2014年01月24日

《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているインド人の話(1)

 2007年11月に横浜で開催された楽器フェアにロジャー・マッギンが来た際に、30分ほど話をうかがう機会がありました。老舗アコースティック・ギター・メーカー、マーティンからロジャー・マッギン・モデル(Gだけ複弦になっている7弦仕様)を発売し、その宣伝のための来日だったのですが、こんな質問もしました。
1960年代半ばには、あなたやアレン・ギンズバーグ、ビートルズ、ドノヴァン等、たくさんの人がインド音楽、文化に興味を抱いたわけですが、どうしてボブ・ディランだけは何の興味も示さなかったのでしょう?
 ロジャーの回答はこうでした。
さあ…どうしてだろう。ボブにはボブ独自の世界があるから…。
 ボブの曲にはシタールやタブラを導入したり、あからさまにインド哲学風/ヒンドゥー教風の歌詞のあるものはないと思いますが(私が気づいてないだけかもしれません----「ボクの恋人は黙して語る」は禅問答風?)、インド人ミュージシャンとの親しい交流は確かにありました。その証拠が《John Wesley Harding》のジャケット写真です。ボブと一緒に写ってるヨーロッパ系に見えない人たちは、1967年にアルバート・グロスマンがインドのベンガル地方からアメリカに招聘し、しばらくウッドストックに滞在させていたミュージシャン/パフォーマー、プルナ・ダス・バウルとラクシュマン・ダス・バウルなのだそうです(一部の本やウィキペディアではネイティヴ・アメリカンと書かれていますが、「Indian」の誤訳でしょう。私もどこかで恥ずかしいことをやらかしてるかもしれないので、この場で訂正しておきます)。彼らはバウルと呼ばれる吟遊詩人/歌手であり、ビッグ・ピンクでガース・ハドソンによってレコーディングされた彼らの演奏は、後にブッダ・レコードから《Bengali Bauls At Big Pink》としてリリースされました。残念ながら、このアルバムは業界から忘れ去られているようで、まだCD化されてません(たぶん)。ウッドストック、ビッグ・ピンク、ボブ・ディラン、ザ・バンドというと、サイケや東洋思想ブーム真っ盛りの世界から隔絶された環境で、自分のルーツであるアメリカーナと向き合いながら、独自の音楽を純粋培養させていたと勝手に思ってましたが、このイメージのうち、少なくとも「隔絶された環境で」の部分は要変更のようです。そもそも、《John Wesley Harding》のジャケットを見ているのに誤解していた私の目は、単なる節穴です。

bobpurna.jpg

[ジャケットに使用された写真とは別ショット]


 ところで、高度に洗練された古典音楽を演奏するシタール奏者やタブラ奏者は日本でも有名ですが、バウルとなると知名度はイマイチです。ノーベル賞詩人タゴールはバウルの歌からインスピレーションを得ていたとのことなので、岩波文庫にある彼の作品の邦訳『タゴール詩集 ギーターンジャリ』(渡辺照宏・訳)を読んでみましたが、その解説にはバウルという言葉は一切登場しません。「民衆のあいだに口から口へと伝えられて来た作品も少なくありません」という箇所が、バウルと少しかすっているでしょうか。バウルの活躍の場はストリートや民衆のお祭りなので、立派なホールでパフォーマンスをやってもらうわけにもいかず、コンサート・プロモーターにとっては呼びにくい面もあるかもしれません。
 かといって、日本でバウルに接することは不可能なわけではありません。私が初めてバウルと呼ばれる人々の存在を知ったのは、21世紀になってからです(つい最近)。2008年8月に六本木アリーナで開催されたワールド・ミュージック系のイベント「アジアン・フェスタ」に、ショッタノンド・ダスというバウル・シンガーが登場してベンガル地方の素朴な民衆音楽を披露しました。彼は2009年、2010年のナマステ・インディアにも出演しています。かなりの親日家であり、奥さんが日本人ということもわかりました。
 私の中でボブ・ディランとインドが結び付いたのは昨年です。秋に出たMOJO誌かUNCUT誌のザ・バンド特集の中の小さな記事に、《John Wesley Harding》のジャケットの人物がベンガル地方出身のバウル・ミュージシャンだと書いてあったのがきっかけでした。そうなると俄然、興味が沸々。調べ始めたら、バウルとディランの件は、これまでにも、いたるところに書かれているではありませんか。私は今まで何をしてたんでしょう?
 幸いなことに、今ではもう、バウルは全く知らない存在ではありません。ショッタノンド氏がいます。彼ならもっと詳しいこと知ってるのではないかと思ってFacebookを通じて質問し、教えてもらったのが次の記事です。著者であるデボラ・ベイカーについて調べてみたら、アレン・ギンズバーグ等のアメリカのビート詩人とインドとの関係について述べた力作『A Blue Hand』(2008年)を書いた人でもありました。発売と同時に入手して楽しく読んだ本なので、予想してなかった展開にビックリ! デボラによると、今回紹介する記事は、この本のアウトテイク的なものなのだそうです。

   





歌のために〜バウルとビート詩人とボブ・ディラン、そして西ベンガル地方の吟遊詩人の音楽と物語の保存に尽力したひとりの女性に関するこんがらがった話

文:デボラ・ベイカー
(協力:プルナ・ダス・バウル)


baulbigpink.jpg

[伝説的バウル詩人/歌手ナバニ・ダス・バウル]


 アメリカ中から10万人ものフラワー・チルドレン、ヒッピー、面白いもの好きの人間をサンフランシスコに集めたお祭り状態は、1967年9月には既に終了していた。しかし、「サマー・オブ・ラヴ」が終わってることを認めたくない人間もいた。ここ2週間、ヘイト=アシュベリー地区の店先には、新たな音楽的センセーションの到来を宣伝するポスターがベタベタと貼られていて、5人のインドのフォーク・ミュージシャン(バウルと呼ばれている)からなるグループ、LDMスピリチュアル・バンドが、アメリカにやって来て、7カ月に渡ってコンサート・ツアーを行なうことを宣伝していた。

 1967年9月14日、このバンドはフィルモア・ウェストで演奏した。実は、1週間前にザ・バーズの前座として同会場に出演する予定だったのだが、到着が3日遅れて、気づかないうちにデビューを逃してしまっていたのだ。このグループをカリフォルニアに呼んだアルバート・グロスマンは、メンバーが来ないので飛行機でニューヨークに戻ってしまった。

LDM1.jpg LDM2.jpg


 グロスマンはフォーク・ロック・シーンの原動力だった人物で、このブームの急先鋒的な存在だったボブ・ディランやピーター・ポール&マリーは彼のクライアントだった。グロスマンは自分の抱えるアーティストに関する限りは辛抱強い人間でもあり(何かと手のかかるブルース・シンガー、ジャニス・ジョップリンと契約を結んだばかりだった)、LDMスピリチュアル・バンドがスケジュール通りにやって来ないことに失望していたとしても、それでもなお、ベンガル地方のフォーク・ミュージックがアメリカで受ける見込みがあると思い込んでいた。グロスマンの触れるもの全てが金に変わると思われていたので、カルカッタからの飛行機代を持ち、レコーディング・セッションも行なうよう、エレクトラ・レコードを説得するのにあまり手間はかからなかった。

 このバンドのメンバーは、プルナ・ダス・バウルというバウル歌手、彼の弟でクルマック奏者のラクシュマン、タブラ奏者のジバン・ダス、ハーモニウム奏者のスダノンド・ダス、ドータラ奏者のクリシュナ・ダス・バウルだった。ドータラというのは、主弦が2本あるフレットレスの楽器だ。それから、アソケ・ファキールというカルカッタのジャーナリストと彼の妻マラティ、1歳半の娘もいた。アソケはバウルたちのマネージャー兼雑用係であり、メンバーの査証やパンナム航空のチケットを用意したのも彼だった。途中、6日間の東京観光を行ない、サンフランシスコへの到着を遅らせたのも彼だった。アソケは何かと俗っぽい人物だったが、バウルの中で英語を話せる者は皆無だったので、一行は彼について行くしかなかったのだ。LDM(ロク・ダルマ・マハシュラム)スピリチュアル・バンドという名前を考えたのもアソケだった。このバンドのもととなったのは、アソケが「国際部長」と「創設部長」の両方を務めていた「新精神運動のための世界初社会精神研究協会」という組織であった。

 初のパフォーマンスの晩に、アソケは突然、他のメンバーと同じ長いヒラヒラのガウンを着て、頭を赤子の尻のようにツルツルに剃った状態で、ステージに登場した。詩人であり有名書店シティー・ライツのオーナーでもあるローレンス・ファーリンゲティは、テープ・レコーダーを持って観客の中にいた。カリフォルニア大学バークリー校に通っている若いベンガル人学生、ディリップ・バスもいた。アソケはソールド・アウトのオーディトリアムに向かって挨拶をした。彼はドラッグでかなりイッちゃってるオーディエンスに対し、アメリカ全土に向かってスピーチをするかのように、約30分の間、精神的共存を通してバウルの愛と平和、世界的兄弟愛に心を開くよう(もしくは、そのような内容のことを)訴えた。そして、仰々しく振り返ると鉾を振り上げ、LDMスピリチュアル・バンドを指揮し始めた。

allenpeter.jpg

[インドでのピーターとアレン]

 その5年前のことだ。アメリカのビート詩人アレン・ギンズバーグは、9カ月に及ぶカルカッタ滞在が終わりに近づいていた頃、パートナー(ギンズバーグが言うところの「妻」)であるピーター・オーロフスキー、ベンガル出身の詩人シャクティ・チャタルジー、そして自称彼らの精神的グル(導師)であるアソケ・ファキールと一緒にスーリを訪問した。スーリはベンガルの田舎で活躍する吟遊詩人/歌手、バウルの大きな一派の拠点となってる町であり、ここを訪れるのは、西ベンガル、ビルブム地方の聖地を列車とバスで巡る旅のハイライトだった。

 シャンティニケータンでは、ギンズバーグは数人の学者が「父」タビンドラナート・タゴールについて論じるのを熱心に聞いた。次に訪れたタラピートでは、恐ろしい女神タラを崇拝するバクティ信仰の寺院で、アソケは一行全員をスマサナ・サダーナ(死者の荼毘と葬式を行なう修行)を実践するサドゥーに紹介した。タラピートはかつては狂気の聖者バマケパの本拠地であったのだが、あちこちに遺体があり、それを焼く煙りが立ちのぼっているシーンは、とても強烈だった。特に、チラムを数回吹かした後には。

 タラピート訪問の後、彼らは遂にスーリの外にある小さな村に到着した。そこでギンズバーグは、年老いた伝説的バウル、ナバニ・ダス・バウルがベッドに横たわり、歌を歌うことは出来ない状態で、泥で出来た小さな小屋で暮らしているのを発見した。ナバニが病床からギンズバーグに話しかけ、かつては力強く歌っていた歌をやっとのことで歌うと、ギンズバーグはアソケが大まかに訳す歌詞をノートに熱心に書き取った。ギンズバーグはこのバウル一家と1週間過ごし、ナバニの妻からは手で食事をするやり方を、ナバニからは1本弦の楽器エクタラと、4弦の楽器タンプーラ(インド古典音楽でバックに流れる通奏低音を出す楽器)の演奏法を教えてもらった。「オム・ナマー・シヴァヤ」というマントラの唱え方も学んだ。

 ギンズバーグは、バウルのスピリチュアルな教えの歌の中に、自分の詩作活動のための新しいインスピレーションの源を見出したいと思っていた。タゴールもかつて、殆ど同じ意図を持って、ナバニ・ダス・バウルの足元に座していた。ナバニ・ダスの歌とラロン・ファキールの歌が、このノーベル賞詩人の詩、音楽、人生哲学の主なインスピレーションの源と言われていた。後にタゴールは、1930年にオックスフォードで行なった「人類の宗教」という有名な講演において、バウルの信仰について彼の理解していることを述べた:バウルは社会の慣習を軽蔑し、寺院やモスク、カーストが指し示すものを避けることで、普通の人々とは一線を画している。歌や舞踊が彼らの唯一の信仰形態であり、自らの体が寺である。そして、タゴールはバウルという言葉を「無鉄砲な人」と訳した。

 ギンズバーグは、長い間、詩が神秘体験と精神的覚醒のカギであると確信していた。彼がまだニューヨーク・シティーの大学に通う若き学生だった1948年に、ハーレムのアパートメントの一室でウィリアム・ブレイクの詩を読んでいると、突然、神の至福なヴィジョンが見えてきたのだが、数日後、今度は恐ろしい幻覚に襲われるということがあったのだ。それから20年ほど、彼は最初のヴィジョンを見た時のエクスタシーと憐れみと英知の体験を呼び起こし、その後の恐怖は回避する方法を見つけようと努力し、1962年夏に行なわれたマルクス主義文学の大会では、マントラを唱える実験やタントラ修行、座禅、ジャズ・ミュージックでも、より高次の意識を引き出すことが出来るかもしれないと述べた。ギンズバーグはLSDへの期待を完全に捨て去っていたわけではないが、正直なところ、ドラッグの効果は予測不可能であり、至福の世界よりも自分の中の悪魔{デーモン}を呼び起こしてしまう傾向があると思っていた。

 しかし、1963年夏にインドからアメリカに戻った途端にわかったのは、アメリカの若い世代を夢中にさせているのはドラッグでも瞑想でも詩でもないということだった。ギンズバーグは帰国した直後に、発売されたばかりのボブ・ディランのアルバム《Freewheelin' Bob Dylan》を誰かからじっくり聞かされた。このアルバムのオープニング・ナンバー〈Blowin' In The Wind〉は、彼がインドにいる間にピーター・ポール&マリーが歌って有名になっていた。ギンズバーグは、スキャンダラスな詩集『吠える』の出版に伴う悪評や大衆からの反発から逃れるためにインドに行っていたのだが、その間に、松明は既に自分の詩からディランのフォーク・ミュージックへと渡っていることを悟った。マーティン・スコセッシが監督したディランのドキュメンタリー映画《No Direction Home》の中には、70代になったギンズバーグがこの時の洞察を思い出し、感極まるシーンがある。

   

 サンフランシスコに残って、ようやく到着したバウルたちを空港で向かえたのは、アルバートの妻、サリー・グロスマンだった。彼女はニューヨーク・シティーのクイーンズ地区でサリー・ビューラーとして誕生し、母親は保険数理士兼主婦から地元の代議士に転身した人物だった。1957年に高校を卒業した後、2年間大学に通ったが、サリーにはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジの夜の明りのほうがもっと素敵に見えて、遂には退学してしまう。そして、ここでは別の種類の教育が待っていた。サリーが発見したのは、既に伝説になっているフォーク・クラブやジャズ・キャバレー、毎晩行なわれている詩の朗読、コメディー、前衛的な演劇や舞踏だった。黒いストッキングをはいた若い女の子たちも、ヴィレッジのシーンの中で一団を形成していた。本屋やコーヒー・ショップ、バーで働く彼女たちは、恋人と仕事とお湯の出ない安アパートを取っ替え引っ替えしながら、あたかも今この瞬間のみが重要なのだと言わんばかりに、即興演奏のような生活を送っていたのだ。サリーも数年間、こんな黒ストッキング族の一員だった。彼女が最初に得た仕事はブリーカー・ストリートにあるザ・ビター・エンドというナイトクラブのドアで客を迎える係だった。次はセヴンス・アヴェニュー・サウスのフィーンジョン。その次には、マクドゥーガル・ストリートにあって、ガーディース・フォーク・シティーから1ブロックしか離れてないカフェ・ホワ?で働いたのだが、サリーは突然、思いつきでメキシコに渡った。

 メキシコ南部のオアハカ州で暮らして1年もすると、サリーはニューヨークに戻ってアルバート・グロスマンのもとで働くのも面白いかも、と思い始めた。サリーがグリニッジ・ヴィレッジにいた頃には、行く先々でなぜかグロスマンの存在が感じられていた。年齢不相応に白髪頭になっていたグロスマンは、野心に燃えるミュージシャンの夢に取り憑いており、彼らはグロスマンの姿をガスライトやガーディース・フォーク・シティの暗い凹所で探した。ピーター・ポール&マリーを作ったのがグロスマンだということは皆が知っていた。この頃、アレン・ギンズバーグはボブ・ディランの存在にようやく気づき始めたが、グロスマンの抱えるこのアーティストが目下急成長中であることは、誰もが知っていた。過去にシカゴでクラブのオーナーを務めていたグロスマンは、フォーク・ミュージックを手に入れて、それを数百万ドルのビジネスに変えたが、間もなく、ロックンロールの世界でもそれをすることになる。

 ニューヨークに戻って1カ月もしないうちに、サリーはグロスマン宅のキッチンにいた。メキシコでかなり厳しい生活を送っていた彼女は、蛇口から水が出てくるのを見ただけで驚くほどだった。彼女がさらに驚いたのは、アルバート・グロスマンを追ってハドソン渓谷をのぼり、ニューヨーク州ウッドストックの町のすぐ外のベアズヴィルまでやって来た多くのミュージシャンの食事の世話を、自分がするようになっていたということだった。1967年1月、既に夫婦になっていたふたりは、ピーター・ポール&マリー(このフォーク・トリオはアメリカ同様、日本でも大人気を博していた)の東京公演のギャラのうち、アルバートの取り分を使って、東洋を旅行しているところだった。

  

 カルカッタに立ち寄って、アレン・ギンズバーグから話を聞かされ続けているバウル・シンガーを探そうというのは、サリーのアイデアだった。ディランのアルバムを聞いて間もなく、ギンズバーグはミュージシャンの輪の中に入り込み、ディランやグロスマン、そして、自分の話を聞いてくれる人全員に、インドに行ってバウルのフォーク・ミュージックを聞くように勧めた。ボブ・ディランの唯一の問題はインドに行った経験がないことだ、とギンズバーグは内密にサリーに語ったほどだった。アルバートとサリーはアメリカを発つ前の晩にギンズバーグの訪問を受け、カルカッタで会うべき人の長いリストを渡された。その3年前には、元ハーヴァード大教授でLSDのプロモーター、ヒッピー界の笛吹きオジサンであるティモシー・リアリーにも、ギンズバンーグは同様のリストを渡しているのだが、どちらのリストにも共通して載っていた名前がアソケ・ファキールだった。

 アソケ・ファキールは、1966年の年末にアレン・ギンズバーグに宛てた手紙の中で、自宅の玄関先に突然アルバートがやって来たことを伝えるついでに、5年前に一緒にスーリを訪問をして、ギンズバーグをナバニ・ダス・バウルに合わせた時の思い出話もした。アソケは手紙の中で、アレン・ギンズバーグもアルバート・グロスマンもイニシャルは同じAGであるとも指摘した。ふたりと縁があったのは、自分自身だけでなく、あまねく人類にとっても幸先の良いことなのだ、とアソケは思い、今やバウルの音楽が外国行きの切符を用意してくれそうだということで、こうした出会いのどんな些細なことからも重要性を探し出す必要に迫られたのだ。「これはスピリチュアルな予言的計画の一部です」とアソケは書いている。世界に向けたメッセージを準備するために、彼はあらかじめ、シカゴ大学のエドワード・ディモック・Jr教授に手紙を書いて、バウルと彼らの宗教的信仰の性質について詳しい情報をもらっていた。彼らはヒンドゥー教徒なのか? イスラム教徒なのか? タントラ密教の実践者なのか? スーフィーなのか? ディモックは返答として送ったのは、自身が1959年に発表した論文『ラビンドラナート・タゴール:ベンガル地方最大のバウル』であった。その結果、バウルの宗教思想に関してアソケが得た知識は、タゴールが持っていたそれをディモック経由で受け取っただけのものとなった。ディモックが初めてカルカッタにやって来たのは1955年のことだった。彼は多様かつ複雑なベンガル地方の言葉や文化の研究を行なうアメリカ人学者の(ベンガル人学者を含めても)第1号であった。

  

 次にアソケが手紙に記したのは、カルカッタから24キロメートル離れたチャンパハッティにある小さな煉瓦造りの家に、グロスマンが観光客用タクシーで乗り付けて来た日の晩に見た夢だった。運の悪いことに、その時にはアソケは家を留守にしていたので、彼の妻が名誉ある客人の相手をした。そして、まさにその日の晩に、つい先日に亡くなった父親がアソケの夢に出て来たのだ。父親はかつて、長男アソケが偉大な聖者になることを期待していたが、アソケは父親を失望させ続けた。夢に出て来たそんな父親の顔が、突然、まだ会ったことのない客人の顔に変化したので(アソケによると、妻からアルバート・グロスマンの特徴を詳しく聞いていたらしい)、アソケは目を覚ますやいなや、早朝のうちにチョウリンゲーにあるグランド・ホテルに向かって出発した。アソケがグロスマンの部屋のドアをしつこくノックするので、遂にサリーがドアを開けた。彼女はアソケの目の前に「Don't Disturb(起こさないでください)」と書かれた札を突き出すと、ドアをバタンと閉めた。それでも、アソケが去ろうとしなかったので、今度はグロスマンが現れた。アソケの夢の中に出て来たような人物とは違って、時差ボケで、シャツをまとわず、カンカンに怒っている状態で。しかし、アソケはどうにか自己紹介することに成功し、グロスマンの用件を理解すると、バウルを何人か連れて出直すことを約束した。

 数カ月後、サンフランシスコに出発する日が近づくと、アソケは再びギンズバーグに手紙を書いて、自分の内部で精神的に大きな変化が起きつつある、自分はバウルに生まれ変わろうとしていると語った。しかし、これは彼にとって初めての変身ではなかった。アソケ・ファキールになる以前、彼はアソケ・サルカールと名乗っていたのだが、彼の魂の音叉がさまざまな音に共鳴することだけは、本物のバウルと同じだった。今やアソケの頭の中では、バウルが遂にアメリカに到着するのは、ナバニ・ダスの死の床での予言が成就することに他ならなかった。アソケはさらに筆を進めて、スーリで皆がナバニ・ダスに暇{いとま}乞いをした時に、この老バウルが語ったことを思い出させようとした。「バウルは生まれながらにしてバウルじゃ。彼らがバウルのメッセージを広めると、真の平和、友情、秩序が訪れるだろう」 そして、ギンズバーグの記憶が自分ほどシャープでない場合に備えて、こう断言もした。「私はスピリチュアルな旅で出会った大切な言葉、考え、行ないを決して忘れません」

 アソケはよく、真実と、彼が真実だと思いたいことが区別出来なかった。しかし、1967年9月14日にフィルモアに出演して、マザー・アースとエレクトリック・フラッグの前座を務めたバウルのグループの中に、ナバニの長男プルナ、次男ラクシュマンがいたことは、紛れもない事実である。コンサートの数日後に、5人のバウルはアルバムを録音した(《The Bauls Of Bengal:Indian Street Music》としてリリースされ、解説のライナーノートを書いたのはエドワード・ディモックだった)。しかし、2週間後に、アルバート・グロスマンのステーション・ワゴンに乗り込み、長年グロスマンのドライバーを務めていたトミー・ドノヴァンの運転で、ニューヨークまでアメリカ横断の旅に出る時には、アソケ・ファキールは家族ともども姿を消していた。



 1963年、アレン・ギンズバーグは全然違う風貌になって帰国した。2年半前にニューヨークを発った時には良い身なりだったのだが、今や小ぎれいな部分はどこかに消えてしまい、ハゲの部分が広がり、髪は鳥の巣、髭もぼうぼう状態で、ヒラヒラの手織り布のスカーフにビーズの首飾りを身にまとい、サドゥーのようないで立ちだった。プルナとラクシュマンがやって来た1967年には、アメリカの若い世代はギンズバーグのファッションを真似て、髪は伸ばしっぱなしにして、クルタパジャマを着て、サンダルをはいて、インド風ショルダーバッグを片方の肩からだらりとかけていた。彼らはヴェトナム戦争反対集会で、ギンズバーグと一緒にお香を焚き、州兵たちを花で飾り、あぐらをかいてチャントを行なった。バクティヴェーダンタ・プラブパーダのクリシュナ意識国際協会が、公共の場所でクリシュナを崇拝し、賛美の歌を歌うことに対する強固な足掛かりを築いたのも、ギンズバーグのおかけである。要するに、この頃のアメリカは変だったのだ。プルナとラクシュマンはこうした状況を見てどう思ったのだろうか? インドがアレン・ギンズバーグを変えたように、アメリカは彼らを変えたのだろうか?

   

 現在、プルナ・ダスは国際的に有名なレコーディング・アーティストである。コルカタ(カルカッタ)のダクリア地区にある彼のアパートメントは、世界中を旅して集めたお土産で飾られ、壁はプルナと息子がジョージ・ハリスンやキース・リチャーズといった有名ミュージシャンと一緒に写っている写真で覆われている。1962年にソ連がスポンサーとなってヘルシンキで行なわれたワールド・ユース・フェスティバルに出演していたプルナは、LDMスピリチュアル・バンドがアメリカ公演に向けて出発する時点では、バンドの中で唯一、インド国外に行った経験のあるメンバーだった。しかし、アメリカ横断の旅の思い出や、アメリカやその音楽に関する彼の理解について筆者(デボラ・ベイカー)が質問しても、かなり漠然とした回答しか得られなかった。プルナの記憶にあるのはこんなことだった:ニューヨーク州ベアズヴィルに長逗留している間に、ボブ・ディランとトランプに興じたり、コートの比べっこをした。ディランは自分を「アメリカのバウル」だと言った。ディランがプルナとラクシュマンと一緒に撮った写真が、1967年12月にリリースされたディランのアルバム《John Wesley Hardig》のジャケットを飾ったが、これはとても嬉しかった。サンフランシスコでレコーディング・セッションを行なった。ベアズヴィルはとても寒かった。サリーはメンバー全員にとても親切だった。ホームシックにならなかったか?、奥さんがいなくて寂しくなかったのか?という質問には、バウルはホームシックにならない、いつも心の中に家を持っているから、とプルナは答えた。そして、質問がアソケ・ファキールのことに及ぶと、ようやく、プルナの記憶は明瞭になった。



 まず、1962年のスーリ訪問に関して、ギンズバーグが日記に書いていることに異を唱えた。筆者がこれまでに理解していたことは完全に誤解らしい。ギンズバーグをタラピートに連れて行ったのはプルナであり、アソケはその場にいなかった。アソケはギンズバーグとは何の関係もない。同じく、アルバートは1966年にカルカッタに来た際、直接プルナにコンタクトを取ってきた。プルナが妻マンジュとグランド・ホテルに行ったところ、ロビーで偶然アソケに出くわした(プルナの説明によると、アソケはこのホテルに宿泊している外国人によくガンジャを売っていたらしい)。「私のほうがアソケを連れて行ったのです。それまでは、誰もこの男のことなんて知りませんでした。アメリカ行きのチャンスをもちかけられたのは私で、それを承諾したのも私。グループを連れて行きますと言ったのも私です。さらに、英会話が出来ないので、アソケを秘書として連れて行きたい、と私から言い出しました」プルナによると、一行はLDMスピリチュアル・バンドなどという名前ではなく、プルナ・ダス・バウルの旗印のもとでアメリカに行ったのだ、とのことである。「それは誤った情報です」

 筆者が質問を続けると、プルナは突然、それまでため込んでいた大量の不平不満を噴き出した。彼は騙されていたのだ! アルバートやサリーではなく、アソケ・ファキールに。アソケはヴィザや航空券の領収書をプルナに見せた後、サリーから送ってもらった金は使い切ってしまったので、誰にもギャラは払えないと言った。メンバーが留守となる数カ月間の家族の生活費となる前金がもらえなかっただけでなく、衣装代・楽器代としてひとり当たり2,500ルピーをアソケから徴収されてもいたのだ。プルナ・ダスは自分だけでなく弟とスダノンド・ダスのためにも、パトロンにこの金を払ってもらわなければならなかった。アソケからは、アメリカに到着次第、サリーからギャラがもらえると言われていたが、プルナは一銭ももらえなかった。ミュージシャンを選ばせてももらえなかった。「(ミュージシャンの)リストをアソケに渡したら、変えられてしまいました。2人の名前を消して、彼が選んだ別の人間2名が加えてありました」後になって判明したのだが、アソケは旅費の一部で大量のハシシを購入し、それをプルナが代金を払った5本のタンプーラのうちの2本の中に隠しておいたのだ。

 出発前からプルナは不満を抱えていた。「私は一般人に格下げされていました」プルナは思い出すだけで腸が煮えたぎるらしく、鼻息荒く答えた。「でも、あの男に従うしかありませんでした。サリーと意志疎通が出来るのはアソケだけだったからです。金はサリーが送ってくれることになってる、まだのようだけど、とアソケは言い続けていた。私達は彼に代理人の権限を与えなければなりませんでした。相手が誰であろうが、私達は勝手に話してはいけませんでした。私達を代表してアソケが全てをやる、ということになってました。私の通訳から集金まで、アソケが全てを担当することになっていました」

 結局、サンフランシスコでエレクトラ用にレコーディングした《The Bauls Of Bengal:Indian Street Music》(Nonsuchレーベルから発売)から生じた利益のうち、プルナは1銭も受け取っていないという。このアルバムの売上が今もなおアソケの懐に入っていると考えただけで、腹が立つらしい。実際、筆者は彼の息子から、事態の是正のために父親を助けてくれないかと言われたほどである。

 「遂にサンフランシスコに到着すると、サリーが空港に迎えに来てくれました。奥さんはどこにいるの?とサリーから訊かれたので、マンジュを連れて来ないように求めてきたのはあなたですよ、と言いました。サリーはそんなこと言ってないと否定しました。彼女はすぐにアソケを呼んで、その件について口論を始めました」ふたりの激しいやりとりから、プルナは察した。マンジュ用の航空券はアソケの妻マラティのほうに回されたのだと。その晩の宿泊先、ヴァンネス・アヴェニューにあるヴァガボンド・インで、ラクシュマンが最近出来た靴ずれを気にしていると(彼は靴をはいたことがなかったのだ)、バークリーの学生ディリップ・バスがやって来て、彼らの悲痛の訴えを聞いた。プルナは自分が危険な状態にいると感じていた。サリーは何が起こっているのか全く知らなかった。アソケはバスにこんなことを語ったらしい:イスラム法にのっとって複数の妻を持つことが出来るように、自分は名前をファキールに変えた。マラティは数人いる妻の中で一番若く、一番最近に娶った女性なのだ、と。さらに、一行は腹を空かせていた。アソケは自分が食べた食事の残りか、食べることの出来ないアメリカのストリート・フードしか与えてくれなかったので、彼らはパンしか食べていなかった。ディリップはサリーと話すと約束した。

 でも、初の公演の際にアソケはいたではないかと、筆者が質問すると、こんな答えが帰ってきた。「アソケは初パフォーマンスには参加していましたが、その後はいませんでした。放り出されたのです。説法師になってしまったからです。剃髪し、服も変え、「マヌーシュ・ダルマ」(タゴールの『人類の宗教』)を布教するためにやって来たなんて、話し始めました。自分の一番弟子がプルナ・ダス・バウルだと言い、弟子として私の父の名前まで出しました。会ったこともないのにです」以上のことを、プルナは幕間にディリップ・バスから聞いた。サリーはバックステージに入って来て、彼らに言い始めた。皆さんをアメリカに招いたのは、説教をしてもらうためではありません、歌を披露してもらうためです、と。サリーの言葉と、プルナの返答を通訳した後、ディリップ・バスはメンバーを擁護して、全部アソケが勝手にやったことだと発言した。そして、プルナがアソケについて言わんとしていることを、英語に翻訳した。「彼は本物のバウルではありません」

 多数の学者が長年研究しているにもかかわらず、本物のバウルとはどんな人間なのか、バウルの源流はどこにあるのか、今も誰にもわからない。19世紀にベンガル地方を支配していたイギリス人にとって、バウルはその地方にうじゃうじゃいた乞食と区別がつかなかった。彼らは全員を一緒くたにしてごろつきや逃亡者というレッテルを貼った。イギリスから来た役人は次のような意見を述べている:「このキャンプの中の托鉢僧の数は膨大です。イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、男、女、子供、ありとあらゆる種類がいます。不快極まりない存在で、一日中テントの間をフラフラして、施しを要求するのです。その時のしつこさ、粘り強さといったら、傲慢で腹が立つほどです。パイス(インドのかつての通貨単位。ルピーの64分の1に相当)を要求する者もいますが、馬に乗ってあちこちに現れ、非常にずうずうしく数ルピーを要求する者も多数います。横柄であればあるほど高潔なのだと思っているようです」 裕福なザーミンダール(小作人から地租を集めて政府に収めていた大地主)は、こうした輩のために生じた損失(とはいうものの、彼等はバウルに最高の敬意を表していた)の埋め合わせのために、イギリス人に対して上納金免除を要求し始め、結果として武力衝突まで起こった。少なくとも、タゴールがバウルの歌への称賛と人間の無慈悲を詩にして詠み始めるまでは、イギリスから来た役人が抱いていたバウルに対する軽蔑的視線を、ベンガル地方の英語が出来るインド人の社会も受け継いでいた。

 バウルの格好は、彼らのルーツに関する問題をさらに混乱させるほど奇抜である。タゴールでさえ、バウルが安易な分類を拒むことを認めていた。バウルは体にオイルを塗り、髪を伸ばす(常にというわけではないが)。彼らが昔から身につけているコートはボロ切れのパッチワーク。着古したルンギーや擦り切れたクルタは、富を持つことや、イスラム教徒もしくはヒンドゥー教徒を衣装で区別することへの嘲りの感情を表すものだった。バウルは蓮のポーズで座った格好で、地上に葬られる。宗教的にバウルと最も近いのが、ヒンドゥ教ヴァイシュナヴァ派とサハジャ乗(仏教の一派)だと言われている。彼らの祈りの歌も、バウルのそれと同様に、希求と没我を歌っている。スーフィーの思想がカビールの詩を通して入って来て、バウルの複雑な宗教思想にさらに混乱を与えているという説もある。エドワード・ディモックは、以前の研究者たちの成果を踏まえて、性の秘技と曖昧なメタファーに(仏教の)密教の痕跡を見出している。性交渉中の精液滞留や、経血や糞尿の儀式的摂取等の行為が見られるからだ。ディモックに続いてカルカッタに行ったアメリカ人民俗音楽研究家、チャールズ・キャンベルは、世界で初めて、バウルの音楽を音楽学的に分析した論文を書いた。彼はまた、タゴールがバウルの主義主張を取り上げた前と後での、バウルと、カルカッタのコスモポリタン的なベンガル人社会との複雑な関係も研究した。
 
 しかし、タゴールや、ベンガル地方で行われる祭における無数の群衆と同様、アルバート・グロスマンにとっては音楽こそバウルの持つ最大の特長であり、彼が見出したのはミュージシャンとしてのバウルだった。グロスマンがバウルの一団をアメリカに招聘した年である1967年には、彼はフォーク・ロック界の王様だった。彼は優れた才能を見つける目に誇りを持っており、自分の抱えるミュージシャンをエンターテナーというよりもむしろアーティストとして扱い、彼らをナイトクラブやコーヒーハウスから卒業させてコンサート・ホールやオーディトリアムで演奏させ、大きなレコーディング契約、出版契約を締結した。ベアズヴィルにあるグロスマンのレコーディング・スタジオでは、バンドは自分の側の条件通りにレコードを録音することが出来た。グロスマンは独自のブッキング作業と宣伝機構を持ち、ビジネス・マネージャー、ツアー・マネージャー、プロデューサー、秘書、帳簿係をたくさん抱えていた。彼が何よりも持っていたのは、東55丁目の暗いオフィスの中から指示を出し、レコード業界において自分の力を効率良く発揮する術{すべ}だった。音楽シーンではグロスマン以上の力を持っている者はひとりもいなかった。

 オデッタ、ピーター・ヤーロウ、ゴードン・ライトフット、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドを成功させているグロスマンには、ベンガル出身の5人のミュージシャンに関しても、世に出してあげられない理由が見当たらなかった。彼はバウルたちがレコード契約、コンサート・ツアー、出版契約を獲得出来るよう面倒を見た。グロスマンが行なっていたのは、そういうビジネスだった。

 見たこともない楽器の伴奏で、理解出来ない言葉で歌われるこの音楽だって、西ベンガル地方から持ってきたら、ヒップなアメリカで売れるのではなかろうか?

 アルバート・グロスマンは本物と偽物を嗅ぎわける能力を持っており、ベンガルのバウルたちは本物だった。

 アルバート・グロスマンは1986年に亡くなったが、サリーは今でもなおベアスヴィルで暮らしている。彼女の家があるのは、バウルがカリフォルニアからやって来て半年間滞在することになる約1年2カ月前に、ボブ・ディランがかの有名なオートバイ事故を起こしたのと同じ道だ。そして、その道をもっと行ったソーガティーズには、ディランのバックバンド、ザ・ホークス(後にザ・バンドとして知られるようになる)のメンバーが暮らしていたビッグ・ピンクがある。ザ・バンドのキーボード・プレイヤーのガース・ハドソンが、プルナたちの歌や楽器の演奏を録音した場所が、この家の地下室である。この時のテープは、ディランが怪我の療養中に録音した「ベースメント・テープス」ともども盗まれてしまったのだが、幸いなことに、トミー・ドノヴァンがカセット・テープにコピーして持っていた。彼はグロスマンの車のカーステレオからバウルの歌を大音量で流しながら、ウッドストックの田舎道のドライブするのが好きだったのだ。後に、彼のカセット・テープを音源として《Bengali Bauls at Big Pink》がリリースされた。

 1970〜1980年代には、バンドのマネージングに飽きたグロスマンは不動産にエネルギーを注ぎ、土地や古い家屋を買収し、さまざまな開発プロジェクトに出資した。サリーは最近になって、グロスマンがこの頃作った200席の劇場兼レストランを売却した。かつてはローリング・ストーンズやパティー・スミス、ボニー・レイット、NRBQ、フィッシュといったアーティストをこの地に引きつけた伝説のベアスヴィル・サウンド・スタジオも、サリーは売却してしまった。

bringing-it-all-back-home1.jpg

 ディラン・ファンなら、1965年にリリースされたアルバム《Bringing it All Back Home》のジャケットで、赤いドレスを着て平然と座ってる栗色の髪の美人が、サリー・グロスマンだと知っているはずだ。数年前に筆者が初めて会った時のサリーは口の堅い女性といった印象で、あの頃の数々の伝説や、長年のセックス・ドラッグ・ロックンロールの弊害によって、閉じ込められてるかのように見えた。ベンガル人の名前や言葉を語る彼女の声は、喫煙のせいでハスキーになり、しかも強いクイーンズ訛があった。音楽シーンについて語る時には、アメリカのものであれ西ベンガル地方のものであれ、彼女の記憶が行なう飛躍やショートカットについていくのが大変であった。何ページも抜けている本を読もうとしているかのような状態も、時折あった。「手短に言うと」がサリーが好んで使う言葉だった。

 サリーは、私が彼女に初めて会う数年前から、定期的にカルカッタを訪問し、数十年の間、互いに御無沙汰状態だったプルナやラクシュマンと再び会うようになっていた。人生で出会った有名ミュージシャンやバンドは数知れないが、彼女が長年、最も懐かしく思っていたのがバウルたちだった。彼女はグロスマンが遺したくれた遺産で彼らのために何か出来ないかと漠然と考え始め、最初に計画したのはバウルと彼らの音楽の博物館を作ることだった。日本人がシャンティニケータンのラビンドラ・バラティー大学でやったことような線をサリーは狙っていたのだが、役所の手続き関係で話がこじれて頓挫し、最終的には、ある人物の提案で、ネット上に博物館兼アーカイヴを作ることになった。

 こうして出来上がったのがbaularchive.comである。サリーはベンガル地方の音楽の愛好家と8人の通訳からなるアメリカ人とベンガル人の混成撮影クルーを組織し、バウルのシーンに顔が利くアディティ・シルカールの協力ものと、バウル探しを開始した。

 かの有名な民俗学者、アラン・ロマックスがアメリカのディープ・サウスを旅して、綿花畑やもぐり酒場、牢屋に入れられたギャングのブルース・アーティストの歌をフィールド・レコーディングしたように、サリーも西ベンガル地方のさまざまな町や祭を巡った。これまでに、サリーはウェブサイト用に100人以上のバウル・シンガーのインタビュー動画を集めて、彼らの言葉や歌を英語とベンガル語で文字化している。民族学的な視点からバウルの音楽を鳥瞰する記事は、チャーリー・キャプウェルがこのサイトに寄稿したものだ。

 サリーの目下の計画は、毎冬インドを訪問して、バンクラ、ナディア・マルダ、ムルシダバッドで続けられている撮影を監督することである。取材をしてないバウル・シンガーがひとりもいなくなるまでこの作業を続け、最終的にはバングラデッシュにも出向きたいと考えている。そして、サイトの運営をカリフォルニア大学ロサンゼルス校が引き継いでくれることを希望している。

 サリーはウェブサイトの作業のために、1971年に訪れたきり、ずっと御無沙汰していた村々を再訪問した。かつてこの地方を訪問した際、彼女は半年間ビルブム県を回って、バウルに関するドキュメンタリーを撮影していた。サタジット・レイの『オプー三部作』の撮影技師、スブラータ・ミトラがコンサルタントのひとりになり、撮影クルーには、カメラマンのハワード・アークと、彼の妻で音響技師のジョーンズ・カリナンもいた。ふたりともアルバート・グロスマンとは、彼が音楽ビジネスでは駆け出しだった頃からの知り合いだった。カリナンはグロスマンがシカゴで経営していたバーで客の携帯品を預かる係をしており、サリーは彼女の大親友だった。カリナンもまた、プルナとラクシュマンがベアズヴィルに滞在し、コンサートにお呼びがかかるのを待っていた時に、彼らと知り合いになっていた。7カ月の契約期間中に、バウルたちがアメリカでパフォーマンスを行なったのは、ほんの数回しかなかった。演奏を行なったとしても、たいていは前座であり、理解力の殆どないオーディエンスには彼らの出番は長すぎた。カリナンは言う:「彼らの音楽はあまり成功しませんでした。コンサートはあくまで特殊な機会であって、長いドライブの際に、サリーのステーションワゴン・ジープの後部座席に座って歌ったりお祈りをしたりというのが、彼らの日常でした」ある時カリナンは、サリーの帽子、ブーツ、コート、長い丈の肌着を着て、雪の中、ドライヴウェイの端に立っているラクシュマンと会った。彼は涙を流しながら叫んだ。「オー、シスター」雪に耐えられなかったのだ。

 カリナンとアークはディランのイギリス・ツアーを収めたドキュメンタリー映画『Don't Look Back』(監督:DA・ペネベイカー)の撮影スタッフでもあった人物だが、彼らが1971年1月にインドに到着する直前には、ジョーンズはブラック・パンサー党に関するドキュメンタリー映画を完成させていた。カリナンは回想する:「戦争が起こりそうだという兆候が、既にいくつもありました。皆からカルカッタには行くなと言われました。税関で音響機材を差し止めされてしまい、それをボンベイの外に持って行くのに2カ月もかかりました」洪水と戦争による難民がバングラデッシュとインドの国境線付近に流入を続け、左翼過激派グループが中流階級のベンガル人を処刑するなどという行為が多発していたこの時期に、スクールバスに乗って西ベンガル地方を旅をするというのは、アメリカ人には非常に刺激が多かった。「新聞には、アメリカ製の印が入った武器が押収されたという記事が載っていました。私たちがカルカッタに来て2日目には、胴から切り離された男の首の写真がフロントページに載っていました。警察が身元の判明に役立てばと思ったのでしょう」とはいえ、ラクシュマン・バウルの映画は、音楽を探す旅を収めた心に残るロード・ムービである。サリーのナレーションは、歌の歌詞や旅行談、バウルに関する民族学的解説をミックスしたものだったが、映画は他ならぬラクシュマン・ダス・バウルに焦点をあてたものだった。



 プルナは有名になり世間慣れしていったが、彼の弟のほうはスーリにとどまり、父親もよく通った昔からのバウルの溜まり場や村祭を主な活動拠点にしている。今年の3月上旬、彼は大家族を連れて、シャンティニケータンに滞在中の筆者に会いに来てくれた。プルナと同様、ラクシュマンも派手なロックンローラーの向こうを張るようなけばけばしいバウルの衣装を着て、パフォーマンスを行なう。ただし、兄が大好きなクロックスのサンダルははいていないが。

 威厳たっぷりでどこか近寄り難い雰囲気のあるプルナとは違って、ラクシュマンは心はあたたかいが、どこか不運な雰囲気がある。彼はきっかけがあればすぐに歌い初めてくれる。プルナが嗜んでいるのは専ら酒なのだが、ラクシュマンは彼の父親と同様に、長年のチラム吸引のせいでノドと健康を害している。彼の側近たちが、私たちが座ってお茶を飲んでいた部屋のベッドを毛布で包んだ。皆はその様子をじっと眺めた。

 「6カ月と19日だ」帰国する日をずっと数えていたような話しっぷりだ。バウルたちはアメリカ滞在時間の殆どをベアズヴィルで過ごし、ザ・バンドのメンバーとチェッカーに興じたり、歌ったり、米やダル豆、チキンで料理を作ったり、暖を取ったりしていた。ラクシュマンの最も好きな思い出はブルース・コンサートに行ったことだった。出演者が黒人ミュージシャンばかりだったと、彼は喜々として語った。晩秋のある日、サリーは大きな鳥を料理したが、ラクシュマンはそれを食べることが出来なかった。アメリカのマリファナは役に立たないが、アメリカのビールは気に入った。特に缶入りのものは。ロビー・ロバートソンやガース・ハドソン、ボブ・ディランはとてもいい人で、皆、ラクシュマンの酒豪っぷりに驚いていた。ベアズヴィルの周囲の森や山にトラが生息してないというのは、信じられなかった。

 サリーからは手厚く面倒を見てもらい、古い納屋のセントラルヒーティングのある小さな部屋をあてがってもらい、米や豆を何袋も買ってもらったにもかかわらず、バウルたちには6カ月は6年にも感じられた。彼らは皆、ホームシックになって泣いており、遂には食事がノドを通らなくなってしまった。そのくらい、帰国して妻と5人の子供のもとに戻りたく思った。遂に帰国することになった時、サリーからたくさんのお土産をもらった。アルバート・グロスマンは兄プルナにたくさんの金を渡していたようだが、他のメンバーはインドを出た時と同じく無一文で帰国した。

 バウルズ・オブ・ベンガルは思い出に残るパフォーマンスを1回は行なった。フィルモア公演の翌日に、ディリップ・バスはメンバー全員をバークリーに連れて行き、近所の家の裏庭でフィッシュ・カレーのランチをご馳走した。芝生の上で長時間昼寝をした後、バスはメンバーを公園に連れて行くと、そこでは毎週日曜日になると、無料コンサートが行なわれ、それを目当てにヒッピーや「美しい」人々が集まっていた。自家製の料理と公園のお祭のような雰囲気のおかげで、皆の気分は高揚した。カントリー・ジョー&ザ・フィッシュが出演していたので、休憩中に彼らのところに行って、バウルたちをインドをからやって来たフォーク・シンガーで、クリシュナを崇拝していると紹介し、お願いしてみた。彼らにも歌わせてもらえないだろうか、と。

   

 バスの思い出話はこう続く。バウルたちが去ろうとしていると、突然ティモシー・リアリーがやって来た。彼は自己紹介するや否や、自宅に来て生まれたばかりの息子クリシュナを祝福してくれないかと頼み始めた。筆者はこの話しを聞いて、アソケ・ファキールも一緒に公園に行ったのか訊きたくなった。アソケ・ファキールは、何年も経ってからアレン・ギンズバーグに書いた手紙の中で、サンフランシスコで自分の身に起こった出来事についてこう説明している。サリーによってクビにされ、ツアーから放り出されてしまったアソケは、コンサート翌日にバークリーにあるティモシー・リアリー宅に行った。ギンズバーグは、ティモシー・リアリーがカルカッタに行ったら、アソケは絶対に必要な人間だと思っていた。アルバート・グロスマンやアレン本人にとってもそうであったように。9月中旬のあの日の午後、公園にリアリーが来たというのは、アソケにとっては、神々が常に自分の味方をしてくれているという印に思えたに違いない。間もなく、アソケはティモシー・リアリーのパーソナルな導師{グル}として知られる存在になり、その後は、2度とカルカッタには戻らなかった。

Copyrighted material "For the Sake of the Song" by Deborah Baker
http://caravanmagazine.in/reportage/sake-song
Reprinted in permission


参考リンク集:

デボラ・ベイカーのウェブサイト
http://www.baularchive.com/
『A Blue Hand』に関するギャラリーには関連写真が多数

サリー・グロスマンによるバウル・アーカイヴ
http://www.baularchive.com/

プルナ・ダス・バウルのFacebookページ
https://www.facebook.com/PurnaDasBaul

ショッタノンド・ダスのウェブサイト
http://satyanandadas.blog50.fc2.com/

キコリレコード(ショッタノンド・ダスのCD販売)
http://www.kikorirecords.com/shop/

北Qエレジー(ショッタノンド・ダス&バウルの楽器紹介)
http://blog.goo.ne.jp/akira-65/e/624fa0601f15b6beb216c334e0c7e180

《From Another World》
プルナ・ダス・バウルが歌う〈Mr. Tambourine Man〉収録

posted by Saved at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック