2015年05月20日

ナッシュヴィルを変えたレコード《ブロンド・オン・ブロンド》

 6月に《Dylan, Cash And The Nashville Cats》という面白そうなコンピレーション・アルバムが出ます。ボブの〈If Not For You〉が未発表テイクというのも話題のひとつですが(《The Bootleg Series Vo1.10: Another Self Portrait》のバージョンにペダル・スティールが加えられているもの----つまり《Genuine Bootleg Series 3》などに収録されてたもの----ではないかと、私は予想しています)、フォーク/ロックとナッシュヴィルの関係について復習するのが静かなブームになることでしょう。
 ということで、今回は絶好の機会なので、ナッシュヴィルの人がナッシュヴィルのさまざまなシーンを紹介しているサイト『Nashville Scene』に掲載されている《Blonde On Blonde》に関する記事を紹介したいと思います。参加ミュージシャンの写真も私のほうでネットで拾い、勝手に追加しておきました。厳密に1966年初頭の姿を写したものではないでしょうが、こんなルックスの人たちがあんな最先端の音を出してたの!?というギャップが面白いと思います。1960年代半ばのスタジオ・シーンはこんなもんで普通だったのでしょうか。ニューヨークで行なわれた《Highway 61 Revisited》のレコーディングの写真を見ても、ボブとマイク・ブルームフィールド以外はヒップ----これも死語----に見えない人ばかりなので…。
 また、アル・クーパーが《Blonde On Blonde》セッションについて語ってる動画がyoutubeにあります。こちらも必見。



  





ナッシュヴィルを変えたレコード《ブロンド・オン・ブロンド》
文:ダリル・サンダース


 古い傷だらけのLPの第1面に針を落とすのであれ、CDの1曲目をスタートさせるのであれ、イヤホンを耳に差し込んでデジタル音楽プレイヤーの画面にタッチするのであれ、最初に流れてくる音----まずはマーチング・バンドのドラムビートから始まり、息を大きく吸い込むようにトロンボーンの音が鳴り、次にカーニバルの喧噪のような、しらふとは思えない管楽器や歓声が聞こえてくる----にはショッキングなほどの新しさが残っている。救世軍バンドのパレードが元気良く行進しながら観覧席の前を通過するような、屋外にいる雰囲気があるのだが、それでいて、まるで先週録音したと言ってもおかしくないくらい、フレッシュで自然な音がするのだ。
 45年前の今月(この記事が発表されたのは2011年5月)、コロムビア・レコードは、ほぼ全体をナッシュヴィルでレコーディングしたボブにとって画期的なアルバム《Blonde On Blonde》をリリースした。これはディランの最高傑作の1つとして評価され、アーティスト、評論家、ロック・ミュージック研究家が史上最高のロック・アルバムを10枚選ぶ際には、必ず登場する作品だ。ナッシュヴィルにとっては、このアルバムはナッシュヴィルを変えた作品だった。つまり、この町の地位をニューヨークやロサンゼルスに匹敵する音楽の中心地へと引き上げた作品だったのだ。
 1966年の時点で、ナッシュヴィルはソングライターの町としての地位は確立されていたが、シンガー・ソングライターの停泊地にはまだなっていなかった。ナッシュヴィルはティン・パン・アレーのような、ソングライターが曲を書き、レコーディング・アーティストがレコードを作るという古い因習の残る町だった。エルヴィスがロックンロールをやるにはそれで十分だったのだろうが、ナッシュヴィルは、シーンで頭角を現してきた長髪、モップトップ、詩人が「芸術作品」を創造するために訪れる場所ではなかったのだ。しかし、《Blonde On Blonde》がリリースされた後、ナッシュヴィルはレナード・コーエンやニール・ヤング、ガイ・クラーク、タウンズ・ヴァン・ザント等、自作曲を演奏するシンガー・ソングライターがやって来る場所になった。
 ナッシュヴィルの音楽コミュニティーをクールにしたのはディランでもないし、40年後のジャック・ホワイトでもない。ホワイトと同様、ディランは後進の者たちに称賛のメッセージを送っただけなのだ:ナッシュヴィルはクールだぜ、と。すると間もなく、この新たな音楽のメッカには、さまざまなフォーク/ロックの巡礼者がやってくるようになった。その中には、ヤングやコーエン、バーズ、ジョーン・バエズ、ジョニー・ウィンター、リンダ・ロンシュタット、スティーヴ・ミラー、ピーター・ポール&マリー、モビー・グレイプらがいた。《Blonde On Blonde》セッションで中心的な役割を果たしたミュージシャンであるチャーリー・マッコイは、ディランがこの地でレコーディングしようと決意したことを、こう表現している:「その時、水門が開かれたんだ」
 ディランとナッシュヴィルのミュージシャンの歴史的コラボレーションは、文化的衝突を乗り越えた理想のヴィジョンのようなものだった、と考える者もいる。ニューヨークのヒップスターが田舎者と出会い、その好機をしっかりものにしたのだから。エレクトリックになり、フォーク原理主義者を怒らせ、自分の中の詩神を解き放って、ディランの素晴らしい創造期が始まったが、《Blonde On Blonde》は、音楽の点でも歌詞の点でも、そのクライマックスとなっている。
 理由は、この作品が、演奏とアレンジのインスピレーションが紙の上の言葉とマッチしているアルバムだからだ。ナッシュヴィルのセッション・マンたちは腕が立つので、ディランに、自分の頭の中にある音やアイデアに向かって手を伸ばさせる能力を持っていた。すると今度はディランが、どこに行こうとオレについて来いと、彼らに挑んだ。騒々しいロックであれ、美しいバラードであれ、「Everybody Must Get Stoned」という歌詞のある超突飛な〈Rainy Day Women #12&35〉であれ。
 レコーディング以来約50年の間、人々を惑わし、酔わし、魅了し、元気づけてきたアルバムを記念して、この作品に参加したナッシュヴィルのセッション・プレイヤーのうち、ひとりを除く全員に、私達はインタビューし、歴史が作られる瞬間に居合わせるというのはどういうことなのか訊いてみた。自分たちが歴史を作っているなんて考えもしなかった、というのが全員共通の回答である。このアルバムのセッションでギターを演奏したミュージシャンで、現在はプロデューサーのジェリー・ケネディーは言う。「こういうことに興味を持ってる人がいるとわかってたら、記録を残しておいたんだけどなあ。でも、そんなこと全然してないんだよ」

