目撃した光景は、もっと暗いものだった。彼女はこの旅でウッドストックにも行った。そこではザ・バンドがアルバム《Stage Fright》をレコーディングしていて、ラングレンもエンジニアとして働いていた。「あの娘{こ}と一緒にニューヨークにいた時、一緒にスピードを買いに出かけたの。あの頃は、トッド・ラングレンと暮らしてたんだけど、別れた理由はそれだわ。きっと。トッドはとてもストレートだったし」

前兆
 1972年、クリスティンはまだニューヨークにいた。この先もずっと「ミス・クリスティン」を続けていけるわけではなさそうだと気づいた彼女は、病院で働き、看護師養成プログラムに通い始めた。ジェイムズ・セリーシによると、1972年11月にコハセットに行く前のクリスティンから連絡をもらったという。フェイスブックには「明るくて、いつものように元気でした」と書いてある。
 しかし、後になって考えてみると、良くない兆候がいくつかあった。クリスティンは准看護師だったので「人に注射をするのを許されてたんだ。それが問題の始まりだった」とデヴィッド・ロビンソンは言う。「クリスティンがあんな状態でコハセットに来るとは、誰も予想してなかったよ」
 最初のうちは、元気なようだった。しかし、11月5日のとても早い時間に、デヴィッドの寝室のドアを誰かがノックした。「朝の4時にクリスティンが入って来てオレを起こし、『針の跡を冷やしたいから、キッチンに行って氷を取ってきてくれないかしら』って言うんだ。オレは怒った。でも、あの娘{こ}は超切羽詰まってて、ごめんなさい、夜が明けたら説明するから、心配する必要はないって言い張った。オレはドラッグでそうした経験はないから、彼女の言うことを信じたよ」
 デヴィッドが生きているクリスティンを見たのは、その時が最後だった。「典型的なオーバードーズだった。既に何かを体内に入れてたことを忘れてたんだよ。不慮のオーバードーズだった」
 医者の下した判断は、鎮痛剤と他の薬を一緒に飲んだのだろう、恐らくは睡眠薬だろうとのことだった。クリスティンは、デヴィッドには何も持たずに来たと語っていたが、実際には手ぶらではなかったのだ。「オレたちは警察が来る前に彼女の荷物を調べてみたんだ。そしたら、小さな仕切のたくさんある大きなプラスチックの入れ物が出て来て、そこにはドラッグがわんさか詰まってたよ」とデヴィッドは語る。「大量のドラッグだった」
 1960年代〜1970年代のドラッグまみれの音楽業界では、ミス・クリスティン・フルカのように生き急いで若くして死んでしまった人の話は、よく耳にすることだった。インターネットが登場する前の世界では、クリスティンの人生は民間伝承と化し、現在では、信頼性はピンからキリの曖昧な思い出の中にしか存在しないが、ロックの歴史の重要なシーンをエレガントに闊歩していた謎の少女が残した欠片{かけら}は、あれから数十年たった今でも光を放っている。
 「クリスティンが体験しそこねたことをあれこれ考えると、寂しい気持ちでいっぱいになる」とアンディー・ネイザイソンは言う。「生きてたら、楽しい時を過ごせただろうに」

エリック・ヒメルスバック=ワインシュタイン:ロサンゼルス在住のライター/プロデューサー。

The original article "Miss Christine: The Fast Life of a Rock Legend" by Erik Himmelsbach-Weinstein
https://altaonline.com/miss-Christine-rock-legend/?fbclid=IwAR1L57WXtriLOaFJ21G4LM-wbTa_xobg3jRyxyqNWker9n6nefZ-QS2xyKU


   
posted by Saved at 15:17| Comment(1) | Frank Zappa | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月04日

インドのレコード収集家インタビュー

 Scroll.inというインドのサイトでステキな記事を見つけたので、紹介したいと思います。いろいろな問い合わせに親切に応じていただいたナレシュ・フェルナンデスさんは、このサイトを設立メンバーのひとりで、自らインドのジャズのレコードのコレクションをしているとのことです。


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インドのレコード収集家インタビュー

 50年以上に渡ってレコードの収集とコレクターのコミュニティー作りに努力してきたムンバイ在住の科学者、スレシュ・チャンドヴァンカールが、自身のコレクター人生について振り返る。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じているのか?」

