2012年11月18日

NY Rock'n'Roll Life【3】チャーリー・ワッツのドラムスティックを顔面で受け止めたぜ

 10月半ばにフジテレビのロック映画特集でビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』とボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』、ローリング・ストーンズの『ギミー・シェルター』が放送されました。中でも今回放送された『ギミー・シェルター』は、四半世紀前に買ったアメリカ盤レーザーディスク(とはいうもののメイド・イン・ジャパン)しか持ってない私とっては、丁寧についていた字幕がかなりグーなので、テレビのハードディスクからしばらくは消去することが出来ません。
 今回のビンキーの話は映画『ギミー・シェルター』とライヴ・アルバム《ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト》を今までよりも+αで楽しむことが出来るようになるものです。結成50周年ということで騒がれているローリング・ストーンズですが、今回紹介する記事が盛り上がりにコショウひと振り分くらい貢献出来れば幸いです。 (下の「記事本文を読む」をクリックしてください)

  

 ビンキー・フィリップスの話はまだまだたくさんあるので、いずれForkN等を利用して、ひとつのeBOOKとしてまとめる予定です。これまでの記事や『ポール・マッカートニー死亡説大全』、【ISIS Selection】はiPadやiPhone、スマホでも読んでいただきたいのですが、表示具合とかいかがですか?




【ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ】
第3回:チャーリー・ワッツのドラムスティックを顔面で受け止めたぜ
文: ビンキー・フィリップス


 オレの女房は平日夜にはだいたいダイアン・ソーヤーのワールド・ニュースを見ている。約3カ月前に、ダイアンは番組の最後にこう言った。(2010年)5月6日は、真夜中に目を覚ましたキース・リチャーズが、いつもベッドのそばに置いているミニ・テープレコーダーに、意識朦朧状態で〈サティスファクション〉のあのメイン・リフをテープに録音して、「全然満足出来ねえんだけど…」とつぶやいて、それからまた寝た日の45周年記念です、と。1カ月後の1965年6月6日に〈サティスファクション〉はアメリカでリリースされ、7月10日には全米ナンバー1になった。〈サティスファクション〉はビルボードのトップ100と、数百マイル四方ではっきりと聞こえるニューヨークの「77」WABC-AMで、4週間ナンバー1を独占した曲だが、1965年のサマー・シーズン全体でもナンバー1だった曲だ。当時、WABCは毎時25分と55分に5分間のニュース・ブレイクを放送していた。ラジオから大音量でロック・ミュージックを流して大人の神経を逆なでしている10代のリスナーを対象にした賢い戦略として、「77」は、ニューヨークの他の全てのラジオ局がニュースを放送している毎時のトップに、独自のチャートのナンバー1を放送するという確固たる番組編成をしていた。つまり、1965年7月、8月の間はずっと、WABCでは毎正時に〈サティスファクション〉を流していたのだ。
 オレは1965年の夏の8週間、ニューヨーク州ウォールキルにあった伝説的な「赤おむつ」キャンプ・ソローに参加していた。この「赤おむつ」とはどんな感じのものだったのか説明しよう。オレがそれに参加したのは、1964年夏のことだった。宿舎の指導員はロビーで、彼はジュリアス&エセル・ローゼンバーグの息子だった。熱心でいい奴で、オレは大好きだった。1965年に2回目のソロー・キャンプのこともヴィヴィッドに覚えている。こんな楽しい体験は後にも先にもなかった。
 その年の夏、トランジスター・ラジオを持って来た参加者が何十人もいた。受信出来た放送局はWABCだけであり、毎正時にキャンプ内のあらゆるトランジスター・ラジオから突然〈サティスファクション〉が歪みまくりの大音量で流れ出したのだ。美術室にいようが、レクリエーション・ホールでビリヤードかピンポンに興じていようが、池で泳いでいようが、小川でカエル捕りをしている最中だろうが、メイン・ハウスの中をウロウロしてようが、自分の宿舎にいようが、野球場にいようが、保健室にいようが、松林にいようが、関係ない。毎日、一日中〈サティスファクション〉が聞こえてきた。皆、この曲が大好きだった。キャンプ参加者たちは、「おい、〈サティスファクション〉まであと5分しかないぞ」っていう具合に時間に気を配っていた。この思い出は決して消えない。決して古くならない。参加者の中でダントツで一番長い髪をしていたオレは、キャンプ期間中ずっと、ローリング・ストーンズ狂として一目置かれていた。前年の1964年にキャンプに来た時にはもう、オレはストーンズの大ファンになっていた。ストーンズが6月下旬に『ザ・ハリウッド・パレス』に出演して、ディーン・マーティンから辱めを受けてからというもの、彼等に夢中になっていた。



 そして、1965年にはその状態が著しく悪化していた。最近、フェイスブックで昔ソロー・キャンプに参加した人物からメッセージが届いたのだが、45年前、オレが熱心にローリング・ストーンズを布教するものだから、そいつの人生は変わってしまったのだそうだ。キャンプが終わった約1週間後の8月31日、オレはブライアン・ジョーンズのいるラインナップのストーンズのライヴを見てすらいるのだが、その話は別の機会にしよう。
 1965年の夏には、チャックとウッディーという指導員がいた。ふたりともとてもカッチョいい奴だった。ウッディーは細いメタルフレームのメガネをかけた、やさしいしゃべり方をする知的な黒人だった。チャックは屈強なバイカー/ヒッピーの原型のような奴だった。ふたりともオレのストーンズ中毒を愛らしく思っていた。
 ある日の午後、ふたりは規則に違反して、オレを指導員専用ラウンジ(とはいうものの、鶏小屋を改造しただけのものだった)の中に入れると、ソファに座らせ、マディー・ウォーターズやリトル・ウォーター、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー、ジミー・リードを聞かせてくれた。オレのアイドルのルーツを聞かせたかったのだ。彼らの音楽に心底感動したと言いたい気持ちは山々なのだが、12歳のガキには耳慣れないものだった。正直、良さが分かったのは、15歳か16歳になってからだった。とにかく、あの手の音楽を初めて味わせてくれたチャックとウッディーには感謝しているのだが、実のところは、彼らが本物の音楽をかけてくれている最中、オレは3時に流れる〈サティスファクション〉を聞き逃してしまうのではないかと心配になり始めていた。
 最近ABKCOからリリースされた、ローリング・ストーンズのライヴの名盤《ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト!40周年記念デラックス・エディション》に付いているブックレットに、次の話が掲載されて(後ろの方にある「ファンの思い出話」のコーナーだ)、オレは鼻高々だ:

 〈サティスファクション〉の夏だった1965年8月31日に、マンハッタンの14丁目のアカデミー・オブ・ミュージックで初めてローリング・ストーンズを見たオレは、今度は、感謝祭の木曜日の1969年11月28日の午後にマディソン・スクエア・ガーデンでローリング・ストーンズを見た。そう、《ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト》というアルバムになり、あのオルタモントの悲劇があった、あのツアーだ。当時のガーデンのコンサート・プロモーターや警備員は、自分たちが何をしてるのか分かっていない状態だった。ステージと最前列の間には幅が9メートルくらいの深い溝があるのだが、自然界はそういう真空状態を嫌がるものだ。それで、当然のことながら、客電が落ちてストーンズが登場すると、ステージから遠いずっと上のほうの席にいた16歳のオレのようなガキ連中は、うまく身をかわして警備員や他の観客を避けながら、ステージ前に突進した。オレはあの時もまさにそうした。
 その結果、メイズルズ・ブラーザーズの映画『ギミー・シェルター』の冒頭にオレの横顔が3秒間登場しているのだ。〈ジャンピン・ジャック・フラッシュ〉の“…spike right through my head…”の丁度10秒後に画面の左のほうに、ジョン・レノンみたいなメガネをかけていて、長髪を七三に分けた奴が、ニワトリにように頭を動かしてるだろ。ビデオの2:50〜2:54をチェックしてくれ。

Gimme.jpg


 とにかく、オレは最も恐怖を感じたオーディエンスの中にいた。あのアリーナのステージ前では左右、前後から押されて、完全にコントロール不能の状態だった。オレは〈リヴ・ウィズ・ミー〉が始まった時にはキースの前にいたのだが、突然、群衆全体が恐ろしい速さで移動し、オレは波に流されるように30フィート(約9メートル)動かされて、ステージの左側のミック・テイラーの前に来てしまい…そしてまた、90秒後にはキースの前に戻った。まるで海岸の海草みたいに。
 こういう状態がコンサートの間中続いていたのだが、セットの最後の3、4曲の頃には、ステージ前は人の流れが止まるほど超鮨詰め状態になっており、幸運なことに、オレはチャーリーのドラムキットの真ん前に固定されていた。
 しかし、その時点ではステージ前はクレイジーなくらい鮨詰め状態になっていたので、オレは自分の腕をあげることすら出来なかった。そんな時、鼻がかゆくなったら、もう地獄だ。本当に手をあげることすら出来ない状態だったので、恐怖を感じた。超おしくらまんじゅう状態の中に閉じ込められていたのだ。もちろん、オレはその全てを楽しんでいたが…。
 最後のアンコールが終わり、ミックとミックとキースとビルがステージ中央でお辞儀をしていた。なぜだか分からないのだが、その瞬間、オレは彼らの後ろのドラム台のところいるチャーリー・ワッツを見ることにした。チャーリーは立ち上がって、右手に持ったドラム・スティックを見ていたのだが、その頭2インチがなくなっている状態で演奏し続けていたことに気づくと、突然笑い出した。彼は肩をすぼめると、折れたスティックをオーディエンスに向かって投げたのだ。ここで言わせてもらうと、オレは数学は不得意だったが、立体幾何学の才能はあった。だから、チャーリーがスティックを投げた際、オレは本能的に、それがオレの顔面に向かって飛んで来ていることを察知した。
 さっきも言った通り、オレは腕をあげることが出来なかったので、くるくる回りながら飛んでくるドラムスティックを鼻で受け止めるしかなかった。それはメガネを吹き飛ばすほどの威力でオレの顔にぶつかった。10億分の1秒くらい後に目を下に向けたら、ピージャケットの前をオレのメガネとスティックが滑り落ちるのが見えた(オレはあの混雑の中、厚手のウールのコートを着てたのだ)。次に、後ろをチラ見したら、およそ90人がスティックをゲットしようとして、オレのほうにダイブしてくるじゃねえか。オレは全力で身をかがめて、スティックとメガネの両方をつかみ取り、すぐさま、コートの中に押し込めた。これでもう、誰がスティックを取ったのか分からない。
 このチャーリーのドラムスティックは、あれから何十年も経つうちになくしてしまったと思っていたのだが、昨年のある朝、シャツを入れておく引き出しの底から発見された。スティックがどのくらい長い間、ロックンロールのプロモTシャツのコレクションの下に埋もれていたのかは分からない。そこに入れたという記憶もない。しかも、最高なのは、若い頃には気づかなかったのだが、スティックは本当に使い込まれ、数十個もの小さなへこみがあったことだ。チャーリーはショウの半分で、このスティックでスネアを叩いてたに違いない。

終わりに:
 約1年前に、旧友のボブ・マーリスにこの話をしたところ、彼はABKCOの連中と連絡を取り、何とまあ、チャーリーのドラムスティックがオレの顔面を直撃した話が、あのライヴ・アルバムの40周年記念デラックス・ボックスセットのブックレットに載ってしまった。しかも、つい最近発見したことなのだが、39ページに載ってるミック・ジャガーがステージに膝をついて〈ミッドナイト・ランブラー〉を歌ってる写真には、オレが写ってるだけでなく(ジャガーが振り上げているこぶしの約3cm上に、左を向いているオレの顔の上半分が写っている)、その4人くらい後ろにはジョニー・ゲンゼールがいるんだ。あいつがニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースになる3年前の姿だ。ミックとジョニーとオレが同一のショットの中にいるなんて、超クールだ!

yayas.jpg

(訳者註:ミックの手の上側というよりは右に見える人がビンキーだと思います)


Original copyrighted article "The "Satisfaction" Of Charlie Watts Hitting Me In The Face" by Binky Philips
Reprinted by permission.
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/the-satisfaction-of-charl_b_667868.html
posted by Saved at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | Rolling Stones | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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