ここに載せた次の記事も《Highway 61 Revisited》に関連するものです:
アル・クーパー、マイケル・ブルームフィールドを語る
http://heartofmine.seesaa.net/article/390569872.html
ロックンロールの殿堂入りを未だ果たしてない最重要プロデューサー:トム・ウィルソン
http://heartofmine.seesaa.net/article/407064215.html
ナッシュヴィルを変えたレコード《ブロンド・オン・ブロンド》
http://heartofmine.seesaa.net/article/419290534.html
ハーヴィーが冒頭で語っているスニフィン・コートについて調べてみたら、ドアーズの《Strange Days》のジャケット写真はここで撮影されたということがわかりました。
Historic Manhattan Alley:
http://forgotten-ny.com/1999/04/sniffen-court-alleys-in-midtown-are-few-and-far-between-here-is-an-example-of-an-urban-oasis-from-the-mid-18th-century-that-sadly-went-uncopied/
PopSpotsにも載ってます:
http://www.popspotsnyc.com/forthcoming_new_york/
《追憶のハイウェイ61》50年後の再訪
文:ハーヴィー・ブルックス
1965年7月28日。オレはマンハッタンの東36丁目にあるスニフィン・コート・インに出演していたのだが、休憩中に隣のバーガー・ヘヴンで食事をしていたら、アル・クーパーから電話がかかってきた。
「オレはボブ・ディランのアルバムのレコーディングをやってるんだけど、ベース・プレイヤーが必要なんだ。お前は今、何かやってるところ?」
この電話によってオレの人生は変わることになった。
翌日----50年前のね----オレは自動車でクイーンズからマンハッタンに向かい、54丁目にある駐車場にとめた後、すぐにエレベーターに乗って、7番街799番地のコロムビア・スタジオAで行なわれているボブ・ディランの《Highway 61 Revisited》のレコーディングに向かった。コントロール・ルームのドアを開けたオレは、深呼吸をして中に入った。
最初に会った人間はディランのマネージャーのアルバート・グロスマンだった。長い灰色の髪をポニーテールにまとめ、丸い枠のメガネをかけていたグロスマンを、オレはベンジャミン・フランクリンに似てるなと思った。ジーンズとブーツをはいてる痩せた縮れ毛の男が、ミキシング・コンソールの前に立って、〈Like a Rolling Stone〉のプレイバックを聞いていた。その時点で、オレはボブ・ディランがどんな奴か、どんな顔か知らなかったが、あれがディランだとわかった。
音楽が止んだ時、グロスマンから「お前誰だ?」と訊かれたので、オレは自分が誰で、何をやる人間で、なぜここに来たのか答えた。ディランは静かに「ハイ」とつぶやくと、聞く作業に戻った。それから、アル・クーパーがやってきて、正式に紹介してくれたのだが、それはとても謎に満ち、手短だった。
ハーヴィー・ブルックスとアルバート・グロスマン
(提供:ハーヴィー・ブルックス)
(提供:ハーヴィー・ブルックス)
オレはスタジオに入り、ケースを開け、フェンダーのベースを取り出して、チューニングを始めた。オレのベースにはラ・ベッラのフラット・ワウンド弦を張ってあって、今でもそれを使っている。プラグインしたアンプは、スタジオにあったアンペッグのB-15だった。あたたかくパーカッシヴな音が出た。ギグで使ってたアンプもB-15だった。今ではもっぱらハートキーのアンプを使っている。
オレは21の若造だったが、すでにいろんなジャンルの演奏家とのクラブ・ギグをたくさんこなした経験があった。さまざまなスタイルで演奏した経験があったから、その場でどんな音楽にも合わせられると思っていた。そういうわけで、オレはスタジオでも居心地が良く、ディランからどんな球を投げられても大丈夫だった。
突然、スタジオのドアが乱暴に開くと、マイケル・ブルームフィールドがドカドカ入って来た。こいつはピュアなエネルギーの塊だ。安いつっかけ、ジーンズ、袖をまくりげたワイシャツという格好で、フェンダー・テレキャスターを肩にかけていた。ブルームフィールドの髪は、笑顔と同じくらいエレクトリックだった。こいつの名前を聞いたのも会ったのも、この時が初めてだった。
このセッションにはボビー・グレッグ(dr)、ポール・グリフィン(p)、フランク・オーウェン(p)、それからアルが参加していた。アル・クーパーは2週間前の〈Like a Rolling Stone〉セッションに参加し、自分の居場所をオルガンにしっかり釘付けしていた。
最初のセッションでは、ジョー・マチョ・Jrがベースを弾いていたが、彼と交替したラス・サヴァカスもディランは気に入らず、残りのセッションでは新たなプレイヤーを欲した。ディランにオレを紹介してくれたのがクーパーだった。ディランに必要だったのは、ベース・プレイヤーと和{なご}むことだった。オレがいいフィーリングの持ち主で、そんな状況にもすぐに合わせることが出来るのを、クーパーは知っていた。
ディランにとっては、腕の立つスタジオ・ミュージシャンというだけでは不十分だった。彼は自分のスタイルにすぐに適合することの出来るミュージシャンを欲していたのだ。ボブと言葉を交わした際に、オレはセッション前には彼の音楽を何も聞いたことがなかったが、スタジオに入って来た時に初めて〈Like a Rolling Stone〉を聞いて、感銘を受けたことを伝えた。
「これはちょっと違うんだ」とディランが答えた。過去の作品とは違うという意味ではないかとオレは思ったが、ボブの言い方は曖昧だった。ボブはオレに向かってひねくれた笑みを浮かべると、タバコに火を着けた。
2週間前に〈Like a Rolling Stone〉をプロデュースしたトム・ウィルソンは、理由は不明なのだが交替となり、ボブ・ジョンストンが新しいプロデューサーになっていた。ジョンストンはナッシュヴィル出身のコロムビアの専属プロデューサーで、ディランの担当となった時には、パティー・ペイジのプロデュースを行なっているところだった。
ジョンストンはスタジオ内の束の間の瞬間を捉えることが出来るように、プロデュースに際して「ドキュメンタリー」的なアプローチをしていた。コロムビア・スタジオの技術部門の官僚主義にフラストレーションを感じていて、数台のテープ・マシーンをコントロールに用意するよう注文した。ディランがキープしたいと思うであろうものを全部記録しておくのに、1台は常に回しておくためだ。この作戦は、ディランのようなアーティストには極めて功を奏した。
《Highway 61 Revisited》の最初のセッションが行われてからたった2週間しか経ってなかったが、その間にはたくさんのことが起こっていた。最初のセッションで録音された〈Like a Rolling Stone〉は、既にリリースされ、人気に火がついていた。
ディランがニューポート・フォーク・フェスティバルでエレクトリック・ギターを手にして、観客からブーイングされたのは、たった4日前の出来事だった。ディランのキャリアでとても重要な時期だった。「混じり気のない」フォーク・アーティストからロックンロール・パフォーマーへ変遷を遂げ始めていたのだ。
ということで、2回目のセッション(オレにとっては1回目)にいた連中は、ディランの頭の中には何があるのか推し量りかねる状態だった。数分後、ディランはコントロール・ルームから出て来て、その日やる予定だった3曲の中の1曲目を歌い始めた。ジョンストンは3面にバッフルをセットし、バンド側の面は、オレたちにボブが見えるように、閉じないでおかれた。
ディランは最初の歌〈Tombstone Blues〉を数回歌った。誰にもコード表が渡されなかったので、全て耳で聞いて判断した。習慣として、オレはボブが歌うのを聞きながら、自分でササッとコード表を書いた。皆がディランに意識を集中させ、あらゆる微妙なニュアンスに注目していた。そうしてバンドはレコーディングを頑張ったわけだ。
レコーディングが始まっても、ディランはまだ歌詞に取り組んでいた。レコーディング中もずっと歌詞の添削をしていた。オレはディランの仕事ぶりを凄いと思った。どの曲においても、彼のギター・パートやピアノ・パートがガイドとなる要素で、あの部屋にいた全てのミュージシャンの目はディランに釘付けになっていた。オレたちはディランが良しと思うまで演奏した。彼のポーカー・フェイスからは、何を思ってるのかがとんとわからなかった。
全員が曲をしっかり把握するには2テイクほどかかっただろう。もちろん、ミスもあったが、ディランにはそんなこと関係なかった。フィーリングが存在し、演奏がうまくいっtら、それで良かったのだ。実生活でも、そういうものだろう。全体的に良いパフォーマンスが出来たら、そこには必ず何かがある。ボブはコントロール・ルームに入って、プレイバックを聞いた。ボブ・ジョンストンがプロデューサーで、テープを回し続けていたが、良いテイクか否かを判断していたのはディランだった。
マイケル・ブルームフィールドとハーヴィー・ブルックス
(写真提供:ハーヴィー・ブルックス)
(写真提供:ハーヴィー・ブルックス)
マイケル・ブルームフィールドの弾く火を吹くようなギター・パートがディランのフレージングの妙を際立たせた。マイケルは爆発力のあるギタリストで、後ろに下がって落ち着くプレイなんかせず、アグレッシヴでちょと前に出てくる奴だった。オレの目標はグルーヴを発生させるパートを見いだすことだ。ディランがリズム・ギターでフィーリングと方向を設定すると、オレはディランから受け取ったものに対してベース・パートで応えた。
駆け出しの頃の演奏経験の殆どは、ウィルソン・ピケットやジャッキー・ウィルソンの曲をやるR&Bバンドに参加したことや、ビートルズやローリング・ストーンズの曲を演奏したことだった。ディランとの演奏は全く新たなカテゴリーを作りあげた。オレはそれを「飛び込んで頑張れ」と呼んでいる。
次に、オレたちは〈It Takes a Lot to Laugh〉と〈Positively 4th Street〉を同じやり方でレコーディングした。以上の3曲は、7月29日に首尾良くマスター・テイクを録音することが出来た。〈Tombstone Blues〉と〈It Takes a Lot to Laugh〉は最終的にアルバム《Highway 61 Revisited》に収録されたが、〈Positively 4th Street〉はシングル盤でしか発表されなかった。
あの初日のセッションの締めくくりに、ディランは〈Desolation Row〉のレコーディングを試みた。アルがエレクトリック・ギターで、オレがベースでその伴奏をした。ドラマーがいなかったのは、ボビー・グレッグは既に帰ってしまっていたからだ。このエレクトリック・バージョンは2005年にリリースされたアルバム《The Bootleg Series Vol. 7》に収録された。
プロデューサーはナッシュヴィルのミュージシャンが大好きで、彼らを贔屓する傾向すらあった。むこうの連中がいかに優秀かということを、ジョンストンはセッション中ずっと話題にしていた。ナッシュヴィルがいかにクールか、彼はしゃべり続けた。彼がこう発言するたびに、オレは自分たちがけなされているように感じた。ジョンストンの頭の中では、ある意味、ニューヨークにいるオレたちのほうが無骨な輩なのだと感じた。
〈Desolation Row〉ではこのナッシュヴィル贔屓がものを言った。あの晩、オレとアルがドラムなしでやったバージョンのほうがテンポが遅く、ずっとソウルフルだと、オレは思った。皆もこっちを気に入っていた。しかし、明らかにジョンストンの意見は反対だった。8月2日、〈Desolation Row〉がさらに5テイク分レコーディングされたのだが、最終的にアルバムに使われたバージョンは、8月4日に行なわれたオーバーダブ・セッションで録音されたものだったのだ。
この時には、ジョンストンの個人的な友人であるナッシュヴィルのギタリスト、チャーリー・マッコイがスタジオに招かれて、アコースティック・ギターのパートを即興で演奏したのだ。アップライト・ベースを弾いたのはラス・サヴァカスだった。最終テイクの録音が済む頃には、オレたちは帰ってしまっていた。
最後のセッションが終わってスタジオを後にする時には、オレはヒット・レコードを作ったとか作らなかったとかいう感情は持っていなかったが、全曲良く仕上がったという意識はあった。しっかりとした手応えがあった。今では、それが《Highway 61 Revisited》が名盤である理由だとオレにもわかるが、ボブにはあの時既にわかってたのだ。ボブは自分が選んだテイクにおいて、自分が欲するものを各曲から確実に得ていた。自分が欲しているものを本当にわかっているというのは、素晴らしい才能だ。
Copyrighted article "Highway 61 Revisited: 50 years later"by Harvey Brooks
http://blogs.timesofisrael.com/highway-61-revisited-50-years-later/
Reprinted by permission