2014年10月13日

ロックンロールの殿堂入りを未だ果たしてない最重要プロデューサー:トム・ウィルソン

 ボブ・ディラン史観から見ると、トム・ウィルソンは完成途中の《The Freewheelin' Bob Dylan》のプロデュースを前任者のジョン・ハモンドから引き継ぎ、《The Times They Are A-Changin'》《Another Side Of Bob Dylan》はフルで作業、《Bringing It All Back Home》ではボブをエレクトリック化して大成功したものの、シングル〈Like A Rolling Stone〉のプロデュースを最後に突然ボブのレコーディングからは姿を消してしまいました。その後、ボブ・ジョンストンがアルバム《Highway 61 Revisited》のプロデュースを引き継ぎました。

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 アル・クーパーならこの交代劇の裏事情を知ってるかもと思って、超久しぶりのアルバム《Black Coffee》のプロモ来日時(2005年)に訊いてみたところ、私の質問が終わる前に(きっと、何度も同じ質問をされてるのでしょう)「知りません。会社の内部事情はわかりません」と回答されてしまいました。
 トム・ウィルソンはディランのプロデューサーを降りた(降ろされた?)後、マザーズ・オブ・インヴェンションのプロデューサーとなり、彼らのファースト・アルバム《Freak Out!》を制作しています。オリジナル・メンバーのジミー・カール・ブラックだったら何か知っているだろうかと思って、最初で最後の来日時(2008年)に訊いてみましたが、アル・クーパーと同じ回答でした。既に物故者であるトム・ウィルソン本人に訊くことは出来ません。
 この疑問に答えてくれてはいませんが、トム・ウィルソンの経歴や人となり、政治思想についてまとめた記事を発見したので、ここで紹介します。2014年のロックンロールの殿堂入りの中にウィルソンが含まれていなかったというタイミングで発表された記事ですが、2015年にはどうなるでしょうか?



ロックンロールの殿堂入りを未だ果たしてない最重要プロデューサー:トム・ウィルソン
文:マイケル・ホール


 先月、KISSがキャット・スティーヴンスやホール&オーツ、プロデューサーのアンドリュー・ルーグ・オールダムらと共に、やっとロックンロール・ホール・オブ・フェイムに殿堂入りすることが決定したという発表を聞いて、世界中の音楽ファンは嬉しく思ったことだろう。2014年には、殿堂入りを果たした人の総数は719人にもなり、そのリストにはたくさんのパフォーマーだけでなく、ジョージ・マーティンやクインシー・ジョーンズ、フィル・スペクター、ジェリー・ウェクスラーといった大物プロデューサーも、少なくとも10人ほど載っている。しかし、重要な名前がない。1950〜60年代における最重要プロデューサーのひとりが入ってない殿堂など笑止千万である。このプロデューサーがいなかったら、1960年代にブームを起こし、音楽を永久に変えてしまったボブ・ディランは、ああいうふうにはブレイクしなかったであろう。このプロデューサーがいなかったら、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはスタート前にやめてしまい、アンダーグラウンドなままだったであろう。フランク・ザッパは不運なインディー・レーベルでさえないレコーディング・アーティスト人生を送ったことだろう。サン・ラやセシル・テイラーといったジャズの巨人も、無名時代の苦労が実際よりも長く続いていたことだろう。
 このプロデューサーは、こうしたアーティストたちが自分の声をみつけて自分のヴィジョンを実現し、アメリカの音楽に変革を起こすのを手助けしたのだ。彼はハーバードの卒業生で共和党支持者、テキサス州ワコ出身の黒人だった。 
 トム・ウィルソンは1931年3月25日に誕生し、ベイラー大学の東側の人種が混交した地域で育った。母親ファニー・オデッサ・ブラウン・ウィルソンは司書、父親トーマス・ブランチャード・ウィルソンは勤勉な保険のセールスマンで、長時間働き、中流の生活を保つのに十分な収入を得ていた(1940年には、全米平均の1,368ドルをはるかに超える2080ドルの年収があった)。
 ウィルソン家には常に音楽があった。彼らは町で最も古い黒人教会であるニュー・ホープ・バプティスト教会に通っていたが、この教会の最も有名な信徒は、1927年にブロードウェイで〈Old Man River〉を歌い、初の黒人オペラ・スターとなったジュールス・ブレッドソーである。ウィルソンの父親はニュー・ホープ教会が抱えていた3つの合唱団のひとつの指揮者であり、トム・ジュニアが5歳の時に行なわれた1936年のテキサス州100周年記念式典にも出演した。彼の祖父は絨毯のクリーニング店のオーナーで、土曜の午後になると店内でジャム・セッションを行なっていた。トムは人種が隔離されたムーア高校でトロンボーンの演奏法を学んだ。
 ウィルソンはムーア高校卒業後、ナッシュヴィルに移ってフィスク大学で1年過ごし、ハーヴァード大学に転籍した。『レコード・プロデューサー辞典』のトム・ウィルソンの項を執筆したエリック・オルセンによると、ウィルソンはハーヴァードでは青年共和党クラブの長を務め、表向きには経済学を学んでいたのだが、身長6フィート4インチ(約190cm)のハンサム青年だった彼は、ハーヴァード・ニュー・ジャズ・ソサエティーに参加し、カレッジ放送局WHRBで働いてジャム・セッションを企画するなど、地元のジャズ・シーンとの関係を深めていった。
 1954年に優秀な成績でハーヴァードを卒業した後、ウィルソンは900ドルを借金して、自分のレーベル、トランジション・レコードを立ち上げた。当時、ジャズは新時代を迎えており、ウィルソンは自身が聞いているサウンドをレコードとしてリリースしたいと考えたのだ。彼が初めて契約を結んだアーティストの中には、ビーバップのパイオニア的トランペット奏者、ドナルド・バードがおり、ピアニストのホレス・シルヴァー、ドラマーのアート・ブレイキーとの顔合わせでレコーディングを行なった。ウィルソンはシカゴに行き、前衛ピアニスト兼バンドリーダー、サン・ラのアルバムを録音した。サン・ラがまだシングルを2枚しかリリースしてない頃の話だ。ウィルソンはまた、23歳のポスト・バップのピアニスト、セシル・テイラーの《Jazz Advance》も録音したのだが、『The Penguin Guide to Jazz』ではこのアルバムは「ジャズ界における最も素晴らしいデビュー盤のひとつ」と評されている。この頃になると、ウィルソンは結婚し、子供も2人いたが、レコーディングのプロデュースだけでなく、写真を撮影し、アルバム・ジャケットをデザインし、ライナーノーツの執筆まで行なう、なかなかのビジネスマンだった。何でも自分でこなすことがオシャレになる以前から、彼はDo It Yourselfを実践していたのだ。

   

 ウィルソンは4年間に22枚のアルバムをプロデュースしたが(ジョン・コルトレーンをフィーチャーした未発売のアルバムも含む)、財政難に陥り、自分のレーベルは店じまいせざるをえなかった。彼はニューヨークのユナイテッド・アーティスツにジャズ部門のA&R(アーティスト&レパートリー)マンとして就職した後、サヴォイ・レコードやオーディオ・フィデリティーといった会社においても同じような職を歴任し、1963年には遂に、コロムビア・レコードの専属プロデューサーになった。ウィルソンはこの職に就いたアフリカ系アメリカ人第1号だった。
 ウィルソンがコロムビアで行なった最初の重要な仕事が、ボブ・ディランという名の若きフォーク・シンガーのアルバムを完成させることだった。ディランは殆どがカバー曲のアルバムを1枚出しており、ウィルソンが担当者になった時には、オリジナル曲からなるセカンド・アルバムが完成半ばの状態であった。
 プロデューサーはたくさんのことをこなす。アーティストの面倒を見て、気分を良くして、ボタンを押す(実際に、機械のつまみをひねるのはエンジニアなのだが)。プロデューサーの中には、フィル・スペクターのように、自分の頭の中で鳴っている音を創造するためにミュージシャンやシンガーをとことん利用する、人使いの荒い輩もいる。一方、適任のミュージシャンを集めてトーンを設定し、提案をし、励ましの言葉を与え、後は彼らにまかせる、コーチ・タイプのプロデューサーもいる。ウィルソンはまさに後者のタイプで、自信たっぷりで温和な人物だった。「感情がほとばしり出るような人でした」と、ウィルソンが当時契約を交わしたシンガー/ソングライターのヴァン・ダイク・パークスは回想する。「カリスマ性たっぷりで威厳があり、自分の軌道上にいる者に妙に力を与えてくれました」
 ウィルソンはディランのようなミュージシャンと作業をするのに、最初は乗り気ではなかった。「フォーク・ミュージックはそんなに好きではありませんでした」と彼は後にメロディー・メイカー紙に語った。「私はサン・ラやジョン・コルトレーンのレコーディングを担当してきたので、フォーク・ミュージックは頭の悪い連中のためのものだと思っていました。この人も頭の悪い連中のように演奏していました」 しかし、次にはこんな言葉が出て来た。ウィルソンはディランのマネージャーのアルバート・グロスマンに、ディランにバック・バンドをつけるべきだと言ったのだ----「白人版レイ・チャールズになるかもしれませんよ」----しかし、ディランにはソロで演奏するのが心地よかった。
 みすぼらしい格好の20歳の青年は身なりの良い30歳の紳士と意気投合して、仕事上の優れたパートナーシップを築き上げ、さらに2枚のアコースティック・アルバム《The Times They Are a-Changin'》と《Another Side of Bob Dylan》を制作した後、ウィルソンはディランの半分エレクトリック、半分アコースティックの力作《Bringing It All Back Home》(1965年)で、新時代の到来に手を貸した。その前年に、ウィルソンは〈House of the Rising Sun〉を含むディランの昔のレコーディング3曲にロック・バンドをオーバーダブしたのだが、サウンド的にうまくいかなかった。しかし、《Bringing It All Back Home》では、ウィルソンは数人のエレキ・ギタリスト、2人のベーシスト(そのうちのビル・リーは映画監督スパイク・リーの父親)、ドラマーを起用して、サウンド作りに成功し、このアルバムはディラン初の「最先端サウンド」の傑作となった。〈Subterranean Homesick Blues〉の狂乱によろめくブルージーな雰囲気は1960年代後半のトーンを決定した。〈Bob Dylan's 115th Dream〉の冒頭ではウィルソンの声を聞くことが出来る。ディランがスタートで間違えて、演奏を止めて、笑い初めてしまうと、ウィルソンもつられて笑ってしまう。2秒後にウィルソンが「ちょっと待って。OK。テイク2」と言うのが聞こえ、バンドが入ってくる。リスナーとしては“こういうふうにレコードを作ってるのさ”と秘密を明かされているような気分になれる。



 これは新ディラン----新時代の幕開けだった。ウィルソンはディランのエレクトリック化に関して、「私のアイデアですよ」(1976年のインタビューでの発言)と常に語っている。ローリング・ストーン誌の創設者であるヤン・ウェナーが1969年にディランにインタビューした際、ディランをロックンロールに連れていったのは自分だというウィルソンの発言について質問すると、ディランは笑って、こう付け加えた。「ある程度はね。それは本当さ。トムのおかげさ。トムの頭の中にはあるサウンドがあったんだ」
 ウィルソンはディランともう1曲、〈Like A Rolling Stone〉を仕上げた。これはディラン最大のヒット曲となり、ローング・ストーン誌では最重要ロック・ソングのNo.1と評された。ウィルソンは再びロック・バンドを起用したが、この時は、友人でギタリストのアル・クーパーを招いた。彼がレコーディングの最中にオルガンの席に滑り込んで、演奏を始めたことで、曲のテーマ・リフが出来た。ある別テイクの始まりで、「OK、ボブ。皆の準備も出来ている。さあ、始めよう」と言うウィルソンの声が聞こえるが、人を集め、準備させ、さあ、ガンガンいこう!という彼のプロデュースのスタイルがこの言葉に集約されている。
 ウィルソンはコロムビア・レコードでティム・ハーディン、ピート・シーガー、ディオンいったアーティストとも契約し、レコーディングのプロデュースも行なったが、ウィルソン最大のヒットは、サイモン&ガーファンクルという若手デュオのレコーディングを行なった際に、遠回りかつ風変わりなやり方で手にすることになった。彼らが最初に作ったのは《Wednesday Morning 3 AM》というタイトルのさえないアコースティック・アルバムであり、売れ行きも悲惨で、ガーファンクルは学業に戻り、サイモンはイギリスに行ってしまった。しかし、アルバム中の〈The Sounds of Silence〉がフロリダとボストンのラジオで徐々にかかり始めたので、ウィルソンはある可能性を感じ取った。ロック・バンドを入れたら優れたトラックになると確信したウィルソンは、ミュージシャンを起用して----ディランのバックにも起用したプレイヤー2名を含む----オーバーダブを行なった。コロムビアがこの新バージョンをシングルとしてリリースするとヒットし、1965年の年末には第1位になった。これがきっかけでサイモン&ガーファンクルは寄りを戻し、フォークロックが誕生した。ウィルソンは今やキングメイカーだった。
 1966年初頭にウィルソンはコロムビアを離れて、ヴァーヴ/MGMレコードでA&R部長の職に就いた。そこで彼が契約した最初のグループのひとつがフランク・ザッパ率いる変人集団、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションだった。このバンドはブルースとサイケデリア、ジャズ、ノイズ、ロック、そしてコメディーを融合させて、全く新しいものを作り出していた。ウィルソンは彼らのサウンドを大変気に入り、レーベルに21,000ドルを要求して、1960年代半ばの総決算ともいうべきファースト・アルバム《Freak Out!》(2枚組)を制作した。「トム・ウィルソンは偉大な人物だった」と後にザッパは語っている。「トムにはヴィジョンがあった。それに、本当にオレたちの側に立ってくれた」 ウィルソンはマザーズの2作目のプロデュースも担当した。

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【左端がウィルソン。1970年代のブラコンのミュージシャンみたいな格好をしているが、普段からこんな服装だった模様】

 この頃、彼はヴェルヴェット・アンダーグラウンドと契約する方法を練っていた。彼はニューヨークのクラブで彼らの演奏を見て、メロディーとノイズが刺激的にミックスされたサウンドを気に入っていたのだ。ウィルソンは前年に、メンバーのルー・リード、ジョン・ケイルと会い、コロンビア用にレコーディングする件を話し合ってすらいたのだ。ウィルソンは遂に説得に成功し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをヴァーヴと契約させたが、ギタリストのスターリング・モリソンの発言によると、「トムは、ヴァーヴだったら、バンドがやりたいことは何でも出来ると言っていて、本当にその通りだった」とのことだ。バンドは既にデビュー・アルバム《The Velvet Underground and Nico》の大部分をレコーディング済みだったが、ウィルソンと契約後、MGMはバンドのメンバーに〈Waiting for the Man〉〈Heroin〉〈Venus in Furs〉の3曲をレコーディングし直すための金を与えた。それに加えて、ウィルソンは彼らをスタジオに連れて行き、高尚な雰囲気のあるオープニング曲〈Sunday Morning〉を録音した。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンド・アルバムで、カオス的傑作《White Light/White Heat》(1967年)のレコーディングの際には、ウィルソンは最初から最後までスタジオで付き合い、バンドの実力を最大限に引き出した。ジョン・ケイルは『Up-Tight: The Velvet Underground Story』の著者に対してこう語っている:「トム・ウィルソンほど優れたプロデューサーを、バンドは2度と得ることはなかった」
 MGMにおいてウィルソンはヒュー・マセケラやジ・アニマルズ(《Sky Pilot》)、ザ・ブルース・プロジェクト、サイケデリック/ブログレッシヴ・ロックのパイオニアであるソフト・マシーンのファースト・アルバムもプロデュースした。ニコのファースト・ソロ・アルバム《Chelsea Girl》のレコーディングの指揮も取り、フルートのアレンジ譜を書き、ルー・リードやジャクソン・ブラウン等のゲストも起用した。1967年にウィルソンはトップ100に8枚のアルバムを入れたが、スタジオの外でも活発だった。1968年には、彼はさまざまなカレッジ・ラジオ局で放送された「ザ・ミュージック・ファクトリー」というタイトルのラジオ番組のホストとして活躍した。また、最新の12トラックのレコーディング・スタジオ、レコード・プラントをマンハッタンに設立する手助けもした。
 1968年初頭に、ウィルソンはMGMを離れて、ブルックリンを本拠地とするプロダクション会社兼タレント・エージェンシー、トム・ウィルソン・オーガニゼーションを創設した。この頃、彼はアメリカで最も成功したプロデューサーのひとりとなって年に10万ドルを稼ぎ、テリブル・チューンズ、モードリン・メロディーズという出版社も抱えて、月に2バンドのペースでプロデュース業も行なっていた。この頃、ウィルソンが担当したグループの中には、ザ・バガテル(ボストン出身のソウルロック・グループ)、ザ・セントラル・ナーバス・システム(ノヴァスコシア出身のサイケデリック・ロック・グループ)、フラタニティー・オブ・マン(カリフォルニア出身のカントリー・ロック・グループで、映画『イージー・ライダー』のサウンドトラック盤に収録された〈Don't Bogart Me〉----〈Don't Bogart That Joint, My Friend〉というタイトルでも知られている----がヒットした)がある。



 その年の後半、ニューヨーク・タイムズ・マガジンは、ウィルソンに関する特集記事「レコード・プリデューサーはリズムで患者を直す精神分析医である」を掲載した。記事の中でウィルソンは「エキゾチックな分野のエキゾチックな人物」と呼ばれており、豪華な衣装を着ている件も言及されていた。筆者のジェラシモスはこう書いている。「ウィルソンはアンテロープの革のスエード・ジャケット、軽量の綾織りベルボトムのズボン、紫の縮緬シャツという平日用の特製衣装でうろうろしている。1960年製のスポーツ・カー、アストン・マーティンに乗っていて、アパートメントは壁が深紅色で、天井は青。毛皮のカーペット、朱色のベッド、緑色のフェルトの壁、ドイツ製ヘルメット・ランプがある。ウィルソンは殆ど本能的に変化とセンセーションを求める人物である。経験はつねにそれ自らが報いであるとでもいうように」 ウィルソンはもはやジャズにぞっこんではなかった。ジェラシモスの記事によると、ウィルソンの頭の中では、ジャズは既に死んでいたのだ。ロックこそ新しいジャズで、周囲のあらゆるものを吸収してしまう音楽だった。そして、ウィルソンもスポンジのような人間だった。
 しかし、1960年代が終わると、ウィルソンは霊力を失ってしまったようだった。ヒットは出なくなり、バンドも彼のもとに来なくなった。ジャーナリストで音楽研究家のアーウィン・チュシドがまとめたディスコグラフィーによると、1970年代の最初の数年間にはわずかな数のバンドしかプロデュースしておらず、残りの期間はもっぱら共同プロデュースやミキシングしかしていない。この頃、ウィルソンは多くの時間をイギリスで過ごし、音楽ビジネスの他の分野の仕事をしていたのだ。1976年にメロディー・メイカー紙に掲載された記事によると、ウィルソンとビジネス・パートナーのラリー・ファロンは、歌手ジョニー・ナッシュのマネージャー、ダニー・シムズと仕事をしていたらしい。ウィルソンとファロンは《Mind Flyers of Gondwana》というR&Bオペラを書いたのだが、作曲者の言によると、これは「アトランティスの伝説と、アメリカの黒人がアフリカのルーツをたどる物語をミックスさせたもの」であり、ジョニー・ナッシュやグラディス・ナイト、ギル・スコット=ヘロン、ライチャス・ブラザーズが出演する予定だった。しかし、この作品は実現しなかった。1978年9月6日、ウィルソンはロサンゼルスで心臓発作で亡くなった。まだ47歳の若さであった。
 彼の最後の10年間に何があったのかは、誰にもわからない。ジェラシモスは「プロのプレッシャーが、彼を数々の正統的でないやり方の気晴らしへと導いていたらしい」と書いているが、これは何を意味しているのだろう? ドラッグの摂取だろうか? リチャード・ニクソンに何度もファンレターを書いたことだろうか? 複数の女性にご執心だったことをほのめかしている可能性もある。数人のミュージシャンは、スタジオ内でウィルソンはよく電話で女性と長話をしていた、と証言している。ジョン・ケイルは「トム・ウィルソンのところには、美人女性がひっきりなしにやって来た」と語っている。 ジェラシモスはこうも書いている。「ウィルソンには一貫して、プライベートでは暗い一面があった」 ということは、彼には少なくとも2つの人格があったのだろうか? 我がままなロックンロールのガキどもを指導するのに飽きてしまったのだろうか? 自分が育成に手を貸した時代に自らが取り残されてしまったように感じていたのだろうか?
 ウィルソンは、黒人公民権運動といった、自分の周囲で起こっていた急激な変化にかかわったことはなかった。当時のガールフレンドはエリック・オルセンにこう語っている。「トムは黒人たちにがっかりしていました。1950〜60年代の公民権運動が成功した後は、文句を言うのはやめて、それでうまくやっていくべきだと感じていました。黒人は重荷を背負い込み過ぎてしまったことで、自ら多くのトラブルを招いている、とウィルソンは考えていました」
 ウィルソンは謎の多い人物だった。リベラルな時代に保守派であり、新時代の最先端を行く歌を作る白人アーティストのプロデュースを行なう黒人だった。変わりつつある時代の中で、ウィルソンは恐らく、自分の歩調がそれと合ってないと感じていたのだろう。他人の期待など、どこ吹く風だったのだ。「彼は黒人としてではなく、ひとりの人間として、人生を悔いなく生きていました」と、友人であるウォリー・エイモス(フェイマス・エイモス・クッキーの創設者)は語る。チュシドはウィルソンの偉業を讃える大ウェブサイト(http://www.producertomwilson.com/)を作り、この人物の共和党的な政治観を語ることが大切であると記している。「かつては、民主党は黒人差別に賛成する政党でした。一方、共和党は自由な企業活動、個人の自由、小さな政府、自己責任を理念として掲げてしていました。ウィルソンはハーヴァードで経済学の優等学位を取得しました。企業家でした。施し物は欲しませんでした。肌の色が黒だからといって被害者面をすることもありませんでした。成功のカギは、人種に関係なく、鍛練と勤労だと感じていました。ブッカー・T・ワシントンのような人物でした」
 今日、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムのあるクリーヴランドではトム・ウィルソンの偉業は全く讃えられておらず、故郷の町ワコでも同じである。彼の名前を知る人は殆どおらず、ドリス・ミラー墓地にある彼の墓石には、なぜか1975年という誤った没年が刻まれている。
 ウィルソンの人生の大部分は謎である。特に、子供時代に関しては殆どわかっていない。ジム・クロウ法の時代のワコで育った黒人少年が、どのようにして20世紀の偉大な音楽業界人のひとりになったのだろうか? 才能を見出す耳をどのようにして養ったのだろうか? 彼の最後もまた謎である。晩年のウィルソンには、いったい、何が起こったのだろうか?
 わかっているのは、少年時代と最晩年の間の時期、特に1955年から1968年にかけて、トム・ウィルソンは歴史を作ったということのみだ。彼がいなかったら、現代の音楽は違ったものになっていただろう。ロックンロール・ホール・オブ・フェイムに一言いいたい。トム・ウィルソンは讃えるに値する功績を残した人物だと。

The original article "The Greatest Music Producer You’ve Never Heard of Is . . ." by Michael Hall
http://www.texasmonthly.com/story/greatest-music-producer-you-have-never-heard
posted by Saved at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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