海外から届く「本当だったら今日、東京行きの飛行機に乗るはずだったのに」というメッセージには、高い確率で、「日本に行った時におみやげとして買うはずだった『シングル集』とアナログ盤を、代わりに買って送ってくれないか」というリクエストが付されています。で、代わりに買って(実店舗は閉まっちゃってますが、通販は生きてるので問題なし)、うまい具合に梱包して、いざ、送ってあげようと思ったら、コロナ騒ぎで配達に遅延が生じていて…なんていうのはまだマシなほうで、国によっては荷物を受け付けてすらくれなかったり…。もう、トホホです。
ということで、今回紹介するのは、ファンジン『ISIS』誌に8年ほど前に掲載された1960年代のショウのキャンセルに関する記事です。筆者はネットに自分の書いた記事が載るのは好きじゃないという方針なのですが、『ISIS』誌のウェブページにも載せて、新たな情報を広く募っている記事でもあるし、今、我々が陥っている状況を考えると皆に読んでもらう価値があるだろう、ということでOKが出ました。本当に、この記事に載っていない新情報をお持ちでしたら、ここのコメント欄でもいいし、メールでもいいし、ツイッターでもいいし、フェイスブックでもいいので、是非、お寄せください。
* * * * * * * * * *
1960年代の「失われた」コンサート
文:イアン・ウッドワード
50年を超えるキャリアにおいて、ボブ・ディランのコンサートがキャンセルになることは珍しい事態である。1970年代半ば以降のショウについては、キャンセルになったものを含み、たくさんの資料が残っているのだが、1960年代のコンサートに関しては、特にキャンセルになったものについては、よくわからない部分が多い。
キャンセルされたショウの定義も思うほど簡単ではないのだが、この記事では噂のレベルで終わったツアーやショウ(1966年3月のツアー日程についてはさまざまな混乱がある)は除き、少なくとも広告が出て、チケットが発売されたもの(全てがそうとは限らないが)を扱う。ただし、オートバイ事故後については定義の幅を広げることにする。
ということで、話を進めよう。
1962年12月17日(月)〜23日(日)
ユニコーン(マサチューセッツ州ボストン)
ユニコーンはボストンのボイルストン・ストリート825番地の建物の地下にあるコーヒーハウスで、「絵のように美しい」「最もプロフェッショナルな」、というよりもむしろ「あまり民衆{フォーク}的とは言えない高級な」会場として有名だった。『LIFE』誌はフォトジャーナリズムで有名な100ページほどの週刊誌で、その1962年12月14日付の号の「ライフ・ガイド」のセクションには、アメリカで近々行なわれる「フォーク・シンギング」の公演に関する情報を掲載した1ページがあった。このセクションのテーマは号によって異なり、例えば、1週前の号では近刊の書籍に割いているので、1962年12月14日号にディランの公演が掲載されているのは、たまたまそういうタイミングだったからなのかもしれない。
「ボストン」で行なわれるショウを扱ったサブセクションには、「アイルランドの4人組」ザ・クランシー・ブラザーズとトミー・メイケムが、1962年12月16日までボストンのユニコーン・コーヒーハウスに出演予定とあり、続いて「次に登場するボブ・ディランは、田舎というよりは大都市風スタイルだ」と書かれている。我々に出来る推測は、当時、ボブ・ディランはまだボストンには行ったことがなかったので、「フォーク・シンギング」の公演リストをまとめた人物は、公演予定日よりもある程度前に記事を書いたのだろう、ということだけである。
ディランは1962年12月6日にコロムビア・レコードでレコーディング・セッションを行ない、M・ウィットマーク&サンズ宛の1962年12月7日の日付のある手紙にサインして、〈Blowin' In The Wind〉を含む18曲を、1962年7月12日に契約を交わしたこの音楽出版社に正式に登録している。
こうした出来事から数日しか経っていない頃、ディランはBBCテレビのドラマ『マッドハウス・オン・カッスル・ストリート』(エヴァン・ジョーンズ脚本)に出演するために、飛行機でロンドンに移動した。11月下旬の時点では、ボブとジョーンズのエージェントとは交渉中で、BBCとの契約もこの頃、交わされているのだが、BBCとジョーンズの間の契約は12月上旬になってやっと締結された。ディランはロンドンに直行して、台本の読み合わせとリハーサルをしなければならなかった。
恐らく、ロンドン行きは、BBCが提示したギャラが良く、費用も向こう持ちということで抗し難く、契約書に必要なサインが得られるや否や、ディランはイギリスに急行したのだろう。ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンがこうした可能性のあることをユニコーン側に伝えたのか否か、そして、もし伝えてないとしたら、ユニコーンのオーナーを宥めるためにどんな策を取ったのか、我々には推測することしか残されていない。
ボストン界隈でコンサートのブッキングが問題になったのは、この時だけではなかった。
1964年3月7日(土)
タフツ大学クーセンズ体育館(マサチューセッツ州メドフォード)
コンサートを主催したのはタフツ大学に1963年に入学し、1966年に卒業する予定の学生たちだった。最近になって、このコンサートのポスターとチケット(どちらも複数枚)がインターネットを通じて売られた。ポスターのデザインはユニークで、1963年11月2日にボストンのジョーダン・ホール公演で撮影されたディランの写真が使われていた。チケットのほうはこれよりはるかに地味なデザインだが、それでもコレクションに加える価値は大ありと見なされている。これは本当に歴史的遺物だ。コンサートは宣伝され、チケットが販売され、観客も集まったのだが、残念なことにボブ・ディランは姿を見せなかった。
読者に「フォーク・ミュージックとコーヒハウスの情報」を提供していた『ブロードサイド・オブ・ボストン』紙はディランのすっぽかしを直ちに報道し、この問題を追求することを約束した。次の号では、編集長で、自分もタフツ大にいてディランの登場を待っていたデイヴ・ウィルソンがこう書いている。「ディランがタフツ公演に姿を見せなかった翌朝、『ブロードサイド』の電話は鳴り続け、ボブに何があったのかという問い合わせが殺到した」 はっきりとした情報がないのでさまざまな噂が飛び交い始め、その中には、ディランは泥酔していた;別のところに行って無料で演奏した;友人と酒盛りをしていた等の根も葉もない悪口もあった。ハーヴァード大学で予定されていたジュビリー・ウィークエンド・コンサートも「ディランのズル休み」のためにキャンセルとなったという噂もあった。以上のものはどれも真実ではないが、このような空白状態を埋めるのは、えてして噂と憶測なのだ。
数週間後、ウィルソンがニューヨークにいる間に問い合わせをしてみたところ、その質問に回答すべき人間は席をはずしているので、折り返し電話を差し上げますというのがグロスマンの事務所の対応だったが、その電話がかかってくることはなかった。ウィルソンはその晩、その係の人物に偶然会うことが出来、翌日にオフィスに戻って調べてみると言われたので電話をかけたものの、不在だった。念を押したものの、この時も折り返しの電話はなかった。わざとか単なる失念かは不明だ。その後、ウィルソンはオフィスに出入り禁止になってしまった。
正式な説明がなかったので、ウィルソンは他の情報源を探って、次の情報を手に入れた。ディランは週末に西海岸から戻って来て、事務所に確認の連絡を入れたのだが、コンサートについては何も言われなかった。殆どのスタッフが早々に帰ってしまい、たくさんの仕事を抱えて手いっぱいの秘書がひとりだけが残されていたらしい。
こう聞くと、ディランがグロスマンのオフィスから手抜きの対応をされたようであり、管理上の問題がどこかで生じていたのかもしれない。3月17日付の『ブラウン・デイリー・ヘラルド』紙は、ブラウン大学のスプリング・ウィークエンド・イベントの告知をしており、その幕開けがディランのコンサートだった。記事は、ディランが「先週」[←原文のまま]タフツ大学公演に姿を見せなかったことにも言及し、ブラウン大学のイベント組織委員会の委員長の言葉を掲載している。彼によると、ディランをブッキングしたニューヨークの大手エージェントも、ユニオン(音楽家組合か?)もそれを繰り返されるのはごめんだと考えていたらしい。ブッキングは直接、グロスマンのオフィスが行なったのではなく、「ニューヨークの大手エージェンシー」----恐らくはITA(インターナショナル・タレント・エージェンシー)----が行なったようだ。
1963年末及び1964年の大部分の間は、ITAがディランのブッキング・エージェントの役割を担っていた。1964年11月の時点では、ITAはジェネラル・アーティスツ・コーポレーションに買収されていたが、ITAの社長は副社長としてとどまって「コンサートの分野で演奏家の代理を務める」ことを継続していた。
この出来事の丸2年後、ロバート・シェルトンはディランをインタビューした際に、この時のキャンセルの事情について触れている。しかし、非常に異なる状況でキャンセルとなった次のショウは、殆ど知られていない。
1965年2月13日(土)
カーネギー・ホール(ニューヨーク州ニューヨーク)
