2013年02月03日

NY Rock'n'Roll Life【11】迷子のザ・フーとビートルズ速報

 ザ・フーのセントラル・パーク公演の話も面白いのですが、ビートルズ・ファンとしては、〈ヘイ・ジュード〉のプロモーション・フィルムに出演した女の子に関する話にも興味津々。まだニューヨーク付近で暮らしているのなら、今度そのあたりに行く時に直に会ってお話を聞きたいです。
 本文に登場するザ・フーのレア曲〈ダディ・ローリング・ストーン〉はこのアルバムに入っています。

 


シェイファー・フェスティヴァルに関する参考資料:

ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Schaefer_Music_Festival

Schaefer Music Festival Performers: At Central Park NYC Wollman Skating Rink 1968-76
http://rateyourmusic.com/list/JohnBuckWLD/schaefer_music_festival_performers__at_central_park_nyc_wollman_skating_rink_1968_76

チケット半券
http://www.lookatstubs.com/bands/schaefer_central_park_music_festival.htm

ANDY'S ROCK'N'ROLL MUSEUM
http://andyshernoff.com/andys-museum/schaefer

Fillmore East Preservation Society
http://www.fillmore-east.com/schaefer.htm

キング・クリムゾンのセントラルパーク公演も、シェイファー・フェスティヴァルの一環として行なわれたもののようです:




ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第11回:1968年8月セントラル・パーク、迷子のザ・フーとビートルズ速報
文:ビンキー・フィリップス


 どうにも止まらないんだよ。今回もまたザ・フーの話だ。
 1968年8月7日、ザ・フーはシェイファー・フェスティヴァル(そう、主催はあのシェイファー・ビール)の一環として、セントラル・パークでプレイした。8:00のアーリー・ショウと10:30のレイト・ショウがあったから、2回公演だった。このフェスティヴァルはウォルマン・リンク(スケート・リンク)で開催されていたのだが、リンクは地面の窪みに作られ、小さな丘に囲まれていたので、金がなくても、そうした丘のどこかに座ればショウを全部聞くことが出来たのだ。いくつかのヴァンテージ・ポイントからはショウを見ることすら出来た。もちろん無料でだ。
 ここでは1968年6月から1975年9月まで、毎年夏になると、毎週少なくとも2つか3つのショウが開催されていた。このフェスティヴァルに出演した人達を少しリストアップしただけでも、キンクス、レッド・ツェッペリン、ファッツ・ドミノ、フランク・ザッパ、BB・キング、マイルス・デイヴィス、レイ・チャールズ、ボブ・マーレイ、ブルース・スプリングスティーン、エアロスミス、マディー・ウォーターズ、タミー・ワイネット、オールマン・ブラザーズ、ディジー・ガレスピー…もう、伝説的ミュージシャンばっかりだ。
 驚いたことに、ヒリー・クリスタルがこのフェスティヴァルの共同創設者だった。約6年後にCBGBを始めたのがヒリーなのだ。
 シェイファー・ビール・プレゼンツと書いてある巨大な看板が、毎年、夏の間中、ステージの下に釘で打ちつけられていた。プロの手によってペイントが施された木製の板は、高さ4フィート×幅30フィートの大きさであり、左右両方にフルカラーのシェイファー・ビールのロゴが描かれていた。

Schaeferw.jpg

【訳者註:ザ・フーのコンサートではないが、ステージはこんな感じだった?】


 あの晩、ザ・フーは会場であるリンクを見つけようとして、45分ほどセントラル・パークの中で道に迷っていた。実際、リンクは公園の南側の境界である59丁目から8分の1マイルくらい北のど真ん中にあり、昼間なら見逃すはずはないのだが、それでも、公園内の道は曲がりくねり、一方通行のところもあるので、暗くなると分かりにくいかもしれない。
 ザ・フーにとっては、『シャイニング』のエンディングと『スパイナル・タップ』に出てくるステージを探すシーンの間のようなものだったに違いない。ザ・フーがやっとステージに登場した時、彼らは明らかに不機嫌だった。普段からムーディーなピートだけではない。いつもは陽気なロジャーもそうだった。彼らはジョン・エントウィッスル作の名曲〈ヘヴン・アンド・ヘル〉のニューヨーク初演(誰も聞いたことのないナンバーを1曲目に持ってくるなんて、何てバンドだ!)に苛立ち半分で臨んでいた。
 もちろん、ザ・フーに関しては、本当に怒ってるほうがいいショウになった。ピートがインタビューで言ってたのだが、酷いショウを切り抜けたい時にはいつも、〈ダディー・ローリング・ストーン〉を演奏するのだそうだ。この曲は〈エニイウェイ・エニイハウ・エニイウェア〉の輸入盤シングルのB面でしか聞けない。このR&Bナンバーはいい曲なんだけど、ザ・フー・ファンの大半にさえ知られていないものだった。ザ・フー側の論理としては、この曲はオーディエンスの興奮をバンドと同じ低いレベルにまで落ち込ませる作用があり、その後、〈マイ・ジェネレーション〉で機材をとことん破壊してしまえば、アンコールはしなくて済むのだそうだ。1968年8月7日は、ザ・フーが〈ダディー・ローリング・ストーン〉を演奏するのをオレが見た、唯一のコンサートだった。もちろん、オレはワクワクしていたのだけど…。


【訳者註:こういう曲だ】


 そして、次の曲は〈マイ・ジェネレーション〉だった。ニヒリスティックなコーダに突入すると、ピートは計画的に、大きな目的を抱いてステージの端に歩いて行き、オールドの逸品のサンバーストのストラトキャスターで、整然としたやり方で、シェイファー・ビールの看板の上部を強打し始めたのだ。ステージの奥から手前まで歩いて来ても、まだギターは長いケーブルでアンプに繋がったままで、唸ったり悲鳴をあげたりしている。
 看板は遂に12フィートほど落下し、カメラマン用ピットの中で壊れた。もちろん、ギターも生きちゃいない。完全に息の根は止まっている。もし無傷でケースに戻していたら、今なら2万ドルはするギターだったのに。
 2回のコンサートの前座を務めたザ・マンダラのシンガーから直接文句を言われたのは、恥ずかしくもあり誇らしくもある。オレと数人の友人は、1年とちょっと前にザ・フーが出たマレー・ザ・K・ショウで彼らを見て、なかなかいいと思っていたのだが、新しいシンガーには失望していた。プードルみたいなルックスで、ソウルの模造品のスリー・ドッグ・ナイツみたいなスタイルの歌い方に堪能で、ヴィブラートをかけまくり、しかも、無意味に芝居がかった仕草をやる奴だったのだ。こいつはバンドを目茶苦茶にしていた。オレたちはこのバンドを見て見ぬふりをしようと思ったのだが、こいつらがセカンド・ショウのためにステージに登場した頃には、こんなゴミのようなものを30分も我慢して聞き続けなきゃならないのは苦痛だと感じ始めてしまったのだ。1968年、《トミー》が出る1年前の時点では、ザ・フーのファンがコンサートを見に来るのは、このバンドの音楽とステージ・アクションが、ティーンの連中が世界と権威に対して抱いている苦悩/怒り/混乱/嫌悪を最もストレートに表現しているからだった。ザ・フーのショウでは「ギターを壊せ、ピート」という野次がよく飛んでいた。
 オレはザ・フーのソング・ライティング、歌詞、音楽、そして超革新的な才能にもぞっこんだったのだが、あの頃のザ・フーのショウの最後の30秒間の興奮と暴力は、その他の要素全部に匹敵していた。
 今、告白すると、マンダラのセカンド・セットが行われている間、アレを始めたのはオレだったのだ。オレが6列目から「帰れ! ザ・フーを出せ!」コールを始めて10秒もしないうちに、100人以上のザ・フー・ファンが加わってきたのだ。感情移入し過ぎのプードルは、オレが「帰れ」コールを始めるのを見ていて(オレは椅子の上に立ってたし…)、まっすぐオレを指さして叫んだ。
「そこのガキ、黙ってくんね〜かな!」
オレは叫び返した:「ファック・ユー、ファック・ユー、ファック・ユー、ファック・ユー、ファック・ユー」オレはシンガーと目が合ってる状態だった。
 観客の3分の2はマンダラをステージから降ろす気満々で、続いて「ファック・ユー」コールが起こった。他の連中はハレ・クリシュナ信者のように「フー」コールをしていた。もう大騒ぎだった。
 結局、マンダラは2曲半演奏した後、ステージを去った。
 セカンド・ショウのザ・フーはずっと機嫌が良かった。その点では、ちょっとガッカリだったが、このコンサートはピートが初めてギブソンSGスペシャル(約2年後にピートがオレに投げてくれたのと同じ型のギターだ。この後の数年間は、こればっかり使っていた)を使ったショウだった。
 〈マイ・ジェネレーション〉のコーダに突入すると、ピートはSGを20フィートもの高さに投げ上げた。このSGは、着地と同時にネックがボディーから離れてどこかに飛んで行き、ボディーも真っ二つになってしまった。フェンダー製ギターの頑丈さに慣れていたピートは、「何コレ?」と唖然とした表情でジョン・エントウィッスルを見たが、ジョンは少し肩をすくめただけだった。突然、何もやることがなくなってしまったピートは、サウンド・シティーのアンプをコミカルに大きなダメージを与えながら破壊した。この件でも特筆すべきショウだった。
 キース・ムーンは、オレのオヤジがかつてピートに言ってたように、この時も「ド派手」だった。

オマケ:ビートルズに関するステキな話

 セカンド・ショウが始まるのを待っている時、数列前が突然騒がしくなった。オレと同い年(15歳)か1、2歳年上の女の子が、6人くらいの友人と久しぶりに再会したようだった。キャーキャー声、喝采、「オー・マイ・ガーッ」といった叫び声が聞こえてきた。皆が一斉に笑ったり叫んだりしているので、オレはついつい話の中身を立ち聞きしてしまった。
 この娘{こ}はまさにその日にロンドンから帰って来たばかりで、空港からザ・フーのコンサートに直行したのだそうだ。そして、息をつく暇もなく、信じ難いことを語り始めた。ビートルズはこの年の秋にリリース予定の新曲用にプロモ・フィルムを作り、この娘{こ}はその撮影に参加したのだとか。彼女の友人たちは感嘆の声を上げた。「オー・マイ・ガーッ。もう最高。あたし、リンゴのドラムキットとジョージの間に立ってたの。しかもね、この曲は7分もあるのよ!」(オレの心の声:何だって!?)
 オレのダチ、アンソニーは目玉をぐりぐり動かしながら宙を見上げて言った:「あの娘{こ}、絶対にトリップしてる」
 彼女の友人たちは皆、びっくり仰天しながら、彼女を盛大に祝福していた。当然、オレも興味津々だったが、彼女の発言内容には懐疑的だった(当たり前だろ)。でも、この娘{こ}も友人たちも気が触れているようには見えないどころか、なかなかグッド・ルッキングだったんだ。
 親友のデヴィッド(数年後にオレと一緒にチケットを持たずにレイディオ・シティー・ミュージック・ホールに行って、デヴィッド・ボウイを見た奴だ)が、この娘{こ}と友人たち全員を知ってることが分かったのは、その1週間後だった。
 1カ月後の1968年9月8日、デヴィッド・フロスト・ショウで、かの有名な〈ヘイ・ジュード〉のフィルム・クリップが初めて放送された。オレはベッドの上に座りながら、妹や友人たちと一緒にそれを見ていた。すると、約3分後、ビートルズが「ナ〜ナ〜ナ〜ナナナナ〜」の大コーダの部分に来た時、駆け寄ってビートルズを取り囲む「一般ファン」の中に、確かにあの娘{こ}もいた! YouTubeにあるクリップだと丁度4:00のところだ。【訳者註:youtubeでは〈ヘイ・ジュード〉のPVのアップと削除が常に繰り返されてるので、見る動画によってはこの記事に書いてある時間とは一致しません】

heyjude.jpg


 ザ・フーのセントラルパーク公演にいたあの娘{こ}は、まさにあの時に言ってた通りの場所…リンゴとジョージの間…にいた。背が高く、ショートの黒髪、高い鼻の子で、ダーク・グリーンのジャケットにナスのような紫色のTシャツを着ている。彼女は何度も現れ、6:38〜6:41ではリンゴと彼女が一緒のリズムで体を揺らす様子を見ることが出来る。
 ザ・フーのセントラル・パーク公演にいた娘{こ}、キミも永遠の存在だ!
posted by Saved at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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