http://holysons.com/
http://en.wikipedia.org/wiki/Holy_Sons
ホーリー・サンズは2000年にファースト・アルバム《The Lost Decade》をリリースして以来、1〜2年ごとにコンスタントにアルバムを制作し、2014年10月には11枚目のアルバム《The Fact Facer》を発表し、今のところ、これが最新アルバムです。
ウィキペディアによると、エミルは1980年代〜90年代初頭のローファイ宅録ブームの頃に音楽活動を開始し、ホーリー・サンズと並行してグレイルズ、OMでも活躍しているとのこと。アメリカでは一部マスコミからは「ダークで物憂いサイケ」「アヴァンギャルドなフォーク」等と形容されていますが、私はさらに「神秘主義」「ドラッグ」な雰囲気も付け加えたいと思います。
日本のロックファンとしては、日本刀や家紋、城、日本人俳優のものと思しき目がコラージュされたジャケットの《My Only Warm Coals》(2013)も気になります。収録曲〈The Fact Facer〉では「今夜一晩よく考えてみなさい」という日本語も聞こえてきます。
なお、最新アルバム《The Fact Facer》のタイトル・ナンバーは、同じ曲のアコースティック・バージョンです。
その他、参考サイト:
フレッド・ニール
http://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Neil
ヴィンス・マーティン
http://en.wikipedia.org/wiki/Vince_Martin_%28singer%29
ティム・バックリー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A3
ジョニ・ミッチェル、オレの親父、FBI、そして、ティム・バックリーを騙る謎の男(実は宝石泥棒)
文:エミル・エイモス(ホーリー・サンズ)
2006年初頭、親父はマイアミの退役軍人病院で病床に伏しており、オレは毎週末、オレゴン州ポートランドのホームレス支援シェルターでの仕事の休み時間に、末期ガンで入院中の親父に電話をかけて様子をチェックしていた。親父は10代で海軍のレンジャー部隊の一員となって以来、軍事史の本を読むのが大好きだったので、オレもいろんな秘密諜報機関に関する本に夢中だと言ってみた。と、その時だ。親父は、これまでに3度、FBIの尋問を受けたことがあると語り出したのだ。こんな話、全然聞いたことない。当然、詳しく聞きたくなった。
親父の話に超ビックリしたのはこれで3番目だ。オレは1970年代のレコードを夢中になって聞き、さまざまなミュージシャンからアイデアを拝借しては、自分の音楽に取り入れていたのだが、そうしたミュージシャンの多くと親父は付き合いがあった。子供の頃に聞いていたのは、1960年代にマイアミに来て親父と出会ったミュージシャンに関するたくさんのクレイジーな話だった。親父はよくジョン・オーツやデヴィッド・クロスビー、スティーヴン・スティルスとセーリングに出かけ、オレのことを「ボス」と紹介していた。親父と一緒にビージーズのメンバーの豪邸に行ったことも覚えている。ドライブウェイに立ちながら、ギブ兄弟のひとりと交渉して、彼らの持つゴールドの車の1台をオレのために購入しようとしたのだ。
オレは6歳の時に、お袋と一緒にノース・カロライナに引っ越してしまったので、当時の記憶には常にもやがっかってるし、親父の超ワイルドな冒険譚の殆どは、車で長時間のドライブをしている時に、お袋から聞いたものなのだ。親父と一度でも会ったことがあるなら、こうした伝説の殆どはウソではないと思うだろう。というのも、親父は実物大以上のカリスマ性、活力、存在感を発する男で、ココナッツ・グローヴでは殆ど地元のヒーローになっていたほどだからだ。
オレは大学卒業記念ディナー・パーティーの席で、親父がLSDでハイの時にやったセックスで自分がお袋のお腹の中に宿ったことを知って、少々ショックを受けた。教授たちや指導教官だった修道僧みたいな奴、お袋、ダチのダンカン・トラッセルの家族がいる前で、こんな話をするんだぜ。親父はディナーの席でこんな逸話を披露しては、笑いを取っていた。
1950年代後半、親父は頻繁に船旅を行ない、星を道しるべとして、ひとりでバミューダ・トライアングルを直進し、はるばるモロッコまで行ったらしい。こうした技能は海軍において水中で爆薬を扱うエキスパートだった頃に培われたものだろう。そういえば、台所のテーブルの上で火薬{ガンパウダー}から手榴弾を作り、車で波止場まで行って、それを海中に投げて、ちょっと時間が経ってから爆発する様子を眺めていたら、そのうちに警官に囲まれてしまったなんてこともあったので、爆薬のエキスパートだったというのは本当だろう。
