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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち
回想録&インタビュー
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち
聞き手:スティーヴ・アンダーソン
● あなたが昔、利用していた他の工場についても教えてください。レインボ・レコードとか。
レインボ・レコードはサンタモニカにあった。フリーウェイ10号線を降りて、フリーウェイ5号線から海まで延々と続く工場の建物の間に、レインボ・レコードがあった。サンタモニカ・シヴィック・センターから遠くはなかったので、そこでコンサートをたくさん録音しては、後になってそのレコードをレインボでプレスした。この工場はシンダーブロック[石炭殻を用いた軽量ブロック]で作られた大きな2階建てのビルの中にあった。このビルは恐らく1950年代に建てられたものだと思うけど、レコードのプレス機はもっと新しくて、1960年代に製造されたものだった。手動の機械だったが、とても高音質のレコードが出来た。
1970年代のレインボ・レコードの一番いいところが駐車場だ。南カリフォルニアのあらゆる都市と同じく、サンタモニカも自動車が多過ぎて駐車スペースが足りなかったんだが、レインボは工場のビルの屋上に駐車場を作ることでこの問題を解決していた。急なドライヴウェイを上がって屋上に出ると、そこはだだっ広い平らな屋根で、ここにとめてくださいなんていうスペースの指示はなかった。車をとめた後、駐車場の一番北のところまで歩いて行き、そこにある小さな建物のドアから中に入ると急な階段があって、それをおりるとレインボのロビーがあった。
レインボの屋上はペンキで駐車スペースが記されてはいなかったが、どこにでも車をとめていいわけではなかった。1960年代後半に、グレン・キャンベルは『ザ・グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』というテレビ番組を持っていた。放送時間は忘れてしまったが、何らかの理由で、毎回、ショウの最後にはレインボ・レコードの屋根のシーンが流れた。屋根のあちこちにセットや背景幕、支柱があったので、グレン・キャンベル・ショウの中を縫うように進んで車をとめなければならなかった。現実世界とは思えない。ディズニーランドの乗り物のようだった。オレは8mmカメラを持って来て、ラリーが屋上のセットのまわりを走ってる映画を作った。そのフィルム、今はどこにあるのかなあ?
以前、レコード産業は腐ってたって話をしたけど、レインボも他社と同様、腐っていた。つまり、皆が腐ってたってことだ。全員がだ。ブートレッグ(と音楽の海賊行為)の歴史の中でレインボがどんな立場だったかがよくわかる話を2つしよう。
「正規の」レコード会社が契約アーティストから利益をぼったくる最たるやり方の1つが、「プロモーション盤」や「カットアウト盤」を作ることだ。ラジオ局や評論家に送られるプロモーション用レコードからは、アーティストは印税をもらえない。同じく、在庫過剰のため、ジャケットを「カットアウト」した上で割引価格で小売り業者に売られるレコードからも、アーティストは印税をもらえない。帳簿外で独立系のプレス工場にカットアウト盤やプロモ盤を作らせれば莫大な利益を上げられることにレコード会社が気づくまで、長い時間はかからなかった。つまり、こういうカラクリがあるんだよ。あなたがレコード会社だとしよう。そして、キャット・スティーヴンスのような売れっ子アーティストを抱えている。そいつには《Tea For The Tillerman》のような大ヒット・アルバムがある。10万枚売れた時点で、キャト・スティーヴンスに告げるんだ。売れ行きが止まっちゃったので、そろそろ在庫はカットアウトにして値下げして売って、倉庫のスペースをあけましょうって。でも、そんなの嘘だ。レコードはまだ売れている。そんな時に、レインボに行ってさらに10万枚製造して、カットアウトとして問屋に売るんだ。レコード会社はキャット・スティーヴンスに印税を払わないから、同じくらい儲かる。税金もなし。しかも、帳簿外で。レコードが本当に売れなくなるまでこのプロセスを繰り返す。キャット・スティーヴンスの場合、レコードが売れなくなるなんてことはない。レインボはもっぱらキャピトルのためにカットアウト盤やプロモーション盤を製造して経営を続けてきた。1970年代半ばにキャピトルはビートルズのベスト盤《Rock'N'Roll Music》をリリースした。その頃、レインボがオレのメタル・パーツを誤って破損してしまったため、弁償したいと言ってきたことがあった。オレは現金ではなく、ビートルズのニュー・アルバムを2箱分もらったよ。中のアルバムは全部、ジャケットに「Promotional - Not For Sale」っていうスタンプが押してあった。キャピトルがやってるのと同じように、オレもそれを売り払った。
ジミー・マディンがオレのブートレッグ・パートナーだった頃、ジミーは全タイトルを1つのプレス工場で製造して、経営体制を集中させようとした。ジミーはアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ[第3回を参照のこと]の部長をしてた頃からレインボ・レコードのことを知ってたので、ビジネス契約の話し合いを行なうために、レインボの社長のジャック・ブラウンとのミーティングの約束を取り付けてくれと言ってきた。オレはこの件に大きな懸念を抱いていた。いろんなブートレッガーがレインボでレコードをプレスしてるのは知ってたが、その殆どは「1回限り」であって、1タイトル作ったら次は別の工場に行くという具合だった。新たにアルバムを30枚も持ってって、レインボ・レコードで大規模なブートレッグの製造を行ないたいと社長に告げるとなると、話は違うだろう。ドアの外に放り出されることになるかもとオレは思ったが、とにかくミーティングの約束は取り付けた。財布の紐を握ってたのはジミーだったので、彼が勧める通りにやってみることにした。
ジミーはオレよりかなり年上で、グレイの髪がバーコード状態になってたが、着てるスーツが古くてシワがあっても堂々としていた。ジャックとミーティングをするためにレインボに到着した時にも、ジミーはそういう格好をしていた。案内された2階にあるジャックの巨大なオフィスには、1950年代にレインボが発足した当時からの調度品があった。巨大な木製の机の向こうで葉巻を吹かしてる大柄の男がジャックだった。オレたちは彼の机の前にある人工皮革のソファーに腰を下ろすように言われた。既にビビッてはオレは、緊張しながら口上を開始した。私どもは小さなレコード会社でして、現在、まだ約30タイトルしかリリースしていませんが、最新の設備があって、料金が手頃なプレス工場を探しています…と。オレのプレゼンは順調に進み、ジャックも相づちを打ちながらオレの話を聞いていた。と、突然、オレの話を遮って質問してきた。「リリースしたのはどんな種類のレコードですか?」と。気まずい沈黙。ゲーム終了って思ってジミーのほうを見ると、こいつはジャックに向かっていたって冷静に言った。「今更、どうしてそんなこと質問するんだよ?」 またまた長い沈黙。オレはジャックがすぐにでも警察に電話をかけるんじゃないかと思ったが、彼は笑い始めた。すると、ジミーも笑い始めた。オレも笑い始めた。ジャックは葉巻をワイルドに振りながら大声で笑った。「オレっていったい何を考えてたんだ?」とでも言うかのように。オレたちはクスクス笑いながら握手をした。そして、Wizardoはまさにその翌日にはレインボでレコードのプレスを開始した。レインボとオレたちは、その後、何年間も、良いビジネス関係を維持した。
● あなたは当時、大量のブートレッグ・コレクションを持っていたそうですが、好きなバンドのブートレッグだけを買っていたのですか? アーティストは関係なく、持っていないものなら何でも買っていたのですか? ビニールの色やレーベルの違いも重要だったのですか? つまり、多くのコレクターと同様、あらゆるバージョンを揃えるために、同じ内容のブートレッグを何枚も買っていたのですか? それとも、タイトルごとに1枚あれば満足だったのですか? 『Hot Wacks』を抜かしたら、あなたは世界初のハードコアなブートレッグ・コレクターなので、どういう方針で収集していたのか、是非聞かせて欲しいのですが…。
ラリーとオレがブートレッグを集め始めたのは《Get Back To Toronto》を手にした日だね。それから1週間もしないうちに、お気に入りのアングラFM局 (KYMS)が《LIVEr Than You'll Ever Be》を流したんだ。DJが「スーパーマーケットの裏や薄暗い路地でしか買えないブートレッグ・レコードの1つです」って話してたよ。オレたちは虜になった。ラリーもオレも、地元のセイフウェイ[スーパーマーケット・チェーン]の裏ではブートレッグは手に入らないことは知っていた。それ以外のことは全然わからなかった。ウィンの楽器店には《Get Back To Toronto》しか置いてなかった。言うまでもなく、大きなデパートのレコード売場のカウンターにはブートレッグは置いてなかった。なので、オレンジ・カウンティー中にどんどん出現してるカラフルなヘッドショップや小さな独立系のレコード店なら置いてあるかもと考えたんだが、ラリーとオレの暮らすタスティンはそういう店は皆無だった。長髪や音楽、レコード、その他の共産主義的活動は、タスティンにおいては御法度だった。12歳の時、タスティンの警官から『ライ麦畑でつかまえて』を没収されたことがある。「キミがポルノを読んでるのを、お父さん、お母さんはご存じのかな?」って怒り心頭だった。トホホ。ちょっと脱線しちゃったね。
ラリーもオレも自動車を運転出来る年齢じゃなかったから、なかなか見つからないブートレッグ・レコードを探して、自転車のペダルを必死にこいで走り回らなければならなかった。楽しかったなあ。フランス製の10段変速の自転車を持っていて、お宝を見つけたらそれを入れるためのバックパックを背負ってた。自転車で行ける限りの、あらゆるサイケデリックなレコード店やヘッドショップをあたったよ。こうした遠出のおかげで、最初のブートレッグは全部、手に入れることが出来た。《LIVEr》《Great White Wonder》《Isle of Wight》など、見つけたものは全部買った。こうした非正規盤には驚き、魅了された。全部、持ってなきゃいけないと感じてた。一生治らない中毒だ。
オレのブートレッグ・コレクションは初版が中心だった。全アーティストが対象だった。このビジネスの中にいたので、作ってる奴から新譜を直接手に入れるのは簡単だった。殆どのリイシューやビニールの色違いには関心がなかった。最初にリリースされたバージョンのみを集めていた。ヨーロッパ製のブートレッグについては、リカルドとフェリーっていう2人のオランダ人に頼っていた。彼らがいなかったら入手困難だったものを、たくさんオレに流してくれた。アンドレアは時々ヨーロッパに行くたびに、驚きの土産を持ち帰った。あるイタリアのブートレッガーの全カタログをお土産に持って帰って来たこともあった。存在してるとは知らなかったものをね。当時、ブートレッグを収集する際、「本拠地」にいるっていう強みも確かにあっただろう。今でもこうしたブートレッグは全部持ってるよ。
ブートレッグ界の初期に活躍してた無名のヒーローの中で、マルコム・Mはオレの一番のお気に入りだ。マルコムはケンの友人で、オレらがロングビーチ大学[カリフォルニア州立大学ロングビーチ校]に通ってた頃に会った。マルコムがブートレッグ・ビジネスを始めたのは、たぶん、そういう人間関係があったせいだと思う。バッファロー・スプリングフィールドの《Roots》、ジェファーソン・エアプレインの《Winterland》、グレイトフル・デッドの《Fillmore》など、オレが大好きだったアルバムをたくさん作った。マイケルはルイスのプレスは糞だと思ってたので、自分の出すレコードの殆どをレインボで製造していた。マルコムは6フィート[180cm]を超える高身長で、立派なもみあげとオシャレな口ひげを持っていた。カールした髪を前は短く、後ろは長くしていて、頭頂部は薄かった。マイケルは、オレにとっては、1970年代のカッコ良さの頂点だった。
ブートレッガーは皆、自分のことをクールだと思っていた。ブートレッガーであること自体がとにかくクールなんだからって理由でね。でも、全てのブートレッガーの中でもマルコムは一番カッコよかった。しゃべり方がカッコよかった。ジェイムズ・キャグニーのスタイルで、口の半分でしゃべるんだけど、こいつは流暢に自然に首尾一貫してやっていた。先祖代々、そういう血が流れてるんじゃないかなって思ったくらいさ。でも、お袋さんに会ったら、ごく普通のしゃべり方だったので、それはマルコムだけのものだった。しかも、素敵だった。マルコムはとても興味深い奴で、こいつの声だったら何時間でも聞いていられる。
マルコムはロングビーチの、ケンとヴェスタの家から遠くないところにアパートメントを持っていた。オレはマルコムのところに遊びに行くのが好きだった。それもこれも、こいつが一番カッコいいブートレッガーだったからなのだが、最大の理由はブートレッグ・コレクターの第1号だったらだ。リビングルームはこいつのブートレッグ・コレクションでいっぱいだった。棚や箱に入りきらない大量のレコードが床の上にいくつもの長い列を作っていた。そんなのは見たことがない。オレはこうしたレコードをぱらぱらめくって、見たことのない凄いブートレッグを見つけるのが好きだった。マルコムは超カッコいい奴だった。ある日、オレが部屋の隅にある「新入荷」の山を忙しくチェックしてると、こいつは何気なく「帰宅する時、封筒に入った金をレコードのどれかに隠しといたんだけど、見つからないんだよ。見つけたら教えてくれ」なんて言う。冗談を言ってるんだと思ってたのだが、約20分後、《Ballsy Blues》というタイトルのジャニス・ジョップリンのブートレッグを見つけ、それを拾い上げたら封筒が落ちて、100ドル札70枚が床に散らばった。最近では7,000ドルなんてそんなに大金ではないが、あの時は、自宅のリビングで7,000ドルもレコードの中に入れてなくすなんて相当ビックリした。それもマイケルのカッコいいところだった。
たいていのブートレッガーと同様、マルコムも強い冒険心の持ち主だった。冒険心は基本的には持ってるといい性質だが、マイナス面は、慎重さを欠いてる場合、人生の悪い選択を招いてしまいかねないってことだ。オレを含む殆どのブートレッガーと同じく、マルコムもマルコムなりに人生の選択を誤ることがあった。こいつの人生はジェットコースターだった。ある週、金持ちだったと思うと、次の週は乞食だった。でも、マルコムはいつもカッコよかった。
● ある時期、Wizardoのインサートは見た目がだいたい同じになりました。誰のせいですか?
ジャケットのあのスタイルのアートワークは、皆のジャックとジョーンが作ったんだ。こいつらはハリウッドの芸能人の取り巻きで、皆の知り合いのようだった。ジョーンは魔女で、ジャックはさすらいのタクシー運転手(当然もぐり)で、チャールズ・マンソンがマリファナを宅配をやる時には、こいつの車によく乗っていた。ジャックとジョーンは古いセシル・B・デミル監督のの防音スタジオで結婚式を挙げた。オレがこいつらと会ったのは、ハリウッドの古株、ジミー・マディンを通してだった。ジミーは長年、Wizardoの隠れたパートナーを務めてくれた人物だ。1950年代には自分のテレビ番組を持ってる有名なサックスプレイヤーで、1960年代にはアメリカン・インターナショナルの音楽部長となり、その後、ナイトクラブのオーナーとなった。何かの風の吹き回しでビッグ・ダブと知り合いになり、ブートレッグの製造に興味を示したのだが、ビッグ・ダブの息子のリトル・ダブはジミーと関係を持とうとしなかったので、オレのところに電話をかけてきて、財政面の支援者は必要ないかと訊いた。その後のことは、俗に言う、皆さんご存じの通りだ。最初の10枚くらいをリリースした後、ジミーもオレもジャック&ジョーンの屁人ぶりにウンザリして、電話番号も変えて、インサートのアートワークも変えたんだ。
インサート作りに関しては、ブートレッガー全員が超怠け者だが、一番怠け者なのがオレだった。何らかの理由で、インサートはさっさと作られることが多かった。「やべえ。ツェッペリンのブートレッグを明日出荷しなきゃいけないのに、インサートを印刷するのを忘れてた」とかさ。その結果、オレのブリーフケースには、方眼紙とゴム糊、ペンナイフ、擦ると下の紙に文字が移るレタリング・シート、雑誌から切り取った写真やらがわんさか入っていた。印刷機の前でインサートをこしらえるためにだ。雑誌からは写真と一緒に、インサート用にリサイクル出来そうなグラフィック・アートやテキストも切り取っておいた。この好例がパティー・スミスのブートレッグ《Turn It Up》だ。「Turn It Up」の文字は『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたマクセルの広告からパクったものだ。Wizardoのブートレッグの多くのインサートは『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたグラフィックからパクったものを使っている。あの頃のオレがどんなものを読んでたか、バレてしまうなあ。
ハイスクール時代、オレにはスービー(SueBee)っていうブロンド美人のガールフレンドがいた。蜂蜜のようにスウィートだからスービーだったのだが、彼女は3人の友達と一緒にザ・ドゥービー・シスターズというアカペラ・グループをやっていた。面白いことに、彼女らがこの名前を選んだのは、もうちょっと有名なザ・ドゥービー・ブラザーズというグループの活躍がオレの耳に届くようになる数年前のことだった。シスターズは時代を先取りしてたと言える。このグループはしばしば、Bトフ・バンドと一緒に歌ってたが、そのことで彼女らを責めないでくれ。ザ・ドゥービー・シスターズの他のメンバー、マーシー・ブロウスタインも、オレがタスティンの実家で暮らしてた頃のご近所さんだ。
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