http://evgrieve.com/2012/01/there-is-now-only-one-record-store-left.html
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ビンキーはしばらくこの店の店員をやっていたそうなのですが、今回はここで働いていた頃の体験をいくつか綴ったものです。特に面白いのが、一番最後に書いてあるビリー・ジョエルの〈ア・マター・オブ・トラスト〉のプロモーション・ビデオの撮影を目撃した話!
当時、ビリー・ジョエルとブルース・スプリングスティーンは互いを強くライバル視してたのではないか、ということが書いてあるページをつい最近発見したのですが、ビンキーの話(↓記事本文を読むをクリック)を読むとさもありなん。
That's談The・80's
知られざる意地の張り合い??? 〜 ボスVSビリー・ジョエル 〜
http://homepage2.nifty.com/bekke/zatsugaku%20brucevsbilly.htm
ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第15回:ビリー・ジョエルのPV撮影を目撃したぜ
文:ビンキー・フィリップス
1980年代の丸々10年間と、その後しばらくの間、オレはマークス・サウンズというレコード屋を切り盛りしていた。ここは当時、ビッグ・アップルで最もトレンディーな店で(単なる戯言なので気にしないでくれたまえ)、セント・マークス・プレイスの2番街3番街の間というオシャレな一角のメイン・アトラクションだった。
おっと、一瞬、節度ってものを忘れていた。オレにも少しはそういうものがあるんだぜ。オレは中古盤、プロモ盤、そしてブルースやカントリーといった専門分野のいくつかや、コレクターズ・アイテムのセクションの責任者だった。オレはまた、2人いた輸入盤のバイヤーのひとりでもあった。1980年代半ばには、ボン・ジョヴィのせいでオレはギター・ロックから遠ざかっていたので、半ば基本設定状態であるかのように、店に常駐のレコード博士及びダンス/ラップ/ハウス/テクノの12インチ・シングルのバイヤー長にもなっていた。
オレはサウンズで一番流行に敏感で2番目に趣味が頑固なスタッフ、サージェント・ミッチ・Zと並んで、いくつかのガイド・ブックにも登場していたほどだった。日本人客がやって来て、持っていたガイド・トゥ・クール・ニューヨークのページを見せてくれたのだが、そこには「ビンキーかミッチに訊け」という内容のことが書いてあるらしかった。
ラモーンズのジョニー、ジョーイ、マーキー、ビースティー・ボーイズのメンバー、ジョン・ベルーシ、アフリカ・バンバータ、ティム・サマー、ロバート・クイン、リック・ルービン(こいつからはブルースやカントリーを教えてくれって頼まれた)、アーサー・ラッセル、リチャード・ヘル、クレイグ・コールマン、ジョン・ゾーン、ジョー・ジャクソン、B-52'sのフレッド・シュナイダー、スティーヴ・ブシェミ、サーストン・ムーア、といった有名人の誰かが店にいるのは、極めてよくあることだった。ひとりで来て買い物をするのではなく、バンドのメンバーが3、4人まとめて来店することもよくあった。こうした有名人が来ても他の客は殆ど騒いだりはしなかったのだが、トーキング・ヘッズのリーダーが中古盤コーナーを見ている時に2人のガキに話しかけられた光景はなかなか笑えた。連中が「オジサン、デヴィッド・バーンによく似てますね」と言うと、彼はちょっとショックを装いながら「本当かい? 名前もそれなんだよな」と答えたのだ。ガキどもは買ったばかりのトーキング・ヘッズのアルバムにサインをおねだりすると、デヴィッドがジャケットにブロック体でデカデカと自分の名前を書いたので、連中は変な顔してたよ。おかしかったなあ。
セント・マークスのサウンズの中は、今も昔も約6メートル×15メートルの広さしかなく、土曜日ともなると、2つの通路で80人以上が押し合いへし合い、さらに10人以上がドア前の階段で、自分が店内に入れるスペースが出来るのを待っていたので、ここはビロードのロープが必要な唯一のレコード屋だと、いつも冗談を言っていた。ちょっとしたハプニングも日常茶飯事だった。
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この店を最初にオープンした時、オレたちはゴミが出たら、下にあるグラスルーツというバーのゴミ箱を使わせてもらっていた。開店して8週間ほど経った時、ポークパイ・ハットをかぶり、先が短くなった葉巻を吸っている60代前半とおぼしき小柄の男が、店に入って来て、オレに120ドルの請求書を渡した。
「いったい何の?」と訊いたところ、こう言われた。
「こちらの店は、当社の巡回ルート上にあたります。それはゴミ収集の月額料金です」
オレは奥の部屋からオーナーに出て来てもらった。
「すみませんが、うちには必要ありません。グラスルーツのゴミ箱を使わせてもらっていますから。ちゃんと許可も取ってありますよ」
「そうですか」ポークパイ・ハットの男はニコっとすると、請求書をたたんでポケットにしまい、去って行った。
翌日、オレが店に最初に到着したところ、ドア前の階段と歩道は、卵の殻、コーヒーの粉、使用済みオムツ、チキンの骨、腐ったフルーツや野菜といった生ゴミだらけになってるじゃねえか。しかも、濃いオリーヴ・グリーン色の制服を着た背の高い公衆衛生警察の警官がそこにいて、違反切符を切っている。オレはこいつのところに行って、何がどうなってるのか質問した。
すると、オリーヴ・グリーン色の警官から「キミ、ここの店員?」と訊かれたので、イエスと答えた。
「こんなに汚くしといたらいけません。高くつきますよ」オレはこいつから罰金350ドルの請求書を渡された。
この数時間後、ポークパイ・ハット男が再び店にやって来て、「公衆衛生局とトラブってると聞きましたよ」と言った。オレはうなずくと、20ドル札6枚をレジから取り出して、こいつに渡した。彼はオレに前日の請求書を渡しながらと、こう言った:「毎月第1水曜日に参ります。それではまた」
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春休みの頃の、ある金曜日の午後のことだった。学校は休みで、店内は混雑していた。そんな時、突然、いつものイースト・ヴィレッジの連中や、その周辺から橋やトンネルを通ってやってくる連中にまじって、それっぽくない奴が3人いることに気づいた。そして、フロント・ドアが開いて、もうひとり入って来た。
4人とも背が高く、同じ背格好だった。4人とも同じ黒のスーツ、パリッと糊のきいたワイシャツ、ピカピカの黒靴、落ち着いた暗い色のネクタイといういで立ちだ。4人とも左の襟の折り返しに、何のものともわからない小さなピンがとめられていた。4人とも黒のサングラスをかけていた。4人とも、イヤホンから出た細い線が襟の中へと垂れていた。4人とも、攻撃開始直前のコブラがトグロを巻いているような雰囲気だった。彼らの頭部は、あっちやこっちに向くというより、回転している感じだった。
イースト・ヴィレッジの中でさえも、これは奇妙で落ち着かない光景だった。オレが連中の存在に気づいたことを、連中も気づき、連中にはそれが気に入らないようだった。
どうにかしようと思ったオレは、一番近くにいた奴のところに歩いて行き、「何かお探しですか?」と訊いてみた。こいつはオレのほうに頭を回転させると、今までに聞いたことがないくらい冷たい声で「いや」と答えると、向こうを向いてしまった。こいつ、オレを虫けらくらいにしか思ってねえな。オレは警戒心バリバリになった。
現に変な奴が店内に入り込んでるので、サウンズのオーナーに店の中の状況を知らせたほうがいいと思ったオレは、メインの通路を通って奥の部屋に向かおうとした。
ロック・コーナーのRの前を通ろうとした時だ。垢抜けないストロベリー・ブロンドのティーンの女の子から声をかけられたのだ:「あのお、すみません…」その娘こは、ラモーンズの全アルバムがあるかどうかと訊いてきた。
オレはせっかちに言った:「あ、お嬢さんが持ってるもので全部ですよ」
「これいただきます」
「う〜ん、OK。こちらへどうぞ」 オレはとっととレジのある台まで行き、予備のレジを開け、LP5、6枚分のレジを打つと、このちょっと場違いな女の子からお金を受け取った。その時、突然、オレは気づいた。自分が今、ラモーンズの全作品を売った相手は、アメリカ合衆国大統領の娘、エイミー・カーターだということに。
シークレット・サーヴィスの連中に近くにいられると、シャレでなく怖い。半端じゃねえ。エイミーがいた5分間、店はこいつらに占領されていたと言っていい。
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ある日、また別の種類の怖さも体験した。
心地よい金曜の午後のことだった。場違いな男が2人、店の中に入って来た。ふたりとも黒のカーリーなマレット・ヘアで、ふたりとも少なくとも身長190cmはあった。ふたりとも、体重は140kg近くあるに違いない。ふたりとも白の半袖のシャツを半分はだけ、腹筋ボコボコ状態の腹が少し見えていた。ふたりとも胸毛があり、首の回りには少なくとも3つのゴールドのネックレスをしていた。もうひとつオマケに言うと、ふたりとも小指には指輪をしていた。
「なあ、今日は兄さんに命を助けてもらいてえんだ」
「助けてって一体?」
「明日、結婚式があるんだが、プレイリストにザ・モーメンツの〈トゥ・ユー・ウィズ・ラヴ〉がねえと、オレは殺されちまうんだ。なあ。今日、店を12軒回ったんだぜ。今すぐ、このレコード出してくれよ」
驚いたことに、約1時間前に、オレはシールド状態だがカット盤の《ザ・モーメンツ・グレイテスト・ヒッツ》を「M」のコーナーに入れたばかりだった。
オレは2人の「兵隊」に、ついて来いと言った。
奥の「ソウル」コーナーに行ってそのアルバムを引っ張り出し、ジャケットをひっくり返すと〈トゥ・ユー・ウィズ・ラヴ〉があったので、オレはそれをおしゃべりな奴に渡した(もうひとりは、その時はまだ、黙ったまま)。
「サイド3を見てみな」
「でかしたぜ! ジョニー! こいつ、持ってたよ! あの曲もあるぜ!」ジョニーという大きくて物静かな男は、うん、これだ、と言うように笑顔でうなずいた。
「このレコードを探して、ニューヨーク中のレコード屋を回ったんだぜ。すげえよ! ここにあったぜ!」
見事なプロの手つきで、いい商売をしたのでうぬぼれたオレは、こいつにもたれかかりながら、思いっきりマーロン・ブランドの真似をしながら言った。
「最初からここに来りゃよかったじゃねえか」
この瞬間、空気が変わった。生まれてこの方、あんなに恐ろしい機嫌の豹変を経験したことはない。1秒も経たないうちにおしゃべりの奴の笑顔は口から引っ込み、こいつは突然、オレの上に覆いかぶさるように顔を近づけ、静かに言った。「そんな口のききかたされなきゃいけねえわけでもあんのかよ?」こいつの声の中には、前にも後にも出会ったことがないくらいの冷たく激しい凄みがあった。こいつの目は完全にイッちゃっていた。
後ろにいたジョニーは、何が起こってるのかは知らないが、ただならぬ事態であることを察知し、こいつの隣に立った。オレはこの時やっと、ジョニーの身長が2メートルを超えていることに気がついた。こいつこそ怒らせないほうがいい奴だ。
「どうした、リッチー?」
オレはジェリー・(「ナイス・レディ」)・ルイスみたいに、どもりながらしどろもどろに答えた:「ほら…あの…さぁ…だって、お客さんがさぁ、他にも何軒も回って来たって言ったじゃないですか…だから、そのぉ…ここにレコードがあって…時間の節約になったでしょ」
リッチーが片手を上げたので、オレは急ブレーキを踏んでおしゃべりをストップした。すると彼はドライアイスくらい冷たい声で言った:「会計だ」
オレは素早くカウンターのところに戻ってレジ係をどかし、自分でレコードの値段と税金を打ち、金を受け取ってお釣りを渡し、ありがとうございますと言った。こいつとジョニーは向こうをむき、ドアのほうに歩き始めたが、リッチーはこっちを振り返って4秒ほどオレを見つめた。何かを言おうと思ったのだろうか。しかし、ジョニーがドアを閉まらないように押さえて待っていたので、ふたりは歩き去っていった。それから3分くらいしてようやく、オレは再び息が出来るようになった。
* * * * * * * *
プロモ盤のバイヤー長として、評論家やDJ、レコード・レーベルの連中がオレの顧客だった。小口の取引しかしない奴もいれば、大口の奴ももいた。
ロック評論家が週に1度、30〜50枚のアルバムを持って来たり、クラブのDJが毎週50〜100枚の12インチ・シングルを持って来て、売ったりトレードしたるするなんてことは、普通だった。
レコード・レーベルの人間も定期的にやって来て、ヴァン・ヘイレンやシャーディーのニュー・アルバムのプロモ盤を10〜50枚くらいドサッと置いていった。
オレはこんなふうなやり方でプロモ盤を買い取って、いろんな人間と友達になった。オレの女房となる女性とこのレコード店でどのように出会ったかも、そのうち話そう。
1987年の晩春、キャロライン・レコードから、手前味噌で恐縮なのだが、オレ、ビンキー・フィリップスの5曲入りEP『Live At CBGB』がリリースされた。最近では、このレコードはeBayで10ドルなんていうクレイジーな値段が付いている。
このアルバムが発売されて数週間、オレはいろんな批評家やライター連中をからかって楽しんだ。連中がオレのレコードをオレに売ろうとするので、ここに持ってくる前に少なくとも聞いてはみたの?と質問して、きまりの悪い思いをさせたのだ。
ある日の午後、何度かアルバムを売りに来たことのある若者が、10枚ほどのアルバムを抱えてやって来たのだが、一番上にあったのがオレのレコードだった。
オレがいつもの戯言を言う暇もなく、こいつはしゃべり始めた:「今日ここに来たのは、レコードを売るためじゃないんだよ、ビンキー。さっきの話、聞いてくれ。4丁目&ブロードウェイのところのタワー・レコードのビルのエレベーターに乗ってたら、キース・リチャーズが入って来たんだよ[1980年代には、キースのNYCでのアパートメントがこのビルにあった]。オレがハローって言うと、キースはオレが抱えてたレコードを見て、“ビンキー・フィリップスか、なかなかいいんだってな”って言ったんだ。凄いだろ!」
