2012年01月31日

ミック・ジャガーとの日々:ヨーロッパ'73ミキシング秘話

images.jpg 1974年9月、ニューヨークのA&Rスタジオではボブ・ディランが『血の轍』をレコーディングしており、セッションの一部にはミック・ジャガーも同席したことが知られています。『Simple Twist Of Fate: The Making Of Blood On The Tracks』や『Stolen Moments』等に書いてあることを総合すると、少なくとも17日と18日のセッションにおじゃましていたようですが、どの本にもミックがニューヨークにいた本当の理由は書かれていません。たまたまニューヨークにいたのでスタジオに遊びに来たのかと思ったら、実はそうではないようです。ミックは同じスタジオで、『Nasty Music』『Bedspring Symphony』『Brussels Affair』『Tour De Force』『Europe '73』等の有名ブートレッグになったラジオ・ショウ用のミキシング作業を監修していたのです。しかも、『血の轍』のレコーディングとこのブリュッセル公演のミキシングの実務は、同一人物の手によって行なわれていました。
 1990年2月の初来日公演以来、ストーンズはツアーの際にはかならず日本に来て、東京ドームで何度もコンサートをやるバンドになりましたが、それ以前は、日本で見るのは不可能で、見たければ海外に行かなければいけない敷居の高いバンドでした。インターネットなどなかったので、普通の音楽ファンには海外事情は全くわからず、ストーンズのコンサートを見て日本に帰って来た人は、それこそジョン万次郎級の扱いをされていました。そんな時代において彼等のコンサートのわずかな一部でも体験させてくれたのが前述のブートレッグだったのです。
images-1.jpg 私は大学1年の時に先輩(しばらく音沙汰はありませんが、優秀な人だったので今は法曹界で大活躍中でしょう)から『Tour De Force』を借りて聞きまくった後、自分でもいくつかのバージョンを買いました。1973年ブリュッセル公演はストーンズ・ファンにとって必修科目のようなもので、キースのカッティングのニュアンスやミック・テイラーの流麗なソロ、ミック・ジャガーのMCなどは耳にタコ状態の人も多いでしょう。つい最近『The Brussels Affair』と題された音源がオフィシャルHPでダウンロード販売されましたが、オフィシャル・ブートレッグにありがちな海賊盤と同音源ではなく、違うミックス、違う演奏が多数含まれていることは、私ですらすぐに分かりました。
 ストーンズが日本には入国不可能と思われていた時代に日本のストーンズ・ファンをトリップさせていた音源には、こんな裏話がありました…。




ミック・ジャガーとの日々:ヨーロッパ'73ミキシング秘話

by グレン・バージャー PhD


 2005年9月15日、私はデヴィッドと一緒にニューヨーク・シティーのマディソン・スクエア・ガーデンにローリング・ストーンズを見に行った。私達は互いに3週間しか離れていない50歳の誕生日をこうして祝ったのだ。デヴィッドは高校時代からの親友だが、今では顔を合わせるのは年に1度ほどである。彼は年に300日は世界を飛び歩き、タジキスタン等さまざまな地域でAIDSの治療や予防活動を行なっている。私達は年に1度会って、互いの老け具合や友人になってからの年月を、面白おかしく祝うことにしているのだ。私達の友情は間もなく40周年を向かえる。
 再会は常に楽しいが、今回はいつもと違っていた。50歳という人生の節目を迎えたというだけではない。ローリング・ストーンズのコンサートということに特別な意味があったのだ。1972年に、今回と同じマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたストーンズのコンサートにデヴィッドに連れて行かれた時まで、私はこのバンドには特に関心はなかった。16歳の時だった。
 人生のあの時期はコンサートに行くことこそ生きがいで、私達は友人の兄貴で、最も尊敬すべき人物だったビンキー・フィリップスから1972年ツアーのチケットを手に入れた。後に、ビンキーは「ザ・プラネッツ」というパンク・バンドのフロントマンになり、ニューヨーク・シティーで最もイカした地域であるイースト・ヴィレッジで「サウンズ」というレコード屋を開いた。私は今でもなお、このコンサートのチケットの半券と、ビンキーの筆跡でメモが書いてある封筒を持っている。
 出来るだけステージの近くに行けた奴は神だった。4ドル50セントの座席はガーデンのかなり上のほうだったのだが、会場の警備員を擦り抜ける方法を心得ていた私達は、最終的には4列目の真ん中まで来て、前方へと押し寄せる群衆を支えにしながら、最初から最後まで座席の上に立って見ていた。いかなる法悦体験も、あの時、私の味わった恍惚感にはかなわないだろう。<ミッドナイト・ランブラー>の時に、スタッズ付きの白のジャンプスーツを着た若くてイケメンのミックがひざまづき、チャーリーとキースの出音にタイミングを合わせてベルトでステージを鞭打つ光景だけでも、一生忘れない超貴重な思い出だ。
 そのわずか数年後に自分が世界最高のレコーディング・スタジオ、A&Rレコーディングで働くことになるとは、この時の私には知る由もなかった。私は19歳の誕生日が来る前にはミスター・ジャガーと一緒に魚料理を食べる運命にあったのだ。
 1974年9月、当時の数々の優れたバンドのライヴ・レコーディングを放送していたラジオ番組《キング・ビスケット・フラワー・アワー》によってスタジオが予約された。ローリング・ストーンズが1973年に行なったヨーロッパ・ツアーで録音したライヴ・テープをリミックスするためだ。ミックもその作業を監修するためにやって来ることになった。私達が行なったミックスはラジオで1回しか流れなかったと思うが、放送以来、伝説となった。多くの人がストーンズの絶頂期と思っている頃のトップ・クオリティのライヴだからだ。これはミック・テイラー最後のツアーで、彼がバンドにいた頃のストーンズが最高と思っている人も多い。このレコーディングは、キースのヘロイン中毒のせいでストーンズの活動が何年間も低迷状態になってしまう前のものでもあった(というのが世間一般の意見であるものの、私は1972年以来、何度もストーンズを見ているが、彼等はいつも絶好調だったように思う)。
 このミックスは『Bedspring Symphony』をはじめとするたくさんのブートレッグに収録されている。レコーディングの大部分は、1973年10月13日にベルギーのブリュッセルにあるフォーレスト・ナショナルで行なわれたコンサートのものだが、このショウの一部はジャガーのおメガネにかなわなかったので、1973年9月9日にロンドンのウェンブリー・エンパイア・プールで行なわれたコンサートで収録されたトラックがつなぎ合わされた。
 スタジオでミック・ジャガーを待つのは少々堅苦しいことだった。本物のスター然としている彼は、全員がコントロール・ルームに揃うまでステージ袖に立ち、それから堂々とご入場という次第だった。
 若きジャガーはスタジオに颯爽と入って来ると、ロンドン訛の超心地よいバリトンでこう訊いた:「オレ、ここでいいの?」この質問は皮肉だった。ミック・ジャガーがいる場所は、どこであろうとミックの場所なのだから。
 正直言って、私は興奮のあまり心臓がドキドキしていた。ミックは4、5人しかいない部屋の中でも、5万人収容のスタジアムでライトアップされている時と同じくらい、魅力を輝かせることが出来る。30歳、ボサボサ頭、目尻にしわが寄る目、歯をいっぱい見せるスマイル----とにかくゴージャスだった。
 将来サーと呼ばれることになる人物に、私達は皆、敬意を持って接した。私の師であり、最初に担当したレコーディングがグラミーを受賞した<イパネマの娘>で、後にプロコル・ハルムの<青い影>を録音し、ストライザンドからマッカートニーまで、最も畏れ多いアーティストと作業をした経験のあるフィル・ラモーンでさえ、ミスター・Dの前ではおとなしくしていた。彼はミキサー席をミックに譲り、ミックが赤いフェーダーに指を乗せていた。フェーダーとは、さまざまな楽器の音量を調整するスライド式ボリューム・コントロールのことだ。ビルの安定したベース、バンドの推進力となってるチャーリーのキック、スネア、タム、シンバル、ミック・テイラーの泣きのリード・ギター、キースの負けん気が強そうな、リフのお手本のようなリフ、各種管楽器、キーボード、バック・ヴォーカル、ミックの元気で熱いリード・ヴォーカルの音量を、これで調節するのだ。
 私達は1曲目の<ブラウン・シュガー>を聞いた。ミックは楽器間のバランスを調整して、リスナーをコンサートの真っ只中に引き込むようなブレンドを作ろうと試みた。
 ミキシングを行なっている時には、そのエンジニアはフェーダーの位置をとても気にかける。楽器間のバランスを取ることはデリケートな作業で、気に入ったサウンドが得られた時には、スライダーが正確な位置にあることに細心の注意を払う。デジタル・レコーディングが登場する以前は、いつでもマジックを呼び戻すことが出来るよう、スタジオ内の全てのノブの位置を正確に記録しておくのが私の仕事だった。
 しかしジャガーは、一度はミックスを設定したが、しばらくいじくり回し、そのうち挫折して、全フェーダーをゼロに戻し、今までやった作業の全てをご破算にしてしまったのだ。ミックは椅子から退くと「あぁぁ!」と唸り、交替のシグナルをラモーン送った。ラモーンはヒョイとボードの前に移ると、サラブレッドを走らせるようにフェーダーを操作し始めた。恍惚の表情をして、足でコツコツと床を叩きながら、彼の秘法のバイブレーションをプロセスの中に吹き込んでいった。ジャガーも一緒に作業に取り組んだが、ラモーンが作るキースのギターの音には満足していなかった。彼が欲しかったのは、ジャジーなラモーンが作るのよりもっとラフな音だった。ミックは私につまみを回せという合図を出してきた。いわゆる「アウトボード・イコライザー」を使って音をシャープにしろと言っていたのだ。この機材はラモーンの後ろの、彼の目の届かないところにあった。ラモーンが別のことに気を取られている間、私は5kのノブをおもいっきりひねった。このレンジを強調したことで、キースのギターに顔をこすられるような出音になったのだ。ジャガーの微笑みが、これでいいと言っていた。私はこのことをラモーンには話していない。ミックと私の間だけの秘密だった。
 私はミックに気に入ってもらえたと思った。さもなければ、彼はアシスタント・エンジニア全員にやさしく接してくれるスイートな人間に違いない。彼はスタジオに入ると、後ろの隅で殆ど見えないように存在する私のほうにまっすぐ歩いて来た。私の体に何度かやさしくパンチすると、長くカールした私の赤髪を触り、「元気かい、ジンジャー」と言った。
 その一言で、私は天国と涅槃の間のどこかまで昇天してしまった。私はあくまでストレートだが、例外もある。もしあの時ミックに迫られていたら、私はイエスと答え、一晩中、秘密の行為に及んでいたことだろう。
 スタジオでは2週間ほどクレイジーな状態が続いていた。ミックが来た時、私達はディランの『血の轍』の仕上げの作業の真っ最中だったのだ(この話については「『地の轍』ニューヨーク・セッション秘話」を読んで欲しい)。ディランが別のスタジオにいると聞いたミックは、会いに行きたいと言い出した。私は喜んで、ロックの神殿の中で2人の神を引き会わせた。海神ネプチューンと主神ゼウスが会ったようなものだった。ふたりは顔を合わせたものの、互いをあまり良くは知らなかった。ミックとディランほどタイプのかけ離れた人間はいないだろう。ジャガーがこの星で最もチャーミングな男だとしたら、ディランはアスペルガー・タイプの最も風変わりなグノームだ。ふたりが一目ぼれ状態だったとは思わないが、私はミスター・Zとサー・ミックが一緒にスタジオに来たのを目撃した。
 金曜日の昼の間、ミックはラジオ・ショウの一部として放送するインタビューを収録することになっていた。ピーター・クックがインタビュワーだったら面白いのにと、ミックは考えていた。ピーター・クックとはイギリスの一流コメディアンだ。彼は現代のイギリス・コメディー界で非常に影響力の大きな人物で、1960年代に起こったイギリスの風刺劇ブームにおいて導灯的な役割を果たした重要人物である。
 ディクソン・ヴァン・ウィンクル----セイウチのような口髭と丸眼鏡がトレードマークの、変わり者だが腕の腕の立つエンジニアだった----とミックと私は、ポータブル録音機材を持ってタクシーに乗って、インタビューを収録するためにニューヨークで最も上品なピエール・ホテルに行った。私達はミックとピーターと一緒にスイート・ルームでしばらく時を過ごしたが、レコーディング的にはこれといって何の成果も上がらなかった。ピーターは少し飲んでいた。ちょっと談笑した後に、使えそうなものが何もテープに録音出来ていない状態で、私達はホテルを後にした。あるインタビューの断片が、あの時の「ピーター・クック、ミック、チャーリー・ワッツ」の会話としてネット上にあるが、それは別の時に別の場所で行なわれたものだと思う。チャーリー・ワッツもあの場にいたという記憶は、私にはない。
 金曜の晩、ミックは特に何もすることがなかったので、皆でディナーを食べに行こうということになった。私達はスタジオのすぐ近くの、48丁目の8番街と9番街の間にあるピエール・オー・トゥネルというフランス料理のレストランに行った。ミックは非常に文化的素養があって洗練された人物だった。私のようなブルックリンのシープスヘッド出身の田舎者の少年とっては、特にそう見えた。ガーリック風味のエスカルゴを飲み込み、美味しいボルドー・ワインをすすりながら、ミックはフランスで過ごした時のこと、その間に『メイン・ストリート』をレコーディングしたことを話してくれた。が、私はというと、自分の背の立たないところに来てしまい、ずっとアップアップしている状態なのを、誰にも気づかれないうちにディナーを終えたくてしかたなかった。憧れの人を見ながら間抜けな笑顔を浮かべるだけにしておけば、うまくその場を切り抜けることが出来たかもしれないが、私の計画は大失敗だった。ナポレオンという名前のフレンチのデザートを注文するという間違いを犯してしまったからだ。知らない人のために書いておくと、ナポレオンとはとても薄いパイ生地とヴァニラ・カスタード・クリームが何層にも重なったもので、このデザートを優雅に食べる方法は皆無である。小さく切ろうとすると、横からクリームが噴出するのだ。この甘いラザーニャみたいな食べ物をうまく食べようとした時、私は自分の両手が不器用なカニのハサミになってしまったことに気がついた。と、その瞬間、フォークとナイフの持ち方すら忘れてしまったのだ。ひと口分を不器用に切ろうとしたら、クリームがテーブル中に飛び散った。ミックはこのグラン・ギニョールのホラー・ショウのような光景をちらりと見たが、それを無視する優雅さを持ち合わせていた。彼はわずかに眉毛を動かしただけで、そのままおしゃべりを続けた。
 翌朝、私はスタジオでミックとふたりきりになった。私はアシスタント・エンジニアとしてスタジオに来るのは一番早く、帰るのも、パーティーの後片付けを済ましてからなので、一番最後だった。上司や先輩たちがすぐに仕事に取りかかれるように、全てを準備しておくのが私の仕事だったのだ。この静かな土曜日の朝、私はスタジオまで歩いて来た。ニューヨークのミッドタウンのストリートは売春婦の姿こそなかったがゴミだらけだった。私はワクワクしながらスタジオのドアを開けた。もちろん、中にいるのは私ひとりだ。分厚くてあたたかみのあるマルチトラックのテープを箱から出すのは、神聖な儀式だった。酸化鉄の粉が舞う。私は巨大なテープ・マシーンの太いシャフトに大きな2インチ・リールをガッチャッとはめ込み、テープをメタル製のガイドからテープ・ヘッドに通すと、その端を手際よくクルッと回して、巻き取りリールにうまくからませた。巻き戻しボタンを押すと、テープはシュルシュル言いながら動き出し、一方のリールが空に、他方のリールがいっぱいになってきた。私は早送りのボタンを押してテープの速度にブレーキをかけ、ゆっくりになってきたところでストップ・ボタンを押した。
 私はコンソールに入って再生ボタンを押して、基本となるレベルの設定を始めた。キースのギターで曲が始まり、チャーリーのドラムも入って来た。そして、このフレーズが流れて来ると、そろそろミックのヴォーカルが入る印だ:「I met a gin soaked bar room queen in Memphis♪」私がこの曲をじっくり聞こうかと思った瞬間、ミックが入って来た。私はストップ・ボタンを押して立ち上がった。
 1974年のニューヨーク・シティー、土曜の朝。私とミックだけだ。今こそ、ミックとじっくり話をするチャンスだ。こんなこと人生で最初で最後のチャンスかもしれない。でも、何を話したらいいんだ? 私はコントロール・ルームの中をたらだら歩き、リミッターを調整しながら話した。
 私は当時、大の映画ファンだった。1970年代前半のニューヨークでは、コンサートに行かない時には、昔の映画を上映する映画館に行き、数十年前に作られたヨーロッパのアート・フィルムの名作から人生を発見した。エルジン、ブリーカー・ストリート、タリア、シアター80のオールナイト・ショウに行き、ベルナルド・ベルトルッチ、イングマー・バーグマン、ウェルナー・ヘルツォーク、ジャン=リュック・ゴダール、スタンリー・キューブリック、ケン・ラッセル、キャロル・リード等の映画を見たものだった。
 大好きな映画はたいてい、頭がドラッグでサイケ状態になっている午前4時に始まったのだが、そのひとつがドナルド・キャメルとニコラス・ローグ監督の『パフォーマンス』(邦題:『青春の罠』)だった。映画の中では、私の新しい友人のミック・ジャガーが落ちぶれたポップ・スター役で主演し、ジェイムズ・フォックスがサディスティックなギャング、実生活上ではキースの恋人だったアニタ・パレンバーグがミックのガールフレンド役を演じていた。私は16歳の時にこの映画を10回くらい見て、映画へのはまり方を学んだ。撮影技師で、編集の監督も行なったニコラス・ローグは、編集や、時間と空間、多元的視点で遊ぶというラジカルなスタイルの持ち主であり、見方が分かっていなかったら、スクリーン上で起こってることについて行くことは出来なかった。意識を集中するよう促されたのはこの時が初めてだ。この経験は後になって芸術作品の製作やセックスの時に非常に役に立つことになった。
 私も友人達も、あらゆる理由からこのワイルドな映画が大好きだった。官能的なアニタとアンドロギュノスのようなミック、子供のようなフランス人女優ミシェル・ブレトン、変態マッチョのジェイムズ・フォックスらが裸でセックスをするシーンが随所にあるホットな映画だったからだ。ジャック・ニッチェが担当したサウンドトラックもまた非常に味わいがあり、ジャガーが作曲し、オールバックの髪にスーツという格好で自ら歌う<メモ・フロム・ターナー>も最高だった。ストーリーは遠くの国の文化やヒップな文学に関するドラッグがらみの引喩に満ちていて、ギャングとロック・スターの間の緊張関係や愛を中心とした筋や会話も超クールだったのだ。
 映画がオーケストラを使ったストレートなサントラという型を破りつつあった時代において、この映画はロックンロール映画のパイオニアとなる画期的な作品だった。私はこの映画を1コマ1コマ研究し、格好いいセリフとその微妙なニュアンスを全て覚えていた。
 この映画が大コケしたことも知っていたが、これには触れないほうがいいと思った。私はミックにこの映画が大好きであることを話すと、彼は純粋に喜んでいるようだった。私達はあの作品に関する意見を交換した。私が特定のシーンについてとても詳しく話したものだから、ミックのナルシシズムが刺激されてプクッと膨れてきた様子も見て取れた。彼は酷評されてがっかりした、今や、自分は興行成績のサゲチン扱いされているから、2度と映画には出れないだろうと語った。私達はまた、ディランの変人ぶりに関しても見解が一致した。
 さて、仕事の時間だ。ミックからどの曲か聞かれたので、私はミックス予定表の次に載っていた<ホンキー・トンク・ウィメン>と答えた。ミックはテープをかけてくれと言った。私がレベルを調整して出来る限りホットな音にしようと集中している間、彼は隣に座り、真剣に聞いていた。
 ミックは自分のヴォーカル・パフォーマンスが気に入らないので録り直したいと言い出し、シュアのダイナミック・マイクSM-57をプラグインするように命じた。これはミックがステージ上で歌う時に使っているのと同型のマイクだ。私達はコントロール・ルームを出て、一緒にスタジオに入っていった。ミックがマイクを手で持って歌いたいと言ったので、私はスタンドからそれをはずして彼に渡した。私はコントロール・ルームに戻った。私とミックは分厚いガラスによって隔てられ、8フィートほど離れていた。私が古い大きなマルチトラック・レコーダーの「再生」と「録音」のボタンを押すと、サー・ミック・ジャガーは私だけのために<ホンキー・トンク・ウィメン>を歌った。
 歌い終わると、彼はコントロール・ルームに戻って来て、プレイバックを聞いた。満足したようだった。ミキシング作業最終日に、ミックは少しインスピレーションを得たかったのだと思う。彼はブツを配達させるためにディーラーに電話をかけた。1、2時間後、ミックのヤク調達係が入って来たのだが、それはジョン・フィリップスだった。
 ジョンはザ・ママス&ザ・パパスで有名になった人物で、彼等は<夢のカリフォルニア>等いくつものヒット曲を録音した。フィリップスはこの曲の他、<花のサンフランシスコ>や、グレイトフル・デッドによって数えきれないくらい演奏された<ミー・アンド・マイ・アンクル>といった、時間を超越した名曲を書いている。
 しかし残念なことに、この頃、フィリップスは酷いドラッグ中毒に陥っていた。ジャガーはフィリップスのソロ・アルバムをローリング・ストーンズ・レコードから発売するのにやぶさかでなかったが、平気で彼をディーラーとして利用していた。
 フィリップスは1970年代のその頃から悪循環に陥っていた。ソロ・プロジェクトが世に出ることはなく、しまいには1981年に麻薬密売で有罪宣告を受けた。しかし、こんなのマシである。《ワン・デイ・アット・ア・タイム》というTVショウに出演して有名になった娘のマッケンジーが、オプラ・ウィンフリーに対して行なった告白によると、ジョンは彼女にコカインとヘロインを注射し、その後10年間、近親相姦の関係にあったというのだ。最悪。
 その日、フィリップスは大きな茶封筒の中に入れて2つの大きなフィルム缶を持って来た。片方にはマリファナが、もう片方にはコカインが詰まっていた。私の見たところでは、ジャガーはそんなにドラッグ好きではなく、彼は私に巻かせたジョイント(当時は、この仕事も自分に向いてると思っていた)を1、2度ふかして消し、次に、ピンク色の爪でコカインを掬って、それを鼻のところに持っていく作業を1、2度やっただけだった。フィリップスはグリマー・トゥインズに関する口の悪いレポートの載ったタブロイド紙もいくつか持参していた。ミックは記事が気に入り、笑った。「エリザベス・テイラーから言われたことを思い出すなあ。マスコミが何を書き立てようと、それが本当のことでなければ別にいいんだよ!」
 私達はミックスを完成させた。ミックは録音されたパフォーマンスに関して、バンドが走ってテンポが早すぎる、と文句を言った。ラジオ放送用としてはまあまあだが、他の用途では恥ずかしくて使えない、と思ったようだ。今聞いてみると、この音源は触ったらヤケドをするほど熱い演奏だ。ネットの怪しいサイトでも手に入るこのショウは、史上最大のロック・バンドの最高のライヴのドキュメントである。
 2つの缶はというと、ジャガーが少しつついただけなので、まだ殆ど満タン状態だった。ミックは私に荒っぽくさよならのハグすると、缶を指さしてこう言った:「お前にあげるよ、ジンジャー!」
 世界的に有名なあの尻が揺れながらスタジオを出て行く際、私はミックに言おうとしたことがあったが、声がつかえて出て来なかった。私が頭の中で叫んでいた言葉は「ヘイ! ツアーで人手が必要だったら是非!…」だった。ミックにこう言えなかったことは、キースの自伝を読んで、1970年半ばに端を発して、ストーンズがかなり目茶苦茶な状態になってしまったことを知るまで、ノンストップで後悔していたことだった。
 ディランやジャガーと仕事をしたこの週は、私にとっては頂点の1週間だった。しかし友人達は、昔から憧れだったアーティストと私が1週間も一緒にいたことがうらやまし過ぎて、はらわたが煮えくり返り、しばらくの間、誰も口をきいてはくれなかった。ところが、ミックからドラッグをもらって持っていることを明かすと、数時間もたたないうちに皆がデヴィッド宅の地下室に集合して、全員で大爆発した。私は再び、皆から愛される人間となったのだ。

* * * * * *


 以上が、34年後に50歳になった私とデヴィッドが再び一緒にストーンズを見て、感慨もひとしおだった理由の一部である。しかし、私は感情の強さというものに自分でも驚いた。バンドの登場を待っていると、かなり恥ずかしいことだったのだが、目から涙が流れてきたのだ。それにはデヴィッドも驚いた。私は精神科医になってからというもの、ここ数年は彼よりも少し涙もろくなってしまったようだ。私はデヴィッドに大丈夫だと言うと、かなり気分が良くなったのだが、どうしてこんな状態になったのか訳が分からなかった。感傷かノスタルジアか? そんなものでは説明がつかない。その時の私は気づいていなかったのだが、キースが<ブラウン・シュガー>のイントロのコードを弾いた頃、私達夫婦が養子に迎えようと思っていた赤ん坊がカンザス州ウィチタで誕生していたのだ。
 私達がその電話をもらったのは次の日だった。妻と私はこの数カ月間、赤ん坊の母親と連絡を取っていたので、非常に驚いた。3週間早く誕生したのは男の子だった。養子にすることは決まっていたので、私達はすぐに行動を開始した。養子縁組と実子の誕生には奇妙な相違点がある。車に飛び乗って病院に行くのではなく、空港に行くのだ。2歳半の娘をセントルイスにいる彼女のいとこの家に預けると、前日のコンサートの耳鳴りがまだ止まないうちに、私達はセントルイスに到着した。
 全てが順調のようだった。男の子は新生児集中治療室にはいなかったが、この赤ん坊が十分に栄養をとって体重が増えるのを確認するために、1日か2日は入院させて様子を見たいとのことだった。
 私達が不安だったのも無理はない。養子縁組から得られる大切な教訓のひとつが、自分達にはコントロール出来ることと出来ないことがあるのを知ることなのだ。私達に出来たのは、子供の実の母親に「協力」するかどうかを決めることであり、妊娠中の母親の行動に関してはあれこれ口出しすることは出来ないのだ。これは私にとって大きな教訓だった。何事も節制しないと気が済まない私達だったら、21世紀のヤッピーの出生前プログラムを最大限行ない、オーガニックなものしかあの子の血液関門を通過させないようにしたことだろう。しかしこの時は、一歩譲って私達のものではないプランに任せざるを得なかった。しかし、お任せというのも大変なことだった。養子縁組には変な慣例があり、最後の瞬間まで私達には断る権利があるのだ。もし何か気に入らない点があれば、さよならすることも可能なのだ。
 出来る限り全ての細菌を十分に殺した後、私達は小さな病院のベッドのところに立って、ハリネズミほどの大きさしかない小さな赤ん坊を見た。彼には体のパーツが全て付いていて、あらゆる新生児と同様、天使の羽を脱いだばかりの者が持つ肌の赤みを持っていた。後ろから天国の合唱がまだ聞こえてくるようだった。しかし、私達は寄り目になって、近くから、この子を入念に吟味した。中古車を買う時のように。何か見える? 整形によって重大な構造的欠陥が隠されてやしないか?
 時計がカチカチ鳴っている。全ての母親が赤ん坊を前にすると分泌する天然の愛情ホルモン、オキシトシンという要因もあった。妻は小さな欠陥も見逃すまいという厳しい目を保とうとしていたが、徐々に母性愛という催眠剤の虜になっていくのが私には見えた。すると間もなく、その筋の人達がやって来た。この赤ん坊を永久に私達のものにするという書類に、私達のサインが欲しかったのだ。数日後、赤ん坊が退院出来る頃には、全ての手続きは完了するだろう。私達がそうすると決めたら、もはや後戻りは出来なくなるのだ。
 2度目の養子縁組は最初の時より大変だった。娘はあまりに早く簡単にやって来たので、夢かと思ったほどだった。しかし、2番目ともなると、私達はこの子が最初の子に与える影響を考えなければならなかった。まだよちよち歩きをしながら幸せに暮らしている娘が、特別に介護が必要な弟を抱えて、一生苦労をしなければいけなくなったらどうしよう? そのような貴い重荷を背負っている人を尊敬するのと、かかわりあいのある人全員の人生を永久に変えることが分かっていながら自分がそうするのは、全く違うことである。
 最初の数日間に、驚くべきことを発見した。私達はウィチタが気に入った。ここに住んでいるのはいい人達だ。ニューヨーカーのブルー・ステイト(民主党支持者の多い州)的な先入観から、私はコーン・シロップで腹が一杯になり、ブッシュと銃とNASCAR(全米自動車競争協会)が大好きで、中絶とゲイが大嫌いなキリスト教原理主義者だらけだと思っていたのだ。私は病院の待合室にザ・ネイションとザ・ニューヨーカーが置いてあるのを見てビックリした。看護士は皆、やさしく、オープンマインドで、真面目に献身的に優れた仕事をしながら、自分の家庭の食い扶持を稼いでいた。
 ウィチタ市は小さなグリッド状になっていて、清潔で、どこへ行くのも簡単だった。健康的な食料も手に入り、私がこれまでに行った中で最高の子供向け博物館も見つけた。ある日、殆ど何もすることがなかったので、私は自分ひとりで町外れまでドライヴした。そこまで行くのには、町のどこからでも10分ほどしかかからない。町が突然終わると、目の前に大平原が広がった。しかも、それはロッキー山脈に突き当たるまで100マイルも続いていた。地平線に時折サイロが見えるだけのオズの魔法使いの国の中を数マイル進んだ時、私は自分の存在にかかわるような恐怖に捕らわれた。あとたった数フィート進むだけで、無限に続く空虚の中に落ちてしまうのではないかと思ったのだ。私は車の向きを変えると、そそくさと文明の中へと戻って行った。この一件で私は、自分が先に起こることの兆しが見える人物になったような気がした。
 この地の養子縁組の代理人が、何か指示を求めるようにやって来た。彼は子供の耳を触って異常を見つけようとしたが、この子は見た目通り、かわいくて愛するに値する存在だと言った。「細心の注意」を払いながら仕事をしていますというのが彼の口癖だったが、今回の言葉には説得力がなかった。彼は他にも仕事を抱えていて、この養子縁組の件も無事完了させたかったのだ。私はこれほどまでヨナのような気持ちになったことはない。神は私に何か言おうとしているのだが、私のほうではそれを聞きたくない。私の心の中には「いつでもノーと言えるんだ」という言葉だけしかなかった。
 最終決断をしなければいけない日の前日の晩、妻と私は病院の中で凍りついたように座っていた。私達の頭の中は「もしも…」という考えでいっぱいだった。セラピストとして、私はよく「起こり得る最悪の事態とはどんなことですか?」という質問をする。これは、理由もなく抱いていることが極めて多い恐怖心に関する客観的なパースペクティヴを、患者が得るのを手助けするためなのだが、今回の場合、答えは、私達全員の人生が永遠に変わってしまう可能性があり、どのくらいの確率でそういう事態になるかは知る由がない、ということだった。この場合、最悪なケースとは、本当に最悪な状態なのだ。
 私達が爪をかんでいると、ジャネット・リノのような髪形でメガネをかけた大柄の女性が、顔にあたたかい笑顔を浮かべ、一方の手を大きく広げながら、私達のほうにゆっくりと歩いて来た。彼女は赤ん坊の本当の母親の医師だと自己紹介した。彼女がこの子を取り上げたのだ。彼女は椅子にドシリと腰を降ろした。しばらくそこに長居するつもりのようだった。来る時は遅刻、立ち去る時には早々に、という医者の態度には慣れていた。手袋をはめて、ゴホンと咳をして、手袋を脱いで、血圧に注意してください、それではまた来年、が普通なのだ。しかし、この医者にはそれとは異なるヴァイブレーションがあった。まずは自分の家庭に関することから始まり、医者になるまでの道のり、一度仕事を辞めて復帰したことを、私達に話した。それから、自分の娘の心臓に穴が開いていることが判明したが、娘は命を脅かすこの状態と手術を乗り越え、そのおかげで夫も命に対する見方を変えた、ということを明かした。
 看護士のひとりが、ハムスターの籠ほどの大きさの保育器の中にいるバナナのような双子の様子を見にやって来た。将来私達の息子になるかもしれない男の子はその隣にいた。この3人の子は集中治療室から出られるほどには十分に危機を脱していたが、まだとても小さかった。私はその看護士が器用に楽々と彼等を扱うのを見てビックリした。彼女は私達の会話に加わると自分が経験した苦労を話した。彼女の場合は、旦那の連れ子の世話に関することだった。
 私は、未熟児達がこうして生きているのは驚異的ですねと言い、医者と看護士の仕事を褒めた。医師の説明によると、町の周囲の何もないスペースも勘定に入れると、ここは広大な地域の医療を担っている病院で、アメリカのこの地方では最大規模かつ最高レベルの未熟児集中治療室を備えている、とのことだった。看護士が「ご覧になりたいですか?」と訊いてきた。
 私達は再び消毒されて、医師と看護士に案内されて、保育器が何列もずらりと並んでいる大きな部屋に連れていかれた。そのひとつひとつに小さくて壊れそうな人間の命が入っていた。体重が1ポンドほどしかない状態で、生育可能かどうかの瀬戸際で生まれたばかりの子もいた。チューブで機械に繋がれた彼等はまるで親指のように見え、彼等の本当の親指は鉛筆に付いてる消しゴムより小さかった。大きな世界に移動することが出来る状態に近づいている子もいた。彼等は本来は母親の体の中にいるべきなのに、その外側で体重が増え、育ってきたのだ。確かに技術は超高度だが、これらの未熟児が生き、エネルギーを取り入れ、その愛情を脳や骨身、筋肉、そして心臓へと変えているのは、献身的な女性達の看護のおかげなのだ。
 子供達の小さな手は、いつの日か誰か他の人の手を握ることになるのだろう。その口はいつの日か微笑むのだろう。その目はいつの日か母親の目を見るのだろう。そして、その愛の中に映った自らの姿を見て、自分が存在していること、自分が他人から愛される価値のあることを知り、今度は彼等のほうから誰かを愛すことになるのだろう。
 私達は治療室を離れて元いた場所へと戻り、ベッドの中にいる私達のものになる可能性のある赤ん坊を見た。ひとりですやすやと眠っていた彼が、突然、大きな存在に見えてきた。彼を起こしたくはなかったので、私達は静かにほほ笑んだ。
 医師は椅子にゆったりと座って、まるで自分が私達を誕生時に取り上げ、以来ずっと知っているかのような表情で、こちらのほうを見た。彼女はもう4時間も私達と一緒にいた。ニューヨークの医者だとこうはいかない。私達がどうしたらいいのかということは、こちらからは質問しなかったし、彼女からも一言もなかった。しかし、彼女がそこにいたことで、私達は既にメッセージを受け取っていたのだ。その日はあまり食事を取っておらず、そろそろ夜の10時にもなろうかという頃だったので、私はエネルギー不足になり始めていた。彼女に近所に何か食べることの出来る場所はないかと訊くと、通りの向こう側に町中で一番おいしいハンバーガー店があると教えてくれた。彼女はあと数人患者を診なければいけないと言っていたので、私達が病院に戻る頃にもまだいるだろう。
 私達はカンザスの暖かい外気の中に出て、道路を渡り、映画『アメリカン・グラフィティ』から飛び出してきたようなビリーズ・バーガーの屋外の席に腰をかけた。今回の養子縁組の旅で、私達は非常に多くのことを経験した。不妊の苦しみと失望、娘という奇跡、そして、今こうして抱えている不安である。私達はバーガーとポテトとシェイクを注文した。待っている間、昔のロックやソウルの歌がレストランのスピーカーから流れていた。私は自分が通常とは異なる心理状態にいることが分かった。1曲1曲が私達に個人的なメッセージを送っているように感じていたからだ。まずコーネリアス・ブラザーズ&シスター・ローズの<トゥ・レイト・トゥ・ターン・バック・ナウ>(振り返るには、もう手遅れだ)。次がラヴィング・スプーンフルの<魔法を信じるかい?>。最後はカーティス・メイフィールド&ジ・インプレッションズの<イッツ・オール・ライト>(大丈夫さ)だった:

多くの人もそうなんだけど
朝早く起きて寂しい気分だったら
ソウルを少しつかんで
命をキミの目標にしよう
すると、きっと何かがやって来るはずさ


 パティオのプラスチック製テーブルについて、このアメリカ的なバーガー・タイムに共鳴しながら、私は頭の中に宇宙からの指令が鳴り響くのを聞いた。私は養子縁組の物語を思い出した。レフ・トルストイの『人は何で生きるか』だ。私達に与えられているのは、自分にとって何が良いかを知る能力ではなく、互いにとって何が良いかを知る能力だということを、トルストイはこの物語の中で私達に語っていた。この意味で、私達は他人への気遣い、世話、面倒を見ることからは離れられない。宇宙によってそう定められているのだ。私達はパンのみで生きているのではなく、愛によって生きているのだ。
 妻と私は自分達が癒されることばかりを考えていた。私達は苦痛や苦悶を避けたいと思っていた。誰だってそうだろう。しかし、宇宙はこのようには動いていない。私達はキリスト教徒の言う「神のご意志に従って生きている」のかもしれないし、儒者の言うところの道{タオ}によって整えられた「調和」を見つけたのかもしれない。そのどちらであろうが、あらゆる伝統的英知が語っているのは、私達は自分の目的を果たすのと同時に、自己より大きな存在に屈することから最大の充実を見出す、ということである。充実は自分の意志を用いてやる気になることから生じるのだ。命に対して、そして、命がその都度私達に要求することに対して、イエスと言えるようになることから生じるのだ。個人がどうなるかなんて関係ない。私が宇宙から何を欲しているのかということではなく、宇宙が今、私に何を求めているのかと問うことから、それは生じるのだ。苦痛を避けながら生きることは、一時的には楽ちんかもしれないが、宇宙からの指令を避ける時には危険を覚悟しなければならない。ヨナは結局、神の命令に従うまで、鯨の腹の中に閉じ込められることになった。偉大な綱渡り男、フィリップ・プティも言っている:「綱の上にいることが人生だ。そうでない時は待ち時間だ」人生にはラッキーな瞬間が少しあり、そんな時は、私達は実は試されているのである。宇宙はこの人にしか出来ない大切な作業をさせるために、大勢の中から私達を選んだのだ。親になるということも、こういう瞬間のひとつである。妻と私にとって、この時がその瞬間だった。ジュークボックスの音楽を含むあらゆることが、私達にこう言っていた:私達は選ぶほうの立場ではなく、選ばれたほうなのだ、と。

* * * * * *


 あれから4年後の今、私の運転するミニ・ヴァンの後部のチャイルドシートには息子と娘がいる。iPodのボタンを押すと「サラウンド・サウンド」システムのJBLスピーカーから<ブラウン・シュガー>が大音量で流れて来て、息子はそのビートに合わせて体を揺らしている。暇さえあれば、私は彼と相撲を取り、頭をなでてやる。完璧な人間なんていないという意味で、彼は完全に人間である。彼は犬や電車、母親が大好きだ。先日、私が起こすと息子はこう言った:「ボク、パパのこと好きだよ」
 私が受けた啓示が正しかったのかどうかは自分では分からない。宇宙には壮大なマスター・プランが存在するのだろうか、それとも、無意味な宇宙の中における唯一の意味は、私達がそれに与えている意味のみなのだろうか? どちらであろうと、答えは同じだ。答えはキース・リチャーズのギターの中から聞こえてくる。キースは何もはばかることなくプレイする。だからこそ、あの宇宙の鐘を何度も鳴らすことが出来るのだ。永遠に続く時間の中でチャンスは一度と思って弾いているからだ。宇宙はこういうふうに歌っているんだ。キースは指令を受けているんだ。ハイウェイを走っていると、曲が終盤に差し掛かった。私達は皆で歌った:「yeah, yeah, yeah, WOOOOOOOOOOOO♪」私の仕事は子供達を出来る限りエクスタシーに近づけてあげることなのだ。

Original copyrighted article "To Be on the Wire is Life: My Days with Mick Jagger"
By Glenn Berger PhD
Reprinted by permission.
posted by Saved at 11:30| Comment(5) | TrackBack(0) | Rolling Stones | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ストーンズファンです。貴重な記事を読めて幸せです。感激しました!
Posted by suga at 2012年03月18日 08:58
sugaさま、

このページを発見していただきありがとうございます。これからも細く長く続けていきますので、よろしくお願いします。
Posted by Saved at 2012年03月18日 22:01
素晴らしい!
名盤ナスティミュージックを生み出した
あのツアー。
こんな事があったんですね。
Posted by at 2012年08月08日 20:26
はじめまして
素敵な記事を紹介していただき
ありがとうございます。

他の記事もどれも本当にすばらしくて
読みふけってしまいました。

Posted by みや at 2013年12月15日 16:31
こっそりやってるこのページ、よくぞ発見してくださいました。ネットのどこかに面白い記事が転がってたら、是非教えてください。
Posted by Saved at 2013年12月15日 23:27
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