2013年04月21日

NY Rock'n'Roll Life【17】ピンク・フロイドの爆笑インタビューに同席したぜ

 ピンク・フロイドのデータを集めた「BRAIN DAMAGE」というウェブサイトによると、ニューヨークでは1971年11月5日と15日にコンサートを行なっているので、ビンキー一行がミッドタウンのホテルに滞在中のピンク・フロイドのメンバーを訪ねたのは、どちらかの日の昼間でしょう。

BRAIN DAMAGE - pink floyd news resource
http://www.brain-damage.co.uk/concert-dates/1971-tour-dates-concerts.html

 ピンク・フロイドのインタビューというと、下記のページに書いてあるようなイメージばっかりなので、コミカルな姿は貴重ではないでしょうか。

日本公演 素顔のメンバーたち
http://www.avis.ne.jp/~fancysc/column25.html

フロイド語録 対メディア編
http://music.geocities.jp/fancyscope2/floydsayings-309.html

 メンバーがホテルのルームサービス相手に行なっていた悪ふざけについて書いてありますが、レッド・ツェッペリンの暴れっぷりと比べたらカワイイもんです。デヴィッド・ギルモアがアメリカ人であると書かれていることについては、どういう経緯があってビンキーがそう思っていたのかは不明です(メンバーにかつがれていたのか?)。
 この時行なわれたインタビューは有名な詩の雑誌に掲載されたらしいですが、ビンキー本人の記憶からもなくなってしまったこの雑誌のタイトルや掲載号、記事に関する詳細を、もしご存知の方がいらっしゃったら、是非ご一方ください。



ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ

第17回:ピンク・フロイドの爆笑インタビューに同席したぜ

文:ビンキー・フィリップス


 1971年秋の、あるさわやかな日の話をしよう。当時、オレの友人というよりは兄貴もしくは師匠のような存在だったジョン・テイラーがリード・ヴォーカル、オレがギターでバンドを組もうとしていた。そして1年後には、このバンドがザ・プラネッツになったんだ。ジョンは小規模ながらとても権威のある詩の雑誌とちょっとしたコネがあって、作品をいくつか載せてもらったりしていたと思うのだが(実際、ジョンはとても優れた詩人だった)、とにかく彼は口八丁手八丁で、ロックの中で最も「詩的」なバンド、ピンク・フロイドのインタビューを掲載すれば雑誌にとってかなりプラスである、そして自分こそインタビュワーとしてうってつけの人物だと、編集部の人間を説得したのだ。
 この雑誌はそこそこ有名だったので(オレは名前を覚えてないんだけどさ)、ピンク・フロイドの宣伝係もすんなりOKを出し、《おせっかい》ツアーのニューヨーク公演の行なわれる日の午後にインタビュー取材を行なうことになった。
 指定された日に、オレはジョンと彼のガール・フレンド、スコッティーのあとを喜び勇んでついて行った。場所はミッドタウンの大きなホテル。エレベーターで上にあがり、ロジャー・ウォーターズのだと言われた部屋のドアをノックした(ロジャーなら面白そうだな)。ロジャーがドアを開けてオレたちを中に入れてくれたのは予想通りだったが、息が止まるほどビックリしたことに、他の3人のメンバーも部屋のあちこちに座っていたのだ。
 彼らは皆、黒もしくはネイヴィー・ブルーのTシャツ、暗い色のスラックス(ジーンズではなかった)、グラニー・テイクス・ア・トリップ製の落ち着いた雰囲気の黒のブーツ(かかともそんなに高くなく、2インチくらいだった)という具合に、殆ど同じ格好をしていた。まるでユニフォームであるかのように。ピンク・フロイドのメンバーは優雅で堂々としていたが、このホテルの部屋はとても狭苦しい場所だった。
 4人ともオレたちのほうをじっと見ている。そんなに敵意を持ってそうではなかったが、「詩の雑誌? こいつら一体何者?」という警戒のオーラが、最初の15秒の間、フロイドのメンバー全員から放射されていた。
 しかし突然、「ハロー!」「元気!」「ウゥ〜、詩人の皆さんのお出ましだ!」というモンティー・パイソン風の叫び声が、突然陽気になったピンクたちから発せられた。彼らはオレたちをからかっていたのだ。この瞬間、オレは彼らが好きになった。
 その頃、既に大物バンドだったピンク・フロイドは、さらに大きくなろうとしていた。オレたちは大ファンだったので、この時は、嬉しすぎてあわあわしないよう、精神的に調整が必要だった。
 オレたちは自己紹介して、彼らに対する表敬の言葉を述べた。それから「オレたちのバンドは…」という話もした(これでミュージシャン同士という仲間意識も少しは出来たはずだ)。
 ピンク・フロイドの4人は立ち上がってオレたちと握手すると、2つのベッドの上にドスンと腰を降ろした。デヴィッド・ギルモアとニック・メイスンがひとつのベッドに、リック・ライトとロジャーが別のベッドに座った。オレはホテルの部屋には必ずあるライティング・デスクの椅子に座ったので、デイヴィッドとニックのほうに近かった。一方、インタビュワーのジョンとスコッティーは、1時間ほどの間、ベッドの間の床に座っていた。
 皆が腰を降ろした時に、オレはデヴィッドに、約8週間前の8月のある日に、ロンドンのキングス・ロードにあるグラニー・テイクス・ア・トリップの外で会って話したよね?と言った。彼は一瞬オレをじっと見た後、あぁ、覚えているよと言ってくれた。たぶん社交辞令であろうが、デヴィッドからそんなふうに気をつかってもらえて、オレは愉快で嬉しかった。
 皆が自分の位置に着いてくつろぎ始めるやいなや、オレたち(オレとジョンとスコッティー)は、ピンク・フロイドのメンバーから、彼らがやっているアメリカ訛りコンテストの審査員になってくれと頼まれた。エッ? そんなくだらないことをやるの? オマエら知的で威厳のあるピンク・フロイドじゃないの?
 オレたちは、ニックとロジャーとリチャードがかわるがわるルーム・サービスに電話をかけて、食べ物を注文するのを眺めた(デイヴィッドはアメリカ人なので参加しなかった。彼のイギリス訛りは当時はまだとてもマイルドだった)。まず、ニックが電話をかけたのだが、完全にやりすぎだった。「チィーズブーグアに付け合わせ全部、それからチャクリット・マルクシェイク!」皆、クスクス笑い出した。
 「全然ダメだよ、ニック。こうやるんだ。よく聞いてろ」ロジャーは傲慢な口調で言うと、ルームサービスに電話をかけた。「イェ〜、ベイビー。またまた2303号室だよ。トゥナー・サルーダ・サムウィッチとフライを少し。それから、カーフィーを大きなポットゥで。おっと、それから、トモダチ用にカーフィー・カップもいくつかお願いね〜」
 4人とも、このゲームをやりながら笑いが止まらなかった。今度はリチャードがトライしたが、うまくやれなかった。彼は二言三言もしゃべらないうちに笑い出してしまった。
 そして、この後、オレたち詩人インタビュワーはアメリカ製リーファー(紙に巻いたマリファナ)を取り出した。でも、インタビューもしっかりやったんだぜ。フロイドのメンバーが全員参加してさ!
 殆どの時間、オレは質問しないでおとなしくしていたが、何度か簡潔にして要を得た悪臭弾的な言葉を発しては、話の流れを変えた。オレはふざけて脱線してばかりいたが、ジョンはこのインタビューにゴー・サインを出してくれた詩の雑誌の基本ヴィジョンに忠実であり続けようと努力した(もちろん、インタビューの真の目的はピンク・フロイドに会うことだったんだけどさ)。その結果、彼が超難解な質問をすると、超難解な回答が返ってきた。
 オレは飽きてしまい、大方のところは口をつぐんでいたのだが、ピンク・フロイドからアイデアをパクってると思しきバンドの名をあげて、こきおろしてみた。しかし、フロイドのメンバーは如才なく忍びやかな発言をしただけだった。
 ある時、オレはデヴィッドに聴力低下を防ぐ方法について質問してみた。オレは巨大なハイワット200から音を出してギターを弾く時には耳栓をするようにしたのだが、オレの知ってる連中で、そんなことをしている奴はひとりもいなかったから、どうして?と思っていたのだ。ギルモアの回答は曖昧で的を射てなかった。ロジャー・ウォーターズはもっと具体的に答えろよとギルモアを叱った。
 「デヴィッド、この人がせっかく超いい質問をしてるのに、オマエは全然いい回答をしていない。この人が知りたいのはね、(叫びながら)どうして…オマエは…耳が…聞こえ…ないんですか?…ってことだよ。デヴィッド!」
 一同、爆笑。
 ロジャーは自らすすんでバンド内のツッコミ係になり、それを楽しんでいるようだった。
 オレはまたギルモアに、ロンドンで何年も暮らしててイギリス訛りのしゃべり方にならないのは結構大変なことなのかと訊いてみた。すると、上品でもったいぶったイギリス訛りで「そうですねえ、かなり難しいですかねえ」と返ってきた。ここでも全員大爆笑。

  

 それから、ジョンは次のようなことを質問した。「ピンク・フロイドには、奇妙キテレツなロックが収録されている最初の3作品を好きなファンもいます。しかし、《原子心母》はとてもクラシック寄りであり、初期フロイドのファンとの折り合いをどのようにつけようとしたのですか? ここにいるビンキーは、まさにそうした理由であのアルバムにはがっかりしているのです」
 すると急に、メンバー4人が激しくウソ泣きを始めた。
 「なんてことだ。オレたちはビンキーをがっかりさせてしまったのか? オー・ノー!」とデヴィッドが嘆くと、ニック・メイスンも叫んだ:「カミソリはどこにある? オレは全てを終わりにする」「トイレにあるから、オレが取って来よう」
 ロジャーは両手で顔を覆って、おいおい泣き出した。「ビンキーは私のこと嫌いなのね!」
 オレたちは皆、ハイだった。とてもおかしい光景だった。
 もうひとつはっきりと覚えているのは、オレたちが粋な質問をした時など、メンバー同士が顔を見合わせ、畏敬の念に打たれた様子で、「こんなこと、今まで誰にも訊かれたことない。どうしてこいつらが知ってんだよ!」みたいなことを言いあってる場面が、少なくとも4、5回はあったのだ。彼らはとても驚き、本当に回答に窮していた。
 あの頃は、オレも友人連中も皆、ピンク・フロイド・フリークで、このバンドのことなら何でも知っていた。バンドに関する超詳しい知識でメンバー本人をビックリさせるのはとても楽しく、かつ、より大きな自信へと繋がった。
 終了の時間となり、デヴィッドとロジャーは、オレたちが行なったインタビューはいつもとはかなり趣向が違って面白かったという感想を言ってくれた。リックとニックも「うん、うん」とうなづいていた。
 ピンク・フロイドがしばらく後になって超反目状態で終焉を迎えたことを考えると、この頃はメンバーはとても仲が良かったようだ。ロジャーは時折、条件反射的に鋭い言葉を発しはしていたが…。このインタビューはオレの大切な思い出だ。
 それから間もなくして、オレは周囲の大評判に逆らうように、《狂気》を聞いてピンク・フロイドからは遠ざかってしまった。オレにとっては、彼らの初期の作品こそ不朽の名盤なのだ。

* * * * *


  

 話を早送りして、《狂気》に関して2011年に起こった出来事について話そう。キャピトル・ミュージック・グループのレイ・グマイナーは、オレの目をいろんなものに向けさせてくれたということで、足を向けてhは寝れない人物だ。昨年(2011年)、レイのすすめがあったので、ニューヨークにあるヘイデン・プラネタリウムに行って、ピンク・フロイドが1970年代前半にウェンブリー・スタジアムでライヴ・レコーディングしたの《狂気》のDVD/CDの、特別なリスニング・パーティーに出席した。
 アメリカ自然史博物館の天文学コーナーの超モダンな造りのロビーで行なわれていたカクテル・パーティーは、オレが到着した時には終わろうとしていた。レイはいつもの調子でオレをあたたかく迎えると、とても高級なグレイのスーツを着て目立っている人物を指さした。「ビンキー。あそこにいるの、ニック・メイソンだぜ。ちょっと挨拶して来いよ」
 あっ、本当だ! オレはニックのところに行き、名前を名乗った後、こんな話をした:「14歳の時にファースト・アルバムを買ったんですが、それはジャケットの皆さんがカッコ良かったのと、変なバンド名に惚れ込んだからなんです。[ここでニックは大きくほほ笑んだ]で、持ち帰ってステレオでかけてみたのですが、全然いいとは思いませんでした。全く理解出来なかったのです。1週間分のお小遣いを丸々無駄にしたと思いました。その頃、毎週土曜の朝になると、お袋にリビング・ルームのワックスがけをさせられていて、床に膝をついて、ブッチャーズ・ワックスをゴシゴシ擦り込んでいました。で、私は《夜明けの口笛吹き》をワックスがけ用の音楽にして、投資した分を取り返すことにしたんです。それで、毎週土曜日、このレコードを聞いているうち、徐々に理解でき、大好きになりました。今では、私にとってオール・タイムのトップ10アルバム中の1枚です」
 ニックはやさしくほほ笑んだ。
 次に、私は40年ほど前に詩の雑誌用に行なったインタビューの件を話したのだが、ニックは「詩の雑誌?」と少々いぶかしげな様子だった。それからオレが、ずっと楽しい音楽を創造してくれてありがとうと言ったら、ミスター・メイソンはこう言った:
 「いやいや。こちらこそお礼を言わなきゃ。ピンク・フロイドの音楽の聞き方を質問する人に、どう答えたらいいのかわかったからさ。床のワックスがけをしながら聞けばいいんだよな」
 この晩の後半のイベントについて殆ど何も書けないのは残念だ。オレたち(全部で200人ちょっと)は上の階にあるプラネタリウムに連れて行かれた。照明が消され、コンサートと同じくらいの音量で音楽が始まり、プラネタリウムの丸い天井には無数の星が現れた。
 オレは長年マーシャル・スタックの前に立っていたことが災いして内耳が傷つき、頭位眩暈症という問題を抱えているので、どのプラネタリウムでも行なわれてるようなこのライト・ショウによって体内ジャイロスコープが直撃を受けたのだ。数分もしないうちに、頭がグルグル回り、胃がかきまぜられ、耐えられなくなってしまった。オレがよろよろと席から立ち上がると皆がこっちを見たが、酔っ払いが出口にダッシュしているようにしか見えなかっただろう。その後、3時間も吐き気が続いた。
 しかし、耳に入ってきた音楽は素晴らしかった。レコードと殆ど同じだったが、このライヴ・バージョンには、オレがずっと気に入ってたのに、レコーディングでは殆ど聞いたことのない要素が詰まっていた。それはロジャー・ウォーターズのパンキッシュなベースだ。彼がガンガン演奏するベースは、ともすると優雅に進行しているだけになりがちなサウンドに、ゴツゴツとしたロック・フィーリングを加えていた。
 目眩を誘発する感覚攻撃から逃れた後、オレは道に迷って間違った階段を降り、アフリカのジオラマ・ルームに来てしまった。オレは象やガゼル、ライオンに囲まれながら、ひとりぼっちになってしまった。まるで、あのベン・スティラーの映画『ナイトミュージアム』のように。オレは今まさに、その自然史博物館の中にいるんだぜ。しかも、9時を過ぎている。オレがここにいることには誰も気づいていないだろう。オレはあちこちの階段を上がったり下ったりして、いくつかのホールをうろついた。オレしかいない場所。しかも、少々だがマリファナの持ち合わせもあった。しかし、目眩がして気分がすぐれず、トリップを楽しむどころじゃない。チクショウ! しかし、遂に出口を発見し、あわてている守衛に挨拶しながら外に出ると、まっすぐ地下鉄の駅に向かって帰宅した。

あまり関係ないんだけど、ちょっと面白い話:何年も前に、フロイドという名前の弁護士がいた。もう高齢で、怒鳴るような声で「Bink? Floyd…(ビンクさん? フロイドですが…)」と電話がかかってきた(少なくとも10回は)。その時、オレがどうして笑いをこらえているのか、その人は全くわかっていなかった。

Copyrighted articles "1971: Me and Pink Floyd in a New York Hotel Room" by Binly Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/1971-me-and-pink-floyd-in_b_2934315.html
Reprinted by permission
posted by Saved at 14:11| Comment(0) | TrackBack(0) | Pink Floyd | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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