2021年01月30日

ガスライト・テープを録音したエンジニア・インタビュー

 このインタビューも『Flagging Down The Double E's』に掲載されていたものです。ブログ主のレイさんのご厚意で、ここで日本語版を掲載してよいことになりました。

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ガスライト・テープを録音したエンジニア・インタビュー

聞き手:レイ・パジェット


 「オレはディラン関連で語られることが多いね」とリチャード・オルダーソンは言う。ディランとの仕事は彼の長いキャリアの中でほんの一時のことだったのだが、オルダーソンは特に次の2点で語られることが多い。まず、有名な1962年のガスライト公演を録音した人物として、次に、1966年のサウンド・エンジニアとしてだ。もしオルダーソンが音の記録を残していなかったら、我々が「ジューダス!」という野次を耳にすることもなかったのだ。



 1966年のライヴ・レコーディングを収めたボックス・セットの宣伝用に、リチャードの仕事に関する短いドキュメンタリー・ ビデオ(↑)が発表されているのだが、今回、私が彼に電話インタビューを行なった際には、話の焦点を「セカンド・ガスライト・テープ」として知られているもののほうに絞った(ファースト・ガスライト・テープは1961年のライヴを収めたものだ)。オルダーソンによると、このテープは正確な日付は不明だが、10月中に2晩に渡って、カフェの営業時間後にディランが新曲を試演した様子を収録したテープを合わせたものであり、最初の晩は、ディランがヴィレッジ界隈で1年以上歌ってきた伝統フォークのレパートリーを演奏し、2晩目には、〈A Hard Rain's A-Gonna Fall〉等、新曲の初期バージョンを演奏したのだという。2005年に《Live At The Gaslight 1962》としてリリースされたこのレコーディングは、公式に発売されたディランのコンサートとしては最古のものである。しかし、オルダーソンによると、このアルバムは彼が録音したマスターテープではなくブートレッグ・バージョンを使っており、17曲中10曲しか収録していないので、完全とは言えないものなのだそうだ。
 ということで、私がリチャード・オルダーソンにセカンド・ガスライト・テープについていろいろ質問した結果は以下の通りである:

まず、1960年代にどういうかたちでグリニッジヴィレッジのシーンにやって来たのですか?

 初めてそこに来たのは、1955年、18の時だ。オハイオ州レイクウッドから来たんだよ。両親と一緒に観光でグリニッジ・ヴィレッジに来たことがあって、そこで暮らしたいと思うようになり、小さなリュックサックに本数冊と着替えを入れて、現金75ドルを持って、グレイハウンド・バスに乗って来たのさ。
 クラシック音楽について豊富な知識を持ってるつもりだったんで、まずはサム・グッディーズ・レコード店に行ったんだ。チェーンになる前の1号店にね。販売員の仕事があったらいいなあと思ってさ。そしたら、一笑に付されてしまい、与えられたのは通販部の仕事だった。そこじゃクラシック音楽の知識なんて全く役に立たなかったよ。でも、仕事に就けて良かった。そこには2年いたな。
 その後、オハイオに戻った。サム・グッディーズで働いてたってことで、こっちでもレコード店に就職した。昔からオーディオが趣味だったんで、クリーヴランドのダウンタウンにあるレコード店にオーディオ部門を作った。
 ニューヨークにいた頃から、いい仕事があるかもって聞いてたんだけど、誰かがニューヨークから電話か手紙でその仕事があるぞって知らせてくれたんだ。それで、長男を妊娠中の新しい妻と一緒にニューヨークに戻ったんだ。

どんな仕事だったのですか?

 タリア・ハイファイ・オーディオ店で、ステレオを取り付ける仕事だった。この会社はもともとは西96丁目にあったんだけど、マディソン・アヴェニュー&65丁目に引っ越した。オレはいろんな金持ちや有名ミュージシャンの家に行ってオーディオ機材を取り付けた。
 店からすぐのところにシャーマン・フェアチャイルドが住んでいた。彼はアメリカで一番金持ちの男だったが、オレはそんなこと知らなかった。父親の遺言で相続したIBMの株を大量に持っていた。相当な変人で、独身主義者だったが、オーディオ・マニアでもあった。フェアチャイルド・オーディオっていう自分のオーディオ会社も持ってたんだけど、全然儲かってなかった。オレはフェアチャイルドの個人的なオーディオ・アシスタントとして雇われた。彼の金持ちの友人宅にオレがオーディオ装置をセットした際の仕事ぶりが気に入られたんだ。それが音響のプロとしてのキャリアの始まりだった。
 フェアチャイルドからは、クデルスキ・ナグラのモノラル・レコーダーをもらった。彼を通してボブ・ファインと友達になった。マーキュリー・リヴィング・プレゼンスの初期のレコードは全部、ボブが録音したものだ。彼はオレの師匠になった。たくさんのマイクロホンをもらったよ。オレがやった最初のボブ・ディランの録音はそのナグラとマイクを使ったんだ。ガスライトでね。

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その日、ガスライトに行った時にはもう、あなたはヴィレッジのシーンに関わっていたのですか? ボブ・ディランが何者なのかは知っていたのですか?

 ああ。オレはブリーカー・ストリート148番地で暮らしていて、チンプ・マンクことエドワード・ハーバート・ベレスフォードと友達になった。彼はヴィレッジでは有名な存在だった。ハリー・ベラフォンテからニーナ・シモンにいたるまで、全ての人間に、オレがトーマス・エディソン以来、最も優秀なレコーディング・エンジニアだって説明してくれた。ヴィレッジ・ゲートにオレのサウンド・システムを導入するよう説得したのもチップ・マンクだ。
 彼はガスライトの新オーナーとも知り合いだった。フッド親子だ。そこにはサウンド・システムはなかったんで、オレはまあまあのスピーカーを2台設置した。そこは小さな部屋で、せいぜい50人くらいしか入らないので、アンプなんて必要なかったんだが、フッド親子としては、もっとたくさんの人を引きつけたかったんだ。
 
当時、あの界隈ではたくさんのフォーク・クラブがありましたが、ガスライトの評判はどうだったのですか? たくさんあるうちの1つって感じでしたか?

 たくさんあるうちの1軒だったけど、フッド親子はとてもいい人だった。ビジネスマンていうよりは理想主義者だったね。親父のクラレンス・フッドはフロリダ州北部の出身で、金をたんまり持っていた。ミリオネアのレベルだったと思う。だが、あのクラブは全然儲かってなかった。開店当初は入場料を取ってなかったんだよ。出演者が演奏を終えると、投げ銭用のカゴを回して、集まった金を演奏家とクラブのオーナーとで折半するってシステムだった。だから、誰も大金は稼ぐことが出来なかった。

ヴィレッジのクラブで他にもいろんなアーティストの演奏を録音していたのですか? ボブ・ディランは特別ですか?

 ヴィレッジ・ゲートでは何度かこっそり録音したことがある。セロニアス・モンクを録音した。しばらく前にLPとして発売された。ロニー・ロリンズやジョン・コルトレーンも録音した。どれも、天井に1本のマイクロホンを仕掛けておいて、こっそり録音したものだから、あまり良い音じゃない。

音響システムを設置する時にマイクロホンを仕込んでおいたのですか?

 こっそりとマイクを天井に仕込んでおいたんだ。1カ月くらい付けてあったかな。ブートレッガーになることにも隠れて録音することにも興味がなかったんで、取り外しちゃったよ。誰かに気がつかれる前にやめたかったから。

ガスライトでディランを録音した時の裏話を教えてください。

 チップがやって来て、ディランはいくつか新曲を持っていて、演奏する予定だって言った。ディランはよくチップの部屋にやって来た。ヴィレッジ・ゲートにはチップの部屋があって、ディランはそこに入って来て、タイプライターを自由に使い、赤ワインを飲んで、いろんな話題についてあれこれ意見を言っていた。そこそこ才能のある魅力的な青年だったが、数々の名曲を書くことになるとは誰も予想してなかったよ。
 2晩連続だったと思うけど、確かなことは言えない。最初のコンサートは古いボブ・ディランで、2番目のコンサートは多少新しいディランだった。ディランが名声に向かって突き進んでいったのは2晩目以降だってことは明白だ。

ディランはパフォーマーとしてはどうでしたか? その頃にはもう、名曲を書き始めてはいましたが、
ステージ上での存在感とかはいかがでしたか? まだ、ぎこちなかったですか?

 全部が組み合わさってたね。名曲を書きながら、ボブ・ディランというアーティストに成長したんだよ。オレは最初は、可も不可もないって感じたんだが、曲を書き始めるや否や、最上という評価になった。別のレベルに移行したわけさ。
 オレはガスライトに行って演奏を録音し、カーネギー・ホールにある自分のスタジオでディランにそれを聞かせた。マネージャーにテープのコピーをあげたんで、ブートレッグはそれが元になってるに違いない。他の誰かにコピーをあげた記憶はないからね。

ディランの反応は覚えていますか?

 一緒にマリファナを吸いながら聞いて、ボブは音にとても満足してたけど、オレはコロムビアでのスタジオ・レコーディングにもっと集中したほうがいいと感じた。[レコードに収録されてるものより]良い出来の曲が多かったからさ。ガスライト・テープの〈A Hard Rain's Gonna Fall〉は他のどこで録音したものよりも優れている。

ライヴ・アルバムを出すという話があったのですか?

 いや。ライヴ・レコーディングに関しては、コロムビアはそんなに関知してなかったと思うし、ボブも自分のオリジナリティーを人前で披露してはいなかった。1962年のガスライト公演は営業時間後の演奏であって、歌った曲も試験的なマテリアルだった。
 [コロムビアは、その43年後に《Live At The Gaslight 1962》をリリースした際]最も状態の良いレコーディングを求めてあらゆるところを探したって言ってたけど、オレのところには全然来なかったよ。連中はダウンロードしただけさ。それでも音は良好だが、オレのところにあるものはマスターテープから直接、1回しかコピーを経てないものだ。
 ボブ・ディランのオフィスが[その後]オレからガスライトのマスターテープを購入したんで、今はあいつらがテープを持っている。アルバム・ノートには事実に反することが書いてあって、レコーディングに関してあれこれ嘘の主張をしてるわけだが、一度出しちゃったんで、再び出したいとは思わないだろうな。

えっ! ということは、正規に発売されたアルバムは、あなたが録音したテープが幾度かのコピーを経たものなのですか? それとも、全然違うレコーディングなのですか?

 オレのレコーディングだが、しっかり扱われたものじゃない。オレは当時、マネージャーだったアルバート・グロスマンにレコーディングをあげたんだ。インターネット上にある音源は、コピーを重ねたものだと思う。非常に質の悪いバージョンだ。オレのテープとは全然違う。

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ガスライト時代から1966年のツアーまでの間に、ディランやグロスマンと交流はありましたか?

 なかったね。1966年のツアーをやる段階になった時、ボブは既にエレクトリックになっていて。音の増幅について知ってる人間を探していた。オレはその心得のある数少ない人間のうちの1人だった。ハリー・ベラフォンテは自分専用の音響機材を持ち、音響エンジニアは全てのコンサートの音響を担当しなければならないと契約書に明記した最初の人物だった。ベラフォンテにやり方を教え込まれ、それを広めたのがオレだ。ピーター・ポール&マリー等、グロスマンのアーティストのコンサートの仕事もたくさんやったけど、コンサートの音響にはあまり興味がなかった。自分のレコーディング・スタジオを作って、レコーディング・エンジニアになりたかったんだよ。コンサートの音響は金を稼ぐ手段だった。給料だね。
 ザ・ホークスの件は知ってたし、ボブの新しい曲のほうが好きだった。ディランのコンサートは[あの時以来]全然見てないけど、ずっとファンだよ。

当時の会場でロック・バンドのPAをやるのはどんな感じでしたか?

 音楽用に設計された会場なんて皆無だった。エレクトリック・バンド用には音を十分なくらい増幅することは出来なかった。アコースティック・セットは良かった。ディランのヴォーカルとギターだけの時はいい具合に大きくすることが出来たが、バンドとなると、ドラムはでかいし、ギターもでかいし、時にはオルガンもでかかった。ステージでのバランスが良くなかったんで、PAを良いバランスにするのは難しかった。皆、でかい音でプレイしたがったから。

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ライヴ・テープのほうが、当時、観客に聞こえていた音よりいいですか?

 同じだよ。いい時もあれば、そうでない時もあった。どの機材よりも会場の音響のほうが影響大だ。機材はいつも同じものを使ってたからさ。うまくいったコンサートもあれば、音の増幅が足りなくてバランスが滅茶苦茶だったコンサートもあった。

特にどの会場が難しかったか覚えていますか?

 ロイヤル・アルバート・ホールは大問題だった。あそこは5、6,000人収容だったから。オレたちがコンサートをやった平均的な会場は、せいぜい2,000席の規模だった。いつもはホールにあるスピーカーを使ってたんだけど、ロイヤル・アルバート・ホールはアコースティック音楽用に設計されていた。PAを使う音楽用には設計されてない。
 ディランはこういうものが欲しいっていう確固たるアイデアを持っていたんだが、そんなもの、当時は存在しなかった。ロック・コンサートのPAを扱う奴なんて誰もいなかった。1年後に、ザ・フーがそれを始めるまではね。

そのせいでディランとあなたの間に緊張状態が生じたりしませんでしたか? あなたの機材では出すことが無理な音をディランが求めたりして。

 そういうこともあったねえ。でも、これがオレに出来る限界っていうのは状況のせいだってディランもわかっていた。ボブはただ、状況をよくしたいってだけだった。そして、それは無理だった。オレに責任を押しつけることはなかったよ。

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全てのショウをステージの袖から見ていて、観客は伝説通り敵意に満ちあふれた状態だったのですか?

 そうだった時とそれほどでもなかった時があったが、敵意を持ってたのは20%程度だ。敵意を声に出して表明する連中はね。声には出さないが、敵意を持ってた連中もいたかもしれないけどさ。雰囲気が悪いまんまのコンサートは殆どなかったよ。ディランはエレクトリックになるべきではない、フォーク音楽の中にとどまるべきだって思ってた連中がいて、そいつらは自分の気持ちを声に出した。しかも、マスコミにそうけしかけられていた。

あの有名な「ジューダス」という野次は、それが飛んだ瞬間に、あなたの耳にも入っていたのですか?

 いや。全く気にとめてなかったよ。いろんな音が一緒くたに入って来てたんで、それには気づかなかった。
 他にもショウはあったのに、レコーディングがその瞬間を捉えてたおかげで、あのショウが伝説になってるっていうのは面白いね。
 オレは、ディランはロックンロールのアーティストだって、ずっと感じていた。ディランがフォーク・アーティストだと思ったことはない。あくまでオレの偏見だけどね。でも、ディランがフォーク・アーティストになったのは、それが自分を表現するたった1つの方法だったからだ。ディランが書くまでは、誰もシリアスなロックンロール・ソングを書いてなかったよ。

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 時間を割いてインタビューに応じてくれたリチャード・オルダンーソンに感謝します。オルダーソンは2021年中に出すことを目処に、回想録『Open the Door Richard』を書いているところなのだとか。

The original article "Richard Alderson on Recording Dylan's Gaslight and 1966 Shows" by Ray Padgett
https://dylanlive.substack.com/p/richard-alderson-on-recording-dylans
Reprinted by permission


  
posted by Saved at 14:51| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする