ヴァン・ヘイレンで思い出しましたが、ドゥイージル・ザッパの初シングル〈My Mother Is A Space Cadet〉(1982年)をプロデュースしたのはエディーで、イントロでスライド・ギターを弾いてるのもエディーらしいです。当時は契約の関係でひた隠しにしておかなければいけなかったそうですが、最近ではドゥイージル(2008年にザッパ・プレイズ・ザッパで初来日した際に、横浜Blitzの楽屋でそう話していました)とエディー双方がこの話を解禁しています。
後半のレイ・マンザレクとイギー・ポップの話に登場するダニー・シュガーマンは、1970年代にドアーズ好きが高じてバンドのマネージャーになり(もちろん、ジム・モリソンの死後)、その後、イギー・ポップのマネージャーだった時期もあるようです。ジェリー・ホプキンスとの共著で『No One Here Gets Out Alive』というジム・モリソンの伝記を書き、オリヴァー・ストーン監督の映画『ドアーズ』にも関与し、1991年には『Appetite for Destruction: The Days Of Guns N'Roses』というガンズ&ローゼズの本も出していますが、肺ガンを患い2005年に亡くなっています。
ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第16回:ヴァン・ヘイレンにメジャー契約を阻まれたぜ
文:ビンキー・フィリップス
思い返すと、あの瞬間のニューヨーク・シティーはとてもクリエイティヴだった。一度にいろんなことが起こり、オレはその真っ只中にいた。今回は、ライノから出たオレの本『The Story of a CBGB Almost-Was』から、1970年代のグラム/パンク/ハードロック/ニューウェイヴのミクロなことからマクロなことまでの体験談の一部を抜粋しよう。
1976年の春。オレのバンド、ザ・プラネッツは、ニューヨーク中でライヴ活動を行なうようになって約3年が経ち、まさに勢いづいていた。CBGBやマクシス・カンザスシティーでのギグでも動員が増えていき、平日の晩にはヘッドライナーとして、週末には「スペシャル・ゲスト」として出演するまでになっていた。そして、複数のレコード・レーベルが噂を嗅ぎ付けてやって来るようにもなっていたのだが、ひとつ問題があったらしかった。
ザ・プラネッツのヴォーカリストとベーシストは黒人だったのだ。ふたりとも背が高く、スリムでスタイルッシュで、カッコイイ奴だった。もちろん、超リベラルなショウビジネス界ではその件をストレートに口にする奴は皆無で、「キミたちいいね。でも、ヴォーカリストはあまり合ってないんじゃないかな」とか「う〜ん、キミのバンドはルックスが…う〜ん、とても面白いね」なんて感想を言われたものだ。
プリンスが《ダーティー・マインド》を発表して、黒人がロックンロール・ギターをプレイするのを当たり前のことにしたのは、少なくとも5年後のことであり、当時のニューヨーク・シティーのA&Rマン連中は扱い方に困っていたのだ。ニューヨークで生まれ育ち「白も黒も関係ねえだろ」という意識だったオレは後になってから知ったのだが、そういう考え方の人ばかりではないアメリカの田舎の保守的な地域のことも、彼らは考慮しなければならなかったのだ。
しかし、ある普通の平日の晩に、ワーナー・ブラザーズ・レコードの重役で、カリフォルニアで活躍するA&Rマンのボブ・レガーがニューヨークにいて、オレたちが演奏をしている時にCBGBに立ち寄った。バンドの親友であり初代マネージャーだったボブ・マーリス(今はワーナー・ブラザーズ広報部の重役)から、ミスター・レガーはオレたちのことをかなりプッシュされてもいたらしい。ありがとう、ボブ。
ミスター・レガーはオレたちのセットの後にバックステージにやって来て、ニコニコしながら自己紹介を始めた。ローリー・アンダーソンやリッキー・リー・ジョーンズと契約したのは私なんだ、セックス・ピストルズっていうイギリスのバンドもね、とかさ。それから何と、ザ・プラネッツと契約したいとも言い出した。数週間もしないうちに、ボブ・レガーは約束通りに、デモ・テープ制作用の金、5,000ドル(2013年現在では約20,000ドルに相当する金額だろう)を用意した。
【ザ・プラネッツ at CBGB 1976年】
1カ月後、ザ・プラネッツは世界的に有名なレコーディング・スタジオ、レコード・プラントに入り、KISSのエンジニア、コーキー・ステイシアックと一緒に5曲録音した。カリフォルニア州バーバンクにあるワーナー・ブラザーズ本社で、デモの評判は上々だったと知り、オレたちは興奮した。
A&Rの重役ボブ・レーガーから訊かれた。誰にアルバムをプロデュースしてもらいたい?と。メンバー全員、世界中でヒットした〈ボーイズ・アー・バック・イン・タウン〉が入っているシン・リジーのニュー・アルバム《ジェイルブレイク》を超気に入っていたので、彼らのプロデューサー、ジョン・オルコックにプロデュースしてもらいたい、とレガーに言った。レガーもそれはいいアイデアだと言った。
驚いたことに、ワーナー・ブラザーズ・レコードは、まずジョン・オルコックのマネージャーを呼び寄せて、ブルックリンのベイリッジにある高校で行なったショウを見てもらった。これはオレの生涯で最も盛り上がったショウだった。ギター・ソロのたびに、高校生たちは半分暴動のようになり、ステージのほうに押し寄せた。当然、マネージャーのブローク氏はザ・プラネッツを気に入り、ミスター・オルコックにオレたちの可能性を伝えた。
ワーナー・ブラザーズは今度は、身長6フィート5インチの威圧感のある体格のミスター・オルコックを、ロンドンからニューヨークに呼び寄せた。彼はマクシス・カンザス・シティーの平日夜のショウにやって来た。こんなに緊張したことはいまだかつてなかったが、オレたちは手堅くB+かA-レベルのパフォーマンスはやり遂げた。出番が終了した後に楽屋に戻ると、オルコックがドカドカ入って来て椅子に座り、すぐにレコーディングしようと言った。そんな感じだったのだ。ヴォーカルのタリーは、おいおい泣き出してしまった。それまでぶっきらぼうだったオルコックも、打ち解けた態度になっていた。もう有頂天だ!
ジョン・オルコックはロンドンに戻ると、ザ・フーのレコーディング・スタジオ、ランポートを予約した。ザ・フーのスタジオだぜ! 有頂天よりもさらに上の有頂天だ!
ワーナーの法務部はオレたちの契約をまとめ始めた。しかも、ザ・フーと同じ弁護士、アイナ・メイバックがオレたちも担当していた。
ところがだ…。ロサンゼルスで活躍するワーナー・ブラザーズのA&Rマンの重鎮、テッド・テンプルマンが、1カ月の休暇から戻って来たので、誰かがザ・プラネッツのデモを聞かせたところ、テッドはその場でキレてしまったのだ。彼はレーベルの責任者であるモー・オースティンのところに行き、ワーナー・ブラザーズはザ・プラネッツとは契約しないようにと要求したのだ。
つまり、どういうことだったのかと言うと、テッドはワーナー用にギター・ヒーローのいるとあるバンドと契約し、作品のプロデュースも行なっており、もし他にもギター・ヒーロー系のバンドが候補としていたら、自分のバンドを他のスタッフからフルで応援してもらえなくなってしまうのではないかと恐れたのだ。テッドのバンドはヴァン・ヘイレンといった。1カ月のほどの間、部下たちからあることないこと言われ続けた後、モー・オースティンはボブではなくテッドの側についた。
あの頃は、エディー・ヴァン・ヘイレンにレコード契約を吹き飛ばされて、死にたくなるほど超ガッカリした。しかし、ザ・プラネッツとオレのギターがエディーとデイヴ、マイケル、アレックスのインパクトを減じてしまうかもしれないと、ヴァン・ヘイレンのプロデューサーが本気で思ってたっていうんだぜ。今になって思うと、何て光栄なことだろうか!
* * * * * *
オレのほうからオファーを断った話もしようか。だって、あの時は自分のバンド、ザ・プラネッツがまもなく確実に栄光を掴むと思っていたんだからさ。
2013年では25,000ドルに相当する予算と、ワーナー・ブラザーズ・レコードのほめ言葉(そのかわり、向こうは断る権利も持ってたんだけどさ)をもらって、ザ・プラネッツはKISSのエンジニアであるコーキー・ステイシアックとともに、世界的に有名なスタジオ、レコード・プラントに入った。6時間のセッション3回で作った5曲入りデモは、カリフォルニア州バーバンクにあるワーナー・ブラザーズ本部で評判は上々と聞いて、オレたちは興奮し、明るい見通しと自信にあふれかえっていた。
豪華なサウンドで好評だったデモを完成させた数週間後に起こった面白いことがある。このエピソードを読めば、あの頃のオレのギター・プレイがいかに凄かったのか、必ずお分かりいただけよう。痛(イテ)ッ、ドアの枠に頭ぶつけちまった。
さて、ドアーズのマニアならダニー・シュガーマンという名前をご存じのはずだ。ロサンゼルス出身のダニーはナンバー・ワンのドアーズ・マニアだ。彼はジム・モリソンの伝記『No One Here Gets Out Alive』の共著者として結構有名になった。
1976年後半に、シュガーマンは当時とてもトレンディーだったダウンタウンの音楽シーンをチェックするためにニューヨーク・シティーにやって来ていて、CBGBでザ・プラネッツを見た。ショウの後、彼はバックステージにやって来て、口から泡を吹きながら自己紹介をした。何のドラッグをやってハイになってたのかは分からないが、とにかく超早口で、オレたちプラネッツのことをまくし立てていた。「オーマイガッあんたのショウ超良かったぜロスに帰ったら皆に話すよビンキーあんたマジ凄(すげ)え気に入った超ロック!…」
あのぉ、そのぉ、お会い出来て光栄です、ダニー。でも、オレたち機材の片付けが残ってるんで…。ということで、その場ではさよなら。
約10週間後、どこでどうオレの電話番号を知ったのかは分からないのだが、ダニーから突然連絡があった。こいつはだいたいこんなことを言っていた:「ヘイ、ビンキー。今、レイ・マンザレクとイギー・ポップと一緒にいるんだぜ[ここでレイとイギーがハローと言う]。まだ誰も知らないことなんだけど、彼らはナイト・シティーっていうバンドを始める予定で、ギタリストは絶対にビンキーがいいってオレが言うと、ふたりとも賛成してくれたんだ。あんたしかいないって」[ダニーはふたりにワーナー・ブラザーズ用のデモを聞かせてもいた。どうやって手に入れたのかは不明なのだが]
すると今度はレイが電話に出て、学者みたいな落ち着いた口調でこう言った:「そうだ。これで行こうって決めてるんだ、ビンキー。皆、キミのプレイを気に入ってる。ダニーも、キミのショウはとても良かったと言っている。出来るだけ早くキミにロスに来てもらって、このプロジェクトを開始したい」
次にイギーが割って入ってきた:「ヘイ、ビンキー。イギーだ。なあ、一緒にやろうぜ。こっちはやる気満々さ。こっちへ来いよ、オレとオマエとレイ。そして、ダニーもスタッフだ。オマエも参加するだろ。なあ。お願いだよ」
オレは礼儀正しく、非常にうれしい話だが興味はありませんと答えた。確かに、彼らからのオファーを断るなんて正気の沙汰じゃないことは分かっているが、ダニーとレイ、イギーから説得されている間も、オレは口には出さなかったが、ザ・プラネッツはワーナー・ブラザーズと契約するんだ、オレのバンドだ、オレの曲だ、って思っていた。
レイはやさしく穏やかな物腰で、こういう話があることを忘れないでくれと言ったが、一方、ダニーはマジかよ!と早口でまくし立て、イギーはキレてしまった。
「何だと! オマエ、オレたちをバカにしてるのか? おい、次のギグの予定はいつだ?」
オレはイギーに、次の木曜日にCBGBでプレイする予定だと告げた。
「わかった。そこに行く。オマエがダニーが言う通りのギタリストだったら、オレの手でオマエをロス行きの飛行機に押し込んでやる。わかったか。じゃあな」
ダニーはあたふたしながらも、会話を軽い調子で終わらせようとした。
受話器を置いた後、オレは思った。「メンバーにもこのことを話してやろう。きっと気に入ってくれるだろうなあ」その通りだった。べーシストのアンソニー・ジョーンズにいたってはこんな反応だった:「オレたちなんか裏切っちまえよ、ビンキー! こっちのほうをやるべきだ」アンソニーってこういう友達思いな奴なんだ。
【1977年頃:イギー・ポップ、ダニー・シュガーマン、レイ・マンザレク】
さて、場面を次の木曜日のCBGBのバックステージに移そう…。
ザ・プラネッツのメンバー全員が楽屋のウェイティング・サークルにいて、ステージに出る1、2分前という時だった。ローディーをやってくれている友人のひとりが息を切らして駆け込んで来たのだ。「ぶったまげた! イギー・ポップが今、入って来たぜ!」
マジ?!
オレは本当に驚いた。イギー・ポップがオレのプレイを見るために、本当にロスから飛んで来たのだ。「あっ、そうそう、ヒリーから登場の指示が出てるよ」
ザ・プラネッツはステージに出た。
オレは最初から最後まで、愚直なまでに「これはオマエにはやらねえぜ」的な態度を貫き、どの曲の時も肩で風を切るようにステージ上を闊歩し、これ以上ないくらいワイルドで派手なソロを弾いてやった。もちろん、これは完全に逆効果だったが…。
セットを終えてバックステージに戻り、アンコールをやるかどうか考えていると、突然、イギー・ポップが狭くて窮屈なこのエリアに入り込んで来た。イギーはボロボロのジーンズに汚い白のタンクトップといういで立ちで、左の眉毛の上にはかさぶたが出来かかっている1インチ長の傷があった。右目はオレを見ていたが、左目は傷の下で泳いでいた。イギーは吠えた:「いいか、よく聞け! オマエのバンドを前座にしてやろう。どうだ。それでいいだろ。なっ。さぁ、ロスに来るんだ!」
もし、あの半乾きの傷と泳いでる目がなかったら、オレは説得されて一緒に行ってしまったかもしれない。しかし、悲しいことに、イギーはそばに寄りたい人というよりは、そばから逃げ出したい人だった。
約1週間後に、レイ・マンザレクから再度電話があった。この時も柔和な口調で、話がまとまらなかったのをとても残念に思っているが…キミは本当にそれでいいのか?と訊いてきた。ダニー・シュガーマンからは以来、全く音沙汰なはない。
その後、レイとイギーは仲違いした。ナイト・シティーは約1年後に20thセンチュリー・レコードからアルバムをリリースしたが、メンバーの中にレイ・マンザレクはいたものの、イギー・ポップはいなかった。アルバム中の2曲にはダニー・シュガーマンの作曲クレジットがあった。結局、このバンドは崩壊した。
だから、オレが逃したチャンスはそんなに大きなものではなかったと思う。そうだよね? そうだと言っておくれ。
【参考資料:ナイト・シティ】
追記:バンドの会計士から連絡を受けた連中によって行なわれる再結成ツアーっていうものは、オレは昔から嫌いだ。しかし、レコード会社に勤めている友人から、オマエのためにチケットを取っておいたんだから是非と熱心にすすめられたので、断ったら悪いなあと思いながら、ストゥージーズ再結成ツアーのニューヨーク初ライヴを見にローズランド・ボールルームに行った。2003年8月末のことだ。嬉しいことに、素晴らしいと書くことが出来るショウだった。この時、特に素晴らしかったのがギタリストのロン・アシュトンなのだが、彼がもうこの世にいないのはとても悲しい。
ガキの頃にストゥージーズのファースト・アルバムを聞いてぶったまげたことは、今でも鮮明に覚えている。ブルー・チアーとヴェルヴェット・アンダーグラウンドが出会ったようなサウンドを、オレは超気に入った。
さて、再結成ショウの後半で、具体的に何の曲の時だったかは忘れたけど----ストゥージーズの往年の名曲だったことは確かだ----イギーはステージから客席に飛び込んで、ステージの右側にあるVIPエリアにあがり、キース・ムーン級の狂乱としか形容出来ないやり方で、そこを目茶苦茶にし始めたのだ。飲み物がたくさん置いてあるテーブルをひっくりかえしたり、人の上に覆いかぶさったり、椅子に座っている連中を男女問わずそこから引きずり降ろしたり、驚いてる業界人ぽい連中を床に押し倒したり、まさにイギー・ポップここにあり的な修羅場をひとりで作り出していた。気取った業界人をなぎ倒すのが終わると、イギーはVIPエリアの向こうの端から一般の客席に飛び込み、大喜びの群衆の上でモッシュ・サーフィンを開始した。
オレはステージから少なくとも100フィート以上は離れていたのだが、気がついたらイギーはオレのほうに向かってサーフィンしてくるじゃねえか。そして、数秒後、観客の頭の上からオレを見下し、わずか2フィートしか離れてないところから、オレと目を合わせながら、超大きな声で「ラァァァァァァァ!」と叫んだのだ。オファーを断ったオレに対して、イギーはまだ腹を立てていたのだろうか? いや、そんなことはないだろう。 あの時のあの野郎だとは気づいてすらないはずさ。
Copyrighted articles "1977: My Band is Signing With Warner Brothers Records! Thin Lizzy's Producer is Set to Do Our Album! In London! At The Who's Recording Studio! And... Then..."
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/1977-my-band-is-signing-w_b_2695193.html
"1977: Iggy Pop and Ray Manzarek Want to Start a Band With Me" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/1977-iggy-pop-and-ray-man_b_2741663.html
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