2016年11月20日

階下で練習するボブ・ディラン

 今回紹介する記事は下の地図の界隈で起こった出来事に関するものです。ボブはマクドゥーガル・ストリート94番地のタウンハウス(6番街の1本東がマクドゥーガル。94番地はマーメイド・オイスター・バーの向かい側あたり。AJ・ウェバマンはここのゴミ箱を漁った)を持っていた他、ヒューストン・ストリート124番地を借りて練習スタジオにしていました。2014年に149枚ものアセテート盤が見つかったのは後者からです。

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 1975年6〜7月のボブの動向は以下の通りですが、特に6月末から7月上旬にかけて撮影された写真で、ボブの着ている服が同じなのが気になります。真夏のニューヨークでシャツを何日も替えないのは良いアイデアではありません。同じものをいくつも持ってたのかもしれませんが…。

1975年6月26日 ジ・アザー・エンドでパティー・スミスのライブを見る

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6月27日 ホテルでサンタナと会った後に一緒にローリング・ストーンズのMSG公演に行き、楽屋でミック・ジャガーと会談

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6月30日 路上で見かけたスカーレット・リヴェラをナンパ。夜はボトムラインでマディー・ウォーターズのライヴに飛び入り

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7月2日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴを見る

7月3日 ジ・アザー・エンドでランブリン・ジャック・エリオットのライヴに飛び入り



7月4日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

7月5日 ジ・アザー・エンドでボブ・ニューワースのライヴに飛び入り

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7月中〜下旬 イースト・ハンプトンでジャック・レヴィーと曲作り
http://heartofmine.seesaa.net/article/367640792.html

7月28日 《Desire》レコーディング開始


  







階下で練習するボブ・ディラン
文:ルシアン・K・トゥルスコット4世



 時は1974年。ニューヨークの状態はひとことで言うと最悪。市は経済的には崩壊状態。遂に財政が破綻し、デイリー・ニュース紙にかの有名な見出し「Ford to City: Drop Dead」(フォード大統領からNYCへ:さっさとくたばれ)が載るまで、あと1年。崩壊状態は、ボブ・ディランがヒューストン・ストリートのすぐ北にあるマクドゥーガル・ストリートのタウンハウスに戻ってきた理由のひとつかもしれない。彼と妻のサラの結婚生活は、一緒になってそろそろ10年という頃には、破綻していたのだ。破綻した市に破綻した結婚てわけだ。
 当時、私は当時はまだ寂れた工場地帯だったソーホーの端の、ウェスト・ヒューストン・ストリート124番地の4階にある月200ドルのロフトで暮らしていた。ディランはマクドゥーガル・ストリートにある自宅からすぐの、この建物の1階に練習スペースを持っていた。私が3年前にロフトを借りた時、大家からディランが1階にいることを教えられたが、特に何とも思わなかった。ディランがニューヨークを出て行った経緯----まずはウッドストックに、次にサンタフェに、そしてマリブに----はどこかで読んだことがあるだろう。しかし、ディランはこの街の構造の大きな一部だったので、彼が去ってしまったという感じは全くなかった。もちろん、私がヒューストン・ストリートのロフトを借りた時、ディランもその建物にいた。
 ロビーに入ると、時々、ボブが作曲したり、歌詞を考えたりしている音が聞こえた。ディランのスタジオとロビーは薄いシートロックの壁しかなく、ディランはアップライト・ピアノをこの壁にくっつけて置いていたのだ。私がそれを知ってたのは、スタジオにアンプや他の機材を出し入れするのを手伝ってあげたことがあるからだ。ある日、ヴィレッジ・ヴォイスのオフィスに向かう途中で、道ばたにあった折り畳み式の椅子を拾い、それを階段の下にしまっておいたのだが、私はよくそれを引っ張り出してきて座り、ディランから数インチという近さで、彼がピアノに向かって曲を書いている様子を聞いていた。
 1974年夏に、私がこういうふうに初めて耳にしたディランの作曲途中の曲は、後に《Blood On The Tracks》に収録された〈Tangled Up In Blue〉〈You're Gonna Make Me Lonesome When You Go〉〈If You See Her, Say Hello〉だ。苦悩のシンガー・ソングライターである我等がディランは、ピアノに向かって人生を立て直そうとしていたのだ。
 ディランは昔から独自のやり方で、ニューヨーク・シティーで過ごした青春時代を歌に凝縮させていた。彼の歌には自分の人生についてのイメージと比喩、示唆等が積み重なっている。我々は、ディランの歌を深読みしようとしながら、実は自分という存在を深読みしていたのだ。しかし、この時は全く異なるものだった。謎に満ちた歌詞というマントを身にまとわないディランだったのだ。鏡に映った自分を見るように曲を書きながら、ディランはこうすることで足枷がはずされたように感じていたのだ。妻との破局、血の出るような怒りや後悔、愛と喪失、そして苦悩、たくさんのたくさんの苦悩----我々全員がプライベートな状態で体験することを、彼は人前でやっていたのだ。
 ある日の午後、私が降りていくと、ディランが新しい曲に取り組んでいるのが聞こえてきたので、例の折りたたみ椅子を取り出して聞いていた。彼は中年期の傑作〈Idiot Wind〉を書いているところだった。悲嘆と憤りが混じったあのメロディーはもう持っていたが、歌詞を書くのに大変な苦労をしていた。彼は1ヴァース歌ったが、満足せず、握り拳で鍵盤を叩いた。そして、一息おいて、再び始めた。
 あのリフレインはすぐに出てきた。怒りは膨らんで生々しいかんしゃくとなった。「愚かな風、お前が歯を動かすたびに吹く」 敵意が感じられるフレーズだ。ディランが報いと奮闘するのを、私は座って聞いていた。非難すべき愚か者はひとりだけではなかった。

 愚かな風
 コートのボタンの間を吹く
 オレたちが書いた手紙の間を吹く

(バン、バン、鍵盤を叩く音…もう1度歌う…バン、バン…今度は何?)

 棚の上の埃の間を吹く

すると、鍵盤を殴るのが止まった。そして----薄い壁を通してほんのわずかに聞こえただけなのだが----ディランは鍵盤をやさしくなでるように弾きながら、曲の最後のラインを書いた。

 オレたちは愚か者だよ、ベイブ
 互いに食べさせることが出来るのも不思議だね

 その年の秋、私はヴィレッジ・ヴォイスによって中東に派遣され、テロリズムや戦争を取材した。ディランは9月にニューヨークで《Blood On The Tracks》のレコーディングを開始し、12月にはミネアポリスで10曲のうち5曲を録り直した。私は1975年1月に中東から帰国した。ディランは《Blood On The Tracks》を1月20日発売し、ここ10年間における----《Blonde On Blonde》以来の----最高傑作として全世界で賞賛された。私がヴォイスを辞めたのはその年の夏だった。私は複数の雑誌のフリーランスの記者としてあちこちを飛び回り、多くの時間をオン・ザ・ロードで過ごす生活をしていた。ある晩、ニューヨークに戻っていた時に、友人からザ・ビター・エンド(しばらく同じ場所でジ・アザー・エンドという名前で営業していたが、どこかの時点で昔の名前に戻った)まで来いという電話があった。ディランが毎晩12時頃になると姿を見せ、ジャムをしているのだという。
 バンドのオーディションを行なっているのだとわかるのに、そんなに時間はかからなかった。ある晩、セットとセットの間に、ボブが友人のボブ・ニューワースに話しているのが聞こえた。カントリーやリズム&ブルースのミュージシャンがやってるように、アメリカをバスで旅したい。そして、一座の名はローリング・サンダー・レヴューにしよう、と。
 マジカルであるのと同時に平凡なことでもあった。私はトンプソン・ストリートからブリーカー・ストリートのザ・ビター・エンドまで歩いて行き、席に座ってドリンクを注文し、音楽を聞いてるだけでよかった。ザ・バーズのロジャー・マッギン、ウディー・ガスリーの旧友だったランブリン・ジャック・エリオットが加わっていた。デヴィッド・ボウイのギタリスト、ミック・ロンソンもいた。背の高い痩せ形の男で、当時は殆ど無名だったTボーン・バーネットもいた。そして、ベースはロブ・ストーナーだった。ある晩、ディランはその日の午後に書いたばかりの歌〈Abandoned Love〉を歌った。《Freewheelin'》のディランのように暢気で陽気な様子だったが、歌詞の中心的テーマは失望だった。「オレは自分の内側にいる道化師に騙され続けてきた」という歌詞だった。「オレが完全に姿を消す前に、1度、キミの部屋に入らせてくれないか」
 チームに参加する人が増え、バンドは形になっていった:ジョーン・バエズ、ジョニ・ミッチェル、ロニー・ブレイクリー(同年6月に公開されたロバート・オルトマン監督の映画『Nashville』出演者)、そして、私の旧友、キンキー・フリードマンも加わった。朝の5時くらいに皆で、ウェスト・ヒューストン124番地の私のロフトに歩いて行き、私がバンド・メンバーのためにベーコン・エッグ・トーストやコーヒーを用意してあげた日もあった。彼らは来るべきツアーについてわくわくしながら語っていた。

   

 その年の夏のある晩、パティー・スミスがロフトにいて、私のディナーの残りを食べていた。ヴィレッジ中の知り合いの部屋のソファーで寝て、ブラッドリーズで人に酒をねだりながら、詩人として出世しようと頑張り、それをロックンロールに注ぎ込もうと超躍起になる2年ほど前から、これが彼女の習慣だった。が、その年の夏、遂に成功の兆しが訪れ始めた。彼女のバンドはCBGBで定期的にギグを行なうようになり、その年の12月にはファースト・アルバム《Horses》をリリースしたのだ。
 もう11時くらいかな、と私が腕時計をチェックしていると、パティーがどこへ行くのと訊いてきた。ザ・ビター・エンドでローリング・サンダー・レヴューの練習があることを話すと、彼女から熱心に懇願された。「ねえ、私も行っていい? ディランに会ったこと1度もないの。紹介してくれる?」 私はいいですよと言った。
 ということで、私たちは一緒にザ・ビター・エンドに行き、小さな楽屋でパティーを紹介してあげた。パティーは自分の欲しいものに対してガツガツし、相手にダメと言わせない点では、今も昔も変わってない。ディランもパティーのことを知っていた。私もバンドと一緒にステージに上がっていい?とディランに訊くと、ディランはこの痩せた浮浪児みたいに見える娘{こ}を面白いと思い、イエスと答えた。そして、セット・ブレイクの後、身を寄せ合うようにして狭いステージに上がったふたりは両者が知っている曲を探し、バレット・ストロング作曲のモータウンの名曲〈Money〉に落ち着いた。ボブがバック・ヴォーカルを歌い、リードはパティーだった。パティーの歌いっぷりを聞いていると、タダのことと金がかかることの間で人がどのようにして迷うのか、というテーマを彼女が理解して歌っているのがわかった。あの時、彼女は自分の心の丈を歌っていた。今でもそうだ。
 ザ・ビター・エンドの客席に座って、ふたりが〈Money〉を歌っているのを眺めながら、リード・ヴォーカルの人物が将来、全米ブックアワードに輝き、バック・ヴォーカルを担当している人が将来、ノーベル文学賞を獲得するなんて、どうしてわかったであろう。
 その年の秋、ローリング・サンダーの乗組員はウィネベーゴ(キャンピングカー)をレンタルして、北東部を巡るツアーを開始した。最初のうちは小さなシアターだったが最終的にはアリーナやスタジアムの数千人の前でコンサートを行なった。私もフリーランサーとしてあちこち旅をした。ローリング・サンダ・レヴューは秋の間ずっと続いた、私もその間、ずっと取材旅行をしていた。次にニューワースから連絡が来たのは、12月の初めの頃だった。レヴューはニューヨークにいて、ガーデンでコンサートを行なうというのだ。私は任務から戻ってきていたが、すんでのところで彼らの最後のコンサートは見逃し、ニューワースが私のために取っておいてくれたバックステージ・パスは受け取り損ねてしまった。留守電には私を捜すニューワースからのメッセージがたくさん入っていて、友人からさらに多くのメッセージが入っていた。ニューワースと私が書いた曲をニューワースがアナウンスし、バンドをバックに歌ったことに、彼らは驚嘆していたのだ。
 翌朝、ニューワースから電話があった。アップタウンのホテルに泊まっているとのことだった。「ヘイ、マン! 会おうぜ。今晩は何か用事あるの?」 私がノーマン・メイラーがやっている毎年恒例のクリスマス・パーティーに出席する予定があることを説明すると、ニューワースは「ヘイ、マン、オレもノーマンを知ってるぜ。あいつの刑事ドラマ『Wild 90』のサウンドを担当したからさ。オレも一緒に行っていいかな?」と言う。ノーマンに訊いてみる、と私は答えた。
 私がメイラーに電話をすると、彼は笑って言った。「いいよ。ニューワースは知ってるよ。あいつは『Wild 90』の音声を滅茶苦茶にしやっがった連中のひとりだ。いいぜ。連れて来いよ」 私がニューワースにこの知らせを伝えるや否や電話が鳴った。ボブも行きたいとのことだった。でも、彼はメイラーと会ったことがなかった。私が再びメイラーに電話をすると、少し間をおいて、「いいよ。私もボブには会ったことないし」という言葉が返ってきた。「つまり、アメリカで最も有名なユダヤ人ふたりが、互いを知らないってこと?」と訊いたら、メイラーは笑って言った。「キミがそういう言い方をするなら、そうだね」
 ニューワークには、8時に124番地に集合して、一緒に車でブルックリン・ハイツに行こうと伝えておいたのだが、7:30くらいにドアのブザーが鳴ったので、窓の外をみると、ヒューストン・ストリートにウィネベーゴが1台停まっていた。
 下に行くと、ウィネベーゴのドアが開いた。中にはツアー・メンバー全員がいた。「おいおい」と私は困って言った。「そういう約束じゃないだろ」 ディランは気が弱そうな表情を浮かべながら言った。「オレたちがどこに行くのかこいつらにバレちゃったんだよ。そしたら、みんなも行きたいってさ。なあ、いいだろ。きっと大丈夫だよ」
 ということで、我々は皆でメイラー宅に向かい、ブルックリン・ハイツでどうにかバスを停める場所を見つけた。私は突然、ローリング・サンダー・ツアーのメンバー全員と一緒にメイラーのパーティーに押し掛けちゃって大丈夫かな、と心配になってきた。ディランとニューワースはメイラーのゲストだが、残りの連中も連れて来てしまった。その責任は私にある。私はバスから降りる前に、一行に向かって言った。「これは大切なパーティーだ。ロック・スターはいない。失礼な行為はダメ。酔っぱらっちゃダメ。ドラッグもなし。もしお行儀の悪い奴がいたら、バスに戻すからな。みんな、わかったな!」 そう言うと、とても有名な顔いくつかが、とてもがっかりした表情をしたが、全員、ウンとうなずいた。
 数分後、我々はメイラー宅に続く狭い階段に列をなして並んでいた。前を進む人が階段をゆっくり、ゆっくりのぼっていた。私が先頭で、ディランはすぐ後ろにいた。すると、列の後ろの方から声がした。「ヘイ、マン! さっさと進め! チンタラしてるのどいつだ?」
 私は立ち止まって振り返った。「今、言ったの誰だ?」 手を挙げる奴はいなかった。「よろしい。誰が言ったかわかるまで、ずっとこのままだ」 今度は手が挙がった。ディランはそいつを睨みつけて言った。「リリアン・ヘルマンさんに向かって何てこと言うんだ。お前なんかバスかホテルに戻れ」 ディランは後ろ姿を見ただけで彼女だと気づいていた。この出来事は、得意ってほどではないが、ボブ・ディランには縄張りというものがわかるのかも、と私が思った最初の手がかりだった。
 メイラーはドアのところで我々を出迎えた。アメリカで最も有名なユダヤ人ふたりにとって大きな瞬間が来たと、私は言った。両者がためらいがちに握手を交わすと、ディランは平たいつばの帽子の下から顔を出して言った。「お会いできて光栄です。あなたの最初の本『The Naked and the Brave』は大好きでした」 ほんの一瞬、メイラーはからかわれていると思ったように目を細めたが、ディランはメイラーの顔をまっすぐ見て、ぎこちなく言った。「あの、いや、『The Naked and the Dead』(裸者と死者)のことです」 メイラーが顔いっぱいに笑みを浮かべて、ディランの両肩を愛情を込めて抱きしめている間に、ディランはバンドの残りのメンバーを紹介した。メイラーはひとりひとりをあたたかく歓迎すると、こう言った。「さあ、入ってくれたまえ、ボブ。キミをみんなに紹介しよう」

  

 ディランは明らかに緊張していた。部屋の中で自分が一番の有名人ではないという状況は、超しばらくぶりだったに違いない。向こうにはジャッキー・Oがいた。彼女は一息でこの場の酸素の半分を吸ってしまった。カス・ダマート(ボクシング・トレーナー&マネージャー)はボクシング・プロモーターのボブ・アラムと会話をしていた。モハメド・アリはちょっと前に別のパーティーに行ってしまって、もう姿はなかった。ジョー・ヘラーは本棚の近くの壁に寄りかかり、その近くではマリオ・プーゾピーター・マースと互いに身を寄せるように話していた。たぶん、話題はマフィア関係のことだろう。向こうのバーのところでは、文学界のライオンたちが、ヌーの群を蹴散らしていた。ヌーの群れのほうにはスーザン・ソンタグE・L・ドクトロウがいた。

   

 そのうち、メイラーは誰かに引き止められて長話をしていたが、そこから抜け出して新しいゲストに挨拶をした。しばらくの間、ディランは誰からも注目されずにぶらぶらしていたが、遂に知ってる顔を発見した。ローリング・ストーン誌の創設者/編集長のヤン・ウェナーだ。ディランは怒りながら声をかけた。ディランの最新ヒット曲のテーマであるハリケーン・カーターではなく自分のほうをローリング・ストーン誌の表紙にした理由を知りたいと思ったのだ。私は一瞬、ディランが騒ぎを起こそうとしてるのかと思ったが、ヤンがすかさず答えた。メスでスーッと切ったように見事に。「あなたのほうが雑誌が売れるからですよ、ボブ。ハリケーン・カーターじゃ売れません」 バンド・メンバーの数人がだんだん飽きてきて、ディランに帰ろうとせがみ始めたが、ディランは受け流した。ディランにとっては、面白くなり始めていたのだ。部屋の反対側からディランを観察していてわかったのだが、ここにいる文学関係者は----超大物も、大物も、あまり大物でない人も----ディランのヒーローだったのだ。ディランは彼らの本を読み、そのファンだった。彼らと話をして、テーマやアレゴリー、文学的引喩、豊かで記憶に残る状況説明の文をどのようにして思いつくのかを質問する機会が訪れたのだ。作家は自分のことや自分の作品について語るのが大好き連中ばかりなので、この時ばかりはボブが人を質問責めにする側だった。パーティーは続き、マンハッタンのダウンタウンの明かりが川の向こうで輝いていた。午前3時頃、ディランがメイラーと第2次世界大戦中のあまり知られていないキャンペーンに関して熱い議論をするのを、1時間ほど立ちっぱなしで聞いていたのを覚えている。
 我々が午前5時ごろツアー・バスに戻る時、メイラーはバーボンのボトルを抱えてドアのところに立って、帰らないでと哀願した。マンハッタンに着く頃には我々全員お腹ペコペコだったので、ザ・ビター・エンドに行った。ディランはドアを叩いて、オーナーのポール・コルビーを起こした。彼はクラブの上で暮らしていたのだ。コルビーはツアーの間ずっと朝食を作っていたコックを中に入れた。食事に取りかかる前に、ニューワースはグラスを掲げて、やや皮肉を込めて、こう叫んだ。「ザ・ライター(物書き)に乾杯!」 これは何年も前に私が彼からもらったニックネームだ。この一言で、私はバンドのメンバーではないことをはっきりと思い知らされた。私はロックンローラーではない。私はステージ上の人間ではない。私はしがない物書きでしかない。
 世の中、皮肉に満ちている。あの晩、メイラー宅には少なくとも5人は大作家がいた。メイラー本人もそのひとりだ。全員が自分はノーベル文学賞に値すると思ってることは世間にも知られており、毎年、ちょっとしたキャンペーンを行なっている者すらいた。彼らにとって、ボブ・ディランはポップ文化の人物だ----有名で影響力のあるシンガー・ソングライターだが、文壇の人間ではない。小説家でも随筆家でも詩人でもない。現代ですら、ディランに文句をつける連中がいる。まるで彼の歌が詩ほど高等な芸術ではないかのごとく。まるでそれが大問題であるかのように。
 あの晩、メイラー宅にいた文壇の巨匠たちの殆どは、自分はノーベル文学賞に拒絶されていると感じていたものの、それでもその受賞を熱望しながら墓に入ってしまったが、今日、誰がノーベル賞作家なのかというと、ボブ・ディランその人だ。彼こそザ・ライターなわけだ。


The original article "When Bob Dylan Practiced Downstairs" by Lucian K. Truscott IV
http://www.villagevoice.com/music/when-bob-dylan-practiced-downstairs-9292666
posted by Saved at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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