オレはその日の残りをぼうっとしながら過ごした。キーボードに向かってこの話を書いている今も、ぼうっとしてるけどな。
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さて、ストリートを挟んで真向かい、セント・マークス・プレイスの北側には、殆どの窓がレンガで塞がれている、とても幅の広い5階建てのビルがあったのだが、この中にはかつて、1966年にアンディー・ウォーホールがヴェルヴェット・アンダーグラウンドと一緒に「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」ショウを行なったクラブ、ザ・ドムがあった。1975年にヴェルヴェッツのギタリスト、スターリング・モリソンが言った。彼らがザ・ドムで行なったショウがセント・パークス・プレイスを「今日のような低俗な穴」に変えてしまったのだと。1969年には、会場名はジ・エレクトリック・サーカスへと変わり、その黎明期のハウス・バンドがスライ&ザ・ファミリー・ストーンだった。
ザ・ドムのグランド・フロアだったところは天井の低い広い部屋で、床はブロンド色の木材で、窓は高く大きかった。この部屋は、アルコホリクス・アノニマス(アル中患者救済協会、通称AA)、ナーコティック・アノニマス(薬物中毒患者救済協会、通称NA)のミーティングにも使用されていた。
シークレット・サーヴィスの侵略を受けてから数週間経ったある日、12時の開店に間に合うよう、午前11:30頃店に到着すると、セント・マークス・プレイスは数台の巨大トラックに占拠されており、歩道は最高級の映画の撮影機材がたくさん置いてあった。そして、ストリートの真向かいにあるAA/NAのミーティング・ルームでは、クルーがバタバタと準備に追われていた。何かの大プロダクションでることは明白だった。
1時間後、胴長のリムジンがとまり、その中からクリスティー・ブリンクリーが出て来た。生で見るほうがはるかに美人だった。そして、彼女と一緒に出て来たチビ(short)でずんぐりむっくりの男(guy)は、あのロングアイランド(Long Guyland)のキング、ビリー・ジョエルだった。
これはジョエルの〈ア・マター・オブ・トラスト〉のビデオ撮影だった。ピアノではなくギターを持って歌うビリーを初めてフィーチャーしたPVであり、このパフォーマンスの撮影場所がAA/NAのミーティング・ルームだった。
サウンズの窓は床から天井まであるパーラー・フロア型なので、ここからは撮影シーンが丸見えであり、忙しくない時には、ビリー・ジョエルとバンドがテープに合わせて演奏するシーンを何度も繰り返し撮影するのを見ていた。出来上がったビデオには、オレが様子をのぞいてた窓が背景の中に何度か登場したが、オレは映っていなかった。まあ、『ギミー・シェルター』の〈ジャンピン・ジャック・フラッシュ〉で映ってるほうがはるかにいいけどね。
午後2:30頃には、ビリーと撮影クルーは欲しいシーンが撮り撮り終わり、機材とスタッフの撤収作業が行なわれていた。セットや機材の4分の3ほどがバラされ、トラックに積み込まれた頃、突然、あたりが騒がしくなったのだ。通りの向こう側から猛烈な野次や怒号が聞こえたと思うと、トラックのドアが勢いよく開き、続いて、何らかの混乱状態が起ころうとしていた。全ての機材が引っ張り出され、再びセットが組まれた。サウンズの窓からは、スタッフ全員が激怒し、怒り狂ってる様子が見えた。もう1度、最初からやり直さなければいけなくなったようだった。
オレは何が起こってるのか知りたくなったので、ふらふら外に出て道を渡り、若いほうの、そんなに怒ってなさそうなスタッフに声をかけて訊いてみた:「どうしたんだい? 終わったんじゃないの?」
すると、こいつは教えてくれた:「ビリーがリムジンに乗り込んで帰ろうとしていた時に、撮影隊のひとりが言ったんだ。“ビリー、オールドのフェンダー・テレキャスターをブルース・スプリングスティーンへのオマージュとして使ったのは、とてもステキでしたよ”って。そしたら、ビリーはその場でキレちゃってさ。違うギターを使ってビデオを最初から撮り直すって言い出したんだよ。信じられるかい?」
あのビデオを見ると、ディッキー・ベッツが何十年も使い続けているようなゴールドのギブソン・レスポールをビリーは弾いているのだが、ビリーにそれ指摘した奴はいなかったんだろうな。
Copyrighted article "Tales From a New York Record Store" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/keith-richards-amy-carter_b_780434.html
Reprinted by permission