2011年12月31日

1981年秋、ゴスペル期最後のツアー

 こういうハンドルネームでこういうタイトルのブログなのに、なぜか今までゴスペル期の話題がありませんでしたが、2012年元日にやっとピッタリの記事を掲載することとなりました。今回紹介する「1981:ディラン最後の名ツアー」は、ピーター・ストーン・ブラウンが下記のサイトで発表した1981年ツアーの回想録です。テープを聞いて、まるで見て来たような感想を書くよりも、実際にその場に居合わせた人の発言のほうが、概して、ヴィヴィド感があります。
 
Original copyrighted article "1981: The Last Really Great Dylan Tour?" by Peter Stone Brown
http://www.muddywatermagazine.com/1981-Last-Great-Dylan-Tour-Peter-Stone-Brown.html
Reprinted by permission.

Dylan_1981.jpg

 ピーターはニューヨークを中心に活躍するシンガー・ソングライターで、主にネット上でディランに関する記事もたくさん書いています。ピーターとは、2003年8月にあの大停電が起こってハマースタイン・ボールルーム公演の中止が決定した直後に(だと思います)、会場前のストリートで突然声をかけられて以来の友人なのですが、彼がどうして私の顔と名前を知っていたのかは今もなお不明です。

  


1981: ディラン最後の名ツアー?

by ピーター・ストーン・ブラウン


 1981年の国旗記念日(6月14日)、私はメリーランド州コロムビアにあるメリウェザー・ポスト・パヴィリオンで行なわれるボブ・ディランのコンサートを見るために、友人を乗せた車でI-95号線を南に下っていた。これは彼女にとっては初めての、私にとっては10回目のディランのコンサートだった。移動中、私は彼女に、ショウで見れるかもしれないもの、見れないかもしれないものを説明した。ディランを予測するのは、いつも、殆ど不可能に近いことなのだが…。私は彼女に『Slow Train Coming』のことやゴスペル曲ばかり歌ったコンサートについて、前年の秋には昔の曲のいくつかを再び歌うようになったこと等を話した。目的地に近づき、I-95号線を降りてボルティモア郊外に出来た新しいハイウェイを走りだした時、出口を示す看板がずらりと並んでいた。しかも、それには「NOWHERE」と書いてあったので、私はこれが、この先に起こることの兆候でなければいいのだがと思った。
 1980年5月に、私はコネチカット州ハートフォードでボブ・ディランを見た。何らかの理由で、ディランのゴスペル・ツアー東海岸編では、それより大きい都市が避けられていた。私はこのコンサートを見に行くしかないと思った。『Saved』はまだリリースされていなかったが、『Slow Train Coming』は気に入っていた。しかし、会場に足を踏み入れただけでも、いつもとは違う体験だった。ホールの階段のところでは、映画『Wise Blood』に出てくるハリー・ディーン・スタントンを彷彿させるような人々が、キリスト教のパンフレットを配っていたのだ。私は心を打たれる準備が出来ていたのに、新曲「Ain’t Gonna Go To Hell For Anybody」を除くと、演奏曲はそれには至らず、曲間の説教にも----特に「サンフランシスコ・ラップ」と呼ばれているものは----私はウンザリした。ショウの終了後、一緒に見に来た友人達と待ち合わせをしていたら、アーロ・ガスリーがウロウロしているのが見えた。そして、突然、複数のサイドドアが開くと、ディランとバックシンガー達がボディーガードの集団に囲まれて登場し、バスに向かって行進していった。数分後には、当時ハイ・タイムズ誌の編集を担当していたラリー・“ラッツォ”・スローマンもバスの中に入っていった。
 2カ月後に『Saved』がリリースされたが、私は全く良いとは思わなかった。評価は後になって変わることになったが、それまではかなり長い間、良いとは思っていなかった。しかし、冬の終わり頃、1981年の3月か4月のある晩に、友人から「オレの実家にすぐに来い。ジョエルという友人が来ていて、ボブ・ディランの新曲を持っている。お前、絶対に聞け」という電話がかかってきた。彼の実家は郊外にあったので、車を借りてどうにか行った。ジョエルという人物は、1976年と78年にディランのスタッフとして働いていたジョエル・バーンスタインであることが分かった。新曲というのは「Every Grain of Sand」だった。ディランとジェニファー・ウォーンズによるピアノ・バージョンで、バックグラウンドで犬が吠えていた。バースタインはとてもいい人で、私にもテープを聞かせてくれた。コピーを作るのはダメだったが、親切なことに、何度も何度も聞かせてくれた。この歌を聞いて、私は叩きのめされた。ここ数年間に聞いたディランの曲の中で、ダントツで一番優れたものだった。メロディーは美しく、歌詞はウィリアム・ブレイクを彷彿させるものだった。バーンスタインと私は夜遅くまで、いや、次の日の早朝まで話し込んだ。この曲のこのバージョンを次に聞いたのは、それから10年後のことだった。
 メリウェザー公演は素敵な午後のコンサートだった。私の記憶が正しいなら、コンサートの最中は日が沈んでいなかったと思う。新曲もいくつか披露されたが、ディランがアルバムのリリース前に新しいオリジナル曲を歌うのを見たのは、これが最後の機会だった。「Abraham, Martin & John」「We Just Disagree」といったカバーもあった。1つ目の新曲は「Dead Man, Dead Man」で、2つ目は「Lenny Bruce」だった。後者で歌われているテーマを考えると、私はディランが新しい局面に入ろうとしているように感じた。『Shot Of Love』からの3つめの新曲は「Watered Down Love」だった。このコンサートの時点で、ディランはほぼ3年間、同じバンドで活動していた。キーボード・プレイヤーとバック・シンガーは時々メンバー・チェンジがあったが、ベースのティム・ドラモンドとドラムのジム・ケルトナーという鉄壁のリズム・セクションと、リード・ギターのフレッド・タケットには変更はなかった。メリウェザー公演ではギタリストがもうひとりいて(スティーヴ・リプリー)、キーボードを弾いていたのはウィリアム・“スミティー”・スミスだった。彼等は前年秋からバンドに参加していた。「Girl From The North Country」でのスミスのピアノ・ワークがショウのハイライトとなり、最後の曲はディランがギターとハープだけで披露した「Don't Think Twice」だった。
 メリウェザー公演の後、ディランはヨーロッパに行って一連の豪華ショウを行なった。セットリストは昔の曲が付け加わって大きく膨らんだ。ヨーロッパ公演を収めたテープには絶好調のディランが収められている。アレンジも的を射ていて、バック・シンガーも音を外していない。当時既に膨大な量となっていた自曲のカタログに立ち返ることで、ディランはそれを蘇らせ、再び輝かせた。それはまるで、自分が何者で、どんな曲を書いたのかを思い出す作業をしているかのようだった。
 10月に、ディランは東海岸、中西部や南部の一部の地域、そして、カナダの数都市において、1978年以来初のフルスケールのアリーナ・ツアーを行なった。バック・シンガーがゴスペルを歌うオープニング・セットはなく、最低でも23曲、時には30曲にも及ぶ長丁場のコンサートとなり、ディランと一緒にステージに立つのは1965年以来久しぶりのアル・クーパーがキーボードを弾いていた。
 フィラデルフィア・スペクトラム公演では、ディランは黒のレザー・コート、白のTシャツを身にまとい、サングラスはかけっぱなしだった。「Gotta Serve Somebody」で始まったこのショウでは、ディランは狂ったようにステージ狭しと踊っていた。2曲目の「I Believe In You」の後、まるでこの曲から抜け出すかのように始まったのが「Like A Rolling Stone」、そして「I Want You」だった。ディラン最大のヒット曲2つのオルガン・パートをクーパーは見事に再現していた。一部の曲では、ディランが最初のラインを伴奏なしかオルガンのみをバックに歌い始め、その後バンドが加わってきた。セットリストには、繊細なバッキングのアコースティック曲やクライディー・キングとのデュエット等の特別なハイライトがあり、新曲が旧曲の間に点在するように構成されていた。全ての曲がドラマチックに演奏され、ディランは時々、曲間でオーディエンスに冗談交じりに「今日は正しい音程で歌えてる?」(このツアーの殆どのショウで訊いている)、「北フィリーと南フィリーは何が違うの?」といった質問をした。フィラデルフィア公演のアンコールでソロで演奏された「It Ain’t Me Babe」では、観客が“No, no, no”のパートをディランと一緒に歌おうとすると、ディランはわざとずらし、このコーラスの部分になるたびに、毎回違うふうに歌うというお馴染みの客いじりをやった。
 2日後、私はペンシルヴァニア州ベスレヘムのステイブラー・アリーナで、再度ディランを見た。フィラデルフィア公演と比べると、インパクトとエネルギーはやや少なかったが、ディランはツアーのセカンド・ドラマー、アーサー・ロザートに「Happy Birthday」を歌った。
 2日後の晩、ディランはニューヨークのすぐ外のメドウランズ・スポーツ・コンプレクスにあるブレンダン・バーン・アリーナでプレイした。私には把握出来なくなって久しいのだが、この会場は冠企業が変わるたびに名称が変わっている。メドウランズ公演は、私の30年間のディラン・ファン歴において、トップ5に入るコンサートだった。ディランはこのショウの間ずっとスイッチ・オンの状態だっただけでなく、非常にコミカルでもあった。私達の車がニュージャージー・ターンパイクを出た時、遠くにあるアリーナが巨大な宇宙船のように見えたのを覚えているが、そういえば、ディランもショウの前半で、「今の私、少し変ですか…」と冗談を飛ばしていた。これは場所が異常だからであろう。私もこんな場所、他では見たことがない。
 会場に到着したら、私達の席は最も上のバルコニーの超端っこで、一番悪い席に近い場所だった。だが、そんなこと関係なかった。このツアーでは、ディランはしばしば彼の声域のトップで歌い、常にフレージングを自在に変化させて遊んでいた。例えば、「I Want You」では、ヴァースの部分は抑え気味だったが、ブリッジのところのなると全力で歌い、それを何度も繰り返した。



 もっとマジカルな瞬間もあった。「Girl From the North Country」では、ディランがアコースティック・ギターを抱えて歌い、第2ヴァースからベースとドラム、ギターがとても静かに加わった。ディランがこんなに甘く情熱的に歌うのは、これ以前にもこれ以後にも見たことがない。“Many times I often prayed(何度も私は祈った)”という1節をディランが非常にエモーショナルに歌ったので、私の連れ----メリウェザーに連れて行ったのと同一人物----はハッと息を飲んだほどだった。4カ月前、あのコンサートを見に行く際に、私がディランについて説明しようとしたことの全てを、彼女は遂に理解したようだった。私達が座っていた席からは、ステージ上のディランは点にしか見えなかったのに、強烈な何かがここまで確かに伝わってきた。
 多くのコンサートで、ディランはクライディー・キングとデュエットで歌っていたが、フィラデルフィアでは名曲「All In The Game」を歌った。メドウランズではディランはこう曲を紹介した。「この歌を書いた人が、今日、ここに来ています。今日は有名人がたくさん来ています。みなさんは有名人の隣に座っているのかもしれませんよ」それから、ディランとキングは声を完璧にブレンドさせてビックリするくらいに美しく、ジミー・ウェブの曲「レッツ・ビギン」を歌い始めた。私は後にも先にも、ディランがさまざまな人と一緒に歌うのを見たり聞いたりしているが、あの晩のクライディー・キングとのデュエットほど入念に歌うのは耳にしたことがない。最後にディランは言った。「私達、ちゃんと歌えてましたか、ジミー?」
 次のハイライトはショウ中盤にやって来た。フレッド・タケットがイントロのフレーズを少し弾くやいなや、他の楽器が入るのを待たず、ディランはアコースティック・ギターを弾きながら、スロー・テンポで薄気味悪いほどの「The Times They Are A-Changin'」を歌い始めた。その前の2公演でも同じアレンジで歌ったが、メドウランズでは全然別の切れ味を持っていた。ボブ・ディランのファンが同一ツアーにおいて複数のコンサートに足を運び、何千とは言わないまでも数百ものレコーディングを収集するのは、こういう理由があるからだ。どの曲が自分の琴線に命中するのかわからないし、しかも、それは毎晩変わるのだ。メドウランズ公演に関しては、この曲は1964年のスローガンとは全く別物だった。起こらなかったことを回想するのではなく、どちらかというと、今後起こることの警告のようだった。第4ヴァースの後のハープ・ソロまでは、ディラン本人の弾くギター以外の楽器は皆無だったが、第5ヴァースの2行目の時点で、キック・ドラム、リード・ギターが入り、その後、ベースとドラムがハープ・ソロに合わせるように入って来た。
 次に、まるで20年前と同じであるかのように、ディランはマーティンを抱えたまま「A Hard Rain's A-Gonna Fall」をソロで歌い始めた。バンドはバックで静かに鳴ることに徹し、コーラスになるとバック・シンガーが入り、アル・クーパーが時折ゴスペルのコードを弾いて曲にアクセントを加えていた。この曲をドライヴしていたのは、ディラン自身のアコースティック・ギターだった。最終ヴァースではディランは詩人のように歌い、自分の身代わりとして言葉に仕事をさているようだった。あの晩の「A Hard Rain’s A-Gonna Fall」はそれまでのディランの中で、ステイプル・シンガーズが奏でているような本物のゴスペル音楽に最も肉迫していた。
 「Hard Rain」の後は、「激しい雨が降るとどうなってしまうのかというと、愛の力が弱まってしまうのです」という紹介があり、当時の最新アルバムに戻って「Watered Down Love」が歌われた。続いて、スティーヴ・リプリーのジェット爆撃機のようなギターをフィーチャーしたロック・バージョンの「Masters Of War」が演奏され、その後、ソロで「Mr. Tambourine Man」のオープニングの歌詞が始まった。最初はフェンダー・ストラトキャスターで自分で自分のバックをしていたが、第1ヴァースの終盤でバンドが加わった。夏に行なわれたヨーロッパ・ツアーでは、ディランはメロディーの表と裏をひっくり返して素晴らしい効果を出していたのだが、秋のツアーでは、曲の大部分を声域の中の少し高い方の声で歌っており、2つの音しか使っていないのに、ある種のマジックによって、もっとずっとたくさんの音を使っているように聞こえた。ディランのアルバムに入ってるクーパーのフレーズそのものを奏でるオルガンを中心に据えて、バンドはパフォーマンスの全てがディランの声となるように控えめなバッキングに徹していた。
 次に披露された「Solid Rock」は前のツアーと同様、『Saved』のバージョンとは異なり、テンポをとろ火の状態まで落とし、バック・シンガー達が目立ち、タケットとリプリーのファンキーなギターによってケルトナーのドラムにさらにアクセントが加えられていた。このテンポはこの曲が終わるまで続いたが、いかしたツインのギター・ソロをフィーチャーした「Dead Man, Dead Man」になると、ショウは再びテンポアップした。
 「Just Like A Woman」はまたまたディランのみで始まり、バンドは背景に徹していた。クーパーはヴァースの最後にアルバム通りのオルガン・フィルを弾いていた。



 「Heart of Mine」の後には、この晩で最も笑えた瞬間が訪れた。「ローリング・ストーン誌編集部の皆さん、こんにちは。今日は編集の人、ライターの人がここに勢揃いして、私をチェックしてるんですよね。皆さん後ほどバックステージにいらっしゃると思うので、私も彼等をチェックしましょう」ディランはこう言うと、「When You Gonna Wake Up」の最初のヴァースをアカペラで歌い始めた。このヘヴィーな曲の次に演奏された「In The Garden」がショウ本編の締めとなったが、曲がまだ続いている時にディランが発した言葉に、私は驚き、笑い転げてしまった。「ハロー。サンキュー。ここにいらっしゃってるクーパーさんご夫妻、今晩は。どこかにいらっしゃたら挨拶したいです。来ていただけて本当に光栄です。ご親類の方がここでキーボードを弾いています。彼とはずっと昔からの知り合いなんですけどね。私の口からはその人物の名前は言えません。キーボードを担当しているとだけ言っておきます。それともやっぱり、名前を言ったほうがいいですか。それでは言いましょう。アル・クーパーです。私とは20年間一緒にプレイしています。彼の名前を耳にしたことのある人もいるでしょう。そうでない人もいるでしょうが、若い頃にはもう伝説だったんですよ」
 アンコールではゆっくりとしたゴスペル・バージョンの「Blowin’ In The Wind」、焼けるようなソロ・アコースティックの「It's Alright Ma」、半分レゲエで半分ゴスペルの「Knockin' On Heaven's Door」の3曲が披露された。
 3回のコンサート、特にあの晩のことが、私の頭の中に長い間残っていたのは幸いだった。というのも、次にディランのコンサートを見たのは、この5年後だったからだ。1981年10月のあの晩以来、私はディランのコンサートを100回以上見ている。最高のコンサートもあれば、良かったコンサートもあれば、まあまあのコンサートもあれば、2回くらいはダメなコンサートもあったのだが、あらゆるショウの中に特別な瞬間というものがあった。たとえダメなショウの中であってもそうだ。しかし、28曲中27曲をディランが歌ったメドウランズ公演ほど曲数の多かったコンサートはない。数的にこれに近いものも確かにあったが、全体を通して一貫して強烈なパフォーマンスを披露したショウという点で、1981年に見た3ショウ以上のものはない。
posted by Saved at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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