これは少しでっちあげ臭のするコンサートだ。1964年7月に、トリオ・コンサーツ・Incがこの年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルのプログラム冊子の中に載せた広告なのだが、ピーター・ポール&マリー、イアン&シルヴィア、オデッタ等、アルバート・グロスマンのマネジメントに所属する他のアーティストと一緒に、ディランのこの公演の記述もあるのだ。トリオ・コンサーツ・Incはグロスマンがピーター・ポール&マリーのために、このグループと一緒に設立した会社で、この広告に「チケット情報」の問い合わせ先として掲載されているトリオ・コンサーツの所在地は、グロスマンの事務所の住所と同じだった。
少なくともカーネギー・ホールを押さえていなかったら、グロスマンはこのディランのコンサートの広告は出さなかったであろうが、1964年半ばに掲載されたこの広告以外は、他所でも記されていたり、チケットが発売されたりといった形跡は何もない。しかし、この広告にある他の3つのコンサートは記されている通りの日時に確かに開催され、『ニューヨーク・タイムズ』紙にはロバート・シェルトンによる評も掲載されている。彼のコンサート評は、時代精神{ツァイトガイスト}を反映しているとおぼしき変化がフォーク・ミュージックの分野でも進行中であると述べていた。
ニューポートのプログラムに掲載されているディランのコンサート計画は、静かに棚上げになったようである。計画変更の理由は不明であり、我々には想像することしか出来ない。変更は、少なくとも部分的には、ディランがジョーン・バエズとの関係を続けていたからかもしれない。1964年8月には、ジョーンはウッドストックにあるボブの屋敷に泊まっており、8月8日にはボブは彼女のフォーレスト・ヒルズ公演に登場している。ジョーンはその返礼として、同年秋には、10月31日にニューヨークで行なわれた「ハロウィーン」コンサートを含むボブのコンサート数回に飛び入りしている。ディランの人気が急上昇中だったので、グロスマンは1965年2月よりも前にニューヨークで大きなコンサートをやろうと決めたのかもしれない。1964年11月には、ディランは1965年にバエズとジョイント・コンサートを行なう計画を話しており、その殆どは1965年3月に実際に開催されている。これらのジョイント・コンサートはアメリカの東海岸で行なわれたが、ニューヨーク・シティーで行なわれたものは1つもない。
1966年3月19日(土)
シヴィック・オーディトリアム(ニューメキシコ州アルバカーキ)
このコンサートは、開催まであと1カ月もない2月21日に『アルバカーキ・ジャーナル』紙で発表された。ディランは「フォーク・ミュージックの作曲家、現代の詩人、作家」と説明されているが、肩書きの最後のものは『タランチュラ』の最初の発売予定日よりもいくらか先んじている。記事にはディランは「昨年、全国ツアーを行ない、今春にはオーストラリア・ツアーに向けて出発する」という情報も書かれているが、コロムビア・レコードがディランの「全世界ツアー」をマスコミに発表するよりも前に記事になってしまっている。オーストラリア公演が予定されていることについては、コロムビアの正式発表前に報じたマスコミが実際にいくつかあった。
新聞記事の最後の段落には非常に興味をそそられる。「ディランは10名の楽団を連れて行き、パフォーマンスの前半はトップ・ヒットを披露し、後半はオーディエンスからリクエストされた曲を演奏する予定だ」 そういう計画があったとなると、このショウが実現しなかったのは甚だ残念である。
地元紙がショウが行なわれないことを発表したのは、その当日のことだった。プロモーターのポール・ヴィレラの発言によると、ディランは前晩にアルバカーキに到着したのだが、ウイルスに感染して体調が悪化し、医者からはコンサートはやらないように言われたとのことだった。ヴィレラは続けて言っている。「このイベントは私がこれまでに経験した最大の前売り記録となっていました。5,000ドル相当のチケットを売りました」 彼はチケット購入者には払い戻しを約束しているが、ディランの体調を思いやる気持ちは全く示していない。「もう2度とブッキングしません」 これは、人には体調がすぐれない時もあるということに落胆しての発言とも取れるし、キャンセルの理由について疑わしく思っていたとも取れる。ディラン研究家の中には、ディランは1966年3月13日のデンヴァー公演の後、バンドのメンバーに10日間の休暇を与えて、自分は飛行機でロサンゼルスに行ったと言う者もいる。
2番目の地元紙の最後の段落には興味をそそられる。2人の若いファンがディランのアルバカーキ公演を見るために、ニューヨークの自宅からヒッチハイクでやって来たと書いてあるのだ。このアルバカーキ公演は1カ月前に地元紙で発表されたのみなのに、その情報がニューヨークにまで達していたのだろうか、それとも、彼らはツアー関係者から情報を得たのだろうか? ディランもしくはツアーのメンバーはこうしたファンの存在を知っていたようでもある。記事には、彼らはディランの次の公演地であるエルパソにも行く予定で、帰宅のための航空券代はディランが払うことを約束しているとも書いてある。エルパソ公演もキャンセルとなっていることを考えると、何とも奇妙な話である。
1966年3月20日(日)
コロシアム(テキサス州エルパソ)
このコンサートが『エルパソ・ヘラルド・ポスト』紙で発表されたのは、公演日まであと1カ月を切っている1966年2月26日のことであり、同紙には広告まで出ている。
1966年3月19日にキャンセルを報じたのも同紙である。「明日の午後7:30にコロシアムで開催予定だったボブ・ディランのコンサートは中止となった」 記事によると、ディランは「今日」アルバカーキでコンサートを行なう予定だったのだが、体調悪化のため、公演(複数形で記されている)はキャンセルされた、とのことだった。この情報は、地元のプロモーター、セントラル・タレント・エージェンシーの責任者、ジョー・プレスリーから発せられている。
記事はその後に、「ショウタイム」というページに掲載された広告に言及する一言を加えているのだが、この広告はキャンセルについては何も言っていない。恐らく、広告のほうはかなり前に原稿を入れてしまっており、キャンセルのニュースが入って来たものの、引っ込めるには遅過ぎたのだろう。ところが、奇妙なことに、広告では「今晩!コロシアムにて」となっている。3月20日ではなく3月19日にコンサートがあることになてしまっているのだ。
2公演のキャンセルが同時に発表されたことははっきりしている。ところで、ニューヨークから来た2人のファンは、アルバカーキにいる時点でエルパソに移動しても無駄だと伝えられたのだろうか? もし彼らが既にエルパソに向かってしまっていたとしたら、再度の公演のキャンセルに失望したことは想像に難くない。
1966年3月27日(日)
コロシアム(ワシントン州スポケイン)
このコンサートも宣伝されたものの実行はされなかったものだが、その直前の状況について少し触れておこう。
1966年3月下旬にワシントン州とオレゴン州で行なわれたコンサート・スケジュールについては、長年に渡って、ディラン研究家がその解明に手を焼いてきた。1966年3月26日のヴァンクーヴァー公演に関する当時の資料はしばらく前から存在していたが、それとは対照的に、国境線のこちら側に戻ったアメリカでのコンサートの詳細の解明は困難だった。
しかし、広告やポスター、チケット半券(インターネット上、もしくは他所で見ることが出来る)から、次のようなスケジュールを再構成することが出来よう:
3月23日(水)パラマウント・シアター(オレゴン州ポートランド)
3月25日(金)ニュー・センター・アリーナ(ワシントン州シアトル)
3月26日(土)ジ・アグロドーム(PNEアグロドーム)(ブリティッシュ・コロムビア州ヴァンクーヴァー)
3月27日(日)スポケイン・コロシアム(ワシントン州スポケイン)
しかし、これで全てが正解というわけではなさそうだ。
『ヴァンクーヴァー・プロヴィンス』紙の記事には、ショウの内容に関する記述に続いて、「ディランは土曜日の午後にプライヴェートな便でシアトルからここに来て、日曜日にはタコマに向かって出発した」と書かれている。シアトルからヴァンクーヴァーの移動は上記の日程と一致するが、ヴァンクーヴァーからタコマに向かったというのは一致しない。シアトルとタコマは空港を共有しているのに(当時はシアトル・タコマ国際空港、後に、シータックと短縮されている)、記者が2つの都市を区別して書いているという点にも注意が必要だ。ということは、日曜日にはタコマでコンサートがあったのではなかろうか。事実、一部のディラン研究家は3月27日(日)をタコマ公演の日としている。しかし、ディランがタコマで公演を行なったのは3月24日(木)とする説もある。どちらの場合にせよ、文書の記録は存在しないし、会場名すら明らかになっていない。一方、もし、ポスターの通り、日曜日にスポケインでショウが行なわれたのだとしたら、どのようにして同じ日にタコマでもショウを行なうことが出来たのだろう? この問題については議論をする必要もないだろう。
親切なことに、スポケインの地元紙の代表が社のアーカイヴを調べ、1966年3月27日にコンサートがあると宣伝はされたものの、技術的問題のせいでキャンセルされていることを確認してくれた。音響機材を運搬するトラックが故障したらしい。あの時代、ディランとザ・ホークスは大量の機材を運搬していた。ジュールズ・シーゲルは、ヴァンクーヴァー公演の会場での音響問題というコンテクストで「ディランは機材ケース8個分の、3万ドル相当の特注のサウンドシステムを持っていたが、この巨大な残響室をクリアなサウンドで満たすには全然足りていなかった」と述べ、さらに「公演地から公演地へと音響機材とミュージシャンの楽器を運ぶ2人のドライヴァー」と「1人の音響技術士」がいたことについても言及している。技術的問題と機材の量の他、もう1つ問題があった。
スポケイン・コロシアムでのコンサートの開始が午後4時だったというのは通例とは違う。この時のツアーでは、殆どのコンサートの開始時間は午後8時か8時半だったので、午後4時というのは非常に早い。ヴァンクーヴァー公演終了後に音響機材をばらしてトラックに積み込み、スポケインまで移動して機材を降ろし、午後4時のショウに間に合うように組み立てるのは、もし本当にそれをやったとしたら簡単ではなかったであろう。現代の地図によると、ヴァンクーヴァーからスポケインまでは約11時間の距離となっているが、これはトラックではなく普通の自動車で移動するならばである。しかも、当時の世界のあの地域には州間幹線道路は殆どなく、該当するルートの大部分は車線の分かれたハイウェイですらなかった。
ディランのマネジメントもしくはエージェントが1日に2公演をやろうとしていたのか? 当時はそんな慣例はなかったし、そもそも、こんなに離れた2都市でコンサートを設定するだろうか? ある日、ヴァンクーヴァーで夜公演をやってから音響機材のトラックを移動して、翌日昼のスポケイン公演に間に合うようにすることは、頑張ればどうにか出来るとしても、昼のスポケイン公演から同日夜のタコマ公演に移動するのはほぼ不可能であろう。たとえ、コンサートの開始が真夜中であってもだ。当時は、車で移動するだけでも7時間はかかったからだ。
ということで、疑問を整理するとこうなる:ディランとツアー隊は1966年3月27日(日)のタコマ公演を優先させて、スポケイン公演はキャンセルしたのか? それとも、タコマ公演はその前の3月24日(木)に実際に行なわれたのだろうか? 私がタコマの図書館に問い合わせをしたところ、次のような返事を得ることが出来た。
「こんにちは。『タコマ・ニュース・トリビュート』紙を前後数日間分も含めて調べてみましたが、ボブ・ディランのコンサートに関するものは全く見あたりません。切り抜きファイルやタコマを扱った記事のインデックスも調べてみましたが、1966年のディランのタコマ公演に関連したものは何も見つかりませんでした。以上の情報でお役に立ちますでしょうか。お問い合わせ、ありがとうございました!」
以上のことから、1966年にはディランはタコマではコンサートは行なっておらず、スポケインではコンサートが計画されたがキャンセルとなったようだ。この年、コンサートがキャンセルになったのはこれが最後ではなかった。
1966年7月24日(日)
フェスティヴァル・フィールド(ロードアイランド州ニューポート)
1966年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルの早い時点での広告には、「ボブ・ディラン」は出演者リストの中に含まれていただけだが、『シング・アウト!』誌の1966年7月号に掲載されたもののような後の広告では、最終夜に出演すると、話の具体性が増している。しかし、この広告の原稿が書かれたのは数カ月前のことだろう。1966年7月21日(木)のイヴニング・コンサートの出演者に「ディック&ミミ・ファリーニャ」が入っているからだ。ディック・ファリーニャは1966年4月30日にオートバイ事故で他界している。
『シング・アウト!』誌の1966年9月号では、フェスティヴァルのラインナップに「土壇場での変更」があり、シオ・バイケルとボブ・ディランがリストから消えたことが報じられている。シオ・バイケルが出演しないことには何の理由も述べられていないが、ディランが出ないのは「『映画の仕事』があるため」と書かれていた。これは恐らく、ディランがABC-TVの番組『ステージ'66』の作業をしていることに言及していると思われる。『シング・アウト!』誌の記事中で引用符付きで『映画の仕事』とあるのは、これがディランか彼の代理人の発言だった可能性を示唆している。
ロバート・シェルトンは、1966年のフェスティヴァルには1965年の記録的な人出に十分対抗しうるレベルの人出があったと述べ、ジョーン・バエズ等の大物数人が出演を取りやめていることを考えると「注目に値する」数字だったと記している。シェルトンは「ボブ・ディラン、ポール・ストゥーキー、メアリー・トラヴァースをはじめ、アルバート・グロスマンとジョン・コートのマネジメントに属しているミュージシャンの殆ど全員が出演しなかった」とも書いている。
もしディランが1966年7月24日にニューポートに出演していたなら、1966年7月29日朝にオートバイ事故を起こす前に行なった最後の公演となっていただろう。
記事後半を読む