2015年09月03日

フォーレスト・ヒルズとハリウッド・ボウル:エレクトリック化直後のボブ・ディラン

 今回もハーヴィー・ブルックス(ゴールドスタイン)にご登場願いしました。

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フォーレスト・ヒルズとハリウッド・ボウル:エレクトリック化直後のボブ・ディラン
文:ハーヴィー・ブルックス


 《Highway 61 Revisited》をレコーディングした後、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンから電話があり、マンハッタンにある事務所まで来いと言われた。いくつかの書類にサインしろとのことだった。それから、話もあるのだとか。そこに着くとアルバートから、ディランのことをどう思うか、もっと仕事を頼みたいのだがスケジュールは空いてるかと質問されたので、スケジュールはOK、レコーディング・セッション以来、オレはディランの大ファンだと答えた。
 アルバートが言うには、ディランはオレのプレイを気に入っていて、コンサートでも演奏して欲しがってるとのことだった。8月28日にはクイーンズにあるフォーレスト・ヒルズ・テニス・スタジアム公演が、9月上旬にはロサンゼルス、ハリウッド・ボウル公演が行われる予定だったのだ。オレはさっさと書類にサインし、話は終わった。アルバートは来てくれてありがとうと言い、帰り際にドアのところでオレを送ってくれた。
 マイケル・ブルームフィールドは《Highway 61 Revisited》でプレイしていたが、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのギグを休みたくないということで、コンサートのほうはパス。ドラマーのボビー・グレッグはスタジオ・セッションで忙しすぎた。
 《Highway 61 Revisited》セッションの終了直後、ディランは小さなクラブで、ザ・ホークスというバンドのロビー・ロバートソンとリヴォン・ヘルムのプレイを耳にした。とても感銘を受けたボブは、その場で代替ギタリストとドラマーを雇った。
 約1週間後、ディランのマネージメント・オフィスから電話連絡があり、2公演のための準備を開始するから西55丁目625番地にあるキャロル・ミュージック・リハーサル・スタジオに来いと言われた。
 オレはここでロバートソンとヘルムに初対面した。リハーサル用に、オレにはフェンダー・ベースマンが用意されていたのだが、それはコンサートのステージでもオレが使うアンプだった。オレたちはフォーレスト・ヒルズ公演のために2週間の集中リハーサルを開始した。
 新顔たちのおかげで、バンドの動き方はアルバムのレコーディング時とは全く違うものになった。ロビー・ロバートソンとマイク・ブルームフィールドはどちらも非常にエネルギシュなギタリストだが、スタイルは全く違っていた。ブルームフィールドは自分のパートを成り行きまかせでプレイしたが、彼と比べるとロバートソンは柔軟ではなかったが、正確さははるかに上だった。
 ボビー・グレッグは適所にすっぽりおさまる安定した演奏をするドラマーだったが、リヴォンは常にピリピリしていた。いつも「えっ、そんなことするの? よし、わかった!」という調子だった。リヴォンに出来ないことなどなかったのだが、彼のやることなすこと全てに自然な緊張感があり、そのスタイルが後にザ・バンド・サウンドを創造する上で役に立っていた。ディランもそれに馴染んでいた。
 ディランの曲はそれ自体が強烈なアイデンティティを持っていたので、ロビーとリヴォンが加わったことで、アルとオレがスタジオでやった以上に強力になった。でも、本当のことを言うと、オレの意識はディランに釘付けになってたので、他の連中がどう演奏しているかなんて、その時はあまり考えていなかった。
 ある程度リハーサルが進んだ段階になってやっと、オレたちは精神的にリラックスし始めたのだが、互いに慣れるまではちょっとぎくしゃくしていた。リハーサルの後、オレはリヴォンと一緒にしばらくヴィレッジ界隈をうろうろして、あの頃、人生で起こっていたいろんなことについて話した。女、抱えている問題、出世のチャンス、ハイになること、それからディランの音楽についてだ。最後のものについては、リヴォンもオレもあまりよく理解していなかった。気に入ってるという点を除いては。リヴォンとオレはブリーカー・ストリートにあるダグアウトという店で、あたりの様子を眺めながらステーキの切れ端を食べていた。その後、マクドゥーガル・ストリートのケトル・オブ・フィッシュの前を通り過ぎる際に、ディランとアル・クーパーとボビー・ニューワースがたむろしてるのが見えたのだが、オレたちは近所にあるガスライト・カフェの地下でコーヒーをすすりながらこっちの会話を続け、新しい友情を育むことを選んだ。
 2週間のリハーサルを積み、フォーレスト・ヒルズ公演の準備は万端だった。1923年に建てられたフォーレスト・ヒルズ・テニス・スタジアムは、USオープン・テニス・トーナメントが行なわれる会場であり、1964年にはビートルズやバーブラ・ストライザンドのコンサートが行なわれた。ローリング・ストーンズやサイモン&ガーファンクル、ジミ・ヘンドリクス、ザ・フー、フランク・シナトラも、ボブ・ディランに前後して、ここでコンサートを行なった。
 8月28日は昼間こそ典型的な蒸し暑い夏の日だったが、夕方になると気温は下がり始め、間もなく風が吹き寒くなった。オレたちが立つことになってたステージは、15,000人を収容する客席から遠く離れたところに設営されていた。
 ステージの照明のせいで、オレたちからは観客が全然見えず、目の前には深緑色の芝生が広がっているだけだった。ディランは数週間前にニューポートでエレキ・ギターを持って登場しているので、ここでは何が起こるかわからないという半信半疑の雰囲気が強く----なにせニューポート以来初のライヴ・パフォーマンスだったから----オーディエンスは勝手に敵意を持ち、それを隠さなかった。
 ショウは超現実的な始まり方をした。司会はロック・コンサートのプロデューサー兼トップ40番組のDJである「マレー・ザ・K」・カウフマンだったからだ。ボブ・ディランを見に来たフォーク原理主義の観客を前に、これは座り具合が悪かった。観客はすぐにカウフマンに大きなブーイングと冷やかしの野次を浴びせかけた。
 アル・クーパーとオレはアルバート・グロスマンの隣に立っていたのだが、アルバートは自分のお抱えアーティストを取り巻くスペクタクルを楽しんでいるようなニタニタ笑いをしていた(不思議の国のアリスに出てくるあのネコのような)。これが、アルバートのユーモアのセンスと彼の音楽ビジネスに対する見方を初めて感じた瞬間だった。オーディエンスの反応全てが----良いものでれ悪いものであれ----ボブの名声と独自性を高めてくれることを、こいつはわかっていたのだ。
 ショウはボブ単独のソロ・アコースティック・セットから始まった。〈She Belongs to Me〉〈Gates of Eden〉〈Love Minus Zero/No Limit〉〈Desolation Row〉〈It's All Over Now, Baby Blue〉が披露され、ソロ・セット最後の曲は〈Mr. Tambourine Man〉だった。第1部はオーディエンスを落ち着かせたようだった。. オレはコロシアムの袖で自分の出番を待っている古代ローマの剣闘士のような気分だった。観客は立場的には中立な審判で、上か下に向ける親指を持っていた。ボブがアコースティク・セットを終えた時には、彼らの親指は上を向いていたのだが、アンプやドラムがステージ上に姿を現すと、親指は下を向き始めた。

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 休憩時間中、ディランはバックステージ・エリアから人を追い出すと、バンド・メンバーを近くに集めてこう言った。「あっちではどうなるかわからない。カーニバルみたいになるかな。皆にはまず、このことを承知しといてもらいたい。ステージに出たら、どんなに変な状況になっても、演奏は続けてくれ!」
 バンドがステージに登場する時には、気温はさらに下がり、風はさらに強く吹いていた。裁きを下そうと待っているファンの不満のつぶやきの前兆を聞いてるようだった。彼らの姿は見えなかったが、寒い夜の空気の中でピリピリした雰囲気は感じることが出来た。オレたちが〈Tombstone Blues〉を始めると、大きな野次やブーイングが出迎えたが、この曲が終わる頃には支持の歓声と混じり合うくらいになっていた。5曲目の〈Maggie's Farm〉の時だった。数人のファンが座席から飛び出して、芝生の上をステージに向かって駆けて来た。オレがこの事態に気づいたのは、連中がステージ上にあがり、大勢の警備員に取り押さえられた時だった。しかし、ボブは1ビートも見失わずに歌い続け、バンドも演奏を止めなかった!
 オルガンの椅子が引っ張られて、アルがステージに倒れるのが見えた。リヴォンは群衆が押し寄せても、じっと持ちこたえていた。ボブとロビーとオレはステージの前方にいた。ロビーとオレがボブに近寄ったところ、ボブは顔に魔法の笑みを浮かべていた。
 〈Ballad of A Thin Man〉になった時、ボブはオーディエンスが静かになるまで、イントロを何度も何度も繰り返した。オレはステージ上での駆け引きに関する虎の巻にこの戦法を書き加えた。コンサートは〈Like a Rolling Stone〉で終了した。この曲は少し前にオレたちをブーイングしていたオーディエンスからは喝采を引き出した。
 ショウが終わるやいなや、ボブは姿を消した。彼は自分だけリムジンでさっさとスタジアムを去っており、オレたちサイドメンは自力で脱出しなければならなかった。会場を出る際にはクーパーと一緒だった。オレたちは人の間を縫うように進んでいったのだが、気が付いた連中の反応はあたたかかったり冷たかったり。こんな体験、生まれて初めてだった。
 自分の車までたどり着いた後、オレたちはマンハッタンのロウワー・ウェストサイドにあるアルバート・グロスマンのアパートメントに戻った。そこで行なわれたアフターショウ・パーティーには、ニコニコ顔のボブ・ディランと非常に満足したグロスマンがいた。
 それから間もなく、オレたちはロサンゼルスに向かった。2回目のコンサートが1965年9月3日にハリウッド・ボウルで行なわれることになっていた。ロビーとリヴォンとオレは自家用機で大陸を横断すると言われていて、最初はとても嬉しかったのだが、実は話されていないことがあった。オレたちが乗り込むのはアルバート・グロスマン所有のロッキード・ロードスターだった。これは第2次世界大戦中に使われた短距離移動用の軽飛行機で、燃料補給のために途中で3、4回もとまり、12時間もかかるとのことだった。オレたちはバンドの機材と一緒に移動することになっていた。
 オレにとっては、これが初のロサンゼルス行きだった。無事着陸してホッと一息ついた後、ロスのフリーウェイ・システムを眺めながら、サンセット・ブールヴァードにあるハリウッド・サンセット・ホテルに行った。オレのルームメイトはアルだった。ディランのスイートは廊下をもっと奥に行ったところにあった。オレたちが到着したのはコンサートの2日前だった。
 P・F・スローンからボブに会いたいという電話があった。スローンはバリー・マグワイアの大ヒット曲となった〈Eve of Destruction〉の作曲者だ。この曲は明らかにディランの模造品だった。ボブはハエを自分の巣に誘い込むクモのようにこいつをミーティングへ誘い、ギッタギッタに切り刻む気満々だった。ボブがグロスマンと力を合わせてこの裁断機を使うのを、オレはそれまでに何度も目撃していた。ボブもアルバートも互いの皮肉たっぷりの冗談の切れ味を楽しんでいた。
 オレはボブと一緒にいる時には、殆どの場合、会話を聞くことに専念していた。ボブの言ってることが、他の人間の口から発せられるのに慣れてた言葉とは劇的に違ったからだ。オレはボブの知的な能力に畏れ入っていた。数年後にウッドストックでボブとチェスに興じている時、オレは人生なんて常にゲームだということを思い出した。今でも人は皆、ゲームに興じているのだ。
 車がハリウッド・ボウルの長いドライヴウェイを進み、バックステージ・エリアに向かっている時に、ディラン・ファンが会場に入るのが見えた。彼らの服と様子がフォーレスト・ヒルズで見たファンとは全然違うことに、オレは気づかないではいられなかった。カリフォルニアのオーディエンスはのんびりしていた。彼らはオレたちの演奏をまっすぐに受け取った。
 オレは、映画スターやフォーク・ファン、ヒッピーが混じった観客に向かってプレイする直前のボブの隣に立っていた。スリリングだった。冷静を保ちながら、ステージから見える超現実的な光景を何げなく目にした。ハリウッド・ボウルには客席とステージ・エリアを分ける堀があったのだが、前から2〜3列目にいる人は顔がはっきり見え、グレゴリー・ペック、メル・ブルックス、ピーター・フォンダ、ジョニー・キャッシュ等がボブの演奏を見てるのを発見した。
 オレたちはフォーレスト・ヒルズの時と同じく〈Tombstone Blues〉から始めた。ただしこの時は、観客には笑顔があり、客席で踊っている人もいた。引き締まった演奏ではなかったが、オレたち全員、ボブをしっかりフォローし、どの曲でもエンディングは揃っていた。
 どの曲だったかは忘れてしまったが、ボブはCのハーモニカを吹き始めたのだが、楽器から音が出なかった。そこで、ボブが「どなたか、Cハープは持ってませんか?」と言うと、数秒も経たないうちに、客席にいた誰かが堀の向こうからこっちにハーモニカを投げてよこし、ちょうどディランの足元に着地した。彼はそれを拾うと演奏を始めた。オーディエンスによる音楽への最高の介在を、オレは目撃した。
 ハリウッド・ボウル公演は大成功だった。クーパーはディランと一緒にリムジンに乗ってさっさと帰ってしまったが、オレはバックステージでボビーという若い娘{こ}とおしゃべりに興じていた。彼女は女優で、ロサンゼルスのビーチで男女が出会うといった内容の映画に出ていた。彼女の友人も数人いた。ボビーはオレをホテルまで送ってくれると言ったが、オレたちはちょっと遠回りをしてマリブのビーチに行き、月影の中で彼女と水遊びに興じたのだった。ホテルに戻った時には、アフターショウ・パーティーは終了していた。
 オレは翌日、空港に行き、ニューヨークに戻らなければならなかった。デトロイトで3週間、チコ・ホリデイというヴォーカリストのバックを務めることになっていて、そのリハーサルをしなければならなかったのだ。これはボブと会う前から決まっていたことだった。こういう成り行きの時に3週間もニューヨークから離れるのは最高のタイミングとは言えなかったが、ギグは既に決まっていて、オレには仕事を全うする義務があった。
 その後、次のリハーサルがいつ始まるのかデトロイトのキャディラック・スクエア・ホテルからチェックを入れたところ、グロスマンのオフィスの人間から、今後のショウはアルとオレの替わりにロビーのバンド「ザ・ホークス」の残りのメンバーがやることになったと知らされた。これがショウビズってものだ。
 ザ・ホークスはボブ・ディランに超ぴったりだった。彼らは間もなくザ・バンドと名前を変えた。これ以降は、ロックンロールの歴史にある通りだ。

Copyrighted article "Forest Hills and the Hollywood Bowl: The Days After Bob Dylan Went Electric" by Harvey Brooks
http://blogs.timesofisrael.com/forest-hills-and-the-hollywood-bowl-the-days-after-bob-dylan-went-electric/
Reprinted by permission
posted by Saved at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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