ビンキーもレスポールに魅了された人のひとりです。彼がレスポールを入手した経緯や、そのレスポールにまつわる数奇な物語は既に当ページで紹介済ですが、今回紹介するのは、以上の記事に書かれていることの数年前の出来事を語っている内容です。
【ビンキー・フィリップスのニューヨーク・ロックンロール・ライフ】
第28回: ジミヘンのバカ野郎! そのレスポール、オレのものになるはずだったのに!
文:ビンキー・フィリップス
ロックンロール初期には他のギターが流行っていた。
1960年代初頭に、短期間だがサーフ・インスト曲の大ブームがあった時には、フェンダー・ストラトキャスター、ジャズマスター、ジャガーが3大人気モデルであり、リバーブがかかりまくりのカリフォルニア産ギター狂騒曲の97%で、こうしたギターが使用されていた。
イギリスのバンドによるアメリカ侵略が始まった時、映画『A Hard Day's Night』でジョージ・ハリスンがリッケンバッカーの12弦を使ったことで、フェンダーは「絶対に欲しい」ギターからははずれてしまった(フェンダーは、当時廃れつつあったサーフィン・サウンドと同一視されていたので、既に古臭く思われ始めていた)。オレの人生の中のごく短い期間、フェンダーはどうしても欲しいギターだったのだが、1966年半ばに『シンディグ』でピート・タウンゼントがリッケンバッカーの12弦を破壊した時、同時にオレも破壊されてしまった。しかし、間もなく、フェンダーはリベンジを果たすことになる。
イギリスから登場した超ワイルドなテクニックを有するギタリスト第1号、ヤードバーズのジェフ・ベックが、『シンディグ』で(当時としては)未来のサイケ的リード・ギターを披露したのだが、その時ジェフが使っていたのがフェンダー・テレキャスターの廉価版、エスクワイアだった。すると、半年もしないうちに、フェンダー・テレキャスターとエスクワイアは爆弾になった。テレビに出演するあらゆるバンドの少なくともメンバーのひとりが、クリーミー・ブロンド色のテレキャスターを弾いていた。そして、1年もしないうちに、このギターの人気は以前の人気モデルを凌駕してしまった。ブロンドのテレキャスターを持ってることは必要条件になっていた。しかし、入手後、数カ月もしないうちにオレたち全員が見つけた秘密は(オレは1966年のクリスマスに手に入れた)、テレキャスターは残酷なくらい厳しいギターだということだった。テレキャスターは弾き手に喧嘩を売り、その結果、あの独特なパキンパキンの音が出るのだ(ブラッド・ペイズリーを思い出してくれ)。弾きこなすのは至難の業だったので、テレキャスター・ブームは2年ほどしか続かなかった。
しかし今度は、1967年の中頃、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのマイク・ブルームフィールドが、ギブソン・レスポールを「必携ギター」にした。先日、ここのコラムでも書いたように、ベビーブーム世代のギタリストにとって、ブルームフィールドはギター・ヒーロー第1号だった。彼のプレイは当時の誰とも完全に違うレベルのもので、キース・リチャーズやジョージ・ハリスンといったヒーローを過去のものにしてしまった。
ストーンズのキースやラヴィン・スプーンフルズのジョン・セバスチャンがテレビに出演した時に、ゴージャスなサンバーストのギブソン・レスポールを使っているのを見たことがあった。オレ達の記憶から薄れていたこのモデルを持って登場した奴は、他に誰もいなかったのだが、1年もしないうちに、1958〜60年に製造されたサンバーストのモデルは、皆が追い求める聖杯となった。
一方、オレや一部の連中にとってどうしても欲しいものになったのは、マイク・ブルームフィールドが使っていたボロボロの「ゴールド・トップ」レスポールだった。1カ月もしないうちに、1950年代前半のゴールドのレスポールは、ギター・マニアの間で最も需要の高いギターになった。しかし、それと殆ど同時にオレ達全員が知ったのは、以前のギターの名器とは違い、レスポールはもう製造されていないモデルだということだった。楽器店に行っても売ってないという事態は、これが初めてだった。欲しければ自分で捜索しなければならなかったのだ。
この時から、「好み」はイメージやその月の流行に基づくものではなくなった。演奏に命を懸けているミュージシャンは、1950年代にギブソン社が製造したレスポールが最も音が良くて弾き心地が良い史上最高のソリッド・ボディーのギターだということを、発見し始めた。レスポールは今や(そして永遠に)、全ギター・マニアの垂涎の的となった。
当然、オレもレスポール熱に感染してしまった。欲しい! 欲しい! 欲しい! 欲しい! 欲しい!
ある日、オレはルック誌の「ロック特集号」を手にした。素敵な白黒写真の中に(リチャード・アヴェドンが撮影したものだと思う)グレイトフル・デッドのものがあった。ジェリー・ガルシアは見たこともないギターを持っていた。黒のレスポールだ。まるでゴールドがタキシードを着ているようだった。この瞬間、これがオレのナンバー1お気に入りギターになった。
10代半ばのオレは、しょっちゅう学校をサボって西48丁目に行っていた。ここは1960年代には楽器メッカだったのだ。西48丁目の6番街と7番街に挟まれた1ブロックに約10軒の楽器店があったのだが、中でもマニーズは王様だった。
夕方、マニーズに入ると(恐らく100回目の訪問だったと思う)、マニーの息子で販売部長のヘンリー(オレの第2の父親のような存在だった)が、1956年製のブラック・レスポール・カスタムを抱えているではないか! 当時のエレキギターの王様をだ。しかも、そう思ってたのは、オレのいかれた頭だけではなかった。オレがこの目でレスポールを見たのは、これが初めてだった。
オー・マイ・ゴッド!
しかし、演奏する時に右腕を置くあたりに、6インチ長の極太の保護テープが張ってあり、そこにはそっけなく「非売品」と書いてあったのだ。
オレは頭にきた。
「ヘンリー、お願いだよ。これ、オレに売ってくれ。テレキャスターとアンペッグのアンプは下取りに出して、足りないぶんは親父に貸してもらうよ」
「ビンキー、よく聞け。このレスポール・ブームは馬鹿げている。ナンセンスだ! そんなに大したもんじゃない。これは誰にも売る予定はないんだ、ビンキー。あのガラスケースに入れておいて、お前のような連中に見せて喜ばそうと思ってるんだ」
ヘンリーは大した人物だ!
にもかかわらず、オレは猛ダッシュで帰宅して、1時間以上に渡って親父を口説き、遂には根負けさせてこう言わせた。「わかった。ヘンリーにところに言って、ギターとアンプを下取りしてもらって、あと何ドル必要なのか聞いて来い…」
翌朝、オレはその日の高校の授業を全部すっぽかし、ブルックリンから地下鉄に飛び乗って、開店して30分も経ってないマニーズに行った。店の奥のエリアに走っていくと、ヘンリーとビリー(こいつもまたギターの販売係で、口当たりの良いサミー・デイヴィスJr.タイプの超クールなジャズ・ギターをプレイする黒人だった。ビリーとは友人になったが、自分がリスペクトと友情に値する人間だと証明するのに約5年かかった)コーヒーをすすりながらベーグルを食べていた。「ヘンリー、親父に話したら、いいって言ったよ。それで、レスポールはどこ? 親父は金を貸してくれるって」
「あぁ、ごめんな、ビンキー…。お前が帰って1時間後くらいにジミ・ヘンドリクスがやって来て、売ってくれと言われちゃったんだよ。ジミにはノーって言えないこと、わかってるだろ。すまないね、ビンキー」
ジミが黒のレスポールをさかさまに持ってる写真を見たことあるかい? あの保護テープが貼ってあるものだったら(ジミはしゃれて、しばらく貼ったままにしておいた)、それはオレのギターになるはずだったものだ。チクショウ!
[訳者註:このギターか? 該当の箇所にテープが貼ってあるところまでは確認出来るけど、「NOT FOR SALE」の文字は見えません]
追記: この4年後に遂にレスポールを購入した話はここを読んでくれ。
訂正: この記事を書いた後に判明したのだが、オレのレスポールは1958年製ではくて1959年製だった。
Original article "Dammit, Jimi Hendrix, That Was Supposed to Be MY Les Paul!" by Binky Philips
http://www.huffingtonpost.com/binky-philips/dammit-jimi-hendrix-that-_b_5419934.html
Reprinted by permission