2021年10月29日

『ミネアポリス・パーティー・テープ』を録音したのはオレの親父だ

文:リーフ・パターセン


 1960年夏、当時15歳だった私の親父、クリーヴ・パターセンはレイディオ・シャック[家電チェーン]に行って、初めて市販されたポータブルのオープンリール・レコーダーの1つを買いました。それは足のせ台[中が空洞でしばしば物入れとして用いられる]ほどの大きさで、同じ大きさの石ほどの重さがありました。値段は50ドルでした。今の貨幣価値に換算すると400ドルくらいでしょう。なので、15歳の少年にとっては小さな買い物ではなかったはずです。
 親父には、ディンキータウンのコーヒーハウスのミュージック・シーンに食い込んでいた近所のマセたガキ、ボル・ゴルファスという友達がいました。そして、ゴルファスにくっついて何度かディンキータウンに行くうちに、数人のミュージシャンと出会いました。その中には「スパイダー」・ジョン・キーナー、トニー・グローヴァー、故デイヴ・レイがいました。3人はグループを結成し、「キーナー・レイ・グローヴァー」という名前でアルバムを何枚かリリースしています。
 ジョン&アラン・ローマックス親子は1930年代、40年代にアメリカ南部を旅して(フォードのセダンのトランクに重さ300ポンド[136kg]の「最新式」のワイヤー・レコーダーを積載していたのだとか)、国会図書館のためにアメリカの民俗音楽の収集・保存を行なっていましたが、親父は彼らのフィールド・ワークに刺激されて、後世のためにディンキータウンのミュージシャンの演奏を録音しようと決めました。このシーンのミュージシャンの中には、野心に燃えた15歳の記録係の思い通りにさせてくれる者は誰もいなかったのですが、ひとりだけ例外がいました。19歳のボブ・ディランです。
 前年の秋に、ディランはアイアン・レンジからミネアポリスにやって来ていました。表向きはミネソタ大学に通うためでしたが、誰の説明によっても、彼はあまり授業には出席せず、殆どの時間をギターを弾いて過ごしていたとのことです。ディランは、最初の頃は、ディンキータウンの14thアヴェニューSE&4thストリートの角のゲイリーズ・ドラッグストアの上にある、路地を見下ろすアペートメントで暮らしていたのですが、その後、15thアヴェニューSEの711番地にある、目立たない2階建ての、張り出し窓のついたマルチユニット・ビルに引っ越しました。
 ミネアポリスでのボブは、大学での席は空席のままでしたが、フォークとブルースにますます情熱を注ぎ、喫茶店で小さなギグを行なっていました。ミネアポリス・パーティー・テープとして、長年、畏敬の念をもって知られている音源が録音されたのは、ボビー・ズィママンから「ボブ・ディラン」に変身した後ですが、オリジナル曲をせっせと書き始める前という頃でした。
 親父の回想によると、ディンキータウンのフォーク・シンガーたちは、皆、似たり寄ったりで、同じ曲をだいたい同じやり方で歌っていたそうです。そういう集団の中でも、ディランは一番うまい歌手とは思われてはいませんでしたが、親父にとって都合の良いことに、ディランは自分がどんな歌声をしているのか、自分の耳で確かめたいという強い好奇心を持っていたのです。ディランは一番録音したいと思っていたシンガーではありませんでしたが、親父は、大学生たちが、少しの間、自分を仲間に入れてくれたのをありがたく思っていました。

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 ということで、ある日の午後、親父とゴルファスはテープ・レコーダーを15thアヴェニューSEの1階のアパートメント(アスベストだらけのこの建物は、2014年に取り壊されました)までやっとの思いをして運び、リビングでのジャム・セッションを収録しました。その時、パーティーに居合わせた人の中には、ガールフレンドのボニー・ビーチャー(後に、グレイトフル・デッド界隈やウッドストックで有名になるウェイヴィー・グレイヴィーと結婚しました)や友人のシンシア・フィッシャーがいました。
 ざっと2時間のうちに、ボブとボニーとシンシアはワインを1本飲み干しながら、合計31分、12曲を録音しました。〈Come See Jerusalem〉〈I Thought I Heard That Casey When She Blowed〉〈I'm Gonna Walk the Streets of Glory〉など、殆どの曲がウディー・ガスリーやジミー・ロジャーズといったアーティストのカバーでしたが、ボブが無精なルームメイトのことを歌った1分長のオリジナル曲、〈Hugh Brown〉もありました。

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 ディランはまだディランになってはいませんでした。録音から数十年経った後に親父は言いました。「ディランだって知らなかったら、誰かがディランの下手くそな真似をしてるようにしか聞こえないね」 しかし、このテープはディランの最初期のレコーディングの1つとして重要な歴史的資料であり、ディランの音楽的成長を記す、ささやかながら貴重極まりないレポートの役割を果たしています。プロの音質でレコーディングするのは、この2年後のことです。
 テープは時々、聞き苦しい音になっていますが、驚くほどクリアな箇所もあります。曲と曲の間では後ろで話す声やノイズが聞こえ、〈Liberty Ship〉では愛想の良いディランがシンシアと冗談を言い合っています。ボブは曲の途中、曲と曲の間に頻繁に咳をしており、部屋にいる人が次に歌う曲の提案をしても、ボブはためらいがちで、どの歌をテープに録音したらいいのか気持ちを思い切れないでいます。
 ディランは頻繁にテープを止めて、巻き戻して、録音したばかりの自分の歌を聞いています。そうしているうちに、録音状態が悪いのはマイクロホンを置いたテーブルが振動するせいだということが判明し、その後は、親父がセッションが終わるまで、マイクを手で持ってディランのほうに向けていました。音質も向上しています。全部の演奏が終わった時、ディランはテープを巻き戻して、もう1度全体を聞きたいと言いました。その後、親父とゴルファスは帰り、親父がディランと再び会うことはありませんでした。
 同じ年の12月に、ディランは学業を放棄してニューヨークのグリニッジヴィレッジに行きました。そして、1年もしないうちにコロムビア・レコードと契約を結び、快進撃が始まりました。
 長年の間、ミネアポリス・パーティー・テープはあまり知られてはいませんでした。粗末なコピーが作られたことはありますが、2005年に親父がオリジナル・テープをミネソタ歴史協会に寄付するまでは、最もハードコアなディラン研究家でさえこの重要なレコーディングを聞いたことがありませんでした。このテープそのものは棚にはありませんが、CDとカセット・コピーは貸してもらえて館内で聞くことが可能です。コピーを作ることは禁止です。

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 親父がテープを寄付したというニュースをディランのスタッフが聞きつけてくれたおかげで、ミネアポリス・パーティー・テープの一部は、たまたまその頃、制作中だったマーティン・スコセッシが監督のドキュメンタリー映画『No Direction Home』(2005年公開)に収録され、トラックの1つ〈Rambler, Gambler〉は《The Bootleg Series, Vol.7: No Direction Home》にも収録されました。このぎりぎり間に合った貢献のおかげで、親父はニューヨークで行なわれた映画の封切りに招待されました。
 私は長年、旅行ライターとして活躍しているのですが、この話を世界中の人にすると、皆、目を見開いて夢中になって聞いてくれました。ミネアポリス・パーティー・テープの伝説を知っている人は特に喜んでくれます。まるで、私の言葉を通して時間をさかのぼり、若きディランのエッセンスに触れたかのようにです。私の話には「ミネアポリスは荒涼とした凍土地帯だって、皆から思われているよな。1960年代前半の時点で既にそうではなかったのに」という気持ちが言外にこもっているのですけどね。プリンスとリプレイスメンツが出てきてようやく、ミネアポリスは音楽の町として、世間から認められるようになりました。渋々ですが…。
 ミネアポリスは有名な町ではないかもしれませんが、ここには素晴らしい才能を輩出してきたという奥の深い歴史があります。ボビー・ズィママンはミネアポリスで偉業を成し遂げたわけではないですが、彼がハイウェイ61を進み、ローリング・ストーンを経由して歴史になる前に(私と親父もそれに少し乗っけてもらえたわけですね)、この町がその方向性を与えたことは否定出来ません。

元記事:
My father recorded young Bob Dylan: How the historic "Minneapolis Party Tape" was made
https://www.salon.com/2019/05/08/my-father-recorded-bob-dylan-at-19-how-the-historic-minneapolis-party-tape-was-made/?fbclid=IwAR3TTtnycsZo767aR6Uivq-QFVFb9n2zka4yozf3_BnmigiIjZfUMJS4gjw"

写真:
Dylan Party Tape: 1960
https://twincitiesmusichighlights.net/concerts/dylan-party-tape-1960/

   
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2021年10月28日

映画『HELP!』に出演したインド人ミュージシャン

ビートルズ、ジョージ・ハリスンとのエピソード

文:パンディット・シヴ・ダヤル・バティッシュ


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 ロンドン北部のハイゲイトの近く、フィンスベリー・パークのバーチントン・ロードにある自宅の電話が鳴りました。私はBBCの移民用番組編成部に招かれて、バーミンガムで毎週行なっているインド人とパキスタン人ミュージシャンによるビデオ撮影のために、作曲と指揮を担当していたのですが、そこから帰って来て30分もしない時でした。
 電話に出るのは私の娘、スレンドラのいつもの役割だったので、彼女が受話器を取り、いつものように「ハロー」と言いました。この時の電話の主は、私の他ならぬ旧友、ミスター・ケシャヴ・サテでした。ケシャヴは娘に良いニュースを伝えました。『Help!』というタイトルのビートルズの映画が現在制作中で、特別な場面でBGMを演奏するインド人ミュージシャンが数人必要だとのことでした。娘が、うちのパパは何を演奏するのを求められているのかと質問すると、ミスター・サテは、ヴィチトラ・ヴィーナがいい、フルートとシタールのミュージシャンとは既に連絡を取って了解を取り付けているからと答えました。スレンドラはミスター・サテに、少しお待ちくださいと言うと、私のところに来て、全てを話しました。私は受話器を取り、サテジー[「ジー」は親しさを表す愛称]に感謝した後、そのセッションに参加することが出来たら嬉しいですと言いました。

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 2日後、私は典型的なイギリスのスタジオにいました。映画『Help!』の監督が他のアシスタントたちと一緒にいて、私たち約4人のミュージシャンを待っていました。インド音楽の演奏が必要なシーン用にセットが組まれていました。
 インドの映画スタジオで仕事をした経験はたくさんありましたが、こちらの映画の世界の環境にはビックリしました。マイクやスタンド、照明など、たくさんの機材がありました。必要なビートで大きなクリックを出しながら、光も点滅する大きなメトロノームもありました。
 私たちがチューニングを済ましたばかりの頃、イギリス人ミュージシャンの1人がやって来て、「長丁場の仕事になりそうだ。今はティー・タイムだから、作業はやめよう。そういう決まりなんだ」って言いました。私は彼の言葉にビックリしました。インドでは、いったんスタジオに入ったら、昼食の時間までずっと働かないといけません。私たちはカフェテリアに行って、お茶と軽食をとりました。
 他のミュージシャンと会って話したこの時間は、とても面白く、刺激的でした。新しい友人も出来て、この仕事をやっていて良かったという誇りを、生まれて初めて感じました。私たちがくつろいでいるか、皆が気をつかってくれているようでした。
 スタジオに戻りました。さっき友人になったばかりの他のミュージシャンが私たちの楽器を見に来ました。私のヴィチトラ・ヴィーナのヘッドの鳩の装飾が特に彼らの興味をそそっていました。典型的なイギリス風のウィットで、彼らの1人はこの楽器に近づいて、その出来映えを誉め始めました。別の瞬間には、彼は鳩の顔の近くに立って、手の上に載せたエサでこの鳥を呼び寄せるふりをしました。これには、私たち全員が大笑いしました。
 スタジオ・セッションは丸1日続きました。ヴィチトラ・ヴィーナの音で奏でられてるビートルズは、私がこの時にやった演奏です。「カーリー」女神のシーンでBGMとして使われたラーガもそうです。ミスター・サテとシタール奏者のミスター・モティハール、そしてフルート奏者も、映画の監督が必要に応じて使うことが出来るよう、別々にいくつか録音していました。その日の最後に監督が来て私たちに感謝し、インド音楽がもっと必要になったらまた呼びますと約束してくれました。私たちも監督に感謝し、他のミュージシャンとも別れの挨拶して別れました。
 これがアルバムに収録された曲の1つです。何らかの理由で、ミュージシャンの名前は含まれてはいませんでしたが。



 数カ月が経ちました。映画『Help!』は大成功し、制作スタッフも高く評価されました。私たち4人のインド人ミュージシャンはブッシュ・ハウスにあるBBCスタジオで会った時に、撮影の時の話をしました。ビートルズと仕事をしたおかげで、私たちは西洋で名声と人気を得ただけでなく、インド人コミュニティーの中でも敬意を払われるようになりました。
 数ヶ月後のある日、バーチントン・ロードの自宅の電話が再びなりました。今回は映画監督からではなく、ビートルズの事務所のスタッフでした。どのような用件ですかと質問すると、ビートルズのミスター・ジョージ・ハリスンが私と会いたい、奥さんのパティー・ハリスンにディルルバのレッスンをしてもらいたいということでした。ハリスン夫妻がこの楽器を1台欲しがっているので、インドから取り寄せて欲しいとも言っていました。娘のスレンドラが、イギリスに送ってもらうとなるとしばらく時間がかかりますと言うと、構わないという返事でした。ボンベイにある楽器店に電話を注文し、それが確定され次第お知らせしますと、スレンドラは言いました。

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 15日もしないうちに、ディルルバが3台、トゥークスベリーにある知り合いの家に到着しました。彼が特別にインドから楽器を持って来てくれたのです。私はそれを回収に行き、夕方には戻って来ました。翌日、ミスター・ハリスンに楽器が到着したことを知らせると、私に自宅まで来てもらいたいので迎えの車を行かせると約束してくれました。
 翌日、約束の時間にドライバーが到着し、ドアをノックしました。末っ子のラヴィがドアを開けて、彼を中に案内し、階段を上がって2階まで連れて来ました。ドライバーは非常に礼儀正しい人物で、私と会って握手し、末っ子ラヴィがきちんと応対出来たことをほめ、そういうふうに迎えられてとても感激したと言いました。私はディルルバを持ち、妻と子供たちに行ってきますと言うと、彼と一緒に出発しました。ミスター・ハリスンの家はロンドンの南のサセックス州にあり、着くまでしばらく時間がかかりましたが、ドライバーは私を飽きさせず、共通の話題をあれこれ持ち出して、おしゃべりをするのに忙しい状態でした。おかげで、長い移動中の良い暇つぶしになりました。
 サセックス州に入り、いろんな小道やストリートをジグザグしながら進み、遂に、ドライバーがハリスン邸はあそこだよと言いながら指さしました。前から見た眺めは壮観でした。フロント・ドアの左側には全体にペイントが施されてるロールスロイスがありました。大きなボディーに施されてるアートワークにとても驚きました。私は好奇心からドライバーに質問しました。誰の車ですか?って。すると、「ビートルズのメンバーのミスター・ジョン・レノンのですよ」と答えました。「美しいロールスにあんなことやるなんて!」とも言ってましたけどね。

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 ドライバーは正門から入り、大きな応接間に案内してくれました。やや暗い広間の大きさを見た時には、私は畏敬と驚愕の念を抱きました。部屋にはさまざまな東洋のカーペットが敷き詰められていて、シーンとしていました。ここを衝立で区切って小さなスペースをたくさん作れば、いろんなグループがそこに入って、それぞれの活動を邪魔されずに行なうことが出来るだろうって思いました。
 私がドアから入るのを見たミスター・ハリスンは、立ち上がって、手を組んでこっちにやって来て、インド・スタイルでナマステと挨拶し、私と握手を交わしました。とても美しい若いレディーが後ろに立っていて、彼女はミセス・パティー・ハリスンと紹介されました。将来、私の生徒となってディルルバを習うことになるのは、彼女でした。

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パティーとディルルバ(インドのマハリシのアシュラムにて)


 私は部屋の奥まった部分に通されて、ふたりから、どうぞお座りくださいと言われました。外の部分には3人の人が座っていて、低い声で喋っていました。私は彼らが誰なのか質問すると、ミスター・ハリスンは、グループのメンバーだと教えてくれました。つまり、ジョンとポールとリンゴだったのです。すると、ミスター・ハリスンは声を少し大きくして彼らに声をかけ、私を紹介してくれました。彼らはとてもいい人で、ニコニコしながら私に手を振ってくれました。そして、また真面目な会話に戻りました。
 私はハリスン夫妻と席に着き、カバーからディルルバを取り出しました。つい先日、ボンベイから飛行機で来た古い友達が特別に運んでくれたんですよと話しながら。パティーは畏敬の念を持ってこの楽器をじっと見ていました。ふたりが楽器に触れるのを終えた後、私はそれを手に取って短いフレーズを演奏して、どんな音が出るのかを披露しました。パティーは音に驚嘆していました。ミスター・ハリスンからは、パティーが習いたいと思ってるうちに私がこの楽器を持って来たことを感謝されました。
 その日以降、パティーはディルルバのレッスンを開始しました。とても飲み込みの早い生徒で、私が教えた基本フレーズをすぐに覚えてしまいました。左肩で楽器をしっかり支えながら、両手をうまく使えるようになりました。私がパティーのために演奏した練習用のフレーズを数日後にはマスターし、私が教えたのと同じくらい正確に演奏しました。
 一方、レッスンの予定日にはいつも、例のドライバーが私を迎えに来ました。私の家に来た時には末っ子のラヴィが出迎えているのですが、そのお礼にと、息子に古い銀の腕時計を持って来てくれたこともありました。私がハリスン家に通ったのは短期間でしたが、その間、この若くて素敵な夫婦は気立てが良く、とても礼儀正しかったです。彼らの家で大歓迎してもらえたことを私は忘れることが出来ません。この思い出はずっと大切にします。

The original article "My Episode with the Beatles and George Harrison" by Pt. Shiv Dayal Batish
http://raganet.com/Issues/3/beatles.html

   
 
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2021年10月27日

オレのアパートメントにボブ・ディランが来た

文:マーク・シフ(コメディアン、俳優、作家)


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1976年頃のマーク・シフ


「神が何を求めているか考えたことあるかい? キミのとりとめもない欲望を満たすための使いっ走りのガキだと思ってる?」----ボブ・ディラン

「お前はそれが歌だと思ってるの? そんなもんやめなさい」----オレのオフクロ

 ボブ・ディラン。ミネソタ出身のユダヤ人。オレは50年以上、ノンストップでディランを聞き続けている。
 1976年にオレはグリニッジヴィレッッジで金を恵んでもらいながら詩を書いて暮らしていた。詩人ぽいヒゲまで生やしていた。ある晩、ボトムラインていうロッククラブに生涯の友人{ダチ}、バーニー・フェレーラといると、3つ離れたテーブルにボブ・ディランと奥さんのサラ、ふたりの友人のルイ・ケンプがいた。
 テーブルにあったメニューを掴んで、サインをもらいに向こうに行くと、ボブは快く応じてくれたので、オレはすかさず言った。「ショウが終わったら、オレのところに来てお茶でもどうですか? お友達も一緒に」 そんなことをしたのはその時が人生初だった。ボブから場所を訊かれたので、「ここから6ブロックです」と答えた。ボブは魂のレントゲン検査をするようにじっとオレを見ると、住所を書いてくれ、行くから、と言った。「本当?」と訊くと、ボブは頷いた。オレの頭は爆発した。
 2時間のショウの最中、オレは自宅にディランが来るってことしか考えられなかった。ショウの後、オレたちはアパートに駆け戻った。そこは2人のルームメイトとシェアしていたのだが、戻ったらゲイのルームメイトがいて、オレがディランが来ることを話すと言った。「どうして電話しなかったんだよ。そうしてくれれば、ケーキを焼いてたのに」
 1時間が経過したが、ディランは現れない。もしかしたら来ないのかもしれない。オレは夢を見てたのかもしれない。ディランは毎日、いろんな奴から、こっちに来てくれ、あっちに来てくれと誘われてるだろう。今晩だけ違うなんてことがどうしてあろうか? ところが、違ってたのだ。
 ドアベルが鳴った。窓の外を見たら、3人が立っていた。オレはすぐに下に降りて行って、彼らを中に入れた。ディランのような尊敬してる人間が、約束を守ってくれたんだぜ。これってもの凄いことだろ。
 4人で長い階段を登った。ボブ・ディランがオレん家{ち}にいるってことしか考えられなかった。サラとケンプは古いカウチに座り(オレがストリートで見つけたものだ)、ディランは小さな脚立に寄りかかって、指でそれをトントン叩いていた。ディランは自分に関する質問には何も答えず、オレのことを訊き続けた。「仕事は何をやってるの?」「詩を書くようになってどのくらいになるの?」 オレはディランにインタビューされたんだぜ。凄いだろ。 40分くらいして、ディランが「そろそろ帰るよ。またね」と言うと、3人はピューッと消えた。今となっては想像することしか出来ないのだが、オレたちが交わした会話はディランの人生で一番つまらないものだったんじゃないかなあ。オレには語るほどのものなんて何もなかった。でも、楽しかった。
 数ヶ月後、あの時と同じクラブにいると、今度はジョン・レノンが歌手のマリア・マルダーと一緒にいたので、お茶を飲みに来ないかって誘ったのだが、丁重に断られた。ディランから話を聞いてたのかもな。
 その20年後、安息日のことだった。シナゴーグでルイ・ケンプと名乗る男と会った。オレは「その名前聞いたことあるなあ」と言うのと同時に思い出した。「ルイ、あなたはボブとサラと一緒にグリニッジヴィレッジの私のアパートに来たことあるんですよ」 すると、ルイもあの晩のことを思い出して、とてもオープンだった時期のディランに会えたのはラッキーだったねと言った。その日以来、ケンプとオレは友達だ。
 その数年後、ケンプとオレはディランのロサンゼルス公演を一緒に見に行った。会場に向かおうとしてると、ケンプは言った。「まずはジョニ・ミッチェルの家に寄って、彼女を拾わなきゃいけない」 凄えや。ジョニ宅に到着すると、彼女は、準備が出来るまでお茶でもいかがって言ってくれた。もちろん、ごちそうになった。
 その後しばらくして、ヤング・イスラエル・オブ・センチュリー・シティーで孫のバル・ミツヴァ[ユダヤ教式の成人式]に参加するディランを見かけた。再び姿を見ることが出来て嬉しかったのだが、放っておいて欲しいオーラが出てたので声はかけなかったのだが、ボブ・ディランの姿を見れたことを神に感謝した。そして、お茶好きなことも神に感謝した。オレから皆さんに言いたいのは、「求めることを恐れるな。与えられるかもしれないんだから」

The original article "When Bob Dylan Came to My Apartment" by Mark Schiff
https://jewishjournal.com/commentary/columnist/308014/when-bob-dylan-came-to-my-apartment/

   
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