セーリングがマイアミのフォーク・ミュージシャンのコミュニティーの間でトレンディーになったのは、陸から離れると保守的な人間や法的な拘束から離れて、お好みのドラッグにふけったり、海に落とされたブツを自分の手で拾って回収したりしながら、自由な気分になれるからだろう。こんなココナッツ・グローヴに引っ越すというトレンドを作った人物が、偉大なフォーク・シンガーであるヴィンス・マーティンだ。彼は1960年代初頭にニューヨークを捨てて、美しい熱帯のマイアミにやって来た。ボブ・ディランの初期のアイドルのひとりだったフレッド・ニールは、ヴィンスの後をも、てやって来て、オレの親父と一緒にセーリングに興じている時期に、名曲〈The Dolphins〉を書いたのだ。親父の話によると、フレッド・ニールと会ったのは、彼がハイになりすぎて親父のボートの隅でぶっ倒れている時だったという。フレッドは誰のものか知らずに親父のボートに侵入していたらしい。これもフレッド・ニール伝説に数えられるかもしれないが、彼はその晩やらなきゃいけないことになってるショウをすっぽかすつもりで隠れていたのだ。
親父は時々、デヴィッド・クロスビーがツアーに出ている間に、彼のボート「ザ・マヤン」の面倒も見ていた。お袋とオレも一緒にこの船に乗って、フロリダ・キーズ(フロリダの最南端の島々)からココナッツ・グローヴに戻って来たこともあった。ザ・マヤンは1947年に作られた船で、その材料にはシロアリにも簡単には食われない極めてレアなホンデュラス産マホガニーが使われていた。オレが大好きなCSNの〈Dark Star〉の7インチ・シングルのジャケットに写っているボートがそれだ。
親父が病床から電話で語ってくれたのは、船でキーズから戻る際に起こった出来事だった。ドラッグの取引に手を染めてたんじゃないの?という質問はしなかった。会話がストップしてしまうリスクを避けたかったからだ。親父は自分の昔話には興味がないようだったので、こっちからあれこれ詮索する必要があった。オレが聞き出したのはこんな話だ。親父はココナッツ・グローヴに戻ろうとした時、町に行きたいので乗船させてもらいたいという人物を埠頭で紹介された。親父はいつもとても親切で、人を恐れることを知らなかったので、 帆走中と船を埠頭につける際に手伝ってくれるならいいよ、と答えた。
間もなく、こいつは腕が立ち、知識欲も旺盛で、頭のキレる奴だとわかった。互いの生い立ち等の話をしていると、この男は自分は「ティム・バックリー」というミュージシャンだと言い、その証拠としてニュー・アルバムを取り出した。親父は恐らくティムのことを知らなかったのだろう。大して気にもとめず、自分の配置に戻った。ただし、この男を人間としては大変気に入ったので、船が向こうに到着したら、うちに遊びに来てエンジョイしてくれと招いたのだ。波止場に到着するまでに、そいつは親父が船の上で行なっているあらゆる動作について質問し、次は自分で船を動かせるくらいのレベルで、それぞれの作業のやり方を覚えたようだった。
この怪しい男の身元は、車が親父が暮らしていたコテージに到着すると、さらに怪しくなった。ジョニ・ミッチェルは既に町に到着し、フレッド・ニールの歌のパートナー、ヴィンス・マーティン宅に滞在していたのだが、もう少し落ち着いていて、自分専用の部屋が持てるようなところを探していたので、親父が自宅を提供してあげていたのだ。親父が怪しい奴を車に乗せて自宅に到着すると、ヴィンス・マーティンとジョニ・ミッチェルがポーチで座っていた。親父がふたりのほうに行った時、この男は「ティム・バックリーです」と名乗った。すると、ジョニ・ミッチェルが「おかしいわねえ…私はニューヨークでティム・バックリーとコンサートをやったばかりよ」と言ったのだが、超人ったらしの魅力を持ったこの男は、この状況を笑い飛ばし、自分は「あの」ティム・バックリーとは違う人であることを認めただけでなく、ジョニの心も掴んでしまった。実際、こいつは間もなくジョニに気に入られて、親父の家で暮らすようになり、ジョニと恋仲になってしまったのだった。
親父の話しっぷりによると、ふたりのロマンスはそんなに長くは続かなかったようだ。ジョニは1、2カ月後には大ツアーに出ることになっていた。しかも、彼女のキャリアは1968年夏にブレイクする。ツアーが近付くに連れてふたりの口論の頻度も増えていき、ジョニがツアーに出るや否や、偽のティム・バックリーも姿を消した。
その約1カ月後、親父は車の中に押し込められて、暗い部屋に連れて行かれ、しばらくそこに監禁された。FBIによってだ。あのへんの大麻栽培者やドラッグ・ディーラーと交際があった親父は、最初はそれと関係があるのだろうと思ったのだが、FBIの眼中にあるのは自分が町に連れて来た男だと知ってホッとしたに違いない。尋問しながら捜査局員が明かしたことなのだが、親父が町に連れて来た男は、マスコミで大きく報道されたいくつかの強盗事件の容疑者として指名手配されている、世界を股にかけたダイヤモンド泥棒だったのだ。親父はこの件については本当に何も知らなかったので、くつろぎながら卑語を交えて知るもんかと言った。最終的に、親父はFBIから、自分は国際手配されている犯罪者がアメリカ合衆国に入国する片棒を担いでしまいましたと書いてある書類を見せられ、それに署名をしたら釈放してもらえるということになった。
この話を聞いた約2年後、オレはFBIが持っている親父に関する書類を、情報公開法に基づいて請求してみようかと思ったのだが、音楽の仕事が忙しくなり、その暇を見つけることが出来なかった。ヴィンス・マーティンとも連絡を取って、オレのお気に入りのアグリー・タイムズ誌用にインタビューしたが、記事を書き終えるには至っていない。結婚し、3つのバンドで常にツアー活動をしているので、忙しさにかまけて、親父の死ですらまだ心の中でしっかり整理がついてない状態だった。ある晩、メールをチェックしていたら、何年も前にヴィンス・マーティンから届いていた返信を発見した。それを読むと、ヴィンスは親父の話についてもっとずっと詳しいことを知っているようだった。
ヴィンスのメールにはこんなことが書いてあった:
ワオ! キミのことを知らなかったなんて面目ない。まあ、知らないまま死ぬよりはマシか。私がキミのオジサンのロンからお父さんの遺灰を少しもらって持ってるの知ってるかい? ステンドグラス製の箱に入って、リビングルームに置いてあるんだよ。キミのお父さんのことは大好きだった。大親友だったんだ。よくセーリングをしたり、遊び歩いたりしたんだよ。懐かしいなあ。2本指でメールを書くのは遅うし超大変だ。話すほうがいい。いつでも連絡をくれたまえ、エミルくん。
ジョニはベイ・ホームズ・ドライブにある私の家で暮らしてたんだ。私はデトロイトで、ジョニと当時の旦那のチャックと1年ほど一緒に暮らしてたんだ。とても親しい仲だった。ジョニをデヴィッド・クロスビーに紹介したのは私なんだよ。デヴィッドはその後、ジョニのファースト・アルバムをプロデュースしたよね…。
偽ティム・バックリーの話はその通りだ。あいつは私ん家{ち}のリビングで自分がティムだと言い張ろうとしたんだよ。だが、私はティム・バックリーと知り合いだから、こいつが偽物だとわかったさ。ジョニと私は、ハァ?って感じで、そいつをじっと見つめたよ。そのうち、それが嘘で、私達の目が節穴じゃないことを確信出来たんだけどね。
ヴィンスのメールを再度読んで、この件を再び調べたくなったオレは、親父が言ってたように、ジョニ・ミッチェルがニューヨークでティム・バックリーと一緒にコンサートをやった時のフライヤーの残骸でもないかと、グーグルであれこれ検索してみた。
何も発見出来なかった。しかし、唯一ヒットした1988年のジョニ・ミッチェルのインタビューの音声の断片が、あらゆることを魔法のように証明してくれそうだった。オレは目を見開き、グラスにドリンクをもう1杯注いで、親父が病床から立て板に水のようにしゃべったことを裏付けしてくれる、わずかな証拠に聞き耳を立てた。
さらに調べて出て来た疑問は、FBIが追ってた男とはジャック・ローランド・マーフィー、通称マーフ・ザ・サーフだったのではないか、ということだ。
多くのメールの目を通していると、叔父さんからのメールがあった。彼も、マーフ・ザ・サーフかその一味だろうと思うと言っていた。この宝石強盗は1969年頃に刑務所に入っているので、時期は合っている。丁度この頃FBIが追っていたのは、こいつとその一味だろう。FBIがあの時期にココナッツ・グローヴ界隈で大勢の国際ダイヤモンド泥棒を追ってたなんて、ありえないと思う。
Copyrighted article ‘JONI MITCHELL, MY DAD, THE F.B.I. & THE MYSTERIOUS TIM BUCKLEY IMPOSTER / JEWEL THIEF’ by Emil Amos
http://dangerousminds.net/comments/joni_mitchell_my_dad
Reprinted by permission