ハーヴィー・ブルックスはボブ・ディランの《追憶のハイウェイ61》でベースを弾いてる他、さまざまなアーティストの作品(主にコロムビアからリリースされている)のレコーディング・パーソネルでよく名前を見かけます。
アメリカの人気サイト、Examinerでボブ・ディランの動向をフットワーク軽く、細かく追いかけてるハロルド・レピドゥスさんから、ハーヴィー・ブルックス・インタビューの翻訳掲載の許可をいただきましたので、ここに紹介します。元の記事はハーヴィーの誕生日(アメリカ独立記念日でもある7月4日)に合わせて上記のサイトで3回に渡って掲載されたものですが、トム・ラッシュのドキュメンタリー映画の公開に合わせて秋に掲載されたものも追加してお届けします。
ディラン、マイルス、ジミヘンと共演したミュージシャン、ハーヴィー・ブルックス・インタビュー
聞き手:ハロルド・レピドゥス
音楽ファンなら、コレクションのどこかにハーヴィー・ブルックス関連の作品を持っていることだろう。ハーヴィーはシールズ&クロフツからフォンテラ・バス、ジミ・ヘンドリクスまであらゆるミュージシャンとプレイした経験を有している。ボブ・ディランの《追憶のハイウェイ61》、マイルス・デイヴィスの《ビッチズ・ブリュー》、リッチー・ヘヴンズの《ミックスト・バッグ》、アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルズの《スーパー・セッション》を聞いたことがあるなら、ハーヴィーの絶妙なベース・プレイに既に親しんでいるはずだ。
1944年7月4日にハーヴィー・ゴールドスタインとして誕生した彼は、誕生日を祝うこのスペシャル企画用に、彼が参加した伝説的レコーディングの一部(かなり恣意的な選定だ)に関するたくさんの質問に、エルサレムの自宅から電子メールで答えてくれた。
●1965年にはボブ・ディランの《追憶のハイウェイ61》のセッションと、彼が初めてエレキギターを持って行なったギグのいくつかでプレイしてますよね。
あれが私のキャリアの始まりだった。凄い時代だったなあ。音楽も素晴らしかった。
●ハーヴィー・ゴールドスタイン改め、ハーヴィー・ブルックスと名乗るようになったのはいつからですか?
《追憶のハイウェイ61》の直後だよ。
●フォーレスト・ヒルズ公演やハリウッド・ボウル公演にボブのバンドのメンバーとして参加していて、どんな感じでしたか?
フォークの伝統主義者たちは、新しいフォーク・ロックのサウンドが「エレクトリック」なのが気に入らず、それで緊張が高まっていたのがわかったよ。ボブは自分の新しいサウンドに夢中で、自分の進化を受け入れない連中の考えてることなんて、全然気にかけていなかった。コンサート計画を完璧に作ったのはボブで、私はただ出来る限り優れた演奏をしようと心掛けただけだった。リヴォン(・ヘルム)もアル(・クーパー)もロビー(・ロバートソン)も同じだろう。みんな、楽しくやってたよ。
[フォーレスト・ヒルズにて。ボブの後ろがハーヴィー]
●ステージにはどんな機材がありましたか?
原始的なPAとモニター・システムだけだ。互いの音をよく聞いて、ディランをじっくり観察することに頼るしかなかったね。オーディエンスはスタンドにいて、目の前のフィールドにはいなかったので、ステージ前に駆け出してくるまでは、野次は聞こえても、姿は見えなかった。照明も原始的だった。ボブとロビー、そして私はフェンダーのアンプを使った。ボブとロビーはフェンダーのツイン、私はデュアル・ショウマンを使った。
●フォーレスト・ヒルズではマレー・ザ・Kと言葉を交わす機会はありましたか? マレーってどんな人でしたか?
あんなところにマレー・ザ・Kなんてかなり場違いだろ。マレーはニューヨークの偉大なロックンロールDJで、何度か仕事で一緒になったことがある。彼は本当のプロだ。政治的に正しい奴だが、間違った場所に呼ばれたとしても、プロとして司会役を立派に務めあげた。自分の番組でかけてるようなトップ40ミュージックには造詣が深かったね。クリームやザ・フーをニューヨークに呼んで、彼らの初のアメリカ公演を実現したのもマレーだ。
参考資料:NY Rock'n'Roll Life【10】ザ・フー初のアメリカ公演を見たぜ(1967年)
http://heartofmine.seesaa.net/article/317391404.html
●マイルス・デイヴィスの《ビッチズ・ブリュー》のセッションは、ウッドストック・フェスティヴァルが終わった次の日に始まりました。あなたは、このコンサートの文化的意義を意識していましたか? それとも、そんなこと考える暇がないほど、自分のキャリアを追求するのに忙しかったのでしょうか?
当時、私はコロムビア・レコードのスタッフ・プロデューサーという立場になっていて、レコーディングと演奏が専らの関心事だったなあ。
●《追憶のハイウェイ61》のほうもいろんな意味で革新的でしたが、当時からそう感じていましたか? この2作品のセッションを比較して、どのような感想をお持ちですか?
どちらのセッションも成り行き任せで、緊張感がみなぎっていた。ボブは曲をその場で書いた。歌詞の一部が出来上がってない状態であっても、曲は音楽的にこうだって分かっていた。マイルスは、楽譜など全くなく、音の中心となるものを提示するだけで、セッションはミュージシャンたちの直観とマイルスの指示に基づいて行なわれていた。友人のテオ・マセロがプロデューサーで、編集部屋でのテオとマイルスの作業によって《ビッチズ・ブリュー》は生まれたんだ。
●他のベーシストと一緒にプレイするというのはどんな感じでしたか? プレイするフレーズをしっかり作り込んだのですか、それとも弾きたいように自由に弾いたのですか?
デイヴ・ホランドやロン・カーターと一緒にプレイするのは楽しかったよ。私がグルーヴを作って、それをビシッと定めると、彼らはそれを基にしてプレイした。
●1968年にはキャス・エリオットの初ソロ作《ドリーム・ア・リトル・ドリーム・オブ・ミー》にも参加していますが、どんな雰囲気でしたか?
ジョン・サイモン(ザ・バンド、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、レナード・コーエンのプロデューサー)があのアルバムのプロデューサーで、私が(ウェスト・ハリウッドの)シャトー・マーモント・ホテルにいる時に、スタジオに来て、キャスのレコーディングに参加してくれっていう電話があったんだ。ママキャスに最初に会ったのはスタジオでだった。彼女と一緒に作業にするのは楽しかった。非常にポジティヴでエネルギッシュな人物で、優れたヴォーカリストだった。セッションにはロサンゼルスの優秀なセッション・ミュージシャンがたくさん参加していた。ギターのジェイムズ・バートン、ドラムのジミー・ゴードン、ハル・ブレイン、ジョン・セバスチャン、スティーヴン・スティルズといった人たちだ。
●ジョン・セバスチャンがラヴィン・スプーンフルを脱退して初めてリリースしたソロ・アルバムでも、あなたはプレイしてますよね。CS&N結成前のデヴィッド・クロスビー、スティーヴン・スティルス、グレアム・ナッシュを含むオールスター・キャストの《ジョン・B・セバスチャン》は、過小評価されている隠れた名盤だと私は思っています。1968年にレコーディングされたものの、残念なことに、契約上のゴタゴタのせいで、リリースが1970年春に延期されて、インパクトが薄れてしまいました。セバスチャンについて、このセッションについて、もしくは何か面白いことを教えてください。
キャス・エリオットのアルバムの作業をやっている時に、彼女の自宅に滞在して、ラスヴェガスで行なうことになっているファースト・ソロ・コンサートのリハーサルもやったんだ。アル・クーパーと私と一緒に既に《スーパー・セッション》をレコーディング済みのスティーヴン・スティルスが、グレアム・ナッシュとやって来た。みんなでプールでプカプカしている時に、私は彼らから新グループに誘われたんだ。そのグループっていうのが後のクロスビー・スティルス&ナッシュで、彼らは間もなくニューヨークのサグ・ハーバーでリハーサルをすることになっていた。ポール・ハリスとダラス・テイラーとはサグ・ハーバーでのリハーサルで会った。私はジョン・セバスチャン宅に泊まっていた。ジョンに感化されて、このグループ もそこでリハーサルしたんだと思う。私達はリハーサルを始めたんだけど、ビジネスの話になった時、ポールと私は合意に達することが出来なかった。あの時は、ジョンのレコーディングのために来ていたからだ。ジョンはポール・ロスチャイルド(ドアーズ、ラヴィン・スプーンフル、ジャニス・ジョップリンのプロデューサー)と一緒に《ジョン・B・セバスチャン》のプリプロダクションを開始していた。まずは、ジョンの自宅スタジオでリハーサルをして、それからジェリー・ラガヴォイの「ヒット・ファクトリー」でレコーディングを行なったんだ。
[ハーヴィー・ブルックス、スティーヴン・スティルス、アル・クーパー]
●あなたとハリス、テイラーがCS&Nのメンバーに誘われたというのは本当なのですか? 詳しく教えてください。バック・バンドとしてですか? 別の種類のバンドだったのですか?
6人編成のバンドで、メンバーがパートナーとして資金を出し合う形だったと思う。曲の権利は作曲者が保有し、アルバムの売上や関連グッズ、ライヴ・パフォーマンスからの収入は皆で分け合うという条件だったけど、マネージメントがウンと言わなかったんだ。まあ、結局、最良の方向に向かって進んでいったけどね。
●ポール・カントナーの初期のソロ・プロジェクト《Jefferson Starship: Blows Against The Empire》は、たくさんのミュージシャンが参加しているわりには、焦点の定まったサウンドです。秩序はしっかり保たれていたのですか、クレイジーな状態だったのですか、それともレイドバックした雰囲気だったのですか?
私はワリー・ハイダーのスタジオで、コロムビア・レコードのためにスイート・アップルのレコードを制作してたんだ。作業が小休止することになったので、それまでにいたスタジオから出て、ジェファーソン・エアプレインのメンバーのいるスタジオに入っていったら、あのジャム・ナンバー(〈スターシップ〉)に参加するよう誘われたんだ。私はギターを手にして、祝宴に加わったよ。
●最近亡くなったレイ・マンザレクとも仕事をしたことがありましたよね。ドアーズのレコーディング・セッションはどんな感じだったのですか?
レイは革新的なミュージシャンで、ベースラインをもとにしたコード・アプローチでユニークなサウンドを作り上げていた。レイが私のアイデアに対してオープンな態度を取ってくれなかったら、ドアーズでベースを弾くのは居心地が悪かっただろうなあ。私がプレイしてるアルバムは《ソフト・パレード》で、彼らのプロデューサー、ポール・ロスチャイルドは、ドアーズはファンに飽きられないよう、常に新アイデアに挑戦する必要があると感じていた。私の親友でキーボーディスト/アレンジャーのポール・ハリスが、ホーン・セクションの譜面を書いたんだ。
●ドアーズのステージにも立っていますよね。彼らのショウは伝説通りワイルドなものだったのですか?
ジム・モリスンは全てのパフォーマンスに全身全霊をかけるエキサイティングなパフォーマーだった。私はロサンゼルスのフォーラムと、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで演奏した。このショウは、サウンドチェックからグルーピーや取り巻き連中をまじえたパーティーまで、とても盛り上がっていた。
●あなたはリッチー・ヘヴンズの《ミックスト・バッグ》に参加していますが、どのようにして会ったのですか? リッチーはとてもいい人っぽいですよね。
グリニッジ・ヴィレッジのカフェ・オー・ゴーゴーでリッチーと出会ったんだ。ディランの《追憶のハイウェイ61》セッションの後、ヴィレッジ界隈をうろうろするようになった。フィル・オークスが、ブリーカー・ストリートのすぐ近くの、トンプソン・ストリートにあるアパートメントから引っ越そうとしていたので、私が賃借契約を引き継いだんだ。カフェのすぐ近所に越して来た私は、そこの専属のベース・プレイヤーになって、リッチーとも一緒に演奏するようになった。もちろん、親友にもなったよ。リッチーがグロス・コート・プロダクションを通してヴァーヴ・フォークウェイズと契約を結んだ時、私はカリフォルニア州ミル・ヴァリーで暮らしていて、エレクトリック・フラッグでプレイしていた。リッチーのプロデューサーだったジョン・コートは、エレクトリック・フラッグのプロデューサーでもあって、彼からリッチーのセッション用のリズム・トラックのアレンジも依頼されたのさ。
●ジミ・ヘンドリクスとジャム・セッションをしたのはどういう経緯で?
カフェ・オー・ゴーゴーと、スティーヴ・ポールのザ・シーンは、ホットな2大スポットだったので、ジミとは親しくなったんだ。カフェ・オー・ゴーゴーでジャムをやってから、今度はアップタウンにあったザ・シーンに移動した。カフェ・オー・ゴーゴーではデュアン・オールマンやポール・バターフィールド、エルヴィン・ビショップ、ジミとジャムり、それから、アップタウンに移動して、ジミとバディー・マイルス、ジム・モリスン、ジョニー・ウィンターとジャムをやった。ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスとエレクトリック・フラッグは、いろんなコンサートに一緒に出演した。私はジミとバディーと一緒に、フィルモア・イーストで超強力なジャムをやったこともある。
●1970年の《新しい夜明け》のセッションは、その5年前の《追憶のハイウェイ61》と比べて、どんな感じでしたか?
《追憶のハイウェイ61》用のセッションのためにコロムビアのスタジオAに行った時は、私にとってあらゆるものが新しかった。人々も、場所も、ポップ・ミュージックの世界も。
それから5年後までには、私はディランのフォーレスト・ヒルズ公演とハリウッド・ボウル公演でプレイしたり、サンフランシスコのミル・ヴァリーに引っ越して、マイク・ブルームフィールドやエレクトリック・フラッグとプレイして、ドアーズと《ソフト・パレード》を録音して、ロスのフォーラムとニューヨークのMSGで彼らとステージに立ち、アル・クーパーと《スーパー・セッション》を録音していた。
アーティストは成長しながらも、音楽をリアルな状態に保ちたいっていう欲望を抱いてるものなんだけど、こういうことが理解出来るくらい私も成長したんだっていうプレッシャーが、《新しい夜明け》のためにスタジオに入る時にはあった。ディランはアルバムの作業を行なっていて、私はボブが起用していたミュージシャンの2番目か3番目のグループの一員だったと思う。楽しいセッションだったね。
●他に付け加えることはありますか?
人生っていいね!
このインタビューに応じ、思い出を語っていただいたミスター・ハーヴィーには、心からお礼を申し上げます。誕生日おめでとうございます。
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伝説的ベースプレイヤー、ハーヴィー・ブルックスの69歳の誕生日を記念して、拙ブログでは今年7月に3回に渡ってインタビューを掲載した。その時には、ハーヴィーにボブ・ディランやマイルス・デイヴィス、ドアーズ、ママ・キャス・エリオット、ジョン・セバスチャン、CSN、リッチー・ヘヴンス、ジミ・ヘンドリクスと行なったセッションについてコメントをもらったが、話題から漏れていたのがトム・ラッシュだった。ラッシュの活動を追ったドキュメンタリー映画『Tom Rush: No Regrets』が、今週(2013年10月)ニューハンプシャー映画祭で初公開されるので、かつてラッシュとも共演経験のあるブルックスに、あらためてeメールでインタビューした。以下が回答である:
トムとは、彼の当時のマネージャー、アーサー・ゴーソンを通じて会ったんだ。アーサーは他にもエリック・アンダースンやフィル・オークス等のマネージメントも手掛けていた。
トムとの最初のギグはクラブ47(マサチューセッツ州ケンブリッジにあったフォーク・クラブ)でだった。その晩の出演者にはタジ・マハールもいた。ボブ・ディランのアルバム《追憶のハイウェイ61》の作業が終わったんで、手があいてたんだ。いいギグだったなあ。トムとはいつも良い演奏が出来た。
私の記憶が正しければ、トムはディナー・ナイフでプレイする最高のスライド・プレイヤーだった。今でもきっとそうだろう。ピアノにポール・ハリスン、ギターにブルース・ラングホーンという面子で、ボストンのシンフォニー・ホールでもプレイしたよ。エレクトラ・レコード用に《Take A Little Walk With Me》をレコーディングしたなあ。トムによろしく伝えておくれ。
エルサレムにて
ハーヴィー・ブルックス
ハーヴィー・ブルックス
Copyrighted materials
Reprinted by permission
Original articles are:
Harvey Brooks interview part one: Playing with Dylan in 1965 and Miles in 1969
http://www.examiner.com/article/harvey-brooks-interview-part-one-playing-with-dylan-1965-and-miles-1969
Harvey Brooks on the Doors, Mama Cass, John Sebastian, and almost joining CSN
http://www.examiner.com/article/harvey-brooks-on-the-doors-mama-cass-john-sebastian-and-almost-joining-csn
Harvey Brooks on Havens, Hendrix, and Dylan
http://www.examiner.com/article/harvey-brooks-on-havens-hendrix-and-dylan-july-11-americanarama-gig-moved
Bassist Harvey Brooks on playing with Tom Rush
http://www.examiner.com/article/bassist-harvey-brooks-on-playing-with-tom-rush