今回発見したインタビューはロニー・ウッドの1965年の日記をもとにした新著のプロモーションを兼ねたものですが、1960年代のロックの大進化の要因の1つをマネージャーの存在に帰してるところが興味深いです。この記事の準備を始めた途端に飛び込んで来たのが、ジョルジォ・ゴメルスキーやロバート・スティグウッドといった名物マネージャーの訃報です。年末以降、ミュージシャンの訃報も相次いでおり、生き残り組の人々もボックスセットや自伝等を発表して、人生の総決算に取り組んでいます。ひとつの時代が終わる感がハンパない今日この頃です。
ロニー・ウッド、新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』について語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ
● ロニー、『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』は、音楽史において非常に面白い年だった1965年のスナップショット的な内容ですね。何に触発されて書いたのですか? このプロジェクトはどのような経緯で始まったのですか?
お袋がいなかったら、この本はなかっただろうなあ。お袋は亡くなる前にこれをオレの兄貴に渡していたらしい。そして、兄貴たちからも「これ見ろよ。お袋がお前のためにとっといてくれたんだぞ」って亡くなる前に言われたんだ。オレは超驚くのと同時に、50年前の思い出が突然蘇ってきた。「凄えや!」って思ったね。たった数年前の出来事みたいだった。詳しいことを思い出すのに、そんなに時間はかからなかったよ。出来事を正確に思い出すことが出来た。家の横に車をつけて、ギグ用ワゴンの後ろに荷物を積んで、イングランドのあちこちを回るクラブ・サーキットをしたんだ。主にザ・バーズ(The Birds)ってバンドで修行してた頃の話さ。オレの周囲では、キース・ムーンとか、友人{ダチ}が突然、ヒット・レコードを出すようになってさ----〈I Can't Explain〉とか----こいつら、オレたちをからかいに来るんだよ。クラブにやって来て、「オレたちナンバー1だぜ!」って騒ぐんだ。美しい友情なんだけど。
● 確かに友情なんでしょうが、もっといいパフォーマーになろうとか、もう少ししっかり音楽の世界で足固めをしようとか、互いに刺激し合ってた面もあったんじゃないですか?
もちろん。オレたちの頭の中ではいつも、出来る限り良いミュージシャンになろう、向上し続けよう、勉強し続けようという意識があった。アメリカのバンドから学んだり、ジャズやブルースやロックンロールの輸入レコードを聞いたり。
● あなたのバンドのザ・バーズ(The Birds)とアメリカのバンドのザ・バーズ(The Byrds)との間で法的問題が発生した話を、面白く読みました。この問題が生じた時、あなた自身はどういう見解を持ってたのですか?
あっちが名前を盗んだって訴えようっていうのは、オレたちのマネージャーが決めたことさ。酷い売名行為で、マネージャーにとっては裏目に出ちゃったんだけど、そのおかげでオレたちはメロディー・メイカー紙の第1面に載ることが出来たんだ。酷{ひで}えやり方で表紙を獲得したよ。数年前にマッギンと会ったんだけど、ザ・バーズ(The Byrds)が初めてイギリスの土を踏んだ時に起こされた裁判のことを覚えてたよ。「ちょっと待った、それ、お前だったのか!」って言われたから、「そうなんです」って答えた。マッギンはふざけてオレの首を絞める真似をして、許してくれたよ。
● 少し前に、キース・ムーンは友人{ダチ}だっておっしゃってましたよね。
ああ。
● どういう関係だったのですか? どのくらい親しかったのですか?
超いい奴だったよ。オレにとっては保護者みたいなもんだった。オレが正しい連中と交じっていられるようにしてくれた。オレが自分の力じゃどうにもならない場合には、キースがオレの面倒を見てくれたり、オレの面倒を見てくれる奴をよこしたりしてくれたんだ。オレと一緒にいる女の子の面接をして、「OK。合格だ。ロニーと付き合ってよろしい。だが、オレが気に入らないと思った時には、帰らせるからな」なんて言うんだよ。楽しい奴だったなあ。
● ジミ・ヘンドリクスとも友達だったんですよね?
ああ。数週間、同じアパートメントで暮らしたこともある。パット・アーノルド----P・P・アーノルド----が大家さんだった。ジミはバセット犬を飼ってて、こいつがそこら中で大小便をやらかしちゃうもんだから、「お前はもう出てけ!」と言われてた。ジミが「ツアーに出なきゃいけなから、オレの犬、お前がもらってくれないか?」って言うんで、「いいよ」って答えた。だから、オレはジミから犬を相続したんだ。ジミはとてももの静かで、おとなしい奴だった。とても謙虚な奴だった。歌声はあまりいいとは思わなかったけどな。「心配するな、ジミ。ギターで十分埋めわせ出来てるから」って言ってやったよ。
●(笑)知りませんでした。いい話ですね。あなたはジェフ・ベックやエリック・クラプトンとも交流があるんですよね。それより前にはなかった芸術が孵化しつつあった頃に、こうした人々と交流するなんて、さぞかし楽しかったでしょう。当時の革新的なミュージシャンと交流してたんですから。あなたもそのひとりなわけですが。
楽しかったね。エリック・クラプトンの話をしようか。革新的なギター・プレイヤーだってことは置いといて、あいつはオレの最初の結婚相手で、息子ジェシーの母親となったクリッシーと付き合ってたことがあるんだぜ。エリックとオレはこのくらい親密なんだ。息子としてみたら、オレと付き合ってた頃のクリッシーの話を読むのは興味津々だろうなあ。エリックとオレはいつも互いにからかいっこしてたんだ。「オレの女を盗みやがって!」とかさ。いつも友好的だったよ。オレたちは恩恵をギブ&テイクしていたからね。オレのギター・プレイに大きな影響を及ぼしてることの他に、私的な関係においてもオレはこいつには一目を置いていた。ヒーローとしてリスペクトしながら、親しくしてもらえてるんだから、ちょっと奇妙な関係さ。こいつら全員、オレより数歳年上だから、いつも思ってたよ:「オレの時代もそのうちやって来る。今はこいつらが有名で人気があってナンバー1かもしれないけど、心配無用だ。そのうちオレの番も来る」って。ジェフ・ベックもそうだった。こいつはヤードバーズにいた。ロッド・スチュワートもそうだった。ジョン・ボールドリーのところでそれなりに成功してたけど、回りの連中は少し年上だった。オレはこいつらから学んだよ。オレの時代も来るって。でも、ずっと、そういう気持ちの下側に、ストーンズに入りたいって気持ちもあったんだ。
● その目標に対してどうやって備えていったのですか? 一連の出来事がストーンズに繋がっている道だったと思いますか?
もちろん。一連の出来事は踏み石だった。ジェフ・ベックがヤードバーズを辞める前に、オレはシェフィールドでこいつと友達になっていた。シェフィールド・モジョってクラブでね。打ち解けて友情を育んでから言ったんだ。「いつの日か一緒にやろう」って。そしたらジェフも「ヤードバーズは永遠には続かないから、いつか何かやろうな」って言ってくれた。しばらく、この話はそのままになってたんだけど、ジェフがヤードバーズを辞めた時に、電話をかけて「これからどうすんのさ?」って訊いたんだ。そしたら「何をやったらいいのかわかんないんだけど、あのバンドからは抜け出す必要があった。あまりに窮屈でさあ。ところで、オレと一緒にバンドをやるっていうのはどう?」なんて言うから、オレは「いいね」って答えた。あれも1つの踏み石だった。で、このバンドが解散する間際には、既にロッド・スチュワートと強い絆が出来てたし、オレたちはスモール・フェイセスが大好きだったから、スティーヴ・マリオットが辞めた時に、ロニー・レインに電話をかけたんだ。そして、ふたりでこのバンドをフェイセスに変えちゃったんだ。ロニー・レインから「オレたちどうしたらいいのかわかんないよ。助けてくれないか」って言われたので、「いいよ」って答えたんだ。それだけ。これも踏み石だった。丁度この頃、オレは知らなかったんだけど、ストーンズからロニー・レインに打診が来てたんだって。オレがストーンズに入る気あるかどうかって。ブライアン・ジョーンズが亡くなってミック・テイラーが加入する前の話さ。そしたら、ロニー・レインが「あいつならフェイセスで超ハッピーにしてるよ」って答えちゃったんだよ。オレに一言も言わずにだぜ。オレは5年間、このニュースを知らなかった。でも、これは結果的に、災い転じて福ってやつだ。
● ついこの間、フェイセスの1970〜75年のアルバムを集めたボックスセット《You Can Make Me Dance, Sing, Or Anything》がリリースされました。多くの人は、この一連のアルバムを、あなたやロッド・スチュワートの音楽的成長を記した重要な作品だと考えています。この時期を振り返ってみると、フェイセスは音楽文化にどのような貢献をしたと思いますか?
白人のガキがソウル・ミュージックに進出する自由を獲得したことだ。オレたちはデヴィッド・ラフィンやテンプテーションズ、インプレッションズのカバーをやってたし。それから、マディー・ウォーターズのブルースを楽天的なパーティー・フィーリングとミックスしたことだ。コンサートの後、ファンを丸ごとホテルに招いて、たっぷり盛ってやったり、音楽のレッスンをしたりした。オレたちは何かを感じたかったんだ。
● 新著にはあなたが1965年に行なった冒険が記されています。この年はロック史上、特に面白い時期でした。音楽は急激に発展を遂げていましたが、その原因としてどんなことが起こってたと思いますか?
才能のある連中を育てていたマネージャーがたくさんいたんだよ。ロバート・スティグウッドとか。ザ・バーズ(The Birds)はレオの後、こいつがマネジメントしてたんだ。キット・ランバートって奴にも会った。こいつはザ・フーや他のいくつかのバンドの世話をしてた。それからブライアン・エプスタインだ。こういう連中が才能のある奴らを抱えてたのさ。家族みたいなものだった。オレたち全員、互いに親しくしていた。ちょっと違うことをやってるが、常にもっと良くなるように頑張ってるという共通の繋がりもあった。
● この本はあなたがこの年に行なったさまざまなトラベルのドキュメンタリーにもなってます。この頃を振り返って、新たに思い出したことはありますか?
ある日の午後をウィルソン・ピケットと過ごしてたって話があるだろ。ウィルソンに会ったことなんて忘れちゃってたから、「ワオ!」だった。初めて会ったのは、数年前にニューヨークでボビー・ウーマックと一緒に楽屋に行った時じゃないかと思ってたよ。ところが実は、50年前に会ってたんだよ。〈Midnight Hour〉の頃だろ。凄いよなあ。
● ロニー、新人アーティストにはどんなアドバイスをしますか?
野心の要素を捨てるなってことだね。頑張ることをサボっちゃいけない。聴衆に手応えがなくても、心が折れちゃいけない。オレは昔、そういう連中を壁の花って呼んでいて、そいつらを壁から引っ剥がして、ステージ前まで来させようと頑張った。出番が終わる頃には、数百人を自分の音楽に改宗させたかなあ。その連続だった。マネージャーもオレたちのために毎晩頑張っていた。オレは1966年にも日記をつけてたので、それも読み返してみたいんだよね。1965年のものよりずっと小さいし、面白さもずっと少ないと思うんだけど、筆致は変わってないはずさ。これも発掘しなきゃいけないなあ。どこかにあることはわかってるんだ。マネージャーのシェリーが持ってると思う。彼女は1965年の日記を初めて見た時に、「これはちょっとしたお宝だわ。大勢の人に見てもらわなきゃ」って言ってたよ。
● 50年後、B面の〈How Can It Be?〉をマーク・ノップラーのスタジオでレコーディングしましたね。様子はどんな感じでしたか?
スタジオに入って、ちょっとこの曲を復習して、ちょっとアップデートしてみようかなって思ったんだ。基本的に、この曲は単なる端曲だ。日記全体の雰囲気もそうだ。1960年代のあの年をチラッと見るようなものだ。あの頃起こってたことは、次に起こる出来事への糸口みたいなものだった。それから10年もしないうちに、オレはストーンズのメンバーになったけど、そんなことになるとは、あの頃には考えてもなかったんだから。
● ストーンズのメンバーになってからは、17歳の頃を思い出したりしましたか?
ああ。ストーンズ初期の歌を練習したのを覚えてるよ。1974年にはストーンズのリハーサルに参加し、1975年にはツアーに出た時には、全冒険をやり遂げたような変な感覚があった。さて、オレを夢中にさせた曲を全部演奏しよう。それには自分の音を与えよう。だが、レコードではブライアンかミック・テイラーがプレイしてるオリジナルのパートにも敬意を払わなきゃね。
● 1965年のロニー・ウッドにはどんなアドバイスをしますか?
何も変更するな。そのまま続けろ。頑張って進み続けろ。そうすれば、常に正しい時には正しい場所にいることになる。
[テープ起し担当:ガレン・ホーソーン]
Copyrighted article "A Conversation with Ronnie Wood" by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/mike-ragogna/how-can-it-be-chats-with_b_8608838.html
Reprinted by permission