* * * * * *


 《Blonde On Blonde》がナッシュヴィルでレコーディングされるに至った物語は、1965年秋〜冬の、コロムビア・レコードのニューヨーク・スタジオ内から始まる。ディランは大ヒット・アルバム《Highway 61 Revisited》の次の作品の作業を行なっていたのだが、まだフォーク・シンガーからロック・スターへの過渡期であり、1978年にプレイボーイ誌のインタビュアー、ロン・ローゼンバウムに語った発言によると、「あの薄っぺらくて、ワイルドな、水銀のようなサウンド----金属的で明るい金色の音」を探しているところだった。頭の中では、ギターとオルガン、ハーモニカのスペシャル・ブレンドな音が鳴っていたのだろう。その年の夏にヒットした〈Like A Rolling Stone〉では「それ」を捕らえたと感じたが、秋、冬のセッションでは手ごたえが得られなかった。
 この時期のセッションの殆どでは、当時のライヴ・パフォーマンスの用のグループになったばかりだったザ・バンド(当時はザ・ホークスと呼ばれていた)のメンバーがバックを務めていたのだが、彼らはライヴではディランと電気ショックを作り出していたものの、スタジオでそれに形を与えることが出来なかったのだ。音楽評論家でボブの評伝も書いているロバート・シェルトンに、ボブはこう語っている:「かなり不調で、10回レコーディング・セッションをやって、1曲も完成しなかった。実際にはバンドのせいだったんだけど、あの時はそうだとは分からなかったし、そう考えたくもなかった」
 ナッシュヴィルからニューヨークにやって来たばかりのプロデューサー、ボブ・ジョンストンは、ディランがスタジオで抱えていた頭痛の理由に気づき、ナッシュヴィルでレコーディングを行なうことを勧めた。ロカビリー・アーティストやソングライターの経歴を持ち、卓の後ろに座してヒットを作る存在となっていたジョンストンは、ナッシュヴィルのセッション・プレイヤーの多くと強いコネを持ち、ディランが求めるサウンドを出すことの出来る人がいるとしたら、以前一緒に仕事をしたことのある、ロックやR&Bにも精通している若手のミュージシャン集団がそれだ、と思ったのだ。
 1965年8月上旬に、こうしたミュージシャンのひとりが妻と一緒に、世界博覧会の見物のために、ニューヨークにやって来た。多数の楽器を弾きこなすチャーリー・マッコイは、ナッシュヴィルの歴史において最も重要なミュージシャンのひとりなのだが、彼と話をしてもそうとはわからない。ベテラン・ミュージシャンとなった今でも、彼はやさしい口調で、謙遜したしゃべり方をする。当時、弱冠25歳だったマッコイは、スタジオ・ミュージシャンとして既に素晴らしい経歴を持っていて、エルヴィスやロイ・オービソン、パッツィー・クライン、クインシー・ジョーンズ、ボビー・ベア、ジョニー・キャッシュ、ペリー・コモ等のレコーディングに参加していた。Mccoy.jpg
 マッコイはジョンストンから、ニューヨークに来るならブロードウェイ・ショウのチケットを取っておいてあげようと言われていたので、ニューヨークに到着した翌日、8月4日の朝に、ジョンストンにチケットに関する問い合わせの電話を入れた。最高のタイミングだった。
 「今日の午後、暇かい?」とプロデューサーが訊いた。「ボブ・ディランのレコーディングがあるんだ。彼に会ってもらいたいんだよな」
 マッコイはスタジオに行き、ディランとベーシストのラス・サヴァカスに会った。紹介が済んだ後、ディランはマッコイのレコードを持っていることを告げた。「〈Harpoon Man〉は大好きだよ」 マッコイは圧倒された。これはマッコイが1960年代にモニュメント・レコードからリリースしたロック・シングルのひとつだった。1964年代にリリースした〈Harpoon Man〉は、マッコイのグループ、ジ・エスコーツによる伴奏をフィーチャーしていたのだが、メンバーの中にはジョンソンがナッシュヴィルで一緒に仕事をしたことのあるミュージシャンもいた。あまり売れず、放送もされなかったこの曲を、ディランが耳にしたことがあるだけでも、マッコイにとっては驚きなのだが、気に入ってると言われて、彼はさらに驚いた。



