2020年11月05日

Wizardo回想録&インタビュー:第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生

 ピンク・フロイドのブートレッグに関する超マニアックなサイト『The Pink Floyd Vinyl Bootleg Guide』に面白い記事があるよとHKTマニアの知人が教えてくれたので、サイトの主と連絡を取って、日本語訳の掲載許可をもらいました。オリジナルの記事は超長く、恐らく原稿用紙400枚分くらいはありそうなので、1週間に1回ずつ、全5回くらいの連載にしたいと思います。是非、爆笑しながら読んでください。


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


「ジョン・ウィザードは、1980年代にロサンゼルス国際空港の近くにあったプレス工場、ルイス・レコードで、プラスチック成型機の中に落ちて亡くなった。箒の柄で目詰まりを取り除こうとしていたところ、よろけて中に落ちたらしい。彼の死体は、その時製造していたポール・マッカートニーのブートレッグの中にプレスされてしまったのだとか。再生した時に盛大なパチパチ・ノイズが聞こえてきたら、ジョンの亡骸がプレスされたレコードなのだという…」

…これ、本当の話?

 このページではジョン・ウィザードを紹介する必要はないだろうが、今、とにかく、この記事を書いている。ジョンは往年のブートレッグ・シーンの伝説の人物の1人だ。このシーンを開始したTMOQのケン・ダグラスとダブ・テイラーの話はしばしば語られているのだが、ジョン・ウィザードも1970年代のカリフォルニアのブートレッグ・シーンの、殊にピンク・フロイドに関して重要な部分を担っていた存在だ。彼は《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》《The Midas Touch》《The Screaming Abdabs》《Libest Spacement Monitor》といったアメリカ製ブートレッグを代表する名盤の他、トータルで100タイトル以上をリリースした。
 ジョン・ウィザードは約45年前に操業を開始して以来ずっと、インタビューに応じることを避けてきたのだが、今回我々は、大変光栄なことにジョン本人から話を聞けることとなった。本題に入る前に、私がジョンにインタビューするための糸口を見つけてくれたのは、我が『Floydboots On Facebook』のメンバー、コリン・リーヴァー----またの名をジェイムズ・フロイド----のお手柄であることは述べておきたい。

 インタビューの第1部は回想録の形式を取っている。これはジョンが『Floydboots』用に書いたもので、彼の少年時代やブートレッガーとして活躍していた日々の思い出は必読だ。そして、その後に、我々がもっとマニアックなコレクター関連の質問をぶつけることになっている。

まずは、このインタビューに応じてくれたジョンに、私から、そして『Floydboots』のメンバー全員から、さらに広くはブートレッグ・コレクター・コミュニティーから、感謝の気持ちを表します。最初の質問は、もうお察しがついてると思いますが、過去について話すことに関して、どうして方針を変えたのですか? 私は何年もあなたを追っていたのですが、全然、捕まえることが出来ませんでした。

