2016年10月20日

『Never Say No To A Rock Star』の著者グレン・バーガー・インタビュー

 当ブログでは既にいくつかの記事でお馴染みのグレン・バーガーが、ニューヨークのA&Rスタジオで働いていた頃の回想をまとめた本『Never Say No To A Rock Star』を出しました。ボブ・ディランの《Blood On The Tracks》セッション、ローリング・ストーンズのブリュッセル公演のミキシング、ポール・サイモンやフランク・シナトラのセッションの話を核に、スタジオでの喜怒哀楽、悲喜こもごもを綴った本書は、有名ミュージシャンの裏話の紹介にとどまらず、現在の職業である精神科医の見地から「人の心を動かす芸術を作るとはどういうことなのか」を深く、鋭く洞察したものです。



 当サイトではグレンのインタビューを複数回に渡って掲載予定ですが、今回、まずは、TheVinylPressによる包括的な話題のインタビューを紹介します。そして、近々、私がグレンに電話をかけて、話題を主にボブ・ディランの《Blood On The Tracks》とローリング・ストーンズのヨーロッパ'73に絞ったインタビューを行ないたいと思っています。今から1週間後くらいにニューヨークに国際電話をかけて、積年の質問をぶつけてみる予定ですが、こういうことも訊いてくれというリクエストがありましたら、まだ間に合いますので、コメント欄に記入していただくか、直接メッセージをください。

   






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[A&Rスタジオ退職後の著者]


『Never Say No To A Rock Star』の著者
グレン・バーガー・インタビュー

聞き手:TheVinylPress


17歳の時にA&Rスタジオで働くようになったとのことですが、アーティストやそこでどのようなプロダクション・ワークが行なわれてるのかについては当初から理解してたのですか?

 もちろん。仕事の初日にスタジオ・マネージャーからバカラックやマッカートニーについて聞かされたよ。エフェクトを作ったり、機材でいろんなトリックを行なったりで忙しくなるのかなあって幻想を抱いてたんだけど、アーティストの創造性のスイッチをオフにしないこと----つまり、邪魔をしないこと----が自分の仕事だってわかったよ。技術的なこととしてのレコーディングのプロセスじゃなくて(もちろん、そっち方面も正しく出来なきゃいけないんだけど)、アーティストの創造のプロセスをしっかりキャッチし、その邪魔をしないことが主な仕事だった。ある意味、視界に入らない人間でいることが求められていたんだよ。

A&Rスタジオで仕事をする前にも、技術系の仕事を少しやってたんですよね?

 14か15の時にアンペックスのレコーダーを買って、それをいじってたから、オーバーダブの作業は得意だったし、当時、ニューヨークで最大のジングル・ハウス(テレビやラジオのコマーシャルのレコーディング・スタジオ)で実務研修の経験もあったんだ。でも、A&Rに到着した時にモンスター・エンジニアのドン・ハーンの面接を受けて「お前はどんなことが出来るんだ?」って訊かれたんで、「テープ・マシンを操作出来ます」って答えたら、「でも、A&Rの基準でそれをどうやるかは知らないだろ」って言われたよ。明らかに、このスタジオにはここまでやらなきゃ合格じゃないっていうレベルがあって、本当の勉強はその時から始まったね。

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[サバーバン・サウンドのコンソール]


アーティストの作業とエンジニアの関係について、あなたは本の中でとてもわかり易く述べています。技術系スタッフにとって一番難しい作業は、予期せぬ事態への対処のようですね。アーティストの気が変わったとか、機材にノイズが入るとか。

 私が誰かを鍛えようとする際、最初に言うのが「それで給料をもらってるんだろ」って言葉だ。次が「カーブ・ボールも飛んで来るってことを忘れるな」だ。この業界ではマーフィーの法則はしつこいくらいによく当たる。皮肉なことに、ついこの間も、私が学会で発表をする時に限って、A/Vシステムが故障したんだ。機材の神様へのお祈りをサボったことを思い出したよ。

アーティストによっては、曲を作るのにスタジオを利用する人もいるんですよね? 曲の大まかなアイデアはあるんだけど、いろんな楽器を加えるとどうなるのか、実際にやってみる必要があるってことですか?

 スタジオの基本使用料は当時でも1時間200ドルで、セッション・ミュージシャンにもギャラを払わなきゃならなかった。1分でも時間をオーバーしたら、料金は増える。だから、大きなセッションだと、料金はどんどん加算されていく。ポール・サイモンのようなアーティストなら、それを払う余裕はあるだろうけどね。ポールはレコーディングの費用を自腹で払ってたと思うよ。超完璧主義者で、時間やコストは気にかけてなかった。とにかく、いい曲を作ることに腐心していたよ。〈Still Crazy After All These Years〉の中間部のオーケストラのパートをレコーディングする段になっても、そのセクションが書けてなかった時には、サイモンはたくさんのミュージシャンとアレンジャーを待たせておいて、自分は別の部屋に行ってその部分を書いていた。その時は、金の流れは凄いことになっていた。サイモンは私に言ったんだ。「友人と一緒に夕飯を食べに行ってくるよ。後でスタジオに戻って来て、そいつらにトラックをいくつか聞いてもらう。だから、みんなもブラブラしててよ」って。ということで、スタジオにも私にも待ってるだけで料金が発生していた。なのに、サイモンは戻って来ない。私は深夜まで待って、結局、帰ったよ。一方、フランク・シナトラは、フル・オーケストラと同時にレコーディングをすることに慣れてたんで、1、2テイクで仕上げることが出来る人だった。オーバーダブがなかった時代の人だからね。

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[A&Rスタジオのブッキング・スケジュール表]


レコーディングの際には、マイクの設置やその他の準備については「スタンダード」なやり方というものがあったんですか?

 新しいアーティストと作業をする時によくやってたのは、マイクを数本設置することだった。その人に「適した」マイクを選ぶためにね。その歌手のための「1本」ということで、マイクには名前を書いたテープを貼っておいたんだ。同じ型番のマイクでも----例えば、AKG 414とか----1本1本、音や個性が違うってことも忘れちゃいけない。
 また、世間の3倍の準備を目指してたよ。アーティストが到着する頃には完全に落ち着いた状態でいたかった。バタバタしながら機材を設置しているんじゃなくてね。アーティストはそういうエネルギーが溢れてるのを見ると不安になってしまうんだ。
 ポール・アンカは深夜に作業を始めることが多かったんだけど、あるセッションでは、私が十分に準備してたにもかかわらず、ヘッドホンが故障しちゃってたんだ。私は玉のように汗をかいたよ。直そうと必死に努力してる間、アンカは腹を立てて、自分のヒット曲のタイトルを全部、マイクに向かって言っていた。でも、セッションが終わった時に、ブリーフケースを開けると、その中にあった札束のなかから100ドル札を1枚私にくれたんだ。そのブリーフケースに中に他に何が入ってたかは、私の口からは言えないけどね。

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[A&RのスタジオA-1]


あなたがA&Rスタジオで働き始めた頃には、もう既に大きなマルチトラックのコンソールとテープ・マシンがありましたよね。具体的に、トラック数はいくつで、どこのコンソールだったんですか?

 私が働き始めた時には16トラックで、後になって24トラックになった。コンソールはカスタムメイドのものだった(当時は、そうしたものを製造している会社はそんなに多くはなく、NEVEはあったが超高価だった)。だから、コンソールはひとつひとつ違う音がしていた。当時に作られたレコードを聞けばそれがわかる。初期のボードでは、マイクロホンからテープ・マシンまでの経路はクリーンでシンプルで、スイートで分厚い音がしてた。大スタジオ、A-1にあったコンソールは「フライングV」という名前のもので、私の師匠のフィル・ラモーンの注文でハート、クラブ、スペード、ダイヤの形をしたノブが付いていた。A&Rにはサバーバン・サウンドのコンソール数台(A&Rスタジオをラモーンと共同で経営していたブルックス・アーサーが、インタビューでこのボードについて詳しく語っている)と、昔のメルセデスのようなどっしりとしたクオリティの古いノイマンも1台あった。

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[ノイマン製コンソール]


 テープ・マシンについては、アンペックスの16トラック、MM-1000と、「iso-loop」という名のキャプスタン・システムの付いたとても面白いトランスポートを持っている3Mのマシンもあった。アンペックスは何台もあった。スカリーの2トラックもあった。最終的にはスチューダーの2トラックとマルチトラックを購入した。当時、A&Rには、レコーディングしたものがどういう音か確かめるのに使うアセテート盤を作るためのカッティング・マシンもあった。(ディランのニューヨーク・セッションのブートレッグの音源となったのが、このマシンで作られたリファレンス・アセテートだ)

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[A&Rスタジオにて。1974年]


オーディオ・マニアの間でアナログ・テープが再びブームになっているのをご存じですか? しっかり修理したプロ用もしくはセミプロ用のレコーダーとアウトボードのプリアンプを使って、2トラック・15ips(38cm/s)で録音・再生する音が。

 アナログ・テープや真空管等にはロマンティックな側面があるのは知ってるよ。でも、そういう機材を道具として使うのは苦痛でしかなかった。レコード盤に刻まれたものを聞くと、いつもがっかりしたよ。テープのほうが明らかに音がいい。どういうふうにすればレコード盤というメディアにした時もいい音がするか、フィル・ラモーンは知ってたよ。

本の中にある「リアルに聞こえるようにするためには、たくさんのペテンが必要だってわかったのが、私にとって開眼だった」って言葉が、とても印象的です。

 これは芸術全般に当てはまると思うね。ボブ・フォッシの『All That Jazz』の作業をしてる時に学んだよ。1日かけて嘔吐のサウンド・エフェクトが嘔吐っぽく聞こえるようにしたんだ。レコードでは、オーバーダブをオーバーダブだと聞こえないようにするっていうのがトリックだ。

1970年代はレコーディング・スタジオの黄金期でした。機材やスタジオにたくさんのお金がつぎ込まれました。金の流れが良くなればなるほど機材は高級になっていきました。マイクで拾った音に変更を加えず、スタジオの自然な響きを捉えようとはしていなかったのですか?

 あの時代は、ポップ・ミュージックの歴史の中では初期のほうでもあるし、その後の時期に属してもいたと思う。フィルが〈Girl from Ipanema〉のレコーディングを担当した時には、スタジオ内に数本のマイクを置いただけだった。1970年代には、オレたちにはこんな機材もあんな機材もある、是非利用しよう、という考え方だったと思う。全ての音が隔離した状態で、別々のマイクで、他の音が回り込むことなく録音されていた。「部屋」の響きなんてなし。もちろん、ジャズとクラシックは例外だよ。スティーリー・ダンも違ってたな。彼らは、楽器そのものの音を拾う、EQは最後の手段としてのみ使う、っていう方針だった。

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[ソロモン・バークと]


あなたがヘトヘトになりながら担当した数々のセッションに関する記述を読んで心に残ったのは、録音芸術としての音楽において何が「マジック」を作っているのか、理解したいという欲望を失っていないことです。

 音楽、そして芸術一般は、私にとって非常にミステリアスだ。いろんなレベルでそのことを考えてはみるんだけど、偉大な音楽には言葉では言い表せない何かがあって、それはシンプル過ぎて、かえって理解出来ないものなんだ。聞けばわかるんだけどね。フィルにはマジックを引き起こす能力があった。常に、ここぞって時に、ここぞって場所にいた。多くの人が、技術的に完璧であることに集中しすぎだけど、大切なのは「フィーリング」さ。

あなたは現在、精神科医として活躍していて、「創造性と狂気」がテーマの会議から戻ってきたばかりです。音楽業界での体験を回想して----世界一のスタジオで最も偉大なアーティストと作業をしていたわけですから----創造プロセスについてどんな洞察をお持ちですか?

 勇気と忍耐だ。芸術を作り出すのは簡単じゃない。アーティストの殆どは----エンジニアも、プロデューサーも、我々全員もそうなんだけど----屈辱を味わうんじゃないかという恐れを抱いている。自分をさらけ出すには並々ならぬ勇気が必要だ。ボブ・フォッシもフィル・ラモーンも、それぞれの分野でトップの人間だったけど、それでも、破滅することを恐れていた。だから、良い作品を作ろうと必死に働き、苦痛に耐えた。そして、恐怖心に反して、作品を世に出した。それが勇気だよ。彼らの創造性は才能のほとばしりから生じたものじゃない。根気強さから生じたものさ。

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[グレン・バーガー近影]


この本にはほろ苦さもあります。あなたの語り口がメロドラマ風っていうんじゃなくて、あの時代はもはや過ぎってしまい、唯一残されているのは音の記録だけということです。音楽業界も様変わりし、フィル・ラモーンのような大物ももうこの世にはいません。大きなレコーディン・プロジェクトに積極的に資金を提供しようという大きなレコーディング・スタジオやレーベルは、どんどん少なくなっています。

 ノスタルジアなトリップとは違うと思うな。私は今の音楽もたくさん聞く。子供が2人いるしね。良いものもたくさんあるけど、本当に優れたものは殆どないな。テクノロジーのおかげである程度のプロダクション・クオリティーを満たすことが可能だから、1960年代にあったような超ださいものと超優れたものっていう両極端は、今はもうなくなったね。セッション・ミュージシャン、アレンジャー、プロデューサー、作曲家の軍団がいる優れたスタジオの時代は、もはや存在しない。素晴らしい時代だったなあ。今の人は文字通り「回線を通じて」離れたところでパート別にレコーディングしているんだろ。ミュージシャン全員がスタジオに集まる大規模なレコーディングのエネルギーは、もうないなあ。世界中のスタジオで凄いことが起こっていた。私たちは皆、この素晴らしいコミュニティーの一部だった。マッスルショールズ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン…私たちは互いに交流しながら、最高の存在になろう、次の大ヒットを作ろうと競争していた。皆が皆の作品を聞いていた。私たちは皆、高い水準を共有していた。それが私が学んだことだ。そういう世界がなくなってしまった今でも、私はそういうふうに生きようと思っている。


Photo credits:
Image of Glenn Berger by the tape machine by Joshua Silk at MSR Studios.
Suburban Sound console photo by David Greene.
A&R Schedule by Larry Franke.
Neumann console photo by Bernie Drayton.
Glenn Berger (with pencil in nose) by Brad Davis at A&R Studios, 1974
Solomon Burke and Glenn Berger by Glenn Berger.
Glenn Berger head shot by Jeremy Folmer.
All photos by permission of Glenn Berger.

Copyrighted article "Interview with Glenn Berger, Author of "Never Say No to A Rock Star"" by TheVinylPress
http://thevinylpress.com/interview-glenn-berger-author-never-say-no-rock-star/
Reprinted by permission.
posted by Saved at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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