2016年05月29日

リアル『ヴァイナル』

《血の轍》ニューヨーク・セッション秘話
ヨーロッパ'73ミキシング秘話
ピーター・ポール&ジェイムズ・ブラウン
は当ブログで紹介した最もエキサイティングな記事だと私は思ってますが、これを書いたグレン・バーガー博士(バーガーのほうが正しい読み方のようです)は今年7月に回想録『Never Say No To A Rock Star』を出します。超楽しみ。今年発売されるロック本の中で面白さは恐らくナンバー1でしょう。



 その前に、要約版のような内容の文をハフポストに投稿しているので、今回はそれを紹介します。1970年代前半のロック・ビジネスを扱ったテレビドラマ『ヴァイナル』がアメリカで放送され、それに触発されて書いたようです。日本でも7月にBS10スターチャンネルで放送されることになりました。





リアル『ヴァイナル』
文:グレン・バーガーPhD.


 マーティン・スコセッシ&ミック・ジャガー制作によるHBOの新シリーズ『ヴァイナル』は、1970年代のニューヨークの伝説的な音楽シーンを今に蘇らせた。現代文化史のこの栄光の瞬間を、私はラッキーなことに、最前列の席で目撃している。1973年から1980年まで、私はニューヨークにある世界で最も偉大なレコーディング・スタジオ、A&Rスタジオでレコーディング・エンジニアを務めていたのだ。プロデューサーのテレンス・ウィンターが述べているように、狂気の時代、狂気のビジネスだった。17歳の時に研修生として勤務した初日に、ジェイムズ・ブラウンのセッションを見学し、ノンストップでドカドカ鳴るキックドラムとスネアのせいで、私は耳から血を吹き出しそうになった。それから、ポール・サイモンが第2位に輝いたヒット・シングル〈Loves Me Like A Rock〉用に、ゴスペルの名グループ、ディキシー・ハミングバードのコーラスをオーバーダブする様子も目撃した。あの頃の放蕩三昧の話は本当だ。私はスタジオに入って1時間もしないうちに、誰かからコカインをすすめられた。
 A&Rはミッドタウンに2つのスタジオを持っていた。週給80ドルで雇われた時の最初の仕事は、人から「のろま」と罵倒されることだった。つまり、機材を手押し車に乗せて一方のスタジオから他方のスタジオへ運ぶことだった。ニューヨーク市は財政が破綻している状態で、ストリート中に犬の糞が転がり、空はいつも腐ったような灰色がかった緑をしていて、いつ化け物が物影から飛び出し、私の頭蓋骨目がけて斧を振り下ろしてきてもおかしくはなかった。横にずれたり、渡ったり、避けたりするコツを熟知し、常に用心を怠ることなくストリートを通過しなければならなかった。私は「邪魔だ、ガキ!」等の罵声を浴びながら実地でいろんな技を身につけた。
 そうしたイニシエーションを無事通過した私は、グラミーのライフライム・アチーヴメント賞に輝いた世界的なプロデューサー/エンジニアであるフィル・ラモーンにアシスタントとして拾ってもらえるという、信じられない幸運に恵まれた。彼がA&Rスタジオのオーナーだったのだ。
 ミック・ジャガーの話をしよう。フィルと私は、ボブ・ディランの《Blood On The Tracks》をレコーディングしていたのと同じ週に、若くてイケメンの頃のミック・ジャガーと数日間を過ごして、《Bedspring Symphony》として有名な'73年ブリュッセル公演のミキシングを行なったのだ。この2人のロック・アイコンが一緒にいるのを見るのは超自然的だった。ミックは最高に魅力的な男で、彼からジンジャーと呼ばれ、長い巻き毛をクシャクシャされた時には、私は卒倒しそうになった。一方、ディランは「パシリ」を存在として認めてすらくれなかった。
 『ヴァイナル』はグラム・シーンのトップ・バンド、ニューヨーク・ドールズの再現から始まる。私は彼らのセカンド・アルバム《Too Much, Too Soon》の作業に1日付き合い、とても楽しい思いをした。彼らは予定開始時刻より何時間も前に、取り巻きたちと一緒にスタジオに到着し、早速パーティーを始めた。ベース・プレイヤーのキラー・ケインは高さ6フィート(180cm)のツインのマーシャル・スタックを持っていて、ベースでバーンて音を出した時には、その衝撃で私の足はゴムバンドを弾{はじ}いたように震えた。ジョニー・サンダースが腕を回して勢い良くギターを弾こうとしているのを見た私は、咄嗟に使ってないヘッドホンを装着した。それでも音は超でかく、この時、耳は修復不可能なダメージを被ったに違いない。
 『ヴァイナル』は当時人気のあったジャンル、パンクとディスコに焦点を当てているが、あの頃のニューヨークではもっとたくさんのことが起こっていた。シンガー・ソングライターもブームであり、A&Rスタジオでは、そのジャンルのアルバムを数多く制作した。私はグラミーの年間最優秀アルバムに輝いたポール・サイモンの《Still Crazy After All These Years》の作業を担当した。才気にあふれたポールは、元パートナーであるガーファンクルの悪口を臆することなく語った。この上なく味わいのある美声を持ったジュディー・コリンズの《Judith》も担当した。このアルバムにはヒット曲〈Send In The Clowns〉が入っている。私が担当した最初のアルバムは、フィービー・スノウという風変わりなシンガーの《Poetry Man》だったが、これはサプライズ・ヒットとなった。彼女は自分のキャリアを犠牲にして、脳に大きな損傷を受けた娘さんの介護に尽力した。それから、歌手としてのベット・ミドラーだ。彼女は愉快で頭が切れ、キスが上手だった。3つ目の点については個人的経験から知っている。
 それから、ファンクも流行していた。1970年代のニューヨークのスタジオ・ミュージシャンほど、体格が良くて屈強なプレイヤーはいない。彼らにどんな演奏が出来るのかを知りたければ、スティーリー・ダンのアルバム《Royal Scam》を聞くといい。このアルバムも私がお手伝いを担当した。この作品中の火を吹くようなトラックは、ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンのお茶目なウィット、鋭角的なリズム、高度なハーモニーが、譜面を渡されて演奏するファンキーなミュージシャンのグルーヴと結び付いて生じたものだ。彼らのレコードは最優秀エンジニアリングを含む、複数の部門でグラミー賞を獲得したが、それなりの理由があってのことだ。
 当時、スタジオは1日24時間、1週間に7日間予約されていたが、アルバムを作っていない時には、映画のサウンドトラックのレコーディングを行なっていた。私の最も鼻高々な業績は天才ボブ・フォッシーの映画『オール・ザット・ジャズ』のサウンドトラックを制作したことだ。フォッシー本人に基づく主人公は、アル中になり、ヤク中になり、自分を大切にせず遂には死んでしまうという1970年代の感性の典型だった。
 あの頃は狂気の時代だった。スタジオというささやかな遊び場においても、数多くの狂人が存在した。私の師匠で、ビリー・ジョエルの全てのヒット・レコードをプロデュースしたフィル・ラモーンも、極端な例かもしれない。ある時、私がフィルに質問したら、「オレは神だ。神に質問するな」と言われたことがある。
 しかし、狂気とセックス、ドラッグ、そしてエゴの塊のスーパースターを除いたら、スタジオ・シーンは皆が本気で仕事に取り組んで、史上最高の名盤を作り出す場だった。レコーディングの仕事に関与している者は全員、自分の仕事を超真剣に意識していた。A&Rスタジオのスタッフは、上は一流のシニア・ミキサーから、下はテープをコピーする小僧に至るまで、ラモーンによって完璧主義を叩き込まれていた。こうした裏方の人間も私のヒーローだ。間抜けな連中を祝う文化においては、彼らの善意、気前の良さ、無私の心は極めて貴重だった。
 1970年代のニューヨークの音楽シーンで働いていた者の間には、言葉では言い表せない絆がある。あの頃は、私達の人生で最もスリルに満ち、最も忘れられない時代だった。私達は偉大さと一緒に生きており、運が良い時には、自分でその偉大さに触れることが出来た。私達は最高だった。私達は歴史を作った。

"Real Vinyl: In The Studio With Dylan, Jagger, Sinatra and More" by Glenn Berger PhD.
http://www.huffingtonpost.com/glenn-berger-phd/real-vinyl-in-the-studio-_1_b_9312272.html
Reprinted by permission


   
posted by Saved at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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