2019年08月17日

ボブとの思い出話を出版した旧友のインタビュー

 5年前には1960年代初頭にボブと知り合った旧友、ヴィクター・マイムーデスの回想録『Another Side of Bob Dylan: A Personal History on the Road and Off the Tracks』が出版されましたが、今年の夏に出たのは、1950年代前半からの旧友、ルイ・ケンプの回想録『Dylan & Me』です。ルイは水産加工業で大成功した人物なのですが、1975〜76年に行なわれたツアー「ローリング・サンダー・レヴュー」を仕切り、先ごろネットで公開された映画『Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story』にも少しだけ登場しているので(嫌われ者として)探してみてください。今年の春から夏にかけて、本の宣伝用インタビューがいくつかのユダヤ系サイトに掲載されていますが、一番面白かったmomentmag.comでのインタビューを紹介します。



『Dylan & Me』公式サイト
https://www.dylanandme.com/



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ボブ・ディランとの冒険:旧友ルイ・ケンプ・インタビュー
聞き手:ネイディーン・エプステイン


 ルイ・ケンプとボビー・ズィママンは少年時代にウィスコンシン州にあるユダヤ人向けサマー・キャンプで出会い、生涯の友達となった。ボビーは現代を代表するミュージシャン、ボブ・ディランとなって富と名声を獲得し、ルイはカニ足風味カマボコを製造して大成功した事業家となって富と名声を獲得した。途中、ルイはディランが1975年に行なったローリング・サンダー・ツアーを仕切り、1980年代にはロサンゼルスで一緒に暮らした。ふたりとも30代後半に宗教に開眼する。ディランはキリスト教に、ケンプは正統派ユダヤ教に。当ウェブマガジン『Moment』編集長ネイディーン・エプステインはケンプに、今秋発売される著書『Dylan & Me: Fifty Years of Adventures』(作家/ミュージシャンのキンキー・フリードマンが序文を寄せている)についてインタビューを行なった。ケンプは彼の旧友がユダヤ教の教典の理解を深め、再びユダヤ教を奉じるようになるのに、いかに手を貸したのかを回想した。

どういうふうにディランと知り合ったのですか?

 ボビーは私と同じ、ダルースで生まれました。病院も同じです。でも、ボビーの一家はもっと北の田舎のヒビングに引っ越してしまったんで、彼のほうは75マイル(120km)離れたところで少年時代を送ってたわけです。でも、毎年夏になるとサマーキャンプで一緒になりました。私の住んでた町のほうが大きくて、動きがあったので、キャンプの後は私ん家{ち}に泊まりました。

どのようなユダヤ式の教育を受けたのですか?

 私たちはユダヤ人用のサマーキャンプ、ハーツルに、5年間、参加しました。そこではコッシャー(ユダヤ教の教えに従って作られた食事)や安息日が守られてました。キャンプを運営してたのは正統派のラビでした。でも、私たちはいわゆる正式なユダヤ式の教育は受けてはいないんです。バール・ミツヴァ(ユダヤの成人式)の時はしっかり準備しましたが、当時は、朝起きて、ヘブライ語を読んで、その出来映えを発表するってことしかやってませんでした。 読んだ文の裏にある深い意味を教えられることもありませんでした。私は今でもヘブライ語は読めますが、どんな意味なのかはわかりません。ボビーも同じだと思います。私の世代だと、子供時代に本格的なユダヤ式の教育を受けた人は、正統派ユダヤ教徒として育てられた子ではない限り、殆どいません。そもそも、そういう子は殆どいませんでした。私たちは自分がユダヤ人だということを知っていて、ユダヤ人の誇りも持ってましたが、トーラー(モーセ五書)やゲマーラー(律法学者が積み重ねてきた議論と解釈の集大成)といった類のものは全く勉強しませんでした。なので、トーラーやユダヤ教の深い意味なんてよく知りませんでしたよ。

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キャンプでのボブ・ディラン(1956年)


しかし、ボブは常にユダヤ人だったと、あなたはおっしゃっていますが、それってどういう意味なのでしょう?

 ブルーカラーの炭坑町のヒビングで少年時代で送ったことが、ボブに影響を及ぼしてるんでしょう。そこの人々は一生懸命働いて、やっと、世間並みの収入を得られる程度で、成長と出世の可能性は多くはありませんでした。彼の世界観にもっと大きな影響を及ぼしたのが、ユダヤ人家庭で育ったことでしょう。ユダヤ人の子供で、パスオーバー(過越の祭り)祝ったことがあるなら、我が民族がエジプトで奴隷状態にあったことを知っていました。ハヌーカ祭(12月頃の神殿清めの祭り)の最中には、先祖が信仰の自由を求めて戦ったことを記念して、メノラー(燭台)に火を灯しました。スペインでの異端審問や、私たちの祖父母の多くがアメリカに逃れてくる理由となった東ヨーロッパでのポグロム(迫害)についても教えられました。10代の私たちは、わずか10年ちょっと前にヨーロッパで本当に起こったこと、ホロコーストの現実に衝撃を受けました。1960年には映画『エクソダス 栄光への脱出』が公開されました。自由の地パレスチナを目指して我が民族の集団を率いるハガナーの勇敢な男をポール・ニューマンが演じているあの映画です。私はダルースのダウンタウンのスペリアー・ストリートにあったグラナダ・シアターから怒り狂いながら出たのを覚えています。パーキング・メーターを殴り始めたら、ガールフレンドが----リーという名前のノルウェー人でした----私を宥めようとしました。「ルイ、これは単なる映画でしょ」って彼女は言いましたが、私にとっては単なる映画ではありませんでしたよ。生き残った者たちに対してなされた不当な行為に、私は非常に腹立たしくなりました。ユダヤ系の人の多くが不愉快になりました。敗者を応援するというのはユダヤ人の第2の天性です。私たち自身が、よくそういう立場になってきたからです。迫害や差別、不正ということになると、私たちは第6感が働くようです。私たちの多くがそうしたことと戦うことに人生を捧げています。ボブの中に曲を書こうという意欲が生まれたのは、少なくとも一部は、ユダヤ人としてのルーツに由来してると思います。このことは私の頭の中では疑いの余地はありません。

30代半ばから後半にかけて、あなたもボブも宗教に目覚めましたよね。どういう理由からですか?

 心の透き間を埋めるために、もっと意味のあるものを探していたのです。ボブは西洋社会のあらゆるレベルで非常に成功してました。私もそこそこ成功してました。でも、私は人生には成功だけでなく、それ以上のものがなければいけないと感じたのです。ボブも同じ気持ちだったんでしょう。

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ルイの結婚式で花婿付添人を務めるボブ(1983年)


あなたはユダヤ教の教えをもっと守るようになった一方、ディランはユダヤ教ではなくキリスト教のほうに首を突っ込みました。こういう違いがあったのはどうしてですか?

 私はユダヤ教の範囲内でもっと意味を探し、ラビのマニス・フリードマンと一緒にそれを見つけました。私はそういうやり方で精神的渇望を満たすことが出来たのですが、ボブは違いました。彼には新約聖書の勉強会に連れてってくれる友人がいたのです。それが聖書を学習する最初のきっかけになりました。たまたま新約聖書だっただけです。もし私がそれよりも前にトーラーの勉強会に連れてっていたら、あんなことは起こらなかったでしょう。

その後、間もなく、おふたりはロサンゼルスで一緒に暮らすことになったんですよね。いったいどういう経緯で?

 あの頃、ボブは離婚していて、主な家はマリブにあったんですが、ロサンゼルスのほうによく出て来てたので、こっちで家を借りたんです。マリブからだと車で1時間もかかりますからね。私はウェストウッドのコンドミニアムを借りてたので、ボブはよくここを訪ねて来ました。ある日、ボブが言ったんです。「家を借りたよ。部屋がいっぱいあるから、こっちに来て一緒に住めよ」って。ということで、1980年に引っ越して、約3年間、一緒に暮らしたんです。私が1983年に結婚するまでね。

一緒に住むってどんな感じだったんですか? 宗教的には別の方向性に向かってたわけですから。

 力学的に非常に興味深い状態でしたよ。ボブはある部屋で新約聖書を学んでいて、私は別の部屋でトーラーを学んでました。その後、キッチンで会って、今読んだこと、勉強したことを、互いに教え合ったり、互いを説得しようとしたりしました。ボブは私に、自分が勉強してることを教えようとしました。私は私が勉強してることをボブに教えようとしました。相対立する情報が行き交ってましたね。

イエス・キリストについて議論しましたか?

 もちろん。イエスの話題はよく出てきました。学習の過程で、ボブは、イエスは人類の罪のために死んだ;イエスは神の子で、父と子と聖霊の三位一体の一部であると、信じてました。新約聖書にはそう書いてあります。自著の中にも書きましたが、私はイエスをラビ、つまり、教師で、社会でそこそこ成功した一介のユダヤ人であると見ていました。その件について、私たちはたくさん議論しました。明らかに、意見は一致してませんでした。ボブはあることを教えられ、私は別のことを教えられてました。何度か会話をした後、私よりもボブのほうが勉強してる期間が長いことに気づきました。私より知識がありました。ボブの主張にあまり反論はしませんでした。ユダヤ人として、私は知ってることを知ってただけで、歴史的な視点といったものは持ち合わせていませんでした。今では少しはありますけどね。でも、当時はありませんでした。

それで、あなたはどうしたのですか?

 ある日、こうした議論の後、負かされたと思った私は別の部屋に行きました。そして、ミネソタのラビ・フリードマンに電話をかけて言いました。「先生、私の友人は新約聖書を勉強してるんです。いろいろと深い議論をしてるんですが、こいつがする主張に対抗するだけの知識が私にはないんです。もしよろしかったらロスまで来て、こいつに会っていただけませんか」って。その友人とやらが誰なのかは言いませんでしたが、ラビは「いいですよ。私にそうして欲しいとおっしゃるなら喜んで」って言いました。

それで、来てくれたんですか?

 翌週、飛行機で来てもらいました。でも、そうする前に言いました。「ボブ、オレのラビが、来週、ロスにやって来るんだ」って。もちろん、ラビが自分からやって来るんじゃなくて、私が呼ぶんですけどね。「先生に会ってみたい?」って訊くと、「もちろん。ここに連れてきてよ」って言いました。私が家まで連れて来ると、ふたりは打ち解けてました。ボブはラビを気に入りました。それがプロセスの始まりでした。その後、私は別のラビを連れて来ました。ボブがトーラーを学べるようにです。私の友人で、しっかり戒律を守ってるユダヤ人も何人か連れて来ました。いい人たちなので、ボブとも仲良く出来ると思ったのです。実際、そうしてくれました。ボブはトーラーとタルムードの勉強を始めて、ルバヴィッチャー・レベにも会いました。これが私の計画の全体です。そうして、ボブを脱出させました。時間はかかりましたが、私が脱出させたんです。

どのくらいかかったのですか?

 ラビ・フリードマンを連れてきたのが1981年の2月か3月のことです。ゆっくりとしたプロセスでしたが、2年もしないうにち完了しました。徐々にやったんです。

それで、ボブはキリスト教徒であることをやめたのですか?

 そうですねえ、ボブはいつもユダヤ人でしたよ。頭の中では、自分はユダヤ人じゃないなんて思ったことはないと思います。イエスを認めるユダヤ人だって思ってるんでしょう。ボブは今でもある程度は、イエスを歴史的に認めてると思いますが、トーラーとゲマーラーを熱心に勉強し、ユダヤの習慣や祝日を守ってます。

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息子のバール・ミツヴァ(ユダヤの成人式)でのボブ・ディラン
(1983年、エルサレムの嘆きの壁の前)


ボブから感謝の言葉はありましたか? この件について話しましたか?

 ボブは私に感謝する必要なんてありません。私たちの関係はそういうものじゃありません。友達は友達ですよ。友達のためにいいと思ったことをするまでです。

このせいでボブとの友情に傷が入ったりはしなかったんですね?

 全然。おかげでもっと親しくなったと思いますよ。私たちは同じページの上にいました。いつもそうでした。でも、あの逸脱があった時には、私がボブを取り戻す必要があり、実際にそうしたのです。ボブをそれまでにいた元の位置に戻しただけではなくて、学習のプロセスを通してもっとずっとユダヤ教を信仰するようになりました。

あなたとボブはユダヤ人の宗教スペクトラムの中のどのへんに位置しているのですか?

 自分のことなら話すことが出来ます。私は現代正統派ユダヤ教です。ボブがどこにいるのかは話すことは出来ません。昔から、ボブは大祭日(新年と罪の日)とか過越の祭の祝宴とかにはいつも出席してました。私はボブがユダヤ人だってわかってます。

The original article “My Adventures With Bob Dylan: An Interview With Louie Kemp” by Nadine Epstein
https://www.momentmag.com/my-adventures-with-bob-dylan-an-interview-with-louie-kemp/?fbclid=IwAR3Yu1bKOBXYfFs84QlolQzQwNbJ1iCec9oB7RLf5P7IftjDhjgIVzNp2WM
Reprinted by permission



  
posted by Saved at 22:06| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする