2014年05月03日

ボブ・ディラン追っかけ談義(というよりお友達の追悼大会)

 ボブ・ディランは来日するたびに、世界中から面白い人を運んで来ます。今回も私の知人だけで、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリアの人が東京のZEPP DiverCityに揃いました。皆、ボブ歴が半端でない人たちばかりで、全員に話を聞いていたらとんでもない量になってしまうので、今回はドイツから来たペーター・Gを紹介したいと思います。ペーターは30年以上に渡って、この人がいなくなったら流通音源数が確実に1割は減るほど熱心にボブのコンサートに通い、今年遂に日本で見るという念願が遂に叶ったのでした。


1990年2月ロンドン


ペーター(以下P):日本の整理番号順に入場するシステムっていいね。ヨーロッパやアメリカだと、ジェネラル・アドミッションのコンサートは当日列に並んだ順の入場だから、前の方で見たい場合には、それこそ朝の9時から並んでなきゃいけない。夏はずっと日光にジリジリ焼かれるし、冬は寒いし、それって超負担だよ。
:私も並ぶのは開場の2時間前からが限界です。
P:連続公演ということと、グランド・ピアノがああいうふうにステージに置いてあるということで、1990年のロンドン、ハマースミスを思い出すなあ。ピアノがデンと置いてあるのに、ボブは全然弾こうとしない。そのうち「ピアノを弾いてよ、ボブ」っていう横断幕を作ってくる輩が出現しだして、遂に最終日に弾いて、みんな大喜びしたんだ。
:〈Disease Of Conceit〉ですね。



P:あの時は鍵盤を目茶苦茶に叩くって感じだったけど、それと比べたら、今のボブはずいぶん進歩したよなあ。1990年のハマースミス・オデオン連続公演は、まあ、今から思うと、演奏的には大したことはなかったんだけど、こんな思い出があるんだ。ザ・テレグラフっていうファンジンをやってたジョン・ボールディーがファンクラブみたいなことを始め、プロモーターと交渉して、みんなのチケットをまとめて取ったんだ。ボブのマイク・スタンドの真ん前の定位置は毎日ラムチョップが取って、残りはオレらがいただき。ラムチョップって知ってる?
:あのうるさい人ですよね? ブートレッグにこいつの叫び声をまとめたトラックが入っていました。「ボビボビボビ〜ッ!」ていう。

Critic's Choice Vol. 1 2.jpg


P:(笑)そう。ボブから「こいつは私よりたくさん私のコンサートを見てる人です」って紹介までされちゃった。ジョン・ボールディーもそうだけど、ラムチョップも亡くなっちゃったなあ。


2012年7月ザルツブルク


:ボブ専門フォトグラファーとして有名だったジョン・ヒュームも。
P:2012年の夏のツアーが終わった直後だったなあ。彼はイギリス人なんだけど、心臓を悪くしていて、オッカケ仲間のデンマークの友人宅でポックリ。些細なことが原因で2〜3年疎遠になっちゃってたんだけど、2012年夏のヨーロッパ・ツアーで久しぶりに会った時には、こんなにたくさんの薬を持ってるんで入国審査の係員に説明するのに大変だったとか元気に冗談を言ってたんだけどな。
:私もザルツブルクで会いました。最後の言葉は、今日は入り口の手荷物チェック厳しいねでした。その後、会場の中で見かけたので、チェックを擦り抜けてカメラを無事持ち込めたんだと思いますが…。
P:ジョンとも会えなくなっちゃったなあ。彼が撮影した写真がオフィシャル・ポスターで使われたことあったよね。2003年ベルリンだったっけかな。

2003POSTER.jpg


:その件について、私のところにも大喜びのメールが届きました。
P:2001年の日本ツアーでは、自分にとって200回目となるボブのコンサートを、自分の誕生日に東京で見ることが出来たって喜んでたなあ。
:その時は東京公演、大阪公演を一緒に見に行ったんですよ。急に来るって言い出したもんだから、良い席のチケットは用意出来なかったので、その時は写真は撮影はしていませんでした。近いところから撮らないと意味ないというポリシーでしたから。しばらく前からボディーガードのバロンに目を付けられていて、前年のイギリス・ツアーの際には終演後に駐車場まで追いかけてこられたそうですね。
P:昨年のブラックプール公演で〈Roll On John〉を初披露した時、この曲は一般的にはジョン・レノンへのトリビュート・ソングっていう認識だけど、オレや他の追っかけ仲間にはジョン・ヒュームへのメッセージのようにも聞こえたんだよな。ブラックプールって彼の故郷の近くだし。

  


1991年セヴィリア


:まだ亡くなっていないとは思いますが、ローリング・ストーンズの用心棒を長年務めていて、ストーンズが暇な時にはボブのボディーガードもやっていたビッグ・ジムの姿も全然見ません。
P:引退したらしいよ。
:2004年夏のヨーロッパ・ツアーにはいたそうです。
P:1991年にセヴィリアで行なわれた音楽フェスティヴァル『ギター・レジェンド』で、ボブがキース・リチャーズと共演したことがあっただろ。ボブが出るっていうから見に行ったところ、帰りの空港でジムにばったり会ったんだ。そしたら、ジムが「おい、キース! こっちに来い!」ってキースを呼び付けて----キースを呼び付けたんだよ----この人達はわざわざお前を見るために来たんだよって、オレと友人を紹介してくれたの。本当はボブを見に行ったんだけどさ。自分のカメラで写真を撮ることは許してくれなかったけど、ジムが自分のカメラのシャッターを押して、オレたちがキースと並んでるところを写真に撮ってくれたんだ。ジムにいつ会えるかわからないから、写真は諦めてたんだけど、数年後に出くわした時に、こっちに来いって呼ばれて封筒を渡され、その中にはキースと写ってる写真が入ってた。時々、本当にいいことしてくれるんだよな。
:ファンの気持ちをわかってくれる人でした。怖いだけの誰かさんとは違って。2003年にストーンズが東京に来た時には、何とか潜り込んだ記者会見場でジムと会いました。
P:「ディランに〈Brown Sugar〉をカバーされてどう思いますか?」とか質問したの、もしかしてキミ?
:そうです。ミック・ジャガーは「オレたちも〈Like A Rolling Stone〉をやってるし」って答えました。2004年3月にシカゴのパーク・ウェストの外でもジムと会いました。私にとってはそれが最後です。2003年のストーンズのツアーの時、インドで体調を崩してイギリスに緊急帰国したという話が伝わってきましたが、シカゴで会った時はすっかり元気なようでした。

2004年シカゴ


P:シカゴって、4日間に毎日違うクラブでコンサートをやった時?
:そうです。
P:初日はアラゴン・ボールルーム、2日目はそのすぐ向こうにあるリヴィエラ、3日目はヴィック、そして最後はパーク・ウェスト。徐々に会場が小さくなっていって、チケットも取りづらくなっていった。
:シカゴってウィンディー・シティーって呼ばれていますが、コンサートの行き帰りにビュービュー吹き付ける冷たい風にされされて、最後の2日間は肺がおかしくなってゼーゼーしてました。あと1日多くいたら病気になってたでしょう。
P:あの時は、ボブのコンサートが終わってから、今度はブルースのクラブに繰り出したんだよなあ。
:私は体力がないので、まっすぐホテルに戻りました。せっかくシカゴに行ったのだから、一晩くらいは頑張ればよかったなあと後悔しています。
P:ちょうどニール・ヤングもシカゴでコンサートをやってたんだよね。《Greendale》ツアーだったかな。
:ニールは3月4、5日にローズモント・シアターでコンサートをやってて、私は4日のショウを見ました。ニールは6日のボブのコンサートを見に来てたんじゃないかな。一緒に行った友人が、少なくともニールのスタッフは見かけたそうです。
P:そういえば、レイモンドっていうジムとかなり親しい奴がいたんだ。1998年1月のある日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンの大きなアリーナではローリング・ストーンズが、小さなシアターではボブ・ディランとヴァン・モリソンがコンサートをやってて、ボブが先に演奏し、ヴァンがトリっていう日、レイモンドはボブを見た後にアリーナに移動してストーンズも見たんだよ。ストーンズにも前座がいたから、時間的にハシゴが可能だったってわけ。
:そのチケット、私がもらって、前から5列目でヴァン・モリソンを見ました。ヴァンは日本では見ることの出来ない人なので、間近で見ることが出来て大感激でした。
P:レイモンドも何年か前に亡くなっちゃったんだよなあ。今でも追っかけはワクワクするけど、もうコンサート会場で会うことの出来ない奴らのことを何かの拍子にふと思い出して、寂しく感じることが多くなったなあ…。(しんみり)

 場があまりにしんみりしてしまったので、21世紀に入ってからの最大の問題----近い将来、ボブがいなくなったらどうする?----については怖くて意見を訊くことが出来ませんでした。本当にどうすればいいのでしょう?

posted by Saved at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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