ライ・クーダーが激渋スライドを披露しているアーリータイムズのCM、ジェリー・ガルシアの顔が超アップで映るパルコのCM、リンゴ・スターの「りんごすった!」に負けず劣らずの、記憶に残る名CMだと思います。
ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ
第18回:ビートルズの真似をしたソウル・ブラザー・ナンバー・ワン、ジェ〜イムズ・ブラウン!
文:ビンキー・フィリップス
自分で集めたさまざまな情報から推測すると、男は思春期直前もしくは思春期中に、生涯の大親友を見つける時期を向かえるようだ。1965年の時点では、アンディーが毎日のように会うオレの親友だった。
オレたちはいつも一緒だった。思い返すと、オレもアンディーもモンティー・パイソンもしくはDEVO的な、とても屈折している超現実的なユーモアのセンスを持っていた。こうしたアーティストが世に出てくる10年前にだ。それから、オレもアンディーも音楽が好きだった。当時、オレたちはイギリス訛りで歌うバンドだったら何でもかんでも大好きだったが、いろんなジャンルの曲のかかるオープンな形態のトップ40のラジオも長年聞き続けていたので、その結果、黒人アーティストの奏でるあらゆる種類の音楽も耳にすることになり、それが大好きになっていた。
6月下旬、学年が終わって夏休みに入った1日後か2日後だったと思うが(6月下旬以上に晴ればれとした気分になる時期なんてある?)、1日中アンディーのアパートメントに入り浸り、夕方になったので自分の家に戻って夕飯の準備をしていた時だ。おふくろがテーブルに料理を置いているまさにその時、アンディーから思いがけない電話がかかってきた。彼のおふくろさんのところに叔父さんから連絡があったとのことで、こんなことを言い出したのだ。
「ポール叔父さんが、今晩マディソン・スクエア・ガーデンで行なわれるジェイムズ・ブラウンのコンサートのチケット2枚持ってるんだって。一緒に行かない?」
行くに決まってるだろ!
オレたちのような、中流家庭で育った12歳のビートルズ・ファンの白人のガキでさえ、ジェイムズ・ブラウンが神様で、ソウル・ブラザー・ナンバー・ワンであることはよ〜く知っていた。J.B.は1965年前半に『T.A.M.I.ショウ』に出演し、爆発的なレベルで、ニューヨークでは既に超大物の地位を確立していた。
「だけど、次の10分の間にまたオレの家{おれんち}に来ている必要がある。いいかい」
おふくろがいいよと言ってくれたので行けることになったオレは、夕飯の一部をガツガツ口に放り込むと、3ブロックむこうにあるアンディー宅に急行した。
オレが到着した時には、アンディーと叔父さん(超粋なスーツを着ていて、小指にはダイヤと思しき指輪をはめていた)が既にアパートの外にいて、胴長の黒のキャディラックのリムジンの横で待っていた(キャディラックのリムジンに乗るのも生まれて初めてだぜ!)。
叔父さんはオレたちを会場に送り届け、終了後には拾ってくれるのだが、ショウを見るのはオレとアンディーだけとのことだった。彼の叔父さんが何をして暮らしているのかは分からなかったが(今でも知らない)、音楽業界にコネを持つ超偉い人であることは明らかだった。
MSGに到着すると、叔父さんはリムジンの運転手に待つように告げ、オレたちと一緒にチケットのもぎりのところを通過し、座席まで案内してくれた。叔父さんは自分のチケットを持っていなかったのに、止める人は誰もいなかった。
「それじゃあ、また後で。コンサート楽しめよ」と言って、ポール叔父さんは姿を消した。
マディソン・スクエア・ガーデンの空気は興奮でピリピリしていて、怖いくらいだった。先にも言った通り、これは1965年のことだ。15,000人以上の観客の中で、白人はアンディとオレ、2人だけだったかもしれない。ショウにはチケットがソールド・アウトになるほどたくさんの人が集まっていたので、正確に言うと、他にコーカソイド系の奴は見た記憶がないというだけで、肌の色という点で、白人は完全にオレたち2人だけというわけではなかったと思うが…。
ところで、これは昔の、オリジナルのマディソン・スクエア・ガーデンだった。そこそこ小奇麗なアリーナと、それをぐるりと囲む座席のある今のMSGではない(こっちもかなり老朽化してるけどさ)。旧MSGは天井までの高さが60フィート(約18メートル)の巨大な四角い倉庫のような建物で、高さ約6フィート(1.8メートル)、奥行き35フィート(約10メートル)、幅75フィート(約23メートル)のステージに正面には移動可能な椅子が数百列並んでいて、後方には壁に沿って階段式の観客席があった。ステージの左右にも、内側を向いている席が数百あった。
アンディーとオレの席は3列目だったが、ステージに向かって左端のほうで、ステージを完全に真横から見るような視界だった。ある時、オレは勇気を出して、素早く歩いて真ん中へんに行き、そこからステージ全体がどのように見えるのか確認した。正面から見る風景をざっと見渡していると、すぐ後ろにいた連中にからかわれたので(今になって思うと、特に敵意などないものだったのだが)、白人のガキは脅えて、そそくさと自分の席に戻った。
ショウは想像すらしたことがないほどの壮観だった。檻の中に4人のゴーゴー・ガールがいて、檻はステージの左右の端にひとつずつと、3人のドラマー(!)の上に2つあった。バンドにはベーシストが2人、ギタリストが4人、ホーン・プレイヤーが少なくとも10人、オルガニストが1人、パーカッショニストが2人…と、それこそワイルドだった。オーバー・ザ・トップを超えた状態。全てがピンクとオレンジ色で、目がクラクラするほどカラフルなコンボだった。ゴーゴー・ガールは白の毛皮のビキニとヒザまである白のブーツを身につけ、全員ありえないくらいグラマラスなアイケッツみたいだった(オレがアイケッツを実際に見たのは数年後だったが…)。彼女たちはショウの間中ずっと夢中で踊っていた(ホルモンによって理性が木っ端微塵にされるプロセス中の少年にとっては刺激が強かった)。女性のゲスト・ヴォーカリストが誰かは覚えていないが----超セクシーなリン・コリンズだったかもしれない----前座のヴォーカル・グループがマイティー・クラウズ・オブ・ジョイ(これより素敵なグループ名は思いつかないだろう)だったのは、確かに覚えている。彼らはクリームシクルのようなオレンジ色のスーツを着ていて(あの晩はオレンジがビッグだった)、この瞬間、彼らは最高のヴォーカル・グループだった。
【Mighty Clouds Of Joy】
黒人だらけのオーディエンスは感情を極めて豊かに表した。女の人はエッチなお願いを叫び、男は声援を送り、子供たちはわめき、多くの者が通路で踊っていた。オレの感覚器官では完全に入力過多になるほど会場は盛り上がり、オレは頭がクラクラするほどのエクスタシーに近い状態だった。
ショウの構成はとても変だった。『T.A.M.I.ショウ』の時と同じく、髪をコンク(ちぢれ毛を伸ばしてウェーブをかけた髪型)にしていたジェイムズは、ステージに登場して5〜10分間即興演奏を行ない、観客全員を狂乱状態にすると…ステージから去ってしまったのだ。すると、3組いたゲスト・アクトのひとつがすぐに登場し、3曲歌ってオレたちを落ち着かせると、またジェイムズが戻って来て、さっきと同じようなクレイジーな演奏を少し行なった後、スツールに腰掛けて〈我が心のジョージア〉といったスタンダード・ナンバーを歌った。と思うと、立ち上がって駆けてステージから去っていってしまった。またかよ!
4度目くらいにJ・Bが出て来た時には約1時間ステージ上にいて、セットリストは正確には覚えていないが、〈ブリング・イット・アップ〉〈ナイト・トレイン〉〈トライ・ミー〉〈パパズ・ガット・ブランニュー・バッグ〉〈アイ・フィール・グッド〉〈プリズナー・オブ・ラヴ〉などを歌ったと思う。
〈プリズナー・オブ・ラヴ〉を歌っている時、J・Bは曲のタイトルを熱くシャウトしながらマイクロホンからゆっくり遠ざかっていくという技を披露した。『T.A.M.I.ショウ』でやったのと同じだが、違っていたのは、『T.A.M.I.』のステージはガーデンのステージの5分の1ほどだった点だ。ジェイムズがマイクから離れていった際、本当に遠くまで離れていったのだ。オーディエンス、特に女性たちは大熱狂した。全身総気立つとはこのことだった。だって、観客が大騒ぎしてるというのに、J・Bの声が聞こえたんだから。マイクからは40フィート(12メートル)以上離れてたのに。凄え男だぜ!
[T.A.M.I.ショウより]
その時、変なことが起こったのだ。
ショウを見ていた時にふと気が付いたのだが、ギタリストのひとりがオレたちのほうをじっと見ていたのだ。写真を見たことがあるので確信しているのだが、ジェイムズのギタリスト・ナンバー1、伝説以上の存在のジミー・ノーランだ。とにかく、そいつがかなりご機嫌斜めのようなのだ。60秒くらいオーディエンスに背を向けてプレイしていると思ったら、手を止めて一瞬アンプをいじり、今度は振り返ってオレ(とアンディー)のほうを凄い目つきでじっと睨むのだ。しかめ面をしながら、丸々1分くらい、こっちをじっと見ていただろうか。それから、別の方を向いて少し演奏をして、また手を止めて、怖い目をこっちに向ける。1度は、ギターやバンドの他のメンバーのことなんかそっちのけで、腕組みすらしていたのだ。

こんなことが約5分続いた後、アンディーはオレに、帰ったほうがいいかなって訊いてきた。このギタリストの態度はそのくらい露骨だったのだ。実際の理由は分からないのだが、とにかくこいつが演奏の手を止めると、怖くて仕方なかった。ギターを置いて客席に来て、オレたちをボコボコにすつもりなのか?と感じたからだ。
しかし同時に、これは興味をそそることでもあった。バンドには罰金制度があり(靴をピカピカにみがいてない:25ドル、ビートをはずす:25ドル…)、J・Bがそれをメンバー全員に厳しく課しているのは有名なことだった。この怖いギタリストは数分ごとに3つか4つのルールを破っていただろう。こいつが誰だかは知らないが、そういうことをやっても罰金を課せられないほどの重鎮メンバーなのだろうか? とにかく、オレは今でもなおこの事態がいったい何だったのか全く理解出来てない。はっきりしていることは、見渡す限り、オーディエンスの中で白人はオレらだけだったということだ。
とにかく、遂に〈プリーズ・プリーズ・プリーズ〉の時間となり、群衆は超興奮状態だった。
ジェイムズはあのマント・アクションをやった。回を重ねるごとにマントは派手になり、投げ方もドラマチックになった。3つ目か4つ目のマントの後、J・Bが突然、オーディエンスに向かって大声でなにやら叫ぶと、前のほうの席にいた連中は皆、ステージに向かって突進した。J・Bはボディーガードを左右に従えながら、下の方に手を伸ばし、皆と握手を始めた。
そして、最後のマント・ショウを行ない、もう1度それを投げるとこう叫んだ。「オレの親友たちともう1回握手をしたい!」
この叫びを聞いた瞬間、オレは何も考えず、自分の席から飛び上がってステージに駆け寄った。ジェイムズはオレのほうにゆっくりやって来た。オレは手を出来る限り上にあげると、J・Bは超うれしそうな表情をしながら手を下に伸ばした。そして、オレの手をぎゅっと握って力強く握手をしながら、あのコンク状態の髪を揺らして、ビートルズが「ウー!」って歌いながら頭を振るあのしぐさのパロディーをやってくれたのだ!(もちろん、オレのヘアスタイルはバリバリのビートルズ・カットだった)この2秒間に、オレはJ・Bの汗でずぶ濡れになり、スプリンクラーの中を全力で駆け抜けたような状態になってしまった。
オレは汗だくの興奮状態で自分の席に戻ると、30秒もしないうちにジェイムズはステージを去り、客電がついた。バンドのメンバーもいなくなった。観客は皆、ゆっくりと平静状態になり、日常へと戻っていった。
* * * * * * * * * *
あれから何年も経ち、オレが22歳になり、会社の事務員をやりながらロック・スターを目指していた頃だった。
ある日、会社のオーナーのおつかいで出かけていたのだが、その通り道には西33丁目の(新しい)マディソン・スクエア・ガーデンがあった。8番街の東側にあるステージドア付近を通りかかった時、若いストリート系の黒人が数人、誰かを囲んでいるのが見えた。彼等が興奮のバイブレーションを発しているので、オレはどうしても向こうに歩いて行ってチェックしたくなった。10人ほどの人だかりの中心にいたのは…ジェイムズ・ブラウンであった。
オレはそれこそたくさんのセレブを間近で見たことがあるが、J・Bの顔は直に見ると、わけがわからないほどパワフルだった。実際に近くで見て、オレに精神的に強烈なパンチを食らわせた顔は、J・Bの他にはピート・タウンゼントとジャッキー・O・ケネディー、エド・サリヴァンの3人しか思いつかない。オレは圧倒されながらも、どうにか気を落ち着かせて、ペンと、その時持ってた唯一の紙(私がおつかい先で受け取ることになってる何かのインボイスだった)を取り出し、今だという瞬間に、ミスター・ブラウンにサインをおねだりした。
ジェイムズはニコニコしながらオレと握手をしてくれた。
「何て名前だ、ブラザー?」
「ビンキーです」
「こいつはビンキーっていう名前だそうだ」J・Bは回りの連中に向かって言った。陽気な笑い声が起こった。
それから、ジェイムズはサインを書き始めた…。
「ブラザー、ビンキーへ。人生の道にはさまざまな紆余曲折が…」と次から次へと何かを書き続けた。他の連中は明らかに、早く自分の番が来ないかと待ちきれない状態になっていた。こんなにたくさんメッセージを書いてもらえるなんて、こいつ何物だ?と、不愉快ながらも好奇心すら芽生えてきていたかもしれない。まあ、その疑問はオレも感じ始めてたんだけど…。
J・Bからインボイスを返されたオレは、メッセージにざっと目を通してみた。面食らったことに、J・Bはオレに手紙を書いてくれていた。建設的な内容の常套句だらけだったが、かなり傾いている細かい文字でびっしり書いてあり、最後に大きく大胆な筆致でサインがあった。オレはJ・Bに十分お礼を言うと、会社に戻った。
で、この後起こったことは、今考えても悔しくて仕方ない。オレは5時ちょっと前にオフィスに戻ると、ボスに言われるがままインボイスを渡し、その日は帰宅してしまったのだ。そして、アパートメントに帰るやいなや、ガールフレンドにジェイムズ・ブラウンが書いてくれたメッセージを見せたいと思ったのだが、その時だった。ボスに渡したあのインボイスだ、と気づいたのは。もちろん、翌朝出社した際にボスに訊いたが、前の晩のうちにそれは捨ててしまったという。あのメッセージは永遠に失われてしまった。
おわりに:永遠の喪失の話をしよう…。ジェイムズ・ブラウンは2006年のクリスマスの朝に亡くなり、その2日後に、オレは女房と一緒にアポロ・シアターに行った。125丁目のストリートには、ジェイムズの偉業に値するたくさんの群衆が集まった。黒人、白人、アジア系、ラティーノ、若者、老人----ゆうに5万人以上がやって来て、実際に列に並んだり、列がゆっくりとシアターの中に進んでいき、ジェイムズの棺の前を通る様子の同時中継を見たりしていた。数百人単位で次々に弔問の人が到着するので人の流れが出来ており、来る者は拒まず、あたたかい、ニューオリンズ風の葬列のようなお祭り的な雰囲気すらあった。あたかも、20世紀において最もエキサイティングで、最も楽しい、最もセクシーな音楽を創造したのがジェイムズ・ブラウンだということを、この人物の死去によって我々全員が思い出したようだった。あらゆる店やラジカセからはジェイムズ・ブラウンの音楽が大音量で流れていたが、こういうかたちでJ・Bの曲を聞いても、昔から毎回そうしてたように、どうしてもほんの少しは体がダンスしてしまうのだった。白人警官やレイチェル・ワイズでさえもが頭でリズムを取り、人々と談笑しているのを、オレは目撃した。
その数日後には、親友のデニーからも電話があって、ジェイムズ・ブラウンがいかに重要なアーティストだったのか説明を求められた。こいつは音楽が大好きなのだが、時々、その歴史に疎いことがある奴なのだ。
この時、オレはまずこう指摘した。過去40年間のポピュラー・ミュージックの約85%は、ジェイムズ・ブラウンから直接的影響を受けており、あからさまにパクってる場合も多い。まだ理解出来ない?
ジェイムズ・ブラウンは、非常に複雑なリズムとトランスのようなリピートを多用した完全にオリジナルな音楽を発明し、極めて優秀なアレンジャー及びパフォーマーでもあった。まだ十分な説明じゃない?
ジェイムズ・ブラウンはミュージシャン以上の存在であり、全ての分野を包含するシンボルだった。たとえるなら、ポップ・ミュージック界のジャッキー・ロビンソンだ。デニーは大の野球ファンなのだが、それでもわからないの? なら、もうお手上げだ。どうして空は青いのかなあ…。
Copyrighted article "National and International Known, the Hardest Working Man in Show Business, Soul Brother Number One... Jaaaaaaaaaaaames Brown!" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/national-and-internationa_b_866202.html
Reprinted by permission.
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