2016年10月19日

ボブ・ディランはインドに行ったことがあった!

 ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを受けて、小説家ではなく詩人の受賞だったらラビンドラナート・タゴールもそうだろという記事のほか(今年はタゴール来日100周年、サルトル来日50周年----ビートルズだけでなくこっちでも騒げ!)、インド関係ではこんな記事も登場しました(事実関係において、ちょっと正確さに欠けるんだけど…。1978年にCDは存在してないし…)。当サイトでは《John Wesley Harding》のジャケットに登場するインド、ベンガル地方のさすらいのシンガー、プルナ・ダス・バウルに関する記事を紹介しましたが、ボブが1990年1月にインドのプルナ宅を訪問していたというのは全くの初耳です。1月のいつ頃なんでしょう? コンサートのスケジュールは下記の通りだったので、トーズ・プレイスの前? それとも、サンパウロ公演の後の1週間の空きの間にインドに行ったのでしょうか? リオ→インド→パリと移動したのでしょうか?
January 12, 1990 New Haven
January 14, 1990 University Park
January 15, 1990 Princeton
January 18, 1990 Sao Paulo
January 25, 1990 Rio de Janeiro
January 29, 1990 Paris
January 30, 1990 Paris
January 31, 1990 Paris


   





友人の息子の結婚式のためにコルカタに来たディラン
文:モフア・ダス


johnwesley.jpg

[右の人物がプルナ・ダス・バウル、左が弟のラクスマン・ダス・バウル]


 ボブ・ディランが鮮やかな赤いクルタと白いパジャマを来てベンガル風の結婚式にゲストとして参加してるのを想像してみてくれ。そんなの無理だって?
 いや、無理じゃない。ディランの人生の殆どはガラス張り状態だが、あまり知られていないのが、彼が1990年1月にコルカタをごく内密に訪れているという事実である。
 世界で最も偉大なソングライターがコルカタに降り立ったのは、旧友であり音楽仲間でもあるプルナ・ダス・バウルの家族の結婚式に出席するためだった。現在83歳であるこのバウル・シンガーは、1960年代後半にアメリカ・ツアーを行なった際、ディランにベンガル地方に伝わる音楽を紹介した人物なのだが、彼の息子、ディビェンドゥが結婚することになったので、ディランはその式に姿を見せたのだ。
 「ディランはダクリアにある私たちの家に来て、バーリーグンジにある式場に私と一緒に移動しました」とディビェンドゥは回想する。しかし、ディランの訪問は長くはなかった[テレビ・インタビューでディビェンドゥは2時間だけだったと発言]。「式が始まって1時間ほど経った時、人々やマスコミがディランが来ていることを嗅ぎつけ、面会を求めて来る人がどんどん増えると、ディランはあわてて逃げていきました」 サインの求めに応じる気分ではなかったディランは「ここにはプライヴェートな用事で来てるんです。ちょっと休ませてもらえませんか」と言うと、その後はスターを前にしたファンに対して「ノー」の一点張りだった。
 プルナ・ダスとディランの関係は、ディランのマネージャーであるアルバート・グロスマンが、1965年にサンフランシスコで行なわれたフェスティヴァルにダスを招いて出演してもらった時に始まった。ダスはツアーを行ない、いつくかの会場でパフォーマンスを披露した後、グロスマンによってディランのホームタウンであるベアズヴィルに連れてこられた。
 「インドのボブ・ディラン」と呼ばれるプルナ・ダスは思い出をこう語る。「この時、マネージャーが、ディランを私たちに会わせようと連れてきたんです。ディランは私に言いました。あなたも私も同じ目標のために歌っています。私たちは民衆、人生、時代のことを歌ってるんですから、と。そして、ディランは自分は「アメリカのバウル」をだと言い、一部のバウルが着ているグドゥリによく似たパッチワークのコートを見せてくれました」
 これが長期に渡る友情の始まりだった。「私たちは1965年から1967年にかけて一緒にツアーや演奏活動をやりました」
 バウルのの歌がピークに達する頃には、ディランはカマックの弾き方やエクタラの扱い方を覚え、ベンガルから来た吟遊詩人とジャム・セッションを行なった。
 プルナ・ダスと彼の家族は1978年にディランの誕生パーティーに招かれ、ベンガル地方の歌を集めたCDをプレゼントした。「とても嬉しいです」ダスはディランのノーベル賞受賞について語る。「ディランほど、歌を作って人々のためになった人はいません」
 ボブ・ディランが何者なのかを定義するのは、不可能ではないものの、かなり困難なことだ。およそ60年前に人々から注目される存在になって以来、彼は詩人、プロテスト・シンガー、気乗りがしないスター、気まぐれな予言者、なりたくもないのにさせられた「時代の声」、ロック・ミュージックの長老など、いろんな時代にいろんな人物になってきた。一度に全てをやっていたこともある。そして、今度はノーベル文学賞受賞者である。
 コルカタは長年の間、ディランの音楽を愛し、ディランの音楽とともに生きてきた。〈Blowin' In The Wind〉のリフレインしか知らない即席リスナーから、歌詞カードを盗み見せずとも〈Like A Rolling Stone〉の全ヴァースを歌えて、「How does it feeeeeeeel」の裏にある意味を何時間でも論じることの出来る大ファンまで、この町のあちこちにいろんな種類の、いろんなレベルのファンがいる。
 そういうわけで、ディランが常に強い感情を誘発し、人々からワイルドなほど多種多様なコメントを引き出すのも当然なのだ。ボブ・ディランが1967年にリリースしたアルバム《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているプルナ・ダス・バウルは、ディランのノーベル文学賞受賞のニュースを聞いて有頂天の気分だ。83歳のプルナは「私は今、世界で一番幸せな人間です」と語るが、この知らせに驚いてはいない。「ディランと個人的に会い、彼を間近で見ました。1960年代にアメリカでディラン宅に泊まったこともあります。スタジオをオープンした時に、私と弟(ラクスマン・ダス・バウル。彼もジャケットに登場している)を招いてくれました。私たちのことをとても気に入り、アルバム・ジャケットに写真を載せてくれました。自分が受賞したとしても、こんなに嬉しくは感じないでしょう。私はずっと昔から、ディランがノーベル賞に値すると思ってました」と、プルナは感極まり震える声でタイムズ・オブ・インディア紙に語った。
 これまでにさまざまなバージョンのディランが存在してきたが、 今回ほど多様な反応を引き起こしたものはない。無数の評論家にとってもファンにとっても、ディランはどんどんジャンルを変えていくシンガーだ。優れた詩人が不明瞭な歌い方で歌っているのだ、と見ている者もいる。「こういう意見が邪道であることはわかっています。そもそも私はボブ・ディランの声のファンなんですけどね」と全インド草の根会議派の国会議員、デレク・オブライエンは語る。「彼の歌詞や詩は歌声よりずっと優れています。ノーベル賞の受賞は、彼がシンガーとしてよりも作家としてのほうがずっと優秀であることを裏付けています」
 しかし、ディランはある特定のジャンルに「はまる」ことは決してなかった。伝統の一部であった時でさえもだ。ディランがフォークシンガーだった頃も、誰も聞いたことがないような歌い方をしていた。1965年のニューポート・フォーク・フェスウティヴァルでエレキギターを演奏して皆に衝撃を与えた時には、ピート・シーガーは憤慨し、斧があったらケーブルを切ってたかもしれないと発言している。ファンもブーイングをした。当時、ロック・ミュージックが登場してまだ間もなかったことを考えると----長い年月が経った今だからこそ言えるのだが----こうした反応があったことも理解出来なくはない。しかし、詳しく見てみると、現代ロックの基本的な枠組みを作ったのは、疑いなくディランなのだ。ディランの長年のファンであるシンガー・ソングライター/映画監督のアンジャン・ドゥットもこう語っている。「ディランは、ロックンロールの世界に入った瞬間はプロテスト・シンガーでしたが、そこで止まりませんでした。彼はロックンロールを知的にしました。さもなければ、私たちは「アイ・ラヴ・ユー、ユー・ラヴ・ミー」の型を打破することは出来なかったでしょう。ディランは新しい時代の先駆けとなりました。彼の音楽は戦争だけでなく、あらゆる種類の非人道的行為に反対しました。〈Blowin' In The Wind〉で歌われていることの中には、気候変動に対する懸念や世界レベルの腐敗も含まれています。ディランの影響があったからこそ、ビートルズをはじめ、あらゆるバンドがサウンドを変化させたのです」
 ビートルズからドゥットの音楽に至るまで、ディランが及ぼした影響は明らかだ。「私の詩作は〈Tambourine Man〉や〈Like a Rolling Stone〉といった曲から、間接的ですがはっきりとした影響を受けています」とドゥットは告白する。彼はディランの受賞をずっと待ちこがれており、ディランは「平和賞と文学賞の両方」に値する人物だと信じている。
 ディランの作り出す芸術は「知的かつ実体のある種類」に属していると、ミュージシャンであるアミット・ドゥッタは考えている。「ディランはこの賞に値します。歌詞や思想だけではありません。ミュージシャンとしても、ディランは伝説的な天才芸術家です」
 シロンを拠点に活躍する「インドのボブ・ディラン」の異名を持つミュージシャン、ルー・マジャウは「受賞は当然です」と語る。マジャウは毎年ディランの誕生日にシロンとコルカタでトリビュート・コンサートを開催している。「20〜30年前に受賞すべきでした。今日までかかっちゃったとしても、受賞しないよりはマシですがね」
 ベンガル地方の政治的混乱の中で育った人々にも、ディランは大きな影響を及ぼしている。「私は1969年から1972年までプレジデンシー大学の学生でした。大混乱の時代でした」とインド経営大学院カルカッタ校の元教授、アヌープ・シンハは回想する。「皆、ディランを聞いてました。普段は英語の歌を聞かない人たちもです。私たちにとってシーガーの〈We Shall Overcome〉とディランの〈Blowin' I The Wind〉はアンセムのようなものでした」
 詩人のシャンカ・ゴシュも語る。「私はディランの大ファンで、彼の音楽も歌詞も大好きでした。ノーベル賞受賞は素晴らしいニュースです」

The original article "Bob Dylan's day in Kolkata for a wedding, a Baul for a friend" by Mohua Das
http://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/Bob-Dylans-day-in-Kolkata-for-a-wedding-a-Baul-for-a-friend/articleshow/54841938.cms


当ブログのプルナ・ダス・バウル関連の記事
《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているインド人の話(1)
http://heartofmine.seesaa.net/article/385773614.html

《John Wesley Harding》のジャケットに登場しているインド人の話(2)
http://heartofmine.seesaa.net/article/386451627.html

これもベースメント・テープスだ
http://heartofmine.seesaa.net/article/407462332.html


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