文:ルドラディープ・バタチャルジー


 目覚まし時計は午前5時にセットされているのだが、私は数分早く起きてしまった。今、この瞬間、世界の別の場所では、痛む膝を抱えたサウラシュトリア人(インド南部)と、31歳にして頭がハゲているニュー・サウス・ウェールズ人(オーストラリア東南部)が----どちらも絶滅危惧種だ----面白い内容になる違いない次の試合のためのウォーミングアップをしている頃だろう。
 しかし、このクリケットのテストマッチを見たいという誘惑をきっぱりと拒み、それに屈しなかった私は、列車を3回乗り換えながら移動し、4時間後にはバドラプールから遠く離れた郊外の町にいた。そして、スレシュ・チャンドヴァンカールの案内で階段を上って行くと、まさに彼の根城と言うべきところに到着した。
 チャンドヴァンカールは60代後半の華奢な体格の人物で、いつも肩からカバンをさげている。いかなるスポーツにも全く興味を持っていないようなのだが、「歩くのは好きだよ」とは言っている。彼がこの家を購入したのは1990年代後半で、「その時は、ここには何もなかったよ。家からはいろんな山が見えた」とのことなのだが、現在、山々は単調な高層アパートの連なりによって完全に隠れてしまっている。しかし、この家は今もなお平穏な雰囲気を保ち、大好きなレコードとともに素敵な時を過ごすための空間と静寂を、その住人に与えている。チャンドヴァンカールは、50年近くかけて蓄積してきた人がうらやむほど大量のSP盤、LP盤のコレクションを有している人物なのだ。
 「ここにあるレコード盤1枚1枚に物語があるのです」とチャンドヴァンカールは語るが、こうした物語にはムンバイにある伝説的なフリー・マーケット、チョール・バザールに由来するものが多いことに、私は気がついた。一番気に入った話は、ゾノフォーン(Zonophone)社が1900年代初頭に製造した、アリ・バクシュというあまり知られてないシャハナイ(シャナイ、シェナイ)奏者の音楽を収録したSP盤にまつわるものだ。

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アリ・バクシュの演奏を収録したゾノフォーン社製SP
(写真:スレシュ・チャンドヴァンカール)


 チャンドヴァンカールはこのレコードに興味津々だった。後にこの楽器と同義となるほどの名手となった甥、ウスタッド・ビスミラ・カーンに技を伝えたバクシュと同一人物なのだろうか? このことをずっと知りたいと思っていたチャンドヴァンカールは、ビスミラ・カーンがコンサートを行なうためにムンバイにやって来ることを知ると、音楽家をやっている友人で、この名手とは知り合いという人物と即座に連絡を取って熱心に頼み込み、遂にカーン大先生への謁見が叶うことになった。



 幸運なことに、チャンドヴァンカールは会見の数日前にマイケル・キニアの新著『The Gramophone Company's Indian Recordings, 1908-1910』を入手したのだが、この本で自分が買ったバクシュのSP盤に関する情報をチェックして驚いた。確かに、このレコードに関する情報も載っていたのだが、キニアの調査では、アリ・バクシュはタリム・フサイン(もしくはホセイン)という音楽家の別名と記されていたのだ。ということは、この演奏家はあのアリ・バクシュとは同名異人なのだろうか?
 「私はこの発見については黙っていることにしました」とチャンドヴァンカールは語る。カーンとの会見の当日、彼は巨匠がムンバイに来た時には定宿としているバイクラのホテルに到着した。「カーン師匠が自分の服を洗濯するのを許してくれるホテルはここだけだったのです*」 謎のレコードと手でゼンマイを回す方式のレコード・プレイヤーを抱えて部屋に入ると、そこには祈りの後、バニヤンとルンギという姿でベッドに座ってくつろぎ、他のゲストとおしゃべりをしているカーンがいた。

* 高級ホテルではランドリー・サービスの利用を求められ、部屋の中に洗濯物を干すのは許されなかったので、巨匠となっても自分の服は自分で洗濯するのを好んでいたカーンは、そうすることが出来るよう、あえて安いホテルに宿泊していたのだそうです。(Scroll.in編集者の説明)


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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは機材をセットし、巨匠からOKの合図があった後、レコード盤の溝に針を置いた。シャハナイの引き締まった音が部屋を満たすと、巨匠の演奏を聞きに集まっていた人々からはざわめきが生じたのだが、カーンは目を閉じたまま、集中して聞いていた。3分の曲が終わった時も、カーンは何も言わず、ただ、裏面もかけてくれとだけ言った。チャンドヴァンカールはそれに応じ、2曲目を再生した。皆が巨匠の反応を待ち、部屋は静まりかえっていた。カーンはしばらく考えた後、顔を上げて言った。「Yeh hamare mamu nahin hain」(これは私の叔父ではない)
 チャンドヴァンカールはそういう回答だろうと思ってはいたが、悪魔の弁護人を演じた。「カバーにはアリ・バクシュと書いてありますと言ったのですが、カーンは語気を強めて「カバーが何て言ってるかは知らないが、この音楽からは1つも叔父の音が聞こえてこないね」って答えました」


 
 バドラプールにあるチャンドヴァンカールの自宅の壁には、伝説のシンガー、ガウハール・ジャーンの写真が飾ってあり、そのすぐ下にはレコードがあった。これにも物語があるのではないかと私は思い、質問した。実際、この写真とレコードには、チャンドヴァンカールの少年時代とレコードへの情熱の始まりまでさかのぼる物語があった。「叔父のひとりがゼンマイを手で回す方式の蓄音機を持っていたんですが、私はそれに触ることさえ許されませんでした」 チャンドヴァンカール少年は、遠くからこの機械を眺め、そこから流れてくる音を聞いて魅了されていたのだ。
 プネで小規模な紙のリサイクル業者をやっていた父親は、彼がレコードに興味を持っていることに気づき、廃品のレコードの買い取りも始めた。「父はキロ単位でレコードを買い取っていました。1キロあたり25パイサ(0.25ルピー)とかで。でも、小さな問題があったのです」 こうしたレコードを再生する蓄音機がなかったのだ。そこで、チャンドヴァンカール少年は壁に釘を打ち込んだ。「釘にひっかけたレコードを片方の手で回し、もう片方の手でピンを持ってレコード盤の溝に沿って動かしました。そうして出てきた音は、どんなにかすかなものでも聞いてやろうって思っていました」 息子の「狂気」を見た父親は、ちゃんとした蓄音機を買ってやることにした。
 物理学で修士号を取って、タタ基礎研究所で職を得て----「職に就いたのはこれが最初で、定年まで勤め上げました」----1976年にムンバイに引っ越す頃には、チャンドヴァンカールは1,000枚ほどのコレクションを抱えていた。「最初の数年間は下宿生活を送っていたのですが、その時もレコードを持って行きました」 彼はドンビヴリで借りた部屋に引っ越し、次に、コラバにあるタタ基礎研究所の職員宿舎に引っ越し、定年までそこで暮らした。その間もコレクションは増え続けた。

