2022年06月19日

ボブ・ディラン・センター、プレ・グランドオープニング・イベント・レポート

 行きたいなあ。いつになったら行けるかなあ。このレポートの著者、ハロルド・レピドゥスさんからは、これまでに何度も記事の翻訳掲載許可をいただいてます。今回の記事もファン目線で面白いです。


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ボブ・ディラン・センター、プレ・グランドオープニング・イベント・レポート
文:ハロルド・レピドゥス


 今月[2022年5月]上旬、オクラホマ州タルサに開設されたボブ・ディラン・センターのグランド・オープニングのプレ・イベントに招かれるという名誉に浴しました。5月5日から8日までの旅では、美味しい食事、素晴らしい音楽、思いがけない人との会話、旧友との再会、新しい人との交流に満ちあふれ、そして、もちろん、ボブ・ディランとウディー・ガスリーの世界にどっぷり浸かりました。それに加えて、3晩に渡って、メイヴィス・ステイプルズ、パティー・スミス、エルヴィス・コステロのステージを見ることも出来ました。彼らは出身地やジャンルこそ違えど、皆、ミスター・ディランと繋がりがあり、共演経験のあるアーティストです。
 ボブ・ディランがニューヨーク・シティーにやって来て、ウディー・ガスリーと会い、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで成功しようと奮闘したのは、約60年前のことですが、ボブ・ディランのさまざまなアーカイヴをウディー・ガスリーの故郷{ふるさと}であるタルサに移すという計画は約6年前に始まり、今月[5月]にタルサのイースト・リコンシリエイション・ウェイ116番地、ウディー・ガスリー・センターの隣の隣に、ボブ・ディラン・センターが正式にオープンしました。

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 リコンシリエイション[=「和解」の意]・ウェイは、かつてはこの町の創立者の名を取ってM・B・ブレイディー・ストリートと呼ばれてましたが、もはやブレイディーは名誉に値しない人物であると判断され、名称が変更になりました。彼はクー・クルックス・クランのメンバーで、1921年に起こった人種差別に端を発するタルサ人種虐殺----これこそ、ディランが2020年に発表した歌〈Murder Most Foul〉で言うところの「悪事の現場」です----の計画に荷担した人物であると言われてます。正式なテープ・カットの式は、私が去った2日後の5月10日に行なわれました。
 日曜日の深夜近くに帰宅する頃には、センターの催しやその内容について、既にたくさんの記事が書かれてました。なので、既に発表されてる記事の内容を繰り返すのではなく、私独自の観点で語るためにはどうしたよいのか考えた結果、旅行談ぽいものを書くことにしました。そこで体験したことの全てを忘れないための自分用の覚え書きとして、そして、みなさんとそれを共有するためにです。この記事にはいわゆる「ネームドロッピング」[=有名人の名前を自分の知人であるかのように持ち出して自慢話をする行為]に聞こえる箇所がたくさんあるかもしれませんが、私は自分がこの集まりに招かれたことをただただ驚てます。招かれて当然なんて思ってはいません。驚嘆の念を持ってこの話をしてます。

5月4日(水)、5月5日(木)

 5月4日の朝のうちに、荷造りを始めました。午後8時まで普段の仕事があったからです。マスクは既にストックしてありました。ノートパソコンは持って行ったほうがいいかな? 使うかな? 帰宅して、残り物を温めて素早く夕飯を食べた後、目覚まし時計を午前4時にセットして、メラトニンを飲んで寝ようとしたのですが、午前3時に目が覚めてしまったので、そのまま起きることにしました。普段なら、旅行なんてそんなに心配なことではありませんが、コロナの大流行と飛行機に持ち込める手荷物の制限が厳しくなったことで、ここ2年の間に、明らかに、事態はすっかり変わってしまいました。タルサまで長旅組だったたくさんの人と同様に、残念なことに私も移動中に主に天候のせいで遅延が生じましたが、木曜の晩に予定されてたさまざまなイベントには余裕で間に合いました。通路の向こう側に座ってた女性(名前はキムだったかな?)は、タルサとオースティンでパティー・スミスを見る予定とのことでした。私は飛行機で少なくとも何度かはウトウト出来ました。

歓迎ムードの空港:
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 シャトルバスでホテルに行き、さっとシャワーを浴びて服を着替えると、コンサートの前にOK POPで行なわれた招待客オンリーのディナー・パーティーに行き、セス・ロゴヴォイ(『Jewish Daily Forward』のライター)やボビー・リヴィングストン(RRオークションのスタッフ)といった友人たちと合流しました。道を挟んで真向かいにある伝説的クラブ、ケインズでは次の日から3晩連続でロック・コンサートを楽しむことになっていました。ビジネス・カジュアルな服装はこの晩限りです。
 この晩のスポンサーはディランのヘヴンズ・ドア・ウィスキーを作っている会社であり、無料の試飲会も行なわれました。友人のボビーが私をダグラス・ブリンクリーに紹介してくれました。彼には数々の実績がありますが、ディランが最近、好んでインタビューを受けているジャーナリストです。もしくは、ブリンクリーがディランを好んでインタビューしているのかもしれません。ブリンクリーから名刺を求められたので、喜んで1枚あげたのですが、私はその時、名刺の殆どをホテルに置いてきてしまったことに気づきました。宣伝用の私の本もです。まあ、なるようになるでしょう。

   

 この時、私はパティー・スミスを密かに目で追ってました。翌晩にケインズでコンサートを行なうことになってる彼女は、隅のほうで人に取り囲まれてましたが、長い灰色の髪と黒のマスク、彼女が放つバイブレーションのせいで、美しいほど気高く崇高で、いくぶん別世界の存在のように見えました。その時は飛行機で移動した疲れのせいで、彼女にかける気の利いた言葉を考えつくことが出来ませんでしたが、X&ザ・ニッターズのジョン・ドウには会いました。そのタイミングが生じた時に、私は自己紹介し、共通する友人が複数いて、Xのボストン公演の前に皆で食事をしたことがあると伝えました。ジョンはとてもフレンドリーで、楽しい会話をし、友人たちのその後の消息についてあれこれ話しました。セス(『Forward』の)、ボビーとしばらく過ごした後、チケットとVIPパスをもらえる時が来ました。私たちは皆、翌晩以降に使うための白地に青い文字のパスをもらいました。。
 セスと私は上階に行き、39番テーブルに着きました。会場の後ろのほうでした。もちろん、ボビーはもっといい席を持ってました。セスと私は会場のあちこちにあるスクリーンが一番良く見える席に陣取ったつもりでいたのですが、残念なことに、会場の中央にある大きな柱の向こうに私たちが座ってしまったために見えないステージから、メイン・スピーカーのスピーチが行なわれました。しかし、『Ultimate Classic Rock』のアリソン・ラップには会うことが出来ました。私は昔から、この人の書く記事は大好きでした。私たちはソーシャル・メディア上での連絡先を交換し、セスが『Islip High School Buccaneer』に書いた《Frampton Comes Alive!》と《Hotel California》の伝説的レコード評が話題になったのは、この時が最後ではありませんでした。
 それから、D・A・ペネベイカーが1965年に監督した音楽ビデオ〈Subterranean Homesick Blues〉のアップデート・バージョンが発表されました。この新プロジェクト用に、さまざまな分野のアーティストから1カットずつ送ってもらい、パティー・スミスとブルース・スプリングスティーンからも1カットずつ寄せてもらったのですが、ふたりの筆跡は目立っていました。ソーシャル・メディア上で大々的に前宣伝され、多くのボブ・ファンが新ビデオではなく新レコーディングを期待してしまったため、がっかりした者もいました。今見ると、これはソーシャル・メディアにおいて注目を得ることを狙った興味深いコラージュです。広い心でもう1度見てみましょう(初めて見る人も):



 帰りがけには、トップのディラン研究家の1人、アン・マーガレット・ダニエルがさっきパスを配布していたテーブルにいるのを見つけました。彼女は手を振りながらこっちにやって来て、私に大きなハグの挨拶をしてくれました。私たちが初めて会ったのは、2019年にタルサで行なわれたザ・ワールド・オブ・ボブ・ディラン・シンポジウムの時です。アンも私もスピーチをしたのですが、彼女が一緒にレストランに向かう途中で足を挫くというアクシデントに見舞われたため、一緒に過ごした数日間は、2019年の出来事を繰り返さないよう、常に彼女の足を心配し、どこかに行く時には、飛び出してるレンガがあると指さして、彼女に自分の足元がしっかり見えてるのを確認してばかりいました。喜ばしいことに、彼女は今度は無傷でタルサから帰りました。
 次に、私たち全員はストリートを横断して、ケインズに入りました。ここはボブ・ウィリスがオーナーを務めている伝説的クラブで、納屋のような外見です。パティー・スミスもエルヴィス・コステロも1978年にここに出演したことがあります。翌晩と翌々晩とは異なって、この日のショウは招待客オンリーのイベントでした。出演したのはメイヴィス・ステイプルズです。
 この晩だけ、座席が何列も並んでました。当然、私たちは前のほうの4列目か5列目を陣取りました。私は2回ほどメイヴィスのコンサートを見てます。コロナの流行の前です。2回ともボストンで、ボブ・ディランのサポート・アクトを務めた時でした。もちろん、私もセスも、昨年[2021年]公開されたドキュメンタリー映画『Summer of Soul』で、1969年のステイプル・シンガーズの素晴らしいライヴ・シーンを見てます。ディランより約1歳年上ですが、メイヴィスの歌声の中にあるパワーとソウルは少しも減じてません。シンプルでファンキーなバンドは、ステイプル・シンガーズのサウンドを初期ニューウェイヴ風にしてアップデートしており、トーキング・ヘッズの〈Slippery People〉のカバーまで飛び出しました。
 ステイプルズのセット前半は、政治色のあるゴスペル、ソウル、R&Bがミックスされて、さまざまなアーティストが60年前に、もしくは、もっと前に訴えてたのと同じことを訴えてました。世代の希望と夢が時間の経過とともに雲散霧消してしまったことを考えると、それにはほろ苦さがありました。しかし、メイヴィスの歌は、たとえ束の間ではあっても、人を元気にし、希望を与えてくれます。
 披露された曲のいくつかは、今になって発表されたメイヴィス・ステイプルズ&リヴォン・ヘルムのアーカイヴ・リリース《Carry Me Home》に収録されてます。〈Hand Writing on the Wall〉や、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの〈You Got To Move〉(ローリング・ストーンズもカバーしてます)を全速力でカバーしたバージョンがそれです。ザ・バンドの〈The Weight〉のアレンジは、映画『The Last Waltz』でお馴染みのバージョンを彷彿させるものでした。

   

 男がひとり、セットの殆ど全部の間、最前列で踊ってました。彼はバッファロー・スプリングフィールドの〈For What It's Worth〉の最後のラインを一緒に歌ってましたが、この人物についてはまた後ほど話します。

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 ロウダウンという名前のクラブではアフター・パーティーのコンサートがあり、私の友人で仕事仲間のジェフ・スレイトが、地元のミュージシャン、ジェシ・エイコックのバントと演奏しました。ふたりは初期ディランの曲を交替で歌い、終始、トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズがチャネリングしたような雰囲気でした。
 しかし、そこに行くまでが結構大変でした。私たちのスマホの地図アプリが、目的地まで正確に連れてってくれなかったのです。そんな時、セスと私は知人の集団に遭遇しました。その中にはダニエル・マッケイがいました(『Hard Rain & Slow Trains』というポッドキャスト/ラジオショウをやっています)。全く見知らぬ人数人もBDCのVIPパスを持ってました。あたりの人にも訊いてみたのですが、このクラブのことを知ってる人が見つかるまで、しばらくかかりました。(参考までに言うと、タルサではiPhoneのバッテリーの消耗が激しく、私はしょっちゅう部屋に戻って自分とスマホに充電をしなければなりませんでした)
 社交的な私は、知らない人の1人に名前を尋ねました。その人は「アリ・サスマンです」と答えました。そして、彼から名前を訊かれたので「ハロルドです」と答えました。当然、アリから「ハロルド・何さんですか?」と訊かれたので、ファミリー・ネームも答えると、「あなたの記事を読んでますよ」という言葉が返ってきました。これが誉め言葉であるのを確信した後、私たちはクラブまでの道すがら、ボブが出してるウィスキーについて話しました。私がアリをセスに紹介すると、今度は「『Forward』の?」と訊きました。
 クラブの中に入ると、アリはセスと話し込んでました。私はアン・マーガレット、ボビーらと席に着いて、スレイトの素晴らしいステージを見ました。ローリング・サンダー・バージョンの〈Tonight I'll Be Staying Here With You〉も披露しました。メイヴィスの目の前で踊ってた男がヴォーカルで飛び入りすると、オレンジ色(赤だったかな?)の服を着たブロンドの女性(名前は不明)も面白半分で飛び入りしました。噂によると、男のほうはジャック・ホワイト(ホワイト・ストライプス、ラカンター、ザ・デッド・ウェザー)の弟[兄?]らしく、顔も声も似ていました。


ロウダウン、2022年5月5日


 ジェフとジェシがセットの締めに入ってる時には(私たちは〈Every Grain of Sand〉の演奏中に帰りました)、セスとアン・マーガレットと私はそれぞれのホテルに向かって歩いてました。アン・マーガレットが道案内で、私は彼女に足元に気をつけるよう注意する役でした。

5月6日(金)

 翌朝、ボビーからコーヒーと水を奢るというメールが届きました。彼はアン・マーガレットと彼女の友人にも連絡を入れており、皆で素敵な場所で会い、美味しくて健康的な、シンプルな朝食を取りました。私は2005年のSXSWで買ったロビン・ヒッチコックのトートバッグの中に、水のボトルと何冊かの自著、名刺、ノート、ペン、ボビーが私のために取っておいてくれたプロテイン・バー2本を持参していました。
 センターはまだ一般には公開されておらず、招待客のみ中に入ることが出来ました。アン・マーガレットとボビーと私は建物の中に入りました、訪問者が到着するタイミングが、誰かが出て行こうとしてる時でなかったりすると、中に入れてもらうのにノックをする必要がありました。まずは、とても親切なスタッフのいるささやかな受付があって、名前を言うと、イヤホン付きの小さなiPodみたいなものを渡されました。展示に付随する写真やレコーディング、ビデオを見たり聞いたりするためです。
 2019年のシンポジウムに参加した後、私はビックリを期待するようになってしまいました。心は驚く準備が出来てました。ボビーとアン・マーガレット、私は《Freewheelin'》アウトテイクのボブとスージー・ロトロの拡大写真の前を通過した後、前置き的なビデオを見ましたが、それには『No Direction Home』のアウトテイクと思しきディランのインタビュー映像や、(あくまで私が)見たことのないウッドストックで撮影されたプライベート・フィルムが(記憶が正しければ)が含まれてました。
 1階展示室に入る時が来ました。2分も経たないうちに、ミッチ・ブランクがいました。彼は伝説的ディラン・コレクターの1人で、コレクションの多くをBDCに寄贈した人物です。ミッチとは2019年のシンポジウムから帰ろうとしてた時に会ったことがありました。私が自著をプレゼントすると、光栄なことに、サインをお願いされました。ミッチのところに行って挨拶をすると、彼は私の本を気に入ったと言ってくれました(ありがとう!)。それから、センターはスターカイヴというデータベースを使っていて、私の本のもくじも検索目的のためにそれに含まれることになると教えてくれました(本の実際の内容が丸々入るわけでないのは、恐らく著作権の問題があるからだと思います)。何たる光栄でしょう!
 それから、ミッチはビル・ペイゲル(『Boblinks』の)が撮影したマイク・ブルームフィールド最後のパフォーマンスのビデオがあることを教えてくれました。1980年にディランと共演した時のものです。現存するオーディオと同期させてありました。と、その時、驚いたことに、ミスター・ペイゲルがそこに立ってるじゃありませんか。ビルは私にビデオを見せながら言いました。そのコンサートの時、この歴史的瞬間を撮影するのを警備員が止めようとしたと。警備員が阻止に失敗してくれて、ラッキーでした。
 この直後、私はビルと一緒に、ヒットしたバージョンの〈Tangled Up in Blue〉でケヴィン・オドガードが使ったギターの展示の前に立ってました。その時、2019年にケヴィンと会う予定だったのに会えなかったので、今年はタルサで会おうということになってるのですが、どういう顔なのかわからない旨をビルに伝えると、ケヴィンだったらさっきセンターの中を歩いてるのを見たよと教えてくれました。そして、ツイッターで連絡を取ろうと思った矢先にケヴィンが現れたので、星の巡り合わせが良かったら一緒に食事をしましょうと、ゆるい約束をしました。私たちはスケジュールをあれこれ調整し、最終的には会う時間を作ることが出来ました。
 ところで、ミッチとビルとケヴィンは会えるのなら会っておいたほうがいい超ナイス・ガイです。

   

 1階で充実した出会いがあり、それだけでも圧倒されましたが、初めて見るものは全部、しっかり写真に収めました。実際、初めてのものだらけです。1階と2階、両方の目玉の展示をいくつか紹介しましょう:

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ブルームフィールド、1980年


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エレクトリック・ディラン、1964年ウッドストック


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スワミ・ウィルベリーから


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ジョージ・ハリスンから


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posted by Saved at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする