2012年11月14日

NY Rock'n'Roll Life【2】KISSの3回目のリハーサルに行ったぜ

 〈デュケイン・ホイッスル〉のPVで、夜の街をうろつくボブ親分の取り巻きの中に、なぜかKISSのジーン・シモンズ風の人がいますが、【ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ】第2回はこれとは全く関係ありません。



 ビンキーはポール・スタンレーと同じハイスクールに通い、KISSがKISSと名乗る前のバンド黎明期の姿を目撃している他、KISSとして初のコンサートの前座を務めたり、デモテープの制作に協力したりしています。〈コーリング・ドクター・ラヴ〉のデモではビンキーがギターを弾いており、KISSの未発表曲のひとつ〈Rotten To The Core〉のデモにも関与しているようです。この2曲のブートレッグはリリースされているのでしょうか? ご存知の方、是非情報をお寄せください。(下の「記事本文を読む」をクリック↓)

  


【ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ】
第2回:KISSの3回目のリハーサルに行ったぜ
文:ビンキー・フィリップス


 1960年代末から1970年代初頭にかけての数年間、オレはアメリカのハーレムにあるハイスクール・オブ・ミュージック&アートに通っていた。この学校はアップタウンのCCNY(ニューヨーク市立大学シティカレッジ)のキャンパスの真ん中にあって、ニューヨーク・シティーの5つの行政区全ての音楽もしくは芸術の才能のある子供たちのための専門的な教育機関だった。オレは毎日、ブルックリン・ハイツからラッシュアワーのIRT地下鉄に乗って、45分かけてここに通っていた。
 オレが入学して3日目に、本物のブラック・パンサー党のメンバーが、CCNYキャンパス全体を占拠し、2週間立てこもるという事件が起こった。彼らは皆、黒のレザーのカー・コート、ベレー帽子、レイバンのサングラスに身を包み、イカした格好をしていた。ユダヤ系、イタリア系、ポーランド系、アイルランド系の中流家庭のガキで、チェ・ゲバラに憧れを抱いていたオレたちミュージック&アートの生徒は興奮し、毎日朝夕の登下校の際に、喜び勇んで彼らに向かって小さなこぶしを振り上げた。しばらくの間、パンサーのメンバーも、キャンパスの門の裏に机や椅子、ゴミ箱などを投げ上げて作ったバリケードから、こぶしを振り上げてそれに応えてくれた。オレたちは「Power To The People(人民に力を)」という党派を選ばず使えるの激励スローガンを叫んだものだった。しかし、2週目の始めの頃になると、パンサーのメンバーは腹が空き、体が汚れ、疲労困憊し、しかも逮捕目前かという極限状態に置かれ、オレたちの遊びには付き合う余裕がなくなってしまった。現実の厳しさが身に染みて彼らが元気を失っていく様子は、教訓として得るところ多かった。
 この出来事の後、殆ど間もなく、教師のストライキが起こり、進歩的な父兄はこれをあからさまな人種差別と見なした。オレの親父は1週間ミュージック&アートに来て英語を教えたが、根っからの組合人間だった親父ですら、とことん愛想をつかしてこう言った:「オレがスト破りをしたのは、後にも先にもこれだけだぜ、ビンキー」 2年生の“才能のある落ちこぼれ”にとっては面白い時代だった。
 とにかく、それから数カ月後の1969年初春、オレはクイーンズから来ているスタン・アイゼンに出会った。そいつはちょっと変なヴァリアント王子みたいな髪形をしていて、オレより1年上だった。そいつとオレは、ギター・ケースを抱えて廊下ですれ違った際に、自分たちがミュージック&アートでギブソンを持っているたった3人生徒のうちの2人だと判明し、即、親しくなった。3人目のギブソン所有者だったマレー・ダビーとは数週間後に友達になったのだが、こいつのギターの腕はオレやスタンよりはるかに上だった。頭のほうも、3人の中ではこいつが一番良く、今ではアトランタで精神科医をやっている。卒業後も、スタンとオレの付き合いは続いた。高校を卒業して1年ほど経った1972年の春、オレはジェフ・ベックのコンサートが行なわれたアカデミー・オブ・ミュージック(東14丁目にあったホールで、後にパラディアムという世界的に有名なディスコ・クラブになり、現在はNYUの学生寮になっている)の外で、スタンに偶然出くわし、髪がボワ〜っと大きく広がっている、威圧感のある巨人みたいな奴を紹介された。
「ビンキー、こいつはジーン・シモンズっていう奴で、オレのバンド、ウィキド・レスターでベースを弾いてるんだ。(ジーンに向かって)なあ、ハイワット・アンプを持ってる奴がいるって、この前、話しだろ。こいつがそうさ」この時、ジーンは明らかにビビッていた。
 ハイワットは当時ザ・フーが使っていたアンプで、USAでは全く入手不可能だった。しかし、ジェスロ・タルのオリジナル・ギタリストだったミック・エイブラハムをフィーチャーしたブリティッシュ・ブルースのバンド、ブロドウィン・ピッグから1台購入したことで、オレは文字通り、アメリカで唯一のハイワット所有者となる幸運に浴していた。昔から超生意気だったジーンだが、ただそのアンプを持ってるってだけで、その時以来ずっと敬意を持ってオレを扱うようになった。ジーンは後に、オレのギター・プレイを気に入り、本当のダチになってくれた。実際に、KISSが既に神バンドになっていた時でも、オレはジーンお気に入りのギタリストだったんだ(ジーンが〈Rotten To The Core〉をリリースしない理由が分からないよ)。それに、胸を張って読者諸兄姉に伝えたいことなのだが、エンジニアのコーキー・スタシアックの話では、数年後、エース・フレーリーが〈コーリング・ドクター・ラヴ〉のソロのレコーディングに臨もうとした時に、ジーンは一言、「ビンキーのソロを弾け!」という指示を出した。そして、エースはジーンの意を正確にくみ取って演奏したので、彼が弾いた最もワイルドでベストなギター・ソロのひとつが出来上がったというのだ。
 話を1972年に戻そう。ジーンと出会って数カ月後、スタンから電話があった。これからはポールと呼んでくれということと(オレ:「オ…OKだよ、スタン」)、彼とジーンが結成したまだ名前のない新バンドのリハーサルに来てくれという内容だった。ふたりは1カ月前にリード・ギタリストを見つけたので、オレにあれこれチェックしてもらいたいらしかった。つまり、スタン…じゃなかった、えっと、ポールはオレの意見に一目置いていて、リード・ギタリストにオレのお墨付きをもらいたいようだった。
 ということで、ある土曜日の午後、オレは東23丁目10番地、マディソン・パークの向こう側にある幅の狭い薄汚れた6階建てのビルに出向いた(この建物はとっくの昔に取り壊されて、高層アパートメントになっている。その反対側には有名なフラットアイアン・ビルがある)。ポールとジーンのバンドが持っていたここのロフト部屋はとても汚く、毛布やキルト、卵の容器で雑に防音がしてあった。
 オレが彼らの練習場所に訪問したその日、新加入のリード・ギタリストは約束の時間を1時間以上過ぎてもまだ到着していなかった。練習部屋のムードは寒々としていたが、それでも、ダチのビンキーがもう来てるってことで、彼らはドラマーのピーター・クリスを紹介してくれた後、大遅刻の新リード・ギタリストがいないまま、オレのために3人で3曲を通しで演奏してくれた。オレは3人が演奏する〈ジュース〉〈ファイヤーハウス〉〈ストラッター〉を聞いた。この3曲はどれも、KISSのデビュー・アルバムに入ってる今や古典扱いの名曲だ。面白さと驚きの両方があった。バンドとしては、まだまだそんなに良くはなかった。技術的には、ニューヨーク・ドールズといったあの頃のロック・シーンの神々よりも優れていたが、3人ともひと昔前の平均的なプレイヤーくらいのレベルだった。しかし、〈ジュース〉のあのオープニング・リフは文句なくクールだったし、他の2曲もなかなかイカしてた。しかし、メンバーが1人欠けてるので、3人はこれ以上続ける気にならず、ひと休みすることになった。
KISS.jpg 薄暗がりの中で皆で椅子に腰をかけてる時に、オレは曲とアレンジを誉めたのだが、3人は加入して3週間しか経ってない新入りが遅れ過ぎであることに怒り心頭だった。…その時、突然、エレベーターのドアが開く音がした。文句のような言葉とドンという音が聞こえたと思うと、髪がボサボサで、顔が変にデコボコしている奴が入って来た。目覚めてから3分も経っていないような感じで、歩く時には体が左に20度傾いていた。エースと紹介されたこの変な奴は、足の片方には赤いコンバースのスニーカー、もう片方にはオレンジ色のコンバースのスニーカーを履いていた。パンクの時代まであと5年もあった1972年には、これは本当に変な格好だった。エースはオレにも他の奴らにも殆ど挨拶をせず、ボロボロのレスポールJr(当時はジャンク扱いだったが、今では1万ドルくらいの価値がある)を引っぱり出してアンプに繋ぐと、他の3人のほうを向き、気難しそうに、そして少しフラフラ気味に、「さあ、何をやるんだい?」と言った。まるで、1時間以上、他のメンバーを待っていたかのように。かなりムカついてたジーンは、「最初の3曲を通しで…」と怒鳴った。ということで、オレは同じ曲を今度はリード・ギター付きで聞くはめになったのだが、驚いたことに、はるかにカッチョいい音になっていた。こんなこと言うと生意気な奴だと思われるかもしれないけど、オレはリード・ギタリストとしてエースより上手くプレイできる自信があった。しかし、エースの音数の少ない、窒息気味のブルース風フレーズは素晴らしく、このギターがあってこそ、曲はパーフェクトになった。
 3曲が終わるやいなや、スタン/ポールはギターを置き、15フィート(4.5メートル)四方の暗くてジメジメしたサウナ室みたいなところからオレを連れ出すと、薄汚い廊下に立ちながら言った:「すまないんだが、ジーンとオレから新入りギタリストに話があるんだ。90分遅刻というのは許されることじゃない。ビンキーがいたらビシッと叱れない」オレは「あぁ、そうだな、スタン…いや、ポール。確かにそうだ。うまくやれよ。曲はとてもいい。あとは、あいつをしっかりさせるだけだ。オレは新入りのリード・ギタリストのプレイ、本当に気に入ってるぜ」と言った。
 ポール、ジーン、ピーター、エースは間もなくKISSと名乗るようになり、オレの20歳の誕生日、1973年1月30日にロング・アイランドで初ライヴをやった。そして、約6カ月後の1973年7月13日には、オレのバンド、ザ・プラネッツがポールとジーンから呼ばれて、KISSとザ・ブラッツ(こいつらもニューヨーク出身のバンド)のオープニングを務めた。場所はタイムズ・スクエアの近く、西43丁目にあったディプロマットというボロボロのホテルの宴会場だった(ここもロックンロールの名所だったのだが、ずいぶん昔になくなってしまった)。ビル・オーコインという先見の明がある奴がショウを見に来たのは、この晩のことだった。悲しいことに、ビルは先週(2010年6月28日)亡くなってしまったのだが、KISStory(KISS史)を知ってる奴なら、この人物のことも知ってるはずだ。彼はこの後間もなくKISSのマネージャーになり、ニール・ボガートが設立したカサブランカ・レーベルとのレコード契約を獲得して、KISSを同レーベル所属バンド第1号にした。アリス・クーパーが引退してしまったので、KISSはその間隙を埋め、ワイルドでスペイシーな人気を博す巨大バンドになった。そんなKISSとオレはステージを共にしたことがあるんだぜ。しかも、彼らの歴史の全てが始まった晩に!

Original copyrighted article "I Go to KISS's Third Rehearsal" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/i-go-to-kisss-third-rehea_b_636271.html
posted by Saved at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | Hard & Heavy | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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