1967年にプルナ一行がビッグ・ピンクに遊びに行った際、ガース・ハドソンが彼らの演奏を録音したことは前回述べた通りですが、プルナは2001年にリリースされたガースのソロ・アルバム《The Sea To The North》にも参加しています。ふたりが旧交をあたためた際の写真が、ネット上にありました。
(1)の記事本文にも書かれている通り、プルナの記憶の正確さをどこまで信用していいのか分かりません。(1)では、1967年のアメリカ公演の際には、奥さんは同行していないと語っていますが、今回紹介するインタビューでは同行していたことになっています。さらに、1962年にフィンランドで行なわれたフェスティヴァルに参加したことを忘れているようです。ボブ・ディランやミック・ジャガーとアルバムを録音したというのも、プルナがどのレベルの話をしているのか不明です。私の知る限りでは、ディランのディスコグラフィーにも、ローリング・ストーンズのディスコグラフィーにも、それとおぼしきアルバム作品は載っていません(載ってたら教えてください)。どちらにとっても、はるばるインドからやって来たバウルは珍しいお客さんでしょうから、互いに歌を披露し、ジャム・セッションを行ない、それをテープに記録として残しておくことくらいはやったのではないかと思いますが…。将来、とんでもない音源が発掘されるかもしれないので、その時のために、この件については頭の片隅で覚えておくことにしましょう。
吟遊詩人の物語〜プルナ・ダス・バウル・インタビュー
(聞き手&文:パラヴィ・バタチャリヤ)
プルナ・ダス・バウルは67年間、世界各地を歩き続け、ボブ・ディランやミック・ジャガーの自宅を訪れたこともある。インドのバウルの皇帝が旅の物語を語る。
ベンガル地方のバウルは永遠のさすらい人です。エクタラというバウルの楽器の奏でる通奏低音は、施しを求める物乞いたちと結びつき、犠牲的行為と家なき身の上という響きも持っています。これこそベンガル人の魂です。
私の父、ナバニ・ダス・バウルもバウルの歌を歌いながら聖地から聖地へと旅をしていました。私はビルブムのランプラットの近くにあるエクチャッカという村で生まれましたが、子供時代を放浪者として過ごしました。1カ所に長く留まることは、父には不可能だったからです。当時、ベンガル地方の村々にはヴァイシュナバ派の僧院があり、集会が行なわれていました。私は父と一緒にこうした集会の多くに参加し、大勢のサドゥーたちと貴重な時間を過ごしました。幼少の頃からずっと、旅を通じて興味深い人と出会ってきました。父は祭や儀式に招かれては歌い、私はいつも父について行きました。
6歳の時に、ベンガル地方を飢饉が襲い、私の一家もジリ貧の生活を強いられたので、家族を飢えから救うために自分がストリートに出てバウルの歌を歌わなければなりませんでした。この一家の危機は実は恩恵が仮面をかぶったものでした。これがきっかけとなり、私は永遠の旅に出ることになったのですから。7歳で、私は駅のホームや列車の中で歌い始め、おかげでさらに遠いところまで移動することになりました。人生のこの転機の時に、私は有名な聖人シタ・ラム・オムカルナートに会いました。ベンガル以外の場所でもバウルの歌を歌うように勧めてくれたのが彼です。9歳の時には、ジャイプールで歌って、観客の心を掴み、金メダルを獲得しました。
初めてコルカタに行った時にはとてもワクワクしました。私は10代前半になっていました。たくさんの音楽家と出会い、ラン・マハール劇場やボンゴ・サンスクリット・メーラでパフォーマンスを行ないました。ジョラサンコ・タクール・バリ(ラビンドラナート・タゴール生家、タゴール・ハウス)に滞在したこともあります。間もなく、私はコルカタで父と一緒にレコーディング活動も始め、私のカセットテープはベストセラーになりました。
初めて海外に行ったのは、1960年代後半のことです。ボブ・ディランのマネージャーだったアルバート・グロスマンによってアメリカに招かれて、サンフランシスコの音楽フェスティバルで歌を披露しました。アメリカをツアーして、他のフェスティバルにも出演し、それからグロスマンに、ボブ・ディランが暮らしているベアズビルに連れてってもらいました。
ベアズヴィルはウッドストック郡の中にありました。ウッドストックはニュー・イングランド地方の典型的な小村でしたが、音楽ファンやアーティストにとっては巡礼の地でした。ダウンタウンのエリアは閑散としてましたが、螺旋階段のある古風な店やギャラリーがありました。小さな路地や隠れた横道を探検するのは面白い体験でした。田園地帯は、小さな農家やミステリアスな宿屋、親切にもてなしてくれる店があって、驚きの連続でした。
ベアズヴィルという地名はベア(熊)からきています。彼らはあちこちをウロウロしては、果樹園のリンゴやブドウを食べてしまいます。ありがたいことに、私は熊とは遭遇しませんでしたけどね。リンゴが落ちてる草のベッドの上で鹿が体を転がすのを見るのは好きでした。ウサギがちょこちょと走り、鳥たちは1日中鳴いていました。
ボブ・ディランと作業をしていた時、ベアズヴィルの小高い森の中にある木造の家で暮らしていました。プールがついていました。ディランはとても親切な若者で、私たちが米しか食べないのを知ると、私たちが住んでる家まで何袋もの米を送ってくれて、全部食べるまで帰っちゃいけないと言いました。ディランはインド料理が好きでした。よくやって来て、私の女房の作るキチュリを味わって食べていました。あのあたりではリンゴがたくさん取れるので、ジャガイモのかわりに、それを加えました。
ベアズヴィルのレコーディング・スタジオは森の中のお城のようでした。お伽話そのもののような環境です。私が滞在していたゲストハウスは音楽スタジオのすぐ近くにありました。作業をしたい時にスタジオで作業し、音楽を作る気分でない時には家に帰りました。ディランが山の方から馬に乗ってやってきて、樽の上に座ってギターを弾いてたのを覚えています。ディランとジャム・セッションをやったのは楽しい思い出です。その後、一緒にアルバムを録音しました。ディランは自分は「アメリカのバウル」だと言ってました。自分のはいているパッチワーク・ジーンズは私の多色のズボンみたいなものであり、彼も私も人間を讃える歌を歌っている----どこに違いがあろうか、と語ってました。
フランスのニースでミック・ジャガーと会ったのも、同じくらい刺激的な経験でした。私がフランスを旅した時は、ヒッピーの時代でした。ニースは景色が美しい都市です。地中海の深い青の海岸にふさ飾りをつるように緑の松林があって、そのすぐ内輪側では岩だらけの山地の風景が始まります。ニースの美術館や知的な雰囲気が、芸術家や画家、作家、彫刻家、音楽家を引き付けていました。
私はミック・ジャガーのマネージャーに招かれて、ニースにあるローリング・ストーンズのスタジオでレコーディングを行ないました。皮肉なことに、ミックの会社から招かれたのに、私はその時、ミック・ジャガーが何者なのか全然知りませんでした。海岸沿いにあるローリング・ストーンズの建物は、宮殿のように豪華でした。ヴィクトリア・メモリアル・ホールに似ていて、美しいガラスの天井からは太陽の光が注いでいました。私は地中海のクリスタル・ブルーの水と、そこに住んでいる海の生物を何時間も眺めていました。レコーディング・スタジオは地下にあって、外部の世界からは完全に切り離されていました。
初めてミック・ジャガーの姿を見た時、彼は海岸で私の音楽に合わせて蛇のように機敏にダンスをしていて、そのうち、ギターを弾き始めました。私は少し遠く離れたところにいましたが、ミックと私は互いの姿が見えました。私は彼が誰なのか知らなかったので、マネージャーに、あそこで踊られると気が散ると言いました。すると、マネージャーからは、あっちを見ないで歌ってください、と丁重に言われました。
驚いたことに、その後間もなく、ミック・ジャガーからディナーに招待されました。ミックはとてもクレイジーな運転をしながら、丘の上の自宅まで私たちを車で連れてってくれました。ミックの自宅はブドウ畑の真ん中にある古城を改造したものでした。家の前にはロールスロイスや何台ものスポーツカーが停まっていました。私は特別なゲストでした。当時、ミック・ジャガーはビアンカと結婚していて、彼女との間に誕生したばかりの女の子を祝福し、名前をつけてくれと、特別なリクエストをされました。私がインドから来たスピリチュアルな人間だからということでした。私は娘さんにクリシュナという名前をつけました。ミックは豪勢な宴を開いて私たちをもてなしてくれました。ミックのペットである、丸々太ったカラフルな毛並みのネコたちが、屋敷の中をうろついていました。ミック・ジャガーはオートバイに乗るのが大好きで、たくさんのバイクと1台のヘリコプターを所有していました。彼は当時まだ子供だった私の末っ子とすぐに仲良くなり、たくさんのプレゼントをくれました。私はミックと一緒にアルバム《Jai Bangla》をレコーディングしました。
ミックとはたった1枚だけ一緒に写真を撮りました。ロンドンの写真スタジオで現像してもらった時、カウンターにいた店員から、どうやって知り合ったのかと質問されたので、彼も私もアーティストなのですと答えました。丁度その時、スタジオのテレビに、ミック・ジャガーが自宅から出て来て空港に向かう姿が映りました。店員は言いました。「この人は、世界で最も偉大なミュージシャンのミック・ジャガーですよ」
私はたくさんの国を旅しました。航空券を集めると山のようになるでしょう。バウルはひとつの場所に長居はしないさすらい人です。世界中のあらゆる国が、私の故郷です。私にとっては、日出づる処である日本から始まって西の果てまで、行ったことのあるあらゆる国が特別な重要性を持っています。同じ国を何度も訪れることがありますが、毎回、新しいことに出会って魅了されます。私は自分がインドの文化使節のような存在であることに誇りを持っています。テネシー・フォーク・フェスティヴァルで歌を披露したのは、大変名誉なことでした。現在、サンディエゴにはバウル・アカデミーがあり、そこにはよく行きます。空港で外国の方々が私のところに来て、「あなたの音楽に感銘を受けました」と言いながら私の足に触れるのは、光栄なことです。
家族と一緒に旅をするのも楽しいです。息子のうちふたりがムンバイとパリに定住しているので、私は定期的にそこを訪れます。旅の際にはたいてい、妻も同行します。彼女もミュージシャンです。ふたりで行なった旅の思い出をたくさん持っています。シャンティニケータンは大好きな旅の目的地です。コルカタにとても近いし、その地にバウル・ソサエティを作ったからです。シャンティニケータンも都市化の波に徐々に侵食されています。道路が出来、インターネット・カフェが開店し、高層ビルが建設されていますが、まだ平和で神聖で、文化的な雰囲気もあります。コルカタのダクリアに家を1軒所有していますが、決まった住所は持っていません。74歳の現在でも、さすらい人です。最後に私が大好きなバウルの歌を皆さんと分かち合いましょう:
Gari cholche ajob kole
Ei Deho diye mati poripati
Aguun, jol aar hawar kole
私たちの体は、常に水と風を燃料にして動く乗り物みたいなものです。
私たちは塵から生まれ、旅が終わると塵に戻ります。
The original article "The Tales of a Minstrel Purna Das Baul interviewed by Pallavi Bhattacharya"
http://www.beatofindia.com/mainpages/article-purna-1.htm#PurnaDas