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チャンドヴァンカールのコレクションの中には《The Voyager Golden Record》の40周年記念リイシューもある。
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 殆どのコレクターと同様、チャンドヴァンカールも最初は自分ひとりでこの趣味に没頭していた。ところが、ある日「こんなことをやっているのは自分ひとりではないことがわかりました」 インドにおけるレコーディング黎明期のディスコグラフィーをまとめたオーストラリアの研究家、キニアによって、自分はもっと大きなコミュニティーの一部であるという認識はさらに深まり、より明確な方向性を得た。
 マラティで発行されている新聞に掲載された短い記事でキニアーについて読み、興味を抱いたチャンドヴァンカールは、新聞社に問い合わせて、オーストラリア人と連絡を取りたいとお願いしてみた。詳しい連絡先を教えてもらった彼は、キニアに手書きの手紙を送った。「返事が来るとは思っていなかった」ので、それが届いた時には驚喜した。
 数ヶ月後、キニアは本執筆用の調査のためにインドにやって来て、ボンベイではチャンドヴァンカール宅に滞在した。自宅にキニアが逗留してくれたのは、いろんな点で幸運だった。チャンドヴァンカールは若い頃からチョール・バザールに通い続けていたが、この一風変わったオーストラリア人のほうが自分よりこのエリアについて詳しく知っていたのだ。彼は笑いながら回想する。「キニアはチョール・バザールの私の知らない道全部を案内してくれました」
 しかし、キニアの最大の貢献はものの見方が大きく変化したことだった。「私が彼から学んだのは、レコードの収集には、音楽を聞いて、カバーやレーベルを眺める以上の意味があるということです」 キニアは、インド中のコレクターをひとつにまとめてインド・レコード・コレクター協会(Society of Indian Record Collectors)を設立したことでも重要な役割を果たした。「彼から「どうして皆で集まらないのですか?」って言われた時に、私は「私たちは敵同士なのに、どうして集まらなきゃいけないのですか?」と答えました。あの頃は、私たちは互いをそう思っていたからです」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 インド・レコード・コレクター協会の第1回ミーティングは、1990年6月にタタ基礎研究所の職員宿舎で開催され、キニアも出席した。最初はリスニング・セッションが開かれた。「ゲストに歌手や楽器の演奏家を招いたこともありましたが、殆どの場合、おしゃべりに興じていました。3時間のうち音楽を聞いたのは5、6曲だけで、それよりも、おしゃべりのほうが中心でした」 協会は『The Record News』という情報満載の会報の発行も開始した。編集長はチャンドヴァンカールだった。
 キニアと出会ったことが、チャンドヴァンカールのコレクター人生の最初の大きなターニング・ポイントだったが、次の進化のステップは約10年後に到来した。2001年に、音の記録の保存に関与している2つの大きな国際的組織----国際音声・視聴覚アーカイブ協会録音コレクション協会----が共同で大英図書館で大会を開くと聞いて、この貴重な機会に出席することにしたのだ。
 ロンドンで、自分がインドから来た唯一の大会参加者だとわかったチャンドヴァンカールは、この状況を最大限に活用して世界中のコレクターと会い、ネットワークと活動範囲を広げ、2012年に仕事を引退してからは、彼はこの種の会合には定期的に出席している。その結果、今では、チョール・バザールに行った時には、自分にとって興味のあるものだけでなく、他のコレクターにとって価値がありそうなものも拾っておくようになったという。「人を助けてあげたら、今度はこちらが助けてもらえるのです。私の考え方は完全に変わりました」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは世界中を旅しながら、自分以上に「クレイジー度」の高いコレクターとも出会った。子供のマーケット向けに作られたSP盤を専門に収集しているアメリカ人コレクターの自宅を訪問した話を、彼はしてくれた。ニューヨークで暮らす、88歳にしてまだまだ元気なこのコレクター氏の「ベッドルームが6室あるアパートメント」に入ると、彼がそれまでに苦労して収集した「25,000〜35,000枚のレコード」が生産国別に念入りに並んでいた。「このコレクションは将来どうなるのかと質問したのです。すると、自分が死んだら国会図書館に行きますという回答でした」
 「この言葉は私が取るべき方向を示していました」 インドにはこうした記録を保存する機関が殆どないこと、そして、インドにいるコレクター諸氏一般が高い意識に欠けていることを嘆きながら、チャンドヴァンカールは語った。「私は自分のコレクションをどこに渡したらいいのか知っています。しかし、殆どの人は知りません。彼らの持っているレコードはゴミ置き場に積み上げられることになるでしょう」


ブロードキャスト・レーベルからリリースされたケサルバイ・ケルカルの歌


 チャンドヴァンカールは現在まで20年近く、ヴィンテージ・レコードをデジタル化し、一般大衆がそれらを聞けるようにすることを目的とした複数のプロジェクトに、熱心に関与してきた。2004年には、ブロードキャスト(存続期間は短かったが、グラモフォン・カンパニーに対抗しようとしたイギリスのレコード・レーベル)がリリースしたレコードのデジタル化を行なうために、サンギート・ナタク・アカデミーから助成金を得て、そして、00年代の後半には、心臓切開手術を受けた後の病床の中でだが、大英図書館が消滅危惧アーカイヴ・プロジェクトの一環として助成金を出す計画があることを知った。大英図書館は最終的に、チャンドヴァンカールが手塩にかけて行なっているプロジェクトの2つに資金を提供した。
 2016年、大英図書館はそのウェブサイトに、ヤング・インディア・レコード・レーベル・コレクション、及び、オデオン・レーベル・インド亜大陸・レコーディング・コレクションとして掲載した。チャンドヴァンカールはその後も、サンギート・ナタク・アカデミーと文化省のために、HMV以外のさまざまな小規模レーベルがリリースしたレコードのデジタル化プロジェクトに取り組んだが、この2つの機関が大英図書館のような計らいをする様子は全くない。
 現在、チャンドヴァンカールは別のプロジェクトに取り組んでいるのだが、今回も資金を出しているのは大英図書館だ。「音の記録の収集を個人で行なっているインドのコレクターの調査」というタイトルのこのプロジェクトは、それまでに彼が行なってきたこととはかなり趣を異にしている。「これまではずっと機械で再生した音楽を聞いて、それを分析し、理解しようと努めてきました。レーベルやジャケットを眺めながら、過ぎ去った時代の人工遺物を扱ってきました。でも、今は生きている人間を調べてみたくなったのです」

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映画制作者、V・シャンタラムが創設したヤング・インディア・レーベル
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 つまり、チャンドヴァンカールは目を自分の内面に向けているのだ。彼が抱いている問いは、自分のような人間を収集へと駆り立てるものは、いったい何なのかということである。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じたのか? 何がそんなに魅力的で、75,000枚ものレコードを集めてしまうのか? 自分の死後、コレクションがどうなってしまうのかを考えずに、どうしてこんなに大量のレコードを集めてしまうのか? 私はこうした人間の心理を理解したいと思っています」
 チャンドヴァンカールがこのプロジェクトに取り組んで1年弱になるが、答えよりも、厄介な疑問のほうが数多く生じてしまっているようだ。「私のレコードに対する興味は、それに触ることを許されなかった子供時代に始まりました。今、私はレコードに触ることを許されていますが、その先には何があるのでしょうか? 情熱は私をどこに連れていこうとしてるのでしょうか?」
 彼の心を悩ませ続けているものが他にもある。「そもそも、こんなことをやっていて悟りがもたらされるのでしょうか? そう考えてしまうのは、多くのミュージシャンに言われたからです。自分が創造したり演奏したりしているものは本物の音楽ではありません。本物の音楽とは2つの音の間に存在する間{ま}なのです。そういう音楽を聞くことが出来た場合のみ、トランス状態になることが出来るのです、と。アミール・カーンが歌っている時には、少し長めの間{ま}がありましたが、その間{ま}の中にも音楽が存在していました」
 チャンドヴァンカールは音楽を聞いても楽しくない状態になってしまったのだろうか?
 「それは絶対にありません。音楽を楽しむのを止めてしまったことなどありませんが、たぶん、オーバードーズ{聞き過ぎ}なのでしょうね。私は人生の50年を音楽を楽しむことに費やしてきました。あらゆる種類の音楽を聞いてきました。カジュアルな音楽ファンではありません。でも、全ての音楽を聞くことは出来ません。そんなことは不可能ですよ。(少し間{ま}を置いて)いかなるジャンルでも、誰の人生でも、こういう問題は生じるのだと思います」




The original article "How a Mumbai scientist helped bring together India's obsessive record collectors" by Rudradeep Bhattacharjee
https://scroll.in/magazine/906432/how-a-mumbai-scientist-helped-bring-together-indias-obsessive-record-collectors?fbclid=IwAR16jO6Oh7h_ZRemsSx957EQNLEMFLr8pu1Ap-t-zZ5PJXF55pHoeXBriH4
Reprinted by permission


   

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2019年02月03日

インド、デリーのレコード屋に関する動画

 YouTubeでステキな動画を発見。





 私も2015〜2016年にこの2店に行きました。その時のレポートがこれ:
・インド盤を求めてリキシャに揺られ
http://heartofmine.seesaa.net/article/416437989.html
・デリーのレコード屋New Gramophone Houseでボブ・ディランのインド盤を発見
http://heartofmine.seesaa.net/article/436532643.html

 また行きたいなあ。
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