2013年01月22日

NY Rock'n'Roll Life【9】ジョニー・ロットンの機嫌を損ねちまったぜ

 ビンキー・フィリップスは1970年代にはザ・プラネッツというパンク・バンドを率いて活躍しており、アメリカ全国区で成功するには至らなかったものの、ローカルなレベルではなかなかの人気があったようです。CBGBという伝説的ライブハウスの開店から閉鎖までを目撃している彼は、思い出を『My Life In The Ghost of Planets: The Story of a CBGB Almost-Was』という本に綴っています。



 今回は彼が1978年1月にCBGBでジョニー・ロットンに出会った話です。ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ結成に関する面白い話も登場します。ビンキーをジョニーに引き合わせたギタリストのウォルター・ルアーは、現在でも活動を続けていて、2012年9〜10月に来日したようです。こんなページがありました:

『Walter Lure with HITOMI TSURUKAWA & PIRATE LOVE』ツアー概要
http://piratelove.net/?p=303

【日本上陸】Walter Lureがやって来た!
http://piratelove.net/?p=2241

【2012.9月ウォルターツアー速報】
http://piratelove.net/?p=2255

ライヴ・レヴュー:Walter Lure with HITOMI TSURUKAWA & PIRATE LOVE @福岡VOO DOO LOUNGE 2012.9.21
http://nutf.exblog.jp/19110921/

NYのWalter Lureからお礼のメッセージが届きました!
http://piratelove.net/?p=2460

 私はパンクは趣味ではないですが、セックス・ピストルズのオリジナル・ベーシスト、グレン・マトロックとは電話でお話しをする機会がありました。映画『NO FUTURE: A SEX PISTOLS FILM』が公開され、グレンがソロ・バンドを率いて来日公演を行なう数ヶ月前というタイミングだったと思うので、10年以上前でしょうか。グレンはこんなこと言ってました:

・(ビートルズ・ファンだということがバレてピストルズをクビになったという噂について)話を面白くするためのウソ。どうしてもジョニーとウマが合わなくて、レコーディングの時点でオレが脱退して、シド・ヴィシャスが加入することが決定していた。レコード会社からも脱退して新バンドの結成をすすめられていた。シドにはオレやレミー(←もちろんモーターヘッドの)がベースを教えたんだ。
・(ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンは本当に嫌いだったのか?)60年代のストーンズは好きだった。ツェッペリンはファースト・アルバムは好きだった。でも、オレたちが活動を始めた頃にこうした連中がやってたことは大嫌いだった。ヤードバーズやスモール・フェイセスは好きだった。
・(曲作りについて)「God Save The Queen」の“no future no future no future for you”の部分のメロディーはピアノを弾きながら書いた。
・(映画『NO FUTURE: A SEX PISTOLS FILM』について)ジョニー中心の映画で、ピストルズの歴史を正しく反映したものとは思えない。気に入ってない。再結成にはビジネスと割り切って参加した。

 ピアノを弾きながら“no future”のメロディーを書いたとか、レミーがシドにベースを教えたとかは、私には初耳でビックリしましたが、パンク・ファンにとっては誰もが知ってる常識?

   



ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第9回:ジョニー・ロットンの機嫌を損ねちまったぜ
文:ビンキー・フィリップス


 1975年にジョニー・サンダースとジェリー・ノーランはニューヨーク・ドールズを脱退して、ハートブレイカーズを開始した(フロリダ出身のブロンド出っ歯野郎のことをオレたちニューヨーカーが耳にするのは、その2年後のことだった)。
 ある晩、オレにとってはちょっとショックだったのだが、ジョニーからオレの家にこういう電話があったのだ:「ヘイ、ビンキー。JT・アスパラガスだ。(だから、誰だよ?!)オレだよ、オレ。ジョニーだ! ちょっと出て来て、オレとジェリーとジャムらねえか。リチャード・ヘルと新バンドを始めようと思ってるんだ。あいつ、面白いベーシストだよな。ちょっと来いよ」
 超エキサイティングじゃないかって? そんな話が来たら、誰だって飛びつくだろうって?
 ニューヨーク・ドールズから2人のJが脱退した頃、ニューヨークのロック・シーンにいた連中は皆、このふたりがヤクをやってることを知っていた。あまり隠してはいなかったし、実際に、リチャード・ヘルとの新バンドの名前として考えていたのはザ・ジャンキーズというものだったのだ。オレはドールズを愛し、崇拝すらしていたのだが、ジャムが出来るとしても、あのヘロイン地獄に入るわけにはいかなかった。よって、バンドに入るわけにもいかなかった。
 今になって考えてみると寂しいのだが、あの頃のオレは、どういうわけか、ジョニーの人生でちょっとユニークな立場を保っていた。ジョニーにとってオレは、前にいると気まずく感じるレアな存在だった。もちろん、ヘロインに関してだ。ちょっとした遊びだったそれが、絶望的な激しい中毒になるのに、時間はかからなかった。もしオレがバンドに参加していたら、あのドラッグからジョニーを遠ざけるのに少しは役に立ったかもしれないが…そんなことは、絶対にないか。
 ジョニーはどうしょもないヤク中で、カリスマ的自己破壊者だったが、同時に、心の奥底にはとてもスイートでシャイでスマートな面も隠れていた。あいつがオレにそういう面を見せてくれたことは、永遠に嬉しく思う。
 元々はオレにオファーが来たギタリストの座にすわったのは、ザ・デモンズ(1977年にマーキュリーからアルバムを1枚出している)のウォルター・ルアーといういい奴だった。そいつはオレともダチになった。ウォルターは後に、ラモーンズの後期のアルバムで難しいほうのギター・パートの全てを秘密裏にレコーディングした。もちろん、クレジットはない。
 「芸術的見解の相違」のために、リチャード・ヘルはハートブレイカーズでは長くは続かず、ジョニーとジェリーが彼のカリスマとネーム・バリューと引き換えに獲得したのは、ビリー・ラスという物静かで「近寄るな!」的なオーラを出している奴の弾く、本当にカッチョいいベースラインだった。こいつのプレイのおかげでハートブレイカーズのサウンドは超タイトかつ強力になった。本当のことを言うと、ハートブレイカーズはニューヨーク・ドールズよりずっといいバンドだった。一番イカしたパンク・バンドですらあった。調子の良い晩には、ハートブレイカーズは轟音で吠えていた。
 1970年代前半にウォーホールの側近兼写真家だったリー・ブラック・チルダースがハートブレイカーズのマネージャーになると、彼は1976年の秋に、パンク・ブームが爆発中のロンドンに行こうという素敵なアイデアを口にしだした。アメリカは「ディスコ」とREOスピードワゴンだらけだったからだ。
 そして、伝説によると、誰かがさらにいいアイデアを言い出した:「ヘロインの使用を続けるなら、自分でしかも自腹で調達しろ。ロンドンでそうするとなると、ニューヨークよりはるかに大変だろうなあ。でも、スピード(またの名をクリスタル・メス)に乗り換えたいのなら、タダで供給する」もちろん、ふたつ返事でOKだ。
 スピードをたっぷり仕込まれたハートブレイカーズは、間もなくロンドンで時代の寵児となり、1976年12月にはセックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムドによる、かの有名なアナーキー・イン・ザ・UK・ツアーに参加した。今からすると、すげえラインナップだよな。
 そして、ハートブレイカーズは1977年の殆どを大西洋を股にかけて活躍し、何度かニューヨークにやって来て、メスを盛られて狂ったようなテンポで演奏して観客の度肝を抜いて金を稼ぎ、ビザの更新を済ますと、ロンドンのスターダムへと戻っていった。
 ハートブレイカーズのアルバム『LAMF』が、ザ・フーやジミ・ヘンドリクスのレコード・レーベル、トラックからリリースされたということも、オレが気に入ってる点だった。「LAMF」っていうのは、ブルックリンのスラングで「Like A Mother Fucker」ってことだ。ちなみに、バンキー&ジェイク(「【5】エリック・クラプトンのギター・ケースを購入したぜ 」を参照してくれ)もハートブレイカーズより10年ほど早く、同じタイトルのアルバムをリリースしている。
 そして、1978年1月の超寒い晩、ガールフレンドがどこかに出かけてしまっていたので、オレはCBGBに行って、友人のバンドをチェックすることにした。ステージに向かってバーの前を歩いていると、ガリガリのウォルター・ルアーがいるじゃないか。トレードマークのパンク風水玉模様のシャツ、レザー・パンツ、コンヴァースに身を包んで、サウンドボードの近くに立っていた。ニューヨークに帰ってきてるなんて知らなかったので、オレは一直線でウォルターのところに行った。
 「ウォルター!」「ビンキー!」そしてハグ。「いつロンドンから戻って来たんだよ?」「数日前さ。なあ、ビンキー。会ってほしいダチがいるんだ。ちょっと来いよ」
 ウォルターはクラブのステージのほうを指すと、オレをバーの横の、スツールが2つ置いてある壁の窪みのような小部屋に連れていった。「A Virtual Tour of CBGB's - NYC」を見るとCBGB内部のレイアウトがわかるが、その小部屋はこのサイトでも見えない。パノラマ写真05.の、後ろ向きになってるバドワイザーとミラーのネオン・サインの下あたりだ。全てのライトがついていても、そこは暗くて周囲から隔絶されていた。
 ピンボールとタバコの自動販売機の隣にある暗くて汚い小部屋に向かって歩いていくと、ウォルターは立ち止まって、入れというジェスチャーをした。暗闇の中の一番奥の椅子に腰をかけ、まるで体を支えてもらっているかのように壁にもたれている奴がいた。そいつは大きすぎるオーバーコートの襟を立てて顔全体を隠し、目と炎のようなオレンジ色の髪の毛だけを出していた。オレの後ろに立っていたウォルターは言った:「ジョン、オレのダチのビンキーだ。こいつはニューヨークで最高のギタリストだ」(これはあくまでウォルターの発言だ)
 あまりに暗く、しかも、こいつが体を丸めていたので、握手をするためにオレはかなり身を屈まなければならなかった。互いの頭は50cmしか離れていなかっただろう。すると、こいつはゆっくりと右手をオレほうに差し出し、ゆっくりとコートの襟を下げた。オレの目の前にいるのは…ジョニー・ロットンじゃねえか。
 しばらく、オレの口はポカンと開いたままだった! 当時、世界で最も有名な顔がここにあった。超リスペクトしている人がここにいる。オレは落ち着きを取り戻すと、ミュージシャン同士のカジュアルな会話を装って、握手をしながらこう言った:「ヤア。オレ、あんたのバンド大好きだぜ!」
 と、その途端に、ジョニー・ロットンは手を引っ込め、オレに向かって顔を突き出してきた。顔と顔の間は30cmくらいしか離れていなかった。ロットンは専売特許の人をバカにしたような態度でこう返してきた:「おやまあ、オレは大嫌いだね」 ジョニーはウンザリ退屈したような顔をしてオレから離れて、部屋の隅に戻り、デカ過ぎるコートの襟を立てて顔を隠してしまった。
 そいつは残念だ、それでも、オレは好きだぜ、のような他愛のないことを口ごもりながら言ってから、ウォルターのほうを向くと、彼は目をぐるぐる動かしながら、ニューヨーク伝統の「あ〜あ〜、ヘマやらかしちまったなあ」的な肩をすくめるジェスチャーをした。オレたちはジョニーをそのまま放っておくことにした。
 1978年1月17日、月曜日の夜だった。この約72時間前に、ウォルターの友人の「ジョニー」は、サンフランシスコのウィンターランド・ボールルームの観客にこう訊いた:「騙されたって気分になった?」 
 そして、次の日、セックス・ピストルズは解散した。そして、そのまた翌日に、ジョニーは飛行機に乗ってニューヨークに逃げてウジウジしてたところ、CBGBでへなちょこギタリストに会って、解散したばかりのバンドを「大好き」と言われたのだ。
 次の日、ミスター・ロットンは----当時、ニューヨーク・タイムズ紙はこう呼んでいた----記者会見を開いて、世界に向けて、セックス・ピストルズはもう存在しないと発表した。
 最悪のタイミングだったというわけか。


[訳者註:ジョニーの例の発言は59:19]


Copyrighted article "I Piss Off Johnny Rotten!" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/i-piss-off-johnny-rotten_b_732032.html
Reprinted by permission.
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