 ブートレッグ界を去った1990年、オレは大変な苦境に陥ってた。韓国でCDを作って、とてもうまくいってたんだが、突然、工場が閉鎖されてしまった。金の流れは止まり、パートナー連中はあてにならない、オレは酷いヤク中で、にっちもさっちもいかない状態になっていた。韓国外換銀行を通してSKCに口座振込をするというヘマをやらかして、財務省からも目を付けられていた。フィラデルフィアに積み荷としてあった《Back-Track》のCDがFBIに押収され、テキサスの業者から届いたFederal Expressの封筒に入ってた6,000ドルが何者かに盗まれた。トム・ウェイツ風に言うと、一番早く町から出るバスに乗って、新しい友人{ダチ}を作ったほうがいい頃合いだった。とにかく、一文無しというのが問題だった。ヤク中だと悪い判断をしてしまうだろ。財政的には、崖から車ごと派手に飛び降りたようなものだった。自分のいる地獄から脱出するためにライフラインが必要だったオレは、ケン・ダグラスに電話をした。ケンとは昼食を食べながらオレと会って、ここから逃げるための「緊急脱出ボタン」を押すような、金銭的援助をしてくれた。オレはその金をいいことに使った。オレの人生はケンに救われたよ。
 文字通り姿を消し、キレイになって、新たに再出発をしなければならない状況になってしまった時には、自分をそれまでの生活から完全に切り離さなければいけない。全てを捨てて、別にやるべきことを見つけなければならない。オレはそうしたんだ。この30年間、カリフォルニアの有名なアートの団体でオーディオ&ビデオ・ディレクターとして働いて、つい最近、引退した。この世で最高の女性と結婚し、南カリフォルニアのビーチ・コミュニティーに家がある。アンドレア(Vicki Vinyl)も似たような成功の道をたどって、結婚して、素晴らしい家庭を築き、オレん家{ち}の近所に家を持っている。最近では、オレは愛妻、ジーンと一緒に、たちの悪い病気の蔓延を心配しながら、家の庭の中に引きこもっている。誰かがオレが昔のYouTubeチャンネルを見つけて、あなたがジョン・ウィザードですか?と訊いてくる。あなたがウィザードですか?って訊かれた時には、いつもきまって架空の話をしていた。ジョン・ウィザードはルイス・レコードの工場内で奇っ怪な事故で亡くなりましたって。その中には、梯子や箒の柄、プラスチック成型機が登場する。
 でも、スティーヴ、キミからの返事を読んでる時、死が差し迫ってることを心配するより、昔の思い出話をするほうが楽しいかもって考え始めたんだ。キミから届いたメール、気に入ったよ。あなたのウェブサイトも好きだ。もちろん、Wizardo Recordsに興味を持ってくれてることも嬉しかった。《Take Linda Surfin’》を作った頃に、50年後もこのレコードに興味を持ってる人がいるよと言われたとしても、その意味が理解出来ず、将来を真剣に心配したかもしれない。
 その結果、オレたちは今ここにいるのさ。スティーヴ、オレはキミの質問に最善を尽くして答えよう。と同時に、横道にもそれて、オレの記憶の中で特に印象に残ってることも話そう。オレがグランパ・シンプソンのようにとりとめのない話を始めてしまったら、ためらうことなく本題に戻してくれ。さもなきゃ、うるせえ黙れと言ってくれ。ハハハ。

まずは少年時代から始めよう…。

 1969年秋、13歳だったオレは、カリフォルニア州オレンジ・カウンティーのタスティンにあるフットヒル・ハイスクールの1年生だった。[アメリカの学校制度についてはこのページを参照のこと]毎週、放課後に集まる演劇クラブで、将来、オレのレコード・パートナーとなるラリー・フェインと出会った。その秋、生徒が『Mouse That Roared』[レナード・ウィバリー作、冷戦を風刺した戯曲]上演することになっていた。ラリーとオレはそれぞれ兵士1、兵士3の役をもらった。基本的に台詞はなく、ただ通り過ぎるだけの役だった。演劇を担当していたペカラロ先生は「端役」なんてひとつもありませんよなんて言ってたが、いい役は全部、上級生に回っていた。1年生や2年生とは違って、演技が上手だったからだ。端役でないもののために強制的に長時間の練習に参加させられてる時、ラリーとオレはたっぷり時間をかけて互いをよく知り、楽しく過ごした。毎日8時間耐えなきゃならない酷い、最低の、人種差別を平気でするハイスクール教職員と管理体制が大嫌いという共通点のおかげで、オレたちの友情は強固なものになった。自分たちのいる反教育的な公立学校システムという悪と戦うために、ユーモアのセンスを使ってマンガを描くのが好きだったということでも、友情は深まった。
 当時の南カリフォルニアでは、オレンジ・カウンティーが右翼の人種差別主義団体の温床となっていて、死んだ猫を振り回したらヘイト団体に当たるほどだった。ジョン・バーチ協会、国家社会主義白人党、KKK、『タスティン・ニュース』紙は皆、裏庭にあった。こうした団体全部が、タスティンの教育委員会にメンバーを送り込んでたので、オレたちが教室で受けていた授業のカリキュラムがどんなものだったのかは想像に難くない。連中は全ての人間、全てのものが嫌いだった。特に嫌いだったのが共産主義者とヒッピー、そして今の音楽だ。こうしたものは、あいつらの目には、理解不能なものだった。そして、もちろん言うまでもなく、黒人とメキシコ人も嫌いだった。ラリーとオレは「ヒッピーのように見える」ということで何度も授業を受けさせてもらえなかった。そんな時は、家に戻って、髪を切り、自分の子供が将来、共産主義者みたいにならないよう努力しますと親に約束させなければならなかった。そうしないと授業に戻ることは出来なかったのだ。ラリーとオレにとって誰が敵かは明らかだった。そいつらはオレたちから攻撃されたくて仕方なかった。学校で上演された劇におけるオレたちの「役」は、期待に反して、校内の女子たちからビートルマニア的な反応を得ることが出来なかったので、このゲームに関しては年貢の納め時だった。
 1960年代末〜1970年代初頭、アメリカ中でいわゆるアングラ新聞ブームが生じ、そうした新聞は皆、大手マスコミが粗製濫造してる情報とは異なる内容の記事を掲載することに躍起になっていた。そこで、ラリーとオレもアンダーグラウンドな学校新聞を作って楽しもうと考えた。『ザ・トイレット・ペーパー』と名付けた新聞にはマンガや風刺たっぷりの批評や記事を掲載した。書いてあることは全て、中傷、冒涜、そして低俗なものばかりだった。生徒には気に入ってもらえたが、教職員や学校の運営当局にはそれほどでもなかった。

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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


 当時、アメリカで起こってた他の現象は「ガレージ」バンド・ブームだった。こうしたバンドは町内に少なくとも1つはあった----ラリーの暮らしてる町を除いて…。そこで、オレたちはビリー・トフ・バンドを結成した。このバンド名にしたのは、ひとえに、バスドラムのヘッドや宣伝告知に「B.TOFF」(ビートフ)と書くことが出来たからだ。「Beat-off」(ビートフ)という言葉はスクールボーイの間ではマスターベーションを意味するスラングだった。練習は主にラリーん家{ち}のガレージや地下室でやった。ラリーのパパは古いウォレンサックのオープンリール・レコーダーを持ってたので、オレたちはそれを使って遊んだ。後に、他のブートレッグと一緒に出したWizardo B.Toff Bandのアルバムに収録したレコーディングの多くは、ここで作ったものだ。練習場所がラリーん家{ち}のガレージだったってことは、数年後に重要になる。ザ・ランナウェイズも関わってくる笑えるこの話は、もっと先に取っておこう。
 1971年のタスティンにはレコードの小売店が2軒あった。1つはビルダーズ・エンポリアム。ここは建設資材や木材の店だったのだが、なぜか中古コードも売っていた。もう1つのウィンズ・ミュージックは楽器店だったのだが、1月上旬のある雨降りの午後に足を踏み入れると、カウンターの上にレコードの入った箱が置いてあり、「ビートルズのニュー・アルバム----$3.99」と書いてあった。オレは1964年以来、ビートルズの大ファンなのだが、ビートルズの新譜に関するニュースなんて全く聞いてないんだけど…。
 8歳の時だった。サンフェルナンド・ヴァレーの実家で暮らしていた頃、オレの寝室には古い真空管ラジオがあって、夜、ベッドに入ってよく聞いていた。両親は「良質な音楽」の専門局のKGILにダイヤルを合わせていた。ある晩、同じ町に住むティーンの女の子が留守番のアルバイトとして来ていた。その子の名前は今でも覚えている。その晩、ベッドに入る時、ラジオをつけてとお願いすると、彼女はそうしてくれた。真空管があたたまって、音楽が聞こえてくると、彼女はどうしてこんなつまらないものを聞いてるのよ?と言い、ただちにダイヤルをKRLAに合わせた。その時、流れてきたのが〈Twist and Shout〉だった。ビートルズのバージョンだ。オレの人生は、その瞬間に変わった。こんな音楽はそれまで聞いたことがなかった。オレは死ぬまでビートルズ・ファンになった。
 …この「ビートルズのニュー・アルバム」とやらを手にとって、ジャケットを見た。表には「Get Back To Toronto」という文字に加えて、平和のサインと抽象的なイラストがあった。裏側には真っ白だった。レコード会社の名前はどこにもなかった。さらには、ザ・ビートルズというバンド名も記されてなかった。オレはカウンターの向こう側にいた店員のダニーに、このレコードはいったい何?と質問した。回答はこうだった。「これはねえ、確かにビートルズのニュー・アルバムなんだけど、ビートルズが作ったものでもないし、キャピトル・レコードが作ったものでもないんだ。作ったのは…犯罪者だ。ブートレッグ(密造レコード)っていうものさ!」 ダニーのせいで興味を持ってしまったオレは1枚購入し、この新しい宝物をラリーに見せびらかそうと、雨の中、せっせと自転車をこいで全速力でラリーん家{ち}に行った。そして、さらに人生が変わった瞬間が訪れた。

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 KYMSは、1970年代前半には、オレンジ・カウンティーのヒップな「アンダーグランド」ラジオ局だった。ラリーとオレはもっぱらこの局ばかりを聞いていた。オレたちはこの局が主催する無料診療所のためのチャリティー・オークションをボランティアで手伝いに行き、さまざまなラジオ・パーソナリティーと会った。ハイスクール時に親友だったデイヴィスにも会った。彼はこの局で長い間、下っ端の仕事をやっていた(デイヴィスにはグラフィック・アートの腕前があり、オレたちのために《Take Linda Surfin’》のジャケット・デザインを担当してくれた)。ラリーとオレがKYMSに行きたかった本当の理由は、そこのライブラリーには見たことのないブートレッグがあったからだ。ブートレッグに関しては、この時点ではまだ、ラリーもオレも初心者だった。知ってるものといったら、『ローリング・ストーン』誌に載ってたものや、このラジオ局で知ったものだけだった。
 まだハイスクールの生徒だったオレたちは、この非公認レコーディングという新ジャンルに熱中した。ブートレッグは入手が困難で、ヒット・チャートとは無関係というのも、その「ヒップ」な要素だった。非公認の音楽を途切れることなく供給したら、他の生徒も気に入ってくれるだろうなあと、オレたちは考えた。ラリーとオレに必要なのは、それを実現する方法を見つけることだった。つまり、卸の値段で大量のブートレッグを入手出来る場所を見つけることだった。ブートレッガーは電話帳には載ってなかったので、自分たちで探すしかなかいことは承知していた。
 ちょうどその頃、タスティンに新しいレコード店がオープンした。ラリーん家{ち}から数分のところにあるバーボン・ストリート・レコードは、新たに放課後にたむろする場所になった(オレたちは後に、ビートフ・バンドのアルバムでバーボン・ストリート・レコードの名を永久に残した)。店のオーナーのジンボが言った。「ブートレッガーから、品物を卸したいんだけどという電話があったんだが、ブートレッグを店に置いたほうがいいと思う?」 もちろん、オレたちの答えは絶対に「イエス」だ。ブートレッガーに会えるかもと思ったのは言うまでもない。時間は約束してないのだが、ブートレッガーからはいつかまた電話がかかってくるとジンボが言ってたので、その時以降、次の数日間は、ラリーとオレと交代でフロント・カウンターの周辺で張り込みをして、ジンボと本物のブートレッガーの会話を盗み聞きする瞬間を待っていた。この根気強さは遂に報われた。ラリーがカウンターのところにいた時、遂に「アール」が電話をして、ジンボにブートレッグを扱う気があるのかどうか訊いてきた。ラリーは電話番号を盗み聞きし、その48時間後には、オレたちは高校生ブートレッグ企業家になっていた。
 電話番号を入手したものの、オレたちはそれからどうしたらよいのかわからなかった。この「アール」という人物が小売店にレコードを卸してることは理解できたが、ふたりの高校生にレコードを売ってくれるのかなあ? 店を開く免許すら持ってないし。都合の良いことに、ラリーのお袋さんがタスティンに小さな衣料品店を2軒持ってるので、そこで売るためのブートレッグを購入したい、店の前の駐車場で会いたいと言えば、「アール」への説明になるだろうと考えた。もちろん、ラリーのお袋さんはそんなこと知りもしない。ということで、オレたちはそれを実行に移した。タスティンで最もオシャレな女性用衣料品店、ザ・ニュー・アンジャニューの駐車場で「アール」と会う手筈を整えたのだ。
 バーボン・ストリートで見たものから、「アール」がどんなタイトルを売ってるのか、おぼろげながらわかってはいたが、彼の到着を待ちながら駐車場で腰を下ろしてる間は、この先に何が起こるのかよくわかってなかった。午後7:00に会う約束だったのに、8:30になっても「アール」が来る気配はなかった。そろそろ諦めて、自転車をこいで帰宅しようとした時、大きな音を立てて煙を吹き出しながら、ボロボロの破損車が駐車場の向こうのほうに入ってきた。1950年製のフォード・クラブ・クーペだった。当時はまだ、1950年製フォードはカッコいい往年の名車とは思われておらず、誰も欲しがらない見苦しい代物扱いだった。少なくとも、到着した車はそうだった。
 その「車」はオレたちの前まで来て、ボボボボボ…と音を立てて停止し、バックファイアを起こして、1分ほどガタガタした後、最後に車体をぶるっと震わせて死んだ。オレが見た中で最もみすぼらしい身なりのヒッピーが出て来て、「お前らがラリーとアール?」と訊くので、「ボクたちはラリーとジョンです。おじさんがアールですか?」と答えると、「ああ、そう、そうだよ。ブートレッグを買いたいっていうのはお前ら?」って言った。 オレたちは初めてブートレッガーと会ったのだ。この瞬間は永遠に忘れない(彼の車をもう1度動かすために、オレたちは押してあげなければならなかった)。
 今度はエドと名乗るようになったこのヒッピーから、オレたちは週に2度ブートレッグを購入して、学校で売りさばいた。エドは自分でブートレッグを製造してるのではなく、他のブートレッガーが作ったレコードの卸売りをやってるだけだった。しばらくの間はこれで良かったのだが、間もなく、オレたちはエドには手に入らないタイトルが欲しくなった。もっとコネが必要だ。出来れば、実際にレコードを作ってる連中と知り合いたい。オレたちはハイスクールの域を脱する大計画を立て始めた。
 この時点で、オレはハイスクールの3年生になったばかりで、1年上のラリーは4年生になったばかりだった。オレたちは自転車ではカバーできない移動手段が必要だと感じていた。必要なのは自動車だ! どこに行ったら買えるのかは知っていた。
 白人しか住んでない白パンのようなタスティンの隣にはサンタアナ市があった。サンタアナにも金持ち白パンの地域があったが、たくさんのモーテルや中古車販売店があって、白人以外の人が暮らす地域もあった。オレたちは金を少ししか持ってなかったので、貧乏な側のほうに向かい、4番街のマレーズ・モーターズで1966年製シムカ・セダンを見つけた。当時はデトロイトの車が良いとされ、北アメリカ製の大型車が路上の主流であり、外国製の粗末な車を自宅の駐車場に置きたい奴なんていなかった。そんなのは恥ずかしいことだった。まさにこの理由で、シムカなら安く買えるんじゃないかとオレは踏んだのだ。シムカはフランス車で、オレンジ・カウンティーでは移民か共産主義者が乗ってるような車に見える。完璧だ! オレは免許を持ってない。車両を登録する術もない。保険にも入れない。だって15歳だ。そんなオレに車を売ったら違法のはずなのに、なぜかマレーズ・モーターズは売ってくれた。200ドルで。
 このシムカは実際、優れた小型車だった。特に値段を考えるとそうだった。ボディーにはへこみが数カ所あって、外装部品の一部も付いてなかったが、動きはとてもしっかりしていた。リアエンジンでエアコン付きだった。とてもコスパがいい。エンジン音もカッコいい。馬力がもう少し出るよう、もっといい排気システムが付いてればいいんだがと思ってると、ヘッダーに特注の排気システムを付けてくれるリペア・ショップがオレンジにあることを、ある友人が教えてくれた。それは「ミラクル・マフラー」というもので、値段は46ドルだった。それを装着した結果、この車はオレンジ・カウンティーで一番イカしたシムカになった。そもそも、オレンジ・カウンティーにはシムカはたった1台しかなく、カリフォルニア州全体でも、シムカは恐らくこれだけだっただろう。しかし、最も重要だったのは、ラリーとオレが動けるようになったということだった。


   



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posted by Saved at 22:33| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする