2014年04月21日

長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命

 コンサート音源の流通量と質はバンドの方針に大きく左右され、ファンによるコンサートの録音に寛容なバンドほど、音源の質は高く、量も豊富です。その最たる例がグレイトフル・デッドではないでしょうか。1970年代からコンサート会場への録音機材の持ち込みには比較的寛容で、1984年からは公式的に録音者用セクションを設置したほどです。サウンドボード音源も時々ですが、バンド側から、ファンの間で流通することを承知で提供されていました。
 とはいえ、インターネットで誰でもライヴ・レコーディングをダウンロード出来るようになるのは2000年頃からであり、それまではRelix誌等のお友達募集欄を通じて同好の士を見つけ(私もこの雑誌に大変お世話になりました)、音源をメディアにコピーし、郵送しなければなりませんでした。DATやCDRといったデジタル・メディアが登場する以前は、コピーを重ねるごとに音質が著しく劣化するアナログのカセットテープでのやりとりだったので、経ているコピー回数の少ないものを入手するルートを持っている人が有力なコレクターでした。
 1980年代後半までは、ファンの間で広く出回っていたサウンドボード音源は、主に、FMラジオで放送されたライヴのエアチェックであり(地元サンフランシスコやツアー先のローカル局が、よくコンサートを生中継しました)、そこに風穴を開けたのがベッティー・ボードと呼ばれる音源群です。ベッティー・ボードとは、ベッティー・カンター=ジャクソンという女性が録音したサウンドボード音源テープという意味です。彼女はサウンドマンからマルチ・チャンネルでラインフィードをもらい、PA用とは別の独自のミックスでコンサートを録音していましたが(ポータブル・オープンリール・レコーダーのナグラIV-Sを含め、全部自腹だったそうです)、デッドのヴィンテージ・イヤーの火を吹いてるような演奏を高音質で収録していることで、ベッティー音源は人気がありました。
 ベッティーは何らかの理由でバンドのスタッフを辞めた後、これまた何らかの理由で(私が聞いた噂によると、当時のロック関係者の大半が陥ったアレらしい)生活費に困って破産し、競売にかけられた持ち物の中にテープがあり、数人のマニアがチームを組んでそれをPCM(ビデオカセットにデジタル信号を記録するシステム。DATが登場するまでわずか数年の命だった)等にコピーし、その後、ファンの間に急速に広まりました。当然、デッド側はテープの所有権を主張して、あれこれ手を回して回収、現在はテープ庫にある----というのが、私がこれまで理解していたことです。が、事態はこれほど単純なものではなかったようです。かつてはグレイトフル・デッドのファンジンのような存在で、テープ・コレクターに出会いの場を提供し、ジェリー・ガルシア亡き後はデッドの後継というべきジャム・バンド・シーンを応援してきたRelix誌に、先頃、次のような目からウロコの記事が掲載されました:

   




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ベッティー・ボードは今どこに
長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命


文:ディーン・ブドニック


 1986年5月にカリフォルニア州マリン・カウンティーで行なわれた差押品の競売が、後にグレイトフル・デッドのテープ・トレードやライヴ・レコーディングのオフィシャル・リリース、アメリカ合衆国議会図書館のナショナル・レコーディング登記におけるデッドの立場を根底から変えることになるとは、この時は誰も知らなかった。地元紙に掲載された公示に好奇心をそそられて、やって来たのは数十人ほど。彼らが期待していたのは、保管費用が払えなくなったために差し押さえられていた倉庫の中身のオークションでよく出てくるような、遺品や家財道具だった。近年でこそ、『Storage Wars』等のテレビ番組のおかげで、このような競売は大人気だが、1986年当時は、競売参加者もお宝は殆ど期待しておらず、棚からぼたもち的な出物も稀だったのだが、この春の日の午後に行なわれた競売では、フタを開けてみたら予想外のお宝が登場した。その日、競売にかけられた品の中には、1971〜80年のグレイトフル・デッド黄金期にベッティー・カンター=ジャクソンが録音したサウンドボード・テープ数百巻があったのだ。
 このレコーディング群は、後にベッティー・ボードと呼ばれるようになり、古参新参問わず、あらゆるデッドヘッズによって収集の対象となった。その結果、ある人々がコレクションの上にあぐらをかき、秘密の握手を知らない者からのアクセスを拒んでいたようなテープ・トレード・ヒエラルキーの一部は、終わってしまった。
 このレコーディング群は、1986年に登場し、その後コピーが出回るようになったことで、デッドヘッズの間では興味と思惑の源になっている。しかし、年月を経ても疑問は深まるばかりで、全容は殆ど明らかになっていない。どのような経緯でテープは競売にかけられたのか? 落札者は誰なのか? どのようなやり方で、どういう理由で、テープのコピーが出回り始めたのか? 出回っていないレコーディングはまだあるのか? 現在、テープはどこにあるのか? そもそもベッティー・ボード・テープ自体はどうなっているのか?
 話は極めて複雑であり、今もなお、一部の局面はしっかりと把握することが出来ないままの状態である。しかし、確実に言えるのは、新たなテープ群が発見され、ダーク・スター・オーケストラのギタリスト、ロブ・イートンのもとである計画が進行中であるということだ。イートンによると、彼は既にサウンドボード・テープの多くの修復を終え、その全作業が完了したら、テープをグレイトフル・デッド側に戻すとのことだ。その後、デッド側が音源を正式にリリースし、いくばくかの印税がベッティーに渡ることを、イートンは希望してる。実際に録音作業を行なったのがベッティーであり、デッドヘッズから大変感謝されてはいるものの、金銭的には困窮してテープを失ったのだから。 
 テープが競売にかけられる前の、さらには、サウンドボード・テープを録音する前の、ベッティーの経歴はこうだ。
 ベッティー・カンターがサンフランシスコのコンサート会場でマイクの設置や録音の手伝いを始めたのは、まだ10代の頃だった。最初の仕事場はアヴァロン・ボールルームで、次の現場はカルーセルだったのだが、ベッティーが後者で働いていたのは、丁度、グレイトフル・デッドが1968年に短期間、ショウ会場の経営に手を出した頃だった。ベッティーはボブ・マシューズの傍らで働き、デッドの《Anthem Of The Sun》のレコーディング中には、機材のセットアップ等を手伝った。男社会のロック界で自分の居場所をしっかり作った真の女性先駆者であるベッティーは、1970年代初頭もマシューズとパートナーを組み、《Aoxomoxoa》《Workingman's Dead》のスタジオ・レコーディングだけでなく、ライヴのマルチ・トラック・レコーディングのプロデュースとエンジニアリングも行なった(《Live/Dead》にも少し関与している)。
 この期間、ベッティー・カンターはいろんなアーティストのために働いたが、グレイトフル・デッドのクルー・スタッフだったレックス・ジャクソンと結婚したことがきっかけで、このバンドと密接な関係を維持することになる。しかし、レックスは数年後に自動車事故で死去してしまった(デッドが設立したチャリティー基金、レックス・ファンデーションは彼から名前を取っている)。
 ベッティー・カンター=ジャクソンは説明する。「レックスは機材クルーとして働きながら、コンサートの録音も始めました。レックスと私は自腹で録音機とテープを購入し、私がギグに行くことの出来る時はいつも、私が録音を担当しました。グレイトフル・デッドが地元の会場でコンサートをやる時には、よく録音しましたよ。ジェリー・ガルシア・バンドも、長年に渡っていろんなラインナップのものを、行くことが出来たコンサートは全部録音しました。他の気に入っているバンドのコンサートも、行くことの出来た時には録音しました。当時はどのバンドも親切で、喜んで私にラインの音を供給してくれました。レックスは1976年に自動車事故で亡くなってしまいましたが、'77年、'78年には、私はグレイトフル・デッドのツアー・クルーとして給料を貰い、ショウの録音やボビーのステージ・セットアップを担当していました」
 ベッティーは後に、デッドのキーボーディスト、ブレント・ミッドランドと恋仲になるが、それが破局した後は、周囲から冷たい視線を感じるようになったという。「ブレントとは数年つきあった後に別れました。最後の1年間はスタジオでソロ・プロジェクトの作業をやっていましたが、別れたせいで私は“元妻”扱いです。自分ではそれには該当しないと思っていましたが、周囲が私がうろうろしてると気まずく感じるようになり、そのうち、スタジオにもテープ庫にも出入り出来なくなってしまったのです」
 その後も、苦しい時期が続いた。1986年にはベッティーは財政難に陥り、住んでた家を追い出されてしまった。「持ち物が全て保管倉庫に移されたことで、輸送費と保管費が発生するようになり、それも支払うことが出来ませんでした。どこにも行くあてがなかったので、オレゴン州で準看護士の仕事を見つけるまで、姻戚宅で世話になりました」
 保管料を払うことが出来なくなったカンター=ジャクソンは、持ち物の所有権を剥奪されてしまった。彼女はグレイトフル・デッドのオフィスに連絡を入れて状況を説明したが、バンド側からは何もしてもらえず、結局、1,000巻以上のオープンリール・テープ(殆どはグレイトフル・デッドで、リジョン・オブ・メアリー、キングフィッシュ、ジェリー・ガルシア・バンド、オールド&イン・ザ・ウェイ、キース&ドナ・バンド、ニュー・ライダース・オブ・ザ・パープル・セイジのレコーディングもあった)を含むベッティーの所有物は競売にかけられた。

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[1977年5月8日のマスターテープ]


 ベッティー・ボードとして知られるようになった1,000巻以上のリールの大部分は、主に3人の人物の手に渡った。彼らは熱烈なデッドヘッドではなく、ひとり目の人物は今日までテープを保管倉庫に入れたままである。第2の人物はテープが入っていたロード・ケースのほうが欲しかったようで、10年間、テープは納屋の中で朽ち果てるがままに放置されていた。第3の人物はプログレッシヴ・ロックが好きな夫婦だったが、テープに収録されているパフォーマンスの価値のわかる人だった。
 思い返すと、ベッティー・ボードのブームを作ったのは、今もなお匿名希望のこの夫婦である。「この時競売にかけられたのは、ベッティーの保管倉庫の中身だけではありませんでした。他にもいくつかの保管倉庫の中身が競売にかけられたので、こうしたものの常連が数十人くらい姿を見せ、彼らはベッティーのものだけではなく、他のいろんな品にも入札していました。熱心に入札していたのは主に3人で、その他大勢は時折参加という感じでした。テープは競売物件のうちのごく一部で、大量の服や家財道具が山のように積まれ、その中にテープが含まれているという具合でした。服10着を落札したとすると、その中にテープが数本混じっていたりました」
 4時間の競売の後に、テープの一部はほぼ確実に廃棄されてしまったと思われるが、数週間後に開催された2回目の競売ではテープの最終ロットが出品され、主に3人がテープを数百巻ずつ手に入れた。そのうち2人はテープをどうするかノー・プランだったが、数カ月後、前述の夫婦は音楽を世に出すことにした。
 この匿名の夫婦はeメールでこう回答してくれた。「いろんなロック・グループのブートレッグ・レコーディングの熱心なコレクターだったので、この財産を皆と共有するのが当然だと思いました。当時、私達のグレイトフル・デッド・コレクションには、あの頃よく出回っていた音源しかありませんでした。しかし、この新しいテープ群はコレクションの幅を劇的に広げました。皆と共有しないなんて間違ったことでしょう。共有という行為によって新しい音源を流通させ、素晴らしいテープを独占しているコレクターのヒエラルキーを崩壊させようというのが、私達のやり方でした。まず、私達はテープを自分達の手でVHS Hi-Fiにコピーすることを始めたのですが、間もなく、大変負担に感じるようになりました。それで、デッドの音源トレード・コミュニティーにコネを持っているテープ仲間のひとりに連絡を取り、それがきっかけとなって、彼が後に“不起訴処分の共謀者”と呼ばれることになるグループをまとめ、彼らがテープのバックアップを作るという大きなアーカイヴ化作業を行ない、コレクターに配布しました」
 夫婦がキー・パーソンとして選んだのは、友人で長年デッドのファンをやっているケン・ジェネッティという人物だった。「彼らの家に入って、押入れを開けたら、すべてのテープが順番通りに並んでいました」とジェネッティは回想する。「私にとっては、ツタンカーメン王の墓を開けたようなものでした。目にしてすぐ、彼らが何を持っているのかわかりました。最初に見たのは1971年2月18日、ニューヨーク、ポートチェスター公演です。ミッキー・ハートが数年間バンドを離れてしまう前の最後のショウです。思わず“マジ?!”という言葉が口から出ました。次に見たのが1973年カリフォルニア州サンフランシスコ、ケザー・スタジアム公演です。実際に見に行った思い出深いコンサートです。箱を引っ張り出しながら、“たまげたぜ!”と言いました」
 この音の財産を広めようという夫婦の意図にジェネッティは賛同したが、最初は過激な民主革命思想を持っていた。「私は彼らに言いました。“Relix誌やGolden Road誌を見てごらん。たくさんの人が「コレクションを始めたばかりです。助けてください」ってメッセージを載せているだろ”って。私はこう考えていました。もし、こうした人達にテープを送ることが出来たなら、突然、初心者が誰も持ってないテープを手にすることになり、コレクターのヒエラルキーは逆になるはずだ。誰も持ってないテープを押入れいっぱいに大量に抱えているのに、手の内を明かさないような連中には、甚だうんざりしていましたから」
 現実にはここまでの事態にはならなかったが、ジェネッティは音楽をたくさんの人に届けようという意図を持って、夫婦の支援のもと、音源の流通においてリーダー的な役割を果たした。ということで、彼は協力を求めた3人のテーパーからはテープ・デッキを借り、夫婦からはテープを借りてコピーを作り(まずはケザー・スタジアムとポート・チェスターから始めた)、サンラファエルのホール・アース・アクセスの駐車場でささやかな会合を毎週行ない、協力者にテープを渡した。
 当時、ジェネッティは妻と2人の幼い子供と一緒にマリン・カウンティー北部に引っ越して来たばかりで、120エーカーの土地に家の建設を始めたばかりであり、このおかげで状況はさらに複雑になっていた。ジェネティは回想する。「朝起きたらまず、発電機に燃料を入れました。全部の機材を動かすのに必要な電気が足りなかったからです。そうして、発電機のスイッチを入れて、コピーを開始しました。私達は1日に3ショウのペースで作業をしましたが、とても大変でした。そして、週末に会って、“OK、今日の分はこれ”って協力者にテープを渡しました。そしたら今度は、彼らがやりたいようにテープを流しました」
 テープの引き渡しには極秘任務のような雰囲気があった。この夫婦があくまで匿名を望んでいたからだ。ジェネッティにもいくつかの条件があった。
 「私は自分に関しては匿名を貫こうとは思っていませんでしたが、仲間には“いいか、テープを受け取ったら、これまでのことは忘れてくれ”ってクギを刺しておきました。いろんな連中から“ヘイ、今ニューヨークから着いたことろなんだ。ビール半ダースとマリファナ持ってるから、今からいくぜ”って電話がかかってくるのは嫌ですから」
 しかし、このプロジェクトが完了に近づいた時、例の夫婦の素性がバレてしまったのだ。少なくともグレイトフル・デッドのマネージメントの上層部には。
 この夫婦は説明する。「私達は波風が立つのを恐れて、出来る限り目立たないように作業を続けるつもりだったのですが、誰かがグレイトフル・デッドのオフィスに連絡を入れて、テープのコピーを提供したことを知り、バンドの弁護士からこっちに連絡が来るのは時間の問題だと思いました。そして、実際に連絡が来た時には、向こうの弁護士とこっちの弁護士でやりとりをしてもらいました。合意に至った基本線は、私達は法律に則ってテープを購入し、その所有権を持ってるのですが、収録されている音楽に対しては何の権利も持っていないということでした。つまり、私達はテープに収録されている音楽を売ることは出来ないのです。もっとも、そんな意図は全くありませんでしたけどね。それで膠着状態となり、グレイトフル・デッドのオフィスとの軋轢をさらに大きくしたくないということもあって、これ以上のテープのデジタル化は避けました」
 マスターからコピーされて一般に頒布されたのは、ジェネッティと彼のチームがコピーしたリールのみなのだが、ベッティー・ボードは、グレイトフル・デッドが最高のインプロヴィゼーションを繰り広げていた頃の演奏を実際に聞くことの出来るファン垂涎のアイテムであるがゆえに、これらの音源は広範囲に出回った。その中には、1971年のキャピトル・シアター連続公演、翌年のアカデミー・オブ・ミュージック公演、1977年5月の伝説のツアー等が含まれていた。演奏そのものも良かったのだが、テープの音質も最高だった。1986年以前は、明瞭なミックスのサウンドボード音源はなかなか出回らなかったのだ。1977年5月8日のコーネル大学バートン・ホール公演等の評価はハイ・クオリティーのテープが出回ったからこそ高まったのだ、と力説するデッドヘッズもいる(アメリカ合衆国議会図書館は2011年に、1977年5月8日のショウをアメリカを代表する音の記録として登録した。マスターテープが収納されたわけではないが)。1993年にグレイトフル・デッドは《Dick’s Picksシリーズ》のリリースを開始したが、これは、デッドヘッズがベッティー・ボードを入手した後も、ハイ・クオリティーの蔵出し音源を飽くことなく欲し続けた産物であると、言うことが出来る。
 高品位のテープが出回った時点で----インターネット時代になって、さらにたくさん出回ったことで----物語は終了とはならなかった。ここでロブ・イートンという人物が登場する。
 ロブ・イートンは、2001年よりダーク・スター・オーケストラでボブ・ウィア役を担当しているメンバーという肩書で世に知られているだろうが、このバンドに参加する以前は、長年、マンハッタンのパワー・ステーション・スタジオでエンジニアとして働き、パット・メセニー、デヴィッド・クロスビー、クロノス・カルテット等のレコーディングに関与していた。このスタジオでの経験が、ベッティー・ボード・テープの第2群を持っていた人物からアプローチがあった際に、大いに役に立つことになった。1995年後半にイートンは高校教師からの電話を受けた。その主はもっぱらテープを入れておくロード・ケースが欲しくてベッティーの品を落札した人物だったが、彼の依頼は、リールを売りたいので、その査定をして欲しいとのことだった。散らかった納屋の中でイートンが発見したのは、ホコリをかぶり、カビに侵食されたコレクションだった。
 イートンは回想する。「200巻のテープのうち、文字が判読出来る状態だったのはたった6箱で、75〜80巻は箱にすら入っておらず、完全に腐って崩壊していました」 それでもなお生き返らせることが出来ると思ったテープが、カンター=ジャクソンのオリジナル・コレクションの一部であることを、イートンはすぐに確信した。イートンは友人であり、1999年に死去するまでグレイトフル・デッドの音源管理人を務めていたディック・ラトヴァラ宅でしばらく過ごすことになる。「リールのひとつを、いくかの道具を使って、一晩中かかってクリーニングしたところ、それは1973年9月6日にパセイックのキャピトル・シアターで行なわれたガルシア/サンダースのショウのものだとわかりました。誰も存在を知らなかったテープです。ディックも私もこのテープ群は本物だと思いました」 最終的に、この高校教師はテープ・コレクションの修復のためにイートンを雇い、一度に40巻ずつテープを郵送した。

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[ダーク・スター・オーケストラのモニター・ミキサーのウィル・ポップ(左)はロブ・イートン(右)とともにカビたらけのテープを検証する]

 しかし、物語はまだ終わらない。ベッティー・ボードは人から人へとプレゼントされるべき贈り物なのである。この教師は100万ドルもの金額を提示したため、テープの売却先を見つけることが出来ないまま時が過ぎ、2年前に金銭問題に直面して銀行に家を差し押さえられそうになった際に、再びイートンにコンタクトを取って、テープの管理をする気はないかと打診した。納屋の掃除をしてたらさらに50巻見つかったとも、教師は言っていた。
 イートンはこれを快諾し、ダーク・スター・オーケストラのツアー中のオフの日に彼と会うことにした。「デニーズの駐車場に会いに行きました。小型トラックとトレーラーには堆肥と干し草と、私がずっと前に送り返した箱入りのテープに加えて、50巻の7号リールが投げ入れられた木の箱がありました。箱には入っておらず、テープはこんがらがっていて、本当に酷い状態でした。しかし、これらのテープの殆どが凄いものであることがわかりました。22巻は1976年6月のツアーを収めたものだったのです。見たことありません。
 普通の人が箱の中を見たら、テープの修復は不可能だと思うでしょうが、時間をかければ出来ます。難題は、テープを長時間、低温でベーキングするまで、聞くことが出来ないということです。ベーキングによってバック・コーティングが再生されます。コーティングの上に酸化鉄が乗っていて、この酸化鉄に磁気的に音楽が記録されています。7号リールにはプラスティック製のハブが付いていましたが、メタル製のリールに巻き直すことは出来ませんでした。そんなことしたらテープに損傷を与えてしまうからです。夏にコロラド州の山で採ってきたキノコを乾燥させるのに使っている食品用の乾燥機を改造して、テープの乾燥に使いました」
 イートンは、テープを録音する際にオリジナルの機材で再生したテープの音をデジタル化することが出来るよう、ベッティーがショウの録音に実際に使ったナグラIV-Sを、友人に頼んでオーバーホールしてもらうことまで行なった。
 最新のテープ群の補修が成功したことでさらに勇気づけられたイートンは、自分に対して新たな目標を定めた。「ここに収められた音楽の全てを復活させ、適切に保管し、可能な限り最良の状態で次の世代に残したい、というのが私の夢です」
 イートンは何人もの人物をたどって遂にケン・ジェネッティの居場所を突き止め、例の匿名の夫婦に手紙を渡してもらうことになった。
 「2カ月後に突然eメールが届きました」とイートンは語る。「自分たちが持ってるテープを修復し、適切にアーカイヴ化することに興味があると言ってました。触れてもいないテープがたくさんあるとも言ってました。ということなので、次にサンフランシスコに行った時に、ダーク・スター・オーケストラが持っている貨物トラックに彼らのテープを積み込んで、東海岸に持ち帰りました」
 しかし、ここでも話は終わらない。イートンは夫婦の持っていたリールの作業を行ないながら、ベッティー・ボードを購入した第3の人物を突き止めるために、最初のオークションに関する調査も始めた。そして、イートンは遂に該当の人物を発見し、2014年1月に両者はテープに関する話し合いの段階に入った。イートンはこちらも修復することを希望している。
 今後はどうする予定なのか? イートンにはひとつの計画があり、既に行動を開始している。「全てのテープがグレイトフル・デッドのテープ庫に戻っているのが理想でしょう。しかし、テープを購入した人々にもそれ相応の金額の補償をすべきだと思います。そんなに大金の話をしているのではありません。テープをグレイトフル・デッド側に譲渡したくなるほどの金額でいいんですよ。テープはバンドのコレクションに一部になっているべきなのですから。もうひとつ重要な点は、もしこれらのテープがデッドのテープ庫に戻ることになったら、製品化して発売したものに関してはベッティーにプロダクション印税が支払われるべきです。そうするのがものの道理です。これは彼女のテープであって、デッドのテープではありません。ベッティーには相応の報酬が支払われるべきです」

Copyrighted article "What's Become of the Bettys? The Fate of the Long-Lost Grateful Dead Soundboards" by by Dean Budnick
http://www.relix.com/articles/detail/whats_become_of_the_bettys
Reprinted by permission

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参考サイト:
2011年ナショナル・レコーディング登録
http://www.loc.gov/rr/record/nrpb/registry/nrpb-2011reg.html

ベッティー・カンター=ジャクソンの写真
http://thoughtsonthedead.wordpress.com/tag/betty-cantor-jackson/

ベッティー・ボードのリスト(2007年)
http://archive.org/post/132547/ms-betty-cantor-jackson-her-boards-and-the-law
(今回の記事を読む限り、もっとありそう)
posted by Saved at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | Grateful Dead | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんな話があるとは知りませんでした。
貴重な音源を復活させようとする人々の
熱意に感動致しました。

Posted by たま at 2014年04月26日 19:19
デッドのテープに関しては濃い〜お話がいっぱいあるので、今後も徐々に紹介していきたいと思います。
Posted by Saved at 2014年04月28日 09:42
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