2013年02月01日

NY Rock'n'Roll Life【10】ザ・フー初のアメリカ公演を見たぜ(1967年)

 前回は1978年のパンク時代の話でしたが、今回はその11年前の、まさにサイケ前夜の音楽シーンの話です。ザ・フーとクリームのアメリカ・デビューは1967年3月にニューヨークで行なわれた『マレー・ザ・Kのミュージック・イン・フィフス・ディメンション』でしたが、このショウはまだ1960年代前半のポップ・ショウの形式を引きずっていました。ザ・フーはこのショウがきっかけでポップ・ソングと楽器の破壊というギミックで人気を博しましたが、この少し後くらいから、ピート・タウンゼントは、もっとアーティスティックな点で評価される存在になりたいと考えるようになりました。クリームもこの時は1曲3分程度のフォーマットの中で演奏せねばならず、エリック・クラプトンがビル・グレアムから「朝まで〈スプーンフル〉を演奏したいなら、そうしろよ」と言われるのは、約5ヶ月後のことです。

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【マレー・ザ・Kとザ・フー】


 ピート・タウンゼント自伝『WHO I AM』p.114〜115にもこのショウに関する記述があるので、併せて読んでください。

   



ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第10回:ザ・フー初のアメリカ公演を見たぜ(1967年)
文:ビンキー・フィリップス


 イースター休暇の真っ只中の1967年3月28日(水)の朝、何週間も前から期待で超ワクワクしていたオレとダチのベンジーとアンソニーは、ブルックリンからアップタウン行き5番線に乗った。向かった先は、マンハッタンの3番街&58丁目にあるRKOレイディオ・シアターだった。ここでマレー・ザ・K主催の最新のホリデー・ショウ『ミュージック・イン・ザ・フィフス・ディメンション』が行なわれるのだ。よくあるスター勢揃いのショウにしては、安っぽいサイケデリック風なタイトルだろ。もっとも、あの頃は、最高にカッチョイイと思ってたんだけどな。この日はサマー・オブ・ラヴの90日前で、マレーはまだヒップな存在だった。ついでに言うと、宣伝では、このショウが客席参加型であることを謳っていた。
 この種のショウのプロダクションの好例が、1964年後半に制作されていたT.A.M.I.ショウだ。バン、バン、バン…ていう具合に、1バンドが1曲か2曲やると、すぐに次のアーティストが登場し、その間に、時々、司会者のおしゃべりかダンス・ナンバー、もしくはその両方があるという形式だ。
 マレー・ザ・Kは何年もこのようなショウをプロデュースしており、主としてニューヨークのチャートでブレイク中のR&Bアクトが出演していた。使われた劇場はいつも、ボロボロの映画館だった。1930年代、40年代にはステージ、楽屋等が付いている贅沢で幻想的な場所だったのだが、1960年代には、ニューヨークのすれっ枯らしの映画ファンのせいで、ますます荒廃の一途をたどっていた。
 1967年春のショウには、ミッチ・ライダー、ウィルソン・ピケット、スモーキー・ロビンソン(マレーとひと悶着があった後、出演を取りやめてしまった)、ブルース・プロジェクト、ハードリー・ワース・イット・プレイヤーズが出演することになっていた。また、ショウのプログラムには、半分の大きさの活字で、ジム&ジーン、シカゴ・ループ、マンダラ、そして今回アメリカ・デビューを果たすイギリスの2バンド、ザ・クリーム(こう記されていた)、ザ・フーが載っていた。ブルックリンで暮らすオレたち親英派のガキ3人のお目当ては、最後の2バンドだった。特に注目してたのはザ・フーだ。

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 このショウの裏では、こんな面白いことが起こっていたらしい:プレミア・タレントの社長であるフランク・バーセローナがミッチ・ライダーのブッキング・エージェントだった。1967年当時、ミッチは立て続けに5〜6曲をスマッシュ・ヒットさせたビッグな存在だったので、たとえトリとしてであっても、ミッチを出演させることに関してマレーの気をそごうと、バーセローナはいろんな条件を付けてきた。そのひとつが、2組の無名のイギリスのバンドを同じショウに一緒に出演させろというものだった。しかし、バーセローナが驚いたことに、マレーが条件を飲んだので、「OK、OK、ミッチは出演しますよ、マレー」ってことになったのだ。
 ショウは1日に4回行なわれ、1回のショウは約90〜100分で、9〜10アクトが出演。ショウとショウの間には映画が上映された。一度中に入ると、一日中そこにいられることが分かった。
 ベンジーとアンソニーとオレはその日の1回目の公演を見るために、出来るだけ早い時間にそこに行こうと決めた。午前10時にチケットをもぎってもらい、メザニーン席最前列のど真ん中席を確保した。他劇場のオーケストラ席10列目に相当し、ステージまで25フィートという近さで、その全体が見渡せる席だった。やったぜ!
 約15分後に照明が落ち、オーケストラ・ピットにいるハウス・バンドがR&Bのバックで聞くような演奏を始めると(ジェイムズ・ブラウンの〈ブリング・イット・アップ〉だったかな?)、ステージの左そでからマレー・ザ・Kが登場した。トレードマークのヒップなストライプのVネック・セーター、白のタートルネック、真ん中にナイフの刃のようにビシッと折り目の入ったシルヴァー・グレイのスラックス、そして、何よりも大切な、つばが少ししかないソフト帽といういで立ちだ。
 マレーは随一の完全なスターだった。ニューヨークのラジオDJの中で最も人前に登場し、最も敬われているのがマレーだった。彼がステージの左側にいるだけで興奮が巻き起こし、まだ何も始まっていないのに、オレたち観客は盛り上がった。
 マレーはすぐにいつものコール&レスポンスをやった。
マレー「アー・ベ〜イ!」
オレたち「ホー!」
マレー「アー・べ〜イ!」
オレたち「ホー!」
マレー「コア・ゾウ〜・ゾウ〜〜!」
オレたち「ホ〜〜!!!」
 客席参加型ってこのことだったのか。
 そして、栗色のカーテンが開いて最初のアクトが登場した。カナダのマイティー・マンダラだ。彼等は〈オポチュニティ〉1曲を演奏した。5人のメンバー全員が、チラチラ光る金色のバックドロップに対して、淡い黄色の細縞模様のスーツを着ていた。このバンドのこの曲を聞くのはこれが最初で最後だったが、オレの頭の中には今でもなお少しひっかかりがある。彼等はとてもカッコいグループだった。ブロンド髪のシンガー、ジョージはセクシーな奴だった。ギタリストは見たこともないほどボロボロ、ガタガタのテレキャスターを持っていた。それがカッコ良かったのだ。オレたち全員、このバンドを気に入った。マンダラのメンバーの中には、後に、アリス・クーパーのバックを担当するに至った奴もいる。

[参考資料:Mighty Mandala]



 その後は、そんなに面白くないバンドを座って見て過ごしたが、悪いバンドはひとつもなかった。どのバンドも、マレーに紹介されて、ステージに小走りで登場し、オーディエンスに手を振って、共有のバックラインにプラグインし、カウントして1曲演奏するという、同じ扱いを受けていた。
 5番目くらいになると、目玉のバンドのうちのひとつ目が登場した。ザ・ハードリー・ワース・イット・プレイヤーズはヴォーン・ミーダー・スタイルの〈ワイルド・シング〉を〈セネター・ボビー〉としてまったり演奏した。ハハハ…。バンドの連中もこれにはウンザリしているようだった。

[参考動画:The Hardly Worth It Players]



 次に登場したのはブルース・プロジェクトだった。オレたちはこのバンドを見たくてワクワクしてたのだが、演奏したのは何とバラッド。ドノヴァンの〈キャッチ・ザ・ウィンド〉ではなかったか。もっと奇妙なことに、演奏を始めて約45秒後に、当時既に伝説的ギタリストだったダニー・カルブが手を振ってバンドに演奏を止めさせ、マイクのところに進み出ると「すみません。もう1度やらせてください」と言ったのだ。これがぶざまな失敗であることは、3人の中学生にさえ分かった。
 そして、マレーは次のアクトを紹介した。オレたちが狂喜したことは言うまでもない。このバンドは彼の番組で何度か聞いたことがあり、オレたち3人とも〈アイ・フィール・フリー〉が大好きだった。このバンドの名前も超クールだったのだが、アメリカではまだLPは発売されていなかったので、何をどう期待していいのかオレたちは分からなかった。
 エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーが登場した。クリームだ。彼らの1曲目は〈NSU〉の素晴らしい演奏だった。サウンドは深く…ぶ厚く…熱かった。今まで見た何よりも凄いバンドであることは、明かだった。
 エリックはザ・フールがペイントを施したゴージャスなギブソンSGを弾き、ジンジャーのドラムヘッドにはザ・フールがペイントしたホイップ・クリームが描かれていた。3人とも超カラフルで渦巻くような柄のサイケ・プリントのシャツを身につけていた。彼らのルックスは、オレたちには、過激な最先端に見えた。
 クリームはさらに強力な2曲〈スイート・ワイン〉〈アイム・ソー・グラッド〉を披露した。このバンドより前に出たアクトは皆、1曲しか演奏しなかったので(ブルース・プロジェクトが2曲演奏したのは例外)、クリームが3曲もやったのは嬉しいことだった。
 ジャックとジンジャーが強烈なキャラクターの持ち主であることは、2階席からだって分かっただろう。クラプトンはスロー・モーションで動いてるように見え、3回あったソロのうち3回とも、観客に背を向けて、ヴォックスのスーパー・ビートル・アンプにもたれかかるようにして、音を8小節かそれ以上伸ばしていた。これは超突飛なパフォーマンスに見え、目がクラクラした。オレたち、ブルックリンのバカガキ3人は、基本的にはザ・フーを見に来たのだが(最初期からの崇拝者だった)、この時点では、彼らがクリームを超えることなんか出来るのだろうか?と思い始めていた。(エリック・クラプトンがクリームで使っていたギター・ケースを、このショウの半年後にオレが購入したんだからビックリだ→「NY Rock'n'Roll Life【5】エリック・クラプトンのギター・ケースを購入したぜ」を読んでくれ)
 次に、クリームの演奏直後、ショウの開始以降初めてダーク・レッドのカーテンが閉められると、マレーが出て来て、次はジャッキー・ザ・Kによるダンス・コンテスト(ジャッキーはマレーの奥さんだった)とアナウンスした。すると客席にいた男が数人、ステージに登って、ジャッキー・ザ・K・ガールズ(3人の若くて長髪のモデルで、格子縞模様のミニスカートと、ヒザまである白ブーツをはいていた)のひとりと一緒に、ピットにいるバンドの演奏する上品なファンクに合わせて、セクシーなダンスをした。
 客席からステージにあがってきた女の子はマンダラのイケメン・シンガー、ジョージと踊った。彼はまだ黄色のスーツのままだった。さっきも言ったが、こいつはマジでカッコ良かった。
 女の子たちがダンスしている間、ジャッキー・ザ・Kが横のほうに立って体を少し揺らしている様は、ラスヴェガスのような豪華さだった。プリシラ・プレスリーのような黒光りした盛り盛りヘアをしてる、40歳のロネッツの白人メンバー…のような女性を想像してくれる。
 拍手が最も大きかった奴が優勝者に選ばれ、バックステージに行って好きなアクトと会えることになっていた。優勝者は本格的なモッズのヘアカットで、カーナビー・ストリートのコールテン・ジャケットに、淡い色のデザート・ブーツというファッションで、マジでダンスがうまかった。マレーがどこに住んでるのと質問すると、「ヴィレッジです」と答え、観客はその回答に称賛の拍手を送った。そして、こいつが会いたいアーティストとして迷わずザ・フーを選んだので、オレたちはナルホド〜と思った。何て幸運な野郎だ!

 コンテストが終わると、マレーはステージに戻り、数分間、早口の口上を行なった。そして、閉まったカーテンの前に立つと、こうアナウンスした:「さて、イギリスはロンドンからハッピー・ジャックなボーイズをお迎えしましょう。ザ・フーの登場です!」
 間髪を置かずに、〈恋のピンチヒッター〉のイントロのソロ・ギターが聞こえて来た…と思ったら、ベースとドラムが雷鳴のようにとどろき、カーテンがゆっくりと開き始めた。
 最初に姿が見えたザ・フーのメンバーはロジャーだった。奇抜なんだけどとてもカッコいいエドワード朝風のロング・コートを着て、かかとが2インチ(!!)もあるツートーンのギャングスター・シューズをはいて登場し、威嚇するようにマイクを高速でグルグル回した。ヘアスタイルとその色は、カツラかと思うほど完璧だった。
 カーテンがもう少し開くと、キースが見えた。彼はバットマンのTシャツを着て、素晴らしいチェリー・レッドのドラムセットをワイルドに叩いていた。2個あるバスドラムの片方のヘッドには「THE」、もう片方には「WHO」と書いてあった。キースがオレの視界に入った最初の3、4秒間に、彼は少なくとも6、7本のドラムスティックを客席の全方向に投げた。そして、カーテンが全部開くと、ジョンとピートが見えた。ふたりとも全身染みひとつない白い衣装に身を包み、ブロンドのフェンダーを弾いていた。まるで、ひと揃いのブックエンドだ。ピートは足を開き、うなり声をあげ続けているギターと平行に腕を真っすぐ横に伸ばし、「バードマン」のポーズを決めて立っていた。そして、ステージにペッとツバを吐くと(本当に痰を吐いてたのかも)、ブラブラとマイク・スタンドのところに進み、怒りながら(しかも、ビートに乗りながら)それを蹴ってオーケストラ・ピットに落とした。
 ジョン・エントウィッスルは静かにたたずみながらこの様子をながめ、肩をちょっとすぼめながら、もう飽きたぜと言うかのように大袈裟にため息をついた。
 まさに、4リング・サーカス状態だ。
 これが1967年のことだってことも忘れないでくれ。こういうパンク的なふるまいは、完全に前代未聞で、ワイルドで、目茶苦茶で、とにかく10年くらい早かった。
 カーテンを使った演出も超賢かった。このギミックをうまく利用したのはザ・フーだけだった。ニコニコ手を振りながら出て来たり、コードをプラグインする姿もなし。化粧道具なんかもオーディエンスには見えない。オレたちには、まさに神としてのザ・フーしか見えなかったのだ。彼らはオープニング曲の最初の10秒間、まだ姿が見えないうちから、既に絶好調の状態だった。しかも…ザ・フーはこれまでに体験したことがないほどうるさく、粗削りで、エキサイティングな音を出していた。クリームのことはすっかり忘れてしまった。
 1964年にはビートルズを見たし、1965年にはブライアン・ジョーンズがいる頃のローリング・ストーンズを見たことがある。どっちも素晴らしいコンサートだった。しかし、ザ・フーはオレが見た中で最も並外れたロック・スペクタクルだった。今日に至るまで、オレがあらゆるライヴ・バンドを評価する基準がザ・フーなわけなのだが、ぶっちゃけ、彼らに匹敵するバンドは見たことがない。残念なことでもあるのだが、この言葉通りだ。
 〈恋のピンチヒッター〉の直後、ピート・タウンゼントがマイクに向かって偉そうに何か言うと、バンドは〈マイ・ジェネレーション〉を始めた。オレが大好きな曲だ。
 アメリカで発売されたファースト・アルバムのライナーノーツには、「ザ・フー結成以来、ピートは14本のギターを破壊している」と書いてあるので、オレとベン、アンソニーはこの件について何週間も議論を重ねていたのだが、至った結論は、今回は見れる可能性はないだろうだった。14本となると…月に1度か…それに、今回は短いショウだし…。
 しかし、〈マイ・ジェネレーション〉がカオスのコーダに来た時、白いスモークが突然ピートのアンプの後ろからもくもくと出現したのだ! 来た! ピートはテレキャスターを肩からはずすと(オレが90日前のクリスマスにもらったのと同じモデルだ。この瞬間、テレキャスターは世界一カッチョいいギターだった)、ネックのトップ側をバットのようにして持って、それをステージに叩きつけ始めた。メザニーンの前列にいた3人の14歳のガキどもは正気を失った。
 「オー・マイ・ガーッ! ピートがギターを破壊するぞ! テレキャスターは粉々だ!!」
 あたりを叩きまくりマイク・スタンドに激しくぶつけたギターを、タウンゼントが一瞬垂木に隠れてしまうくらい高く投げ上げると、ギターはそのまま自由落下。ステージに衝突した時にはガチャ〜ンという衝撃音がした。ギターが苦痛のうなり声、金切り声をあげながらステージに横たわる間、ピートは後ろの2台のヴォックスのスーパー・ビートル(当時USAで最も大きなアンプだった)のところに行くと、優雅な動きでそれを引っ張った。そして、アンプが2台同時にうつ伏せで床の上に倒れると、ピートは普通に歩いてステージを去って行った。
 ムーンは、アンプが倒れたまさにその瞬間に、台の上からドラムキット全部を蹴飛ばした。その少なくとも半分はオーケストラ・ピットの中に落ちていったので、中にいたミュージシャンは上から降ってくるタムタムをそそくさと避けていた。
 ジョンは何げなくストラップをはずすと、巨大なドーンという音を立てながらベースをステージに置いた。
 楽器の死体の上でカーテンがさっと閉まったが、刺激臭のあるスモークが劇場中に漂っていた。
 客席は狂乱状態だった。オレたちのように、ザ・フーを見に来ていた連中も少しはいたが、その場にいた連中の殆どは、ザ・フーがどんなバンドか全く知らなかったのだ。修羅場に近いものが起こった時、超興奮した数百人のティーンエイジャーたちは、自分がたった今目撃したことを理解しようとして頭の中はグチャグチャだったはずだ。

[USA初見参時の動画]
http://www.youtube.com/watch?v=r4lwroeD6T0

 音楽的破壊行為のエクスタシーから正気に戻ろうとしていた時、オレはなぜか上腕部が痛いことに気づいた。破壊行為の間中ずっと、ベンジーとアンソニーの間に座ってたのでオレは、興奮したふたりから何度もそこをパンチされていたのだ。この後に演奏しなければならないウィルソン・ピケットとミッチ・ライダーはかわいそうだった。
 彼らの名誉のために言っておくと、ウィルソンもミッチもなかなかいい演奏をした。ウィルソンもミッチも12人編成のバンドで登場した。ふたりとも自分のレパートリーを猛烈に演奏した。衣装もバッチリきまっていた。ウィルソンはダーク・ブルー/シルヴァーのシャーク・スキンのスーツ、ミッチは白のヒップハガーズをはき、透け透けの白の海賊シャツの前をはだけてヘソまで見せていた。この2人の素晴らしいパフォーマーについても歓喜しながら雄弁に語るべきなのだが、どちらもザ・フーの後とあっては尻すぼみ状態だった。
 後になって分かったことなのだが、ウィルソンもミッチも、スモーク爆発の後に演奏しなければならないことに、激しく抗議をしたらしい。まあ、そりゃそうだ。
 ミッチ・ライダーが3曲演奏し、おじぎをして、歩いてステージを去り、マレーがさよならの挨拶をすると、客席の照明がついたが、オレたち3人はザ・フー見たさにもう1度ショウを見ることにした。
 オレたちは最悪の出来でさえないイギリス製B級白黒映画『ザ・シニスター・マン』をじっと座って見ていた。この映画の唯一救われている点は、ウィルフリッド・ブラムベルが出演していることだった。彼は『ビートルズがやってくる!ヤァ!ヤァ!ヤァ!』でポールのおじいちゃんを演じた俳優だ。ブラムベルがスクリーンに登場するたびに、オレたちは「こざっぱりした老人だな」「ポールはどこだ?」などと野次を飛ばした。
 1回目の公演を見て勝手が分かったので、ラベンダー色のサテンのシャツを着た超イケイケ野郎のアンソニーは、2回目の公演では、ここぞという時にステージ前に行き、ダンス・コンテスト出場者の列の1番目に並んだ。そして、ステージ上でジャッキー・ザ・K・ガールを相手に奮闘し、マジで優勝して例の権利を獲得してしまったのだ!
 ベンとオレが大活躍したダチに対する誇りと嫉妬で狂わんばかりの状態になっている時、当のアンソニーはジャッキー・ザ・K・ガールに連れられてバックステージに行き、ザ・フーと面会を果たした。
 アンソニーは彼女の後について狭い階段を登って、短い廊下を進んで行くと、突然、ザ・フーの4人全員が押し込められている小さな楽屋に到着した。メンバーと対面した彼は「トニー」と紹介された。ピートは次の出番直前に、ハンダごてを片手にさっき壊したテレキャスターを修理しているところだったが、あこがれのロック・スターを前にして完全にあがってしまったアンソニーが、この様子を見ながら思いついた唯一の質問は、「壊した機材の代金は全部バンドもちなんですか?」だった。
 メンバー全員は笑いながら、「ああ、そうだよ」を意味するさまざまなイギリス的表現で答えてくれたらしい。その後、アンソニーはザ・フーのステージに間に合うよう、ジャッキー・ザ・K・ガールにエスコートされて客席に戻って来た。2回目のショウでも、ザ・フーは同じくらいエキサイティングだった。

CODA 1:8カ月後の1967年11月、ザ・フーはニューヨークに戻って来て、ヴィレッジ・シアター(間もなく改装されてフィルモア・イーストになる)でコンサートを行なった。ある日の午後、アンソニーがマニーズ楽器店にふらりと入ると(よりによって、オレと一緒じゃない時に)、運とタイミングが良いことに、ピートが販売部長のヘンリーと話していた。アンソニーが恐る恐るピートに近づいて行くと、ピートは振り向いて、普通に「やあ、トニー」と声をかけてくれたというのだ。約250日も前に、『マレー・ザ・Kのミュージック・イン・ザ・フィフス・ディメンション』のバックステージで、たった20秒間しか会ってないというのに!

CODA 2:ヒット・パレイダー誌1967年9月号には、当時ザ・フーのパブリシストをやってたキース・オルサムが書いた記事が載っていた。内容は58丁目&3番街のRKOレイディオ・シアターでマレー・ザ・Kと過ごした9日間についてだった。当時、オレはこの記事を10回も読んだ。
 そして、初の「インテリ」ロック・ライターのひとり、リチャード・ゴールドスタインも、1967年にヴィレッジ・ヴォイス紙に、マレー・ザ・K・ショウに出演したザ・フーに関する心に残る記事を書いた。
 この2つは必読だ。

CODA 3:1988年にキング・キッチことジョー・フランクリンがジョーイ・ラモーンにインタビューをした。フランクリンはラモーンズが音楽シーンに与えた影響を力説していた人物なのだが、彼がジョーイに誰の影響を受けたのかと訊くと、ジョーイは間髪を置かずにこう回答した:「1967年のマレー・ザ・K・ショウで見たザ・フーが印象に残っている。大きな影響を受けたね」

Copyrighted article "I See The Who's First American Gig With Murray The K, 1967" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/i-see-the-whos-first-amer_b_832609.html
Reprinted by permission.
posted by Saved at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | The Who | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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