2013年01月16日

NY Rock'n'Roll Life【8】ウッドストックで伝説のギタリスト、マイク・エスポジートとばったり

 今回のビンキーのエッセイは3部構成で、前半は1969年8月にウッドストックに行かなかった話、中盤は約20年後にウッドストックで伝説的サイケバンド、ブルース・マグースのギタリスト、マイク・エスポジートに会った話、後半はウッドストックのレストランでREMのメンバーに遭遇した話です。当然、最初のウッドストックとはベセルで行なわれたウッドストック・フェスティヴァル、2番目と3番目の話に出てくるウッドストックとは、そこから少し離れたところにある町をさしています。



 ウッドストック・フェスというと、40周年を迎えた2009年にDVDがリリースされたり、『Taking Woodstock』という映画が出来たりで、Genesis Publicationsからは豪華本が出たり、一部のバンドはセットの完全収録盤が出たりして、LP時代には3枚組だったサントラ扱いのダイジェスト盤の影が薄いですね。ところで、これに収録されているCSN&Yの「Sea Of Madness」は、ウッドストックではなく、1ヶ月後のフィルモア・イースト公演というのは本当なのでしょうか?

  



ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第8回:ウッドストックで伝説のギタリスト、マイク・エスポジートとばったり
文:ビンキー・フィリップス


 ウッドストック・ミュージック&アート・フェアのラインナップが発表されたのは、1969年の4月末か5月になったばかりの頃だったと思う。その中にはオレのヒーローの名前もあった。ザ・フーは8月17日(土)に出演か…。
 3日間の他の出演者も見て、オレはこういう結論を出した:確かに凄いラインナップだが、オレが本当に見たいのは自分のアイドル、神、つまりザ・フーだけだな。ジミ・ヘンドリクスやスライ・ストーン、テン・イヤーズ・アフター等もいいアクトだが、リストに載ってるその他大勢はオレにとって何の意味もない。ジョーン・バエズ、キーフ・ハートリー、ラヴィ・シャンカール、ジョー・コッカー、キャンド・ヒート、スウィートウォーター…あ〜アクビが出てくるぜ。
 それに、オレは生粋の都会っ子だろ。今日の今日まで、森の中で糞をタレたことなんてない。オレはモッズだ。ヒッピーなんかじゃない。たった1時間だってヒッピーになんかなるもんか! でも、1日いるだけならどうにかなるかな。ということで、土曜日のチケットを郵送で申し込んだのだ。ザ・フーが出てくる数時間前にフェスティヴァルの会場に到着して、終わったらアディロンダック・トレイルウェイのバスでとっととブルックリンに戻り、自分のベッドで寝ようという算段だった。。
 約4週間後にチケットが到着して、8月が来るのを待った。8月17日(土)の朝、オレが起きた時には空はどんより不吉に曇っており、まさに間もなく荒れそうで、灰色を呈していた。う〜ん…ブルックリンから100マイル離れたところで、雨の中でザ・フーを見ることになるのだろうか? まあいいや。それだけの価値のあるバンドだ。オレは身支度をして、階下に降りて行った。朝食を食べてから、アップステート行きのバスに乗るために42丁目&8番街のポート・オーソリティー・バス・ターミナルに向かうつもりだった。
 お袋とオヤジがキッチンでオレを待っていた。ふたりが言うには、自分たちはずっとラジオを聞いていた、間もなくニュースの時間が来るので、アップステートで開催されているフェスティヴァルについてアナウンサーが何と言うか聞きなさい、とのことだった。オレがダイニング・テーブルに座ると、WQXR(ニューヨーク・タイムズ紙がオーナーの堅苦しいクラシック音楽専門の放送局で、オレの家族はいつもここを聞いていた)のニュースキャスターが権威ある声で朗々と「今週末、ニューヨーク州ベセルで行われるロック・ミュージック&アート・フェスティヴァル」で起きている恐ろしい光景を述べていた。「食料はありません。水もありません。トイレもありません。応急手当も受けられません。週末中ずっと暴風雨が予想されます。ニューヨーク州のハイウェイはひどい渋滞で、車は立ち往生しています。多数の車が乗り捨てられています。会場に行き着くことが出来ない出演者のキャンセルも相次いでいます。それに…コレラが大発生する可能性があります!」 オレのような、これから現地に向かおうとしている後発組たちの気をそごうと、わざとそんなウソまでついていたのだ。危険! 危険! 危険!
 オヤジは言った:「ビンキー。お前は、この4カ月間で8回もフィルモア・イーストでザ・フーを見てるんだ。かわいそうだが、今回ばかりは見ることを諦めろ。母さんも父さんも、行くことに反対だ。ザ・フーは秋にもニューヨークに来るんだろ。楯突いても無駄だ。答えはノーだ! 絶対に。残念だがな、ビンキー…」
 オレは自分のメンツを保つためだけに、60秒間、申しわけ程度の抗議をした。しかし、本音を言うと、こんなに楽しみだったウッドストック・ミュージック&アート・フェスティヴァルが恐ろしくなって、怖じけづいていたところだったのだ。オヤジとお袋の反対を待つまでもなくだ。オレは上の階の自分の部屋に行き、しばらくふてくされてから、《トミー》を大音量でかけた。
 そしてその後、オレは自分が弱虫の負け犬のように感じながら、この40年間を感傷にひたりながら暮らしてきた。一生の後悔とはまさにこのことだ。あの場にいたぜと言うことが出来たらなあと本当に思う。あの歴史的イベントに友人の何人かは行ったし、長年の間に、他にも多数の行ったという人間に出会った。殆どの連中は最悪だったと言っている。しかし、行って泥だらけになったラッキーな人間だからこそ、そう簡単に言い捨てられるのだ。
 もちろん、このチケットは今でも持っている。
 それから、これも言っておかなければならないが、ヘソ曲がりなオレは、ザ・フーがギャラを払ってもらった唯一のアクトだということを、ずっと誇りに思ってきた。ロード・マネージャーのジョン・ウルフが、主催者のマイケル・ラングやアーティー・コーンフィールドらのたまり場となってるビジネス用トレーラーに行き、ザ・フーが演奏する準備が出来てることを告げながら、ブリーフケースを開け、ギャラとして現金をこれいっぱいに詰めろと指示したのだ。

* * * * *


 時間を20年ほど早送りしよう。オレと女房のスーザンは、ラッキーなことに、ニューヨーク州の本当のウッドストックにある小さなコテージを借りられることになったのだ。1980年代の終わり頃のことだ。スーザンのビジネス・フレンドから、突然、こんな電話があった。「あなたが田舎で週末を楽しめる家があればいいなって言ってたのを思い出したのよ。私、来月に、週末用の家から引っ越すので、あなたに譲ろうと思うの。家主は年配の素敵なイギリス人女性で、私が推薦する人だったら誰でも即OKって言ってるわ。欲しいなら、あなたのものよ」
 というわけで、幸福な3年間、オレたちは月300ドルの家賃で、こじんまりとしてる愛らしいコテージを借りることになった。ベッドルームが2部屋、ポーチに暖炉、朝食用の小スペース、ファンキーなアールデコ調の家具が付いていて、この宇宙のヒッピーのメッカから歩いて5分というロケーションだった。
 オレたちは4月から11月まではほぼ毎週、冬の時期には月に1〜2度そこに通った。これはユマ・サーマンやデヴィッド・ボウイといった超グラマラスな連中がウッドストックを再発見する数年前のことで、この地はまだ、あらゆる種類の芸術家や風変わりな連中が作った要塞もしくは飛び領地みたいなところだった。かなりステキな場所だったのは確かだ。
 家主はゴッドウィンという名前だった。何ゴッドウィンだかは知らない。彼女は年配だが、元気で怖いもの知らずで、古代のウルトラ・ヒッピーの女王様であるようだった。この町は彼女を尊敬してる人と、嫌い恐れてる人に分かれていた。彼女は扇動家で、昼間にはよく客が来て、その全員が極左コミュニティーの一番左の人だった。
 出来る限り頻繁にウッドストックに通うようになって数カ月後、スーザンとオレは、とてもカラフルで好戦的愛国主義を表明してそうな「都会人」----少なくとも見た目は----もいることに気がついた。そういう連中はどいつも、あまりフレンドリーではなかった。元からウッドストックで暮らしている人々は、「週末だけやって来る連中(ウィークエンダー)」にあまりいい顔はしていなかった。地元のヒッピーが運転してる車のバンパーステッカーで最もよく見かけたのは、「ウッドストックへようこそ…って冗談さ!」だった。
 こうした地元民のひとりが、ボロボロのオートバイの販売と修理の店を営んでいた。彼は見ているこっちが心配になるほど痩せてて体が弱そうで、白いヒゲと脂ぎった黒髪を持ち、猫背で、目つきは気味悪いくらい鋭く、前かがみで猛烈なスピードで町の広場を歩いていた。あと20ドル失うとホームレスになってしまいそうな雰囲気だった。彼は皆からエスポジートと呼ばれていた。この人には、会うたびにオレを夢中にさせるような何かがあった。奇妙なことに、なぜか彼には親しみを感じ、その感情が消えることはないのだ。
 1989年の初夏の夕方、あと15分ほどで日没という時のことだった。私は借りてるコテージの裏のステップのところで座っていて、あくまでオレひとりだけでやってたのだが、強力でクラクラするほどの葉っぱを吸った直後で「ほろ酔い」状態だった。ちょっとイッちゃってる状態で、あたりの静けさや花や木々を楽しみ、うちの2匹のネコが虫を追いかけて走り回るさまを眺めていたら、突然、庭に、ワークパンツと着古した白いTシャツといういで立ちの壊れそうな老人が、前かがみで速足で現れ、裏庭を通って、ゴッドウィンのガレージ兼居住部分のほうに向かって行ったのだ。オレはあのバイク屋だと気づいたのだが、自分が何を言ってるのか分かる前に、ある種の変な自動制御装置によって、こんなことを口走っていた…。
 「おじさん、ブルース・マグースのマイク・エスポジートでしょ?」
 このやつれた男は足を止め、振り向いてこっちに寄ってきた。まるでオレを責めるかのように鋭い目つきでこっちを見つめ、3フィート先から道を探しながら、こう言った。
「どうして分かったんだ? なあ?」
「ああ、やっぱりそうだったんだ。ブルース・マグースでリード・ギターを弾いてたでしょ。マイク、おじさんこそサイケデリック・ミュージックを発明した人だ。オレはブリティッシュ・インヴェイジョンが大好きだったけど、アメリカのバンドの中でブルース・マグースだけは唯一、本当に気に入ってたんだぜ」
 ちょっと脱線して解説しよう:1965〜66年、ビートルズがまだ《ラバー・ソウル》の頃で、グレイトフル・デッドがまだ単なるジャグ・バンドだった頃、ブルース・マグースはグリニッジ・ヴィレッジのクラブで、あの伝説的な〈タバコ・ロード〉のようなトリップ系ジャムを繰り広げていたのだ。イギリスの音楽雑誌に載ってた記事の中で聖シド・バレットが「ブルース・マグースを聞くまでは、ピンク・フロイドはブルース・バンドだった」と発言していたのを、オレははっきりと覚えている。



 確かに、長いインプロヴィゼーション、つまり「レイヴアップ」に関して、最初にそこに到達したのはヤードバーズだったが、そのコンセプトを幾何学的に拡張したのがマグースだったのだ。
 ぎこちないやり取りが少しの間続いたが、オレが変な奴でないと分かると、マイクは急に陽気になり、いろんなことをしゃべり始めた。
 「あんたがオレのことを知ってるなんてねえ。…しかも、全てを始めたのがマグースだって、分かってるとはねえ。誰がどう思っていようが、何と言おうが、真実を知ってるのはオレだ。ナイト・アウル(グリニッジ・ヴィレッジの中心にある伝説的なクラブ)で、こっちのテーブルにはジョン・レノンとジョージ・ハリスンが座ってて、別のテーブルにはミック・ジャガーとブライアン・ジョーンズが座ってて、こいつらが皆、メモを取ってたなんてことが何晩もあったんだぜ。それが事実だ。あんたの言う通り、最初にやったのはオレたちさ」
 その話に大いに刺激されたオレは、自分もミュージシャンであることを明かし、ギターやアンプのことを語り合った。マイクは、今はベースを弾いていると言った。ただし、今持ってるものは、シャベルという名のショボイものなのだそうだ。
 突然、マイクはクイズを出して来た。「最も優れたイギリス人ブルース・ギタリストは誰だか知ってるか? クラプトンでもジミー・ペイジでもピーター・グリーンでもないよ。…実はな、ピート・タウンゼントのさ」
 このブログの読者の皆さんには、オレがピートをどう思ってるか分かってるよね。「マイクはどうしてそう思うんですか? ピートはオレのヒーローなんですよ」
 「ザ・フーと一緒にツアーをやったことがあるのさ。ピート・タウンゼントはオレが出会った最高のギタリストだ。楽屋でウォーミングアップしている時に弾いてることを、ステージでどうしてやらないのかなあ? ピートはオレが知ってる白人ギタリスト全員より上だ。人間的にも、とてもいい奴だったなあ」
 マイクは一瞬、遠くを見ているような目をした。こんなことを考えるのは久しぶりのようだった。
 「オレたちがやった中では、一番ワイルドなツアーだったなあ」
 《The Who Live at Fillmore East - April 1968》というブートレッグを持っているなら(もちろん、オレはこの時、客席にいたよ。たった42年前だけどな)、ビル・グレアムがバンドを紹介している間に、ピートがブルースのフレーズを弾いてウォーミングアップしているのを聞くことが出来る。
 実際の年齢よりも老けてる痩せこけた老人が、昔のバンドや実体験を語っている間は、背筋がピンとし元気づいていたのに、オレは驚いた。
 ブルース・マグースの〈タバコ・ロード〉を最近聞いていないという人は、是非聞いてくれ。素晴らしく華麗な歴史的作品だ。
 2009年に、ニューヨーク・タイムズ紙はウッドストック・フェスティヴァルの40周年に関連して、実際には1時間ほど南西に行ったところで行なわれた大イベントの跡地を探して訪れる多数の音楽マニアに、ウッドストックの町がどう対処しているのか、という記事を掲載した。この新聞の主な取材先がブルース・マグースのリード・ギタリスト、マイク・エスポジートだった。やっと表に出て来てくれたのだ。
 サイケデリック・ミュージックに関しては、あの時ウッドストックで聞いたちょっとした話の内容はあまりにワイルド過ぎて(あくまでもオレにはそう思えた)、今でもなお、妄想なのか現実に起こったことなのかはわからない。

* * * * *


 ところで、ゴッドウィンのこじんまりとしたコテージから直線距離にして1.5マイルほど西に、リトル・ベアというレストランがあった。ベアズヴィルという町にあるこの店は結構高くつくところなのだが、ここでは田舎風の装飾と美味しい料理を楽しむことが出来た。スタッフもヒッピー風の愉快な連中だった。オレはスーザンと一緒に数カ月に1度くらいの頻度でそこに行った。ボブ・ディランの最初のマネージャーだったアルバート・グロスマンが、そこのオーナーだった。約1マイルほどのところには、世界的に有名なレコーディング・スタジオ、ベアズヴィル・スタジオがあり、ここのオーナーもグロスマンだった。
 1988年の夏の数カ月間、REMが数カ月間ウッドストック・エリアに来て、《グリーン》をレコーディングしていたのだが、彼らが使っていたのが前述のアルバート・グロスマンのベアズヴィル・スタジオだった。
 あの夏のある晩、オレは間もなく女房になるスーザンと一緒に、リトル・ベアでちょっと値の張る食事をしようと思って、車を西に走らせた。車を駐車場にとめて、「係の者がお席にご案内いたしますので、こちらで少々お待ちください」エリアに入ると、そこから見えるのはフロア・スペースの約3分の1を占めるバー・コーナーのみで、レストラン・エリアはその奥にあった。
 スタッフがテーブルに案内してくれるのを待っている時、オレは突然、すぐ近くのバー・コーナーで立ってるのがREMのマイク・ミルズとビル・ベリーだということに気づいた。ミルズはこっちを向いていて、ベリーは向こうを向いていた。
 スーザンに小声で「おい、REMのリズム・セクションが目の前にいるぜ」と教えてあげようと思った瞬間、オレはマイク・ミルズと目が合った。マイクは目を大きく開くと、ビル・ベリーに向かって低い声で言っていた。誓って本当にこう言ってたのだ:
「ワォ、今、入って来た奴、ビンキー・フィリップスたぜ」
 ビルはこっちを向いてオレを見ると、それからマイクのほうを向いて、間違いないという意味のうなずきをした。言うまでもないが、これは非常に超現実的な瞬間だった。ここで起こったことをすぐには信じられないくらい、不意で奇妙な出来事だった。しかし、前を通り過ぎる際に、連中が「あなたのことなんか見ていませんよ」的なこわばった様子だったので、普通では絶対にありえないこの立場の逆転が、オレの幻覚ではないことを確証した。それが残念ながら感じ取れなかったスーザンからは、当然「あんたバカね」扱いをされたのだが…。
 数週間後、当時ワーナー・ブラザーズで働いていた古い友人のボブ・マーリスに会った。オレは彼を楽しませようとこの話をしたのだが、正直まだ、自分が夢を見てたんじゃないかと思っていた。するとボブはこう言った:「ビンキー、REMのメンバーはニューヨーク・シティーのパンク・シーン黎明期に関しては百科事典的な知識の持ち主なんだぜ。あいつらはお前のバンド、ザ・プラネッツのブートレッグ・テープも持ってるだろうね。心配するな。あれはお前の妄想じゃない」
 それからというもの、オレはREMがもっと好きになった。

Copyrighted article "I Didn't Go To Woodstock, But I Lived There" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/i-didnt-go-to-woodstock-b_b_846756.html
Reprinted by permission.
posted by Saved at 13:19| Comment(1) | TrackBack(0) | Psychedelic Rock | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お元気ですか?山梨のとしです。FBながめてたらたどりつきました。この記事楽しく読みました。ブルースマグースはエリック カズのいたバンドでしたよね、確か。
Posted by とし@アシュベリー at 2013年01月27日 23:04
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