2012年01月16日

『血の轍』ニューヨーク・セッション秘話

 フィル・ラモーンは今や超大物プロデューサーとして有名な存在ですが、ニューヨーク西52番街にあったA&Rスタジオで彼のアシスタントとして働いていたグレン・バージャーは、現在は心理療法士として活躍しています。レコーディングの現場からはとっくの昔に引退しているようですが、彼のウェブページでは音楽のことも時たま書いてます。
 『血の轍』セッションに関してはアンディ・ギル/ケヴィン・オデガード共著『A Simple Twist of Fate: Bob Dylan and the Making of Blood on the Tracks』に詳しいですが、こちらではニューヨーク・セッションに関してはペダル・スティールのオーバーダブで参加したバディ・ケイジから聞いた話が中心で、残りはボブとデヴィッド・ズィママンの兄弟関係やミネアポリスのサウンド80に集まったミュージシャンがいかに優秀だったか、という点に多くのページをさいています。グレンがアシスタントの視点で語った「Bob Dylan's Blood on the Tracks: The Untold Story」は、この本を補完する内容なので、音楽ファンは必読です(日本語訳は下の「続きを読む」をクリック)。

Original copyrighted article "Bob Dylan's Blood on the Tracks: The Untold Story"
http://www.glennberger.net/2012/01/15/bob-dylans-blood-on-the-tracks-the-untold-story/
Reprinted by permission.

  

 昨年4月にグレンの旧HPにこの記事が掲載された際には、ベーシストのトニー・ブラウンがコメントを寄せていました(このページはもうウェブ上にはありません)。トニーはこの記事では、ディランの気まぐれにしっかりついていき、最後までクビにならなかったミュージシャンとして紹介されていますが、私の記憶が正しければ、「いや、全然そんなことありませんよ。ディランはオープンEチューニングを使っていたので、左手の形を見ても何のコードを弾いてるのか分かりませんでした」という内容のことを書いていたと思います。
 記事最後に、グレンが自分でグーグル検索を行なったことが書かれていますが、彼が発見したページは恐らくこれでしょう:

Bob Dylan: The Recording Sessions - Part Three
by Michael Krogsgaard
http://www.punkhart.com/dylan/sessions-3.html

 ここに記されている参加ミュージシャンの数は、グレンの証言と一致しています。回数を追うごとに少なくなっていったのには、こういう事情があったんですね。

* * * * * *


 私が持っている小さな情報も追加して書いておきましょう。現在オリジナル・バージョンの『血の轍』として出回っている音質良好の音源は、ヨーロッパのコレクターがオークションでテストプレスを購入し、DATにコピーしたもの(その後、LPは売却してしまったそうです)か、ジョエル・バーンスタイン所有のテストプレスをCDR化したもののコピーの可能性が高いです。
 オリジナル・バージョンと作り直したバージョンを2枚組にしてボックスセットとしてリリースするという話も聞いたことがあります。アートワークが完成し、ボブ側に提出されたという具体的な話を聞いたのは、確か1998年の夏頃だったと思います。その後どうなってしまったんでしょうね?


『血の轍』ニューヨーク・セッション秘話

文:グレン・バージャー


ボブ・ディラン、スタジオを予約

 1974年、ボブ・ディランは心機一転を模索していた。妻サラとは離婚へと向かいつつあった。過去数年間、ディランはコロムビア・レコードから離れており、作っていた音楽も凡庸で、受けが良いとは言えなかった。その年、私はニューヨーク・シティーにあるA&Rレコーディング・スタジオで働いていた。ここのオーナーであり、A&Rの「R」でもあるフィル・ラモーンは、後に、ビリー・ジョエルと<ストレンジャー>を制作して名プロデューサーになる人物だが、この時点では、世界で最も優秀なレコーディング・エンジニアのひとりでしかなかった。私は彼のパーソナル・アシスタント・エンジニアだった。
 9月にフィルはわくわくするニュースを持って私のところに来た。ディランがここに来て、私達と一緒にニュー・アルバムをすることになったというのだ。このレコードはディランのコロムビア復帰作であるだけでなく、彼は他のやり方でも自分自身の心機一転を図ろうとしていた。私達が作業を開始したのは、ユダヤの新年“ロシュ・ハシャナ”である9月16日のことだった。レコーディングはボブがファースト・アルバムを録音したスタジオで行なわれることになっていた。A&RのスタジオA-1はニューヨーク・シティーの52番街、セヴンス・アヴェニュー799番地の7階にあった。ここはもとは、ディランが初期の作品を作っていたコロムビアのスタジオだったのだが、1968年にラモーンと彼の会社に売却されていた。ここはコロンビアが持っていた最も古いレコーディング・スタジオで、1930年代から使われており、フランク・シナトラからバーバラ・ストライザンドまで、数多くのアーティストのセッションをこの壁は反響させたはずである。ここでレコーディングされたヒット・レコードの中には、ディランのトレードマークである<ライク・ア・ローリング・ストーン>もある。
 スタジオA-1は、ここで歌ったり演奏したりした者たち全員を魅了してしまう美しいスタジオで、長さが90フィート、幅が60フィート、天井の高さが30フィートと、かなり大きな場所だった。ストリートからは、銅で出来た先の尖った屋根の付いた大きな箱が、ビルのてっぺんにくっついているように見えた(銅の屋根は邪魔となる空電避けのためにあった)。
 このビルはとっくの昔に取り壊されて、その跡にはプルデンシャル保険のオフィスタワーが立っている。ビルの移り変わりと同様に、私の夢の街だったニューヨークも、音楽の街から金融の街になってしまった。。
 当時、ビルの残りの部分にはマンハッタン・コミュニティー・カレッジが入っていた。フロント・エレベーターに押し込められていた何百人もの学生達は、上の階にいるスターやそこで行われていることを、気にとめてはいなかった。
 上のスタジオに行く時、フロントの人混みを避けたい場合には、52丁目側の裏口にある貨物用エレベーターに乗ればよかった。1970年代のニューヨークということもあって、入り口は全く豪華とは言えないものだった。この悪臭が漂ってくるような汚なさは、ビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』のジャケット写真によって永遠に残るものとなった。角のチャイルズ・コーヒー・ショップからは鼻につく油の臭いがした。
 荷物用エレベーターは自動ではなく、手で操作しなければならないもので、殆どの日はボブ・ブラロック師がその役を行なっていた。長年に渡って、ブラロック師はポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、ジェイムズ・ブラウン、レイ・チャールズ、マイケル・ジャクソンをはじめ、無数のスーパースター達を最上階にあるスタジオへと送り込んでいた。彼が私を高貴な場所に上げるためにスイッチを引くたびに、私は「調子はどう?」と訊いたものである。彼はエレベーター・マンという仕事のおかげで、こっちの岸から向こうの岸へと人を運ぶ船頭と同様、人間というものを最も深く理解するまでに至っていた。彼の返事はいつも同じだった:「上がったり下ったりさ、兄弟」
 この男は間もなく、比類なきアーティスト、ズィママンをスタジオへと運んでくるだろう。私はそこで彼に挨拶をすることになるはずだ。
 スターのプライバシーを守ることが私達の主な仕事のひとつだった。私がこの話をするのに40年近くも待ったのは、こういう理由からである。私達には慎重な行動が植え付けられていた。スタジオの入り口に「Closed Session」(非公開セッション)のサインが点灯していることも稀ではなかったのだ。私達の仕事はアーティストに安心感を与えることだった。くつろいた雰囲気を作るために、アーティストの前では私達のほうもクールである必要があった。「さりげない態度」が通常だった。私達は変人アーティストには慣れていて、彼等がむら気を起こしても、その全てを叶えてあげていた。しかし、ディランほどプライバシーを強く欲しがるという評判のアーティストはいなかった。彼は人目にさらされることを極度に嫌うので、スタジオは密閉状態にしておかなければいけないと警告を受けていた。私達はこの隔離状態が自分たちには及ばないことを望んだが、レーベルのスタッフが門番として一緒に来るだろう、と告げられた。

誰かがオレに嫌がらせをしている
マスコミは印刷機にいろんな話を植えている
誰がやってるにせよ、その記事、カットしてくれないかなあ
連中いつそうしてくれるのか、こっちに出来るのは推測だけ
---- <愚かな風>


 私達は、コントロール・ルームにいるスタッフの数を出来る限り少なくするようにと言われた。つまり、ラモーンと私だけになれということだ。あらかじめ与えられた情報はこれだけだった。私達はディランが何をやるのか全く分からなかったので、何があってもいいように準備をしておかなければならなかった。

ボブ・ディラン、スタジオに到着

 スタジオ・ミュージシャン達がギグのために姿を見せ始めた。皆、私の知っている連中だった。最初に到着したのがエリック・ワイスバーグだった。敏腕スタジオ・ミュージシャンはたいていそうなのだが、彼もとてもいい人で、優れたバンジョー・プレイヤーだった。彼はデリヴェランス・バンドと呼ばれている人達を連れて来ていた。あの画期的映画のサウンドトラックを作ったのが、このバンドなのだ。エリックのバンジョーのピッキングは、ずっと記憶に残っているこの映画の大切な一部である。
 誰が来たか分かるやいなや、私はバンドのためにマイクをセットアップした。ドラム、ベース、ギター、キーボード用にマイクを設置し、ディランのマイクはスタジオの真ん中に、プレイヤー達に囲まれるように置いた。ディランはボディーガードと一緒にこそこそ入って来て、私達と挨拶して握手を交わすと、端のほうに引っ込んで、私達を殆ど無視していた。
 ジョン・ハモンドも到着した。ビリー・ホリデイからブルース・スプリングスティーンまで、さまざまなアーティストを発見し、プロモートした先見の明のあるレコード・マンであるハモンドは、ディランをコロムビア・レコードと契約させた人物でもあった。胡麻塩状態の頭に大きな瞳の青い目をした彼は、プロデューサー席の後ろに座ると、オレが本当のディラン・ファンだと言わんばかりの大きな笑みを顔に浮かべていた。
 あらゆるディラン・ファンにとって、これは時間を超越した瞬間だった。ディランのコロムビア復帰のために、ディランとハモンドが一緒にこのスタジオにいたのだから。
 私は頃合いを見計らって、ディランをスタジオへと連れて行き、マイクの前に立たせた。私達は古いノイマンのマイクを使っていたが、彼も60年代初期にはこれを使っていたことだろう。私はディランから数インチ離れたところに立っていた。
 ディランはアコースティック・ギターを肩から下げ、トレードマークのハーモニカ・ホルダーを首の回りに付けた。この瞬間、私は大きな衝撃を受けた。私はディランのすぐ隣に立っているのだ。そこにいるのは、小さくて痩せているが筋骨たくましい体に、ヒップスターでもありラビでもあるような黒のベストと白いシャツを身にまとい、複雑な過程を経てユダヤ人に戻ったディランに他ならない。彼は33歳だった。一番良い音が得られるように慎重にマイクを設置している私のことなど視界に入らず、彼は別の次元のどこかを見ていた。もしかしたら、ありがとうくらいは小さくつぶやいたかもしれないが…。
 私がスタジオ中を走り回ってマイクの調節をしていると、ディランは曲を指示した。
「それじゃ<ブルーにこんがらがって>をやろう。キーはGだ」
 ディランがギターを弾き始めると、コードはGではなくAだった。彼は指示したのとは違うキーで演奏していたのだ。しかも、歌詞は「If you see her, say hello」と、別の曲のものだった。しかし、ミュージシャンの誰かが予期せぬ変更についていけずにコードを間違えた場合、ディランは手を振って、立ち去るようにという指示を出した。
 スタジオ内には緊張感が張り詰めていた。これがディランのやり方なのだ。こうしてはいけません、これは間違っていますなんて、ディランに言える奴は誰もいない。一方、ディランのほうは、ミュージシャン達にキーと曲名を言うだけでよいのだ。
 スタジオにいた誰もが、この人物とともに演奏し、レコードを作れることに、とてもわくわくしていた。すれっ枯らしのスタジオ・ミュージシャンでさえも活気づいてるのが見て取れるほどだった。この時点では期待感に溢れていたが、即刻クビになる人間が増えるにつれて、ミュージシャン全員、こりゃダメかもと思い始めた。
 雰囲気も悪くなるばかりだった。私達全員、何が起こっているのか把握出来ず、自分がどうしたらいいのか分からなくなったり、自分のやるべきことが信じられなくなったりすると、お互いを盗み見した。一方、ディランは何度も同じことを繰り返した。ある曲をやると言った後、別の曲を始めてしまう。しかも、周囲の動揺など気にもとめない。
 ミュージシャンは、蝿叩きで叩かれ、死ぬのを待ちながら床の上でのたうちまわっている虫のようだった。スタジオ・ミュージシャンは大変だ。彼等は必要とされることを何でもやるために雇われる存在なのだ。スティーリー・ダンのようなアーティストのレコーディングに参加する場合、不可能なほどの完璧さを求められ、12時間もベーシック・トラックの作業をやらされる。しかも、いやと断ることは出来ないし、そんな様子を態度の中におくびでも出してはいけないのだ。
 しかし、今回は良くない試合運びなってしまい、レコーディングにも悪影響が出て来ていた。フィンガー・ペインティングで傑作を描いているディランの移り気によって演奏しないことを強制され、黙って楽器を持って座っているミュージシャン達の目の中にも、それは見て取れた。
 何度か大失敗のテイクを作ってしまった後、スタジオに残っているのはディランとベース・プレイヤーのトニー・ブラウンだけになってしまった。トニーはディランから数インチ離れたところにいて、彼の手の動きを見ながら、コードの変化について行くことが出来るよう努力をした。とはいうものの、ディランが次の瞬間にどのコードを弾くのか、どの曲をやるのは全く分からない状態だったが…。ディランには独自の波長があり、回りの人間はそれにあってるか、合ってないかのどちらかでしかない。
 私達はそのような調子で1日でアルバム1枚分のマテリアルをレコーディングしてしまった。私はとてもビックリした。当時、私は19歳で、芸術の作り方を身につけようと奮闘している最中だった。時間面でのスタイルは、ポール・サイモン等のアーティストと仕事をしたことによって出来上がっていた。サイモンは何週間もかけてギター・パートをレコーディングしたものの、結局それを破棄してしまうなんてことをよくやった。一度にひとつの音をレコーディングし、アルバムを仕上げるのには1年かかる、というのが当たり前だと私は思っていたのだ。ところが、ディランは月曜の晩に6時間でアルバム全部を録音してしまったのだ。私は戸惑った。まるで、青二才の自分の足元にかろうじて存在する経験の床板が、1枚1枚はがされるような思いがした。
 ディランは火曜日にスタジオに戻ると、再びアルバムの殆どをレコーディングした。今度はキーボード・プレイヤーのポール・グリフィンを試していた。うまくいくように思えたが、結局はだめだった。水曜日に、私達はオーバーダブの作業を行なった。木曜日、私達はアルバム全体をレコーディングした。これで3度目だったが、ディランの他にはベーシストしかいなかった。私の仕事は音をテープに記録することだった。レコーディング・エンジニアの目標は見えない存在になることだと、ラモーンから教えられていた。マイクロホンやヘッドホン、ケーブル、テープ・マシーン、コンソール、その他の厄介なプロセスは、誰かの脳味噌の中の気泡のようなアイデアを、聞く者の耳にこびりつき何度も聞きたくなるような永遠の普遍的真理へと変えるために必要なものなのだが、私がこれを首尾よく行なえば、そういったことにアーティストは気づかないだろう。
 私は準備万端だった。ディランがスタジオに入って来た時、機材はすぐに使える状態になっていた。あらゆるものはダブルチェック済みだった。私達はすぐに作業に取りかかった。ディランがマイクロホンの前に移動した瞬間に、私はコントロール・ルームに入ってマルチトラックのテープ・マシーンを操作した。私の仕事は地味なものだった。私は膝の上にテープの箱とテイク・シートを載せて、スツールに座っていた。
 ラモーンはフライングVにいた。スタジオA-1内のカスタム・メイドのレコーディング・コンソールを、私達はそう呼んでいた。21世紀では、全てのコンソールはいくつかの会社によって製品として作られているのだが、はるか昔の20世紀においては、全てが新たに開発されたものだった。8トラック、16トラック、24トラックといった具合に、新しい技術や方法が毎日のように登場した。コンソールは人間による手作りだった。ラモーンはコンソールに関するクレイジーなコンセプトを持っていた。ノブはマルチカラーで、ハート、ダイアモンド、クラブ、スペードの形をしており、まるでスターウォーズに登場するハン・ソロの宇宙船のようだった。そういう時代だったのだ。1970年代だったのだ。2001年のすっきりしている無菌の宇宙船ではなく、ダーティーでごちゃごちゃしている代物だった。トランジスタではなく真空管が使われていたので、ボードはよく熱を帯びた。いつそこからパチパチという音が生じ、パッチベイから火花がちり始めるのか、誰にも分からなかった。修理ともなると、全ての作業がストップし、インスピレーションの瞬間が失われてしまった。技術スタッフが飛び込んできた。彼等の困った表情が見えた。ラモーンは怒鳴り散らした。スタッフが機材のここぞという場所に活を入れると、スタジオはブルッと震えるように再び動き出し、照明も再び点灯。私達のハイパースペースの旅は再開した。しかし、故障するのは時間の問題な、気がかりな箇所はまだまだたくさんあった。
 一方、私達はガラスの反対側で創造の炎が燃えているのを感じた。ディランだ。溶岩を吹き出す火山のように、曲がディランから沸いて出てきていた。私はたくさんの素晴らしいアーティストと一緒に仕事をしたが、ディランのような人物は初めてだった。彼は創造力の源に直結していた。これがいわゆる天才というものなのだ。私は彼が黄色いリーガル・パッドに曲の歌詞を書くのを見た。まるで、誰かが口述するのを書き取っているものの、文字を書くスピードが追いついてないかのようだった。しかも、曲は歌う時にはさらに書き直された。テイク1には、驚きのあまり叫びたくなるほど素晴らしい響きのヴァースがあったのだが、テイク2ではそれはどこかに消えてしまい、別のヴァースがディランの口から出てきた。

それで、言葉のひとつひとつが真実味を帯びていて
燃える石炭のように赤々と光りながら
全てのページから降って来た。
まるで、私の魂の中で、私からあなたに向けて書かれたように
ブルーにこんがらがった状態で。
---- <ブルーにこんがらがって>


 私達はそれが素早く来るのを感じることが出来たのだが、そういうことが実際に起こった時には、それを捉えなければならないプレッシャーに襲われた。ラモーンの足は床をコツコツ叩き始め、手は大きくて丸い黒いノブの上でレベルを調節して、確実に、テープ上に最高の状態で音楽を記録していた。チャンスは1度しかない。後戻りは出来ない。ラモーンは「テープを回せ!」と言って私を急かせた。赤いランプは常に点灯していた。私は音響が一番良いスイートスポットを既に見つけていた。ラモーンが何を欲しているかは言われなくても私には分かっていた。私はラモーンだった。私達は一心同体だったのだ。私達の目はディランに釘付けで、音楽を味わって聞いてる暇など皆無だった。しっかりテープに録音されているか? 私がライトをチェックすると、全トラックが録音状態になっていた。メーターとコンソール、テープ・マシーンもチェックしたが同様だった。ディランの口とギターから出て来るものは、コンソールに入り、アルテック604スピーカーから戦車のように大きくてヘヴィーな音で出てきていた。人間が耐えられるぎりぎりの101dBだった。シグナルはテープ・マシンのほうにも行き、永遠に記録された。もし私がしくじったら、永遠に失われていただろう。しくじることは出来ない。今は。ディランの場合は。メーターは曲のリズムに合わせて動いていた。ガラス窓の向こうだが、わずか数フィート向こうにいるディランのノドは疲れ知らず。トニー・ブラウンはディランの指がフレットボード上を移動するのを注視しながら、荒馬を乗りこなそうと奮闘していた。ディランは汗をかきながら、それを深く感じ、母音をひねって歌う。

イ〜〜〜〜〜〜〜ディオッ・ウィンド
お前のコートのボタンの間を吹き抜ける
オレ達の書いた文字の間を吹き抜ける
お前は愚か者だ、ベイブ。
まだ息の仕方を知ってるのが不思議なくらいだよ。


 凄えぞ、ディラン! 19歳の私はロックンロールの歴史が自分の耳の前で作られているのを目撃していた。私が設置したU-47マイクロホンに対して、ディランのツバが飛んでいるのだ。私の頭には突然、4年前のことがフラッシュバックしてきた。父親が亡くなり、1週間の喪に服している自宅の自室で、私はラジオから流れるエルトン・ジョンを聞いていた。と、その時、骨髄をガンに犯されて余命いくばくもなかった父が、車椅子に座りながら私に言った言葉を思い出した:「オレは人生で何も成し遂げなかったなあ」小さなスピーカーから出て来る音が、A&RのスタジオA-1から放送されていたとことなど、当時の私は全く知らなかった。エルトンのラジオ放送は、後に『11-17-70』というライヴ・アルバムになったのだが、今、私がいるのがまさにここなのだ。しかも、ディランと一緒に。スタジオ全体が激しく鼓動していて、銅製の屋根を持った大きな箱は苦痛や怒り発散し、真実をぶちまけようとしていた。テープ・マシーンは輪になって飛んでいた。テープはブンブン音を立てて回っていた。テープの最高速度である30ipsよりもずっと速く、赤いランプはさらに煌々と光っていた。レベルメーターの針がレッドゾーンに入ると、ラモーンは肩をいからせる。彼は自分の手の中にあるものに全意識を集中させている。体温が上がり、私は幻覚症状を見始めた。赤いランプは血に変わり、その血がテープ・マシーンのほうに落ち、トラックには血が流れていた…。

オレ達が自分の力で食っていけるというのも不思議だよな


 そして静寂が訪れた。曲が終わった。テイクが終了した時には、誰もしゃべらない。フェイドアウト用に最後に無音状態を数秒間残しておく必要があるのだ。私達はじっと座って待った。テープの回る音だけが、まだブンブンいっていた。レベルメーターの針もじっとして動かない。血はランプに戻って光り、あらゆるものがテープに収録されたことを私達に教えてくれた。私達はさらに待った。ディランはコントロール・ルームのほうを向いて言った。
「このくらい真面目に歌えばいい?」

ボブ・ディランとフィル・ラモーンに悩まされる

 ガチャン。ボーン。ガチャン。
 床はなくなってしまった。私は倒れた。一生分の理想がたった1センテンスで破壊された。ディランがどれほどのトリックスターか私は知らなかった。たとえそれを知ってたとしても、それがどんなことか理解出来るほど、私は大人でもなかった。19歳は黒か白かはっきりしていないと気が済まないピュアな理想主義のピークなのである。アイン・ランドを読むような年頃には、皆そうだ。高貴なアーティストは世界と対立しているものなのである。未来を握っているのは私達であり、何か正義、良識、真実なのか知っているのも私達だ、と思っていた。
 スタジオで働いていた年にはたくさんの理不尽なエゴに対処してきたが、今回のものと比べたら、全て愉快で楽しい出来事のようである。時代のアイコン、あらゆる欺瞞に句読点を付け、偽善のビルを取り壊した男、見せかけの神聖さを鼻で笑った男は、超ひとでなしなのだろうか?
 私はめまいがした。マシーンにかかっている分厚いテープのようにクルクル回った。ラモーンがサインを出したので、私はストップ・ボタンを押した。そして、巻き戻して、再生した。
 ディランのあの一言は一体どういう意味なのだ? 私は誓って約束をしていた。録音芸術の館の師匠に弟子入りする際には誰でもやることなのだが、人間の意志によって創造された最高位のリアリティーであるロックンロール・ミュージックのためなら何でもやると、私は宣誓していたのだ。今、カーテンの向こうにいる奴が、世界の鎖を引っ張っているロックンロールの神なのだろうか? そいつは間抜けのように振る舞うミュージシャン達を血まみれにした。ある日アルバムを粗末な状態で録音した後、3回同じことを繰り返し、今日もまたやりそうなのだ。こいつは真面目にやってるのか? 私は今にも反吐が出そうだった。
 私は自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。20年間続くことになっている暗黒の旅路で、道を見失ったままでいるのが私の運命だった。幻滅は人の頭の中を目茶苦茶にしかねない。

遂に底が抜けた時、オレは引きこもった。
やり方を知ってるたったひとつのこととは
飛ぶ鳥にように
とにかくやり続けることだった
ブルーにこんがらがりながら。


 ディランはミキシングには姿を見せなかった。たいていのアーティストはスタジオを楽器のように使うものなのだが、ディランはレコーディング云々にはあまり関心がなく、ラモーンに任せきりだった。その頃、私達は毎日20時間働いていて、3〜4時間以上寝たことなど1年くらいなかった。その週、昼間はミック・ジャガーと一緒に、キング・ビスケット・フラワー・アワー用にストーンズの1973年ヨーロッパ・ツアーのライヴ・テープのミキシングの作業を行なっていたのだが、それにはまた別の話がある。私達は他の仕事を済ませた後に、ディランのミキシングを組み入れなければならなかった。作業の時間は深夜になり、スタジオに残っているのはラモーンと私達だけだった。核となるスタッフ以外は皆、帰宅してしまっていた。
 スタジオの照明はとても大切だった。クリエイティヴな雰囲気を作り出す要だからだ。私は殆どのライトを消した。フライングVのミキシング・コンソールの上の明かり以外は真っ暗だった。外部からの刺激を断った状態で、延々と音楽を聞いていると、ビートとビートの間のスペースはどんどん大きくなり、音の内部にある核心までもが聞こえてくるのだ。
 ラモーンは何時間もリヴァーブをいじっていた。これはフィル・ラモーン・サウンドのトレードマークだった。彼はベースメントにEMTという名の大きな箱を仕込んであった。これは、つまみを丁度良い具合にひねると、美しくて豊かで、どう呼んだらよいのか分からない何かを呼び起こすエコーを作り出した。殆どディランとベースだけのミキシングだったので、ヴォーカルとギターの音が全てだった。リヴァーブは次元感覚と、ディランの人生において何かが悲劇的に足りないという不足感や、不可思議な霊妙感を作り出した。ラモーンはいつもと同様、リヴァーブを絶妙にかけた。私達は夢中になってミックス作業を行なった。
 私は秘密の全てを知りたかった。底が抜けてしまった時にしがみつくことの出来るものを与えてくれるルールだったらどんなものでも、細部にいたるまで把握しようと頑張っていた。人はどのようにして偉大な芸術を作るのか? 優れたミュージシャンであるポール・サイモンにはあるやり方があったが、同じ巨匠であっても、ディランほどサイモンと異なるやり方をする人間はいないだろう。サイモンはナポレオン的で(これはこれで物語がある)、ディランは変装した人間だった。私はさらに何を信じたらいいのだろう? 今もなお、それは分からない。
 私はラモーンの後ろに座って、様子を観察し、音楽を聞いていた。睡眠不足と大量のドラッグで疲労困憊し、目の焦点を合わせるのもやっとだった。メーターの見え方が変であることに気づいた。普段は、ずらっと並んだメーターは、全て同じように針が動くものなのだが、この時は片寄っていた。ラモーンの意図は何だろう? 特有の素晴らしいサウンドを得るのに、彼は何をやっているのだろう? ラモーンはコンソールのところに座り、種々の楽器のボリュームをコントロールするフェーダーやノブに少し触り、そうするだけで魔法のようなサウンドになった。私はボードのところに座って、設定は何も変えず、コンソールに少し触れてみたものの、酷い音しか出てこなかった。どうすれば魔法を得ることが出来るのだろう?
 テイクとテイクの間に私は言った。「フィルさん、質問していいですか? メーターの針の触れが揃っていません。あなたにはどんな音が聞こえてるんですか? どういう理由でこんなことしてるのですか?」
 私はただ勉強しようとしていたのだ。彼のやること全てに真っ当な理由があると、私は考えていたのだ。ラモーンは数分間、答えてくれなかった。
 ラモーンは時々、恐ろしい男になることがあった。私達は皆、彼を恐れていた。スタジオは荒っぽいシーンだった。とてもマッチョで、しかも1970年代のニューヨークのことだ。サービス精神なんていうものは、まだ存在していない時代だった。。コンビーフ・サンドイッチを買いにカーネギー・デリに行くと、店員からは怒鳴られた。追加料金を払って悪態を買うようなものだった。それが当時のニューヨークの魅力でもあった。宙に投げ飛ばされ、怒鳴られ、辱めを受けるのが、エンジニアとしてのトレーニングの一環だった。それを受け入れるすべを身につけたら、一人前になれる。ラモーンは私に揚げ足を取られたと思ったに違いない。私にはそんな意図は毛頭なかったのだが、地雷を踏んでしまったのは明らかだった。彼はこちらを向くと、私に罵詈雑言を浴びせかけた。
 「ラモーン様に意見をするなんて、お前、自分を何様だと思ってるんだ? お前なんかクソの端くれなんだからな。オレのやることにいちいちイチャモンつけるなよ! オレは全てオレのやり方でやってるんだ。オレは偉大なるラモーン様なんだからな。お前なんかオレの1パーセントの能力すらねえ! レコーディング・エンジニアになりてえんだって? お前の耳なんて節穴じゃねえか。一人前になんてなれっこねえよ! 後ろに座ってオレのケツを拭けるだけでも、ありがたいと思え。質問なんて100年早え。オレの言うことに従ってりゃいいんだ!」
 私は訴えようとした。そんなつもりはないんです、ただ勉強したかっただけなのです、と…。しかし、私が何か言えば言うほどラモーンは怒ってしまい、取りつく島が全くなかった。彼の声はますます大きくなり、叫ぶ言葉は分別がなくなり、侮辱の言葉はさらに私を傷つけるものになった。「お前なんかカスだ! お前にとってはオレは神だ! 神様のいる前じゃ、お前になんか最低のクソだ! 一人前なんかになれっこねえ!」
 「でも、フィルさん、あの、フィルさん…」
 ついに、長時間に及ぶ作業、残酷な仕打ち、<愚かな風>、睡眠不足、19歳、「このくらい真面目に歌えばいい?」、死んだ父、コカイン、激突、こうしたもの全てがどっと押し寄せた。私はテープ・マシーンのストップ・ボタンを押した。指には血がついてるように思い、これ以上我慢することが出きなかった。私は泣き出した。コントロール・ルームから出ると、静かな廊下を歩いてトイレへと向かった。午前2時。明るく光る蛍光灯の下で、私は便器に座って泣きじゃくった。

オレは疲労から燃え尽き、霰の中に埋められていた。
薮の中で肌はかぶれ、道ではくたくただった。
ワニのように狩られ、トウモロコシ畑の中で踏みにじられていた
---- <嵐からの隠れ場所>


 私が本当に木偶の坊だとしても、ミキシングを終わらせるために、ラモーンには私が必要であることは分かっていた。コロムビアの人達はテープを翌日欲しがっていた。私は例の宣誓をしていたので、しっかり立ち直って自分の仕事をしなければならなかった。私はフラフラになりながらもコントロール・ルームに戻って、静かにテープ・マシーンの横の席に、箱とテイク・シートを手に持って座った。前にはラモーンがいる。今後100年間は口を開かない、少なくとも、ミックスが終わるまではしゃべるまいというつもりで。ふと、小さな紙片が目にとまった。それには「ラモーンは神」となぐり書きされていた。

人生は寂しい
人生は失敗
やらなきゃいけないことをやるしかない
やらなきゃいけないことをやれ、しかも上手に。
オレはきみのためにそうしよう。
ハニー、ベイビー、わかるかい?
---- <雨のバケツ>


 ラモーンは精神安定剤を口の中に放り込むと、くつろいで良い機嫌になっていった。
 「グレン、こんな場所からは抜け出そうぜ。一緒にスタジオを作ろう。お前とオレとでだ。全てのことが常にうまくいく超素晴らしいスタジオにしよう。お前は誰のレコードを作りたい? スティーヴィー・ワンダーか? それじゃスティーヴィーに来てもらおう。お前はパーソナル・エンジニアだ」
 フィルは私と一緒に作業をしたいの? 本当? OK、フィル。私は一晩中つき合うよ。どんなにいじめられたっていい…。私は元気を完全に取り戻した。私達なら一緒に素晴らしいレコードを作ることができる。

オレからお前に言ってあげられるのは
これがショービジネスだってことだけさ
-----ジョン・レノン


 私達はその晩、レコードを仕上げた。私はベーグルが届くまで起きて、カミソリとテープを使ってマスター・ミックスを繋ぎ合わせて、最終決定通りの順番にした。カミソリには気をつけなければいけない。特に夜間はそうだ。テープなのか自分の指なのか、切ってみるまでは分からないからだ。

うろたえるディラン

 アルバムは1975年の第1週以降に発売予定だった。フィルと私はジュディー・コリンズの素晴らしいプロジェクトに取り掛かり始めていた。熟練した職人、アリフ・マーディン(今はもう故人)がプロデュースすることになっていた。ご存じない人のために言っておくと、アリフが制作した最後のヒットはノラ・ジョーンズという女性アーティストの作品だ。ジュディーのヒット曲<悲しみのクラウン>はこの時のセッションでレコーディングしたものである。
 私達がコントロール・ルームでレコーディングの作業をしていると、電話が鳴った。セッション中にフィルの仕事の邪魔をするなんて、重要な用件に違いない。「ボブ、素晴らしいです。マジで、あなたの最高傑作ですよ。心配入りません。良い出来ですって」なんてフィルが言ってるのが聞こえた。フィルは私と目を合わせると、信じらないといった表情で頭を振った。ディランか。不安がよぎる。今度は何なのだろう? こんなことが何週間も続いた。しかも、新年のリリースするための締切が近づくにしたがって、激しいやり取りになっていった。
 確かにスタジオ生活は大変だが、その価値は十分にあると私は思っていた。1975年は素晴らしい年になりそうだった。そのピークはディランのアルバムのリリースだと思っていた。この調子で行くと、次は何だろうか?という期待があった。祝日から戻ってきた時、フィルと私は顔は青ざめ、意気消沈しながら椅子に座った。ボブはパニックを起こしていた。彼はミネソタ州ベミジで暮らす家族のもとを訪れており、クリスマス・シーズン中にアルバムのレコーディングをやり直すことにしたというのだ。プリンスが登場する前のミネアポリスは、レコーディングの点では何もない場所だった。唯一使えるスタジオはサウンド80で、ミュージシャンもそこにしかいなかった。ここは地元のCM用スタジオで、普段はマムズ・ビスケットや地元のオールズモバイルの宣伝等をレコーディングしていた。
 私達が作業をしたトラックをカットして、向こうで新たに録音したトラックを繋げるのが、私の仕事となった。私は作業をしながら新しいレコーディングを聞いてみた。ジャン、ジャン、ジャカジャカ「僕たちは愚か者だね、ベイブ、自分達の力で食えるのですら不思議だよね」…。この身を焦がすような、ねじられるような、熱い、血まみれの歌は、陽気なジングルになっていたのだ! 何だよ、これは!
 私は西部劇の酔っ払った老いぼれた外科医のように錆び付いたナイフでテープに切り込みを入れた。私はピクピク動き息をしているピンク色の生きている肉を切り取って、それを血まみれの状態のまま床に残しておいた。選ぶのは私の仕事ではなかった。刃物を突き刺して、分娩を助けた赤ん坊を殺すのが、私の仕事だったのだ。

ボブが教えてくれた真実

 アルバムは数週間後に発売されてナンバー・ワン・レコードに輝き、音楽史上における傑作アルバムのひとつとなり、『ブロンド・オン・ブロンド』の次に優れたディランの作品になった。いったい、自分には芸術の何が分かっているのだろう? 何についてどんなことを知っているというのだろう? 当時の私は本当に何かを学んだのだろうか? トリックスター、神話的アーキタイプ、形を変え続ける者がどんなものかは勉強した。ボブ・ディランがバグス・バニーであることも分かった。「ヘイ、元気かい?」いつも予想もしない穴からひょいと登場し、私達のようなのろまな人間を出し抜く。彼は人を混乱させ、神殿にいる両替商の店を引っ繰り返す運命の人間なのだ。アーティストはいい人であることを求められてはいない。アーティストはむこうの世界からのミッションで動いている。アーティストは私達の誰よりも自分の深い部分にくだって行き、その旅路の途中では地獄を通過し、聖なる炎を盗んで来て、私達にそれを分けてくれる。アーティストが私達のためにそんな大作業をやってくれている時の行動を、私達があれこれ言う筋合いはあるのだろうか?

人は私に言う
心の内をあまりに知り、感じすぎるのは罪なことだと
---- <運命のひとひねり>


 フィルについてもそうだ。彼は何世代にも渡って受け継がれる遺産を残したのだ。彼の仕事は、私を一人前の人間にして現場に戻すために、一度こてんぱんにやっつけることだったのだ。私は彼と同じものの見方と基準を、この文を書いているまさにこの瞬間にも、自分の指の中に持ち合わせている。「そんなんじゃだめ、バージャー。やり直し」私にはフィルの言葉が聞こえてくる。私は今でもフィルと戦っている。それはまるで、父親と息子のようだ。宇宙の支配権を巡る永遠の戦いの中に閉じ込められてしまっているのだ。しかも、勝つのは常に父親のほうである。チクショウ! ラモーンやディランをはじめ、私が業界にいた時に出会う機会に恵まれた神々達は皆、私に大切なことを教えてくれたのだ。その大きさは今もなお私には計り知れない。私は若い頃、確かに超ダメ人間であり、こうした人々のように不朽のものを作り上げたことなど全くない。
 アルバムが発売された時に、私はすぐにひっくり返して裏ジャケットを見た。レコーディングにたずさわった無名のヒーローが最初に見るのがここなのだ。栄誉を味わうためにそうするのだが、私達もクレジットが好きだった。私は最も小さな活字で書かれている箇所も全て見たのだが、最終的には屈辱を味わうことになった。ノー・クレジット。私の名前はジャケットのどこにもなかったのだ。

ディランの最後のいたずら

 この一件から立ち直ることがないまま何十年もの年月が過ぎた。現在50代の私は、中年の精神科医というトリックスターのユニホームを着ているので、私を見て、あの現場にいた人間と思う人は皆無だろう。先日、自分の子供の誕生パーティーで、メジャーなレコード会社の重役をやっているというお父さんと出くわした。最近では、業界人と顔を合わせる可能性があるのはこういう場のみになっている。私も昔は業界人だったと彼に話したところ、大物と仕事をした経験の有無を質問されたので、私はいつもの返答をした。「WFUV局がロック史上の最高傑作と呼んでいるアルバムの制作にかかわったよ。ボブ・ディランの『血の轍』さ」彼は感銘を受けていた。
 自動車で帰宅の途につきながら、私はこんなことを考えた。彼がグーグルでクレジットを検索して、私の名前がヒットしなかったら、大ほら吹きだと思われるだろうなあ、と。それ以外、証明する方法がない。自分が曲名やテイク番号を記入したテイク・シートになら、『轍』が作られる過程を目撃した2人の人間のうちのひとりとして、私の名前が書いてある。セッション・シートに覚書を記す欄があり、その端に「エンジニア:フィル/グレン」と記す場所があった。インターネットにはあらゆる情報が存在し、大のディラン・マニアもいることは知っていたので、私の関与を証明してくれるものがあるのではないかと考えた。自分でそれを証明する必要があるだろうとも思い、私はグーグルで「血の轍のレコーディング・シート」と検索してみた。驚いたことに、マイケル・クログスガードという名の人物が、こうした書類を発見し、そこに書いてあることをウェブ上で発表していたのだ。私達が担当したセッションのところには「エンジニア:フィル&レン」と書かれていた。あぁ、これが運命というものか。最後の最後でこんなオチがあったとは。

オレは救済を安く手に入れようとしたが
もらえたのは致死量の一服だった。
オレは自分の無実を差し出したが
軽蔑を返された。
---- <嵐からの隠れ場所>


 『地の轍』。アーティストであるのは大変なことだ。だから、彼等の多くは壊れる。ディランはこれらの曲に自分の腹の奥底にあるものを注ぎ込んだ。だから、彼の曲は長い間人々に聞いてもらえているのだ。ディランは、私がうらやましいと思うことしか出来ないやり方で、自分の内面にプラグインしていた。私もその素晴らしさを理解する能力を持っているつもりなのだが、いつも、味わう寸前で、ボウルの中に卵の殻のかけらが入ってしまうように、私の理解をするりと抜けてしまうのだ。私はそれが燃えているのが分かるくらい近くに立っていたのだが、炎は常に私の外側にあった。これらの曲(トラック)の中にあるのはディランの血であり、曲を優れたものにしているのもまさにそれである。しかし、彼の血と一緒に私の血もほんの少しだけ混じっていることを、知る者はいない。
ラベル:NY
posted by Saved at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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