2020年11月12日

Wizardo回想録&インタビュー:第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場



聞き手:スティーヴ・アンダーソン



 ハイスクールの2年生の時に、オレはピンク・フロイドを教えられた。お袋の友人の息子がチャプマン大学に通ってたのだが、寮でマリファナを吸ってるところを見つかってしまった結果、新しい住処が見つかるまで臨時の居場所が必要となった。お袋はこいつに上の階のゲスト・ルームを提供したのだが、 お婆ちゃんには内緒ねとオレは口止めされた。この大学生が我が家に到着した際、レコード・コレクションも持って来て、その中にはピンク・フロイドの《Atom Heart Mother》が入っていた。マリファナも持って来たのは言うまでもない。こいつは喜んで、オレに両方を教えてくれた。オレはブッ飛んだ。レコードと葉ッパの両方に。

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 オレは《Atom Heart Mother》を借りると、それを持って急いでラリーん家{ち}に向かい、着くやいなや、ベッドルームのステレオでそれをかけた。ラリーもすっかりハマってしまった。こうしてオレたちはフロイドの大ファンになった。
 運の良いことに、近々、ピンク・フロイドがハリウッド・ボウルでコンサートを行なう予定だったので、演奏を録音するのがとても楽しみだった。このバンドをしっかり捉えるためにはステレオで録音する必要があると感じたオレは、友人の親父さんからコンコード製オープンリールを借りた。これは大きさこそオレのラジオ・シャック製レコーダーと同じくらいだったが、ハーフトラックのステレオだった。それから、このマシンに繋げられるように改造した[シュアの]SM-57も2本借りた。その日のショウのために優秀な録音機材を揃えたが、かなりの大きさになってしまった。
 ピンク・フロイドのハリウッド・ボウル公演にガールフレンドを連れて行くことが出来ないので(チケットを2枚しか入手出来なかった)、録音機をドレスの下に隠して会場に持ち込むといういつもの手は使えなかった。最終的に、オレは小さなバックパックの中に録音機を突っ込んで、その上から大きなジャケットを羽織り、脊柱後彎症のような格好をして、身をかがめ、足を引きずりながら歩いて進んだ。口から少しヨダレをたらすことも付け加えた。すると、警備スタッフはオレを病気持ちであるかのように避けた。完全に悪趣味だ。16歳のバカガキしかこんなことはしない。だが、これは完全に効を奏した。オレは会場にすんなり入っていった。誰もオレのチケットをチェックしなかった。ラリーとオレは美しいステレオでショウを録音することが出来たのだが、オレはこのレコーディングを自分ではリリースせず、ケンにあげて、彼がKornyfoneレーベルから《Crackers》というタイトルでリリースした。
 コンサートの時にはまだ、こうしようとは思ってなかったのだが、その2週間後、ラリーとオレは《Take Linda Surfin’》を作る際には、表ジャケット用にハリウッド・ボウル公演のプログラムに載ってた写真を利用した。「El Monkee」のロゴはゴールデン・ゲート・パークで買ったピーナッツの袋から拝借したものだ。

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 オレたちがブートレッガーとして駆け出しだった数年間に、ケンはすぐに最も重要なコネクション、及び、仕事仲間になった。リトル・ダブやマルコム・M、マイケル・Gといった西海岸のブートレッグ産業の重鎮たちにラリーとオレを紹介してくれたのもケンだった。オレはケンから20年に渡って優れたアドバイスと計り知れない援助を受け取った。ラリーとオレがブートレッグ製造ビジネスに参入するようになったのは、ケンのおかげなのだ。
 ケンは自分の友人がピンク・フロイドのスタンパー一式を売りたがってると、オレたちに持ちかけてきた。スタンパーは「ヨーロッパ製」で、アメリカのレコード・プレス機で使うには変換が必要とのことだった。もし興味があるなら電話番号を教えてやると言ったので、ラリーとオレは、即、番号を教えてもらった。ピンク・フロイドのレコードがWizardoの「正式な」リリースの第1号になると思うとウキウキした。以前に出したビートルズのブートレッグはハービー・ハワードが作ったものだから。
 ケンがくれた電話番号は、ピーター・トソロというグレンデイルに住んでるテープ・コレクターのものだった。ピーターによると、スタンパーを持っていて、ピンク・フロイドのコンサートを収録したダブル・アルバムのものだってことはわかってるのだが、どこで行なわれた公演なのかはわからないし、どの曲が収録されてるのかもわからないとのことだった。マザーもマスターも持ってない、スタンパーしか持ってないとも言っていた。つまり、実際にプレスしない限り、何が入ってるのか全くわからないレコードを、オレたちは買うことになるのだ。それに、スタンパーを壊してしまったら、もう替えはない。
 こうした可能性があるとなると、オレたちよりも思慮分別のある連中だったら絶対に見送るだろう。しかし、16歳で恐れ知らずのラリーとオレは、ピーターからスタンパーを100ドルで買うことを電話で即決した。オレたちは翌日、品物を受け取るためにグレンデイルまで行く必要にあった。というのも、ピーターはある宗教グループ(カルトと読み替えてもいい)に入信を済ませ、世俗的な所有物を売り払ったらすぐに「教化キャンプ」に向かう予定だったからだ。
 翌日はその年の最高気温を記録した日だった。エアコン付き小型車のシムカが、グレンデイルまでの長旅の間にオーバーヒートしないか心配だった。ラリーもオレもレコード製造のメタル・パーツに関しては何の経験もなく、どんなものを渡されるのかもわからなかった。ただ、スタンパーが「壊れやすい」ものだとは聞いてたので、ニトログリセリンでも載せて帰るかのように、シムカの後部座席にビリビリに破いた新聞を敷き詰めて、スタンパーを揺れの衝撃から守る準備をしておいた。(スタンパーは分厚くて重量があり、ハマーで叩いても壊れないくらいだった。大量の新聞をビリビリに破いたのは無駄だった)
 ピーターはとてもいい人だった。凄いテープ・コレクションを持っていて、ビートルズの〈What's the New Mary Jane〉のテープを聞かせてくれた。他所でこの曲を耳にする丸1年前にだ。こいつがどのようにしてフロイドのスタンパーを入手したのかも、テープ・コレクションがどうなったのかも、オレは知らない。さらには、ピーターがその後どうなったのかも知らない。彼は「スピリチュアル」な新しい人生へと向かって行った。ピーター・トソロと会ったのはその時が最初で最後だったが、Wizardo Recordsの誕生のきっかけとなったのが、こいつが持ってた謎のスタンパーだった。

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 《Take Linda Surfin’》《Miracle Muffler》のスタンパーを入手した後、次の仕事はプレス工場を探すことだった。インターネットがない時代には図書館が最高の味方だった。タスティンは例外として。タスティンの図書館には「親米的な本が200冊以上と6種の雑誌」があり、「共産主義のプロパガンダは皆無」だった。ということで、ラリーとオレはまともな図書館に行く必要があった。町の怖い地域にあるサンタアナ図書館にだ。そこに行けばロサンゼルスやハリウッドのような近所の共産主義者の生息地の『イエローページ』[職業別電話帳]があると思ったのだ。予想通り、こうした大都市の電話帳にはレコード工場の広告がたくさん載っていた。あとは選ぶだけだ。でも、どれを?
 オレたちは電話帳からプレス工場を3カ所選んだ。最初に選んだのはノース・ハリウッドのサンタモニカ・ブールヴァードにあるカスタム・フィデリティーだった。フロント・ドアを開けて、人を威嚇するような長いフロント・カウンターのある巨大ロビーを進む時、オレはビビリまくりだった。カウンターとは反対側には、ストリートが見える巨大なガラス窓が極端な角度でついていて、「どうやってキレイに拭くんだろう?」と思ったのを覚えている。大カウンターには男がたったひとりでいた。そいつはラリーとオレを見て、どんなご用件で?と訊いた。オレは唾をゴクリと飲み込んで、自分たちの「ガレージ・バンド」のレコードをプレスしてもらいたいんですという、あらかじめ練習しておいた話を始めた。説明が半分も終わってない時、突然、フロントドアが開くと、『警部マクロード』をやってる俳優、デニス・ウィーヴァーが猛烈な勢いで入って来た。テンガロン・ハットをかぶり、笑っちゃうほど派手なカウボーイ・ブーツ(色は鮮やかな赤)を履き、フル装備のカウボーイの出で立ちで登場したデニスは、ラリーとオレの前に割り込んで来た。その際、オレはつま先を踏まれた。「坊や、すまんな。大切な用事があるんだ」 ラリーはこの野郎、殺してやるといった顔をしてたが、オレはあまりに面食らって、全く言葉が出なかった。カウンターのところにいた男はミスター・ウィーバーに、今はこちらの人と話をしてるので、ちょっと待ってくれと説明したが、こいつは全く意に介さず、大声で、しかも、偽のカウボーイ風アクセントでまくし立てた。アルバム・ジャケットが届いて、中にレコードを入れる作業がしっかり出来てるのかと。ミスター・ウィーヴァーは自分をカントリー・シンガーだと思っていて、ファースト・アルバムをここ、カスタム・フィデリティーで作ったようだった。こいつは振り向いて、オレを見て言った。「オレは単なる映画スターじゃない。自分のレコード会社だって持ってるんだ!」 どうしてもそう言いたくなったのだろう。その社名はImpressive Recordsなのだとか。10分後にカウボーイ・デニスは帰り、ラリーとオレはカスタム・フィデリティーとの交渉を完了した。遂に、オレたちも自分のレコード会社を持つに至った。社名はWizardo Recordsだ。雑誌のいんちき臭い巻頭記事など必要ない。ビジネス・ライセンスも取ってない。全国放送の連続テレビ・ドラマも持ってない。大人もいない。オレたちが持ってるのは、1セットのスタンパーと、アメリカで最も儲かり、最も腐ったビジネス----音楽ビジネス----に参入したいという欲望だけだった。このビジネスは両腕を広げてオレたちを歓迎した。

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 レコードを作るために初めてカスタム・フィデリティーに行って、帰宅した時のことを覚えている。サンドイッチを作ろうとキッチンに入ると、親父とお袋はリビングのソニー製13インチのテレビで、何と『警部マクロード』を見ていて、お袋がデニス・ウィーヴァーっていいわねなんて語っていた。そっちに行って、ついさっきデニス・ウィーヴァーに会ったけど、くだらない奴だったよと言ってやろうと一瞬考えたが、思いとどまった。そんなことをしたら、学校ではなくてハリウッドに行ってたこと、レコードを作ろうとしてること、家の前になぜかとまってる謎の外車はオレのものだということも、話さなきゃいけなくなる。親父もお袋も、そこまでは知りたいとは思ってないだろう。

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 ピーター・トソロからピンク・フロイドの謎のスタンパーを購入したので、この先、どういうふうにビジネスを進めるのがベストなのかを考えなければならなかった。ダブル・アルバムではなく、1枚組のアルバムを2つ作ったほうがいいというのが、オレたちが出した結論だった。こうしたほうが利益は多く、前払い金は最小限に押さえられるからだ。どの曲が入ってるのかも、何年に録音されたのかも知らなかったので、テスト・プレスが出来るのを待ち、それを聞いてからジャケット・アートをデザインすることにしたのだが、レーベル・デザインだけはすぐに仕上げる必要があった。ラリーの寝室でマリファナを吸った後に、手書きのレーベルが誕生した。曲名の入る場所を空けておき、書き込む作業はリスナーに任せた。が、タイトルはどうしよう? タイトルも必要だ。
 オレはジャン&ディーンのレコード・コレクターだった。1970年代前半の音楽業界はジャン&ディーンの時代とはガラリと変わっており、彼らのレコードはもはや「ヒップ」とは思われてはおらず、ピンク・フロイドのようなバンドが「カッコいい」の最先端にいた。なので、もはやカッコよくない、昔のジャン&ディーンの曲名をパクって、それを超クールなピンク・フロイドの最新ブートレッグのタイトルにしてしまったら楽しいのではないかと、オレは考えた。そうしたら、昔のジャン&ディーンの歌〈Take Linda Surfin’〉が再びカッコいいものになる。立派なプロパガンダだ。ハ、ハ。笑えるだろ。ただし、タスティンのガキがマリファナでイッちゃってる状態でそう思ったってことは忘れずに。
 最初のプレスを聞いて、何の曲が入ってるのか判明したので、オレたちは曲目リストと、ハリウッド・ボウル公演のコンサート・プログラムに載ってたバンドの写真を、ハイスクールの友人、デイヴィス・ベイヤーリーに渡した。こいつはコンピューターが普及するはるか前の時代からグラフィックに取り組んでいた。こいつが巻き付け式のジャケットをデザインし、オレたちはそれを印刷した。オレは今でも、それを誇りに思っている。
 《Take Linda Surfin’》で一番苦労したのは、ディスクを挿入した後の白ジャケットに、巻き付け式のジャケットを貼り付ける作業だった。オレたちはスコッチ社のスプレー糊を使ったのだが、缶から霧状になって噴射された糊はそこら中に飛散した。「ジャケット糊付けパーティー」をラリーん家{ち}でやったのだが、仕舞にはガールフレンド同士がくっついてしまう事態になったのを覚えている。後になって聞いたことなのだが、この糊はガンの原因になるのだとか。裏庭で作業をやってたのに、家中に酷い悪臭が充満し、ラリーのお袋さんからは叱られた。あぁ、懐かしいなあ。
 ピーターから譲り受けたスタンパーはアメリカで作られたスタンパーよりも分厚く(しかも、銅の補強があった)、アメリカのプレス機では使えないものだった。イギリスのスタンパーは驚嘆すべき代物だった。アメリカで作られるスタンパーより10倍は長持ちするものだった。手持ちのスタンパーしかないので(マザーもマスターもない)、製造することの出来るレコードの量は、マスターがどのくらい長持ちするか次第だった。アメリカのスタンパーは非常に薄くて、とても壊れやすく、1,000枚ほどプレスしたら、取り替える必要があるのだが、イギリス製スタンパーは絶対に壊れない。作業終了後にそれを[Vicki Vinylの]アンドレアにあげたところ、こいつはそれで何年間もレコードを製造し続けたくらいだ。

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 スワップミートをブートレッグ用の儲かる市場と認識してたのは、ラリーとオレだけではなかった。ケンもそうだった。南カリフォルニアで行なわれてたオレンジ・ドライヴインより大きなスワップミートというと、ラミラダのスワップミートだけだった。ラミラダ・ドライヴインは、ケンとヴェスタが自分のレコード・チェーンをオープンする数年前に、週末に小売りビジネスをやってたところだった。ふたりは長年、そのスワップミートでファニー・ピッグ[The Smoking Pig]のレコードを売ってたのだが、たまにお店を休みした時には、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまでオレたちに会いに来て、商売の様子を気にかけてくれたり、助言してくれたりした。
 ある土曜日、ケンが突然現れたので、オレたちはビックリした。その時、ケンが教えてくれた優れた販売術は、そのまま、もしくは、少しアレンジを加えて、オレが家庭電化製品を売ってた時期にも使い続けた。オレは当局の捜査を妨害するために、7年間、大学への入退学を繰り返した後に仕事を変えていた。1970年代後半に、ブートレッグ・ビジネスから一時的に退散する必要ありと感じた時に始めたのが家電の販売で、これをやってた時にはブートレッグを作ってた時よりも稼ぎは多かった。だが、ブートレッグの楽しさと興奮に欠けてたので、これを自分のキャリアだとは考えたことはない。ケンからはたくさんの教訓を学んだが、「販売」テクニックを教授してくれたおかげで、オレは金をかなり稼がせてもらった。
 まさにその日、ケンが並べてあるブートレッグを見渡して、「一番売れないレコードはどれだ?」と訊くので、オレは答えた。「よくわかってるでしょう。あなたが「ジュニア・ブラインド」[視覚障害者のためのチャリティー団体?]用に作ったドノヴァンの《The Reedy River》ですよ」 《The Reedy River》は、ドノヴァンが放送メディアに出た時の演奏を、彼の隠れファンのケンが丁寧に編集して作った優れもののブートレッグだ。 デラックス仕様のブートレッグを出したイタリアのレーベル、Jokerがコピーしたのもこのレコードなのだ。素晴らしいレコードなのに、全然売れない。6カ月間に1枚も売れてない。ということで、ケンは言った。「お客さんが在庫の商品を全部見て「これで全部ですか?」と訊いてくることって何度ある?」 オレは答えた。「殆ど全てのお客さんがそう言いますよ」 「それじゃ、やるべきことはこうだ」とケンは言った。「ドノヴァンのブートレッグを棚からはずして、車のトランクに隠しておけ。次に誰かが「これで全部?」って訊いてきたら、「ええ」って答えてから、一瞬、間をおいて「ドノヴァンのレア盤以外は」って言うんだ。そのレコードは超レアだから、厳重に保管しておく必要があるんだと説明しろ。すると、その客は見せてくれないかと必ず言ってくる。そしたら、トランクから1枚取り出して売ればいい。このやり方でいつもOKさ」 オレはそんなにうまくいくはずないと思ったが、5分も経たないうちに、お客さんが、ここにあるもので全部ですか?と訊いてきた。その時、ケンを見たら、ニコニコしていた。
 1時間もしないうちに、《The Reedy River》は5枚全部売れてしまった。凄え! これに詐欺行為は全く関与してないと思う。《The Reedy River》は貴重なブートレッグだ。購入したお客さんたちも、気に入ってくれたし。
 ケンはオレを見て言った。「今度はリトル・ダブの作ったブラッド・スウェット&ティアーズのブートレッグをトランクにしまえ」 これは魔法のテクニックだった。あらゆるものに通用した。
 ケンとの関係を通じて、ラリーとオレはリトル・ダブを紹介してもらった。ダブはケンが《Great White Wonder》《LIVEr》を作った時、及び、オリジナルのTrade Mark of Qualityレーベルを作った時のパートナーなのだが、オレたちが初めてケンと会った時には、このパートナーシップを解消しようとしている真っ最中だった。財政的にどんな取り決めがなされたのかは全く知らないが、最終的にはレーベルが2つの別々のTMQになるという結果になった。一方はケンが経営し、他方はリトル・ダブが経営した。「木版画」スタイルのブタの絵をTrade Mark of Qualityの文字が囲んでいるオリジナルのロゴを継承したのはダブのほうだった。「ブタ」の絵はリトル・ダブの小切手帳からパクったものだ。当時、バンク・オブ・アメリカは顧客の小切手に載せる絵の案をいくつか用意しており、「ブタ」の絵はそうした選択肢の1つだった。ケンは自分のTMQレーベル用に新しいロゴを採用し、「木版画」のブタを、ウィリアム・スタウトが描いたブタのイラストに変更したが、Trade Mark of Qualityという名前はそのまま使用した。業界内では、ケンの新レーベルは「ファニー・ピッグ」と呼ばれ、リトル・ダブのレーベルはオリジナルTMQとして通用した。
 ケンとのパートナーシップを解消した後、リトル・ダブの新パートナーとなったのは自分の父親、ビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブはずっと郵便局の職員として働いてたのだが、ある日、地下室に行った時に、自分の息子がブートレッグで稼いだ金、3万ドルを数えているのを目撃した。その瞬間、Trade Mark of Qualityはファミリー・ビジネスとなった。地下室(リトル・ダブのベッドルーム)はオフィス兼ブートレッグ問屋となり、TMQは以前よりもはるかに組織化された。ラリーとオレはレコードを購入するために、毎週、そこに巡礼した。取引は常に地下のオフィスにいるビッグ・ダブと行なった。オレはビッグ・ダブが大好きだった。ビッグ・ダブはラリーとオレのユーモアのセンスを気に入ってくれた。いたずらばっかりするオレは、いつも「馬の首」[ホースネックというカクテルがあるが、それと関係があるのかは不明。情報求]と呼ばれた。とても気前が良く、新リリースやテスト・プレス、まだ公表してないアートワークをいち早く見せてくれりもした。後に、オレのパートナーとなるジミー・マディンに紹介してくれたのもビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブは当時のブートレッグ産業において大きな役割を果たしてたのだが、コレクターにはその存在を殆ど知られてなかった。レーダーによる捕捉を巧みに避けてたのだ。



   


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posted by Saved at 21:38| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする