2020年11月28日

Wizardo回想録&インタビュー:第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?こちら
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたちこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン


聞き手:スティーヴ・アンダーソン



《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスはいつ製造したのか覚えてますか? 以前考えられていたよりも前のことだったようですが。

 オレは1973年にロンドンにいて、ローリング・ストーンズが《Goats Head Soup》をリリースしたばかりで、その頃、UKツアーも始まっていた。《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスを1箱持って行って、ロンドン中で取引した。ということは、ラリーとオレが《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスを作ったのは、1974年よりも前だ。オレの記憶だと、最初に製造したのは1972年後半か1973年のはじめだ。その時、アメリカの俳優、デニス・ウィーヴァーがカスタム・フィデリティーでレコードを作ってたんで、それで、もっとはっきりと時期を特定することが出来るんじゃないかな。

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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスは黒ビニールだったのですか、カラー・ビニールだったのですか?

 《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスは全部、黒のビニールで、手書きのレーベルだ。《Miracle Muffler》もそうだ。どちらも最初は、サンタモニカ・ブールヴァードのカスタム・フィデリティーでプレスした。カスタム・フィデリティーは大量に注文しないとカラー盤は作ってくれなかった。しかも、成型機の掃除代として250ドルの追加料金を取られた。オレたちは黒を選んだよ。注文は少しだけだったから。レコードは自分たちのガレージ・バンドのものだって、工場の人には伝えてあったからね。スタッフからは訝{いぶか}しげに訊かれたよ。「ちょっと確かめたいことがあるんだが、キミたちはガレージ・バンドをやってるんだよね。そのバンドのテープを作ったんだよね。それから、何らかの理由で、テープをヨーロッパに持って行ってメタル・パーツを作ったのに、スタンパーだけをアメリカに持ち帰ったの? それを調整して、レコードをプレスするのを、この工場にやらせたいの? それがキミたちが当社に依頼したいことなのかな?」って。追い出されるのかなと思ってたら、オレたちが何の言葉も発しないうちに、「いいでしょう。引き受けますよ。何枚欲しいんですか?」って言われたよ。その日、そのスタッフに渡して帰ったスタンパーは、マニラ紙で包んであって、マトリクス・ナンバーしか書かれてなかった。作業が終わって返してもらった時には、スリーヴには誰かの手で 「Pink Floyd Bootleg」って殴り書きされていた。中身なんてどうでもよかったんだね。その後も何度もプレスしてくれたし。そうしてオレたちは、レコード・ビジネス全体がいかに腐ってるのかを学んでいった。レコードを作るのは簡単なことだった。中身を問う奴なんていなかった。未来は明るそうだった。

《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスと比較すると《Miracle Muffler》はどうして入手困難なのでしょう? どうしてカラー・ビニールでプレスされてないのでしょう?

 タイミングの問題だと想うよ。《Take Linda Surfin'》から《Miracle Muffler》までの短期間に、ラリーとオレは南はサンディエゴから、途中のサンタバーバラを含み、北はサンフランシスコまで、レコード店への配給ルートを作り上げたんだ。《Miracle Muffler》のオリジナル・プレスが州外に出回らなかったのは需要と供給の関係からだ。このレコードはベイエリアだけで山ほど売れた。あの頃は良かったなあ。レコード店がたくさんあった。ヒッピーもたくさんいた。ピンク・フロイド・ファンもたくさんいた。《Take Linda Surfin'》の時には卸売りのコネクションは持ってなかったから、殆どは他のブートレッグ業者を相手にトレードしたり売ったりして、今度はそいつらが、いろんな場所でそれを売った。1973年には《Take Linda Surfin'》を75枚、イギリスに持って行って、ロンドン中でトレードしたんだけど、その時は《Miracle Muffler》は品切れ状態だったんだ。そうでなかったら、このレコードも持って行ったよ。

あなたにどうしても訊いておかなければならないことなのですが、《Take Linda Surfin'》はカラー盤を作ったのに、《Miracle Muffler》はどうしてカラー盤を作らなかったのですか?

 《Miracle Muffler》のカラー盤が見つからないってことが驚きだよ。ルイスで何度もカラー盤を製造したよ。

本当ですか?

 どこにもないの? 1枚も見つかってないの?

● そうなんです。私のほうが間違ってるのかなあ。

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《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》をプレスするのに使われたプレートは、元々は《Embryo》というブートレッグを作るために使われたものだと、昔から言われていますが、実際はどうなのでしょうか?

 《Take Linda Surfin'》のスタンパーをカスタム・フィデリティーに最初に持ってった時には、ヨーロッパ式になっていて、アメリカでは使われた形跡はなかった。カスタム・フィデリティーがアメリカのプレス機にも合うように手を加えたんだ。ヨーロッパ式のスタンパーはランオフ・エリア[ランアウト・エリア、マトリクス・エリアともいう]の後で少し隆起してるんだ。この縁{ふち}はこっちの機械で使う前にスタンパーから取り除いておかなければならない。メタル・パーツをアメリカに持って来た奴が、スタンパーを2セット(同じマザーから作った同一のもの)持って来たんだろうっていうのが、最も論理的な説明かなあ。予備のスタンパーが必要になる場合もあるだろうから、こうしておいたほうが賢明なんだ。2セットのスタンパーのうち1セットはどこで使われたのかなあ。ルイスじゃないだろう。ムンレイはどうやって調整したらいいのか全然わかってなかっただろうから。レインボならあり得るか。そういうものの扱いは朝飯前だったし、いろんなブートレッガーの行き着く先だったから。もちろん、もう1セットのスタンパーは、カルトに入信したピーター・トソロを通してオレのところに来た。
 100%そうだっていう自信はないが、《Embryo》はレインボでプレスされたんだと思う。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》や他のたくさんのレコードを作った奴も同じレーベルを使っている。全部、レインボで製造したんだ。こいつや、こいつとレインボ、及び、レインボの経営陣との個人的な関係について面白い話を持ってるんだが、レインボはまだ存在してるので、大丈夫だと判断出来るようになるまでは話すべきではないだろう。酷い話だから。

この人物の名前はわかってるのですか?

 以前に話した通り、レインボの日々の操業はベアという名の女の人が監督してたんだ。工場の全てをだ。プレスのスケジュールを決めたり、会計なんかも全部、彼女が切り盛りしていた。ベアはまた、サンフェルダンド・ヴァレーにある、型にはまらないライフスタイルの(つまり、レズビアン)バーのオーナーでもあった。自宅では18輪トラックを運転してるかのような、小柄でずんぐりむっくりの中年だった。オレが会ったことない奴なんだが、自分より若い男のパートナーと自分の工場でブートレッグを作ってもいた。
 ブートレッグの黎明期に、オレにはずっと謎のレーベルが1つあった。ここから出る製品はだいたいいつもダブル・アルバムで、ジャケットは印刷で、打ち抜き加工。折りたたみジャケットを開くと、それぞれのポケットに入ったレコードがある。とてもイカしてたいが、誰が作ってるのかは全然わからなかった。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》はその好例だった。他にもレッド・ツェッペリンの《Going to California》やCSNYの《Live In San Francisco》があった。こうしたレコードはハービー・ハワードから仕入れてはいたが、こいつは製造には全く関与してなかった。このレーベルとそれに関与してた人物は、素早く現れ、素早く消え去った。
 オレがまだレインボでWizardo Recordsの製品を作ってる頃、ベアからメタル・パーツや、彼女が関わった「以前の事業」の残ってる在庫の購入を持ちかけられた。どんなものなのかを質問すると、彼女はひとこと言った。「ブートレッグよ」 2日後に、何があるんだろうと思ってベアの自宅に行ってみたところ、ビックリ仰天! 謎のブートレッガーの全カタログがあったんだよ。マザー、スタンパー、アートワーク、それから大量の売れ残りのレコード。リリースしてないものもあった。例えば、まだ日の目を見てないジョージ・ハリスンのサンフランシスコ公演を収めたダブル・アルバムとかがだ。どこから手に入れたのか訊くと、「年下の男のビジネス・パートナー」がいて、別のビジネスを始める際に、ひと財産を残していったのだということだったが、それ以上の詳しいことは話してくれなかった。
 この時点で、オレはWizardoの事業を縮小して、学業休暇を取ることを計画してたので、この驚くべき宝の山を自分のコレクションに加えたいと一瞬思ったものの、ベアからそれを購入する理由は全くなかった。だが、買うであろう人物をひとり知ってたので、オレはアンドレアに電話をかけた。彼女は自分が全部を引き取るという契約を、24時間も経たないうちにベアと交わした。「発見者への謝礼」として、アンドレアはオレの個人コレクション用に全タイトルを1枚ずつくれた。その中にはピンク・フロイドが2枚あった。立派な見開きジャケットだったが、中身はよくあるBBC放送だったと思う。
 アンドレアが全てを購入したが、逮捕されたのもその頃なので、計画通り再発したタイトルはないと思うよ。
 笑える話があるんだ。デヴィッド・Bは「謎のブートレッガー」と電話で話したことがあるんだ。デヴィッドがケン・ダグラスのマケイン・レコード店の1つの経営を任されてた時、招かれざる電話がかかってきたんだ。マケインにブートレッグを売りたいって。デヴィッドは電話でその男にいろいろ質問した後、こいつが謎のブートレッグを作ってる奴だと確信した。デヴィッドはKornyfone[ケン・ダグラスが関与していたレーベルの1つ、TAKRL]のレコードは卸してもらえるのか?と訊いたら、ブートレッガーはこう答えた。「Kornyfoneのレコードは最低だ。避けたほうがいい」 デヴィッドは電話を切ると、オレに、こいつはとんだ糞野郎だと言った。
 《Very Stoney Evening》等の謎のダブル・アルバムの思い出話をもうちょっとすると、多くはカラー盤だったと思う。レインボにはカラー盤を作る設備はあったんだけど、機械を掃除するプロセスに時間がかかるってことで、あまり頻繁には作ってなかった。そういう状況が反映されて、殆どの顧客がすすんで払いたいとは思わないほどの高い料金になっていた。でも、中には高い料金を払った奴もいるんだよ。レインボの作るカラー・レコードは美しかった。ルイスが製造したカラー盤とレインボのカラー盤の違いは透明度なんだ。レインボのカラー盤は光にかざすと透明なんだけど、ルイスのカラー・ビニールにはいつも濁りがある。
 レインボでのベアの立場を考えると、オレの推測なんだが、ベアは払いたくない料金があったとしても、成型機の洗浄代なんかどってことないって感じだったんじゃないかな。帳簿外でやってた可能性もあるだろう。だとすると、かなりの利益率だっただろう。
 こうしたレコードのレーベルは大きく「1」「2」と書いてあるだけだ。これは当時のTMQのブートレッグと同じスタイルだ。レーベルの別バージョンには「All Rights Reserved - All Wrongs Reversed」というスローガンを初めて使ったものもあった。

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上記のブートレッグは、Wizardoの「社内用」コピーであり、インサートはあなたの手書きで、友人にプレゼントされたものだ、という触れ込みでネットで売られていました。これは本物ですか? 偽物ですか? 現在、「レア」と称する偽のインサートが市場にたくさん出回っていて、この件に関して論争があって…。

 すっかり忘れてたよ。これはオレのブートレッグ・パートナーのラリー・フェイン(ラリー・ウィザード)が描いたものだ。こいつは後に、アジアでは有名な漫画家になった。ググってみてくれ。同じスタンパーが何度も使い回されてたって話はしたよね。レコードがなくなる前に、白ジャケットに巻き付ける紙のカバーのほうがなくなっちゃった時には、テキトーなインサートを急いで印刷するなんてことがあったが、そんなに多くはない。そんなことをしたのは、1軒だけにしか行かない小さな注文を処理した時とかだったよ。その後、オレたちはスタンパーをアンドレアに譲り、彼女は違うインサートを作った。スタンパーはいろんな人に渡っていった。最後はどこに行ったのか知りたいよ。理由はとっくの昔に忘れたが、ウィリアム・スタウトにムカついてた時には、ラリーが5分後には忘れてしまうようなバカな風刺画を描いた。本当に5分で忘れ去られたほうがいいものだったんだけどねえ。こんなくだらないものまで集めてるコレクターがいるんだから、参っちゃうなあ。

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これはいかがですか? インサートではWizardoのロゴの下に「Omayyad」と印刷されています。本物ですか? フェイクですか?


 フェイクだ。オリジナルのWizardoのインサートじゃないよ。

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《Screaming Abdab》に関して覚えていることはありますか?

 《Dark Side of the Moon》をリリースした後、フロイドの新しい正式なアルバムが出るまでしばらくあった。1974年になってやっと、バンドは新マテリアルを演奏し始めた。ラリーがヨーロッパから入手した新曲のオーディエンス・レコーディングが酷かったのを覚えてるよ。音質が最悪だったんで、演奏してるのが《Dark Side》じゃないってことくらいしかわからなかった。当時、このバンドへの関心は非常に高く、皆がバンドの新曲を聞きたいと思ってたので、音質が悪かったけど、とにかく《The Screaming Abdab》っていうタイトルを付けて世に出した。

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《Libest Spacement Monitor》というタイトルの由来は何ですか?

 その記憶は消えちゃってるなあ。《Libest Spacement Monitor》は、雑誌か新聞かシアーズ[アメリカの通販大手]のカタログで見てカッコいいと思って、そこから切り抜いたものだと思う。レーダーのアンテナの写真もそうだ。何を意味してるのかはわからない。こんな回答だと皆をガッカリさせちゃうかもしれないけど、当時のガールフレンドはアシッドを大量にやっていて、フロイドも大好きだったんで、こいつがタイトルを付けた可能性もある。その娘{こ}の名前、思い出せないなあ…。
 《Spacement Monitors》の謎に答えようと頭を絞ってるんだけど、このぼんやりとした記憶が答えの一部にはなるかもしれない。それがリリースされた当時、皆が次のフロイドの正式なアルバムにはどんな音楽が収録されるんだろう?、タイトルは何だろう?って思いを巡らせていた。ラリーと会話をしてた時、こいつがキャピトル・レコードの誰かからフロイドの新譜のタイトルはかくかくしかじかだと聞いたって話してたような気もするから、《Libest Spacement Monitor》がタイトル候補の1つだった可能性もある。ラリーと連絡を取って、この記憶があるかどうか訊いてみるよ。

《Pictures Of Pink Floyd》というヨーロッパ製のレアなブートレッグがありました。リリースは1971年です。その片面には「Libest Spacement Monitor」と(ブートレッガーが)題した長いインプロヴィゼーションが収録されているので、あなたがこのブートレッグを持ってたんじゃないかと思ってました。

 ワオ! 繋がるねえ。でも、おかしなことに、ヨーロッパ製ブートレッグも自分の作ったブートレッグもはっきりとした記憶がないんだ。オレがヨーロッパ製のブートレッグを持っていて、キミが考えてたように、オレがタイトルをコピーしたか、レコードを丸ごとコピーしたか、デヴィッド・Bか誰かにコピーするようにあげたかした可能性もあるだろう。ジミーが 《Liebest Spacement Monitor》というタイトルのピンク・フロイドのブートレッグの注文を受けて、ジミーがいつもそうだったように、ピンク・フロイドのブートレッグなんかどれも同じだろうと考えて、インサートを適当に印刷して、そこらにあったピンク・フロイドの過剰在庫にテキトーに貼り付けてた可能性もある。そんなことはあまり起こらなかったけど、発送部門にジミーのような人間は欲しくない。オレが一番気に入ってる説は、アシッドが大好きだったガールフレンドが思いついたってことかな。「今何時?」といった質問に対する回答として、よくそんな言葉が口からぺちゃくちゃ出てきたものさ。ヨーロッパ製のブートレッグのほうがオレのブートレッグより後に出た可能性はないのかな? オレには謎だ。

偶然の一致が多過ぎます。《Pictures Of Pink Floyd》に端を発し、どこかの時点であなたの意識にひっかかったのだと私は思います。簡単に思いつくような言葉ではありません。しかも、何も意味していません。「Libest Spacement Monitor」といったものは存在しません。インサートの「Pink Floyd」というグラフィックは、《Screaming Abdab》のインサートから拝借したものです。なので、《Libest Spacement Monitor》は1975年前後にリリースされたのだと思います。

 そうかもね。これはお袋の古いタイプライターの文字だ。ということは、オレがインサートの文字を打って、変な写真をペーストする作業もやったってことだ。ディーラーや問屋が面白いレコーディングを手に入れて、将来に出すレコード用にってオレに渡すことも時々あった。誰かがオレにテープを送る時に、「このレコードを作る際には、…というタイトルにしてくれ」なんて言ってた可能性もあるだろう。はっきり思い出せたらいいのにと思うよ。プレスはルイスかレインボのどちらかでやったと思う。パチパチ、プツプツが多い場合はルイスだ。そういうノイズが少なかったらレインボだ。

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《Midas Touch》に関する裏話はありますか?

 《The Midas Touch》はWizardo Recordsが最初に作ったレコードの1つだ。リトル・ダブが作ったフロイドのブートレッグ《Omayyad》の注文が、サンフランシスコの問屋から大量に入った時に、仲買人をやるより自分のバージョンを作ったほうが利益が大きいので、そうしたんだ。1曲追加しておくとか、ちょっと変更を加えてね。インサートは「マッド・ジャック」がデザインしたものだ。オリジナルは、魔女のジョーンによると「魔法の力」を持つという「茶褐色」の紙に印刷した。ジャック&ジョーンは最もクリエイティヴな時であっても、安定性が完全に欠如してクレイジーな状態からわずか1歩しかこっち側にいなかった。オレはジミーと一緒にジョーンの祭壇で人身御供にされてしまうんじゃないかと戦々恐々としていた。

今でもコレクションの中にピンク・フロイドのブートレッグをたくさん持っているのですか?

 今でもフロイドのブートレッグを大量に抱えてるよ。絶対に手放すことはないだろうね。

レーベルの話に戻りましょう。あらゆるブートレッグ・レーベルの中で、Wizardoのリリースしたレコードのカタログが一番奥が深く、ボンゾ・ドッグやジェントル・ジャイアントといった知名度の点で劣って、売り上げが見込めそうにないバンドのブートレッグまで含まれています。これって、Wizardoがリリースしたアルバムはあなたの音楽への愛情を表現したもので、他の一部のブートレッガーがそうだったような、動機の100%が金儲けというわけではなかったってことですね。

 アナログ・ブートレッグの時代には金儲けが全てじゃなくて、てっぺんから下っ端まで腐りきってる業界で楽しくやるのが主眼だった。イギリスではどうだったか知らないけど、古き良きUSAでは、メジャー・レーベルこそがレコード業界最大の海賊だった。CEOから倉庫の掃除係まで、あらゆる連中がアーティストから利益をぼったくってたんだから。メジャーなレコード会社が「オーバー・ラン」をやってたまさにその工場を、オレは自分のレコードをプレスするのに使ってたんだ。「オーバー・ラン」ていうのは帳簿外でレコードを製造することだ。「宣伝用」と称してね。そうすれば、アーティストに印税を払わなくて済むんだよ。もちろん、そこで作ったレコードは全部、販売するんだ。大手レーベルは、アーティストをあれやこれやの手を使って騙して、帳簿外で何十億ドルっていう利益を出していた。こうした笑っちゃう手口の話をオレはたくさん聞いた。リチャード・トンプソンから直接言われたことがあるよ。キャピトルからよりWizardoからレコードを出したほうが儲かっただろうなあって。昔は楽しかったよ。それに対して、後に韓国でCDを製造するようになった時には、金は入ってきたけど楽しさはなかった。滅茶苦茶な時代だったけど、思い出話をするならアナログ・ブートレッグ時代に限るよ。
 オレはあまり知られてないアーティストをブートレッグを通して宣伝するのが好きだった。そうしたアーティストたちも(たいていは)ブートレッグが出ることを気に入っていた。連中はブートレッグをヒップ[カッコいい]な要因だと思ってたのさ。ジャン&ディーン、キャプテン・ビーフハート、カーヴド・エア、リトル・リチャードをはじめ、他の多くのアーティストがオレに感謝の気持ちを述べてたよ。ディーンはロングビーチのレコード店でジャン&ディーンのブートレッグを見つけて超興奮したんで、自分でブートレッグを作り始めたくらいだ。ローリング・ストーンズもブートレッグが好きみたいだね。
 1977年には、短期間だけど、スキーキー・ボーイとオレはビル・ワイマンの私的コレクション用にブートレッグを集めてあげたことがあった。ビルはローリング・ストーンズのものだけでなく、あらゆるブートレッグを欲しがったんで、それこそありったけあげたよ。そもそも、これはスキーキー・ボーイがボビー・キーズとストーンズのテープをトレードしてたことがきっかけなんだ。ボビー・キーズは1973年のヨーロッパ・ツアーでサックスをプレイしていて、演奏に参加したコンサートのオーディエンス・レコーディングを集めてたんだ。特に「オーディエンス・レコーディング」を集めてたっていうのがイカしてると思ったね。ボビーは自分がアクセス出来るオフィシャル・レコーディングには殆ど入ってない観客の反応を聞きたかったんだ。スキーキー・ボーイはストーンズの大ファンで、テープのトレードもやってたから、オレたちは1973年ツアーのレコーディングを大量に持っていた。酷い音質のものが大半だったが、そんなことはどうでもよく、ボビーは全部を欲しがった。
 オレたちはハリウッドのAIRサウンドステージでボビーに会う手筈を整えた。彼はレオ・セイヤーの次のツアーのリハーサルに参加してたので、ランチブレイク中に会った。とてもいい人だった。オレたちはボビーが欲しがってた1973年のショウが入ってる約10本のカセットを持参した。ボビーはポケットに手を突っ込んで財布を取り出して、満面に笑みをたたえながら言った。「いくら払えばいいのかな?」 オレたちがお金なんかいりませんよと言ったら、ボビーからとても感謝された。リハーサルを見ていきたい?って訊かれたが、スキーキー・ボーイもオレもレオ・セイヤーのファンじゃなかったんで、丁重に断ってその場を離れた。
 ボビーはオレたちのことをビル・ワイマンに話したんだと思う。というのも、AIRで会ってから間もなくして、スキーキー・ボーイのところに何者かから(ビル本人ではないと思う)、ビルのコレクション用にブートレッグを調達することは出来るかという問い合わせがあったからだ。オレたちはサンタモニカにあるパブリシストのオフィスに何度か大量のブートレッグを届けた。ブートレッグを受付の人に渡すと、いつも誠心誠意対応してくれて、ビルはレコードを大変気に入ってますと言ってくれたが、それ以上の情報はくれなかった。サンタモニカまでドライヴしても受付係にしか会えないのでそのうち飽きてしまい、ビルのためにブートレッグを調達するのをやめてしまった。オレの記憶が正しければ、スキーキー・ボーイはビルから礼状をもらったと思う。
 お前らはブートレッガーにぼったくられてるってレーベルはアーティストに言う。レーベルはFBIにも同じことを言った。確かにアーティストからぼったくってはいたが、ブートレッグなんてバケツ1杯の水の中の小さな1滴だった。レーベルが「カットアウト盤」や「プロモーション盤」を利用してやってたものが本物の盗みだ。さっきも言った通り、「正規」のレコード業界は頭のてっぺんから爪先まで腐っていた。皆が金を儲けてたが、アーティストは行列の一番最後に並んでる存在で、パイ全体のうち非常に小さな取り分しかもらえなかった。頭のいいレコーディング・アーティストは、ブートレッグが自分の食い扶持にとって脅威でも何でもないことをわかっていて、最もハードコアなファンに対する追加の宣伝として見ていた。ミックかキースに訊いてみるといい。


   




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2020年11月22日

Wizardo回想録&インタビュー:第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?こちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち


聞き手:スティーヴ・アンダーソン



あなたが昔、利用していた他の工場についても教えてください。レインボ・レコードとか。

 レインボ・レコードはサンタモニカにあった。フリーウェイ10号線を降りて、フリーウェイ5号線から海まで延々と続く工場の建物の間に、レインボ・レコードがあった。サンタモニカ・シヴィック・センターから遠くはなかったので、そこでコンサートをたくさん録音しては、後になってそのレコードをレインボでプレスした。この工場はシンダーブロック[石炭殻を用いた軽量ブロック]で作られた大きな2階建てのビルの中にあった。このビルは恐らく1950年代に建てられたものだと思うけど、レコードのプレス機はもっと新しくて、1960年代に製造されたものだった。手動の機械だったが、とても高音質のレコードが出来た。

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 1970年代のレインボ・レコードの一番いいところが駐車場だ。南カリフォルニアのあらゆる都市と同じく、サンタモニカも自動車が多過ぎて駐車スペースが足りなかったんだが、レインボは工場のビルの屋上に駐車場を作ることでこの問題を解決していた。急なドライヴウェイを上がって屋上に出ると、そこはだだっ広い平らな屋根で、ここにとめてくださいなんていうスペースの指示はなかった。車をとめた後、駐車場の一番北のところまで歩いて行き、そこにある小さな建物のドアから中に入ると急な階段があって、それをおりるとレインボのロビーがあった。
 レインボの屋上はペンキで駐車スペースが記されてはいなかったが、どこにでも車をとめていいわけではなかった。1960年代後半に、グレン・キャンベルは『ザ・グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』というテレビ番組を持っていた。放送時間は忘れてしまったが、何らかの理由で、毎回、ショウの最後にはレインボ・レコードの屋根のシーンが流れた。屋根のあちこちにセットや背景幕、支柱があったので、グレン・キャンベル・ショウの中を縫うように進んで車をとめなければならなかった。現実世界とは思えない。ディズニーランドの乗り物のようだった。オレは8mmカメラを持って来て、ラリーが屋上のセットのまわりを走ってる映画を作った。そのフィルム、今はどこにあるのかなあ?
 以前、レコード産業は腐ってたって話をしたけど、レインボも他社と同様、腐っていた。つまり、皆が腐ってたってことだ。全員がだ。ブートレッグ(と音楽の海賊行為)の歴史の中でレインボがどんな立場だったかがよくわかる話を2つしよう。
 「正規の」レコード会社が契約アーティストから利益をぼったくる最たるやり方の1つが、「プロモーション盤」や「カットアウト盤」を作ることだ。ラジオ局や評論家に送られるプロモーション用レコードからは、アーティストは印税をもらえない。同じく、在庫過剰のため、ジャケットを「カットアウト」した上で割引価格で小売り業者に売られるレコードからも、アーティストは印税をもらえない。帳簿外で独立系のプレス工場にカットアウト盤やプロモ盤を作らせれば莫大な利益を上げられることにレコード会社が気づくまで、長い時間はかからなかった。つまり、こういうカラクリがあるんだよ。あなたがレコード会社だとしよう。そして、キャット・スティーヴンスのような売れっ子アーティストを抱えている。そいつには《Tea For The Tillerman》のような大ヒット・アルバムがある。10万枚売れた時点で、キャト・スティーヴンスに告げるんだ。売れ行きが止まっちゃったので、そろそろ在庫はカットアウトにして値下げして売って、倉庫のスペースをあけましょうって。でも、そんなの嘘だ。レコードはまだ売れている。そんな時に、レインボに行ってさらに10万枚製造して、カットアウトとして問屋に売るんだ。レコード会社はキャット・スティーヴンスに印税を払わないから、同じくらい儲かる。税金もなし。しかも、帳簿外で。レコードが本当に売れなくなるまでこのプロセスを繰り返す。キャット・スティーヴンスの場合、レコードが売れなくなるなんてことはない。レインボはもっぱらキャピトルのためにカットアウト盤やプロモーション盤を製造して経営を続けてきた。1970年代半ばにキャピトルはビートルズのベスト盤《Rock'N'Roll Music》をリリースした。その頃、レインボがオレのメタル・パーツを誤って破損してしまったため、弁償したいと言ってきたことがあった。オレは現金ではなく、ビートルズのニュー・アルバムを2箱分もらったよ。中のアルバムは全部、ジャケットに「Promotional - Not For Sale」っていうスタンプが押してあった。キャピトルがやってるのと同じように、オレもそれを売り払った。
 ジミー・マディンがオレのブートレッグ・パートナーだった頃、ジミーは全タイトルを1つのプレス工場で製造して、経営体制を集中させようとした。ジミーはアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ第3回を参照のこと]の部長をしてた頃からレインボ・レコードのことを知ってたので、ビジネス契約の話し合いを行なうために、レインボの社長のジャック・ブラウンとのミーティングの約束を取り付けてくれと言ってきた。オレはこの件に大きな懸念を抱いていた。いろんなブートレッガーがレインボでレコードをプレスしてるのは知ってたが、その殆どは「1回限り」であって、1タイトル作ったら次は別の工場に行くという具合だった。新たにアルバムを30枚も持ってって、レインボ・レコードで大規模なブートレッグの製造を行ないたいと社長に告げるとなると、話は違うだろう。ドアの外に放り出されることになるかもとオレは思ったが、とにかくミーティングの約束は取り付けた。財布の紐を握ってたのはジミーだったので、彼が勧める通りにやってみることにした。
 ジミーはオレよりかなり年上で、グレイの髪がバーコード状態になってたが、着てるスーツが古くてシワがあっても堂々としていた。ジャックとミーティングをするためにレインボに到着した時にも、ジミーはそういう格好をしていた。案内された2階にあるジャックの巨大なオフィスには、1950年代にレインボが発足した当時からの調度品があった。巨大な木製の机の向こうで葉巻を吹かしてる大柄の男がジャックだった。オレたちは彼の机の前にある人工皮革のソファーに腰を下ろすように言われた。既にビビッてはオレは、緊張しながら口上を開始した。私どもは小さなレコード会社でして、現在、まだ約30タイトルしかリリースしていませんが、最新の設備があって、料金が手頃なプレス工場を探しています…と。オレのプレゼンは順調に進み、ジャックも相づちを打ちながらオレの話を聞いていた。と、突然、オレの話を遮って質問してきた。「リリースしたのはどんな種類のレコードですか?」と。気まずい沈黙。ゲーム終了って思ってジミーのほうを見ると、こいつはジャックに向かっていたって冷静に言った。「今更、どうしてそんなこと質問するんだよ?」 またまた長い沈黙。オレはジャックがすぐにでも警察に電話をかけるんじゃないかと思ったが、彼は笑い始めた。すると、ジミーも笑い始めた。オレも笑い始めた。ジャックは葉巻をワイルドに振りながら大声で笑った。「オレっていったい何を考えてたんだ?」とでも言うかのように。オレたちはクスクス笑いながら握手をした。そして、Wizardoはまさにその翌日にはレインボでレコードのプレスを開始した。レインボとオレたちは、その後、何年間も、良いビジネス関係を維持した。

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あなたは当時、大量のブートレッグ・コレクションを持っていたそうですが、好きなバンドのブートレッグだけを買っていたのですか? アーティストは関係なく、持っていないものなら何でも買っていたのですか? ビニールの色やレーベルの違いも重要だったのですか? つまり、多くのコレクターと同様、あらゆるバージョンを揃えるために、同じ内容のブートレッグを何枚も買っていたのですか? それとも、タイトルごとに1枚あれば満足だったのですか? 『Hot Wacks』を抜かしたら、あなたは世界初のハードコアなブートレッグ・コレクターなので、どういう方針で収集していたのか、是非聞かせて欲しいのですが…。

 ラリーとオレがブートレッグを集め始めたのは《Get Back To Toronto》を手にした日だね。それから1週間もしないうちに、お気に入りのアングラFM局 (KYMS)が《LIVEr Than You'll Ever Be》を流したんだ。DJが「スーパーマーケットの裏や薄暗い路地でしか買えないブートレッグ・レコードの1つです」って話してたよ。オレたちは虜になった。ラリーもオレも、地元のセイフウェイ[スーパーマーケット・チェーン]の裏ではブートレッグは手に入らないことは知っていた。それ以外のことは全然わからなかった。ウィンの楽器店には《Get Back To Toronto》しか置いてなかった。言うまでもなく、大きなデパートのレコード売場のカウンターにはブートレッグは置いてなかった。なので、オレンジ・カウンティー中にどんどん出現してるカラフルなヘッドショップや小さな独立系のレコード店なら置いてあるかもと考えたんだが、ラリーとオレの暮らすタスティンはそういう店は皆無だった。長髪や音楽、レコード、その他の共産主義的活動は、タスティンにおいては御法度だった。12歳の時、タスティンの警官から『ライ麦畑でつかまえて』を没収されたことがある。「キミがポルノを読んでるのを、お父さん、お母さんはご存じのかな?」って怒り心頭だった。トホホ。ちょっと脱線しちゃったね。
 ラリーもオレも自動車を運転出来る年齢じゃなかったから、なかなか見つからないブートレッグ・レコードを探して、自転車のペダルを必死にこいで走り回らなければならなかった。楽しかったなあ。フランス製の10段変速の自転車を持っていて、お宝を見つけたらそれを入れるためのバックパックを背負ってた。自転車で行ける限りの、あらゆるサイケデリックなレコード店やヘッドショップをあたったよ。こうした遠出のおかげで、最初のブートレッグは全部、手に入れることが出来た。《LIVEr》《Great White Wonder》《Isle of Wight》など、見つけたものは全部買った。こうした非正規盤には驚き、魅了された。全部、持ってなきゃいけないと感じてた。一生治らない中毒だ。
 オレのブートレッグ・コレクションは初版が中心だった。全アーティストが対象だった。このビジネスの中にいたので、作ってる奴から新譜を直接手に入れるのは簡単だった。殆どのリイシューやビニールの色違いには関心がなかった。最初にリリースされたバージョンのみを集めていた。ヨーロッパ製のブートレッグについては、リカルドとフェリーっていう2人のオランダ人に頼っていた。彼らがいなかったら入手困難だったものを、たくさんオレに流してくれた。アンドレアは時々ヨーロッパに行くたびに、驚きの土産を持ち帰った。あるイタリアのブートレッガーの全カタログをお土産に持って帰って来たこともあった。存在してるとは知らなかったものをね。当時、ブートレッグを収集する際、「本拠地」にいるっていう強みも確かにあっただろう。今でもこうしたブートレッグは全部持ってるよ。
 ブートレッグ界の初期に活躍してた無名のヒーローの中で、マルコム・Mはオレの一番のお気に入りだ。マルコムはケンの友人で、オレらがロングビーチ大学[カリフォルニア州立大学ロングビーチ校]に通ってた頃に会った。マルコムがブートレッグ・ビジネスを始めたのは、たぶん、そういう人間関係があったせいだと思う。バッファロー・スプリングフィールドの《Roots》、ジェファーソン・エアプレインの《Winterland》、グレイトフル・デッドの《Fillmore》など、オレが大好きだったアルバムをたくさん作った。マイケルはルイスのプレスは糞だと思ってたので、自分の出すレコードの殆どをレインボで製造していた。マルコムは6フィート[180cm]を超える高身長で、立派なもみあげとオシャレな口ひげを持っていた。カールした髪を前は短く、後ろは長くしていて、頭頂部は薄かった。マイケルは、オレにとっては、1970年代のカッコ良さの頂点だった。
 ブートレッガーは皆、自分のことをクールだと思っていた。ブートレッガーであること自体がとにかくクールなんだからって理由でね。でも、全てのブートレッガーの中でもマルコムは一番カッコよかった。しゃべり方がカッコよかった。ジェイムズ・キャグニーのスタイルで、口の半分でしゃべるんだけど、こいつは流暢に自然に首尾一貫してやっていた。先祖代々、そういう血が流れてるんじゃないかなって思ったくらいさ。でも、お袋さんに会ったら、ごく普通のしゃべり方だったので、それはマルコムだけのものだった。しかも、素敵だった。マルコムはとても興味深い奴で、こいつの声だったら何時間でも聞いていられる。
 マルコムはロングビーチの、ケンとヴェスタの家から遠くないところにアパートメントを持っていた。オレはマルコムのところに遊びに行くのが好きだった。それもこれも、こいつが一番カッコいいブートレッガーだったからなのだが、最大の理由はブートレッグ・コレクターの第1号だったらだ。リビングルームはこいつのブートレッグ・コレクションでいっぱいだった。棚や箱に入りきらない大量のレコードが床の上にいくつもの長い列を作っていた。そんなのは見たことがない。オレはこうしたレコードをぱらぱらめくって、見たことのない凄いブートレッグを見つけるのが好きだった。マルコムは超カッコいい奴だった。ある日、オレが部屋の隅にある「新入荷」の山を忙しくチェックしてると、こいつは何気なく「帰宅する時、封筒に入った金をレコードのどれかに隠しといたんだけど、見つからないんだよ。見つけたら教えてくれ」なんて言う。冗談を言ってるんだと思ってたのだが、約20分後、《Ballsy Blues》というタイトルのジャニス・ジョップリンのブートレッグを見つけ、それを拾い上げたら封筒が落ちて、100ドル札70枚が床に散らばった。最近では7,000ドルなんてそんなに大金ではないが、あの時は、自宅のリビングで7,000ドルもレコードの中に入れてなくすなんて相当ビックリした。それもマイケルのカッコいいところだった。
 たいていのブートレッガーと同様、マルコムも強い冒険心の持ち主だった。冒険心は基本的には持ってるといい性質だが、マイナス面は、慎重さを欠いてる場合、人生の悪い選択を招いてしまいかねないってことだ。オレを含む殆どのブートレッガーと同じく、マルコムもマルコムなりに人生の選択を誤ることがあった。こいつの人生はジェットコースターだった。ある週、金持ちだったと思うと、次の週は乞食だった。でも、マルコムはいつもカッコよかった。

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ある時期、Wizardoのインサートは見た目がだいたい同じになりました。誰のせいですか?

 ジャケットのあのスタイルのアートワークは、皆のジャックとジョーンが作ったんだ。こいつらはハリウッドの芸能人の取り巻きで、皆の知り合いのようだった。ジョーンは魔女で、ジャックはさすらいのタクシー運転手(当然もぐり)で、チャールズ・マンソンがマリファナを宅配をやる時には、こいつの車によく乗っていた。ジャックとジョーンは古いセシル・B・デミル監督のの防音スタジオで結婚式を挙げた。オレがこいつらと会ったのは、ハリウッドの古株、ジミー・マディンを通してだった。ジミーは長年、Wizardoの隠れたパートナーを務めてくれた人物だ。1950年代には自分のテレビ番組を持ってる有名なサックスプレイヤーで、1960年代にはアメリカン・インターナショナルの音楽部長となり、その後、ナイトクラブのオーナーとなった。何かの風の吹き回しでビッグ・ダブと知り合いになり、ブートレッグの製造に興味を示したのだが、ビッグ・ダブの息子のリトル・ダブはジミーと関係を持とうとしなかったので、オレのところに電話をかけてきて、財政面の支援者は必要ないかと訊いた。その後のことは、俗に言う、皆さんご存じの通りだ。最初の10枚くらいをリリースした後、ジミーもオレもジャック&ジョーンの屁人ぶりにウンザリして、電話番号も変えて、インサートのアートワークも変えたんだ。
 インサート作りに関しては、ブートレッガー全員が超怠け者だが、一番怠け者なのがオレだった。何らかの理由で、インサートはさっさと作られることが多かった。「やべえ。ツェッペリンのブートレッグを明日出荷しなきゃいけないのに、インサートを印刷するのを忘れてた」とかさ。その結果、オレのブリーフケースには、方眼紙とゴム糊、ペンナイフ、擦ると下の紙に文字が移るレタリング・シート、雑誌から切り取った写真やらがわんさか入っていた。印刷機の前でインサートをこしらえるためにだ。雑誌からは写真と一緒に、インサート用にリサイクル出来そうなグラフィック・アートやテキストも切り取っておいた。この好例がパティー・スミスのブートレッグ《Turn It Up》だ。「Turn It Up」の文字は『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたマクセルの広告からパクったものだ。Wizardoのブートレッグの多くのインサートは『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたグラフィックからパクったものを使っている。あの頃のオレがどんなものを読んでたか、バレてしまうなあ。

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 ハイスクール時代、オレにはスービー(SueBee)っていうブロンド美人のガールフレンドがいた。蜂蜜のようにスウィートだからスービーだったのだが、彼女は3人の友達と一緒にザ・ドゥービー・シスターズというアカペラ・グループをやっていた。面白いことに、彼女らがこの名前を選んだのは、もうちょっと有名なザ・ドゥービー・ブラザーズというグループの活躍がオレの耳に届くようになる数年前のことだった。シスターズは時代を先取りしてたと言える。このグループはしばしば、Bトフ・バンドと一緒に歌ってたが、そのことで彼女らを責めないでくれ。ザ・ドゥービー・シスターズの他のメンバー、マーシー・ブロウスタインも、オレがタスティンの実家で暮らしてた頃のご近所さんだ。


   




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2020年11月16日

Wizardo回想録&インタビュー:第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 ここからは、The Pink Floyd Vinyl Bootleg Guide主宰、スティーヴ・アンダーソンがジョン・ウィザードの回想録を読んだ上で、さらに詳しいことを訊いたインタビューです。

カート・グレムザーが出した『Hot Wacks』の最初のエディション(2分冊)は、あなたが自分の持っているコレクションにさまざまなコメントを付けて整理したリストが元になってると言われていますが、本当にそうなんですか?

 カートは付き合いがあった奴のうち、オレから大切なものをぼったくった唯一の人間だ。オレは1967年12月にCBSに送られた『Magical Mystery Tour』の16mmプリントを持っていた。ジミーが放送ネットワークの誰かから直接もらったもので、CBSのリールに巻かれていた。当時は上質なプリントは手に入らなかったんだが、それをカートにぼったくられた。こいつはオレのデータベースの初期コピーを入手すべく、アンドレアも騙している。それもこの男にぼったくられた。毒舌だからこんなこと言ってるんじゃない。今やカナダ人全員が嫌いだ。カートはとんだ糞野郎だった。そもそも、こいつにもこいつのレーベルも眼中になんてなかったし。
 2年前、アンドレアは、家の掃除をしてる時に、オレがタイプライターで書いたブートレッグ・データベースがたくさん挟まってるバインダーを発見した。彼女がカートに渡した2冊のバインダーの1つのコピーだ。彼女が渡す前にコピーを取っておいたなんて、全く知らなかった。とにかく、出て来たのは1冊だけだった。もう1冊はなくしてしまったようだ。ある晩、オレが招待したショウに、アンドレアはそれを持ってやって来て、「バインダーは返したほうがいいのかしら?」と言った。オレは「その必要はない」と答えたのだが、とにかく彼女からそれを渡されたのでバインダーは家に持ち帰った。ジーン[Wizardoの現在の奥さん?]がそれを見つけたら、キミに送るテープと一緒に箱の中に入れておこう。それがあれば、どんなものを元ネタとして入手して『Hot Wacks』を作ったのかわかるだろう。
 カートは『Hot Wacks』の1冊の出版準備をしてる時に、厚かましくも、アンドレアに提供させた2冊のバインダーには載ってない「追加情報はないかなあ」なんてオレに訊いてきた。オレは「あるぜ!」と答え、架空のタイトル10枚のリストを渡した。全部は覚えてないのだが、1つはアリス・クーパーのボルティモア公演だった。カートはリスト全部を掲載した。こいつに偽の情報を流したのはオレひとりだけではなかった。『Hot Wacks』はガイドブックとして利用してるコレクターを欲求不満にさせる内容だった。そもそも、こんな奴とつき合うんじゃなかったと思うが、ジミーからもらった『Magical Mystery Tour』のネットワーク用プリントをこいつにぼったくられたことには、腹が立ってしかたない。

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それを考えると、カートはどうやって《Libest Spacement Monitor》をあなたのプレートを使って自分のK&Sレーベルから再発することが出来たのでしょうか? どうやって、たくさんのTMOQのタイトルを「オリジナル・プレート」から再発することが出来たのでしょう? こんなことをされて、あなたは嬉しく思ってなんていないでしょう。

 「ルイス・レコード」工場の輝かしい歴史は、1969年にケンとリトル・ダブが《Great White Wonder》《LIVEr Than You'll Ever Be》を製造した時に始まった。ブートレッグとしては史上初ではないが(オペラのブートレッグは何十年も前からここで製造されていた)、有名になったロック・ブートレッグはこれらが初だった。ケンから聞いたのだが、あの頃は1枚あたり15セントのプレス代を払ってたらしい。こうしたレコードからオリジナルのTMQレーベルや、ケンがリトル・ダブと袂を分かってから始めたファニー・ピッグが誕生した。参考までに話しておくと、当時、オリジナルのTrade Mark of Qualityのレコードは常にTMQと言われていた。「TMOQ」ではない。一般的に、前置詞「of」は頭文字化されない。TMOQと呼び始めたのはカナダの間抜け野郎のカートだ。ケンがリトル・ダブ抜きでレコードを作り始めた際、彼のレーベルはファニー・ピッグと呼ばれた。ビル[ウィリアム・スタウト。こちらのインタビューも参照のこと]が描いたブタのロゴを使っていたからだ。また、ダブは2人いたので(マイケルとその親父さん)、区別するためにマイケルのほうはいつも「リトル・ダブ」と呼ばれていた。オレはリトル・ダブよりもビッグ・ダブのほうとビジネスをやっていた。ビッグ・ダブはとてもいい人で、オレは彼から変なユーモアのセンスを評価されて「馬の首」と呼ばれていた。ケンはリトル・ダブと袂を分かった後、ルイス・レコードからメタル・パーツを引き上げて、もっと設備の整ったプレス工場に持って行ったが、リトル・ダブはTMQのオリジナル・スタンパーとともにルイスを使い続けた。
 リトル・ダブは本質的には才能豊かなアーティストだった。音楽のほうもなかなかだった。オレは彼の描いた絵の1つを自分のアパートメントに長年飾っていた。とても面白い人物だったのだが、当時の殆ど全てのブートレッガーと同じく、リトル・ダブも財政面で何度も浮き沈みを経験した。ケンからよく、こう言われた:リトル・ダブとオレには共通点がある。どっちもキャッシュ・フローと利益をしっかり区別することが出来ない。ケンは正しかった。ケンは常に正しかった。1975年までに、リトル・ダブは何度も大金を失った(彼はまず第一にアーティストなのだ)。最後にひと仕事(ストーンズの2枚組アルバム)をした後、ルイス・レコードから永久に去った。オリジナルTMQのメタル・パーツを全部残して。大借金も残して。テッド・ルイスが私立探偵を雇ってリトル・ダブを追わせるほど多額の借金だった。調査を始めて数週間後、探偵はダブ・テイラーを発見したとテッドに報告したが、どちらにとっても不運なことに、連中が居所を突き止めたというダブ・テイラーはアメリカで活躍する高齢の俳優だった。もちろん、自分に対してこんな告発がなされてることに愉快なはずがない。
 ルイス・レコードは引退した俳優から借金を回収することが出来るはずもなく、本物のリトル・ダブを見つけることも出来ないので、テッドは別の方法で損失を埋め合わせることを考えた。リトル・ダブが残していったメタル・パーツを「家財」としたのだ。つまり、普段、ルイス・レコードでレコードをプレスしている顧客がリトル・ダブのスタンパーを使ってレコードをプレスしたい場合、それが可能だったということだ。この頃には、賢いブートレッガーは皆、ルイス・レコードを見限って、もっと設備の良い、安全な工場に移っていた。こうした状況のおかげで、カートのような連中でも、ダブが昔に使ってたスタンパーからレコードを作ることが出来た。こうして作られたレコードは酷い音だった。ルイス・レコードで作ったレコードは全部、糞だった。その理由は後で話すが、古いスタンパーを使ってプレスしたレコードは本当に質が悪かった。
 オレのピンク・フロイドのスタンパーがどういう経緯でルイス・レコードに渡ったのかは本当に謎だ。あのレコードはルイスでプレスしてないと思うのだが、もしかしたらそうしたのかなあ? プレスの注文を出したいのに、レインボが忙し過ぎるなんてことがあったのなら、ルイスに持ってって、出て行く時にスタンパーを持ち帰るのを忘れてしまったのかもしれない。カートはそれを発見して、レコードを製造したのだろうか。こいつとK&Sのレコードはブートレッグ業界の汚点だ。「落伍者」でしかない。誰からも語られず、顧みられることもない。こんな奴、仲間じゃない。こいつはルイス・レコードやブートレッグ全般の面白い歴史の中の、小さくて目立たない、つまらない脚注だ。

ルイス・レコードについて私たちに詳しい話を聞かせてください。

 ルイス・レコード製造工場はカリフォルニア州イングルウッドにあった。そこは非常に治安が悪い地域だった。古い2.5階建ての、壁が化粧漆喰のビルがプレス工場になったのは、1950年代前半のことだった。その後20年間、何も変わらなかった。昔ながらの手動プレス。壁の汚れ。同じ従業員。絶頂期には、ルイスはキャピトル・レコードの子会社であるファンタジー・レコードが自分の工場ではプレスしきれない分を、ここがプレスしていた。大量のファンタジーのメタル・パーツが工場の暗くて埃っぽい片隅にしまわれてるのを、オレは一度見たことがある。その中には、発売中止になったジョーン・バエズのレアなアルバムのスタンパーもあった。
 ルイス・レコードには100万もの素敵な物語がある。そこで行なわれていたモンキー・ビジネスについて丸々1冊の本が書けるくらいだ。ルイス・レコードの屋上には小さなビルがあった。2階のそのまた上に付け足されたそこは、元は倉庫として使われてたが、もう何年も空っぽのままだった。ある日、テッドから訊かれた。ヘルズ・エンジェルズの南カリフォルニア支部に貸すのはどうかなあ?って。オレは「気でも狂ったか? 絶対にやめろ!」って言ったのだが、テッドは貸してしまった。すると、24時間もしないうちに、小さなビルは火災を起こして崩れ、屋根に大きな穴があき、そこからひとりのメンバーがテッドの上に落ちて来た。テッドはその時、2階で寝てたのだが、後になってからオレに言った。「そいつがオレのケンタッキー・フライド・チキンの上に落ちて来なくてよかったよ」 テッドはチキンが大好きだった。酔っぱらいながらフラフラと下の工場に降りて来て、上でチキンを食べようと、オレを誘ってくれたことがあったが、オレは死ぬほど怖くて、行かない理由をでっち上げた。オレがテッドと、この工場がブートレッグの歴史に果たした役割を評価することが出来るようになったのは、後になってからのことだった。こんな時代、2度と繰り返すことはないだろう。
 テッド・ルイスはいつも、3日間のドンチャン騒ぎを終えたばかりのような様子だった。パジャマとバスローブ以外の服を着てるのは見たことがないと思う。顔にはいつも、まるで階段から落ちたかのような謎の傷や打撲傷があったのだが、本当にそうだったのかもしれない。当時のテッドは、シラフでない状態が生活の大部分を占めてたので。完全にイッっちゃってる状態で、こいつの頭の中でのたうち回ってる理解不能な話題についてオレと会話することが何度もあった。会話はいつもテッドが「そろそろ横にならなきゃ」って言って終わった。 テッドのことを思うと、スパーン・ムーヴィー・ランチのオーナーでマンソン・ファミリーを入れちゃった頭のおかしい奴も思い出す。どっちも、自分のまわりで何が起こってるのか、自分が歴史の中でどんな役回りを演じてるのかわかってなかった。
 テッドの頭の中は階段を避けることと、暇さえあったら横になることでいっぱいだったので、ルイス・レコードの経営に実質的に携わってたのはケイ・ジョーンズで、工場を稼働させてたのはムンレイというクレイジーな中国人だった。両方とも漫画本から飛び出して来たような人物で、ルイス・レコードには完璧にフィットしていた。ケイはチェーン・スモーカーで、吠えてばかりいる犬のような背の低い女性だったのだが、オレは彼女からいつも「ハニー」と呼ばれていた。年齢は不詳だったが、たぶん70代だったんじゃなかろうか。ケイはいつもブーブー言いながら、料金の請求や経理全般を切り盛りしていた。中でも、最も重要なのが、彼女がツケの管理もやってるってことだった。工場のルールとしてはツケはきかないことになってたのだが、ケイに気に入られた場合には、その金額は無制限だった。少なくとも、リトル・ダブがずらかるまでは。ある時点で、オレは当時のパートナーのスキーキー・ボーイと一緒に、Wizardo Recordsの拠点をハワイに移した。レコードを作るために月に2度ほどカリフォルニアに戻ってたのだが、その時もまだルイスを使うこともあった。どういう状況だったかは忘れてしまったが、不測の事態が起こって、払える金額分以上の枚数を作る必要があったので、手っ取り早く何かをやって、ケイのご厚意を賜る必要があった。オレがハワイで暮らしていて、レコードを作るために時々戻って来てるのを、彼女は知っていた。そこで、ルイスがあるのと同じストリートに小さなメキシコ系の食料品店があったので、そこに立ち寄ってパイナップルを購入して、ケイの事務所に持参して言った。「ハワイからお土産を持って来ましたよ!」 すると、ケイは「まあ、ハニー、そんなことしなくてもいいのに」と言った。これでツケ払いはOKになった。






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2020年11月13日

Wizardo回想録&インタビュー:第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI



聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 キム・フォウリーは魅力的な男だ。身長が6フィート[180cm]を超えてたこいつは、自分は背が高過ぎてロックスターには向いてないと思ってはいたが、その道を諦めてたわけではない。1958年、キムはジャン&ディーンと同じ高校に通っていた。このデュオが〈Jennie Lee〉で初のヒットを飛ばした時、キムは自分にもヒット・レコードを作ることが出来るはずだと感じた。だって、ジャン&ディーンに出来ることなんだから(大きく健康的なエゴは、常に、キムのオーバーサイズの人格の大きな一部だった)。そして、笑ってしまうことに、キムは実際、同年に、ジャン&ディーンよりも大きなヒット・レコードを作った。キムのグループ、ザ・ハリウッド・アーガイルズがリリースした〈Alley Oop〉というノヴェルティー・ソングは、同じ年に、チャートを第1位まで上昇したのだ。しかし、ジャン&ディーンはその後もヒット曲を出し続けることが出来たのだが、キム・フォウリーはその器ではなかった。
 キムは1960年代の大部分を再度ヒットを飛ばそうと企てて、うまくいったりいかなかったりしていたが、1970年代半ばには、他の才能を育てる「プロデューサー」と「プロモーター」の2役をこなすことに落ち着いていた。1960年代の女の子のバンド、ザ・シャングリラスがずっと大好きだったキムは、1970年代仕様にアップデートした「パンク」バージョンのバンドを作れば、同じくらい人気が出るかもと考え、3人の若い女性ミュージシャンを勧誘して、ハリウッドのスタジオでリハーサルをさせた。そうして誕生したのがザ・ランナウェイズだった。キムは彼女らを「スクール・ガール・ロックンロール」として宣伝し、マーキュリー・レコードとの契約を獲得した。何度かのメンバーチェンジを経た後にバンドは4人組となり、ファースト・シングル〈Cherry Bomb〉を宣伝するためにワールド・ツアーを開始した。バンドは驚くべき速さでトップに向かって突っ走り、キム・フォウリー本人も再び注目されるに至った。
 ランナウェイズはハリウッドのザ・スターウッドに出演予定だったので、オレは是非、このショウのブートレッグを出したいと思った。ということで、友人{ダチ}のマイクとオレはチケットを買った。マイクはベトナム戦争に行った兵役経験者で、並々ならぬレコード・コレクターだった。オレがジャン&ディーン・コレクションを築くのを助けてくれたのがこいつだった。とても穏和な性格で、どんな状況でも冷静でいることが出来た。しかも、とても屈強さも持っていた。つまり、こいつはブートレッグ作りには完璧な仲間で、こいつのいろんな才能のおかげでオレは何度助けられたかわからない。特に、ランナウェイズのコンサートでは。
 ランナウェイズのスターウッド公演は、まさにオレたちの予想通りの様相を呈していた。ソールドアウトの会場には客がスシ詰めになっていて、立ち見オンリーの客席の中は体と体が触れ合うくらいの混雑だった。録音するには非常に難しい状況だったが、マイクは体を張ってレコーダーとマイクロホンをしっかりと守ってくれた。ショウの最後に狂乱状態になるまでは。当時、ランナウェイズのコンサートは、フィナーレで血糊の入ったカプセルという小道具が登場した。こうした派手な演出のおかげで観客は狂乱状態になり、会場は大混乱。あちこちで体が宙を舞っていた。オレの周りでも大騒ぎが始まったと思った途端、自分の体が床から浮いたような感じがした。マイクが片方の手で群衆を押し退け、もう片方の手でオレをテーブルの上に載せてくれたのだ。オレは安全だったのだが、マイクロホンのケーブルはレコーダーから外れてしまった。ブートレッグにフィナーレが収録されてないのはこのせいなのだが、それ以外の点では、初期ランナウェイズのショウの熱気を捉えた非常にエキサイティングな記録となっている。

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 最初のランナウェイズのブートレッグが大成功したので、当然、2枚目も出すことになった。バンドの人気が高まると、コンサートを行なう会場も大きくなっていき、ランナウェイズは1977年にはサンタモニカ・シヴィック・センターでヘッドライン・ショウを行なうことになった。前座はチープ・トリックだ。マイクとオレはこのコンサートのチケットも買い、ランナウェイズとチープ・トリック、両方を録音した。この時も、ランナウェイズがブートレッグでも人気があることがわかった。オレのほうで商売が終わった後にメタル・パーツをアンドレアにあげたら、彼女は2つを合わせて2枚組バージョンを作ったが、こちらもファンには非常に好評だった。
 マイクとオレはランナウェイズが大好きで、コンサートを何度も見に行った。メンバーとは個人的は知り合いではなかったが、そうした状態も間もなく変わることになった。その年のもう少し後になって、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれたランナウェイズのコンサートで、全く予期せぬ驚きがあった。予期せぬ出来事が起きる時、それは時として超楽しい話になる。
 マイクから教えてもらったのだが、KROQラジオでランナウェイズのインタビューを聞いてたら、バンドがあのWizardo製ブートレッグ・レコードについて好意的な発言をしてたらしいのだ。インサートのアートワークについて、メンバーが冗談も言ってたとのことだった。「家出」した若い子が「ヤクを打ってる」という、ある意味、様式化した写真を『ペントハウス』誌からパクってジャケットに使ってたのだが、あるバンド・メンバーが、この写真がジョーン・ジェットに似てると言い出した。バンドがスターウッド公演を記録したブートレッグを認めてくれて、宣伝すらしてくれてたように思い、オレは大感激した。
 リヴァーサイドのレインクロス・スクエアでコンサートがあることを教えてくれたのもマイクだった。オレたちはチケットを買って、Wizardoからレコードを出すために3度目のライヴ・レコーディングをやろうと決めた。またメンバー・チェンジがあったこともマイクが教えてくれた。今度はベースが交代した。オレたちは会場に早く到着して、ウロウロ、ブラブラすることにした。マイクのホンダでリヴァーサイドに到着したのは、開演の2時間前だった。  
 到着して驚いたのだが、ここは約2,000席で、音響もバッチリの素敵なシアターだった。録音に適した一番いい場所を見つけようとウロウロしてると(自由席だったのだ)、マイクの姿がしばらく見えないなあと思ったら、「オール・アクセス」のバックステージ・パスをどこかから見つけて、2つ持って戻って来た。オレたちはただちにそれを服に貼り付けて、バックステージに向かった。
 腹が減ってたので、まずは軽食のサービスをチェックした。オレの記憶では、ご馳走が並べられてるというものではなく、ポテトチップやソフトドリンク等が置いてあるようなものだった。すると間もなく、バンドがもうすぐ到着するぞという声が聞こえてきたので、マイクとオレはバンドの会場入りを見ようと(新しいベース・プレイヤーも一目見るために)楽屋口に行った。オレたちはドアの隣の壁際を陣取った。数秒後、ドアが大きく開いて、まずはジョーン・ジェット、続いてサンディー・ウェスト、次にリタ・フォード、そして、新ベース・プレイヤーと思しきブロンド美女が入って来た。バンド・メンバーは皆、オレたちにもみくちゃにされながらも目は真っ直ぐ前を見て進んでたのだが、新人が立ち止まり、オレを見て、もう1度見て、言った。「ワオ、ジョンじゃないの。ここで何やってるのさ?」 オレは何が起こってるのかわからず狼狽した。オレはこの娘{こ}のことは知らないのに、この娘{こ}はオレのことを知ってるの? 予想外の事態だ。テープ・レコーダーとマイクロホンも持ってるので、本当にどうしよう? 幸い、マイクはオレが困った時に面倒を見てくれることに長けていた。この時は、素早くオレと謎の女の子の間に入ってくれた。オレがバックステージ・エリアからさっさと脱出しようとしてる時、マイクが「フレンドリー」な声で「ジョンを知ってるの?」と訊いてるのが聞こえた。オレは今起こったことを理解出来なかったが、マイクが真相を突き止めてくれるだろうと思っていた。その間、オレは安全な客席に向かって走っていた。群衆の中のほうが見つかりにくいと思ったのだ。

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 30分後、マイクがやっとオレのところに戻って来て、ビックリすることを話してくれた。オレたちはもう1度バックステージに行った。今度は、正式に招待されて。
 ラリーとオレがまだハイスクールに通ってた頃、ザ・Bトフ・バンドはさまざまな紆余曲折を経験した。いろんなミュージシャンや友人が臨時で入れ替わり立ち替わり参加したが、ラリーとオレは中心メンバーとしてだいたいいつもいた。ある時、「ギャラがでる仕事」が入ったので、きちんとりたリハーサルをやる必要が生じたのだが、ラリーの親父さん、お袋さんはこの目的のために、気前良くガレージを使わせてくれた。デイヴ・ジネットとかいう名のギタリストがドラマー(名前はとっくの昔に忘れてしまった)を連れて来た。ふたりはオレたちよりも年上で、本物のロックンローラーのように見えた。ドラマーはアフロヘアーに髭! オレたちは毎日、放課後にヒット曲の練習を始めた。新メンバーはラリーとオレが書いた曲を演奏するのも嫌がらなかったので、来{きた}るコンサートに向けてガレージで楽しく練習をした。Bトフ・バンドのショウの目玉は、皆に自分の楽器を持って来させて、客席で一緒に演奏してもらうことだったので、ギグによっては誰もが参加できる長いジャムが行なわれることがあった。ショウにチューバを持って来たツワモノもいた。そいつは最前列に陣取っていた。
 1960年代、70年代には、全ての町の全ての地区の全てのストリートに、ビッグになることを夢見る「ガレージ・バンド」が存在していた。タスティンの、ラリーん家{ち}のあるウッドローン・ストリートにはBトフ・バンドがあった。あらゆるガレージ・バンドと同様、オレたちもフル・ボリュームで練習した。何時間も。得意げに。
 ラリーにはウェンディーという妹がいた。時々、ウェンディーは彼女の友人{だち}と一緒に、オレたちがガレージで練習するのを見てたのだが、こいつらにはあまり注意を払ってなかった。だって、所詮、ラリーの妹の友達{だち}だろ…。こいつらの誰かと話をした記憶もない。「相手にするには幼すぎる」と思ってたのだろう。ウェンディーは少なくともしばらくの間は俳優の道に進み、映画『ポーキーズ』シリーズの1つに出演してると思う。彼女の友人{だち}のひとり、ヴィッキーも興味深いキャリアを歩んだ。
 その晩、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれるランナウェイズのコンサートで、マイクはオレを見つけると、新ベース・プレイヤーのヴィッキー・ティシュラーはウェンディー・フェインの友人{だち}だと教えてくれた。「ラリーん家{ち}のガレージでお前が練習してるのをよく見てたから、お前のことを覚えてるんだって」とマイクは語った。「だが、お前がブートレッガーだってことも知ってるぜ。お前がショウを録音するためにここに来てるってこともメンバー全員が知ってるんだけど、別にいいよだって」 それからマイクはこう続けた。「ヴィッキーの新しいステージ・ネームはヴィッキー・ブルーっていうんだ。お前にバックステージに来て欲しいってさ」 オレは何かの罠かもと考えた。控えめに言っても話が出来過ぎている。だが、オレはマイクを信頼し、こいつがその話を信じたのなら、チャンスに賭けてみる価値はあると思った。ということで、その晩、2度目となる、バックステージ訪問を行なった。
 マイクの言ってた話は正しかった。オレはヴィッキーのことがわからなかったが、ヴィッキーは確かにオレのことを覚えていた。何年も前に、ラリーん家{ち}のガレージでオレがBトフ・バンドの練習をしてるのを見たという話を、ヴィッキーはしてくれた。全てが超現実的に思え、なかなか理解することが出来なかった。ヴィッキーは、今はハリウッドで暮らしてるのと言い、オレに電話番号をくれた。ワオ! 超イカした出会いだぜ。マイクとオレはショウを録音するために客席に戻った。
 レインクロス・スクエア公演のライヴ・レコーディングは、Wizardoがリリースするランナウェイズのブートレッグの第3弾になる予定だったが、いろんな理由でそれは実現しなかった。しかし、マスタリングは済み、インサート・カバーのデザインも出来上がっていた。予定していたタイトルは「Stolen Property」[盗まれた財産]だった。使わなかったジャケット・デザインに関する裏話も面白いかもしれない。
 オレがヴィッキー・ブルーと会うよりずっと前、ジム・ウォッシュバーンはランナウェイズのオリジナル・ベーシスト、ミシェル・スティールと付き合っていた。彼女はバンドを早々にやめて、バングルズに参加した。賢い選択だと思う。詳しいことは忘れてしまったが、馴れ初めの話はジムから聞き、ミシェルのランナウェイズ時代の話は、ある晩、彼女のアパートメントで聞いた。ミシェルは思い出の品の入った箱を取り出して、その中身をオレに見せてくれたのだが、あるものがすぐに目に付いた。それは巨大な鮫の歯がついた銀のネックレスだった。それにまつわる話はあるのかと訊いたら、笑いながら言った。「それは私がバンドに入った日にシェリー・カリーから盗んだものよ。その日は、バンドを辞めようと思った日でもあるんだけど、単なる偶然の一致じゃないのよね」 彼女はオリジナル・トリオにシェリーが加わったばかりの頃の貴重な宣伝用写真を見せてくれた。ミシェルによると、ランナウェイズはこのラインナップではショウをやったこともレコーディングをやったこともないらしい。ウマが合わなかったんだと思う。キム・フォウリーも言っていた。「シェリーのエゴを扱うのは、犬がオレの顔に向かって小便をするがままにしとくようなもんだった」 つまり、そんなことがあったのだ。オレが何者だか知ってるミシェルは、Wizardoから発売予定の《Stolen Property》のジャケットに鮫の歯のネックレスの写真を使えばと提案してくれたのだが、オレもいいアイデアだと思った。
 しかし、残念ながらレコードが出ることはなかった。ランナウェイズのリヴァーサイド公演のバックステージでヴィッキー・ブルーから電話番号をもらった後、オレは数日まって電話をかけて、ハリウッドまで会いに行ったのを覚えている。ヴィッキーはガワー・ストリートにあるエドワード・G・ロビンソンの古い家で暮らしていた。朝の6:00になると、観光バスが次々にこの家の前に横付けになり、もうそんな時間であることを知らせた。気が散るなあ。ある土曜の晩には、ヴィッキーからキャピトル・レコード・スワップミートに連れてってよとお願いされた。この非衛生的な「コレクター」ミートは、毎週、キャピトル・レコードの駐車場で開催されていて、午前12:00頃から始まって、一晩中行われていた。毎週、何百人もの「レコード愛好家」が集まり、貴重なレコードや大量のブートレッグを見つけるにはパーフェクトな場所だった。オレは喜んでヴィッキーをそこに連れてったのだが、それは間違いだった。
 場所がハリウッドだけに、到着するが早いか、キャピトルにいたロック・ファン全員がヴィッキーに気がついてしまった。そして、こいつらの多くはオレにも気がついた。ブートレッグ・コレクターだったからだ。皆、こっちを指さしたり、写真を撮ったりし始めた。さらに悪いことに、その晩はカート・グレムザーがここに来ていたのだ。こいつはこの件を言いふらすに違いない。オレは世間を騒がせたくはなかった。マーキュリー・レコードの法務部がヴィッキーの交友関係について何か言ってくるかもしれない、というのがオレの心配だった。とにかく、ヴィッキーにとって(オレにとってもだけど)トラブルになることは絶対に避けたかったのだ。オレはこれ以上、虎の尻尾をひねらない方がいいと思って《Stolen Property》を永遠に棚上げした。
 レインクロス・スクエア公演はボツにしてしまったが、オレはランナウェイズのさらにいくつかのコンサートを録音し、リリースすることを考えた。伝説のゴールデン・ベア公演は特に出来が良かったし、バークリー公演も良かった。ファンのために、いつかこのコンサートをリリース出来たらなあと考えるのは楽しい。

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 ローリング・ストーンズは、つい先日、1973年のアルバム《Goats Head Soup》のリイシュー盤を発売することを公表した。これには未発表だった「新曲」が含まれてるとのことだが、そうした曲の1つ、〈Criss Cross〉はWizardoが1977年に発売したレアなEP盤(グリーン・ビニール)に収録されていた。
 この頃、オレはスキーキー・ボーイと一緒にアーヴァインのウッドブリッジにあるアンドレア宅で暮らしていた(アンドレアはラグナビーチの新居に引っ越していた)。巨大な家なのに家具は殆どなく、殆どの部屋は空っぽだった。リヴィング・ルームにはテレビが1台とローンチェアー[日光浴用折りたたみ椅子]が2つあるだけだった。この家は高級住宅街にあったので、近所の住人は隣にいる「クレイジーなヒッピー」は何者なのか疑問に思ってたことだろう。オレたちは連中とは口をきかなかった。まわりの連中にとっては資産価値を下げる存在だったかもしれないが、オレたちはとても楽しく暮らしていた。一度、スキーキー・ボーイの伯父さんのブレインがオーストラリアからやって来たことがあった。近所のオバチャン連中を驚かすために、ロマンスグレーのブレイン伯父さんにはオレたちお抱えのイギリス人執事として振る舞ってもらった。オレたちがからかいの対象としたオバチャンたちは、オーストラリア訛とイギリス訛の違いなんてわからなかったので、いつも感心していた。ブレイン伯父さんもそれを楽しんでいた。彼はオレのベッドルームにいきなり入って来ると(オレが呼んだ客人たちが裸だとわかってのことだ)、「失礼いたします、旦那様。警察署長からお電話です」と叫んだ。昔のテレビドラマ『バットマン』に出てくるアルフレッドのように。そのうち、ブレイン伯父さんはオーストラリアに帰国したのだが、一緒に過ごした時間は忘れられない。
 ある晩、スキーキー・ボーイとオレがローンチェアーに座ってテレビを見てると、日本の新作長編アニメ映画[サンリオ制作の『星のオルフェウス』。英題は『Metamorphosis (Winds of Change)』]がオレンジ・カウンティーで公開となることを宣伝するCMが現れた。オレたちはアニメなんてどうでもよかったのだが、広告の後ろで流れてた音楽に驚愕した。紛れもないローリング・ストーンズだ。しかも、聞いたことのない曲だったのだ。そして、コマーシャルの最後に、「ローリング・ストーンズの新曲をフィーチャー」という結び文句が登場した。ワオ! オレたちはすぐに新聞をひっ掴み、映画が上映される劇場を探した。
 映画のタイトルは覚えてないが、そんなものはどうでもよかった。気になってるのはフィーチャーされてるというストーンズの未発表曲だった。オレは信頼できるウーヘルのテープレコーダーとマイクロホンを荷造りして、劇場に向かった。オレは映画のどの部分でストーンズの曲が使われてるのか知らなかったので、客席でマイクロホンをセットすると映画を最初から最後まで録音した。約90分間、バックでテクノ・ミュージックが流れた後、CMに騙されたのかと思った頃、突然、紛れもないローリング・ストーンズのサウンドが流れて来た。ストーンズの未発表曲がこのゴミのような日本のアニメに使われてる理由は全くもって不明だが、確かに入っていた! 劇場はほぼ空っぽだったので、お目当の曲を素晴らしいステレオで録音することが出来たのだが、映画の最後のクレジットには曲のタイトルが出てこない。ただ「ローリング・ストーンズ、著作権登録1972年」とのみ書いてあった。
 オレたちは急いで帰宅して、約100回、レコーディングを聞いて、タイトルを〈Save Me〉に決めた。この言葉が一番頻繁に出て来るからだ。スキーキー・ボーイズとオレはフル・アルバムを出せるほどのマテリアルは持ってなかったので、このトラックと、さまざまなプロジェクトから漏れた3曲を収録した7インチのEPレコード用のマスターを作って、ルイス・レコードでグリーンのビニールにプレスして、ものの数日のうちにリリースした。製造したのは限定500枚で、売れ行きはとても良かった。
 新しい《Goats Head Soup》のリイシューでは、オレたちが〈Save Me〉と呼んだ歌には〈Criss Cross〉という「正式なタイトル」が付いている。興味深いことに、1980年代に誰かからもらったアセテートにもこの曲は収録されていて、その時のタイトルは〈Criss Cross Man〉だった。このアセテートはあるパーティー会場にジミー・ミラーが置き忘れたものらしい。とにかく、これは全部、同一の曲がさまざまなタイトルで変化{へんげ}したものだ。ミックスも同じようだ。ストーンズは、昔のアウトテイクをリリースする時には、たいてい音を追加して、きれいに磨きをかけてしまうのだが、〈Criss Cross〉についてはこの例から漏れ、棚からテープを下ろし、埃を吹き飛ばしただけのようだ。それに、映画の中に出て来た著作権登録の年が正しいなら、〈Criss Cross〉は 《Goats Head Soup》ではなく《Exile》のアウトテイクだろう。オレが言うのも何だが、タイトルとしては〈Criss Cross Man〉が一番気に入っている。昔のアセテート盤は今でも持っていて、どこかにあると思う。


   


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2020年11月12日

Wizardo回想録&インタビュー:第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場



聞き手:スティーヴ・アンダーソン



 ハイスクールの2年生の時に、オレはピンク・フロイドを教えられた。お袋の友人の息子がチャプマン大学に通ってたのだが、寮でマリファナを吸ってるところを見つかってしまった結果、新しい住処が見つかるまで臨時の居場所が必要となった。お袋はこいつに上の階のゲスト・ルームを提供したのだが、 お婆ちゃんには内緒ねとオレは口止めされた。この大学生が我が家に到着した際、レコード・コレクションも持って来て、その中にはピンク・フロイドの《Atom Heart Mother》が入っていた。マリファナも持って来たのは言うまでもない。こいつは喜んで、オレに両方を教えてくれた。オレはブッ飛んだ。レコードと葉ッパの両方に。

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 オレは《Atom Heart Mother》を借りると、それを持って急いでラリーん家{ち}に向かい、着くやいなや、ベッドルームのステレオでそれをかけた。ラリーもすっかりハマってしまった。こうしてオレたちはフロイドの大ファンになった。
 運の良いことに、近々、ピンク・フロイドがハリウッド・ボウルでコンサートを行なう予定だったので、演奏を録音するのがとても楽しみだった。このバンドをしっかり捉えるためにはステレオで録音する必要があると感じたオレは、友人の親父さんからコンコード製オープンリールを借りた。これは大きさこそオレのラジオ・シャック製レコーダーと同じくらいだったが、ハーフトラックのステレオだった。それから、このマシンに繋げられるように改造した[シュアの]SM-57も2本借りた。その日のショウのために優秀な録音機材を揃えたが、かなりの大きさになってしまった。
 ピンク・フロイドのハリウッド・ボウル公演にガールフレンドを連れて行くことが出来ないので(チケットを2枚しか入手出来なかった)、録音機をドレスの下に隠して会場に持ち込むといういつもの手は使えなかった。最終的に、オレは小さなバックパックの中に録音機を突っ込んで、その上から大きなジャケットを羽織り、脊柱後彎症のような格好をして、身をかがめ、足を引きずりながら歩いて進んだ。口から少しヨダレをたらすことも付け加えた。すると、警備スタッフはオレを病気持ちであるかのように避けた。完全に悪趣味だ。16歳のバカガキしかこんなことはしない。だが、これは完全に効を奏した。オレは会場にすんなり入っていった。誰もオレのチケットをチェックしなかった。ラリーとオレは美しいステレオでショウを録音することが出来たのだが、オレはこのレコーディングを自分ではリリースせず、ケンにあげて、彼がKornyfoneレーベルから《Crackers》というタイトルでリリースした。
 コンサートの時にはまだ、こうしようとは思ってなかったのだが、その2週間後、ラリーとオレは《Take Linda Surfin’》を作る際には、表ジャケット用にハリウッド・ボウル公演のプログラムに載ってた写真を利用した。「El Monkee」のロゴはゴールデン・ゲート・パークで買ったピーナッツの袋から拝借したものだ。

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 オレたちがブートレッガーとして駆け出しだった数年間に、ケンはすぐに最も重要なコネクション、及び、仕事仲間になった。リトル・ダブやマルコム・M、マイケル・Gといった西海岸のブートレッグ産業の重鎮たちにラリーとオレを紹介してくれたのもケンだった。オレはケンから20年に渡って優れたアドバイスと計り知れない援助を受け取った。ラリーとオレがブートレッグ製造ビジネスに参入するようになったのは、ケンのおかげなのだ。
 ケンは自分の友人がピンク・フロイドのスタンパー一式を売りたがってると、オレたちに持ちかけてきた。スタンパーは「ヨーロッパ製」で、アメリカのレコード・プレス機で使うには変換が必要とのことだった。もし興味があるなら電話番号を教えてやると言ったので、ラリーとオレは、即、番号を教えてもらった。ピンク・フロイドのレコードがWizardoの「正式な」リリースの第1号になると思うとウキウキした。以前に出したビートルズのブートレッグはハービー・ハワードが作ったものだから。
 ケンがくれた電話番号は、ピーター・トソロというグレンデイルに住んでるテープ・コレクターのものだった。ピーターによると、スタンパーを持っていて、ピンク・フロイドのコンサートを収録したダブル・アルバムのものだってことはわかってるのだが、どこで行なわれた公演なのかはわからないし、どの曲が収録されてるのかもわからないとのことだった。マザーもマスターも持ってない、スタンパーしか持ってないとも言っていた。つまり、実際にプレスしない限り、何が入ってるのか全くわからないレコードを、オレたちは買うことになるのだ。それに、スタンパーを壊してしまったら、もう替えはない。
 こうした可能性があるとなると、オレたちよりも思慮分別のある連中だったら絶対に見送るだろう。しかし、16歳で恐れ知らずのラリーとオレは、ピーターからスタンパーを100ドルで買うことを電話で即決した。オレたちは翌日、品物を受け取るためにグレンデイルまで行く必要にあった。というのも、ピーターはある宗教グループ(カルトと読み替えてもいい)に入信を済ませ、世俗的な所有物を売り払ったらすぐに「教化キャンプ」に向かう予定だったからだ。
 翌日はその年の最高気温を記録した日だった。エアコン付き小型車のシムカが、グレンデイルまでの長旅の間にオーバーヒートしないか心配だった。ラリーもオレもレコード製造のメタル・パーツに関しては何の経験もなく、どんなものを渡されるのかもわからなかった。ただ、スタンパーが「壊れやすい」ものだとは聞いてたので、ニトログリセリンでも載せて帰るかのように、シムカの後部座席にビリビリに破いた新聞を敷き詰めて、スタンパーを揺れの衝撃から守る準備をしておいた。(スタンパーは分厚くて重量があり、ハマーで叩いても壊れないくらいだった。大量の新聞をビリビリに破いたのは無駄だった)
 ピーターはとてもいい人だった。凄いテープ・コレクションを持っていて、ビートルズの〈What's the New Mary Jane〉のテープを聞かせてくれた。他所でこの曲を耳にする丸1年前にだ。こいつがどのようにしてフロイドのスタンパーを入手したのかも、テープ・コレクションがどうなったのかも、オレは知らない。さらには、ピーターがその後どうなったのかも知らない。彼は「スピリチュアル」な新しい人生へと向かって行った。ピーター・トソロと会ったのはその時が最初で最後だったが、Wizardo Recordsの誕生のきっかけとなったのが、こいつが持ってた謎のスタンパーだった。

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 《Take Linda Surfin’》《Miracle Muffler》のスタンパーを入手した後、次の仕事はプレス工場を探すことだった。インターネットがない時代には図書館が最高の味方だった。タスティンは例外として。タスティンの図書館には「親米的な本が200冊以上と6種の雑誌」があり、「共産主義のプロパガンダは皆無」だった。ということで、ラリーとオレはまともな図書館に行く必要があった。町の怖い地域にあるサンタアナ図書館にだ。そこに行けばロサンゼルスやハリウッドのような近所の共産主義者の生息地の『イエローページ』[職業別電話帳]があると思ったのだ。予想通り、こうした大都市の電話帳にはレコード工場の広告がたくさん載っていた。あとは選ぶだけだ。でも、どれを?
 オレたちは電話帳からプレス工場を3カ所選んだ。最初に選んだのはノース・ハリウッドのサンタモニカ・ブールヴァードにあるカスタム・フィデリティーだった。フロント・ドアを開けて、人を威嚇するような長いフロント・カウンターのある巨大ロビーを進む時、オレはビビリまくりだった。カウンターとは反対側には、ストリートが見える巨大なガラス窓が極端な角度でついていて、「どうやってキレイに拭くんだろう?」と思ったのを覚えている。大カウンターには男がたったひとりでいた。そいつはラリーとオレを見て、どんなご用件で?と訊いた。オレは唾をゴクリと飲み込んで、自分たちの「ガレージ・バンド」のレコードをプレスしてもらいたいんですという、あらかじめ練習しておいた話を始めた。説明が半分も終わってない時、突然、フロントドアが開くと、『警部マクロード』をやってる俳優、デニス・ウィーヴァーが猛烈な勢いで入って来た。テンガロン・ハットをかぶり、笑っちゃうほど派手なカウボーイ・ブーツ(色は鮮やかな赤)を履き、フル装備のカウボーイの出で立ちで登場したデニスは、ラリーとオレの前に割り込んで来た。その際、オレはつま先を踏まれた。「坊や、すまんな。大切な用事があるんだ」 ラリーはこの野郎、殺してやるといった顔をしてたが、オレはあまりに面食らって、全く言葉が出なかった。カウンターのところにいた男はミスター・ウィーバーに、今はこちらの人と話をしてるので、ちょっと待ってくれと説明したが、こいつは全く意に介さず、大声で、しかも、偽のカウボーイ風アクセントでまくし立てた。アルバム・ジャケットが届いて、中にレコードを入れる作業がしっかり出来てるのかと。ミスター・ウィーヴァーは自分をカントリー・シンガーだと思っていて、ファースト・アルバムをここ、カスタム・フィデリティーで作ったようだった。こいつは振り向いて、オレを見て言った。「オレは単なる映画スターじゃない。自分のレコード会社だって持ってるんだ!」 どうしてもそう言いたくなったのだろう。その社名はImpressive Recordsなのだとか。10分後にカウボーイ・デニスは帰り、ラリーとオレはカスタム・フィデリティーとの交渉を完了した。遂に、オレたちも自分のレコード会社を持つに至った。社名はWizardo Recordsだ。雑誌のいんちき臭い巻頭記事など必要ない。ビジネス・ライセンスも取ってない。全国放送の連続テレビ・ドラマも持ってない。大人もいない。オレたちが持ってるのは、1セットのスタンパーと、アメリカで最も儲かり、最も腐ったビジネス----音楽ビジネス----に参入したいという欲望だけだった。このビジネスは両腕を広げてオレたちを歓迎した。

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 レコードを作るために初めてカスタム・フィデリティーに行って、帰宅した時のことを覚えている。サンドイッチを作ろうとキッチンに入ると、親父とお袋はリビングのソニー製13インチのテレビで、何と『警部マクロード』を見ていて、お袋がデニス・ウィーヴァーっていいわねなんて語っていた。そっちに行って、ついさっきデニス・ウィーヴァーに会ったけど、くだらない奴だったよと言ってやろうと一瞬考えたが、思いとどまった。そんなことをしたら、学校ではなくてハリウッドに行ってたこと、レコードを作ろうとしてること、家の前になぜかとまってる謎の外車はオレのものだということも、話さなきゃいけなくなる。親父もお袋も、そこまでは知りたいとは思ってないだろう。

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 ピーター・トソロからピンク・フロイドの謎のスタンパーを購入したので、この先、どういうふうにビジネスを進めるのがベストなのかを考えなければならなかった。ダブル・アルバムではなく、1枚組のアルバムを2つ作ったほうがいいというのが、オレたちが出した結論だった。こうしたほうが利益は多く、前払い金は最小限に押さえられるからだ。どの曲が入ってるのかも、何年に録音されたのかも知らなかったので、テスト・プレスが出来るのを待ち、それを聞いてからジャケット・アートをデザインすることにしたのだが、レーベル・デザインだけはすぐに仕上げる必要があった。ラリーの寝室でマリファナを吸った後に、手書きのレーベルが誕生した。曲名の入る場所を空けておき、書き込む作業はリスナーに任せた。が、タイトルはどうしよう? タイトルも必要だ。
 オレはジャン&ディーンのレコード・コレクターだった。1970年代前半の音楽業界はジャン&ディーンの時代とはガラリと変わっており、彼らのレコードはもはや「ヒップ」とは思われてはおらず、ピンク・フロイドのようなバンドが「カッコいい」の最先端にいた。なので、もはやカッコよくない、昔のジャン&ディーンの曲名をパクって、それを超クールなピンク・フロイドの最新ブートレッグのタイトルにしてしまったら楽しいのではないかと、オレは考えた。そうしたら、昔のジャン&ディーンの歌〈Take Linda Surfin’〉が再びカッコいいものになる。立派なプロパガンダだ。ハ、ハ。笑えるだろ。ただし、タスティンのガキがマリファナでイッちゃってる状態でそう思ったってことは忘れずに。
 最初のプレスを聞いて、何の曲が入ってるのか判明したので、オレたちは曲目リストと、ハリウッド・ボウル公演のコンサート・プログラムに載ってたバンドの写真を、ハイスクールの友人、デイヴィス・ベイヤーリーに渡した。こいつはコンピューターが普及するはるか前の時代からグラフィックに取り組んでいた。こいつが巻き付け式のジャケットをデザインし、オレたちはそれを印刷した。オレは今でも、それを誇りに思っている。
 《Take Linda Surfin’》で一番苦労したのは、ディスクを挿入した後の白ジャケットに、巻き付け式のジャケットを貼り付ける作業だった。オレたちはスコッチ社のスプレー糊を使ったのだが、缶から霧状になって噴射された糊はそこら中に飛散した。「ジャケット糊付けパーティー」をラリーん家{ち}でやったのだが、仕舞にはガールフレンド同士がくっついてしまう事態になったのを覚えている。後になって聞いたことなのだが、この糊はガンの原因になるのだとか。裏庭で作業をやってたのに、家中に酷い悪臭が充満し、ラリーのお袋さんからは叱られた。あぁ、懐かしいなあ。
 ピーターから譲り受けたスタンパーはアメリカで作られたスタンパーよりも分厚く(しかも、銅の補強があった)、アメリカのプレス機では使えないものだった。イギリスのスタンパーは驚嘆すべき代物だった。アメリカで作られるスタンパーより10倍は長持ちするものだった。手持ちのスタンパーしかないので(マザーもマスターもない)、製造することの出来るレコードの量は、マスターがどのくらい長持ちするか次第だった。アメリカのスタンパーは非常に薄くて、とても壊れやすく、1,000枚ほどプレスしたら、取り替える必要があるのだが、イギリス製スタンパーは絶対に壊れない。作業終了後にそれを[Vicki Vinylの]アンドレアにあげたところ、こいつはそれで何年間もレコードを製造し続けたくらいだ。

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 スワップミートをブートレッグ用の儲かる市場と認識してたのは、ラリーとオレだけではなかった。ケンもそうだった。南カリフォルニアで行なわれてたオレンジ・ドライヴインより大きなスワップミートというと、ラミラダのスワップミートだけだった。ラミラダ・ドライヴインは、ケンとヴェスタが自分のレコード・チェーンをオープンする数年前に、週末に小売りビジネスをやってたところだった。ふたりは長年、そのスワップミートでファニー・ピッグ[The Smoking Pig]のレコードを売ってたのだが、たまにお店を休みした時には、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまでオレたちに会いに来て、商売の様子を気にかけてくれたり、助言してくれたりした。
 ある土曜日、ケンが突然現れたので、オレたちはビックリした。その時、ケンが教えてくれた優れた販売術は、そのまま、もしくは、少しアレンジを加えて、オレが家庭電化製品を売ってた時期にも使い続けた。オレは当局の捜査を妨害するために、7年間、大学への入退学を繰り返した後に仕事を変えていた。1970年代後半に、ブートレッグ・ビジネスから一時的に退散する必要ありと感じた時に始めたのが家電の販売で、これをやってた時にはブートレッグを作ってた時よりも稼ぎは多かった。だが、ブートレッグの楽しさと興奮に欠けてたので、これを自分のキャリアだとは考えたことはない。ケンからはたくさんの教訓を学んだが、「販売」テクニックを教授してくれたおかげで、オレは金をかなり稼がせてもらった。
 まさにその日、ケンが並べてあるブートレッグを見渡して、「一番売れないレコードはどれだ?」と訊くので、オレは答えた。「よくわかってるでしょう。あなたが「ジュニア・ブラインド」[視覚障害者のためのチャリティー団体?]用に作ったドノヴァンの《The Reedy River》ですよ」 《The Reedy River》は、ドノヴァンが放送メディアに出た時の演奏を、彼の隠れファンのケンが丁寧に編集して作った優れもののブートレッグだ。 デラックス仕様のブートレッグを出したイタリアのレーベル、Jokerがコピーしたのもこのレコードなのだ。素晴らしいレコードなのに、全然売れない。6カ月間に1枚も売れてない。ということで、ケンは言った。「お客さんが在庫の商品を全部見て「これで全部ですか?」と訊いてくることって何度ある?」 オレは答えた。「殆ど全てのお客さんがそう言いますよ」 「それじゃ、やるべきことはこうだ」とケンは言った。「ドノヴァンのブートレッグを棚からはずして、車のトランクに隠しておけ。次に誰かが「これで全部?」って訊いてきたら、「ええ」って答えてから、一瞬、間をおいて「ドノヴァンのレア盤以外は」って言うんだ。そのレコードは超レアだから、厳重に保管しておく必要があるんだと説明しろ。すると、その客は見せてくれないかと必ず言ってくる。そしたら、トランクから1枚取り出して売ればいい。このやり方でいつもOKさ」 オレはそんなにうまくいくはずないと思ったが、5分も経たないうちに、お客さんが、ここにあるもので全部ですか?と訊いてきた。その時、ケンを見たら、ニコニコしていた。
 1時間もしないうちに、《The Reedy River》は5枚全部売れてしまった。凄え! これに詐欺行為は全く関与してないと思う。《The Reedy River》は貴重なブートレッグだ。購入したお客さんたちも、気に入ってくれたし。
 ケンはオレを見て言った。「今度はリトル・ダブの作ったブラッド・スウェット&ティアーズのブートレッグをトランクにしまえ」 これは魔法のテクニックだった。あらゆるものに通用した。
 ケンとの関係を通じて、ラリーとオレはリトル・ダブを紹介してもらった。ダブはケンが《Great White Wonder》《LIVEr》を作った時、及び、オリジナルのTrade Mark of Qualityレーベルを作った時のパートナーなのだが、オレたちが初めてケンと会った時には、このパートナーシップを解消しようとしている真っ最中だった。財政的にどんな取り決めがなされたのかは全く知らないが、最終的にはレーベルが2つの別々のTMQになるという結果になった。一方はケンが経営し、他方はリトル・ダブが経営した。「木版画」スタイルのブタの絵をTrade Mark of Qualityの文字が囲んでいるオリジナルのロゴを継承したのはダブのほうだった。「ブタ」の絵はリトル・ダブの小切手帳からパクったものだ。当時、バンク・オブ・アメリカは顧客の小切手に載せる絵の案をいくつか用意しており、「ブタ」の絵はそうした選択肢の1つだった。ケンは自分のTMQレーベル用に新しいロゴを採用し、「木版画」のブタを、ウィリアム・スタウトが描いたブタのイラストに変更したが、Trade Mark of Qualityという名前はそのまま使用した。業界内では、ケンの新レーベルは「ファニー・ピッグ」と呼ばれ、リトル・ダブのレーベルはオリジナルTMQとして通用した。
 ケンとのパートナーシップを解消した後、リトル・ダブの新パートナーとなったのは自分の父親、ビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブはずっと郵便局の職員として働いてたのだが、ある日、地下室に行った時に、自分の息子がブートレッグで稼いだ金、3万ドルを数えているのを目撃した。その瞬間、Trade Mark of Qualityはファミリー・ビジネスとなった。地下室(リトル・ダブのベッドルーム)はオフィス兼ブートレッグ問屋となり、TMQは以前よりもはるかに組織化された。ラリーとオレはレコードを購入するために、毎週、そこに巡礼した。取引は常に地下のオフィスにいるビッグ・ダブと行なった。オレはビッグ・ダブが大好きだった。ビッグ・ダブはラリーとオレのユーモアのセンスを気に入ってくれた。いたずらばっかりするオレは、いつも「馬の首」[ホースネックというカクテルがあるが、それと関係があるのかは不明。情報求]と呼ばれた。とても気前が良く、新リリースやテスト・プレス、まだ公表してないアートワークをいち早く見せてくれりもした。後に、オレのパートナーとなるジミー・マディンに紹介してくれたのもビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブは当時のブートレッグ産業において大きな役割を果たしてたのだが、コレクターにはその存在を殆ど知られてなかった。レーダーによる捕捉を巧みに避けてたのだ。



   


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