2016年10月23日

ボブ・ディランにヘブライ語とシオニズムを教えた夫婦

 今、テルアヴィヴのディアスポラ博物館で「Forever Young – Bob Dylan at 75」という特別展をやってるようです(2016年5月〜2017年4月)。それに伴い面白い話が発掘されました。

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Forever Young – Bob Dylan at 75
http://www.bh.org.il/event/forever-young-75th-anniversary-bob-dylan/

   




ボブ・ディランにヘブライ語とシオニズムを教えた夫婦
文:ダフナ・アラッド


1960年代後半にニューヨークのアパートメントで、ボブの様子を数十時間もビデオテープに収めたが、残念ながら、それはもう見ることは出来ない

 テルアヴィヴのディアスポラ博物館(Beit Hatfutsot)では、現在(訳者註:この記事は2016年6月に発表)「フォーエヴァー・ヤング」と題されたボブ・ディラン展が開催されている。この催しの学芸員は、存命で現役として活動中のアーティストに関するこれまでは知られていなかった非常に興味深いマテリアルを発見するという、大変な作業に直面した。
 しかし、彼らがノドから手がでるほど欲しかったマテリアルは入手不可能だった。それは何かというと、ディランの様子を収めた数十時間分のビデオテープなのだ。1960年代末に、ディランがニューヨークのサリ・アリエル----現在ヘルツリヤ在住、69歳の芸術家----と当時の夫、テリー・ノーブルの自宅を訪れた際に撮影されたものである。
 1960年代末から1970年代初頭にかけて、アリエルはニューヨークのボヘミアン・コミュニティーの中心にいて、ディランの側近のひとりだった。
 彼女はボブと多くの時間を一緒に過ごし、その様子の全てをビデオテープに収めていた。この記録は彼女と夫がイスラエルに移住した際に持って行った。
 「50〜80の記録映像がありました」アリエルは失われた宝についてハーレツに語った。
 「靴箱に入れて保管し、日付の他に短いメモも記しておきました。クレアス・オルデンバーグという芸術家の家で1度再生したことがあります。1976年に離婚した時には、それを自分がもらおうとは思わなかったのですが、数年後に見たくなったので、元旦那にテープが欲しいと言いました。その頃、彼は家族を持ち、宗教熱心な人間になっていたので、私たちが裸でタバコを吸ってる様子が写ってるフィルムを見せてはくれませんでした。元夫はディランのプライバシーを守り、彼の信頼を壊さないことを欲していました。再度強くお願いした時には、全部焼却処分してしまったと言われました。本当かどうかはわかりませんけど…。彼は2000年に亡くなったので、もしかしたら、子供たちが持ってるかもしれません。とにかく、古いテープなので、誰かがしっかり保管していなかったら、ダメになってるかもしれません
 このふたりのアメリカ出身のユダヤ人は1967年にスウェーデンで結婚してイスラエルに来たが、その後間もなく、1968年にアメリカに戻り、ニューヨークのウェスト・ヴィレッジの端にあるワンルームのアパートメントに居を構えた。 極左過激派のイッピーたちの間では、ノーブルは「片足のテリー」として知られており(イスラエルのキブツで働いている時に、事故で足を失った)、シオニストでもあった。
 ふたりをディランに引き合わせたのはA・J・ウェバマンだった。「彼はディランのストーカーでした」とアリエルは語る。
 「彼はディラン宅のゴミ箱を調べて、出てきたものに基づいて記事を書いていました。最初は、ディランは怒っていましたが、そのうち、ウェバマンはこの調査のおかげで、ニューヨーク・シーンではよく名前を聞く存在になりました
 「当時、有名な人は皆、異常でエキセントリックな人物でした」とアリエルは笑いながら語る。「そういう経緯があって、ディランにヘブライ語を教えよう、一緒にチェスをやろうってアイデアが生まれました。ヘブライ語に関しては、ディランがテリーから学んだことは多くはありません。テリーのヘブライ語はしゃべるのがやっとの状態でしたから。でも、ディランはイスラエルとバックギャモンのやり方については確かに学んでいます。テリーは1960年代前半にイスラエルでオートバイを盗んだ廉で刑務所に入っている時にバックギャモンのやり方を学びました。私たちが出会う前のことです
 こうした交際の中で、ディランはノーブルによって頭の中にシオニズムを植え付けられ、ユダヤ人としてのアイデンティティーを磨いていった、とアリエルは語る。嵐のような関係の夫婦のアパートメントで、ディランはユダヤ教のラビ、メイヤー・カハーニ、イスラエルのブルース・ロック・ミュージシャン、ダニー・リタニ、ジェリー・ルービンやアビー・ホフマンといったユダヤ系アメリカ人の急進的活動家に会った。ディランとのアドヴェンチャーにおいて、夫婦はジョン・レノン&ヨーコ・オノ、キンキー・フリードマンと出会った。
 「私はディランに媚びていたわけではありません
 ノーブル夫妻はあらゆる瞬間をビデオテープに収めた。「私は彼らが音楽を演奏したり、バックギャモンに興じたり、タバコを吸ったり、おしゃべりをしたり、ストリートを歩いたりしている様子を撮影しました。当時、ビデオは新しい理想的な芸術形態で、私たちはその最前線にいたのです。ビデオがあれば、人は皆、自分の人生の番組を作るTVディレクターになり、自分の人生の映画を自分で作ることが出来るのです。当時、ケーブルTVはまだ始まったばかりで、YouTubeのようなものは誰も思いつきすらしていませんでしたし、そういうテクノロジーを持ってもいませんでした。私にとっては、FacebookとYouTubeはあの頃の夢が実現したようなものです
 彼女は元夫を、エキセントリックでぶっきらぼうな性格だが、カリスマ性があり人を笑わせるのが得意な人物だったと説明する。「テリーに会った人は、彼を好きになるか嫌いになるかのどちらかでした。 ディランはああいう面白い人に囲まれていました。ディランがテリーと一緒にいるのを好んでいたのは、テリーが皆の注意を引きつけ、自分はわきによけて静かにしていられたからです。彼は実際に、そうしているのが好きでした。ディランはますます頻繁に私たちのアパートメントに遊びに来るようになりました。スタジオでレコーディングの作業が終わった後、家に帰る前に、毎日、1、2時間、寄りました。
 皆がベッドの上に座ってバックギャモンに興じる様子をビデオに録りました。テリーは白いアンダーパンツ一丁の姿で、足の切断した箇所は伸縮性のあるバンデージで覆っているだけでした。ディランは変な帽子をかぶり、茶色のレザー・ジャケットにスカーフという出で立ちでした。一方は服を着込み、他方は裸も同然でした。
 1969年から1971年の間に、アパートメントから出て、ニューヨークのストリートにビデオ撮影の散歩に繰り出しました。私の役割はカメラマン兼監督でした。新開発の1/2インチ幅のテープのポータブル・ビデオを持って、彼らを常に撮影しました

 アリエルはディランとどんな関係だったのだろうか?
 「ディランが私を気に入っていたのは、彼に媚びへつらず、彼の音楽や名声に無関心だったことでしょうね。私は今でも音楽はそんなに好きではないですし、コンサートにも行きません。スターをちやほやして取り巻くのには反対でした。私たちのネブラスカ旅行を撮影した映画のサウンドトラックをディランが演奏していたのですが、私は自分が監督だと思っていたので、ディランに音楽をフェイドアウトするよう----つまり、演奏をやめるよう----お願いしたこともあります。後になって、夫から文句を言われました。ディランに演奏をやめろなんていう奴は、世界中でお前だけだって
 アリエルはディランのどんなところを気に入ってたのだろうか?
 「まず、私は彼がボブ・ディランだってことに免疫を持っていたわけではありませんが、本当に人として気に入っていました。スイートな人間で、誠実で、オープンで、傷つきやすく、敏感でした。私は彼の心の甲冑を槍で突き通さないように気をつけました。ディランは私たちの座の中にのんびり加わり、ソフトな口調で、知恵の言葉を発するのが好きでした

ユダヤ人という出自

 ノーブルは1987年にカウンターポイントという機関誌に書いた記事の中で(ページをスキャンしたものがネット上で公開されている)、ディランは人の話を聞くのが好きだったと述べている。「ディランが私と親しくなりたかったのは、私がユダヤ人だったからです。彼は常にユダヤ系の友人を募っています…。ディランにとって、自分がユダヤ人で困るのは、ユダヤ人であることがあまりアメリカ的ではないからです。ボブ・ディランは私が出会った人の中で最もアメリカ的な人物です。ファンの殆どが40歳を超えた現在でさえも、ディランは若いアメリカを代表しています。アメリカはキリスト教色が強いのですが、彼はユダヤ人です。それは彼にとっても、私たちにとっても問題です。
 私たちはよくディランに、有名なのってどんな感じ?と質問しました。すると、ディランはこんなことを言いました。「若い頃は有名になりたくて、それを目指して一生懸命頑張った。でも、いったんそうなってみると、思ってたのとは違うんだ。もう欲しくないって思うようになる。名声を欲しがってた自分とは違う人物になってしまってるんだ」って。
 私たちのグループの面々は、ディランが拙宅をよく訪れる客人だと知るや否や、どんどんやって来るようになりました。そういう経緯があって、私たちはディランをアビー・ホフマンやジェリー・ルービン、ボブ・ファスに紹介しました。私たちは文化サロンみたいなものを開いていたのです。ディランに会いたくて「たまたま私たちのアパートメントに寄る人」はたくさんいましたね
」テリーはディランをこうした人々に紹介した。その中にはラビのカハーニもいた。
 カハーニとの関係はどのようにして出来たのだろうか?
 「ある時点で、私たち夫婦がディランの友人であることを皆が知っていました。カハーニがディランに会いたがっているということで、彼の代理人からコンタクトがありました。当時、テリーは大のシオニストで、町中を歩き回るにもキッパ(スカルキャップ)をかぶってました。イスラエル人でシオニストというと、当時はプラスに見られていました。カハネはブラック・パンサー党が成功したのを見習って、ニューヨークの地下鉄でユダヤ系市民を守る活動で忙しくしていました。これは立派な運動で、ネガティヴなことと思っている人は誰もいませんでした。
 あの頃、ディランは自分のユダヤ人としてのルーツに目覚め、とても親イスラエル的で、息子のバール・ミツヴァ(13歳になった男子の成人式)のために嘆きの壁を訪れたいと語っていました。テリーがそれを勧め、ディランは本当にそうしました。その後、テリーはイスラエルに移住し、チュヴィア・チャイムと改名したのですが、ディランはイスラエルに来るたびに、彼に会いに行きました。テリーはディランの案内人となって、エルサレムやキブツ、北部、ヨルダン川西岸地区に連れて行きました

 バックギャモンで勝ったのはどちらなのか?
 「もう覚えていません。昔も今も、私が一番上手なプレイヤーでしたが、皆にコーヒーを入れるとか、ハッシュ・クッキーを焼くとか、テリーのためにキッパを編むとか、他のことで忙しかったのです。それに、彼らの後を追って、ビデオ撮影もしていましたから。女性解放運動の点では私は明らかに間違った側にいたと思います。ある晩、イースト・ヴィレッジにあるアービー・ホフマンのアパートメントで、ディランらと一緒にスーパー・ボウルを見ていました。男たちは皆、リヴィングルームで試合を見ていましたが、女たちは皆、キッチンにいて、ハッシュブラウニーを焼いたり、それを皆に持ってったりしていたのです。洗濯したての服ってステキな香りがするわね、なんて話しながら。でも、その時言いました。「ねえ、ちょっと。私たちは何をしゃべってるのさ?」って

"The Jewish couple that taught Bob Dylan Hebrew and introduced him to Zionism" by Dafna Arad
http://www.haaretz.com/israel-news/culture/leisure/.premium-1.728688
posted by Saved at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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