ポールのリリースがビートルズの映画とぶつかっちゃったのは、《McCartney》と『Let It Be』の時もそうでしたね。
ポール・マッカートニーの本『Lyrics』をファクトチェックする
文:リッチー・ウンターバーガー
『Paul McCartney: The Lyrics』は非常に優れた本である。期待をはるかに超える良書である。ロックの歌詞本というと、たいていは、あまり関係のない写真とともに歌詞を印刷しただけの代物なのだが、この2巻セットの、大枚をはたくだけの価値のある高額本には、マッカートニー本人による、自作の歌に関する詳しい回想もたくさんフィーチャーされている。写真もたくさん掲載されているが、とても興味深く、貴重なものや世界初公開のものまである。
私は以前にもこの本についての書評を書いたが、今回の投稿は『Paul McCartney: The Lyrics』の単なる書評ではなく、テキストの一部のファクトチェックを行なったものだ。確かにこれは良書なのだが、完璧ではない。
私は以前に書いた書評で「大量ではないものの、私がビックリするような事実関係の誤りが編集プロセスを素通りしてしまっている」と記したが、私の他にもたくさんのビートルズ・ファンがそういう誤りを見つけている可能性が高い。編集段階でそれがしっかり修正されていたならば、話のエッセンスや重要な点が損なわれることはなかったのに…。そういうクオリティーを保つために、そんなに大変とは言えない努力をするのは、マッカートニーや出版者にとってはあまり重要でなかったのだろうか?
ポールが出来事の一部を誤って覚えていたり、何がいつ起こったのか順番を間違えたりしていても、私は驚かない。ものによっては50〜60年前の出来事なのだから。私が驚いているのは、大手の出版社が、こんなに大きくて立派なプロジェクトだというのに、ファクトチェックにあまり気を配っていないことなのだ。単なる有名ミュージシャンではなく、大物政治家や社会運動に関する本であったら、ファクトチェックはやらなければけないいつもの日課なのだろうが、ポールはそんじょそこらの政治家よりも世界を変えるのにずっと大きな貢献した人物だ。
この出版社は、私や、間違いに気づいたであろう他の人間に、テキストを読んでくれと頼むことを怠ってしまった。私は何も、自分が特別な人間だなどと言っているのではない。数千人のファンも間違いに気づいただろうし、実際に本書を読めば気づくレベルのものなのだ。
内容訂正的な脚注が欲しい人用に、私の目に留まった誤りをこの場でいくつか指摘しておこう:
64ページ: 1964年1月にパリで〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングしたことを回想して、ポールはこう語っている。「皮肉なのは、パリに来る直前にフロリダに行って、そこでは愛とは言わないまでも、欲しいものをたくさん金で買うことが出来た」
ビートルズのレコーディング・セッションの歴史に詳しくない人には、このヒット曲がロンドンではなくパリで録音されたというのが間違いのように思えるかもしれない。確かに、ビートルズはレコードの殆ど全てをロンドンで録音しているのだが、〈Can't Buy Me Love〉は、パリで約3週間のロングラン公演を行なっている合間に、1964年1月29日にその地でレコーディングした。
この誤りは『The Lyrics』に登場する時間的な誤りの1番目のもので、多くの人にとっては些細な間違いだろうが、間違いは間違いである。それから、ビートルズはこのセッションの前にはフロリダに行っていない。ジョージ・ハリスンだけはアメリカに行ったことがあったが、その旅ではフロリダには行っていない(1963年後半に中西部で暮らす姉に会いに行った)。
ビートルズは確かにフロリダ州マイアミに行ったが、それは〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングした2週間後の、1964年2月中旬のことだ。初めてアメリカに行って『エド・サリヴァン・ショウ』に出演し、ワシントンDCとニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行なった後に、彼らは短い休暇でマイアミを訪れている。彼らはこの月、『エド・サリヴァン・ショウ』に3回出演したが、その最後のものはマイアミで演奏したものだ。
時間的に近いが、重要度が全然違う出来事の順番が、マッカートニーの頭の中で逆になってしまっているのは驚きである。グループのキャリアにとっては、初のアメリカ訪問のほうが、パリ公演よりずっと有名かつ重要だろう。この逆転に気づくビートルズ・ファンは何百万人もいるはずだ。スターの行動については、実際にそれを行なった当人よりもファンの方が詳しいということはよくある。これもそんな事例だろう。
91ページ: お気に入りのエレキギターはエピフォン・カジノだ。ロンドンのチャーリング・クロス・ロードにあるギター・ショップに行って、店員に言ったんだ。「フィードバックを起こすギターはある? ジミ・ヘンドリクスが出している音が大好きだからさ」って。オレはジミの大ファンだ。ロンドンにやって来て間もない頃の初期のギグを見ることが出来て、とてもラッキーだった。空が炸裂したようだった。
ギター・ショップの店員が言った。「これが最もフィードバックするものです。ホロー・ボディーなので、ソリッド・ボディーのギターより大きな音が出ます」って。オレはそれを持ってスタジオに行った。ビグスビーのトレモロ・アームも付いてたから、フィードバック状態でプレイし、それをコントロールすることが出来た。そういうプレイに完璧なギターだった。ホットな音を出せる優れもののギターだった。そうして、これはオレのお気に入りのエレクトリック・ギターになって、〈Paperback Writer〉のイントロ・リフや、ジョージの曲〈Taxman〉のソロで使った。長年に渡って、たくさんの曲でこのギターを使っている。今でも弾いてるよ。あのエピフォン・カジノは人生の伴侶だ。
いい話だ。しかし、マッカートニーがヘンドリクスを見たのは、最も早くて1966年9月下旬だろう。ジミがニューヨークからロンドンにやって来たのがこの頃なのだ。ジミはその直後に何度かギグを行なった後にエクスペリエンスを結成したが、ポールがジミを見たのは、私の推測なのだが、9月よりもう少し後のことと思われる。〈Paperback Writer〉をレコーディングしたのは少し前で、《Revolver》のセッションを行なっていた4月13、14日のことだ。〈Taxman〉はその約1週間後に録音している。なので、ポールはこうした曲でエピフォン・カジノを使用した段階では、まだジミは見ていない(演奏を耳にしたこともない)だろう。もしくは、後にレコーディングした曲の中に、ヘンドリクス風を念頭に置いてカジノを使用したものがあるのかもしれない。
間違いの指摘ではないのだが、ポールが〈Paperback Writer〉のイントロ・リフでカジノを使ったと語っているのは興味深い。ジョージ・ハリスンではなくマッカートニーが曲の少なくとも一部でリード・ギターを弾いていることを意味しているからだ。
アンディー・バビウクが著した『Beatles Gear』(徹底した中身で信頼出来る)によると、マッカートニーがエピフォン・カジノを購入したのは1964年12月で、ヘンドリクスがロンドンで知られた存在になるより2年近く前のことだった。この楽器を入手した動機に関しては、『Guitar Player』誌1990年7月号に掲載されたポールの発言のほうが詳しい。「[英ブルース・ロックの雄、ジョン・メイオールが]夜遅く、たくさんのレコードをオレに聞かせてくれたんだ。ジョンはDJタイプの人で、彼の家に行くと、ソファーに座らされて、飲み物を持ってきてくれて、これをチェックしろって言うと、オーディオ・セットのほうに行って、何時間もB・B・キングやエリック・クラプトンを大音量でかけた。エリックのプレイの出どころを教えてくれてたんだね。夜のちょっとした授業だった。それに刺激を受けたオレは、その後、エピフォンを買いに行ったんだ」
105ページ: 他のメンバーに言ったんだ。「〈With a Little Help from My Friends〉を歌う歌手を「この人しかいません。ビリー・シアーズです!」って紹介する箇所では、ライブラリーにある観客の笑い声を使おう」って。
これは超些細な間違いだが、笑うオーディエンスの音が聞こえるのはもっとずっと前の箇所で、タイトル・トラック〈Sgt. Pepper〉の第1ヴァースの後だ。
〈Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band〉の随所でオーディエンス・ノイズは聞こえてくるが、最後のほうでビリー・シアーズが出て来た後は、笑い声ではなくざわめきと大歓声だ。もちろん、几帳面なポールがここに入れるように最初に提案したのは笑い声だった可能性もあるが、ビートルズが最終的に使用したのは別の種類のオーディエンス・ノイズだった。
179ページ: 説明文には、〈For No One〉は1965年3月、オーストリアのアルプスで映画『Help!』の撮影中に書かれたとあるが、明らかに真実とは違う。この時点では、アルバム《Help!》のレコーディングすら終了していないのだ。この時点で存在している曲を《Help!》にも、1965年後半の《Rubber Soul》にも入れず、1966年の《Revolver》まで持ち越したなんて、あり得そうにない。ポールが1965年3月にこの曲を書き始め、完成に長い時間がかかった可能性もあるだろうが、この説明文も他の情報源もそうは言っていない。
バリー・マイルズがマッカートニーの全面的な協力を得てまとめた本『Paul McCartney: Many Years from Now』(1997年)によると、この曲は「1966年3月に、ジェインと一緒にスイスのクロスタースにスキー旅行に行った時に書かれた」とあるので、ポールはこのスキー旅行と混同しているのだろう。同書の中でポールは「とても素敵なところだった。そこで〈For No One〉を書いたのを覚えている」と証言しているのだ。
185ページ: 〈From Me to You〉について、ポールはこんなことを語っている。「ロイ・オービソンとツアーをやってた時に、オレたちはこの曲を書いたんだ。全員が同じツアー・バスに乗っていて、お茶と食事のためにどこかにとまった。ジョンとオレはお茶を飲んだ後、バスに戻って曲を書いた。バスの通路を歩いていくと、後ろの席にはロイ・オービソンが黒い服に黒いサングラスって格好で座っていて、ギターを弾きながら〈Pretty Woman〉を書いていたっていうのは、21歳のオレには特別な光景だった。和気藹々とした雰囲気で、互いに刺激しあっていた。いつの時代でもこういうのって素敵だよ。ロイがオレたちにこの曲を披露しすると、オレたちは「いい歌だ、ロイ。イカしてるよ」って言い、今度はオレたちが「それじゃ、これを聞いてくれよ」って言って、ロイに〈From Me to You〉を披露した。これって歴史的瞬間だよね」
素晴らしい話なのだが、オービソンとのイギリス・ツアーが行なわれたのは1963年5月18日〜6月9日である。ビートルズが〈From Me to You〉をレコーディングしたのは、ツアーの2カ月以上前の1963年3月5日のことだ。再び『Paul McCartney: Many Years from Now』を参照すると、もっと確実な日付が書いてある。バリー・マイルズは、この曲が作曲されたのは「1963年2月28日、ヨークからシュリューズベリーに移動するツアー・バスの中で」と書いている。ビートルズにとって初の全英ツアーだったヘレン・シャピロ・ツアーでの出来事だった。
その後に行なわれたツアーで、レノンとマッカートニーが作曲中の歌をオービソンに披露したというのは、極めてあり得ることである。既に書き、レコーディングを済ませているだけでなく、ツアー中ずっとイギリスのチャートで第1位になっており、毎晩演奏していることも考えると、〈From Me to You〉もロイに歌って聞かせた可能性は高いだろう。『Many Years from Now』の中で、ポールは〈From Me to You〉についてこうも語っている。「その後、ロイ・オービソンとやった別のツアーのバスの中で、ロイがバスの後ろの席に座って〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃した」 ポールの頭の中では、あるツアー中に〈From Me to You〉を書いたことと、数カ月後の別のツアーでオービソンが〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃したことが、合体してしまったようだ。
ちなみに、ロイ・オービソンが〈Oh Pretty Woman〉を録音したのは1964年8月1日のことである。こんなに強力なナンバーを1年以上も寝かせておくなんてあり得ないのではなかろうか。証明する術{すべ}はないのだが、あの時は、ロイは曲を書き始めていただけで、完成するのに長い時間がかかったという可能性もあるだろう。
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