 マッコイが帰ろうとすると、ディランが言った。「ねえ、この後すぐ、この曲をやる予定なんだけど、参加してくれないかい」 マッコイは捕獲された獲物だったが、楽器は何も持って来ていなかった。しかし、そんなことでは引き下がらないディランが言った。「向こうにアコースティック・ギターがあるから、それを使いなよ」
 彼らがレコーディングしたのは、《Highway 61 Revisited》の最終曲〈Desolation Row〉だった。ディランは2日前にエレクトリック・バージョンを録音していたが、アコースティックな感じでやろうと判断していたのだ。彼らは1時間もかからずにこのトラックを仕上げた。マッコイの演奏したグレイディー・マーティン風ギター・フィルは、この曲の音楽的ハイライトとなった。その後、マッコイは、入って来た時と同様、目立たぬようにスタジオを去った。
 「どんなにスムーズかわかっただろう」とジョンストンはディランに言った。「ナッシュヴィルじゃこういくんだよ」 プロデューサーの記憶によると、ディランは手をアゴに当てて考え込んでるポーズを取りながらこう言った。「ふ〜ん」
 ディランが《Highway 61 Revisited》の次の作品の作業を開始した当初は、ナッシュヴィルでのセッションは11月に予定されていたのだが、ディランの曲者マネージャーのアルバート・グロスマンとレーベル長のビル・ギャラガーが、このアイデアに全く賛成しなかった。ふたりは、ディランはニューヨークで十分うまくやっていると感じていたので、ジョンストンに対して、ナッシュヴィルのことは2度と口にするな、さもなきゃクビだ、と言った。
 1965年秋になると、ディランのセッションが実を結ぶことを皆が期待し始めたのだが、1966年1月になっても、ディランは真の問題を抱えたままだった。ワールド・ツアーの一環としての北米ツアーの開始が数日後に迫っていたのだが、10回以上のセッションをしても、リリース可と判断することが出来、実際に《Blonde On Blonde》に収録されたトラックは、〈One of Us Must Know (Sooner or Later)〉1つしかない状態であった。ナッシュヴィルに行こうというジョンストンの提案のほうが、このままニューヨークでセッションを続けるより、はるかに有望のように思えてきた。ディランはツアー・スケジュールの中で、2月12日のヴァージニア州ノフォーク公演と2月19日のカナダ、オタワ公演の間にブレイクを作り、ジョンストンのほうは、2月14日から2月17日の朝まで、コロムビアのナッシュヴィル・スタジオの中のスタジオAを予約した。
 ここを押さえることが出来たのは、運が良かったとも悪かったとも言える。世界的に有名なクォンセット・ハット(当時、コロムビア・スタジオBはこの名で知られていた)とは異なり、スタジオAは遮音を良くするために、音の漏れを減らすバッフルが常に設置されていたのだ。これがあったほうが濁りのないサウンドを得るのに適しているのだが、ミュージシャン同士のコミュニケーションはやりにくい。ディランはミュージシャン全員が演奏中に互いを見て、コミュニケーションを取れる状態を望んでいたのだ。
 そこでジョンストンと警備員のエド・グリザードがやったのは、バッフルの除去だった。この行為に怒ったナッシュヴィル・スタジオの部長たちは、ニューヨークにいるジョンストンの上役に報告し、一緒にジョンストンを糾弾してくれることを期待したが、ジョンソンによると、ギャラガーはナッシュヴィルに飛んでは来たものの、そんなことは起こらなかったという。
 コロムビアの重役は腹を立てている部長たちにこう言った。「私が言わんとしているのは次のことです。私はジョンストンと一緒に昼食をとる予定です。そして、皆さんには、ジョンストンが天井にマイクロホンを取り付けたいと言ったら、一番背の高い脚立を用意して、さっさと上に登ることをお勧めします。さもなければ、こんなスタジオ閉鎖だ」
 ジョンストンはマッコイをセッション・リーダーに選び、起用したいミュージシャンのリストを渡した。このリストに名前があったドラマーのケニー・バトリーは、ナッシュヴィルでレコーディングされた13曲の全てに参加している5人のプレイヤーのうちのひとりだった。
 ケニー・バトリーは2004年に癌でこの世を去っているが、彼はポップ・ミュージックの歴史の中でトップに位置するスタジオ・ドラマーであり、エルヴィスやチャック・ベリー−からドノヴァン、レナード・コーエン、ニール・ヤングまで、あらゆるアーティストのバックを務めことの出来るほど、器用で柔軟なプレイヤーだった。彼の斬新的なドラム/パーカッションの演奏は、ディランのナッシュヴィルのセッションの土台となった。

Charlie McCoy and the Escorts, Wayne Butler, Jerry Tuttle, Kenny Buttrey, Mac Gayden, and Charlie McCoy.jpg

チャーリー・マッコイ&ジ・エスコーツ
L to R:
ウェイン・バトラー(trombone)
ジェリー・タトル(sax)
ケニー・バトリー(drums)
マック・ゲイデン(guitar)
チャーリー・マッコイ(bass)


 ナッシュヴィル・セッションの全てに参加した他のミュージシャンは、ギタリストのウェイン・モス、ギタリスト/ベーシストのジョー・サウス、キーボーディストのアル・クーパーだ(ニューヨークでのディランのサイドマンで、〈Like a Rolling Stone〉のセッションに潜り込み、彼が思いついたオルガン・フレーズが、あのレコードに収録されたというのは有名な話だ)。もうひとりの重要なプレイヤーが伝説の盲目のピアニスト、ハーガス・「ピッグ」・ロビンスだ。彼は2つ以外の全セッションに参加している。

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ハーガス・ロビンス


 2月のセッションの基本ラインナップは、バトリーがドラム、モスがエレキ・ギター(サウスの時もあった)、ロビンスがピアノ、クーパーがオルガン、マッコイかサウスがベース、ディランがアコースティック/エレキ・ギターとハーモニカだった。マッコイは、ベースを弾かない時には、アコースティック・ギターを担当した。

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ジョー・サウス


 最初のセッションは2月14日午後2時から行なわれるというスケジュールだったが、ノーフォーク空港で遅延が生じたために、ディランは数時間遅れで到着した。グロスマンと新妻サラ、生まれてまだ1カ月のジェシも一緒だった。アル・クーパーは自分のバンド、ブルース・プロジェクトでツアーに出ていたので、2月12日のアンティオク・カレッジでの公演の後、オハイオから飛んで来た。
 ロビンズは、その日の午後、他のアーティストのレコーディングの仕事があったので、電話を受けたのはキーボーディストのビル・エイキンスだった。「オレが受けた最も普通でない仕事のひとつだった」とエイキンスはザ・シーンに語る。Bill Aikins.jpg
 普通でなかったのは、ミュージシャンが取った作業休止時間の量だった。ナッシュヴィルのスタジオ・ミュージシャンは、きっちり3時間セッションを行なって、最低3曲----運が良かったらもっと----をレコーディングするというスケジュールに慣れていたのだが、その日の午後にスタジオAで行なわれた最初の3時間のセッション中、彼らは1音も発しなかったのだ。
 マッコイがミュージシャンをディランに紹介すると、ディランは彼らに、飛行機が遅れたので、今から歌詞を仕上げなければならない旨を伝えた。「休み時間にしよう」と言うと、ディランはピアノのところに行ってしまった。リーガルパッドと聖書を持って。
 「ディランが深く瞑想するように考えながら、ピアノのところに座っていたのを覚えてるよ」とエイキンスは回想する。「創造してたんだ。曲を書いていたんだ。オレ達はミュージシャンとしてただ待機していた。その時間はマスター・セッションに参加している扱いで、ギャラも発生していた。オレ達はただフラフラしているだけだった…。コロムビアはボブにそれだけの予算を出していたんだな。すると、どのくらい待った後かは分からないんだが----おそらく数時間は待っただろう----「OK、ボブがこの歌を録音する準備が出来たよ」って声がかかったんだ」
 該当の曲は、いつもの仕事とはわけが違っていた。〈Visions of Johanna〉はディランの本領が足枷なく自由に発揮された7分33秒の作品で、幻惑的なフレーズ(「宝石と双眼鏡が騾馬の首にぶら下がっていた」)や深遠な示唆(「博物館の中では無限が裁判にかけられる」)に満ちあふれていた。エイキンスは、ディランが曲の中で何を語っているのか理解しようと試みたらしい。「ゼリー状の顔をした女性全員がくしゃみをする時に/原始的な壁の花が凍りつくのを見ろ」っといった歌詞の意味をじっくり考えるのは、ナッシュヴィルのセッション・ミュージシャンらしからぬことだった(他の都市の同業者にとってもそうだろう)。
 エイキンスは回想する。「オレが思ったのは本当に…あの頃の言葉を使うと“far out”(いかす! カッコいい!)ってことだった。今の時代だとしても、かなりあっちにイッちゃってる歌だよな」
 ディランはミュージシャンたちがコード進行を把握することが出来るように、1度だけざっと演奏した。その後、彼らはアレンジの作業を行ない、モスの素晴らしいリード・ギター・フィルをフィーチャーしたバージョンが出来上がった。彼らは4度チャレンジして完奏テイクは1つしかものに出来なかったが、それで十分だった。
 ディランは初日に他に2曲の作業を行なった。デリケートで物思いに沈んだワルツ〈Fourth Time Around〉は、モスとマッコイによるゴージャスなアルペジオのインタープレイをフィーチャーしたマスター・テイクをものにすることが出来たが、カオスなアレンジの喧噪のブルース・ナンバー〈Leopard-Skin Pillbox Hat〉は、アルバムには収録されなかった。
 ナッシュヴィルのセッション・ミュージシャンたちは、《Blonde on Blonde》セッションでは初日のように待たされることが普通であることを、すぐに学んだ。2月のレコーディングだけでなく、アルバムを完成させるために3月に再びナッシュヴィルにやって来た時もそうだった。「ディランがひとりでスタジオのピアノのところに座り、何時間も----6、7時間----歌詞を練っているなんてことが何日もあった」とクーパーはシーン誌に語っている。
 「とても集中している状態で、終わるまで出て来なかった。…夜の7時まで何の作業も出来ない日がたくさんあった。オレたちは12時にスタジオ入りしてたのに」
 2月15日がまさにそのような日だった。マラソン・セッションでたった1曲しか生み出してないのだ。他の曲は全くなし。ナッシュヴィルのミュージシャンはシングルを機械のように生産することに慣れていた。ハーガス・「ピッグ」・ロビンスは回想する:「1960年代には2分20秒の曲を作ってた。2分45秒か2分50秒もあったら長いほうだったのさ。しかし、ディランのセッションでは、ミュージシャンが集まって7、8分の曲にもなる曲をやったんだ」
 しかし、この曲はもっと特殊だった。〈Sad Eyed Lady of the Lowlands〉は11分19秒もあり、アルバムの最後を飾り、しかも、LPの片面全部を占める曲だった。さっさと仕上がったわけではない。ウェイン・モスはその場面をこう回想する:「オレたちは休憩に入って、3時間後に組合員証にサインして、また休憩に入った」
 ディラン側の録音の準備が出来た頃、ミュージシャンたちは、どんな怪物に取り組むことになるのか全くわかっていなかった。故ケニー・バトリーは、クリントン・ヘイリンに実際のレコーディングの様子をこう語っている:
 「ディランはヴァースを1つとコーラスを1つざっと歌うと、手を止めて言った。「ヴァースをやったら次にコーラスをやる。そしたらハーモニカをプレイするので、そしたらまたヴァースとコーラスをやってハーモニカを吹いて、って具合にやってみよう」って。この曲があんなに長くなるなんて知らなかったので、2〜3分の曲をドラマチックに盛り上げるつもりだった。3分を超えるレコードは普通はなかったからさ。2番目のコーラスの後くらいにどんどん盛り上がって行く箇所があるのに気が付くかもしれないね。皆、そこで盛り上がりのピークを作ろうとしたんだ。「ここだ! これが最終のコーラスだろうから、全力を出しきらなきゃって思ったのさ。…10分後くらいには、互いに、自分たちが何をやってるのか、わけがわからなくなったね。盛り上がりのピークは5分前に既に来てしまってるわけだからさ。そこからさらにどこに行けばいいのかって話だよ」
 ナッシュヴィルのセッションマンたちは、エルヴィス等のアーティストと深夜のセッションをしたことはあったが、作業が一晩中長引くことには慣れていなかった。
 アル・クーパーによると、2日目の夜明け過ぎまでスタジオにいた時に、モスはこんな皮肉な言葉を言ったらしい:「昨晩はあんな時間に寝て超寂しかったなあ」
 モスはこう語る:「そのセッション・マンは午後の2時に始まり、次の日の朝の8:30に帰った。ピンポンをしたり、3時間ごとにカードにサインするのは気にしなかったけど、夜通しセッションするのには慣れていなかった」
 しかし、同日----つまり2月16日----の午後6時には、ミュージシャンたちは戻って来て、ディランがまたまた7分を超える曲の歌詞を書き終えるのを待った。今度は〈Stuck Inside of Mobile With the Memphis Blues Again〉だ。スタジオの記録によると、ディランたちがこの曲の作業を開始したのは翌朝、2月17日の午前4時だった。そして、3時間後、彼らはギタリスト、マック・ゲイデン(ジ・エスコーツのメンバー)の弾くゴスペル風トリルが冴えているアルバム収録テイクをものにした。
 ディランのこの多産な時期の数々のベスト・ソングと同様、この曲も不朽の名作である。新たに作り出された神話のような歌には、ウィットと生気に富む粋な歌詞があり、シェイクスピアや見出しが胸にホチキスでとめられている宣教師、フランスの少女、モナ、ホンキートンクな沼にいるルーシー、哀れなお爺ちゃん、「メインストリートで火を燃やし、それを銃で撃って穴だらけにする」気のふれた預言者など、万華鏡のようにさまざまな人物が登場する。
 しかし、セッション・プレイヤーたちはディランのソング・ライティングに関して最も重要なことを理解した。ディランはそうして楽しんでいるのであって、山から石板を持って降りてくるモーゼのような、敬服すべき存在ではない。ミュージシャンたちは、機に応じて見事な演奏をしている時でさえ、これはいつもの仕事のひとつなんだと思っていた。そうした意識が《Blonde on Blonde》を元気で自由奔放な雰囲気にするのに貢献している。嫌になるほど長い〈Sad-Eyed Lady〉を除くと、曲自体が持つ重みで息が詰まるような作品ではない。
 作業休止時間中、ミュージシャンたちはコロムビア・レコード・ビルのスタジオの1階下にあるラウンジに行って、卓球やトランプに興じたり、テレビを見たり、何かを食べたりしていた。2月のレコーディングの最終日にセッションに参加したベーシスト、ヘンリー・ストルゼレッキーは、ウィージャ・ボード(日本でいう「コックリさん」みたいな占い)で「アルバムが最大のヒットになるか、全くの不発で終わるか」を占ったことを覚えている。いくつのセッションでエレクトリック・ギターでリズムを担当したが、事務的な見落としのせいでクレジットされていないゲイデンは、ディランがピアノに向かって歌詞を考えている間、奥さんのが隅のほうで赤子の面倒を見ていて、自分はスタジオの後ろのほうの床の上でうたた寝をしていたことを覚えている。

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ヘンリー・ストルゼレッキー


 モスによると、皆がディラン待ちをしている間、アルバート・グロスマンはコントロール・ルームの椅子に座って、自分の抱えるアーティストがナッシュヴィルにいることに文句を言いながら、天井のタイルをめがけて25セント硬貨を投げつけては、めり込んで落ちて来なくなった数をかぞえていたらしい。そして、「もし壊したタイルの弁償代の請求書が来たら、コロムビアに回してやれ。あいつらわんさか金を持ってんだから」とボヤいてたのだとか。ちなみに、清掃作業を行なっていたのは、当時コロムビア・ナッシュヴィルが雇っていた警備員----クリス・クリストファーソンだったのかもしれない。
 ディランはナッシュヴィルのミュージシャンとそんなにコミューニケーションをとらなかったが、アル・クーパーは彼らとよく話をした。「皆、とてもいい人だった」 クーパーは1968年に再びナッシュヴィルに行って、ファースト・ソロ・アルバム《I Stand Alone》をレコーディングし、1990年代にはこの地で暮らしていた。「1959年以来ずっとニューヨークのスタジオ・システムの中で活動していたんだけど、その外で働いたのはあの時が初めてだった。一緒に作業をしたミュージシャンたちの腕前にビックリたよ。オレと同じくらいの年なのに」
 クーパーはナッシュヴィルのミュージシャンとはウマが合ったが、地元の若者からはあまり歓迎されていなかった。ある時、クーパーはアーネスト・タブ・レコード店をチェックしようと、ロウワー・ブロード通りを散策していた。「レコード大好き人間なので、その店で買い物したくてたまらなかったんだ。たくさんのレコードを買った後、歩いて戻ろうとしていたら、当時の呼び方で言う非行少年たちが因縁をつけてきたんだよ。5人くらいだったかな。トラブルを起こす気満々だったね」 クーパーのオシャレな服装が気に障ったのか、彼らが通りを横断して追いかけてきたので、クーパーはドラッグストアに逃げ込んだ。ディランがナッシュヴィルにいる間のボディーガードとして、ジョンストンはラマー・ファイクを手配していたのだが、クーパーも彼の電話番号を持っていた。悪ガキどもが外で待っている間に、クーパーは公衆電話からファイクに連絡を入れて事態を伝えた。
 数分後、エルヴィスのボディーガードが運転する大型のキャディラックが、ドラッグストアの前でキーッという音を立てて停まり、クーパーを救出した。ホテルへの道すがら、ファイクは冗談を言った。「お前は5分、目を離しただけで、誰かと喧嘩をおっ始める奴なんだな」
 ディランは、2月下旬のコンサートを行なうためにナッシュヴィルを離れる前に、アルバム用に4曲を完成させており、その中には最長の3曲があった。3月上旬、ツアーの短いブレイク中にナッシュヴィルに戻って来た時には、ザ・バンドのギタリスト、ロビー・ロバートソンを連れて来た。ギター・パートにブルース風味を加えたのはロビーだ。
 「[ディランが]ロビーとオレを連れて行ったのは、気分的にくつろげるようにだった」とクーパーは説明する。「実際、[オレもロビーも]必ずしも必要だったわけじゃない」
 2月のセッションのパターンが続き、3月のセッションもさらに待つことから始まった。スタジオの記録によると、3月7日には午前9:30にミュージシャンが集まったが、作業が始まったのは深夜過ぎだった。この時レコーディングしたのは〈Absolutely Sweet Marie〉だった。
 スタートはゆっくりだったものの、3月のセッションでは、ディランは準備が出来ており、作業はてきぱきと進んだ。翌日、ディランとミュージシャンたちは〈Pledging My Time〉〈Just Like a Woman〉をレコーディングした。後者は7月にシングルとしてリリースされ、ビルボード誌のホット100チャートで33位まで上昇した曲だ。
 3月11日にセントルイスからワールド・ツアーを再開しなければならなかったので、ディランは最後にもう1度、オール・ナイトでレコーディングを行なった。作業は3月9日午後6時に開始され、終わったのは翌10日の夜が明けた後だった。〈Most Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)〉〈Temporary Like Achilles〉〈Obviously 5 Believers〉、新バージョンの〈Leopard-Skin Pillbox Hat〉、そして、さらに2つのトップ40ヒットの計6曲が仕上がった。そのひとつは20位まで上昇した明るいナンバー〈I Want You〉だった。
 そして、残りの1曲がナッシュヴィルのプレイヤーにとって最も思い出深い〈Rainy Day Women #12 & 35〉だ。「Everybody must get stoned」というダブル・ミーニングのコーラス部分がドラッグに言及してるっぽいという理由もあるが、セッションを取り巻いていた雰囲気でも記憶に残っている。この曲は最高2位まで上昇し、ディランの最高位シングルとして〈Like a Rolling Stone〉とタイ記録になっている。
 ディランは救世軍の楽隊のようなルーズなサウンドにしたいと言ったが、地球上で最も優秀なミュージシャンにとって、それはたやすい作業ではなかった。ディランはモスをはじめ数人のミュージシャンに「ここではみんな何をやってるの?」と質問した。モスは「暇な時にはゴルフをやってるよ」と答えたが、ディランは言った。「そういうことを訊いてるんじゃなくてさ。ここではみんな、何をやってるのかな?」 すると彼らはやっと、何をやってハイになってるのか?という意味だとわかり、ワイルドな時代にデヴィッドソン・カウンティーで出回っていたもの----つまり、ビールやカクテル、と答えた。
 ジョンストンは近所のアイルランド系レストランに警備員のエド・グリザードを遣わした。ここの名物はレプラコーンという強いカクテルで、彼はこのライムグリーン色の酒を18カートン分持って帰ってきて、すぐにミュージシャンたちをステキなアイルランド色に変えた。ストルゼレッキとロビンズの発言によると、彼らはハイクオリティのジョイントをスタジオ中に回して、皆で分かち合ったらしい。
 ミュージシャンたちが適切な精神状態に達した後、彼らはサウンド作りにとりかかった。クーパーは語る。「ボブから叫んだりわめいたりするように言われたんで、みんなそうしたんだ」
 一方、バトリーはドラムキットをバラバラにして、キック・ドラムをマーチング・バンドの大太鼓のように演奏出来るようにした。モスはストルゼレッキのベースを手にし、ベース・マンはというと----このトラックでは笑いが止まらない状態に陥った彼の笑い声が聞こえる----床に座り、クーパーのオルガンのベース・ペダルを手で演奏した。オルガニストはタンバリンを叩き、マッコイはトランペットを吹いた。
 トランペットと一緒にトロンボーンの音があればいいなと判断したディランは、誰かプレイヤーを知らないかとマッコイに訊いた。マッコイはジ・エスコーツのトロンボーン奏者、ウェイン・バトラーに電話をかけた。
 「45分後くらいにやって来たよ。スタッフが連絡を入れたのが午前2時か3時だったのにね」とクーパーは回想する。「キレイにヒゲを剃って、スーツを着てたよ。彼はあの曲を1、2テイク演奏して、みんなにありがとうと言って、帰宅した。とてもおかしかったなあ」 ゲイデン同様、バトラーも参加者としてクレジットされることはなかった。
 クーパーが特に覚えているのは、最後にレコーディングした〈I Want You〉の作業だ。「最後に〈I Want You〉をやった時、ああいうアレンジのアイデアを持っていて、それを全員に説明したのはオレなんだよ。[コーラスの最後の箇所で]ウェイン[・モス]は16分音符のフレーズを弾いたんだ。あんな速くプレイするのを聞いたことがなかったんで、流して演奏している手を止めて、「それを毎回やってくれなかい」って提案したんだ。ウェインは「了解」って答えた。「そうしてくれたらいいトラックになるよ、ウェイン」て言いながら、ニューヨークじゃ誰もこんなこと出来ない、あんなプレイが出来るなんて信じられない、って思ったよ」

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一番右がウェイン・モス


 最近になってクーパーは、シカゴ・パブリック・ラジオの番組『サウンド・オピニオン』で、別の思い出のエピソードも語ってくれた。ホストのジム・デロガティスとクレッグ・コットにクーパーは言った。「〈You Go Your Way〉をリハーサルしている時に、チャーリーが言ったんだ。「キミがオルガンで弾いてるパートを、一緒にトランペットで演奏をしたい」って。「そいつは面白いや! でも、ボブはオーバーダブするのは好きじゃないから、もうひとりベース・プレイヤーがいないと、やるすべがないかも」ってオレが言うと、「ベースとトランペットを同時に演奏出来る」って言い張った」
 バンドがリハーサルを始めると、マッコイは左手でベースのネックの部分を弾いて、右手でトランペットを操った。「ボブとオレは床の上で笑い転げたよ。チャーリーが「ほら、出来るだろ!」って言うと、ボブは「わかった。でも、オレから見えないところでやってくれ」って言ったよ」

* * * * * *


 ニューヨークのヒップスターと南部人を音楽的にうまく結婚させたことは、ジョンストンの大きな功績である。クーパーは言う。「これは全部、ボブ・ジョンストンのアイデアで、[ボブは]それを信じたんだ。素晴らしいアイデアだったね」
 ヘンリー・ストルゼレッキも同じく称賛の言葉を述べる。「ジョンストンはオレたちに出来ることだったら何でもやらせた。これはプロデューサーがレコードに対して出来る最高のことだ」
 ディランはスタジオ・マテリアルのものとしては初の2枚組アルバム用にじゅうぶんな量のトラックを完成させて、セントルイスに向かって旅立った。アルバムは4月のツアー・ブレイク中にロサンゼルスでミックスされ、コロムビアの記録によると5月16日にリリースされた(一部のディラン研究家はこの日付に異を唱えており、彼等の主張をバックアップするデータもある。このような詳細が今でもなおファンにとって大切であるのは、このアルバムが大きな魅力を持ち続けている証拠だ)。《Blonde On Blonde》はビルボード誌のトップ200アルバム・チャートに15週間ランクインし、最高9位を記録した。しかし、こんな数字を云々するのは、納税申告書を見ることによって、1960年代半ばにたくさん生み出されたマイルス・デイヴィスのジャズ・アルバムやジャン=リュック・ゴダールの映画を評価するようなものだろう。
 《Blonde On Blonde》以後、ナッシュヴィルの秘密が明らかになった。マッコイは言う。「ナッシュヴィルは、レコード産業が始まった時からポップのレコードも作っていたのに、ずっとカントリー・ミュージックの中心地というイメージがあった。フォーク・ロックの世界では、誰の頭の中にもナッシュヴィルなんてなかったと思うね。でも、ディランがここに来たことは、フォーク・ロック界に対して「ヘイ、行っても大丈夫だぜ。こいつらにもこんなことが出来るんだ」っていうメッセージになったのさ。ボブが来てから、他のミュージシャンもこぞって来るようになった。…そして、みんなオレたちに飛びついてきたんだ」
 ポピュラー音楽とナッシュヴィルの町両方に対する《Blonde On Blonde》のインパクトは即座に現れたが、その影響力は今日も大きくなり続けている。最も目立った例は、ナッシュヴィルのジェイソン&ザ・スコーチャーズが1983年にリリースしたメジャー移籍第1弾シングル用として、〈Absolutely Sweet Marie〉をスピードアップしたホンキー・パンク・バージョンにしてカバーしたことだろう。



 ボブ・ディランもこのアルバムによって別人に変わった。しかも、彼の変化はこれが最後ではなかった。《Blonde on Blonde》及び、1966年7月のオートバイ事故後にナッシュヴィルでレコーディングした《John Wesley Harding》等のアルバムは、それ以前の拡散・膨張指向に対して、無駄を切り詰めた簡潔なものになった。ディランが発するあらゆる言葉が意味を分析されるようになって久しかったが、1969年にこの地に戻ってレコーディングした《Nashville Skyline》は、彼が自分が「世代の声」であることに心底うんざりしていることを示していた。
 ナッシュヴィルで追い求めていたあの薄っぺらでワイルドな水銀のようなサウンドを、ディランが発見出来たか否かについては、例の1978年のプレイボーイ誌のインタビューでローゼンバウムにこう語っている。「頭の中で聞こえているサウンドに最も近いものは、《Blonde On Blonde》アルバムのひとつひとつのバンドが出したものだ」 〈Just Like A Woman〉の一節をもじって言うと、こうなるだろう。我々はハングリーな時のディランを我々は知っている。そして、それが彼の世界なのだ。


Copyrighted article "Looking back on Bob Dylan's Blonde on Blonde, the record that changed Nashville? Blonde Ambition" by Daryl Sanders
http://www.nashvillescene.com/nashville/looking-back-on-bob-dylans-blonde-on-blonde-the-record-that-changed-nashville/Content?oid=2420805&showFullText=true
Reprinted by permission

追記: ヘンリー・ストルゼレッキーは2014年12月30日に死去。
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