2013年02月05日

NY Rock'n'Roll Life【12】オッパイのついたキース・リチャーズと1958年製レスポール

 今回と次回は主にギターの話です。ビンキーのニューヨーク・ロックンロール・ライフの第1回はピート・タウンゼントが破壊したSGをゲットした話でしたが、今回と次回のギブソン・レスポールも、SGに劣らない曰く付きの逸品のようです。次の写真集をお持ちの方は、すぐ開けるように用意してから、【記事本文を読む】をクリックしてください。しかしまあ、おっぱいのついたキース・リチャーズって…(笑)。

   



ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ

第12回:オッパイのついたキース・リチャーズと1958年製レスポール

文:ビンキー・フィリップス


 1970年の夏の始まりの頃の話だ。初めてロンドンに行って帰って来たばかりだった。オレは貯めた金で、むこうにいた時にグラニー・テイクス・ア・トリップでパッチワーク・ブーツを特注した。高さが膝まであり、底は7cm。銀製の星と月の装飾も付けておいた。本当に数えてみたところ、片足あたり、64色の5cm四方のレザーが約150枚使われていた。
 グラニーは規模こそ小さかったが、超トレンディーなキングス・ロードにある、当時、世界で最もカッチョいい服と靴の店だった。4年後、スパークスのオーディションを待ってる時に、マルコム・マクラレンの経営するショップ、セックスに行ったものの、入る時は歩いていたが、出て行く時は殆ど駆け足だった。そこはあまりに怖くて怪しい、オリジナルすぎる店だったのだ! とにかく、1970年の夏には、オレはアメリカで超イカしたウルトラ・ロックスターな靴をもってるわずか数十人のうちのひとりだった(と思う)。このブーツにカットオフしたジーンズといういで立ちでタイムズ・スクエア界隈を歩くと、人の流れが止まったものだ。ニューヨーク・シティーの疲れたストリートの向こう側から大声で誉め言葉をかけてもらえたこともあったし、地下鉄ではブーツを見てガキどもが興奮した。嘲笑は徐々に羨望に変わっていった。オレはこのブーツを毎日はいて、どうだ、ロックだろ〜!という気分に浸っていたのだ。
 このブログを読んだことがあるなら、この約4週間前の6月7日にメトロポリタン歌劇場でピート・タウンゼントが投げたギブソンSGスペシャルをゲットした話を思い出して欲しい(NY Rock'n'Roll Life【1】 ピート・タウンゼントのギターをゲットしたぜ)。そのギターはヘッドストックがなくなっていたので、ギター・ラボという修理・改造をしてくれる超イカしたショップに頼んで付けてもらったのだが、これはたいていの奴なら失敗する難しい作業だ。もしギターのヘッドが破損したら、元の状態には戻らない。それはもう「パーツ取り」用のジャンク品にしかならないのだ。だが、ギター・ラボは見事にやってくれた。しかし、このブーツは超高く、オレは無一文の状態だったので、ピートがオレに投げてくれたギブソンにヘッドストックを付けてもらうかわりに、夏の間ギター・ラボで「使いっ走り」として働くことになっていた。毎朝顔を出して、皆にコーヒーやタバコ、ランチを用意し、ギターの弦を交換し、営業の電話をかけ、各種お使いをし、掃除をした。こうした仕事をして、最終的に、ギター・ラボからはバイト代すら出た。
 ギター・ラボのオーナーは、カール・トンプソンとチャーリー・ラブーだった。ふたりともリペアマンとして名の通った存在で、とても尊敬されていた。それよりも大切なことなのだが、ふたりは演奏家としても有名だった。超ベテランのセッション・メンが何時間もこの店にたむろし、有名なジャズ・プレイヤーもここでジャムをしていた。オレはここのレッスン用の小部屋でジム・ホールやバッキー・ピザレリ、エディー・ディエールがカールと一緒にジャムっているのを見たことがある。タル・ファーロウ、フリートウッド・マックのピーター・グリーンやダニー・カーウィン、ジョニー・ウィンターをはじめ、数多くのスターと会ったのも、この店でだ。ギター・ラボは有名人の集まる店だった。
 オレがここで修理費がわりのバイトをするようになって1カ月くらいしたある日、ブルースが言った:「ヘイ、ビンキー。オッパイのついたキース・リチャーズ見たくねえか?」ブルースはカールとチャーリーのもとで働く、弱冠22歳にして一人前の修理と改造の職人だった。ロングアイランド出身で、怒りっぽくて、よく政治的に正しくないことを言う奴だった。
 まあ、オッパイのついたキースは、普通、見たくないわけないよな。ということで、店の接客エリアを突っ切って行くと、痩せた、真っ黒の髪の、汚い格好の小娘が(普段はこんな言葉は使わないんだけど、あの時見たのは本当に小娘だった)かなりボロボロのフェンダー・デュオソニックを持って立っていた(当時は、デュオソニックなんて負け犬か初心者用のギターだと思っていたが、今では2,000ドル以上の市場価値がある1964年製のデュオソニックのオーナーとして、オレは鼻高々の状態だ)。で、彼女は、着古して生地が紙くらい薄くなっている、大きくてゆるゆるのTシャツを着ていて、立派な胸が飛び出ていた。その娘{こ}は半狂乱で支離滅裂にデュオソニックの状態を何度も繰り返し説明していた。「ブーンて鳴ってるの。音も最悪よ。あのね、ブーンて音なのよ。ブーン。このブーンを直せるでしょ。あぁ、最悪。いつも、ブーンが鳴りっぱなしなの。ブーンよ。どうしてブーンなのかしら?」まるでトゥレット・シンドロームを抱えてるかのようだった。
 で、ブルースの言ってたことは、まさのその通りだった。髪形は映画『ギミー・シェルター』のキースだった。頬はこけていて、目のまわりにはアイライナーを黒々と入れ、骨のイヤリングを付け、骸骨の指輪をはめ、キースとお揃いの足首まである黒いブーツをはき(古くてかかとが擦り減っていた。靴部門ではディランに近いかも…あの頃でも蛇皮は相当な値段だっただろう)。着古した黒のタイトなシーンズに包まれたケツは貧弱だった。この娘{こ}が夢に向かってあまりにまっしぐらの状態で周囲が見えず、自分がギター・ショップで働く5人の女っ気のない野郎どもに何らかの影響を与えていることに全く気づいてないことは、17歳のオレにですらわかった。オレたちは皆、彼女に夢中になっていた。スタッフのうち少なくとも2人は、彼女をその場に留めて、長時間話をしていた。しかし、オレは数分後にはリペアを待ってるギターのケースを開けるという楽しみな作業のほうに戻っていった。彼女に最ものぼせあがっていなかったのがオレだったと思う。嫌いっていう意味じゃない。風貌があまりに完璧だったので、オレは嫉妬してしまったのだ。グラニー・テイクス・ア・トリップのウルトラ・クールなブーツを履いていてもだ。客観的に見ると、彼女はアーバン・ヒルビリーで垢抜けておらず、実際、全然セクシーではなかった。しかし、この娘{こ}こそパティー・スミスだった。

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【訳者註:この写真がいちばんキース風の髪型かな】


 その年の夏の後半のある日の午後、エドガー・ウィンターのロード・マネージャーをやっているテディー・スレイタスが、常連客のリック・デリンジャーのサンバーストのレスポールを2本持ってやって来た。リイシューが製造されるのは何年も先のことだったので、これは、ギブソン社が1958年半ばから1960年末までに製造した全部で900本ほどのレスポールのうちの2本だった。赤から黄金色のボディーには高級メイプルが使われており、透明なラッカーで仕上げの塗装が施され、当時としては斬新で高出力の(それで特許も取っている)ハムバッカー・ピックアップが付いている代物だ。ロックのスーパー・ギタリストの中でも、キース・リチャーズやミック・テイラー、マイケル・ブルームフィールド、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、デュアン・オールマンといったギターに超こだわりのある連中は、このモデルのギブソンを究極の1本として使用していた。レスポールは今でもなおそういう存在だ。
 オレはそれまで、たった1度しかレスポールを見たことがなかった。1960年代には西48丁目に9〜10軒のイカした楽器店があったのだが、そのうち1軒のジミーズの窓に飾ってあったのを、1年前に見ただけだった。目がクラクラした状態で店に入り、いくらか訊いたら、店員は鼻で笑うように「500ドルだ。触っちゃダメだぞ、坊主」と言いやがった。オレは息を飲んだ。500ドル! シボレーより小さいものについた値段としては正気の沙汰ではなかった。
 そんなオレも、今じゃギター・ラボの使いっパシリ/雑用係だ。リックのレスポールから弦をはずすようにと業務を仰せつかった。エレキのストラディヴァリをこの手で触れるんだぜ! 1本は、買ったばかりのリックのお気に入りで、1959年製で、ライフセーバーの履いてるパンツのような濁りのないチェリー・レッドのサンバーストだ。もう1本は1958年製で、比較的ボロボロの状態で、糖液のような暗い赤茶色のサンバーストだった。いろんなロックスターがレスポールを持ってる写真は数多く見ているが、それから判断するに、レスポールのチェリー/オレンジ系には4、5種類の色調があるようだったが、この暗い色をしたジャズ・ギター・スタイルのレスポールは、非常に珍しく、オレの心を超引きつけるものだった。
 ギターのコレクションを始めたての1969年春に、オレはフィルモア・イーストでザ・フーの前座を務めるバディー・ガイを見た。バディーが持ってた、'50年代に製造された、使い込まれたサンバーストのフェンダー・ストラトキャスターを見て、ギターは少しボロボロになってるくらいのほうがカッチョよくて、「本物」っぽく見えるものだと感じた。その時以来ずっと、オレは使い込まれた中古のギターを積極的に探していた。そういうギターのほうが、値段が安いだけでなく、ミント状態のものより弾き心地も音もいいのだ。リックのダーク・カラーのレスポールも、丁度いいくらい使い込まれていた。側面と裏はベルトが当たってひどく削れていたが、ギターのサンバーストの表側はA+の状態だった。オレはこの2本と一緒の部屋にいるというだけで超興奮していた。
 修理のために弦をはずす前、ダーク・カラーのほうを手にとっていた時、オレは抑えられない衝動に駆られて、お行儀の悪いことをした。ギター・ラボの入ってるビルのロビーのエレベーターのドアのそばには、縦6フィート×横10フィート大きな鏡があったのだ。ギター・ラボからは1階下だった。どうやって持ち出して、どうやって戻したのかは覚えてないのだが、あの日のある時点で、オレはダーク・カラーのレスポールを持ってそっと下階に行って、鏡に自分の姿を映してみたのだ。生まれて初めて本物の1958年製サンバースト・レスポールを持ってる自分を見て、約60秒間、恍惚状態に浸った後に、ギターを持ってそっと階段を上り、仕事場に戻った。
 リペアの実務を担当することになっていたブルースが、数分後にやって来て、ダーク・カラーのレスポールのシリアル・ナンバーを控えておくようにと言った。接着剤を使う必要があるほどの小さなひびがヘッドストックにあり、研磨作業の過程で消えてなくなってしまう可能性があるからとのことだった。ギブソンのヴィンテージ・ギターのシリアル・ナンバーのような大切なものを、こんなに軽々しく扱うなど、今では絶対に考えられない。ブルースは鉛筆で壁に書いておけと言った。「壁に書いときゃ、なくなんねえかえからな」
 オレは奥の部屋の北側まで行って、2分の1インチほどの大きさで数字を書いておいた。それから、紙切れにも番号をメモして、自分のポケットの中に入れておいた。ブルースもギターのボロボロの裏側に4分の1インチくらいの大きさでそれを刻んでおいた。
 ここでちょっと脱線して、このダーク・サンバーストのギブソン・レスポールにまつわる物語を話そう。これは、リック・デリンジャーがジョニー・ウィンター・アンドの2枚のアルバムの殆どのトラックと、エドガー・ウィンターズ・ホワイト・トラッシュの最初の3作の約半数のトラックで使用したギターだ(エドガーの〈フランケンシュタイン〉でダダッダーダーダ・ダッダッダーっていうフレーズを弾いたギターを、オレは現在、所有しているのだ)。日本で出版された、ヴィンテージのサンバースト・レスポールの写真ばかりを集めた大型の豪華本『The Beauty of the 'Burst』(イワナデ・ヤスヒコ著)の163ページには、リックがこのギターを弾いている写真が載っている。でも、もっと凄いのは、アンディー・バビウク著『Beatles' Gear』にある、このダーク・カラーのレスポールについて少し触れている驚くべき記事だ。アンディーの本を読むまで全然知らなかったことなのだが、ジョージ・ハリスンが〈リヴォリューション〉のプロモ・フィルムで使っていて、生涯彼のお気に入りのギターだった「ルーシー」の、元の所有者はリック・デリンジャーだったのだ。1967年初頭に、リックはカラマズーのギブソン社で、1957年製の古いゴールドのレスポールを、SGシリーズの明るいワイン・レッド(アンガス・ヤングのギターを思い出してくれ)にリフィニッシュしてもらった。しかし、リフィニッシュが済んだ途端に、リックはこのギターが好きでも何でもなくなり、ニューヨーク・シティーのダン・アームストロングの店に持って行き(そう、クリームのギター・ケースの話にも登場するあの店だ)、225ページに載ってるリックの言葉によると「赤のレスポールと交換で、サンバーストのものをもらった」そうなのだ。その1日か2日後に、エリック・クラプトンがジョージ・ハリスンへのおみやげを求めてダンの店に来て、つい先日までリックのものだった赤のレスポールを購入し、それがルーシーになったのだ。このダーク・カラーのレスポールこそ、リックがあの時の物々交換で得た「サンバーストのもの」なのだ。だから、この1本はビートルズ伝説とほんのちょっとだけかすってたりする。

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【ジョージ・ハリスンとルーシー】


 話を2年ほど早送りしよう。1972年5月、オレはギター・ラボの準常連になっていた。もうそこで働いてはいなかったが、週に2、3日顔を出してはウロウロしていたのだ。たいていは、コミュニティ・カレッジ・オブ・ニューヨークの1年生の授業が終わった後だ(カレッジに1年通って、成績はAが3つ、Bが4つ、不可が1つだった)。その頃、ギター・ラボは、前の店から2ブロック、アップタウン寄りに移り、もっと広いスペースの店舗を構えていて、いつ行っても、小さな1室の北側の壁と南側の壁には、それぞれ7、8本のギターがかかっていた。南側の壁には、ラッカーを乾かしているところだったり、接着剤を取り除いてることろだったり、リペアのさまざまな段階のギターがかかっており、北側の壁には、委託販売用のギターがかかっていた。
 あの木曜日の午後1:30頃、ギター・ラボに入ると、リック・デリンジャーのダーク・サンバーストの1958年製レスポールがあったのだ。このギターを見るのは1970年7月以来だった。しかも、北側の壁にかかっている。オレはカール・トンプソンのほうを向いて言った:「リックのレスポールをかけておく壁、間違えてるぜ、カール」すると、「いや、間違いじゃない。1時間ほど前にリックから電話があって、売ってくれって言われたんだ。600ドルだって。それから、このギターのフレットを調整したんで、リックにはその代金50ドルの貸しがある」
 視線を合わせることなくオレは言った:「カール、買った。オレが買った。今すぐ壁からおろしてくれ。今日、650ドルを持ってまた来る。ギターを奥の部屋に置いといてくれ。2時間くれ。オレが買う」カールは「OK、ビンキー。そう興奮するな」と言うと、ギターをおろした。
 オレはエレベーターに向かって走った。走ってビルから出た。IRTの地下鉄の駅まで走った。20分電車に乗った後、ブルックリン・ハイツの自宅まで走った。オレは自分の部屋に駆け込んで、銀行の預金通帳を探した。銀行まで走った。窓口まで走った。汗はダラダラ、息はハーハーゼーゼー。オレは通帳を出して、窓口の女性に口座を解約しますと言った。彼女は驚いた表情をしながら、「すぐに戻ります」と言った。
 オレは1年間、2つの仕事を掛け持ちしていた。水曜日と金曜日には小さな香水工場で働き、土曜日と日曜日はニューヨーク・タイムズでコピー係をやっていたのだが、この話はまた別の機会に…。それで、オレの口座には、2つの仕事から生じたわずかな給料を貯めた652ドル80セントがあったのだ(オレはこの通帳を今でも持っている)。実際に、サンバーストのレスポールの掘り出しものがあったら、それを買おうと思って貯めておいた金だ。
 この銀行は大聖堂のような建物で、実際に大きな教会ほどの大きさだった。淡い小麦色の大理石、ガラス、真鍮で出来ていて、床から天井までは10メートル以上もあった。皆は小声でしゃべっていた。窓口の女性は、ダーク・スーツを着た、年上でいかにも大人の雰囲気を持つ男の行員と一緒に戻って来た。彼はまず「あなたくらいの年齢の若い方が(実際、ティーンエイジャーだったし)これほどたくさんのお金を貯めるなんて、とてもしっかりしてますね」なんて感じで話を始め、「…ですが、このお金の使い道について、もう一度お考えになったほうが…」と続けるので、「今すぐボクのお金をください!」とありったけの大声で叫んだ。大理石の洞窟のような建物中にオレの声が反響した。
 この銀行員は、恐らく怒りと恥ずかしさからであろう、顔を真っ赤にしながら窓口係のほうを向いて、静かに「お金をお渡しして」と言うと、2度とオレを見ることなく歩き去った。
 オレはIRTの地下鉄まで走り、ギター・ラボに走って戻った。今まで持ったこともないほど厚い札束をポケットから出し、20ドル札を32枚と10ドル札1枚を数えた。カールは領収書を書いてくれた。オレはありがとうと言うと、地下鉄でブルックリンに戻った。
 オレは自宅のあるブロックにたどり着き、火曜日の午後の誰もいない家の中に入った。玄関のドアを開け、居間に入り、49丁目から運んできたギター・ケースを開け、ダーク・カラーのレスポールを取り出し、それを抱え、暖炉の上にある鏡に向かうとこう大声で言った:「今度はこうして、自分の家{じぶんち}の鏡の前でこのサンバーストのレスポールを持っているぜ! これはオレのギターだ!」

Copyrighted article "The Holy Grail: I Buy A 1958 Sunburst Les Paul" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/the-holy-grail-i-buy-a-19_b_740875.html
Reprinted by permission.
posted by Saved at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | guitar | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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