2021年01月30日

ガスライト・テープを録音したエンジニア・インタビュー

 このインタビューも『Flagging Down The Double E's』に掲載されていたものです。ブログ主のレイさんのご厚意で、ここで日本語版を掲載してよいことになりました。

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ガスライト・テープを録音したエンジニア・インタビュー

聞き手:レイ・パジェット


 「オレはディラン関連で語られることが多いね」とリチャード・オルダーソンは言う。ディランとの仕事は彼の長いキャリアの中でほんの一時のことだったのだが、オルダーソンは特に次の2点で語られることが多い。まず、有名な1962年のガスライト公演を録音した人物として、次に、1966年のサウンド・エンジニアとしてだ。もしオルダーソンが音の記録を残していなかったら、我々が「ジューダス!」という野次を耳にすることもなかったのだ。



 1966年のライヴ・レコーディングを収めたボックス・セットの宣伝用に、リチャードの仕事に関する短いドキュメンタリー・ ビデオ(↑)が発表されているのだが、今回、私が彼に電話インタビューを行なった際には、話の焦点を「セカンド・ガスライト・テープ」として知られているもののほうに絞った(ファースト・ガスライト・テープは1961年のライヴを収めたものだ)。オルダーソンによると、このテープは正確な日付は不明だが、10月中に2晩に渡って、カフェの営業時間後にディランが新曲を試演した様子を収録したテープを合わせたものであり、最初の晩は、ディランがヴィレッジ界隈で1年以上歌ってきた伝統フォークのレパートリーを演奏し、2晩目には、〈A Hard Rain's A-Gonna Fall〉等、新曲の初期バージョンを演奏したのだという。2005年に《Live At The Gaslight 1962》としてリリースされたこのレコーディングは、公式に発売されたディランのコンサートとしては最古のものである。しかし、オルダーソンによると、このアルバムは彼が録音したマスターテープではなくブートレッグ・バージョンを使っており、17曲中10曲しか収録していないので、完全とは言えないものなのだそうだ。
 ということで、私がリチャード・オルダーソンにセカンド・ガスライト・テープについていろいろ質問した結果は以下の通りである:

まず、1960年代にどういうかたちでグリニッジヴィレッジのシーンにやって来たのですか?

 初めてそこに来たのは、1955年、18の時だ。オハイオ州レイクウッドから来たんだよ。両親と一緒に観光でグリニッジ・ヴィレッジに来たことがあって、そこで暮らしたいと思うようになり、小さなリュックサックに本数冊と着替えを入れて、現金75ドルを持って、グレイハウンド・バスに乗って来たのさ。
 クラシック音楽について豊富な知識を持ってるつもりだったんで、まずはサム・グッディーズ・レコード店に行ったんだ。チェーンになる前の1号店にね。販売員の仕事があったらいいなあと思ってさ。そしたら、一笑に付されてしまい、与えられたのは通販部の仕事だった。そこじゃクラシック音楽の知識なんて全く役に立たなかったよ。でも、仕事に就けて良かった。そこには2年いたな。
 その後、オハイオに戻った。サム・グッディーズで働いてたってことで、こっちでもレコード店に就職した。昔からオーディオが趣味だったんで、クリーヴランドのダウンタウンにあるレコード店にオーディオ部門を作った。
 ニューヨークにいた頃から、いい仕事があるかもって聞いてたんだけど、誰かがニューヨークから電話か手紙でその仕事があるぞって知らせてくれたんだ。それで、長男を妊娠中の新しい妻と一緒にニューヨークに戻ったんだ。

どんな仕事だったのですか?

 タリア・ハイファイ・オーディオ店で、ステレオを取り付ける仕事だった。この会社はもともとは西96丁目にあったんだけど、マディソン・アヴェニュー&65丁目に引っ越した。オレはいろんな金持ちや有名ミュージシャンの家に行ってオーディオ機材を取り付けた。
 店からすぐのところにシャーマン・フェアチャイルドが住んでいた。彼はアメリカで一番金持ちの男だったが、オレはそんなこと知らなかった。父親の遺言で相続したIBMの株を大量に持っていた。相当な変人で、独身主義者だったが、オーディオ・マニアでもあった。フェアチャイルド・オーディオっていう自分のオーディオ会社も持ってたんだけど、全然儲かってなかった。オレはフェアチャイルドの個人的なオーディオ・アシスタントとして雇われた。彼の金持ちの友人宅にオレがオーディオ装置をセットした際の仕事ぶりが気に入られたんだ。それが音響のプロとしてのキャリアの始まりだった。
 フェアチャイルドからは、クデルスキ・ナグラのモノラル・レコーダーをもらった。彼を通してボブ・ファインと友達になった。マーキュリー・リヴィング・プレゼンスの初期のレコードは全部、ボブが録音したものだ。彼はオレの師匠になった。たくさんのマイクロホンをもらったよ。オレがやった最初のボブ・ディランの録音はそのナグラとマイクを使ったんだ。ガスライトでね。

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その日、ガスライトに行った時にはもう、あなたはヴィレッジのシーンに関わっていたのですか? ボブ・ディランが何者なのかは知っていたのですか?

 ああ。オレはブリーカー・ストリート148番地で暮らしていて、チンプ・マンクことエドワード・ハーバート・ベレスフォードと友達になった。彼はヴィレッジでは有名な存在だった。ハリー・ベラフォンテからニーナ・シモンにいたるまで、全ての人間に、オレがトーマス・エディソン以来、最も優秀なレコーディング・エンジニアだって説明してくれた。ヴィレッジ・ゲートにオレのサウンド・システムを導入するよう説得したのもチップ・マンクだ。
 彼はガスライトの新オーナーとも知り合いだった。フッド親子だ。そこにはサウンド・システムはなかったんで、オレはまあまあのスピーカーを2台設置した。そこは小さな部屋で、せいぜい50人くらいしか入らないので、アンプなんて必要なかったんだが、フッド親子としては、もっとたくさんの人を引きつけたかったんだ。
 
当時、あの界隈ではたくさんのフォーク・クラブがありましたが、ガスライトの評判はどうだったのですか? たくさんあるうちの1つって感じでしたか?

 たくさんあるうちの1軒だったけど、フッド親子はとてもいい人だった。ビジネスマンていうよりは理想主義者だったね。親父のクラレンス・フッドはフロリダ州北部の出身で、金をたんまり持っていた。ミリオネアのレベルだったと思う。だが、あのクラブは全然儲かってなかった。開店当初は入場料を取ってなかったんだよ。出演者が演奏を終えると、投げ銭用のカゴを回して、集まった金を演奏家とクラブのオーナーとで折半するってシステムだった。だから、誰も大金は稼ぐことが出来なかった。

ヴィレッジのクラブで他にもいろんなアーティストの演奏を録音していたのですか? ボブ・ディランは特別ですか?

 ヴィレッジ・ゲートでは何度かこっそり録音したことがある。セロニアス・モンクを録音した。しばらく前にLPとして発売された。ロニー・ロリンズやジョン・コルトレーンも録音した。どれも、天井に1本のマイクロホンを仕掛けておいて、こっそり録音したものだから、あまり良い音じゃない。

音響システムを設置する時にマイクロホンを仕込んでおいたのですか?

 こっそりとマイクを天井に仕込んでおいたんだ。1カ月くらい付けてあったかな。ブートレッガーになることにも隠れて録音することにも興味がなかったんで、取り外しちゃったよ。誰かに気がつかれる前にやめたかったから。

ガスライトでディランを録音した時の裏話を教えてください。

 チップがやって来て、ディランはいくつか新曲を持っていて、演奏する予定だって言った。ディランはよくチップの部屋にやって来た。ヴィレッジ・ゲートにはチップの部屋があって、ディランはそこに入って来て、タイプライターを自由に使い、赤ワインを飲んで、いろんな話題についてあれこれ意見を言っていた。そこそこ才能のある魅力的な青年だったが、数々の名曲を書くことになるとは誰も予想してなかったよ。
 2晩連続だったと思うけど、確かなことは言えない。最初のコンサートは古いボブ・ディランで、2番目のコンサートは多少新しいディランだった。ディランが名声に向かって突き進んでいったのは2晩目以降だってことは明白だ。

ディランはパフォーマーとしてはどうでしたか? その頃にはもう、名曲を書き始めてはいましたが、
ステージ上での存在感とかはいかがでしたか? まだ、ぎこちなかったですか?

 全部が組み合わさってたね。名曲を書きながら、ボブ・ディランというアーティストに成長したんだよ。オレは最初は、可も不可もないって感じたんだが、曲を書き始めるや否や、最上という評価になった。別のレベルに移行したわけさ。
 オレはガスライトに行って演奏を録音し、カーネギー・ホールにある自分のスタジオでディランにそれを聞かせた。マネージャーにテープのコピーをあげたんで、ブートレッグはそれが元になってるに違いない。他の誰かにコピーをあげた記憶はないからね。

ディランの反応は覚えていますか?

 一緒にマリファナを吸いながら聞いて、ボブは音にとても満足してたけど、オレはコロムビアでのスタジオ・レコーディングにもっと集中したほうがいいと感じた。[レコードに収録されてるものより]良い出来の曲が多かったからさ。ガスライト・テープの〈A Hard Rain's Gonna Fall〉は他のどこで録音したものよりも優れている。

ライヴ・アルバムを出すという話があったのですか?

 いや。ライヴ・レコーディングに関しては、コロムビアはそんなに関知してなかったと思うし、ボブも自分のオリジナリティーを人前で披露してはいなかった。1962年のガスライト公演は営業時間後の演奏であって、歌った曲も試験的なマテリアルだった。
 [コロムビアは、その43年後に《Live At The Gaslight 1962》をリリースした際]最も状態の良いレコーディングを求めてあらゆるところを探したって言ってたけど、オレのところには全然来なかったよ。連中はダウンロードしただけさ。それでも音は良好だが、オレのところにあるものはマスターテープから直接、1回しかコピーを経てないものだ。
 ボブ・ディランのオフィスが[その後]オレからガスライトのマスターテープを購入したんで、今はあいつらがテープを持っている。アルバム・ノートには事実に反することが書いてあって、レコーディングに関してあれこれ嘘の主張をしてるわけだが、一度出しちゃったんで、再び出したいとは思わないだろうな。

えっ! ということは、正規に発売されたアルバムは、あなたが録音したテープが幾度かのコピーを経たものなのですか? それとも、全然違うレコーディングなのですか?

 オレのレコーディングだが、しっかり扱われたものじゃない。オレは当時、マネージャーだったアルバート・グロスマンにレコーディングをあげたんだ。インターネット上にある音源は、コピーを重ねたものだと思う。非常に質の悪いバージョンだ。オレのテープとは全然違う。

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ガスライト時代から1966年のツアーまでの間に、ディランやグロスマンと交流はありましたか?

 なかったね。1966年のツアーをやる段階になった時、ボブは既にエレクトリックになっていて。音の増幅について知ってる人間を探していた。オレはその心得のある数少ない人間のうちの1人だった。ハリー・ベラフォンテは自分専用の音響機材を持ち、音響エンジニアは全てのコンサートの音響を担当しなければならないと契約書に明記した最初の人物だった。ベラフォンテにやり方を教え込まれ、それを広めたのがオレだ。ピーター・ポール&マリー等、グロスマンのアーティストのコンサートの仕事もたくさんやったけど、コンサートの音響にはあまり興味がなかった。自分のレコーディング・スタジオを作って、レコーディング・エンジニアになりたかったんだよ。コンサートの音響は金を稼ぐ手段だった。給料だね。
 ザ・ホークスの件は知ってたし、ボブの新しい曲のほうが好きだった。ディランのコンサートは[あの時以来]全然見てないけど、ずっとファンだよ。

当時の会場でロック・バンドのPAをやるのはどんな感じでしたか?

 音楽用に設計された会場なんて皆無だった。エレクトリック・バンド用には音を十分なくらい増幅することは出来なかった。アコースティック・セットは良かった。ディランのヴォーカルとギターだけの時はいい具合に大きくすることが出来たが、バンドとなると、ドラムはでかいし、ギターもでかいし、時にはオルガンもでかかった。ステージでのバランスが良くなかったんで、PAを良いバランスにするのは難しかった。皆、でかい音でプレイしたがったから。

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ライヴ・テープのほうが、当時、観客に聞こえていた音よりいいですか?

 同じだよ。いい時もあれば、そうでない時もあった。どの機材よりも会場の音響のほうが影響大だ。機材はいつも同じものを使ってたからさ。うまくいったコンサートもあれば、音の増幅が足りなくてバランスが滅茶苦茶だったコンサートもあった。

特にどの会場が難しかったか覚えていますか?

 ロイヤル・アルバート・ホールは大問題だった。あそこは5、6,000人収容だったから。オレたちがコンサートをやった平均的な会場は、せいぜい2,000席の規模だった。いつもはホールにあるスピーカーを使ってたんだけど、ロイヤル・アルバート・ホールはアコースティック音楽用に設計されていた。PAを使う音楽用には設計されてない。
 ディランはこういうものが欲しいっていう確固たるアイデアを持っていたんだが、そんなもの、当時は存在しなかった。ロック・コンサートのPAを扱う奴なんて誰もいなかった。1年後に、ザ・フーがそれを始めるまではね。

そのせいでディランとあなたの間に緊張状態が生じたりしませんでしたか? あなたの機材では出すことが無理な音をディランが求めたりして。

 そういうこともあったねえ。でも、これがオレに出来る限界っていうのは状況のせいだってディランもわかっていた。ボブはただ、状況をよくしたいってだけだった。そして、それは無理だった。オレに責任を押しつけることはなかったよ。

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全てのショウをステージの袖から見ていて、観客は伝説通り敵意に満ちあふれた状態だったのですか?

 そうだった時とそれほどでもなかった時があったが、敵意を持ってたのは20%程度だ。敵意を声に出して表明する連中はね。声には出さないが、敵意を持ってた連中もいたかもしれないけどさ。雰囲気が悪いまんまのコンサートは殆どなかったよ。ディランはエレクトリックになるべきではない、フォーク音楽の中にとどまるべきだって思ってた連中がいて、そいつらは自分の気持ちを声に出した。しかも、マスコミにそうけしかけられていた。

あの有名な「ジューダス」という野次は、それが飛んだ瞬間に、あなたの耳にも入っていたのですか?

 いや。全く気にとめてなかったよ。いろんな音が一緒くたに入って来てたんで、それには気づかなかった。
 他にもショウはあったのに、レコーディングがその瞬間を捉えてたおかげで、あのショウが伝説になってるっていうのは面白いね。
 オレは、ディランはロックンロールのアーティストだって、ずっと感じていた。ディランがフォーク・アーティストだと思ったことはない。あくまでオレの偏見だけどね。でも、ディランがフォーク・アーティストになったのは、それが自分を表現するたった1つの方法だったからだ。ディランが書くまでは、誰もシリアスなロックンロール・ソングを書いてなかったよ。

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 時間を割いてインタビューに応じてくれたリチャード・オルダンーソンに感謝します。オルダーソンは2021年中に出すことを目処に、回想録『Open the Door Richard』を書いているところなのだとか。

The original article "Richard Alderson on Recording Dylan's Gaslight and 1966 Shows" by Ray Padgett
https://dylanlive.substack.com/p/richard-alderson-on-recording-dylans
Reprinted by permission


  
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2021年01月26日

1晩、1曲だけのバイオリン・プレイヤー、ボビー・ヴァレンティノ・インタビュー

 『Flagging Down the Double E’s』という面白ウェブページに面白いインタビュー記事があったので、ブログ主の了承を得てここでも紹介します。


1晩、1曲だけのバイオリン・プレイヤー、
  ボビー・ヴァレンティノ・インタビュー


聞き手:レイ・パジェット


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 先月、1987年の『テンプルズ・イン・フレイムズ』ツアーの記事を2つ書いていて、ひとつの注釈が目に留まった。トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズとの長期にわたる公演の締めくくりとなったウェンブリー・アリーナ連続公演の1日目(10月14日)のセットリストに、それはあった。8番目の曲〈Lenny Bruce〉に付いている註に「Bobby C. Valento (violin)」と記されているのだ。
 こんな名前の人は知らないし、バイオリン・プレイヤーがボブのコンサートに飛び入りするのも極めて異例のことだ。この人物がボブとプレイしたことは後にも先にも、これ1回限りだ。それに、彼のファミリー・ネームは正しくはValentinoだった。私は該当の曲のビデオを探してYouTubeにアップした。酷いアングルから撮影されたものでボビーの姿は見えないが、演奏は聞こえる。



 私はボビー・ヴァレンティノに電話インタビューを行ない、1987年のあの晩のディランのショウの1曲でバイオリンを弾くことになった経緯を聞いた。ボブのことについても話したが、ボブと長期に渡る関係を持っていたトム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズについても話題にした。以下がそのインタビューである:

● 私が1、2週間前に送るまで、そのレコーディングは聞いたことはなかったのですか? 第一印象は?

 音源が存在するのは知ってたけど、聞いたことはなかったなあ。もっと上手に弾くことが出来たのにとも思うけど、そんなに悪い演奏じゃない。あらかじめ曲を知ってたら、もっといい演奏になってただろうなあ(笑)。

● あの歌を演奏することになった経緯を覚えていますか? 〈Lenny Bruce〉は普通だったら選ばないんじゃないですか?

 詳しい経緯は忘れちゃったよ。この曲は聞いたことがなかった。オレはボブ・ディランのことだったら何でも知ってるって人間じゃない。ヒット曲やアルバム数枚だけしか知らなかった。
 《Damn the Torpedoes》ツアーに参加して以来、時々、トム・ペティーとは共演してるんだ。そのツアーではザ・ファビュラス・プードルズというバンドで前座を務めてたんで、とても仲良くなったんだ。トムがヨーロッパに来た時には、何度もゲストとして飛び入りしたよ。「ウェンブリー公演に来いよ」ってトムから誘われたんで、毎晩、演奏したのさ。〈Louisiana Rain〉に参加した晩もあれば、〈Stories We Could Tell〉をやった晩もあった。
 ある晩、[トムのセットの後に]ステージの隣のVIPセクションで静かに座ってたら、ハートブレイカーズの面々がボブ・ディランと何やら打ち合わせをしてるのが見えたんだ。すると突然、ギタテクが現れて言ったんだ。「ボブからの要請だ。今すぐステージに来てくれ」って。オレはそこに行って、バイオリンのケーブルをプラグインした。演奏中、トム・ペティーが私に向かってコードを叫んでくれたよ。

● なぜ、どうしてそういうことになったのか、心当たりはありますか? その晩、あなたがトムと共演するのをボブは見ていたのでしょうか?

 全くわからない。トムが「あいつを呼ぼう。何でも即興で弾いちゃうからさ」って言ったのかもしれない。オレは即興は得意なんだ。曲がどういうふうに進行するのか、素早く把握することが出来る。最初のヴァースは殆ど何も演奏してない。「ああ、こういう構造なんだ。了解」ってわかったあたりで、歌に合わせて演奏し始めた。9,000人の前で即興で演奏して、とても満足だった。

● あの1曲の前、もしくは後に、ボブと会話はしましたか?

 あまり話してないよ。ボブはとても人見知りでさ…。オレは「とても楽しかったです」とは言ったんだ。あの後、メイフェア・ホテルのバーで少し話したんだけど、どんな内容だったのかは忘れたよ。どってことのない話だったと思うね。
 そして、最後の晩にはジョージ・ハリスンが来ていた。ジェフ・リンやリンゴ、当時、ボブと交流のあった人全員がいた。ショウの後、皆がボブ・ディランの楽屋に詰めかけて、ちょっとしたパーティーをやっていた。オレはトム・ペティーの楽屋に向かった。あっちに行けるレベルの人間じゃなかったからね。でも、トムがオレを呼びに来たんだ。「ボブの楽屋に来い」って。主な理由は、当時、オレたち全員、スモーカーで、オレがとても品質の良いブラック・ハシシを持ってたからだと思う。ボブがオレに言ったもう一言が「ジョイントを巻いてくれよ、ボビー」だった。

● トムとハリスン、ジェフ・リン、ボブ・ディランが楽屋にいたということは、トラヴェリング・ウィルベリーズのプロトタイプですね。

 ジョージ・ハリスンから「Traveling Wilburys」って書いてあるピックをもらったよ。その頃は、ウィルベリーズのことを耳にした人なんて誰もいなかった。イギリスにいる時、ウェイブリッジにあるジョージ・ハリスンのスタジオで少しレコーディングしてたのかもしれないね。

● 《Damn the Torpedoes》ツアーであなたのいたバンドがオープニングを務めた時に、ペティーと親しくなったとおっしゃいましたが、その後はどんなお付き合いをしていたのですか?
 
 その後は、ハートブレイカーズが再びUKに来るまで、飛び入りすることはなかった。トム・ペティーが『Rock Goes to College』というテレビ番組に出演したんだよ[1980年]。これはバンドが大学でコンサートを行なう様子を紹介してた番組だ。トムから「オックスフォードにあるカレッジでコンサートをやるんだけど、プレイしに来ない?」って電話があったんで、オレも出演したんだ。



 その晩はあまりいいソロを弾けなかったんだが、約2日後のハマースミス公演ではもっとずっといいソロが弾けて、それが《Pack Up the Plantation: Live!》[1985年発表]に入っている。[1980年3月7日〈Stories We Could Tell〉]

● 《Damn the Torpedoes》ツアーにはどういう経緯で参加することになったのですか? どういうふうにしてトムと親しくなれたのですか?

 トム・ペティーのファースト・アルバムとセカンド・アルバムが大好きだったんだ。ハートブレイカーズはアメリカでブレイクするる前に、イギリスではビッグな存在だった。ザ・プードルズにはブライアン・レインていうマネージャーがいて、当時ペティーのマネージャーをやってたトニー・ディミトリアデスか誰かと知り合いで、サポート・アクトの仕事を取ってきたんだ。
 彼らはオレたちがイギリスのパンク・バンドだと思って、ちょっと心配だったらしい。パンク・バンドとイギリス・ツアーをやった時、いろいろ大変だったらしいんだ。でも、すぐに、オレたちが楽しい連中だってわかってくれた。ペティーのツアー・マネージャーから宣伝用写真をもらうと、それに髭を描いて渡したりした。あいつらはそれを面白く感じて、オレたちに同じことをした。そうして、どんどん親しくなっていって、次の朝には誰がどっちのバスに乗ってるのかわからない状態になっていた。ホテルを出た後、あいつらがオレたちのバスに乗ってたり、オレたちがあいつらのバスに乗ったりしてさ。

● トム以外のメンバーとも仲良くなったのですか?

 全員とね。スタンはよく笑う奴だった。ベンモントは素晴らしいミュージシャンだった。マイク・キャンベルもね。こいつの奏でるメロディックなギターは、ただただゴージャスだ。〈American Girl〉のエンディングは、練習してバイオリンで弾けるようになってしまったくらいさ。

● それをマイクには披露したのですか?

 ああ。「お前、すげえな!」ってなってたよ。実際、ギターで弾くよりバイオリンで弾くほうがはるかに簡単なんだ。速いフレーズはバイオリンではとても簡単だ。バイオリンではゆっくり弾くより速く弾くほうがはるかに簡単なんだよ。ゆっくり弾くとなると、正確かつなめらかに演奏する必要がある。

● ボブ・ディランとはそうそう共演出来るものではありません。千客万来って人ではありませんし。

 通し稽古でもしてたら、もっと上手に出来たと思うね。オレは即興が不得意ってわけじゃない。セッション仕事の中には、文字通り、リハーサルとして演奏したものが使われてるケースがたくさんあるし。誰かにコードを叫んでもらう必要があったけどさ。

● この場合、トム・ペティーが〈Lenny Bruce〉の演奏中にコードを叫んでくれたのですね。

 ああ。ステージ上でオレに向かって「C、F、Aマイナー」って叫んでくれた。どのキーだったかは思い出せないんだけどさ。Cだったっけかな。

● 〈Lenny Bruce〉のオリジナル・バージョンは聞いたことがありますか?

 いや。レコードは持ってなかったと思うよ。シングル曲だったら苦労はしなかっただろう。何度かラジオで聞けば、頭の中に入っちゃうからね。
 面白いことに、ボブは照明が自分にストレートに当たるのが好きじゃなかった。それでボブを責めることは出来ないよ。明るい照明が自分に当たると、目にとって辛いんだよ。だから、ボブには正面から照明を当てさせないんだ。そうすると、ステージ上でとても心地いいらしい。観客の様子も見ることが出来るし。

● ウェンブリー4公演全部に出向いたのですか?

 もちろん。どの晩かは忘れたけど、100年に1度の大暴風雨に見舞われたことも覚えてるよ。ハリケーンだった。ケント州にセヴンオークスっていう町があって、草原に本当にオークの木が7本立ってたんだけど、あの夜が明ける頃には3本になってたんだ。
 その嵐が来る前に、オレたちは皆で、トニー・ディミトリアデス[ペティーのマネージャー]のお兄さん[弟?]がソーホー・スクエアでやってるレストランに行ったんだけど、その晩、皆が帰った後、午前3時頃に、ソーホー・スクエアの木が倒れて、このレストランを直撃したんだよ。

● ディランのステージに飛び入りしたことや、ペティーとの交流に関して、私が訊き忘れている面白い話はありますか?

 あると思うけど、今すぐには思い出せないな。ボブはいい人みたいだった。ちょっと人見知りをするタイプだとは思ったね。人に寄ってこられてばかりだからじゃないかな。エネルギーがほとばしってる人間じゃないのには、オレは驚かなかった。


 時間を割いてインタビューに応じていただいたことを感謝します。ボビー・ヴァレンティノの関わっているプロジェクトについてもっと知りたい人は、このウェブサイトをチェックのこと。
 
1987年10月14日のウェンブリー・アリーナ公演のフル・ショウはここで。

The original article “He Was Bob Dylan's Violin Player…For One Song” by Ray Padgett
https://dylanlive.substack.com/p/he-was-bob-dylans-violin-playerfor
Reprinted by permission


    
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