2019年06月02日

ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦

 今週の金曜日(6/7)からラケーシュ・チョーラシアの日本ツアーが始まります。ラケーシュは、ビートルズの〈The Inner Light〉でインドの横笛(バーンスリー)を演奏しているハリプラサド・チョーラシアの甥で、彼もバーンスリーの演奏家です。公演の日程やチケット等はこのWebページを参照してください:

https://www.flute-rakesh-japan2019.com/

 今日はインドとビートルズに関連した記事を紹介します。


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ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦
文:アヌ・クマル


 ジョージ・ハリスンのシタール熱が最高潮に達したのは、1966年6月にラヴィ・シャンカールと会った時だった。ビートルズのメンバーとシタール奏者との会見は、ロンドンのヘムステッドにあるアヤナ・デヴァ&パトリシア・アンガディ宅で実現した。カルナータカ州ベルガウム地区出身のアヤナと妻パトリシア(旧姓フェル=クラーク)は、1946年にエイジアン・ミュージック・サークル(以下AMC)を設立し、自宅をその事務所としていた。ここは元はパトリシアの実家だったのだが、20年以上に渡って、AMCはインド出身のミュージシャンが集まる拠点として機能しており、インド人音楽家が西洋(まずは主にイギリス)に紹介され、演奏する機会を得たのは、AMCの尽力のおかげだった。
 アンガディ夫妻が世話をしたアーティストには、ラヴィ・シャンカールの他に、アリ・アクバル・カーン、ヴィラヤット・カーン、アラ・ラカ、チャトゥール・ラルらがおり、バイオリニストのユーディ・メニューインや作曲家のベンジャミン・ブリテン、バレエ・ダンサーのベリル・グレイといった大物アーティストがAMCにかかわっていたおかげで、この組織は立派な社会的地位と信用を得て、活動範囲も広まった。

ロンドンのインド人

 アヤナ・デヴァ・アンガディはカルナータカ州北部のジャカヌール村出身で、ロンドンには1924年にやって来た。一説によると、彼がイギリスにやって来たのは、インドの公務員試験の受験準備のためだったという。しかし、レイ・ニューマン著『Abracadabra: The Complete Story of the Beatles' Revolver』にも引用されている息子シャンカラの発言によると、アンガディがロンドンに来たのは「数学の学位を取るため」だったらしい。彼はボンベイ大学では数学を学ぶ学生だった。
 しかし、アンガディは急進的左翼のグループと関わり始め、まずはトロツキストになり、次にCLR・ジェイムズの革命的社会主義者同盟に参加した。1930年代〜1940年代前半の反共産主義のヒステリアの中では、アンガディはラジ・ハンサというペンネームを使って理想のための論考を執筆した。CLR・ジェイムズによると、スターリンを支持していなかったラジ・ハンサは「モスクワ裁判」----政敵を粛清するためにスターリンが利用した裁判とは名ばかりの茶番劇----の話題を無理矢理取り上げさせるために、グレート・ブリテン共産党の集会やもっと真剣度の高い左翼集会を混乱させたことで有名だった。
 1993年にアンガディが死去した際にマスコミに掲載された死亡記事には、故人の人生に関するもっと詳しい情報が載っていた。『オブザーヴァー』紙に掲載されたレジナルド・マッシーによる記事は、アンガディーが別のペンネームも持っていたことを明らかにしている。彼はジャヤ・デヴァという名前で政論に関する本を出しており、第2次世界大戦中、日本が枢軸国の1つとして優勢だった1943年には『Japan's Kampf』という本を出版した。左翼系出版人ヴィクター・ゴランズによって出版されたこの本を、アンガディは1939年に出会った女性、パトリシア・フェル=クラークに捧げている。ふたりは彼女の両親に反対を押し切って1943年に結婚した。

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ラジカルな夫婦

 パトリシア・フェル=クラークはアヤナ・アンガディより10歳年下だった。1913年生まれの彼女は、幼少の頃は自宅で家庭教師がつき、少し大きくなったら私立学校に通い、そして最後はヨーロッパのフィニッシング・スクール[良家の子女が社交界にデビューするための仕上げ教育をする私立学校]に行くという、イギリスの上流階級のやり方で教育を受けていた。彼女は極めて才能のあるアーティストであり、エイジアン・ミュージック・サークルの設立メンバーとなった他に、後には小説を書いたり、学校で演劇や音楽を教えたりもした。
 政治活動に熱心だったアンガディは殆ど定職に就くことはなく、階級や人種も異なっていたため、フェル=クラークの家族からは気に入ってもらえなかった。ふたりが結婚した時には、彼女の親族からは、昔の子供時代の家庭教師以外は誰も式に出席しなかった。
 ふたりがエイジアン・ミュージック・サークルを自宅で開始したのはその3年後だった。フェル=クラークの家族もその頃にはふたりの結婚を認めており、屋敷の最上階を彼らの居住空間、兼、AMCの本部として使い、ここから次の25年間、彼らは人生の次のミッションを展開した。ヨガの導師{グル}BK・アイアンガーは、AMCの後援で、その裏庭で初めてのセッションを行なっている。
 ジョージ・ハリスンがAMCとのコネを作ったのは1965年のことだった。映画『Help!』の撮影中(公開は1965年)に初めてシタールに遭遇したジョージは、レイ・ニューマンの本によると、ロンドンのインド雑貨の店で比較的安価なシタールを購入し、それを使ってアルバム《Rubber Soul》に入っているレノンの曲〈Norwegian Wood〉のために簡単なフレーズを弾いた。
 逸話によると、アビイ・ロード・スタジオでこの曲をレコーディングしている時に弦の1本が切れてしまい、直す必要が生じたらしい。そして、次に何が起こったのかについては2通りの話が存在する。インド大使館に問い合わせたところ、AMCが弦の交換に関して力になってくれるかもと教えてくれた、というのが1つ目の話だ。一方、ニューマンの本では、サークルに問い合わせてみるようアドバイスを与えたのはプロデューサーのジョージ・マーティンとなっている。彼は以前、ピーター・セラーズの《Goodness Gracious Me》のレコーディング・セッション用に、AMCとアンガディに助けを求めたことがあった。

友情を育む

 ハリスンはAMCから必要な援助をしてもらい、間もなく、そこの常連になった。アンガディ夫妻はアビイ・ロードで行なわれているビートルズのレコーディング・セッションに招待され、パトリシア・アンガディはそこでハリスンとレノンをスケッチしたと言われている。アンガディ夫妻がハリスンとパティー・ボイドと一緒に写っている写真は、これが唯一のものである。下の写真にあるように、パトリシアは自宅でパティーとジョージの絵を描いた。

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 1965年夏、大成功に終わった全米ツアーの際に、ハリスンとビートルズの他のメンバーはザ・バーズのデヴィッド・クロスビーとロジャー・マッギンからラヴィ・シャンカールの音楽を紹介されていた。ちょうどこの頃、ロサンゼルスでは、ドン・エリスとハリ・ハル・ラオがヒンドゥスターニ・ジャズ・セクステットのメンバーとして演奏活動を開始していたが、エリスとハリスンが会った可能性は低い。しかし、後になってシャンカールとハリスンの間で育まれたコラボレーションを、エリスはよく知る者となる。ハリスンとシャンカールが1974年にカリフォルニアを訪れた直後に、エリスはハリスンに記念すべきインタビューを行なっている。



 そして、ビートルズがアメリカから帰国してしばらく経った後の1966年6月に、遂にその時がやって来た。アンガディ宅でのディナーにハリスンがポール・マッカートニーと一緒にやって来た時、ラヴィ・シャンカールも特別ゲストとしてそこに居合わせていたのだ。ジョージとラヴィの初対面は、その後、大きな伝説にまでなった友情の始まりとなった。実際にジョージにシタールを教えたのは別のシタール奏者だった(時の経過で名前はわからなくなってしまった)と考える音楽史研究家も多いのだが、ジョージがヒンドゥー教や瞑想、そして、その後のアルバムでのシタールの導入など、さまざまなインド的モチーフを実験的に用いたのは、シャンカールとの交遊関係のたまものである。

時代の終焉

 ハリスンの興味をよく反映している曲は、ヒンドゥスターニ古典音楽のリズムでシタールで演奏されている〈Love You To〉であり、エイジアン・ミュージック・サークルのアニル・バグワットがタブラで伴奏を務め、アルバムにもクレジットされている。AMCのミュージシャンが再び参加しているのは、1967年に発表されたアルバム《Sgt. Peppers' Lonely Hearts Club Band》に収録されているハリスン作の〈Within You, Without You〉だ。インドの楽器を演奏しているミュージシャンはクレジットされておらず、誰が参加しているのかはずっと不明のままだったが、2017年6月にリヴァプール大学の研究者によって遂に突きとめられた。マイク・ジョーンズ博士によると、故アンナ・ジョシと故アムリット・ガジャールがディルルバ、ブッダデヴ・カンサラがタンプーラ、ナトワール・ソニがタブラを演奏しているとのことだ。最後のふたりは80代で存命だ。
 アヤナ・アンガディが1970年前半に故郷の町、ジャカヌールに帰ると、間もなく、AMCは解散してしまった。レジナルド・マッシー著『Azaadi: Stories and Histories of the Indian Subcontinent After Independence』によると、アンガディはこの町で地方開発プロジェクトに取り組み、1993年にこの地で没している。
 一方、パトリシア・アンガディは4人の子供とともにロンドンにとどまった。彼女は小説家としての新しい人生を見つけ、70歳の時に処女作『The Governess』を書き、1987年発表の『The Highly Flavoured Ladies』(1987年)は高い評価を得た。時間的には100年の隔たりがあるが同じ家で暮らした2つの家族を描いたこの小説は、パトリシア・アンガディが自宅で送っていた共同生活を彷彿させる。その後すぐに発表された『The Done Thing』は半自伝的なものだった。生まれながらにして昔風の、心を押し殺した無口な少女が、インド人らしき登場人物と恋に落ち、結婚20年目にして本当の自分を見つけて解放されるという話だ。
 『Playing for Real』(1991年発表)等のパトリシア・アンガディの小説は「大部分は鋭い筆致でよく書けているが、感傷的な話も多数含まれている」という評判だ。彼女は2001年に亡くなった。彼女の回想録は未発表のままだが、エイジアン・ミュージック・サークルに関連した話がたくさん含まれているに違いない。

The original article "George Harrison Ravi Shankar Asian Music Circle Music Beatles History" by Anu Kumar
https://scroll.in/magazine/881709/how-an-indian-man-and-his-english-wife-introduced-george-harrison-to-ravi-shankar-to-create-history?fbclid=IwAR0t0j6iB6-CoUcGisFfEJdGCpkcBb4BXpB9UJEtMLgq72xrWFBgGBsCdN8
Reprinted by permission

  
posted by Saved at 11:12| Comment(0) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする